村瀬義史研究室実践神学、エキュメニカル運動、南アジアのキリスト教

新着エントリー

その20

Welcome to wherever you are
This is your life, you made it this far
Welcome, you got to believe
That right here right now, you’re exactly where you’re supposed to be
(Bon Jovi, 2005)

(追記)私訳:「君が今いる場所へようこそ。これが君の人生。はるばるここへとたどり着いたんだ。
信じてごらん。まさに今この場所こそ、君がいるべくしている場所だということを。ようこそ!」

新入生のみなさん総政へようこそ。フレッシュな空気の中、新年度がはじまりました。上に紹介した言葉はBon Joviの曲の歌詞です。この曲もいつか、水曜チャペルの「歌コーナー」に出てくるかもしれません。乞うご期待。以前、どういう脈絡だったかLiving on a prayerという歌を紹介したことがあります。

ところで、上の言葉から思うのですが、しばしば使命とか召命calling,vocationという感覚が大切だと思うことがあります。これが使命だ、召命だと、自身が言いすぎると恰好が悪いですけど考えてみると、尊敬する方々の多くは、世界から自分に向かってくる音なき呼び声やシグナルを聴きとっているかのように黙々とした姿をもっているように思います。今思い出しましたがそういえば以前、内田樹さんが、こういう「声」を聴きもらさないような「構え」とか沈黙(祈り)を若い時に身につけておく大切さを強調しておられました。 使命のある生き方は「楽」な生き方であるかというとおそらく違います。輝いて生きている人の話を聞くと、意外に苦労している人が多くて、どうしてそこまでしてこんなことをするのだろうという思いになります。しかし不思議なことに、苦労話であるのにもかかわらず、重たい話として聞く者に伝わってこないのです。なぜでしょうか・・・われらがKGも使命ということをよく言います。何かにつけ手軽な解答はないですが、またチャペルで共に考えていきたいと思います。

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その19

「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」(詩編42より)

世界のキリスト教関係情報のMLにいくつか登録していて、それでつい先日知ったのですが、気仙沼のカキ養殖師として広く知られている畠山重篤氏が、国連森林フォーラムが表彰する「フォーレスト・ヒーローズ」の一人に選ばれたそうですね。彼が代表をつとめる「牡蠣の森を慕う会」を通じた、20年以上に及ぶ環境教育、環境保護の運動(「森は海の恋人」運動)が評価されたとのこと。2012年2月9日に授賞式がありました。

Ecumenical News International(ENI) によると、畠山氏はクリスチャンで”牡蠣の森を慕う”"森は海の恋人”というネーミングは聖書の詩編42編に由来するんですって。ENIのヘッドラインが、「Psalm-inspired Japanese environmentalist wins UN award」とあったので、「ん?誰やろ?」って思って読んだらびっくり。いままで知りませんでした。「詩編」(Psalm)とは、聖書のちょうど真ん中あたりをパカッと開くと出てくる、旧約聖書の一部です。ぜひ読んでみてください。

ENI http://www.eni.ch/featured/article.php?id=5461
UN-Forest Heroes Awards http://www.un.org/en/events/iyof2011/forests-for-people/awards-and-contests/award-winners/

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その18

「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことがありません。」(新約聖書『ローマの信徒への手紙』5章より)

われらがKGのアメフト部(FIGHTERS)は4年ぶりに大学日本一になり、年明け1月3日のライスボウルで社会人アメフトチームの日本一オービックと対戦します。試合が楽しみですね。そのKGアメフト部が練習している上ヶ原グラウンドの隅に、このパウロの言葉を刻んだ碑があります。

今日、教職員クリスマス会で、アメフト部顧問をしておられる前島元宗教主事とお話する機会がありました。いまもずっと、毎回の公式戦の直前には必ず、控え室で選手全員を集めて聖書の一節を読み、お祈りをしておられるんです。これ、選手たちの要望で続けておられるんですって。皆さん、知ってましたか?あのツワモノたちが「祈り」を大切にしていることを。KGスピリットは、ほんとう、様々な局面で関学人を活かしているようですね。

2011年のクリスマスを迎えました。教会のキャンドルライトサービスで、手元のロウソクの灯りを見つめながらいろいろ考えていました。希望が人に力強さをあたえる、というのはパウロの時代も今も変わらないみたいです。3.11の震災と原発事故、そのほか様々なことのあった2011年でした。来たる年も、”希望すること”を妨げる諸要素に囲まれながらもなお”希望することをやめない”。失望しても絶望はしない。そういう力を与えてくれるような、より大きな希望にとらえられていくものでありたいと思います。

