2020年7月

(まとめ)2020年度 春学期 総合政策学部チャペル

cap_1_R cap_2_R cap_4_R cap_3_R

<2020年度春学期>実施ずみ
7/13(春学期最終回)「”小さな” 存在に目を向ける」村瀬義史 宗教主事

7/7 「Mastery for Service: 私 が/を Masterするものは?」トリーベル・クリスティアン 宣教師

6/30 「肝心なことを忘れちゃいないか?」村瀬義史 宗教主事

6/23 「ネガティブをポジティブに!」宮川雅充 教授(環境社会学、統計学Iなどを担当)

6/16 「あなたにとっての大学の学び」宗前清貞 准教授(総合政策A、行政学などを担当)

6/9 KSC学生団体からのメッセージ2(フィリピンの女性と子どもと一緒に歩む学生団体「くじら」、国内ボランティアサークル「つなぐ」、関西学院大学YWCA、J-FUNユース K.G.)

6/2 「”あなたの世界”の版図を広げよう」村瀬義史 宗教主事

5/26 「風、息、いのち、呼び声」李政元 教授(家族福祉論、データ解析Ⅱなどを担当)

5/19 「困難な時に味わう言葉」細見和志 教授(哲学概論、公共哲学、倫理学概論などを担当)

5/12 KSC学生団体からのメッセージ1
(Club Geordie、こみんか学生拠点、関学大YMCA-KSC、Bridge for Children,KGU)

5/5 「災害に強い家づくり」トリーベル・クリスティアン 宣教師

4/28 「人はパンだけで生きるものではない」村瀬義史 宗教主事

4/21 「新年度を迎えて」古川靖洋 学部長

4/15 オリエンテーション 村瀬義史 宗教主事

4/7 「2020年度のはじめに/イースターを前に」 村瀬義史 宗教主事

IMG_00051-300x195
(リンク)
関西学院宗教センター
関西学院宗教センターからも、毎週2回短いメッセージ映像が配信されます。

チャペルに関する問い合わせは、宗教主事 村瀬 ymurase@kwansei…へ

  • 投稿者:
  • 投稿日時:2020/7/19 12:00

【チャペル】2020年7月13日「”小さな” 存在に目を向ける」村瀬義史 宗教主事

7.13 村瀬_R

「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(ルカによる福音書12章6節と7節)

この言葉には、5羽で2アサリオンで売っているスズメが出てきます。アサリオンというのは通貨の単位ですが、食用のスズメは当時結構安い食べ物の代表格だったみたいで、ようするにスズメは、まとめ売りされる安さだ、ということです。今で言うと、シシャモ5本入り198円という感じですね。安くてうまい!いいですね。焼きたて子持ちシシャモとホカホカごはんがあれば、もう、ご馳走です。その後に続く言葉も印象的です。あなたがたの髪の毛一本も神様は数えておられるよ。だから恐れるな。

今日の聖書には次のようなメッセージが込められていると思います。つまり、
1.どんなに小さく、取るに足らないと思える存在や事柄は、僕らの目には小さく見えているだけで、一つ一つを神さまがしっかりと心に留めて、温かい目で見ておられる、ということ。
2.私たちは一生懸命生きていれば、必ず時々、自分がちっぽけな存在だと感じたり、自分の愚かさや弱さに嫌気がさしたり、打ちのめされそうになったりするものです。でも、そういう自分も、神はとっても温かく見ていて、次、あなたがどう動けるかを見守っている、ということです。
3.神のまなざしは、私たちが持つ地位や肩書などの所有物よりも、私たちがどんな人間なのか、という点に注がれており、神と自分だけは欺くことができない、ということです。

どこかに自分のことをありのままに見ていてくれて、歓迎してくれている存在がいる。ちゃんと見てるから、ジタバタするな。オドオドするな。安心して本当に大事なことが何であるかを見失わずに、おおらかに、自由に行こうや、という聖書の言葉です。みなさんの心の最も深い所に、神と周りの人の愛による「安らかさ」がありますように。夏休みの間も、みなさんが、関学生としてのアイデンティティを失わず、どこに行っても、何をするにしても、人として誇り高い生き方ができるように願っています。

