2009年12月

宝塚映画の謎Part 2:総政100本の映画番外編

2009 12/31

 それでは、Part1に続けて、畑先生からの宿題、宝塚映画をめぐる文化社会学的考察(?)を続けましょう。なお、日本映画全体の歴史はこちらのページを参照してください。

 宝塚映画のリストでは、1952年から映画制作が再開されます。Wikipediaによれば、これが1951年に設立された宝塚映画製作所(2代目)で、1983年に経営不振で解散(そして宝塚映像を設立)まで存続しました。阪急電鉄の全額出資で、東宝争議(1946~50年に経営者と労組が対立、多くのスターや監督が東宝を去る)で低下した東宝の映画制作を補うことが目的だったということです。

 なお、1952年という時期ですが、Wikipediaの「日本映画」には以下のような記述があります「1951年にサンフランシスコ講和条約が締結されると、翌年にGHQによる映画検閲が廃止となる。これにより上映禁止となっていた時代劇が復活するとともに、多数の映画が製作されるようになった」。すると、おおかたの平仄があいそうです。

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 さて、リストをざっと見たところ、No.6『元禄水滸伝』からNo.82『強情親父とピンぼけ息子』あたりまでを第2期としてくくってみようかと思います。もちろん、はっきりとした区切りがあるわけではありません。しかし、とりあえず1950年代のプログラムピクチャー量産時代としてまとめてたいと思います。日本映画のいわば全盛時代ですね。ちなみに、のちに映画界を凋落させるテレビの放映開始は、NHKが1953年2月1日、民放のNTV日本放送が同年8月28日です。

 まず、この時期の映画を、目立つタイプに分けましょう。(1)鞍馬天狗がはまり役の大スター嵐寛寿郎(通称アラカン)や日活京都出身の黒川弥太郎等主演の時代劇、これには宝塚出身の春日野八千代(現在も宝塚在籍中!)、南悠子寿美花代扇千景が時代の進行にあわせて次々に登場します。先ほどのWikipediaの記載でもあきらかなように、日本国民は「時代劇」を待ち焦がれていたのでしょう。

 一方、もうひとつのタイプが、(2)戦前からの「しゃべくり漫才」のスター花菱アチャコ横山エンタツに、落語家柳家金語楼、戦後ボードビリアンとして一斉を風靡したトニー谷などの娯楽映画(#18『トンチンカン八犬伝』、#27『家庭の事情 さイざんすの巻』)。こちらは、清川虹子等の東宝系喜劇女優の場合と宝塚出身の浅茅しのぶ、宇治かほる、毬るい子、春風すみれ等が混じって共演しています。こちらは、明るい戦後の社会を反映しているのかもしれません。

 (3)そして戦前の連続活劇の系譜をひく『怪傑鷹シリーズ』(上映時間が45分程度にご注目)、『新諸国物語オテナの塔』(主演は当時の中村扇雀、その後中村鴈治郎を経て、現坂田藤十郎(4代目)、そして扇千景の現夫君)あたりが目立ちます。

 一方、意外にも、星菫調そうなものが目につきません。強いて言えば、タイプ4として、比較的初期の時代の#8『娘十八お転婆時代』、#12『千姫』、#15『悲剣乙女桜』等は宝塚劇団生が主力らしく(本当は観ないと判断できないのですが)該当するかもしれません。しかし、こうして全体を見渡すと、タイプ4はだんだん薄れ、むしろ宝塚出身者はタイプ1とタイプ2に出演することで「ふつうの演技・映画」の世界に入っていくルートの一つとして機能していたとも思われます。これは、宝塚歌劇団と東宝の力関係のバランス故でしょうか?

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 ちなみにそんな風な眼で見ると、Wikipediaの「東宝」の項に、東宝系の主な女優のリストがありますが、轟夕起子淡島千景八千草薫有馬稲子新珠三千代越路吹雪高千穂ひづる久慈あさみ等が目白押しです。小林一三の深慮遠望も見事に花開いた感があります。

 ちなみに八千草薫は1947年入団、52年に宝塚劇団内に設けられた「映画専科」に所属、1957年退団という経歴ですが、宝塚映画では#9『昔話ホルモン物語』(1952年)に始まり、#24『若い瞳』(1954年)まで短期間に6作に出た後、しばらく途絶えます(=つまり、東宝本社の方にでるようになる)。#67(1956)に出演した後、退団、あとは#110、#160と第3期に2回ほど出演します。

 このように、個々の映画人のライフヒストリーと、映画製作所としてのライフヒストリーが交差するところこそ、この手の分析の妙味(?)である、と一応言っておきましょう。

 さて、監督で目立つ人をあげると、タイプ(2)では戦前からの名喜劇監督の齋藤寅次郎、タイプ(3)では同じく戦前に脚本家としてマキノ映画でならした寿々喜多呂九平(リストではロクヘイ・ススキタ)でしょう。

 前者は、私が持っている猪俣勝人・田山力哉『日本映画作家全史』には、「奇想天外、とはこの人のためのことばではないか」と評しています。主にアチャラカ喜劇と言われた短編喜劇を量産、「医者が長屋のおかみさんを診察するが、やおら鞄から取り出した巨大な匙をポイと放りだし、家人はワッと泣きすがる=“匙をなげる”」等のギャグ満載だったそうです。

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 そうこうしているうちに、1955年頃から、次第に東宝争議でできた新東宝系のプログラム・ピクチャーの監督が目につくようになります。前出の『日本映画作家全史』では「安く、早く、儲かる映画の、渡辺天皇」と称されていた渡辺邦男(宝塚映画での監督回数1回)や佐伯幸三(17回)、志村敏夫(7回)、青柳信雄(19回)などです。

 ちなみに、渡辺邦夫は一生に劇場映画を225本、テレビ映画を209本、総計434本撮ったそうです。「神業的な中抜きでわずか1週間で撮り終わった作品もある(通常の作品は30日から45日程度)。なんと1956年には12本を撮ってみせた」(Wikipedia)。

 こうして宝塚映画の第2期が過ぎた1958年、全国の映画観客動員総数は11億人を突破(国民が平均1月に1回強は映画館に行く)した後、現在にまで至る長い衰退期にはいります。一方、映画資本は観客数の減少に対応して製作本数をさらに上げたため、製作本数の最高値は1960年の547本になります(Wikipeida)。

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 さて、そろそろプログラム・ピクチャーと言う言葉を説明すべき頃でしょう。今の映画館はほとんど1本立て(とくに、シネコンは総入れ替え制)ですが、わたしが子供の頃はたいてい2本立て、3本立てでした。その3本で1クールになる時間を何時間に設定するかで、映画館の売り上げがきまります。つまり、1日に何回転させるのか、その時間調節のために「低予算、早撮りで大量生産され、上映時間は短い物で30分程度、長いものでも1時間半程度。内容は分かりやすい娯楽作品が主流だった」(Wikipedia)。これがプログラム・ピクチャーです。

 したがって、上に述べた渡辺邦男監督など、映画会社からすれば、まことに重宝な存在だったわけです。なお、同じような言葉に「B級映画」がありますが、両者は重なりながら、微妙に違います。B級の場合は、A級映画に比しての質の悪さに力点があります。

 最後に、プログラムピクチャーやB級映画は必ずしも否定されるべき存在ではない、ということを一言。こうした形式はしばしば若い監督、あるいは映画技術者たちの養成の場でもありました。

