2011年5月

マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

こんにちは。研究演習Ⅰの小林です。ゼミ開始から1ヶ月経ち、私たち研究演習Ⅰ生はゼミに慣れた頃だと思います。

5月3日のミクロゼミでは、マックス・ヴェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を扱いました。

本書でヴェーバーは、キリスト教の中でも禁欲的プロテスタントであるカルヴァン派の特徴と、カルヴァン派と資本主義の関係を述べています。

カルヴァン派の特徴は、世俗内的禁欲予定説労働です。世俗的というのは、教会の外部のことを指します。要するに教会にいる時のみ禁欲的になるのではなく、実際の生活においても禁欲的であることを言うのです。

また、世俗内的禁欲は、享楽のために富みを消費すること否定します。その為、カルヴァン派の人々は、芸術・文化のために富みを消費することを否定します。

そして、予定説はカルヴァン派の最大の特徴です。誰が救われるかは神によって予め決まっているという説です。悔い改めたり、お祈りを行ったとしても、神は誰を救うかは決まっているので、意味を成さないというのです。つまり行為によって、救われるわけではないというのです。

また労働は、カルヴァン派にとって重要な行為です。上記で神は誰を救うかは決まっていて、人間の行為によって救われるわけではないと述べました。しかし、人々は神によって救われていることが確認することが出来ます。労働することによって人は自分が神によって救われるということ確認・信じることが出来るのです。

カルヴァン派はカトリックを批判する形で生まれてきたものです。プロテスタントが生まれる以前である、12~13世紀のヨーロッパでは、金貸しや利潤を得ることは罪と見なされたのです。質素で簡潔な生活が基本だったのです。当時、ヨーロッパではペスト(黒死病)が大流行し、多くの人が亡くなりました。この当時は、生きることは苦痛だったのです。

しかし、ルターそしてカルヴァンによる宗教改革以後では、経済活動が大きく変わり、利潤を得ることは罪ではないと、見なされるようになったのです。そして、生きることもまた苦痛とは見なされなくなったのです。

このような点で、伝統的なカトリックはゲマインシャフトであるのに対し、プロテスタントはゲゼルシャフトであるという意見がありました。

ゲゼルシャフトやゲマインシャフトという言葉は、鎌田ゼミのバイブルである、テンニエス著『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』に出てくる言葉です。詳しくは、『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』の時に紹介します。

カルヴァン派は、利潤を得ることを否定はしませんでしたが、消費は否定されます。消費されない富みは蓄積されます。これが資本になります。資本は、利潤を得れば得るほど増えていきます。こうして、近代資本主義は成立したのです。

いかがでしたか? 私たちが当たり前だと思っている資本主義がこのように生み出されたというのは、興味深い話でしたね。他にも、当たり前だと思うものが、様々な歴史を経て生み出されたものがあるかもしれません。いろいろ調べてみたら面白いかもしれませんね。

以上、研究演習Ⅰの小林がお送りしました。

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参考文献 マックス・ヴェーバー著 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 大塚久雄訳 岩波書店 1904~05年

カント『道徳形而上学原論』

こんにちは^^ 今回新たにWEB担当になりました研究演習Ⅰの山口です。

さて、5月6日(金)GWあけ最初の授業日であったこの日は、第五回のミクロゼミでした!今回のゼミでも前回に引き続きカントの「道徳形而上学概論」を扱いました。
今回はカントのまとめとあって、先生を含め、ゼミ生も気合十分!特に、自由と循環論証の話では様々な意見がでてきました。

この循環論証というのは、道徳的法則と自由の概念が一見循環しているように思われるというものです。

というのも、道徳的法則に私たちが服従していると考えるときには、意志の自由をもっているという必要があるけれど、逆にすでに意志の自由をもっている状態で道徳的法則が与えられたとも考えられます。

