【チャペル】2020年7月7日「Mastery for Service: 私 が/を Masterするものは?」トリーベル・クリスティアン 宣教師

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今日一緒に考えたいテーマは、この大学のモットーでもあるMastery For ServiceのMaster「主」についてです。マタイの福音書の山上の説教のイエスの言葉を聖書箇所に選びました。「だれも、二人の主人”Master”につかえることはできない。一方を憎んでた方を愛するか、一方を親しんで他方を軽んじるかどちらかである。」MasteryのMasterというこ言葉が出てきています。しかし、私たちの大学のモットーでは、「だれが何をMasterするのか?」曖昧です。自分がMasterする側なのでしょうか?あるいは自分がMasterされる側なのでしょうか?

Mastery for Serviceは一般的には「社会のためになるような仕事ができるように、今は一生懸命勉強すべきである」と世俗的に理解されます。「奉仕のための練達。」それはそれでとても素敵な考えで、キリスト者でもそうでない人にっとってもわかりやすいのではないかと思います。この場合MasteryとはSelf-Masteryのことです。勉強分野を極めることです。努力で自分の得意分野とすることです。ServiceがMasteryに目的と方向性を与えるのです。実際に多くの卒業生はそのように奉仕をして活躍しています。

しかし、Masterということばにも問題があります。支配・権力の言葉です。多くの場合他人を支配する、奴隷を支配するという意味で使われてきました。これは問題です。なぜなら、そのようなMasteryは奉仕Serviceと矛盾しているからです。私たちはこのモットーを考える時にイエスの生き方を参考に理解しなければならないです。イエス・キリストは「神の形」を捨てて、「僕Servantの形」を自ら選んだ人物です。十字架につけられたイエスはMasterの姿ではないのです。奉仕したいと思う人は人の上に立って、権力をもって支配するMasterにはなってはならないのです。ServiceとMasterは緊張関係にあって、ServiceがMasteryを批判しているのです。イエス・キリストのメッセージは逆説的なものでした。偉くなりたい人は、自らを低くしなければならないです。自己願望や野望を批判的に考え直さなければならないのです。それがMastery For Serviceのイエス的解釈です。ServiceがMasteryを批判しているのです。

もう少し掘り下げていきたいと思います。だれもが何かのMasterになりたい。特に自分自身の人生のMasterになりたいです。キリスト者として、あるいはそうでなくても、自分の人生を思うようにいきたいとだれもが考えています。しかし、このコロナ・パンデミックを通して多くの人が感じたと思うのですが、私たちは案外無力です。私たちは、自分の人生のMasterではないのです。色んな事情に振り回されているのです。状況の奴隷です。あるいは自己中心的な心の奴隷です。自由な存在ではないのです。本当はMasterではないのです。聖書はこの状況を「罪の奴隷」と呼んでます。

そこで私たちが考えなければならないのは「私たちのMasterはいったい誰なのか?」ということです。Mastery for ServiceのMasterは私たちを支配するものをもさしているのだと思います。私たちを奉仕へと向かわせているのは、何でしょうか?自己満足ですか?社会的プレッシャーですか?曖昧な道徳観ですか?いい人に思われたいナリシズムですか?世の中を良くしなければならない危機感ですか?あなたのMasterは何ですか?Masterがいない人はいません。みんな何かに支配されているのです。

そこでもう一度今日の聖書箇所を見てみましょう「だれも、二人の主人Masterにつかえることはできない。」Mastery for ServiceのMasteryとは努力するとか練達のことではなく、本当はキリストを自分の主Masterとすることであると思います。これがこのモットーのキリスト教的精神です。イエス・キリストを自分の主とすることで私たちはこの世の中に使わされる神の手と神の足となることができるのです。つまりキリストによるMasteryが奉仕をする人を生み出すのです。

実は私たちが何かをMasterすることで奉仕をすることができるようになるという意味ではなく、逆に私たちがイエス・キリストにMasterされることでキリストと共に十字架で死に、キリストと共に復活をし、新しい神の子供のアイデンティティーを与えられ、奉仕をする人に作り変えられるという意味だと思います。しかし、イエスとは言え誰かに支配されたくないと思うにが自然です。ではイエス・キリストはどうのようなMasterですか?同じマタイの福音書の11章のことばにヒントがあると思います。イエスとはどのようなMasterなのか?

「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすればあなた方は安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(11章28節―30節)

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  • 投稿日時:2020/7/12 12:33

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