 例えば、アメリカでB級映画を採りまくった「B級映画の帝王」ことロジャー・コーマンは、その間、ジェームズ・キャメロン、ジョン・セイルズジョン・ミリアスピーター・ボグダノヴィッチジョナサン・デミデニス・ホッパージャック・ニコルソンピーター・フォンダロバート・デニーロマーティン・スコセッシフランシス・フォード・コッポラゲイリー・カーツロン・ハワードガス・ヴァン・サント等を使ったことで、(実際にはこき使っていたわけですが)結果的には彼らを養成することになったというのが通説です(Wikipediaから)。

 なお、コーマンの自伝のタイトルは『私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか(“How I Made a Hundred Movies in Hollywood and Never Lost a Dime”)』(Wikipedia)と、いかにも人を食った物です。

 とすれば、宝塚映画はそうした役割を果たせたのか、果たせなかったのか? そのあたりが、探求すべき課題になるかもしれません。上記のように、少なくとも一部の宝塚歌劇出身者にとって、第2期とは「映画」への道の一つであったでしょう。

TVドキュメンタリー撮影クルーの際に教えてもらったこと:総政100本の映画番外編

2009 12/30

 伊納さんをはじめ、映像制作者を目指す方々へ

 1978年での最初の海外調査(約2カ月とあまりに短かいとはいえ)はインドネシア・スマトラ島のボホロクでしたが、日本映像記録の撮影クルーにアドバイザーとして加わるというめったにない体験でした(「食べることについてPart1」を参照)。ということで、今回は、その際、有言無言に撮影隊の方々から伝わったことを書き散らしてみたいと思います。授業ではなかなか話す機会もありませんが、ブログならば多少はゆるされるでしょう。

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 まず、撮影クルーですが、デイレクターアシスタントデイレクター(AD)、カメラマンの3人が日本人です。デイレクターは市岡康子さん、東京都立大の人類学出身で、つまり人類学的立場から撮影する先駆的ドキュメンタリー作家でした。数年前に、ふと所属を調べたら立命館アジア太平洋大学で映像を教えていたそうですが、2007年に退職され、現在は日本映像カルチャーセンター常務理事。ADは国際キリスト教大学を出たばかりの竹中さん、そして、カメラマンは映画カメラマンから転向した稲葉さんでした。

 これに私とインドネシア語の通訳で“ディア”という女性が一人。日本語が話せないディアと英語で話していると、スルタンかなにかの末裔の母親と軍隊で出世した父親の間に生まれたとのこと(祖母が死んだ時、葬式に縁者が集まるのに、当時のスハルト大統領がB707を3機ほど手配した!!という話でした)。しかし、こんなことを書いていると、撮影までなかなかいきませんよね。

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なんといっても中年のカメラマン、稲葉さんには酒を飲みながら、いろんなことを教わりました。まず、「日活では、眼がみえなくなってもカメラマン(=撮影監督)が務まるのですよ!」というあたりが、「はあ、はあ」とひたすら相槌で応えるしかないやりとりの始まりです。なんでも、5人ぐらいカメラマンがいて、一番下っ端の第5カメラマンはカメラをほぼ所定の位置に運ぶぐらいのお仕事、次に第4カメラマンがざっとの位置にセット、第3カメラマンが照度計等で露出を考え・・・・(なにしろ、30年前にしかも酒が入ってのうろ覚えなので、間違えていてもお許しください)、すべて用意がととのってから、やおら撮影監督が登場して、実際の撮影が始まる。

 その時には、すべて準備が整っている、というのです。もちろん、冗談半分でしょうが、日活の全盛時代は、そんな雰囲気だったかもしれません。

 「だから、(日活が倒産しそうになって、日活ロマンポルノ路線になる前に辞め、フリーカメラマンとしてTV局のニュース撮影に雇われた当初)、撮影できなかったんです」とおっしゃるのです。

 復帰前沖縄で、軍政下の住民のデモを撮れと現場に行ったけれど(ちなみに沖縄返還は1972年5月15日、私は大学1年生でした)、「映画では構図を崩してはいけない。すべてが計算しつくされていて、その中でカメラが回るはずなのに、ニュース番組のディレクターからすれば、そんなんじゃニュースとしての臨場感がでない。カメラがぶれた方が、もっともらしいんだ。カメラを回せと怒鳴られた」というわけです。

 となれば、もちろん、映画ファンなら、皆さんわかりますね。フランスのヌーヴェルヴァーグ派、ジャン・リュック・ゴダールが出世作『勝手にしやがれ』(1959年)の冒頭、手持ちカメラのぶれた映像でジャン・ポール・ベルモント演じる主人公の心的世界をも表現して、世界を驚かせ、ある人にとっては映画は「ゴダール前」と「ゴダール後」に分かれるという衝撃について。稲葉さんはそれを、日活映画とTVニュース画面で体験したわけです。

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 もうひとつ、若い皆さんに伝えたいことがあります。1978年はまだビデオ撮影が普及してませんでした。市岡さんも交えて話していた時に、市岡さんが、「今度、NHKがビデオでシルクロードを撮るみたい(実際には1979~80年に撮影、1980年放映)。ビデオで撮ると、画面がきれいで、ストーリーや何もなくても、ただそれを流せば、番組になると思っているんだから」と憤懣を抑えながら言っていたのが印象でした(なにしろ、私は映像も何も無知で、フィルムとビデオの違いも知りませんでしたから)。

 しかし、稲葉さんを見ていれば、フィルムとビデオの違いは如実です。なにしろ16mmアリフレックスのカメラだったと思いますが、フィルムのマガジンの大きさから一回に撮影できるのはたしか10分程度、そうすると、毎晩ミーテイングで、明日は何シーンぐらい撮るのか会議です。

 ミーテイングが終わると、稲葉さんは「明日は何シーンだから、いくつぐらい用意しなければいけないか」と考えて、フィルム会社から買ったままの生フィルムの大きなロールから、撮影用のロールに毎晩、小分けしていくのです。光を通さないために、中でフィルムを巻きとれる暗箱のような袋に手を突っ込んで、ひたすら手作業で、明日の撮影のために生フィルムを撮影用のロールに巻いていく。

 それが終わると、酒が入って「日本に持って帰って、現像に出すまで、本当に映っているかどうか、わからないんですよ」「放送に使う分のだいたい7倍のフィルムを使って撮影しているんだけれど(=編集で、7分の1にされる)、NHKは金があるから、10倍ぐらい撮らしてもらえる。そのぐらい撮影できたらな!!」と打ちあけられ、

 さらに「実は、現像が終わっても、編集室にいれさせてもらえないんですよ!! カメラマンからすれば、すっごくきれいに撮った写真なのに、番組に編集する際は、がっとハサミを入れられる。カメラマンを編集室に入れたら、鋏をいれられるたびに「あっ」とか叫んでしまうんで、うるさいから、入るなと言われているんです」

 そうした取材は、たぶん、ビデオの登場で一変したかと思います。まず、その場で見直せる。放送時間の何倍も撮れる。化学フイルムよりも、照度が低くても撮影できる。それらは確かに長所です。しかし、そのために、撮影に対するこだわりが薄れ、映像が甘くなる危険性も心に秘める必要がありそうです。

 とこのあたりでなにやら教訓話になってしまいそうですし、ずいぶん長くなってしまったので、このあとはまた続編(連続活劇みたいですね)にしましょう。 

JICA派遣専門家等について;国際援助の現場でPart2

2009 12/29

 国際援助関係に興味がある方も多いと思いますが、それでは、実際にどのような仕事なのか、というところで、実感がわかないかもしれません。それで、私の乏しい経験からJICAの派遣専門家について紹介してみましょう。