  • 投稿者:
  • 投稿日時:2020/7/18 11:05

【チャペル】2020年7月7日「Mastery for Service: 私 が/を Masterするものは?」トリーベル・クリスティアン 宣教師

001_R
今日一緒に考えたいテーマは、この大学のモットーでもあるMastery For ServiceのMaster「主」についてです。マタイの福音書の山上の説教のイエスの言葉を聖書箇所に選びました。「だれも、二人の主人”Master”につかえることはできない。一方を憎んでた方を愛するか、一方を親しんで他方を軽んじるかどちらかである。」MasteryのMasterというこ言葉が出てきています。しかし、私たちの大学のモットーでは、「だれが何をMasterするのか?」曖昧です。自分がMasterする側なのでしょうか?あるいは自分がMasterされる側なのでしょうか?

Mastery for Serviceは一般的には「社会のためになるような仕事ができるように、今は一生懸命勉強すべきである」と世俗的に理解されます。「奉仕のための練達。」それはそれでとても素敵な考えで、キリスト者でもそうでない人にっとってもわかりやすいのではないかと思います。この場合MasteryとはSelf-Masteryのことです。勉強分野を極めることです。努力で自分の得意分野とすることです。ServiceがMasteryに目的と方向性を与えるのです。実際に多くの卒業生はそのように奉仕をして活躍しています。

しかし、Masterということばにも問題があります。支配・権力の言葉です。多くの場合他人を支配する、奴隷を支配するという意味で使われてきました。これは問題です。なぜなら、そのようなMasteryは奉仕Serviceと矛盾しているからです。私たちはこのモットーを考える時にイエスの生き方を参考に理解しなければならないです。イエス・キリストは「神の形」を捨てて、「僕Servantの形」を自ら選んだ人物です。十字架につけられたイエスはMasterの姿ではないのです。奉仕したいと思う人は人の上に立って、権力をもって支配するMasterにはなってはならないのです。ServiceとMasterは緊張関係にあって、ServiceがMasteryを批判しているのです。イエス・キリストのメッセージは逆説的なものでした。偉くなりたい人は、自らを低くしなければならないです。自己願望や野望を批判的に考え直さなければならないのです。それがMastery For Serviceのイエス的解釈です。ServiceがMasteryを批判しているのです。

もう少し掘り下げていきたいと思います。だれもが何かのMasterになりたい。特に自分自身の人生のMasterになりたいです。キリスト者として、あるいはそうでなくても、自分の人生を思うようにいきたいとだれもが考えています。しかし、このコロナ・パンデミックを通して多くの人が感じたと思うのですが、私たちは案外無力です。私たちは、自分の人生のMasterではないのです。色んな事情に振り回されているのです。状況の奴隷です。あるいは自己中心的な心の奴隷です。自由な存在ではないのです。本当はMasterではないのです。聖書はこの状況を「罪の奴隷」と呼んでます。

そこで私たちが考えなければならないのは「私たちのMasterはいったい誰なのか?」ということです。Mastery for ServiceのMasterは私たちを支配するものをもさしているのだと思います。私たちを奉仕へと向かわせているのは、何でしょうか?自己満足ですか?社会的プレッシャーですか?曖昧な道徳観ですか?いい人に思われたいナリシズムですか?世の中を良くしなければならない危機感ですか?あなたのMasterは何ですか?Masterがいない人はいません。みんな何かに支配されているのです。

そこでもう一度今日の聖書箇所を見てみましょう「だれも、二人の主人Masterにつかえることはできない。」Mastery for ServiceのMasteryとは努力するとか練達のことではなく、本当はキリストを自分の主Masterとすることであると思います。これがこのモットーのキリスト教的精神です。イエス・キリストを自分の主とすることで私たちはこの世の中に使わされる神の手と神の足となることができるのです。つまりキリストによるMasteryが奉仕をする人を生み出すのです。

実は私たちが何かをMasterすることで奉仕をすることができるようになるという意味ではなく、逆に私たちがイエス・キリストにMasterされることでキリストと共に十字架で死に、キリストと共に復活をし、新しい神の子供のアイデンティティーを与えられ、奉仕をする人に作り変えられるという意味だと思います。しかし、イエスとは言え誰かに支配されたくないと思うにが自然です。ではイエス・キリストはどうのようなMasterですか?同じマタイの福音書の11章のことばにヒントがあると思います。イエスとはどのようなMasterなのか?