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その17

「工藝品の中で、民衆の生活に即したものが広義における民藝品なのです。・・・・私たちはそれらのものの中から、ある素質を有ったものを民藝品と呼びたいのです。即ち用の目的に誠実であることを、その本質に数えたいのです。近頃機械工場で濫造される製品は、全く商業主義の犠牲であって、利が眼目であるため、用が虐げられているのです。…民藝とは生活に忠実な健康な民藝品を指すわけです。吾々の日常の最もいい伴侶たらんとするものです。使いよく便宜なもの、使ってみて頼りになる真実なもの、共に暮らしてみて落ち着くもの、使えば使うほど親しさの出るもの、それが民藝品の有つ徳性です。・・・その美は用途への誠から湧いてくるのです。」(柳宗悦、「民藝の趣旨」1933年)

日本が誇るデザイナーのひとり、柳宗理さんデザインのケトル(やかん)をもう6,7年使っています。表面がかなり汚れているのですが、ほぼ毎日活躍しています。今回の引用は少し長くなりましたが、宗理の父上にあたる柳宗悦(1889-1961)の言葉です。「用の美」を提唱した民芸運動の中心的人物であり、宗教哲学者でもあった彼には、キリスト教の思想的影響がうかがえます(特に初期)。彼は、1924年に朝鮮で民族美術館を設立したキリスト者の浅川巧や外村吉之助(関学神学部卒、牧師)らとの親交があり、関学教員であった寿岳文章(関学卒、英文学者、和紙研究者)とも親しく、関学でも数年教えたことがあります。

私は神学生時代に柳宗悦の『民藝四十年』という論稿集に出会い、少なからぬ影響を受けました。彼は、鑑賞用の美術品よりもむしろ、無名の職人たちの手仕事による、自然の素材を用いて造られた雑器。各地で生きる民衆の普段使いの雑器にこそ真・善・美が宿っているのだ、という彼の立場を様々に表現し実践しました。今もますますその運動は継承されています。時代的なへだたりはありますが、平和・非戦思想を根幹とする彼の創造的な思索と実践から学べることは多いと考えています。

ちなみに、ここ何年かのお茶タイムには、研究室でも自宅でも壺屋焼の湯飲みを使っています。17世紀にさかのぼる壺屋焼は、大正期に一時低迷してしまうのですが、柳宗悦らの民芸運動の中で再生したという歴史を持っているそうです。
(柳については、リサーチフェアのチャペルで少しだけ紹介しようと思います)

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その16

「青年よ、祈りを忘れてはいけない。祈りをあげるたびに、それが誠実なものでさえあれば、新しい感情がひらめき、その感情にはこれまで知らなかった新しい思想が含まれていて、それが新たにまた激励してくれるだろう。そして、祈りが教育にほかならぬことを理解できるのだ。」(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』Ⅱ-6 原卓也訳より)

つい先日、岩手県宮古にある教会・幼稚園の責任をもっている友人をたずね、(宮古で揚がった新さんまの刺身を食べながら)じっくり話す機会がありました。命はたすかりましたが、津波にあい教会は「全壊」でした。地震2日後の日曜日にはパイプ椅子を並べて数人で日曜礼拝をしたそうです。緊急時には「祈っている場合じゃない」ということがいろんな意味合いを込めて言われますが、それでもなお、事実として多くの祈りが寄せられ、ささげられています。ドロをかき出すひとかき、自転車のひと漕ぎだって祈りである場合があります。一人ひとりのストーリーがあり、誠実な一歩一歩が重ねられています。

言葉になるもの、ならないもの。宗教的なもの、そうでないもの。様々な祈りがあります。しかし、神仏など超越的存在に自分(たち)の願い・期待を実現するよう働きかけることだけが祈りであるとするならば、しばらくすると行き詰まるでしょう。それでもなお祈らずにはおれない現実の中で、人は、祈りを通して自分(たち)自身が変えられていく経験も重ねてきました。深い祈りの中には、世界や人生や超越者によって、自分が何を願われているかをたずねる問いかけも込められているのだと思います。

