[チャペル]2020年4月28日 人はパンだけで生きるものではない(村瀬義史 宗教主事)

4.21村瀬

「人はパンだけで生きるものではない」という言葉には、イエスの人間観と、生きていく上での「ポリシー」の一端が表現されています。

人間は身体を持つ生き物である共に、精神・心を持つ生き物でもあります。今、「感染症の広がりを抑えるために、お互いに離れておきましょう」ということになっています。これはフィジカルな、身体的な距離を取る、ということです。フィジカル・ディスタンスですね。一方で、物体としての身体離れていても、誰かとのメンタルな、精神的な、心のつながりというものがあって、それによって自分が生きている、ということを、今、あらためて感じている人も多いのではないでしょうか。その誰かというのは物体として目に見えますが、つながり、というのは、肉眼ではみえません。食べ物を食べないと、身体が維持できない、身体を動かす「力」がわかない、ということも人間の真実です。また同時に、誰かとのつながり、自分が大切にするものとのつながりがなければ、「生きる意欲」とか「何かをする元気」がわいてこない、ということも、人間の真実だと、思います。

食べ物、身体、肉眼で見えるもの、物質的なもの、数字で表せるものはもちろん大事です。でも、ぼくらは、それら「だけ」で生きているわけではない。精神において、心において生きているし、目に見えないもの、精神的なもの、数字で表現できないものも必要です。よく考えるとあたりまえのことなのですが、なぜ、聖書はこれに注意を向けるのか、と言いますと、おそらく、わたしたち人間が、「目には見えない」ものをあまり大切にしない傾向を持っているからなのだと思います。
また、逆説的には、「精神論だけではだめだ」と言っているようにも解釈できます。

みなさんにとって、食べ物以外で、「自分が自分として」生きるために必要なものは何ですか?ちょっと考えてみてください。それは「必要なもの」なので、すでにあるはずです。「これが自分にとって必要だ!」とわざわざ言わなくたって、自分の生きることを根底から支えているものが、きっとあると思います。それを、「あたりまえのもの」だとばかり考えず、時々、あらためて感謝して受け取りなおす、ということが大切なのかもしれません。

どんな「もの」や「こと」が根本的に必要であるかは、危機に直面する時に、より明らかになります。2010年に南米チリで鉱山の落盤事故がおこって、33人の作業員が、坑道の入り口から5キロの所に取り残されました。彼らの生還は当初絶望視されましたが、69日後になんと全員が救出されましたが、2カ月以上も、彼らの生存を底支えしたのは何か。1日2回の全員でのお祈りと、「感謝の心」、そして「ユーモア」といったものが、彼らの生存にとって極めて大切だったそうです。2018年にタイで起こった洞窟の遭難事故でも、日々の「瞑想」がサッカーチームの少年らを2週間支えました。

これらは、極限状態で人間がどのように周囲の環境から身を守り、生きようとするのか、という事例ですが、今日の聖書にもつながっていると思います。そういえば、『夜と霧』という名前の本を書いたヴィクトール・フランクルという精神医学者も、強制収容所での体験として書いています。「外からの破壊的な圧力に直面したとしても、精神的な自由と柔軟性のある僅かな数の人は、よりよくその状況を生き延び、周囲に希望をもたらす者にさえなっていた」という話がそこには書かれています。

さて、みなさんにとって、食べ物の他に、生き生きと自分らしく生きるために、なくてはならないものは、何でしょうか。たくさんあるでしょう。その中で、より重要なものはなにでしょうか。毎日忙しくてそんなこと考えていられない、という人もいると思います。しかしそのように追い詰められている時にこそ、ほんのわずかな時間でも、このような角度から「自分」を振り返る時間を持てることが、どんな状態であっても、人として心豊かに生きてゆくための、一つの道なのではないかと思います。

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  • 投稿日時:2020/5/16 0:04

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