2010年1月
ライト兄弟とフォード:ベンチャービジネスにおける発明者、創業者、そして企業
2010 1/31
さて、先回の投稿では、モームの掌小説『会堂守り』を紹介しましたが、もう少しビジネス、とくに起業の話を続けましょう。
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モームが小説家として活躍し出す前後、19世紀から20世紀にかけて、産業革命後の技術革新は一群の起業家たちを輩出します。例えば、自動車。皆さん、メーカーの名前は何に由来するかというと、たいていが創業者の名前であることはご存じですよね。
1886年にはほぼ同じ時期に、ガソリンエンジンによる自動車の基本型を作ったカール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーは1926年に会社を合併、ダイムラー・ベンツ社として1998年にクライスラーと合併するまで名前を残してきました。
日本でも、日産とダイハツ、いすず等を除けば、トヨタ(豊田喜一郎)、ホンダ(本多宗一郎)、スズキ(鈴木道雄)、マツダ(松田重次郎)と創業者の姓が目白押しです。それでは、このような成功を必ずしも納めることができなかった発明者・起業家がいるでしょうか? 会社の起業等に興味がある方は、そのあたり(つまり、成功者よりも失敗者の例に)学ぶのもまたおもしろいかと思います。
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その点で、まっさきに頭に浮かぶのは“ライト兄弟”かもしれません。1903年12月17日、アメリカ東海岸の荒涼としたキティホークで260mの飛行に成功した時、兄弟たちにはその後どんな人生を送る羽目になるのか、想像できなかったかもしれません。
自転車屋を経営しながら、科学者のように仮説と実験を積み重ねて人類初の飛行成功に至ったライト兄弟は、大学で学んだ経験こそありませんが、研究者の鑑とも言うべき存在です。
その一方で、彼らはもちろん、時代精神のもと、飛行機製造によるビジネスも考えます。世界最初の実用機は、彼らがアメリカ陸軍(当然、空軍というものはそもそも存在しませんでした)に売り込んだアメリカ陸軍1号機です(1909年8月2日のことで、価格は3万ドルだったとのことです;http://www.wetwing.com/wright/history/history.html)。
しかし、ビジネスの世界では、(後で述べるフォード同様)あまりにも競争相手が多く、かつ、カーチスのように半ば不正な手段まで使っても、“飛行機”についてのライト兄弟の特許を認めまいとする者もいて、訴訟合戦になってしまいます。
その訴訟に、ライト兄弟の業績に「体面を傷つけられた」スミソニアン協会の大立て者チャールズ・ウォルコットも反対派として加わり(ひそかにカーチスに便宜と資金を提供していたと言われています)、金と名誉がからんだこの争いに、ライト兄弟は次第に疲弊して、ビジネスどころではなくなります(この経緯はかなり複雑で、Wikipediaの『ライト兄弟』の「飛行成功後の苦悩と闘い」等をご参照下さい)。
まさに「知財」に関する実例ですから、ベンチャービジネスに興味がある方は、是非、ご存じいただきたいところでもあります。
ちなみに、カーチスが起業したカーチス・エアロプレーン&モーター社は相当の成功をおさめます。そして、1929年、ライト兄弟が創設したライト・マーチン社(1909年ライト兄弟によって設立、1915年売却、1916年マーチン社と合併)等と総計12社が合併、カーチス・ライト・コーポレーションになります。
このカーチス・ライト社は第2次大戦では戦闘機P-40、輸送機C-46等を量産したのち、第2次大戦後はコンポーネント・メーカーに転進、現在も活躍しているとのことです。このように“ライト”の名前は、生前、激しく争ったライバルとの合併を経て、今日まで残るという皮肉な結果になりました。
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一方、発明家というより、それをいかに大衆のものとするか、またそれにはどんな生産システムが適しているか、そのあたりをとことん追求した結果、ビッグ3の一員として生き残ったフォード・モーターこそ、創業者の名前を冠した(そして、現在でも創業者が株を握って支配している)企業です。
創設者のヘンリー・フォードは強烈な個性の持ち主でした。高等教育を受けず、10代から働き始めた彼は、エジソン照明会社のエンジニアとして時間的余裕と資金を得て、自動車の製作に没頭します。そして退社、多少の紆余曲折を経て、1903年にフォード・モーターを設立、1908年に記念すべきフォード・モデルT型を発売します。
科学的管理法のもと、流れ作業の採用による大量生産システム(フォード・テイラー・システムとも呼ばれます)で実現された低価格(850$)は、第一次大戦後の好景気に支えられ、アメリカの大衆に圧倒的な支持を受けます。
その結果、いわばアメリカ資本主義のシンボルとしえ、1908年に発売、1927年に製作中止になるまで、モデルチェンジ無し、色は黒一点張りで、総計1500万台を生産したと言われています(まるでクローンですね。フォーディズムの理想は実は“クローン”にあるのかもしれません。部品も車体も互換可能、もちろん、社員も[=あなたも私も]互換可能!)。