 実は、派遣専門家自身は、必ずしも「国際援助」を志している人ではありません。それでは、どんな方かと言えば、派遣専門家(エキスパート)とは、ある国が日本に技術協力の一環として、“特殊”な技術なり知識をもった専門家を派遣してほしいという要請があり、外務省を通じて、JICAに問い合わせがあった時、JICAが「こんな専門家がいますが、それで良いですか?」と答えて、それが了承された場合に派遣される方なのです。ですから、文字通り“専門家”ですが、それまで一切外国に出た事がない人もいます。

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 私の場合、東京のJICA本社で1カ月の研修がありました。数十人はいたと思うのですが、私以外に第3世界で長く住んだことがある者は数人だけでした。同じグループで「サウジアラビアに電気の標準化の指導に行く」という人と、イエメンに「共同住宅建設のデザインの指導」で2年行く人がいたのを覚えています。

 もうひとつ、派遣は、あくまでもその国からの要請で動き出す=これが建前です。皆さんは、どこか希望の地域等があるかもしれませんが、派遣専門家は向こうからの要請が基本なので、国を選べるわけではありません。

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  それでは、どんな経緯で専門家派遣が成立するのか? 私の場合、20年も前のことでうろ覚えですが、さほど変わっていないかもしれません。まず、タンザニア天然資源観光省Ministry of Natural Resouces and Tourismの下部組織、野生動物局(Game Division;現在はWildlife Divisionのようです)が、本省を通じて在タンザニア日本大使館にA1-Formという書類を提出します。そこに「Mahale Game ReserveをMahale Mountains National Parkに昇格させるため、必要な動植物相の研究にふさわしい専門家を、2年間派遣してほしい=派遣費や滞在費は日本政府持ち」が記載されています。

  次に、ダルエスサラームの日本大使館(ついでに言えば、アフリカ大陸では、どの国にも日本大使館があるわけではありません。28カ国だけですから、約半分です。したがって、日本大使館がない国は、その国を兼任している隣国の日本大使館に交渉しなければいけません)で、一等書記官の方が援助担当者としてタンザニア国内から提出されたA1-Formに優先順位をつけます。当然ですね。

 とくに専門家派遣や無償資金協力等、いわば小口の援助は、当然、その国にとっての逼迫度を勘案して送らねばなりません。ただし、その判断は大使館の調査能力にかかるわけで、このあたりが日本の外交政策のアキレス腱といえるかもしれません。

 そのA1-Formが日本の外務省に送られます。援助するという方針がきまると、今度は東京新宿のJICA本部に送られます。JICAでは、その分野に詳しい有識者等に打診します。そこでふさわしい専門家が見つかると、今度はB1-Formだったか、A2-Formだったか、そろそろ記憶が定かでなくなってきましたか、「この専門家でよろしいか?」という書類が、日本側から上記のルートを逆にタンザニアの担当部局に送られます。

 タンザニアでその候補者に対してOKが出ると、正式の派遣手続きにかかる、というおよそまだるっこしい物でした。この間、細かなことは、JICAの現地事務所(在ダレスサラーム)等に諮問があるのですが、決定権はあくまでも外務省だというのが建前でした。

◆註:JICA本部のURLはhttp://www.jica.go.jp/ 

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 私の頃は、1980年代前半ですから、もちろんインターネット等存在せず(商用インターネットの開始は1989年)、おまけに、書類がアフリカの役所の机で何週間、何ヶ月か寝てしまったり、行方不明になったり(スワヒリ語で“potea”してしまったり)、なかなか大変なお仕事でした(もちろん、その根回しを、前任者になるべき現派遣専門家=私も含めて、がおこなうのです)。役所のタイプライターは皆手動で、打つ時にカーボンコピー用紙をはさんで、4枚ほど作成するわけですが、4枚目等色も薄くて、とても読めません。

 そんな時代でした。なお、このカーボンコピーの頭文字がccで、これが皆さんがメールを送信するときに使うcc、あるいはbcc(blind carbon copy)の語源です。

 したがって、実際に派遣専門家を送るプロジェクトがスタートするには、かなりの時間がかかるものだということをご理解ください。私の専門家時代は、基本的に日本の研究者なり、企業なりが、なにかプロジェクトを企画すると、まず当該国の対応機関と折衝して「A1-Formというものを日本大使館に出すと、こういう形で話が進んでいくのだ」と根回しする世界だったかと思います。もちろん、あれから幾星霜を重ね、現在は、現地の国の実情を反映したものになっていると思いたいところですが。

 ちなみに、これもトリビアの泉のような豆知識ですが、当時のタンザニア大使館の一等書記官は実は外務省の人ではなく、通産省(当時)の庶務の方の出向、領事担当の二等書記官は防衛庁(当時)の出向で、大使館というのに全員が外務省プロパーではない。これも、外務省の予算不足なのか、人手不足なのか、初めての人間にはなかなか分かりにくいことでした。

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 青年海外協力隊では、話はさらに微妙になっていました。私は協力隊員とばかりつきあう“変わった専門家”という役回りだったようですが、彼らと話しているうちにわかったことは、「どんなスキルを持っているのか?」と「どの国が、そのスキルを持つ協力隊員を必要としているか?」、この二つで決まってしまいます。例えば、「タンザニアのある役所が自動車修理の技術を持っている人を欲しがっているようだ」と要請があったら、「アフリカに行きたい修理工の人がたまたまいたよ!」という調子です。

 だから、「この国に行きたい」という希望が通るのはむずかしく、だいたいアフリカ全土ぐらいの地域と職(自動車修理とか、農業指導とか)とのマッチングで決まる、そんな世界でした。

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  ですから、協力隊の希望者に私が尋ねることはただ二つ「あなたはどんなスキルをお持ちなの?」と、「そのスキルは、希望する地域で求められていると思う?」です。コツをつかむとおもしろいもので、私は専門家在任中、ある協力隊員の人が2年の任期終了後も、もう少しタンザニアにいたいというので、Game Divisionの別の部局に斡旋して、さらに2年滞在を延長できたこともありました。コーディネートもなかなか楽しい世界です。

 ということで、私の経験から総合政策学部の皆さんに言えることは、皆さんはスキルを身につけて国際援助に行くより、むしろ、こうしたプロジェクトを企画、コーディネートする立場(=プロデューサー)を目指すことをお薦めします。それこそ、総合政策学部にふさわしいのではないでしょうか。

宝塚映画の謎Part1:総政100本の映画番外編

2009 12/28

 伊納さんともども、畑先生から“宝塚映画”についてのホームワークが課せられたようですが、面白そうです。学生の皆さんも、こうした“課題”にどう取り組むか、お勉強と思って、興味がある方はお付き合いください。

 ちなみに、“宝塚映画”のリストを見ると、いまとっさに「この作品だ」と思いだすものは、残念ながらありません。とは言え、私が小学校から中学にかけて時分の作品群について、往時を思い出しつつ、何か言い添えることぐらいはできるかもしれません。学生の皆さんは、私が勝手に言い散らす言葉を頼りに、作品をそれぞれ観ていただければと思います。