「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすればあなた方は安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(11章28節―30節)

  • 投稿者:
  • 投稿日時:2020/7/12 12:33

【チャペル】2020年6月30日「肝心なことを忘れちゃいないか?」村瀬義史 宗教主事

001_R
(短縮版)
レポート試験で「肝心なこと」の一つは、まず課題文を注意深く読んで、何が求められているかをしっかりととらえ、その課題に対する回答となるレポートを書くことです。そもそも、その授業が何を目的とするものだったのか、ということを改めて確認することも、「肝心なこと」ですね。

「・・・イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」(マルコによる福音書10章21-22節)

今日は、ここに出てくる、「あなたに欠けているものが一つある」というイエス・キリストの言葉に注目したいと思います。
聖書の場面はこうです。ある男性がイエスのところにやってきました。彼には地位も、財産も、知識もありました。そんな彼は、「イエス先生。永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか。」と尋ねます。ここで、「永遠の命を受け継ぐ」とは、寿命の長さのことではなくて、神さまの「救い」や「祝福」を受けることを意味しています。言い換えるならば、「何をすれば、最高に幸せになれるでしょうか」と、彼は聞いているのです。この人は、子どもの頃から聖書の教えをよく学び、よく守ってきたと自負していました。でも、どこか、満たされないものを抱えています。

イエスは、彼をじっと見つめました。そして愛を込めて、こういいました。「あなたに欠けているものが一つある」。イエスは、この男性の知識や財産や地位ではなくて、その人自身を見ているんですね。この人は恐らく多くのものを所有していてそれが彼の武器や防具になっているのですが、イエスは、その内側にいるその人自身を見ます。イエスは彼に、肝心なことを忘れちゃいないか?と問いかけたのだと思います。一見、調子がよさそうなんだけど、たぶん周りの人がうらやむほど先を行く人なんだろうけど、イエスから見ると、残念ながら進んでいる方向がズレている。

この男性の場合、何か掟を守ることを積み重ねると、その量に応じた愛や恵みを神様から引き出すことができる、というふうに神の愛や恵みが交換や取り引きが可能なものであるかのように考えてしまっていたのです。交換や取引を前提とする考え方から抜け出せない彼に、イエスは言うんですね「欠けているものが一つある」と。神さまは、人間の行為の良し悪しに応じて、愛や恵みを増やしたり減らしたりするようなチープな存在じゃない。それを忘れちゃいないか。善人にも悪人にも雨を降らせ、わたしたち一人ひとりに分け隔てなく慈しみを注ぐ、だからこそこの世で小さき者、弱き者をいつも心にかけてやまない神の前で生きることこそ、聖書の心なのだ、というのです。

何かに向かって進んでいくこと、積み重ねていくことは大切です。しかし、「向き」が違っていることがあります。突っ走っているその方角があっているか、行き先を見誤っていないか、ということも問い続ける必要がある、ということを聖書は語っていると思います。向きがあっていれば、心配しすぎる必要はない。

また、取り引きの論理、交換の論理「だけ」の世界で生きるのは、「強く、大きく、ならないといけない」という世界「だけ」に囚われて生きるのは、「自分もしんどいし、周りの人をしんどくさせる」。イエスは、日常生活の中で緊張しきった人々の心と身体をやわらげ、「ほっ」とした気持ちにさせました。皆さんもそういう、損得勘定抜きの、ほっこりとできる人間関係を大事にしていってください。

  • 投稿者:
  • 投稿日時:2020/7/4 9:42

プロフィール