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フォードは資本家として、労働者の生活向上にも手をつけます。1日8時間労働、日給5$の保証という労働者への利益還元をはかり、その労働者が自ら生産する自動車を購入することで、生活をさらに豊かにする。この向上スパイラル的システムこそ、資本家としてのフォードの理想像であり、いわゆるフォーディズムのベースです。
近年、中国国内での工業生産が増えることで、中国の国内労働者の収入が増え、中国が“工場”から“市場”へと転換しつつある様を注目すれば、フォードの先進性もご理解いただけるかと思います。
もちろん、このフォーデイズムは片方で、非熟練工による単純労働の強化の側面が強く浮き出ています。
労働者自身の結束=組合運動を嫌ったフォードは、まぎれもなくある種のパターナリズム(父権主義、温情主義)の権化であり、その点では家族や経営陣も含めて、周囲にとって“困ったちゃん”でもありました。
そんなあたりについて、単純労働の強化の点をあからさまに批判したのは、チャーリー・チャップリンの映画『モダン・タイムズ』でしょう。また、彼のパターナリズム的側面、一種の“教祖”的側面を風刺したのが、イギリスの作家オルダス・ハックスレー作の生殖さえも国家が支配する近未来社会小説『すばらしい新世界』です。
この小説では、西暦(キリスト紀元)は廃止され、T型発売を元年とするフォード紀元暦が使われています。そして、人々は「わが主フォード様」と唱えるのです。
当然、そのしっぺ返しもあるわけで、自分が愛したT型に執着するあまり、新製品を出したGMに売り負けて、それ以来ずっとNo.2に甘んじてしまいます。また、フォーディズムにおいても、反組合主義や孤立主義的な主張は批判を受けました。
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フォードはまた、フォーデイズムの一大教祖として、自ら語る資本家でもあり、Wikipediaには、
薪は自分で切れ、そうすれば2倍暖まる」とかには「奉仕を主とする事業は栄え、利得を主とする事業は衰える。
ほかの要因はさておき、我々の売上は、ある程度賃金に依存しているのだ。より高い賃金を出せば、その金はどこかで使われ、ほかの分野の商店主や卸売り業者や製造業者、それに労働者の繁栄につながり、 それがまた我々の売上に反映される。全国規模の高賃金は全国規模の繁栄をもたらす。
等のありがたい言葉が紹介されています。とくに二つ目のセリフこそ、フォーディズムの骨子でありましょう。
こんな言葉を引用していると、なんとなく“カツマー本”になってしまいますが、「おう、フォード様」(『すばらしい新世界』より)とばかりにフォードを信じるにせよ、嫌うにせよ、無視できないキャラであることだけは確かです。
ベンチャービジネスとサマセット・モーム:高畑ゼミの100冊番外編
2010 1/30
今回は、高畑ゼミの100冊番外編(ビジネス関係)として、「起業」について、少し触れたいと思います。本日のテーマは、「起業」と聞くたびに思いだす小説、サマセット・モームの『会堂守り』です。
モームについては、“総政の100冊”で、後期(ポスト)印象派の画家ゴーギャンをモデルとした『月と六ペンス』を紹介しました(“アート”がお好きな方は、是非、お読みください。一方、“美”とか“芸術”に関心があまり関心が無い方には、それほどお薦めはできない本かもしれません)。
モームは1874年生まれ、まさに“世紀末”に物心つき、19世紀後半の耽美主義の影響を受けました。その一方で、進行しつつある20世紀社会へも、やや斜に構えながらも深い関心を抱きます。そんな複層的な視点が、彼を人気小説作家に育て、Wikipediaの表現を借りれば「平明な文体と物語り展開の妙で最良の意味での通俗作家として名を」なさしめたと言えそうです。
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医学生として出発しながら、ロンドンの貧民窟での診察体験をベースとした『ランベスのライザ』で作家として出発し、フランス生まれゆえ英語よりフランス語が上手だった育ちから、フランス、スペイン、イタリアに渡り歩き、果ては東南アジアや中国、太平洋に足を延ばす(『月と六ペンス』の主要舞台はパリ、マルセイユ、そしてタヒチです)。ちなみに、彼の名前を冠した文学賞『サマセット・モーム賞』の賞金は、「外国旅行に使うこと」という条件があるそうです。
第一次大戦ではイギリス諜報機関MI6に所属(007並ですね。ちなみに、モームが晩年日本を訪れた時には、MI6の後輩にあたる『007』の原作者イアン・フレミングが一緒だったと聞いています)、最後はロシア革命を阻止すべく(!)、革命前後のロシアにも渡ります。自伝的著作『要約すると』では、以下のように述べています。
「使命は反政府党と接触し、ロシアに戦争を継続させ、「中間派」に支持されているボルシェヴィキが権力を握るのを防ぐ方法を、考えることにあった。この使命を、わたしが残念ながら失敗したことは、いまさら読者に報告する必要もないし、もし、わたしが6か月前に派遣されていれば、かなりうまく成功することに、少なくとも可能性はあったように思うと、いってもそれを読者に信じてくれとは言わない。ペテログラードに着いて三ヶ月後、例の崩壊がおとずれ、わたしの計画はすべて画餅に帰した」
国際関係に興味がある方は、この一文を読むだけで、事情を把握できるぐらい、ロシア→ソ連→ロシアの変動をお勉強下さい。さもないと、国際政治の舞台には立てません(と脅しておきましょう)。