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 まず、宝塚映画、名前自体をまったく知りませんでした。それで、こういう時には「なんでも載っている(でも、完全に信用してはいけない)Wikipedia」を開いてみましょう。宝塚映像という名前になっていますが、映画会社の有為転変が背景にあるようです。畑先生からご提示のリストを概観すると、どうやら3段階に分かれるとみました。Part1では、この第1期、1938年8月に開設、1941年に閉鎖された宝塚映画製作所について考えてみましょう。

 さて、第2次大戦開始前後の短い時期。『山と少女』『雪割草』、いかにも星菫調の宝塚歌劇の地元にふさわしいタイトルです。俳優も「山鳩くるみ」「桜町公子(雪組トップスター)」「葦原邦子(宝塚レビュー時代のスーパースター)」と歌劇陣が並んでいます。つまり、宝塚歌劇の延長上の映画製作というべきものではないかと思います(Wikipediaによれば、宝塚歌劇団の付帯事業として出発)。後で触れるように、この時、宝塚・阪急の総帥小林一三は、すでに1937年、東宝映画を設立しています。したがって、その宝塚版をねらったかもしれません。

 余談ですが、この小林一三は「「乗客は電車が創造する」という言葉を残し、鉄道沿線の住宅地開発・百貨店経営など幅広く関連事業を経営し、沿線地域を発展させながら鉄道事業との相乗効果を上げる、今日の私鉄経営のビジネスモデルの原型を作った一人である」(Wikipediaより)。

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 宝塚映画に話を戻すと、1940年のタイトルは『女学生と兵隊』『瞼の戦場』と一気に暗転=戦場ムードです。もっとも、『瞼の戦場』の俳優には、戦後も活躍した「月丘夢路」も入っていますし、次の『南十字星』(いかにも、日本軍の南方進出をイメージさせるのでは;このあたり完全に推測です)では戦前のオペラ歌手の大物「藤原義江(男性)」もいます。ひょっとしたら、これらの作品は、戦場の兵隊さんたちにしばし甘い夢を見せるための「慰問映画」だったかもしれません(これももちろん推測です)。なお、月丘夢路は娘役トップスターから、この『瞼の戦場』が映画デビュー、次に1942年大手の大映映画の『新雪』で大ヒット、1943年に宝塚を“卒業”後、大映、松竹で映画スターになります。1957年、宝塚映画リストNo.41の『ジャズ娘乾杯』等の監督にしてプログラム・ピクチャーの名手井上梅次と結婚します。

 さて、Wikipeidaの「日本映画」を見ていると、こんな記述が見つかりました。第2次大戦突入前、「ABCD包囲網による経済制裁が発動すると、アメリカからのフィルム輸入が途絶え、国産フィルムは軍需品とされ、厳しい使用制限がかけられ、映画業界にとって死活問題となった戦前数多く存在した独立スタジオの閉鎖、合併を繰返し、映画産業の規模は急速に縮小し、東宝、松竹大映の3社を残すのみとなった」。できたばかりの宝塚映画も、これに巻込まれたのは想像に難くないところです。それにしても、映画を作るためにはフィルムが要る。そのフィルム生産を支えるインフラが不十分だったわけです。

 つまり、第2次大戦さえなければ、現在のジャニーズ事務所さながらに、宝塚音楽学校 → レビューデビュー → トップスター → 映画デビュー → 卒業 → 映画スター量産システムに移行していた可能性もあります。それが戦局の激化とともに、むなしく散って行ったわけです。ちなみに、小林一三(関学にとっても、原田の森から上が原キャンパスに移転する際の恩人)は、先ほども触れたように1934年に東京進出をねらって「東京宝塚劇場」を創設、M&A等を駆使して、「東宝」を設立して現在にいたっています。

 このあたり、本当のところを、是非、映像大好き、あるいは宝塚大好きの畑ゼミ、井垣ゼミの皆さん等に調べてもらいたいところです(十分、文化社会学的レポートになるのでは)。   To be continued…..

総政の映画100本Part5:#41~42;モンタンとピアフ

 総政の映画100本のPart5ですが、学部生の伊納さんが「【伊納の映像日記】番外編・映像制作者として見ておきたい映画50選」と題して、すでにNo.7まで投稿されています(http://kg-sps.jp/blogs/hata/2009/12/27/1504/  http://kg-sps.jp/blogs/hata/2009/12/27/1508/)。

 結構ですね!! しばらく、エールも交換しながら、映画紹介を続けたいと思います。

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 まず、伊納さんの選考がなかなか渋い。とくに『恐怖の報酬』等なかなか。巨匠アンリ・クルーゾーが、主役にシャンソン歌手のイブ・モンタンを据えて、歌っている時の粋で洒脱な姿とはまったく異なり、これぞフランスの労働階級、酒と女と気が向いた仕事しか手を出さない(ただし、この映画の場合は、巨大な報酬にとりあえずやってみる気になってしまう)、そんな雰囲気が一杯です。酒場のシーン、爆薬を積んだトレーラーの運転シーン、道をふさぐ岩を積み荷のニトログリセリンを使って爆破するシーン、それ以上言うとネタバレになるので、やめておきましょう。

 イブ・モンタンはこの後、映画俳優に結構のめりこみます。そのなかには、いかにもフランスのインテリっぽく、一連の左翼映画(コスタ・ガブラス監督『Z』(#41;もっとも、たしか、『Z』では映画が始まった途端にイブ・モンタン演じる“Z氏”は暗殺され、その後は、ジャン=ルイ・トランティニャンの独演状態になったように覚えています)、『戒厳令』等)にでるかと思えば、まったくの娯楽映画にも多演しました(『恋をしましょう』では、マリリン・モンローと共演)。

 そういえば、イブ・モンタンは年上の大歌手エディット・ピアフに見出され、しばらくは愛人関係にもありました。そのピアフの伝記映画『エディット・ピアフ~愛の賛歌』(#42;2007年)も佳作です。主演(アカデミー賞受賞)のマリオン・コティヤールがほとんどそっくりさんで、歌をうたうこと、他人の才能を見つけて伸ばしてやること(イブ・モンタン、アズナブールムスタキ等)、そして男を(それも不器用に)愛することしかできないピアフを、切ないぐらいの迫力に熱演していました。ジェラール・ディパルデューが初老にさしかかった役で出てきたのには(そして、あっという間に殺されてしまったことにも)ちょっと驚きました。その昔、マルグリット・デュラスの映画で、マルグリットに「この若造が」という感じでやっつけられていた頃が懐かしいようです。

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 「恐怖の報酬」からいつの間にかデュラスまで話がとんでしまったので、伊納さんの映画批評に戻して、「丹下左膳余話 百萬両の壺」と「激突」の批評を、先を越されてしまいました。前者は、本来のキャラは息がつまりそうな侍社会のはざまで、いわば“化け物”じみた活躍をするはずの丹下左膳のはずなのに、本篇では市井の社会にどっぷり浸かり、コミカルな演技を見せる等、後年のTV等での左膳の変容(ニヒルな反社会的人物 → 正義の味方)を先取りした作品です。さあ、それでは同じ山中貞雄監督の最高傑作と言われる『人情紙風船』に、どちらが先に手をつけることになるのでしょうか? 乞ご期待というところにしましょう。