この両者の概念が交換可能というのが循環論証の考えです。

しかし、この循環論証は実は見せかけなのです。なぜならば、人間は感性界と可想界という2つの世界に属しているとカントは述べているからです。この2つの世界を認識できることが自由であり、可想界にある道徳的法則を考えられるという点で自由なのです。つまり、自由により道徳的法則を認識しているため、両者が交換可能という循環論証は意味をなさないのです。

現代でも、人の性格などは、第一印象のときは「この人はこんな人なのか」と思っていても、実際に深く踏み込んでみると全く違った一面を発見できたりすることも多々あるかと思います。

それと一緒で、カントの思想も読めば読むほど、深く踏み込めば踏む込むほど全く違った発見ができるものなんだな、とこの文献を通して感じました。^^

ミクロゼミということもあって、4回にわたり道徳形而上学原論を扱ってきましたが各回とも内容が非常に濃く、初めて1つの文献をミクロの視点から読み解くという達成感を味わいました。

次回のミクロはアレント著『人間の条件』が、今からとても楽しみです^^

以上で、報告をおわります^^

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参考文献:カント『道徳形而上学原論』 篠田英雄訳、岩波書店、1785年。

マスタリー・フォー・サービス (Mastery for Service) 私論

以下は、2011年4月26日のチャペルトーク原稿です。

Mastery for Service ― 「マスタリー・フォー・サービス」

Not to be served but to serve ― 仕えられるためではなく仕えるために

第4代院長ベーツ博士に由来する関西学院のスクールモットー「マスタリー・フォー・サービス」は、どのような理想を表していたのでしょうか。今日は、単刀直入に、ベーツ博士自身の言葉(Our College Motto, Mastery for Service, 1915)に即して考えてみたいと思います。実は、ベーツ博士の mastery for service という言葉には、恐ろしい破壊力が潜んでいるのです。私たち現代人の常識を粉みじんに爆破するような恐ろしい破壊力が潜んでいるのです。

mastery は、master であること、支配する力を持った主人であること、力のあるもののような印象があります。実際、ベーツ博士も、そのようにはじめます。

We do not desire to be weaklings. We aim to be strong, to be masters – masters of knowledge, masters of opportunity …

私たちは弱虫であろうなどとは望まない。私たちは強くありたい。支配する主人でありたい。知識を支配する主人、よい機会、チャンスを掴む主人でありたい。

しかしこの後、ベーツ博士は巧妙な一句をはさみます。

masters of ourselves

自分自身を支配する主人でありたい。

もちろんだとも!と誰もが考えるでしょう。自分を支配するのはほかの人ではなく、まさにほかならぬ自分自身でなければ、知識を支配しても、機会を支配しても、何の役にも立たないではないか。自分のことは、他の人の干渉や支配を受けずに、自分で決めることができてはじめて、自分自身を支配する主人masters of ourselvesであると言えるのだ。皆さんには聞こえてきますか、あの「輝く自由、マスタリー・フォー・サービス」という歌詞が。

しかし私は、masters of ourselvesは巧妙な一句である、と申しました。

mastery of ourselves はたしかに、自分以外のほかのものに干渉や支配を受けずに、自分の道は自分で決定する、近代的な自己決定、autonomy の思想を述べたという一面があります。しかしこの言葉にはもう一つの、破壊的な意味が潜んでいます。それは、自己自身の身勝手な、自己中心的な欲望を抑えるという意味です。自己中心的な自己を否定する、という側面です。それは聖書の言葉によれば、生まれながらの古い自分を否定する、と言ってもよいでしょう。

ベーツ博士は、次のように続けます。masters of ourselves, our desires, our ambitions, our appetites, our possessions. 私たち自身を支配する主人、すなわち、私たちの欲望や功名心や食欲や所有を支配する主人でありたい。