この過程で、モームは臨時政府の首班で戦争継続派のケレンスキー(結局、ボルシェヴィキに打倒されてアメリカに亡命)や、セルギュウス大公暗殺等の主導者にして臨時政府の首脳の一人だったテロリストのサヴィンコフ等、“実に異常な人物”たちと出会います。そのあたりの生々しい印象は『作家の手帳』に活写されています。
さて、第一次大戦も終わり、狂熱の1920年代、アメリカの雑誌“コスモポリタン”誌の編集長は、(当時の欧米の常として)経営のために並べた広告記事の隙間に、記事が埋もれている現状に改善するためのアイデアとして、広告なしの左右見開きのページのスペースで、読み切りの超短編小説=掌小説を書くことをモームに依頼します。その連載小説を編んだものが短編集『コスモポリタン』です。実は、ここまでが話のマクラです。
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“腕達者”と揶揄されていたと自ら語るモームが、きわめて限定された『コスモポリタン』の原稿に作家としてのスキルを注ぎ込んだことは想像に難くなく、作品は『約束』、『物識先生』等、いずれも劣らぬ逸品ぞろい。その中で、映画化もされたという『会堂守り』は、以下のような筋書きです。
ロンドンはネヴィル・スクウェアにある聖ペテロ教会に、一人の老会堂守り(=教会の執事+守衛さんのようなお仕事)が長年働いていました。彼、アルバート・エドワード・フォーアマンは実は文盲で、サインもできないのですが、長年つかえていた老牧師は「かえって、世間には、教育をうけた方が多すぎて、困る」と口癖のように言っていました。
ところが、その老牧師が亡くなり、若いやり手の牧師が赴任、なんとなく肌合いの違いを感じていた彼ですが、ある日、その牧師と教区委員の連中に呼び出され、「文盲とは本当か? それでは、由緒正しいこの教会にふさわしくない。文字を覚えるか、それとも辞めてもらうか、どちらかにしてくれ」と迫られます。
かねて、新しい牧師に違和感を覚えていた彼は、いさぎよく「いまさらこの年で文字を覚えるより、身を引かせていただきましょう」と応えるのですが、さすがに心も揺らぎ、帰り道、日ごろは禁酒禁煙を旨とするものの、心を落ち着けるための気散じに一服しようと、夜も更けた街でタバコ屋を探します。ところが、タバコ屋が見つからない。
「こんな長い通りなのに、タバコ屋が一軒もないとは不便だな。タバコが欲しいのは、なにもわしだけでもあるまいに」と独りごちた瞬間、彼は突然思いつきます(もう、皆さん、結末まで想像できますよね。何しろ、英語版では雑誌見開き2ページなのですから)。
家に帰った彼は、暇を見つけてロンドンのストリートを歩き、長い通りにタバコ屋がなく、かつ、空き店舗のあるところを選んでタバコ屋を開業します。「会堂守を勤めた身で、何もタバコ屋まで」と嘆く奥さんを、「お前も時勢に合わせなければいけないのだから」となだめ、最初の店が成功すると、次に同じようなストリートを探し、そして・・・・
いつの間にか、タバコ屋チェーンを作り上げた彼に、なじみの銀行頭取が投資を申し出ます。細かなことは銀行に任せて、あなたはサインをすればよいだけだから、と口説かれて、それでもためらう彼はついに「自分は、サインもかけない文盲なので」と白状すると、頭取は「これはどうも、意外千万で!」と叫び、
「では、読み書きもできないで、あれだけの立派な店を築きあげ、そのうえ、3万ポンドの身代を作られた、こうおっしゃるんですか? もし読み書きができたら、それこそいまごろ、あなたはどんなに出世なすっていることか!」と驚く銀行家に、フォーアマンは微笑しながら、
「きっと、いまごろでもまだネヴィル広場の聖ペテロ教会で、会堂守りをしていたことでしょうな」と応える=これがこの掌編のオチです。
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さて、この話の本質はわかりますね。
- (1)発想の転換(突然の失職からの立ち直り)
- (2)(まだ誰も気付いていない)潜在的ニーズからビジネスプランをたてる
- (3)市場調査を実施(丹念にロンドンのストリートを歩く)
- (4)堅実に事業を立ち上げ
- そして(5)拡大
これぞ、起業のあるべき姿ではないでしょうか。
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“統計”とは何か? アフリカで感じたこと;国際援助の現場から#6
2010 1/24
「アフリカで感じたこと」を少し続けましょう。
私が滞在していたタンザニアは、当時アフリカ社会主義を標榜として、ある意味では第三世界を象徴する存在でした。しかし、現地に行けば、「少なくともアフリカでは社会主義政策の実行は難しい」と感じざるを得ません。そう感じた理由は何より、統計ができていないことです。
その国にいったい何人が住み、その人たちがどのぐらいの食料を必要として、どの程度のエネルギー資源がなければいけないか・・・・すべては統計を取らなければいけない。でなければ、計画経済などうまくいくはずがない(“近代経済”の先生なら、「統計が整っていても、計画経済などうまくいくはずがない!」とおっしゃるでしょうが、そこはおいといて)。
しかし、この混沌の大地で、いったい誰が統計をとれるのか? 国境を自由に行き交い、法的には密輸出入を繰り返し、あまつさえ越境して結婚し、子供を産んでしまう人たちを、誰が把握するのか?
それを考えると、“国連統計(http://unstats.un.org/unsd/default.htm)”を初めてとして、Webに膨大な資料が掲載されていますが、はたしてあれは正しいのか? とくに、アフリカにおいて、いったい誰が“数える”のでしょうか?