 その一方で、『激突』もまたスピルバーグの傑作です。実は、この作品は、デンマークの伝説的な監督カール・テオドア・ドライヤーが1948年、交通事故防止のための速度制限キャンペーンのための短編映画『彼らはフェリーに間にあった』からインスパイアされたものだと言われています。ざんねんながら、私はこの短編を観ておらず、かつ短編ゆえに内容を説明すると完全にネタばれなので、ここでは伏せておきましょう。どなたか、観た事がある方は、コメント等いただけないでしょうか? もし、興味がある方は、元東大総長蓮見重彦と映画評論家の山田宏一が、希代の映画通淀川長治に聞き取りをおこなう『映画千夜一夜』(1988年、中央公論社)の514ページをご覧ください(中公文庫でも出ているようです)。

 ということで、他の作品にも言及する余裕がないので、Part5はここで終えます。

高畑ゼミの100冊Part10:探検記・旅行記について

2009 12/27

 今回は、世界各地の旅行記あるいは探検記の類を紹介したいと思います。

 ノルウェーの極地探検家アムンゼンに惜しくも34日遅く、南極点一番乗り競争に敗れ、失意の帰路で、ついに全員死亡に至るロバート・スコットの悲劇は有名です。そのスコット隊の一メンバーとして、南極まで赴いたチェリー・ガラード執筆の『世界最悪の旅』(書籍番号#54)がトップバッターです。

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 ガラードは鳥の系統発生が専門らしく、極地一番乗りという国の威信までかけた競争とは無縁に、南極のコウテイペンギン繁殖地(テレビ画面等でペンギンが群がって、雄雌交互に卵を抱えてじっと立っている場所です)で、抱卵中の卵を研究目的にいただいてくる、という目的のためだけに、極地への旅に参加します。

 一方、アムンゼンは本来は北極点到達を目指していたのですが、アメリカのピアリーによって先を越されたと知るや、船上で南極点到達レースへの転進を表明、「私は祖国ノルウェーの名誉のために南極を征服する」と宣言して、南極まで遠征してくるのです。

 二つの極点をアングロサクソン(アメリカ人のピアリーとイギリス人のスコット)に独占させてたまるか、というアムンゼンの意地が、やがてスコット隊の悲劇につながります。なお、同じように国の威信を賭けての競争が、この40年後、世界最高峰チョモランマ(エベレスト)をゴールとして展開することになります。

 それにしても、職業的極地探検家のアムンゼンは、目的遂行(人類初の南極点到達)にすべてを捨てて、あらゆる合理性を追求して、南極点に突進します。

 例えば、犬橇の使用は、犬と人が同じ食料(=肉)で賄えるし、(食料を食いつくしていくと)荷が減るので、不要になった犬から殺して、それを人の食料とする・・・・。そのアムンゼンとあまりにも対照的に、徒歩の苦しい旅の途中で見つけた貴重な化石資料(16kg)を、死に至るまで手放さなかったスコット隊を比べると、私のような理系研究者にとっては語る言葉もありません。

 とは言え、『世界最悪の旅』をひもとく時、100年前の南極でただ生き残ろうとすることさえ困難を極める最中、ペンギンの卵をめぐって命をかける(ガラードの形容をそのまま借りれば)“科学探検”の世界は、興味深いものがあります。

 例えば、エネルギーを補給し、かつ凍傷をふせぐため、1日に摂取すべきビスケット、ペミカン(肉と脂を固めた携帯食)、バターの分量をどうすべきか、「ウィルソンは脂肪食として一日バター8、ペミカン12、ビスケット12の割合に、ボワーズは蛋白食として一日ペミカン16、ビスケット16、そして私は炭水化物を主としてやっていくように命ぜられた」。

 まさに、生命をかけての人体実験を自らに課しつつの探検なのです。こうしてガラード達は無事任務も達成して(コウテイペンギンの卵3個を持ち帰ります)、キャンプに帰還します。

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 その数ヵ月後、隊長のスコットは(ガラードとペンギン繁殖地に同行した)ウィルソンとボワーズ、他にエヴァンズとオーツの5名を選抜して、南進隊として南極点へ出発します。

 しかし、あてにしていた馬ソリ隊の不調(南極では、馬はヒトと同じ食事ができない!!)、その結果として人力によるスキーとソリでの体力の消耗、出発点の選択の差(アムンゼン隊の出発点は南極点までの直線距離がそもそも短い!!)、チームを当初の予定より1名増やしてしまったこと、天候の不調等が重なり、1912年1月17日に南極点到着をはたすのですが、前年12月14日にすでにアムンゼン隊が到達しており、その確認役を引き受ける羽目になったことを知らされます。

 帰路の状況は往路にもまして厳しく、体調を崩したオーツは3月17日、「I am just going outside and may be some time」と告げて、ブリザードの中を自らの意思でテントを去ります。

 オーツの失踪・自死後も、生還をめざしたスコットたちですが、3月29日、荒れ狂う強風の中、(食料があるデポまであと20kmの)テントの中で全員息を引き取ります。この経緯はスコットの日記に克明に記され、隊員たちの家族への手紙も含めて、『世界最悪の旅』に採録されました。救助隊に発見された日記の最後は、以下の通りです。

  •  我々は最後まで頑張らざるべからず。しかしもとより、身は刻々と弱りゆきて、終局は遠からざるべし。遺憾千万のことなれども、もやはこれ以上、書き続けうるとは思われず。   R・スコット
  •  神よ われらの家族の上を見護りたまえ

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 ちなみに、スコットの第一回探検隊の参加者であったアーネスト・シャクルトンは、スコットの死後、アムンゼン隊の成功の3年後、今度は南極大陸横断に挑んで“エンデュアランス(不屈の精神)号”を出港させます。1年8ヶ月の漂流の末に撤退を余儀なくされ、探検は挫折しますが、隊員全員の生還を果たす。そのシャクルトンが隊員募集に出した新聞広告はコマーシャル史上の傑作と言われています

Men wanted for hazardous journey. Small wages, bitter cold, long months of complete darkness, constant danger, safe return doubtful. Honor and recognition in case of success (求む男子。至難の旅。僅かな報酬。厳寒。暗黒の長い日々。耐えざる危険。生還の保証なし。成功の暁には、名誉と賞賛を得る)

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書籍番号#55フェルナン・メンデス・ピント東洋遍歴記』:悲惨な結末に終わりながら、崇高さを感じさせるスコットたちの記録の後は、大航海時代の1537年、祖国ポルトガルを離れ、国王ジョアン3世の兵士としてインド洋行きの船に乗り、その後21年間、異教徒たちがうごめく中近東からインド、マラッカ、タイ、中国、最後は日本まで足をのばし、その間、捕虜になること13回、奴隷になること17回(と本人は称していますが、もちろん晩年の記憶に頼ったこの本の記述がすべて正しいことなどあり得ることではなく、一種のピカレスク・ロマンとでもいうべき作品とも言われています)を数え、トルコ人等と殺しあいつつ、貿易に携わる。この殺伐、放埓無双、かつ戦いになれば「絶えずキリストの名を唱え」、戦い前には「キリスト教信者諸君 奴ら(イスラム教徒)が悪魔の雑言で励ますなら、わたしもキリストの名で励ます」と叫ぶ商人・兵隊・海賊・ごろつき等のすべてを兼ねそろえた男たちの日々が、約500年後の今も、活き活きとよみがえります。

 さて、1454年から55年、暴風雨にあったピントたちの船はある島に流れ着きます。住民の質問に「中国から貿易するために商品を持ってきた、(上陸を)許可してもらいたい」と答えると、相手が言います。