つまり、自己を支配する、とは利己的な欲望に支配されることなく、逆にこれらの利己的な欲望を制御・支配するマスターとなる、ということなのです。

この意味での自由とは、自分のしたいことをすることではありません。自分のしたいことをする、自分がしたいからする、という尺度だけで動く人は、利己主義者となる危険をはらんでいます。自由 libertyは本来、奴隷ではない、奴隷状態から解放されている liber というラテン語の形容詞に由来します。自由であるとは、利己主義的な欲望の奴隷とならずに、それらの支配から自由である、ということなのです。すべてを、自分がしたいからする、という尺度だけで行動する限り、その行動は欲望に支配され、欲望に振り回されており、本人は自由に行動しているつもりでも、それは本当の自由ではないのです。欲望の奴隷状態から解放されて、自分とほかの人々、自分の生きている世界と自然環境のなかで、自分の置かれている位置を見きわめ、人と人の共生、人と自然の共生という理想に導かれて、いまここで自分がなすべきことはなんだろうか、と問う人こそ、自由な人なのです。したいことをする、のではなく、するべきことをする、人こそが自由な人なのだ、とベーツ博士は言うでしょう。

しかしするべきことをしろ、というのは、義務を押しつけることであり、自由ではない、と思う方もおられるでしょう。確かに、いやいや無理強いされてする人を、自由な人とは呼べません。しかし、その人が自分自身で、欲望に支配され、欲望によって生きるということは自分のことにしか関心を向けず、ほかの人を思いやらずに生きることだ、と自分自身で気づくなら ― そして、こんどは自分を人と人の共同体、人と自然の共同体の一員として、思い遣りを持って生きようとするなら、それは全く自発的な行為なのです。その選択は、ほかの人に強制されたものではありません。それは二重の意味で自由な行為です。第一に、自分の欲望の奴隷状態から解放された、という意味で、第二に、ほかの人々、更に世界と自然と共に生きようと、自分から進んで考えることによって ― 総合政策学部のモットーのひとつである人と人の共生、人と自然の共生の理想を、自由に選び取ったということによって。その理想は、キリスト教の伝統においては、「自分を愛するように汝の隣人を愛せよ」という愛の教えとして引き継がれてきました。

そのような目で、1915年ベーツ博士がmastery for service について解説したスピーチの全文を読み直すと、その全体の意味がよりよくわかると思います。

ベーツ博士は、このスピーチの冒頭で、self-culture 自己啓発という言葉を何度も使います。それは、mastery 練達に至るための方法と言ってもよいでしょう。しかし博士は同時に、self-culture はそれだけだと、利己主義に陥る危険があると警告します。self-culture は self-sacrifice自己犠牲によって裏打ちされたときに、本当のself-cultureとなる、とも言います。私たち人間は、何も考えずに行動するときは、他の人のことを思いやったりせず、自然環境を配慮せず、自己中心的にふるまいがちです。だからこそ私たちは、そのような自己中心的な傾向を常に意識し、警戒し、自己が他者や自然環境への思い遣りを失って傲慢にならないように、自発的に自己を押さえ、制御する必要があるのです。そのことをベーツ博士は、self-sacrifice自己犠牲と呼んでいるのです。

ここまで聞いて皆さんは、鎌田は暗い話をするな、と思われるかも知れません。しかし、光と影とは表裏一体です。陰のない光、陰を照らすことのない光は光ではありません。すべての楽しみには労苦が伴います。入学試験に合格するためには、遊びたいという欲望の奴隷にならずに、むしろそのような欲望を制御して、しっかりと勉強を積み上げていかなければ目的を達成することはできません。それは皆さんの今送っている大学生活でも同様です。

現代が、あたかも光だけで陰がないかのようにふるまっている場合、そのような楽観主義的なメッセージを発して喜々としているとき、それは現実に反します。それは何かを偽っているのです。嬉しい、楽しい、とはしゃいでいるとき、友だち同志で大喜びしたり大笑いするとき、ほかの人と共に喜んでいるように見えますが、実際は自分のはしゃぎに熱中しており、ほかの人の心のうちを思いやることはほとんど無いのではないでしょうか。だから、その大はしゃぎが終わったとき、ふと言いようもない孤独感や空しさが襲ってくることもあります。