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もちろん、先進国では統計は整備され、かなりの程度は把握されているでしょう。それでも、例えばGDPに対して地下経済の比率は「ユーロ圏で15%、英国で3~15%」と推定されていると言われています(Wikipedia「地下経済」)。つまり、国家が把握しきれぬ世界がそれだけ広がっているのです。
その一方で、忘れてならないのは国家統計とはそもそも、近代国家において徴兵制等を施行する際の基本資料として整備されたものであり(統計を参照)、日本では明治期の壬申戸籍が人口統計の出発です。つまり、人口統計や国勢調査は、本来、国家権力による国力の把握のためにおこなう政治権力の行使ともいえます。
もっとも、フランスで17世紀、ルイ14世の治世下、優秀な軍事官僚(要塞を築くこと、ならびにその要塞を攻め落とすことのどちらにも達人という、まさに“矛盾”の固まりのような)として出発したヴォーバンが、フランスの戦力を把握するために統計を駆使して国勢調査をおこない、その結果、フランス人民が疲弊している現状に気づき、これを改善するための案(『王室の十分の一税』, Projet D’une Dixme Royale)を作成したため、ルイ14世の怒りをかって失脚するという出来事さえ出来します。
こうして、近代統計はいやおうなく我々の生活を把握していきます。ヴォーバンからほぼ一世紀、ドイツの文豪にして、自然科学者でもあったゲーテが、20ヵ月にもわたる旅行記録『イタリア紀行』で、いよいよローマに近づいた1786年9月11日、ボーツェンの町について以下のように書きつけるまでになります。
「私はここで全部まとめて見られる産物をすっかり調べてみたくてならなかったが、・・・・追い立てられる気持ちが・・・・私はすぐにまた出発をする。それでも統計ばやりの当今では・・・・ものの本によって調べることもできると思えば、気が休まるというものだ。しかし、現在の私としては、本でも絵でも与えてくれない感覚的印象が大事なのだ」
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さて、問題は、Webや紙の上で得られる統計データを使って(とくに第三世界の現状を)解釈する時、その解釈が果たして正しいのか、それとも何かの間違いがないのか? 紙上のデータを解析した結果に、あなたはいつも自信を持って何かを主張できますか? ということにほかなりません。
例えば、ある研究者の方が、アフリカのある国の食料統計を紹介して、内戦状態の時に、食料生産の量が激減しているグラフをつくり、「やっぱり、戦争でこれだけ生産が落ちています」ともっともらしく言ったとします。
これは本当かもしれません。しかし、アフリカで暮らしたことがある人間にとっては、「それは本当に田舎まで戦争の巻き込まれて生産が落ちたのか?」、それとも「戦争のため、食料が田舎から集まらなかっただけで、田舎での食料生産は落ちなかったのではないか?」、さらに「統計局の機能が麻痺して、食料生産のデータがとれなかっただけではないのか?」
このどれか、あるいはどちらもか、つい考えてしまいます(ついでに言い添えると、アフリカの都市は生産から切り離されていると、経済の急変や内戦の勃発等に対して、きわめて脆弱な存在なのです)。
また、政府統計に出てこない地下経済がどのぐらいあるのか? これをどうやって知るのか? 有名なアネクドート(小話)に、第2次大戦敗戦後、首相の吉田茂とGHQのマッカーサー元帥のやりとりがあります。
吉田の「緊急に450万トンの食料を輸入しないと、餓死者がでる」との要請に、アメリカは70万トンしか手配できなかった。当然、多数の餓死者が・・・と思ったら、実際にはそんな事態は起きなかったのです。
これを知ったマッカーサーに日本の統計のでたらめさを難詰された吉田は、「当然でしょう。もし日本の統計が正確だったらむちゃな戦争などいたしません。また統計どおりだったら日本の勝ち戦だったはずです」と返答して、マッカーサーを笑わせたという話です。
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総合政策の皆さんは、是非、統計スキルを身につけられるとともに、フィールド体験を積み重ねることで“資料を解釈する眼”を鍛えること、この二つをあわせてお奨めする次第です。
とともに、やはり“統計”は大事です。何人の人がいて、どのぐらいの食料や物資が必要か、即座に判断するためにも、権力者(例えば、上述のルイ14世)が必ずしも知りたくない/知らせたくない“真実”を知ることこそ、パワーの源の一つなのです。
“国境”とは何か? アフリカで考えた事:国際援助の現場で#5
2010 1/23
今回は、“国境”とは何か? という話をしたいと思います。アフリカにいた3年間、私はタンザニアとザイールの国境地帯に暮らしていたため、絶えず、“ボーダー”を意識せざるをえませんでした。
実を言えば、“国境”を論じることは、“境(境界)”を議論することです。“あれ”と“これ”を分ける境は何なのか? 国境以外にも、我々のまわりには、“境”はいたるところにあります。なぜなら、それは分類の基本だからです。そして、我々は絶えず、そもそもどんな基準で“境”を決めているのか、自省することが重要です。
例えば、“男”と“女”。XY染色体によるデジタル的な分類で方(かた)がつきそうですが、とてもそんな簡単な話でないことは、“性同一性障害”等をご存じの方は納得されるはず。生物的視点からジェンダー論的視点まで、様々な形の性が存在し、かつ性のマイノリティは絶えず多数派から圧力を受け続けてきたのです(性同一性障害(GID)学会のHPのURLはhttp://www.gid-soc.org/)。
話題が“国境”からずれたかもしれませんが、このようにあるモノと別のモノを区別する、そんな簡単そうに見えることさえ、おぼつかなくなっているのが現代であるともいえるでしょう。
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それでは、例えば、日本列島は海に囲まれ、その境界は明確なはずです(こうした国境を自然的国境と呼びます)。それでも、周辺地域がどこまで“日本”なのか? 様々な係争の地があることに気づきます。どこまでが“日本”で、どこからが“外国”なのか?