NAUTAQUIM TANIXUMA様は、税金を払えば喜んで許しましょう。税金を払うのは前に見える大陸、日本の習慣です

 そう、このNAUTAQUIM TANIXUMAとは、当時種子島を支配していた種子島時堯のことだと推定されています。もっとも、この時=鉄砲伝来の瞬間にピントが本当にその船にいたのか、いまだに論争がありますが、ピントがこの後、何度も日本を訪れたのは事実であろうとされています。

 なお、この本の正式なタイトルは以下のようにとても長いものです。

我々西洋では少ししかあるいはまったく知られていないシナ王国、タタール、通常シャムと言われるソルナウ王国、カラミニャム王国、ペグー王国、マルタバン王国そして東洋の多くの王国とその主達について見聞きした多くの珍しい事、そして、彼や他の人物達、双方に生じた多くの特異な出来事の記録、そして、いくつかのことやその最後には東洋の地で唯一の光であり輝きであり、かの地におけるイエズス会の総長である聖職者フランシスコ・ザビエルの死について簡単な事項について語られたフェルナン・メンデス・ピントの遍歴記

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 書籍番号#56 イブン・バットゥータ 『三大陸周遊記』(#56):イスラーム圏で3年を過ごした私からすると、ピントのキリスト教にこり固まった(彼は一時イエズス会にも属します)記述はいくらなんでもあんまりだという気がします。

 そこで、イスラーム圏から、ピントに負けずとも劣らぬ大旅行家、イブン・バットゥータの『三大陸周遊記』でバランスをとりましょう。第一、イブン・バトウータは敬虔なイスラーム教徒にして、イスラーム法学者(ウラマー)ですから、同じような地域を旅していても、その風情はまったく異なります。高校の世界史の教科書にも時々言及される彼は文弱の徒=インテリなのです。

 『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』と題された本書は、1325年、モロッコのタンジェからメッカ巡礼の旅に出発したバットゥータが翌年には巡礼を無事に済ますも、さらにバクダードまで旅行、再度のメッカ巡礼を経て、イエメン、イラン、インド、トルコ、モルディブ(当時から、鰹節のような製品を作って、輸出していることが書いてあります)、スリランカ、ベンガル、スマトラ、泉州を経て、当時の元帝国の首都大都に達します。

 バットゥータはやがて、中近東に戻り、1350年いったんタンジェに戻るも、サハラ砂漠を横断して(岩塩と金を交易したサハラ隊商路です)、アフリカのマリ帝国を訪れる。『三大陸周遊記』はその30年の旅の記述です。

 彼は基本的にイスラーム圏の中を、ウラマーとしての尊敬を勝ち取りながら、時には数年も滞在し、縁があればその行くところどころで、結婚したりします。彼の旅行中は、モンゴル帝国から元帝国の最盛期の一時平和だった時代、パックス・モンゴリカだったことが幸いしたのでしょう。さらに、大航海時代前、ピントのような“野蛮で貪欲”なヨーロッパ人たちもまだアラビア海には現れていませんでした。

 黒人帝国のマリでは、「黒人には長所もあれば短所もある。不正行為が少なく、国内の治安がよくととのい、(中略)イスラム教の戒律を厳守し、コーランの暗誦に熱心で(中略)とがむべき点を挙げると、まず侍女、女奴隷、一般の少女まで、全裸体で平気で男性の前に姿をあらわすということがある」と記述する彼は、この当時、まことに得難い異文化体験記述者、異文化を(もちろん多少の偏見や誇張、間違い、他人の著作等からの引用があるとはいえ)もっとも懇切に語ることのできる者でした。

総政100本の映画Part4:#39~40;黒いオルフェ他

2009 12/26

#39:マルセル・カミュ監督『黒いオルフェ』:1959年の第12回カンヌ国際映画祭は、このフランス・ブラジル・イタリア合作映画を最高賞のパルム・ドール(黄金の棕櫚)に選出します(同年のアメリカアカデミー賞でも、外国語映画賞を受賞します)。

 物語の骨子は、ギリシャ神話に出てくるオルフェウス(オルペウス)とエウリュディケーの物語ですが、皆さん、ご存じですね。愛妻エウリュディケーの死に嘆き悲しむ夫オルフェウスは、冥界を訪れます。太陽神アポローンから習ったという竪琴の名手の彼は、その音色で(本来は生きている人間など渡してはならない)ギリシャ版“三途の川”(ステュクス)の渡し守たちを説得し、ついには冥界の王ハーデースとその妃までをも魅了します。ハーデースは妃の願いにおれて、エウリュディケーの帰還を許すのですが、その際、条件を一つ「冥界を出て、現世に帰るまで、決して後ろを振り返ってはならない(=後ろについてくるはずのエウリュディーケーを確認してはならぬ)」と厳命します。

 もちろん、(古くはパンドラから、浦島太郎まで)そうした約束が守られるはずもなく、いわば昔物語のお約束事ではありますが、不安にかられたオルフェウスはあと一歩というところで振り向いてしまい、二人は冥界と現世に隔てられてしまいます。オルフェウスのその後も、なかなか波乱万丈で、彼はディオニューソス神の怒りを買って、狂った女たちに八つ裂きにされます。そのあたりにご興味がある方は、まずはWikipediaをご覧ください(そして、できれば『ギリシア神話』をお読みください)。

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 さて映画は、この物語を換骨奪胎、舞台をブラジルのリオデジャネイロの有名なカーニバルにとりブラジルの下層階級である黒人を主人公とした“黒いオルフェ”と黒人の少女“ユーリディス”、そしてユーリディスの命をつけ狙う“死神”のやりとりを、貧しいが活気ある貧民街と狂熱のカーニバル(=ギリシャ神話の狂った女たちを彷彿とさせる狂乱の中で)を対比させながら、闇と光を交錯させることでこの悲劇を表現します。そして、もちろん、この映画の結末で、ユーリディスもオルフェも死に至るのです。

 ブラジル映画は、この後、ヘクトール・バベンコ監督『蜘蛛女のキス』(#40)等も生みますが、今、この『黒いオルフェ』を観れば、ヨーロッパ人の好む筋立てにそって、ヨーロッパ人監督が黒人俳優を使って作った一種の“オリエンタリズム”映画という気がしないでもありません。しかし、とくに映像美と映画音楽(ボサノヴァの名曲が含まれています)は一見・一聴に値いします。

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 ところで、とくにアメリカ映画には、黒人層を主な対象として想定した“ブラックスプロイテーション映画”というジャンルがありました。そして、当然のことながら、ハリウッドの白人映画的な観念に染まった日本ではほとんど公開されません(だから、日本人は誰も知らない)。そのあたりの話はまた別の機会にしたいと思います。

セキュリティについてPart1:国際援助の現場で#1

2009 12/24

 講義でもしばしば言及していますが、私はアフリカには合計3年ほどいました。その大半は西部タンザニアタンガニイカ湖畔にあるマハレ山塊国立公園(私の滞在時にはまだ“Game Reserve”で、84年の帰国直前、タンザニア国会で“National Park”に関する法案が通ったという知らせを受けました)です。なお、日本の法制とはちょっと感覚が違うので、あえて英語で書いて、Wikipediaも英語版にリンクしました。

 1982年から84年までの2年間の滞在は、その国立公園計画推進のための基礎調査という目的での、JICA派遣専門家のステータスでした。つまりは、ODAの末端にいたわけですが、そうした経験を、国際援助に興味を持つ方にもちょっと伝えたいと思います。