人は苦しんでいる人を目の当たりにしたときに、その苦しみを軽減したい、助けたい、という気持ちになります。そのときわたしたちは、苦しんでいる人の苦しみを自分のことのように感じます。苦しみを共にすることによって、人と人との思いやりの絆は育って行きます。私はショーペンハウアーという哲学者の研究を何十年も続けてきましたが、ショーペンハウアーの倫理学の中心テーマは、「共苦(=苦しみを共にすること、共に苦しむこと)こそが愛の根源である」という主張です。ショーペンハウアーは、キリスト教における愛の本質は共苦である、とも言っています。これはかなり問題の核心を突いていると思います。

一昨日はキリスト教ではクリスマスと並んで重要な祝日、イースター、つまりキリストの復活を祝う日でした。イースターはまさに、苦しみを通り抜けた愛のできごとです。イエス・キリストの復活という悦ばしいできごとには、それに先立つ受難、十字架上の刑死、つまり死刑という苦しみが先行していたのです。そしてその苦しみは、人々の苦しみをわが身に引き受けることによって、人々の心に安らぎを与える、というイエスの生涯を象徴するものでした。病気や貧困や差別などに苦しむひとびとに寄り添い、助けるという仕方でイエスは最高の愛を示したのでした。

今回の東日本大震災にあたって、「苦しみを分かち合う」という表現が多く使われていたことに皆さんは気付いたでしょうか。実際、苦しみを分かち合うことによって人と人の共感と助け合いの心が生み出されてきます。愛するとは、単に熱狂的に好きだと思うだけのものではないと思います。そのような熱狂的な愛は時として、自分の欲望の表現、つまり自己の欲望の奴隷状態を示すに過ぎないこともあるでしょう。しかし、欲望につられて飛びつく快楽とは正反対の苦しみを、しかも、自分にとって一番大切な自分自身の苦しみではなくて、他者の苦しみを共に分かち合うときに、人は自分だけに関心を持つ自己中心的な欲望の支配から解放されて、自由な人格として人を愛するのだ、といえると思います。少なくともそれがイエス・キリストの教えにも通じる、そしてショーペンハウアー研究者鎌田としてはショーペンハウアーの倫理学に通じ、さらに関西学院のメンバーとしては、ベーツ博士による関学のモットー mastery for serviceにも通じているのだ、と思います。そのように、自分を愛するだけではなく、同様にほかの人をも愛する、ことに、ほかの人の苦しみを共に背負い、その苦しみを軽減しようとする、その心の姿勢の中に、「仕えられるためではなく、仕えるために」という言葉がより具体的なメッセージとして、私たちの心に伝わってくるのではないでしょうか。

(2011年4月26日総合政策学部チャペルトーク原稿)

マルティン・ブーバー『我と汝・対話』

こんにちは^^

鎌田ゼミ研究演習Ⅱの竹崎です。新学期が始まり早1ヵ月がたち、新入生にも少しばかり、心に余裕がでてきたのかな~と感じる今日この頃です。

最近の鎌田ゼミでも同じく、新ゼミ生の3回生のみなさんもどんどん積極的に議論に参加し、ますます授業が有意義なものになってきています!

では、さっそくですが、5月10日マクロゼミの文献、マルティン・ブーバー著『我と汝・対話』について紹介していきたいと思います^^!

これまで哲学書を読んだことがある人はご存じかと思いますが、哲学の世界では、「自己」について数多くの哲学者が追求してきました。そしてその後、「他者」や「世界」について言及されていきます。このような哲学界の流れの中で、この作品においては、自己は他者との関わりにおいてのみ認識できる、あるいは他者との関わりにおいてのみ自己を認識できる、と提唱しているのです。