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「外ケ浜 今日からは日本の雁ぞ楽に寝よ」
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現青森県津軽半島の外ケ浜を、日本の北の境界と見立てて、雁の群れを詠んだ小林一茶の句(『日本の歴史14周縁から見た中世日本』より)
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実を言えば、古代から近世にかけて、多くの“国家”では周辺地域を曖昧にしてきましt。例えば、北海道(蝦夷地)は本来先住民(アイヌ)の人たちの土地(アイヌモシリ=人間が住む土地)だったわけです。江戸幕府は、ロシア帝国が南下政策をとるまで、“国境”を意識したことはなかったと言われています(吉田伸之『日本の歴史17 成熟する江戸文化』講談社)。
つまり、当時は、北海道は“緩衝地帯”として存在していたわけです。しかし、やがて“外圧”によって、そんなあいまいな存在は許されなくなった。なおかつ、その事態に対応する能力に欠けていることがあからさまになった=これが江戸幕府が倒れた究極の理由ともいえるでしょう。
◆ちなみに、そのアイヌ民族はどのように成立したかというと、縄文時代は縄文文化として本土と文化的につながっていたのが、大陸から弥生文化が伝わって以降、次第に続縄文文化、擦文文化と変化して、やがて 13世紀頃(鎌倉時代)頃にアイヌ文化が成立したと推定されています。つまり、アイヌ民族は、人類500万年の歴史全体から見ると、非常に新しい文化なのです。
アフリカでもそうですが、民族決して固定的なものではなく、流動や融合、分離等によって絶えず動いている存在だということは覚えておいてください。国立科学博物館バーチャル・ミュージアム「はるかなる旅展」:http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/
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境界の曖昧性は、李氏朝鮮王朝と日本の境界にある対馬にもいえます。現存する最古の朝鮮図『八道総図』(1530年)では、対馬を朝鮮の一部として地図にいれています(大石直正他『日本の歴史14 周縁から見た中世日本』講談社)。また、室町時代より、対馬の実効支配者である宗氏には、朝鮮王朝から「宗氏都都熊瓦」の印信が与えられ、“領域外の臣下”という形をとります。
さらに、中国と日本の間でも、鬼界ヶ島、奄美、沖縄諸島、宮古・八重山と連なる列島の主権、あるいはどこが境界なのかをめぐって、薩摩藩の琉球侵攻(1609)から、ペリーによる浦賀来航前の寄港等を経て、明治政府による琉球処分が展開します。
そんな経緯を経ても、さらに最終決着がつけられない土地(北方領土、竹島、尖閣諸島)等があることこそ、“国家”とは何か、“国境”とは何かに思いを巡らし、そして我々は何者なのかを自省する良い機会ではないでしょうか?
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“日本”でさえも、“境界”があいまいな現代、アフリカでの“国境”とは何でしょうか? 私が滞在していたマハレ山塊国立公園は、タンザニアとザイール(現コンゴ民主共和国)の国境であるタンガニイカ湖の東岸にありました。対岸はザイールになりますが、雨期に入って大気中の埃が雨で落ちると、40-50km離れた対岸のザイールがくっきりと見えます。住民にとっては自転車のような存在であるカヌーをこげば、誰でも行き来できる距離なのです。
事実、東岸と西岸に住む住民同士は言葉が十分通じあい、日常、それぞれの国に不足するもの(ザイールからビールや大衆雑貨、タンザニアからはナショナルの技術で作られていた乾電池や煙草(たぶん、政府の物資の横流し)を持って往復していました。近代法の立場から言えば、これはすべて不法入国(みんな、パスポートなど持っているはずもない)、密輸出入(関税を払うはずもない)なのです。
時には、湖を隔て縁組まであります。私のいる間、ザイールから女性がやってきてタンザニア人の男性と結婚(イスラームなので、その男性にとっては2番目か、3番目の結婚でした)しましたが、結婚しても別に役所に届け出るわけでもなし、やがて女性が妊娠したので、周りの連中に、
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「生まれてくる子は、いったいどっちの国籍になるんだね?」と尋ねると、
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「どっちの病院で産むか、だな。タンザニアの病院で生まれれば、そこで出生証明書をくれるからタンザニア人になる。ザイールの病院で産めばザイール人になるだけさ」
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としごくもっともな回答でした。それでは、タンガニイカ湖を国境とした意味はあるのか? もちろん、皆さんはご存知ですよね。それは1884~85年のベルリンで開催されたベルリン会議で、ドイツ(タンガニイカを植民地として確保)とベルギー(当時のコンゴ植民地を確保)の間での、領有地の境界の手打ちとしてのみ意味があったわけです。
もっと広い視野でいえば、参加14カ国(イギリスからオスマン・トルコまで)の間で、アフリカ大陸の植民地分割の原則を定めることに意味があるわけで、そこでどんな民族がどんな生活をしていようと、知ったことではなかったわけです。