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 まず、私が滞在した場所はどんなところか? タンザニア滞在中も、首都に出てくると日本人(その多くは、援助関係者でしたが、一種独特の階層社会がありました。その点は、またゆるゆると説明したいと思います)の方に聞かれたものです。「そんなところで暮らすのは、危なくないのですか?」と。

 そんな際の決め台詞はただ一つ、「いや、ニューヨークの地下鉄よりは安全ですよ!」というものでしたが、その後、いく星霜が過ぎ、いつの間にかニューヨークの地下鉄もそれほど危険ではない、という噂も出てくると、これも警句としての命脈が絶たれそうです。

 とりあえず、その頃、私の台詞は「一番近い肉屋まで35km(ちなみに、この間、道路は一切なく、湖を船外機エンジンをつけたボートで行くほかはない)、一番近いガソリンスタンド(実は、政府機関に勤務しているので、一般民衆と違い、Regionの州政府直轄のガソリンステーションで購入できた-ただし、ドラム缶単位で!)は135km、一番近い日本人まで500km(一度だけお会いしたのですが、今思うと、レアメタルの専門家で、たぶん、どこかの密命を受けて、タンザニアで何か探していたのではないでしょうか? たぶん、何も出なかったのだろうと思いますが)、お湯が出るホテルまで1500kmです」というのが、いわば常の余興の口上でした。

 正直、一番危ないのは首都(当時、日本人が二人殺されています)、次が地方都市、最後は田舎で、私が付き合っていた人たちはまあまあ素朴な方々でした(「高畑ゼミの100冊」で紹介したきだみのるの『気違い部落周遊紀行』、あるいは宮本常一『忘れられた日本人』の登場人物に比すべき人たちだったのです)。

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 それでも、滞在地のマハレ国立公園(予定地)でタンガニイカ湖を隔てた向かいは、ザイール(現コンゴ民主共和国)、そちらは数十年にわたる戦乱の巷で、絶えず難民がやってくる場所ですから、何時、とんでもない人が来てもおかしくはない。現に、別のフィールドではゲリラに襲われ、研究者が人質にとられた例があります。

 ということで、(もう私の人生ではそんな経験はもう訪れることはないでしょうが)、私の恩師が数十年前に使っていたライフル銃(たしかチェコ製のブルーノ22口径だったかと思います)を取り寄せ(私の恩師がかつて使っていたのものをタンザニア政府に寄付していったので、タンザニアの国有財産=野生動物保護局の備品になっていたのですが)、人がやってくると、機会を見つけてはボルトアクションの銃にこれみよがしに銃弾を入れたりしていました。22口径は、ゾウ狩り用の404等と比べれば、“小学生”のようなものでしたが(とは言え、チャンドラー等のハードボイルド小説では、腕の良い殺し屋の専売特許でもあります)、「これがボルトアクションか!!」と思いながら、手入れだけ練習したものです。

 今思うと、ちょっとは試射ぐらいしても(タンザニアの役人だったわけですから)よかったのですが、貧しいタンザニアの国有財産を減らす気にもなれず、ただただ、セキュリティの一環として、「ここには銃があるよ!」というディスプレーのため銃の手入れだけしていた、というのが、もう30年近くたった昔の経験です。ここで皆さんをいたずらに脅すわけではありませんが、日本をいったん離れれば、それなりのセキュリティを考えるのが、いわば国際人の常識だということころで、いったん話を終えましょう。 

高畑ゼミの100冊Part9;食について#2『江戸たべもの歳時記』そして『仰臥漫録』

2009 12/21

 食についての本を続けましょう。

書籍番号#49:浜田義一郎『江戸たべもの歳時記』:Part8で紹介した池波正太郎が愛した“江戸の味”は、しかし、時代により、また浮世の流れによって、変わってもいます。例えば、庶民の食べ物、鮨はいつからあらわれたのか? なお、あらかじめのご注意ですが、この場合は古来東南アジアから中国、日本に広く存在する熟鮓(なれずし)ではなく(ちなみに熟鮓はRuddle先生のご本職の一部です)、またバッテイラ等の関西鮓等の押し鮓の類でもなく、あくまで江戸の握り鮨です。

 こんな疑問に取り付かれ、近世文学がご専門の浜田先生が怒涛のように薀蓄をかたむけるのが、この『江戸たべもの歳時記』です。川柳や挿絵、浮世絵を駆使したその成果は、

 鮓のめし 妖術という 身でにぎり(『柳多留巻108;文政12年、1829年出版、1827年成句)』

 握られて 出来て喰付く 鮓の飯(『柳多留巻113)』

 まで遡れることを発見します。浜田先生の得意や思うべし! どうやら、1810年頃に江戸で押し鮨から握り鮨への革命が起こり、それが15年ほど後に大阪にも波及したが、そもそもの元祖は深川六間堀の“松ずし”であったということです。平戸城主松浦静山公の名著『甲子夜話(書籍番号#50)』によれば、「値の高いことも無類で五寸の器を二重に重ねたものが三両もする」とあるそうです。

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 その一方で、当時はマグロは下魚、とくにトロのところなど葱と煮込んだ葱鮪鍋等、下層階級の食べ物だった由。天麩羅もまた、一個四文でサザエ等の貝をあげる屋台物で、それゆえ、

 てんぷらの 指をぎぼしに こすりつけ(『柳多留巻98)』

という有様だったとか。以下、いくつか川柳をならべてみましょう(2、3番目の句の意味はわかりますか?)。

 生玉子 醤油の雲に きみの月(『柳多留』巻118)

 何ごとで こうお揃いと そば屋いふ(『初代川柳評万句合安永』) → ヒント

  目も耳も ただだが口は 高くつき(『初代川柳評万句合天明』) → ヒント1ヒント2

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書籍番号#51:正岡子規仰臥漫録』:公方様天朝様に敗れて、江戸が東京に変わってから、いつしか時も過ぎた明治35年、四国松山の出で短歌・俳句の改革者、ジャーナリストにして国語学研究者、東大予備門では夏目漱石南方熊楠の同級生である獺祭書屋主人こと竹の里人こと香雲こと地風升こと越智処之助(おち ところのすけ)こと正岡子規が、結核性カリエスによる長年の闘病の後、命脈が尽きます。時世の句は「糸瓜咲てのつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」。

 その子規が身体も思うに任せぬ病床で書き綴った『仰臥満録』は、この鋭い知識人が生と文学への執着を、思いつくまま書き散らした稀有の書ですが、なんといっても印象的なものは、その日その日で彼が食い尽くす食べ物です。例えば、明治34年9月4日

朝 雑炊3椀 佃煮 梅干し 牛乳一合(ココア入り) 菓子パン2個  昼 鰹のさしみ 粥3椀 みそ汁 佃煮 梨二つ 葡萄酒一杯(これは食事の例なり 前日日記にぬかす)  間食 芋坂団子を買来たらしむ(これに付き悶着あり) あん付き3本焼一本を食う 麦湯一杯  晩 粥3椀 なまり節 キャベツのひたし物 梨一つ

 ここで、我々は明治35年、子規がココアを入手していたことを知り、また、西洋野菜のキャベツが庶民の暮らしにも浸透していたことに気付きます。一方、家族(母親と彼の看病のために離縁してまで実家に戻った妹の律)をも顧みず、過食の限りをつくす子規ですが、病が進むにつれて、 生に対する執着は口腹の働きをさらに一段と亢進させるとともに、悩みはますます高じて、

6日(日曜) 朝雨戸をあけしむるよりまた激昂す 叫びもがき泣きいよいよ異常を呈す(中略) 皆帰る 眠薬をのみて寝る けろりかんとして寝られず 翌午前3時を過ぎて僅かにまどろむ