「弔い」とか「祭り」といった、意外と重要な社会の側面における宗教者たちの協力も、少しずつ前進していると聞きました。これらについてはまた報告します。

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その15

「ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです。そしてそういう捨身、献身の心なくしては正義は行えません・・・
・・・あんぱんまんは、やけごげだらけのボロボロの、こげ茶色のマントを着て、ひっそりと、はずかしそうに登場します。自分を食べさせることによって、飢える人を救います。それでも顔は、気楽そうに笑っているのです。
さて、こんなあんぱんまんを、こどもたちは好きになってくれるでしょうか。それとも、やはり、テレビの人気者のほうがいいですか。」(やなせたかし:1919~)

上の言葉は1979年出版の「あんぱんまん」のあとがきの一部です。彼は、公害や飢餓や貧困に苦しむ人々を心にかけながら、この作品で正義の問題を扱ったようです。いつ頃からか、ずいぶん「かっこいい」あるいは「かわいい」アンパンマンになっているのは少し気になりますが、30年後の今も、この1979年の作品のメッセージは色あせていないように思います。

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その14

「どんなきっかけでもいい。もっと豊かに、もっと便利に、もっと快適にと足りることを知らない欲望追求の力学の中で生きている人びとが自分よりも貧しい人びと、弱い人びとのために自分の持っている力、時間、知恵、その他なんでもその1%でも10%でも分かち合うことを実践することができれば、世の中は変わると私たちは信じている」(草地賢一 1941-2000)

草地さんは関学神学部を卒業し、長くYMCAや国際協力NGOであるPHD協会(神戸市)で活動された牧師で、私がもっとも影響を受けた人の一人です。阪神淡路大震災の時にはいちはやく地元NGO間の協力体制を築かれました。何度か一緒に食事をする機会がありましたが、ほとばしる情熱と鋭さに本当に圧倒されたものです。彼は常々「チャリテイーからジャスティスへ」ということをおっしゃいましたが、牧師としての自覚とビジョンをもって多くのNGO関係者の間でリーダーシップを発揮されている姿にいつも憧れていました。著書『アジアの草の根国際交流』は今も時々読んでいます。

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その13

「ひとつの扉が閉ざされる時、別の扉が開かれる。私たちは時々、閉ざされた扉を悔しそうに見つめてばかりいて、新しく扉が開かれていることに気付けないでいる。」(ヘレン・ケラー、1880~1968)

ヘレンは2歳の時の高熱で聴覚と視覚を失い、さらに言葉を話せなくなってしまったが、子どもの頃サリバン先生と出会ったことで言葉を知り、話すことができるようになった。彼女は大学を卒業し、社会福祉活動や執筆活動などに打ち込んだ筋金入りの女性。映画「奇跡の人」で彼女を知った人も多いはず。映画「サウンド・オブ・ミュージック」でも “When the Lord closes a door, somewhere He opens a window.”という言葉がキーになっているんだけど、ヘレンの言葉の前半はヨーロッパのことわざのようですね。

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その12

「人間への信頼が私を支えている。 私は信じようと思う。 自らの苦しみを救われたが故に、同じ苦しみにある人々のために働くことを惜しまない人間がたくさん見出されるであろうことを。」(アルベルト・シュバイツァー 1875-1965)

アフリカでの医療活動や「生命への畏敬」の哲学で有名な、神学者・哲学者・医者・オルガニスト・音楽学者。多才な人ね。1953年にノーベル平和賞。アフリカの人々の苦境を知り30歳になって医学を学び始めたという。アフリカでの彼の言動に関する評価はさまざまだけど、それでもなお彼の姿は問いかけてる。この手足が動くこと、自分を何のために用いるか。人が学ぶのは何のためか。

(追記)岩手県釜石市で牧師をしている友人の教会のことが「岩手日報」4月4日オンライン版に出ていた。http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110404_12
他にも何人ものKG同窓仲間が被災地の教会や学校で牧師をしている。いま支援の重要な局面を迎えているので、共感と連帯の思いを保ち、今自分ができること、すべきと思うことをし続けたいと思う。

  • 投稿者:murase
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研究のはなし

研究キーワード
実践神学、エキュメニカル運動、南アジアのキリスト教
Practical Theology, Ecumenical Movement, Christianity in South Asia

キリスト教の実践を、神学を軸に、歴史学や宗教学など諸学の視点を取り入れつつ検証する実践神学が専門です。主に現代の南アジアにおける神学思想とその実践を調査し、その歴史的・宣教論的な意義を分析しています。目下の関心は南インド教会(Church of South India)です。



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