ブーバーは本著で、世界は人間のとる2つの態度(本著では根源語という)、<われ―なんじ><われーそれ>によって2つとなると言っています。つまり語られる根源語によってその人自身のあり方、また人が世界と関係するその仕方が2つに分かれる、ということなのです。少し話が難しくなりましたが、簡単にこれを説明すると、<われ―なんじ>は「私」と「あなた」のみの関係ではなく、「他のものと関係しているあなた」と「他のものと関係している私」との関係を指します。

つまり、「関係のなかに生きる」ということです。それに対し、<われーそれ>とは世界のあらゆるものを対象とみなし、それを目的とおく世界のことを指します。例えると、「飢えをしのぐ為に、作物をつくる」。これは「飢えをしのぐ」という目的の遂行のみに「作物をつくる」という行為をします。目的の遂行こそが全てなのです。

つまり、<われーそれ>の世界は他のものと一切「関係」をもたず、切り離されている状態を表しているのです。

 ここまで説明して、「あれ、この話どこかで聞いたことがある・・」と思った方。

そうです、カントの思想に非常に似ている部分があるのです。

本来私たちの世界はクモの巣のように、あらゆるモノ・人・自然との関係が張り巡らされているはずなのです。

そしてそれぞれのなんじと出会った個々人は、他者との相互的な関係を持つのです。このように受動と能動が一致し、互いに向き合うことによって関係はうまれるのです。その関係こそが「共同体」なのです。

ちょうどこの文献が書かれた1923年は第1次世界大戦後にあたり、人々は進んでいく方向を見失いかけていたのではないでしょうか? そして「我と汝」のドイツ語版の題名は‘I and Thou(=You)’。この場合に使われているYouとは“伝統的に社会において一緒に住んでいるもの”というような概念があるそうです。

時代背景からもその文献の真意や目的がうかがえるのですね。

 

いかがでしたか?みなさんは<われーなんじ>の世界について少し興味が湧いたのではないでしょうか?

みなさんの身近な生活から<われ―なんじ>の世界を探してみてもおもしろいかもしれませんね^^

以上、研究演習Ⅱの竹崎がお送りしました^^

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参考文献

・マルティン・ブーバー『我と汝・対話』 植田重雄訳、岩波出版、1932年。

【緊急告知】5月24日のゼミでニーチェの『ツァラトストラかく語りき』を扱います!!

こんにちは、研究演習2の塙恵美です(^^) 突然の告知となりましたが…

ニーチェ『ツァラトストラかく語りき』来週の火曜日、5月24日(火)のゼミでニーチェの著書『ツァラトストラかく語りき』を扱います!!

ベストセラーになった『超訳ニーチェの言葉』(白取春彦訳)をはじめとして、最近ではニーチェ関連の本や特集がたくさん出ているようなので、興味がある方はけっこういらっしゃるのではないでしょうか(^^)

ゼミ開始は17時、場所は3号館320教室です。誘惑的に難解なニーチェの理解を一緒に深めませんか?1人で読むよりも他の人の解釈を聴くことで、より深く理解できること間違いなしです!!鎌田先生の講義を聴くことが出来る貴重な機会ですので、ぜひぜひ!!ご参加いただけると幸いです。

持ち物等は特に必要ありません。事前にこちらのコメント欄か知り合いの鎌田ゼミ生に声をかけていただければ、資料のご用意もさせていただきます。『ツァラトストラかく語りき』があれば、持ってきてください。

ゼミ標準は新潮文庫版ですが、ほかの出版社のものでも問題ありません。

 第1部「ツァラトゥストラの言説」最初の「三態(三様)の変化」や、第3部「幻影と謎」などの賞を中心に、事前に目を通してくれば、参加はさらに有意義なものになることでしょう。

もちろん、飛び入りの衝動的参加も歓迎していますので、ぜひこの貴重な機会を逃さないでいただきたいです(^^)
アットホームな雰囲気のゼミ生がお待ちしております。

以上、熱のこもった塙でした(^^;;)

プロフィール


鎌田 康男
現在、関西学院大学名誉教授(2016年3月定年退職) 《共生と公共性の philosophy》 ★プロフィール詳細

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