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タンガニイカ湖は湖ですから、自然境界でもあり、それなりに納得できるところも無いわけではありません。しかし、例えば、ケニアとタンザニアの国境はきわめて機械的に直線を引いただけなので、遊牧民として有名なマサイの人たちは両国に引き裂かれてしまいます。もちろん、マサイの人たちいとってはそんなことはまったく無意味ですから、家畜をつれて両国の“ボーダー”を自由に行き来する権利を主張しているわけです。
こうした状況が民族と国家の整合性を危うくして、民族対立・紛争になりかねないことは皆さんもご理解できるでしょう。その最たる例が、ソマリ民族の居住地域と独立国家としてのソマリアの領土が必ずしも一致しないことから生じた、ソマリアとエチオピアの戦争(オガデン戦争)であり、さらにその後に勃発して現在も続くソマリア内戦、そしてその余波ともいうべきソマリア沖の海賊ということになります。
ところで、アフリカ研究者の立場から言えば、ソマリア内の内戦でソマリア人が何人死のうとあまり関心を払わなかった先進国が、ソマリアの海賊やアルカーイダの浸透等で自分たちにも被害が及びそうになったとたん、あわててソマリアに注目するという状況は、まったく勝手なものに映ってしまいます。
その一方で、タンガニイカ湖のほとりに暮らしていると、やがて現在の国境をとりあえずは認めるしかない、とも思います。これを変更しようとしたり、撤廃しようとすれば、また争いがおこり、人が死ぬ。現状をとりあえず認め、その中で人々の暮らしが立っていく道をまず考える。そして、EUで進んでいるように、国家を認めながら、人々の自由な行き来を保障するような仕組みを次第につくっていくしかないのではないか、という気になっています。
総政100本の映画Part7:映画を作っている人たちについて
2010 1/17
さて、総政100本の映画の続きです。
映画は誰が、誰のために作るのか? そんなことを考えた事はありませんか? 例えば、ハリウッド映画とは、誰が、誰に見せるために、誰に作らせたものでしょう?
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まず、映画製作にどんな人が携わるか? 一番”偉い”のはプロデューサー(製作者)です。作品の企画・立案・運営を手がけます。次が監督(ディレクター)でしょう。企画として映画作品を論じればプロデューサーが、芸術として論じればディレクターが主役になります。このほか、最近、映画の終了時に延々とクレジットが流れるように、原作者、脚本家、撮影、照明、録音、美術、音楽、衣裳、編集・・・・・とかくも多くの方々の協同作業でなりたっています。
かつてのハリウッドでは、ほとんどすべての権限を掌握していた製作者たちを、日本の“将軍”になぞらえて“タイクーン”と呼んでいました。1920年代小説『グレート・ギャツビー』で名をはせながら、1930年代に妻ゼルダが精神を病み、窮乏した作家スコット・フィッツジェラルドはその晩年(といってもまだ44歳)、ハリウッドに脚本家として雇われ、かの地で亡くなるのですが、その未完の遺作が『ラスト・タイクーン』です。
そのタイクーンたちの中でも、20世紀フォクス社の創設者の一人であるダリル・ザナックはもっとも過酷なタイクーンとして恐れられたそうですが、彼の口癖は「オレが話し終わるまでYesと言うな」、つまり「No」と拒絶されることなど、はなっから想定していないわけです。
もちろん、一人で何役もこなす人もいます。古くはチャーリー・チャップリンが有名で、『モダン・タイムス』では製作、監督、脚本、主演、音楽を兼ねています。そういえば昔NHKで、塩野七生がイタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニに単独インタビューで、若い時何になりたかったかと尋ねると、フェリーニは以下の(うろ覚えですが)怪気炎をあげていたのを思い出します。
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「画家にもなりたかったし、作曲家にもなりたかったし、劇作家にもなりたかったし,.......何にでもなりたかった。でも、今は後悔していない。(映画人として)みんなやっているんだから!!」
最近でも、クリント・イーストウッドなどは、ヒラリー・スワンクに2つめのアカデミー主演女優賞を、モーガン・フリーマンに助演男優賞をもたらし、作品として作品賞と監督賞を獲得した『ミリオン・ダラー・ベイビー』(映画編Part2の#27)で監督、出演、音楽を担当しています。
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さて、ここまでが前置きです。実は、初期のハリウッド映画の作り手は必ずしも生粋のアメリカ人ばかりではありません。若い国でしたし、“映画”という怪しげな新商売に手を出すのは、決してエスタブリッシュがすることではない=それは初期の歌舞伎も同じかもしれません。映画を対象として社会学的に調べようというのなら、そんな視点も興味をそそります。
三田にあるシネコン、ワーナー・マイカルを例にとりましょう。ワーナーは1923年に設立されたワーナー・ブラザーズ・ピクチャーズに由来しますが、ワーナー兄弟はポーランドからのユダヤ系移民です。また、もう一つの大手、MGM映画はユダヤ系ポーランド移民のサミュエル・ゴールドウインとユダヤ系ロシア移民のルイス・メイヤーらが作った映画会社が合体してできました。