 そして、彼はついに自殺を考え、手元の小刀に手を伸ばそうとするのですが、

やはり刃物を見るとそこから恐ろしさが湧いてでるような心持もする 今日もこの小刀を見た時にむらむらとして恐ろしくなったからじっとみているとともかくもこの小刀を手に持ってみようとまで思ふた よつぽど手でとろうとしたが、いやいやここだと思うてじっとこらえた心の中は取らうと取るまいとの二つが戦っていた

という心中の迷いで、かろうじて自死を思いとどまります。その後、彼は思いのほか、平静な心に戻り、やがて死へと向かいます。10月27日、彼は日頃、自らの看病に身を呈している母と妹を思いやり、仕出しの料理をとります。料理は

  • 会席膳に5品
  • さしみ(まぐろとさより) 胡瓜 黄菊 山葵
  • 椀盛 サヤエンドウ 鶏肉 小鯛の焼いたの 松茸
  • 口取 栗のきんとき 蒲鉾 車蝦 家鴨 煮葡萄
  • 煮込 あなご 牛蒡 八つ頭 サヤエンドウ
  • 焼肴 鯛 昆布 煮杏 はじかみ

 

 そして、彼は親友夏目漱石のロンドン留学からの帰国を待つことなく、薄幸とも、実り多いともいえる30代半ばの生涯を閉じるのです。このような食べ物への執着は、日本文学史上、永井荷風の『断腸亭日乗(書籍番号#52)』を経て、武田百合子の『富士日記(書籍番号#53)』へとつながっていくかもしれません。

高畑ゼミの100冊Part8;食について『檀流クッキング』等

2009 12/21

 フィールド紹介のブログでも“食べる”ことを紹介していますが、ここでは、“食”についての名作をいくつか紹介します。

書籍番号#45:壇一雄『壇流クッキング』:トップバッターは、誰が何と言おうとこの人です。太宰治の親友にして、同じく作家ですが、いわゆる“文化人”が食を作り、食べ、語ることを当然のこととするために、一生をかけたと言っても過言ではないかもしれません。そのシンボルが『檀流クッキング』です。たかだか230頁弱の文庫本のスペースに、一回1600字(サンケイ新聞に連載)で、春から夏、そして秋冬を経て、また春へ、季節をめぐる形で語られる93のメニュー(カツオのたたきに始まり、タンハツ鍋から、柿の葉ずし、カレーライス3種(西欧式、インド式、チャツネの作り方)を駆け抜けて、鶏の穴焼きに挑戦し、ショッツル鍋、ボルシチ、クラム・チャウダーをこなし、鯛茶漬け、パエリヤブイヤベース等を一廻りする)を見ていると、昭和30年代の高度成長期のある種の健康さを感じずにはいられません。

 その上で、爽快な文章を支えるのは壇のある種の個人主義、「あなたは自分の好みにあわせて変えてくれて構わない。食べるのはあなたなんだから」という食へのハードボイルドな思いです。そのためか、セリフをつい引用したくなります。例えば、「とにかく、自分で、おじけずに、作ってみることだ」「なーんだ。そんな簡単な料理かとおっしゃるかも知れぬ。しかし、簡単で悪いわけはないだろう」「あるものだけで結構だ・・・無い物はなくてすませるに限る」。

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書籍番号#46:邱永漢食は広州に在り』:檀一雄の友達でもあった、台湾からの亡命作家邱永漢は、「作る人」ではなく「食べる人」です。とは言え、『食は広州にあり』は、日本人から見ればいっしょくたに見える中華料理が、地域ごとに様々な料理が花開き、それぞれに繊細な世界があることを紹介したものです。と同時に、文中さりげなく、第2次大戦後に中国大陸から逃走してきた蒋介石政権に反対して、台湾独立運動をおこして指名手配、香港、そして日本に亡命してきた立場から、リアリスティックな第3者的な物の見方を教えてもくれます(とはいえ、大多数の日本人は、料理の描写に眼もくらみ、邱の深意をくみ取らなかったきらいがあります)。

 各章の小見出しも「一将功成ー華僑の冷飯嫌い」「返老環童-我ら杜甫の徒」「牛刀割鶏-包丁を買うまで」等、さりげない言葉のはしはしに、亡命民としての哀しみと誇りがにじんでいるような気もします。ちなみに、邱はある日、考案されたばかりの新商品を食べさせられ、「まあ、一つ35円くらいなら、売れるのではないか」とコメントしたのが、かの日清食品のチキンラーメン、持ち込んだ方はもちろん今は亡き安藤百福氏という伝説があります。ちなみに、彼のもう一つの顔は経営コンサルタントにして、株の名人、「金儲けの神様」と言われていました。

◆インスタントラーメン発明記念館のURL → http://www.nissin-noodles.com/

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池波正太郎『食卓の情景』(書籍番号#47)『散歩の時何か食べたくなって』(書籍番号#48):自ら作ることもありますが、それよりは口腹の徒に徹し、食の批評においてとことん自分の感性を信じた作家の一人に池波正太郎がいます。池波の小説の中では、登場人物たち(その中で最有名人は鬼平こと火付盗賊改め長谷川平蔵)はめいめいその心中に食へのこだわり(=己の自我)を秘めていますが、作者自らが、本人の思いをエッセイにまとめたのが、この2冊です。

わたしは決してぜいたくをいわぬが、なにしろ、(註:作家だから)家に引きこもって数日間、仕事をしつづけていると、食べることだけが唯一のなぐさめになってしまう」(『食卓の情景』)と記す著者は、毎日“惣菜日記”をつけ、何年か後にまたそれを開いて、日々の食に思いをはせます。例えば、

昭和42年12月9日 本日をもって銀座通りの都電廃止となる。都政の低劣、ここにきわまれり。[昼 12時]鰤の塩焼き(大根おろし)、葱の味噌汁、香の物、飯。[夕 6時]鶏のハンバーグ(白ソース)、グリーンサラダ、ウイスキー・ソーダ(2)、鰤の山かけ、大根とアサリの煮物、飯。[夜食 午後11時]更科の干そば

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 ホワイトソースを白ソースと呼ぶあたり、資生堂パーラーなどいわゆる和風洋食の世界にあこがれた子供時代を彷彿とさせながら、祖父母・母から伝わる蕎麦、鮨、鰻、さらには子供相手の一銭洋食に筆を伸ばすと思いきや、京都、長野の名物屋まで、その筆の範囲はとどまるところを知りません。そして、失われゆく江戸や初期の東京の情緒を懐かしみながら、時代の変化についてさりげなく(かつての永井荷風ほどではないによせ)文明批評を滲ませます。

  • 座敷女中のとりなしのよいこと、これも戦前をしのばせる。これこそ、鰻屋における接待なのであって、よけいなことはすべてはぶき、客の酒の飲み方、その分量に合わせ、をうまく食べさせようというやり方である。
  • つまり、浅草の[駒形どせう]にしろ、深川・高橋の[伊せ喜]にしろ、むかしから知られた泥鰌鍋の店では、うだるような夏の暑熱にも絶対に冷房の設備をせぬ。その暑さに汗をふきふき、熱い泥鰌鍋に向かうのが、味覚の本領だからである」(『食卓の情景』)

◆ 駒形どせう http://www.dozeu.com/および伊せ喜のURL http://www.dozeu-iseki.com/

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...