その下で活躍したプロデューサーの一人が、ユダヤ系東欧移民の子アーヴィング・タルバーグで、上述の『ラスト・タイクーン』のモデルといわれています。Wikipediaのアメリカ映画の項目には「米国の映画産業を作り上げたのは主にユダヤ人の移民だった。ユダヤ人は他の仕事には迫害を受けており、映画という新しい娯楽ビジネスに注目したのである」とあります。
監督でも、ドイツからエリッヒ・フォン・シュトロハイム、エルンスト・ルビッチ、スタンバーグ、スェーデンからヴィクトル・シェストレム、オーストリアからワイルダー等が移住してきたり、呼び寄せられたりします。前述のチャップリンはイギリス生まれのボードビリアンでしたが、アメリカに流れて、他の3人の映画人(カナダ生まれのメアリー・ピックフォード、コロラド出身のダグラス・フェアバンクス、そしてケンタッキー出身の映画監督グリフィス)とユナイテッド・アーティストを設立します。ヒッチコックもイギリス出身です。
俳優でも、二枚目として一世を風靡したヴァレンティノはイタリアから、モーリス・シュヴァリエはフランスからの移住者です。また、フランケンシュタインを演じたボリス・カーロフはイギリスの、そして『魔人ドラキュラ』でドラキュラのイメージを一新したベラ・ルゴシはハンガリーの出身です。
さらに上述のワーナー兄弟が雇ったエロール・フリンはアイルランド系オーストラリア人、最近ではアントニオ・バンデラス、ジャン・レノ等もヨーロッパから渡ってきた人たちです。 女優陣も、ポーランド出身のポーラ・ネグリを筆頭に、グレタ・ガルボ、マレーネ・ディートリッヒ、オードリー・ヘプバーン等。
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こうしてアメリカのエスタブリッシュメントであるWASPどころか、アメリカ出身でさえなかった製作者が、こちらも外国出身だったりWASPではない監督、あるいは俳優を使って、アメリカン・ドリームをふりまく作品を作り、その作品を外国移民や非WASPの人たちがいわばアメリカン・ライフのお手本として画面に見入る(=感情移入・同一化していく)、それが初期のアメリカ映画の本質だったのかもしれません。
註:もっとも、そうやってハリウッドに呼ばれた監督・俳優でも、ハリウッドで売れなければ、使い捨てにされる。そうした資本主義の街でもあります。スウェーデンからガルボとともに“輸入”されながら、ハリウッドになじめなかったマウリッツ・スティッレル、ディートリッヒとともに立て続けにヒット作を生みながら、結局は使いつぶされるスタンバーグ、『トラ、トラ、トラ』で解雇された黒澤明、『蜘蛛女のキス』の成功で招かれながらハリウッドに落ち着けなかったヘクトール・バベンコ等が好例かもしれません。最近の女優なら、スペインのペルモ・アルモドバル監督の作品で注目されてハリウッドに渡るも、結局スペインに戻ったペネロペ・クルスがあげられます。
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初期のアメリカの映画館は入場料が5セント=ニッケル硬貨1枚で楽しめるため、通称“ニッケル・オデオン”と呼ばれましたが、貧しい移民こそが対象であり、上映されるアメリカン・ドリームに見いていたのです。同時に、ハリウッド映画は全世界で上演され、非アメリカ人に対してアメリカ文明を宣伝するものでした。映画自体は素晴らしいけれど、それを別の視点でみれば、こんな風にも見える、と今日はそんな話で締めくくっておきます。
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母語、共通語、公用語、...言語政策についてPart1;国際援助の現場から#4
2010 1/15
総政の学生の皆さんは、ほとんどが日本列島系日本人(=日本列島にもともと住んでいた人たちの遺伝子を引き継ぎ、かつ日本国籍の方)ですから、日本語と学校で習う英語ぐらいが親しい言語かと思います。
一方、アフリカでは「最低でバイリンガル、できる人は何カ語でも」が当たり前です。まず、母語(民族の言葉)、そして共通語(隣の民族とも話せる言葉=リンガフランカ)、さらに学校等でヨーロッパ系言葉を習えば、3、4...と加速度的に言葉が増えます。
随分昔になりましたが、京都で仕事をしていた頃、研究室の先輩がザイール(現コンゴ民主共和国)の客を連れてきました。
ヨーロッパ留学経験者で英語、フランス語、ドイツ語が話せ(あともう一つぐらい話せたようです)、ザイールの共通語であるリンガラ語とスワヒリ語ができ、それに母語(民族語)も加わりますが、日本語だけ話せない。
同じザイール出身の京大の留学生と一緒に出迎えましたが、こちらはリンガラ語と英語と日本語はできるが、スワヒリ語は話せない。
私の先輩はフランス語とリンガラ語と日本語はできるが、スワヒリ語は駄目。
もう一人大学教員がいましたが、彼はリンガラ語もスワヒリ語も駄目で、フランス語は話せる。
私は英語は苦手で、フランス語とリンガラ語はまったく知らず、スワヒリ語は話せる。はっと気づくと、5つ以上の言語が飛び交っているのですが、誰一人、すべての言語をカバーしている人間はいない、という状況でした。
◆註:そう言えば、フレデリック・フォーサイスの『戦争の犬たち』(『基礎演習ハンドブック』で紹介しておきましたが)でも、クーデーターのため集められた傭兵たちが、それぞれ出身国も違うため、全員が共通に話せる言葉はないという設定ではなかったでしょうか?
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それでは、まず、共通語について:共通語は、いろんな歴史を背負っています。たとえば、スワヒリ語は奴隷貿易の際に、商人が話すアラビア語と、彼らが扱う商品であるアフリカ人が話すバンツー語が交じり合ってできたクレオール語です。
したがって、タンザニアのザンジバルを中心とした奴隷貿易で活躍した商人たちが進出したところまで通用します。奴隷商人のおかげで意思の疎通ができるというのも、なんとなく哀しいですね。
◆註:言語地図:次のサイトで国や言語名等で検索できるようです(English version): http://www.ethnologue.com/web.asp。
例えば、私がアフリカで付き合っていたトングウェ語:http://www.ethnologue.com/show_language.asp?code=tny
タンザニアの言語地図:http://www.ethnologue.com/show_map.asp?name=TZ&seq=10
一方、インドネシア語はどうでしょう? 1978年にスマトラに行った時は、まず『インドネシア語4週間』という本を買って、多少勉強しました(もっとも、その翌年からのアフリカ行きで、インドネシア語のにわか勉強はお仕舞になりましたが)。しかし、現地に行って知ったのは、実は、“インドネシア語”もリンガフランカなのです。この場合は、インドネシアの島々を渡り歩くマレー商人たちが広めた交易語なのです。
インドネシアは万を超える島々に、2億3千万人もの人々が住み、580以上の言葉(地方語)が話されているというわけで、一つの民族の言葉を国語と定めるよりも、リンガフランカのマレー語のスマトラ方言をインドネシア語として定めたというわけです。これこそ言語政策です。TV撮影クルーの一員のディアから「だから、インドネシアの放送局のアナウンサーはたいていスマトラ人だ」と聞いて、納得しました。
◆註:インドネシアの言語地図は次のサイトを参照してください:http://www.ethnologue.com/show_map.asp?name=ID
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それにしても、スワヒリ語もインドネシア語も、民人にそれぞれ近しい言葉ですが、これが西アフリカ等を例にあげれば、そんな共通語もない国ですと、初等教育から旧宗主国の言葉(フランス語、ポルトガル語、英語等)で教育しているという話もよく聞きます。特定の民族語を採用すると、それだけで民族対立がおきかねない場合の便法なのですが、しかし、それできちんとした言語政策になるのかは、もちろん疑問が残ります。
そういうことで、学校教育等に使う言葉=教授言語について、Wikipediaからアフリカの例を引用すると「アフリカ諸国では、ほとんどの国で旧宗主国の言語が教授言語となっている。 例外的にタンザニアでは初等教育がスワヒリ語で教授される」とあります。
一方、アジアは「ネパールでは国語であるネパール語をのぞく全ての授業が英語で行われている。 ブータンでは小学校一年生から、国語であるゾンカ語をのぞく全ての授業が英語で行われている」ということです。
実は、タンザニアでは“Idala ya Taifa ya Kiswahili””(国立スワヒリ語局とでも訳すべきでしょうか)などで、スワヒリ語の新語を作っています。つまり、もともとスワヒリ語になかった専門用語を新造しないと、教育の近代化もおぼつかないのです。
皆さん、お気づきですね? これは、幕末から明治にかけて、我々の先輩が外国語を日本語に変えていった経緯と同じ状況です。
Philosophyを“哲学”としたのは森鴎外の親戚でもある西周(にし あまね)ですし、「酸素、水素、窒素、炭素といった元素名や酸化、還元、溶解、分析といった化学用語を作ったのは江戸時代の宇田川榕菴」だそうです(Wikipediaの化学より)。
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それでは、スワヒリ語万歳で結構かといえば、実は民族語(地方語)が絶滅しかねません。
私も少しばかり親しんだ使用人口たった2万人のトングウェ語など、いまや風前のともしびのようです。近代化はいやおうなしに共通語を普及させ、その過程で民族語が失われる。
そのきっかけの一つがラジオです。日本でも、標準語がNHKを通じて伝播したように、タンザニアではみんなトランジスタラジオから聞こえるミュージック等とともに、共通語が広がり、そして民族語(地方語)が廃れていく(=滅亡していく)ことになるのです。
◆註:次のURLは、UNESCOの“International Mother Language Day: 21 February 2010”のページです;http://portal.unesco.org/culture/en/ev.php-URL_ID=40278&URL_DO=DO_TOPIC&URL_SECTION=201.html
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岩田山自然遊園地(嵐山野猿公苑):フィールドについて#1
2010 1/14
このカテゴリーでは、私がこれまで訪れたフィールドを紹介したいと思います。フィールドワークの参考にしていただければ(あまり、ならないかもしれませんが)、幸いです。
さて、話のマクラに、研究者のスタイルに触れましょう。社会科学、自然科学を問わず、いろんなタイプの研究者がいます。 例えば、一つの分野を開拓して(ファウンダー=創設者)、やがてその分野・テーマを“私領”のように“支配(?)”し、次世代の研究者を養成するために“タコ部屋(=いわゆる研究室)”を経営しながら、長年にわたって同一対象を研究する方もいれば(=これが、いわゆる“学者”のイメージですね)、あっちこっちの分野を渡り歩き、美味しいところだけいただいていく方もいます。もちろん、タコ部屋の奴隷のような立場で終わる方もいます。また、一つの“対象”を愛するあまり、その対象に関係するところを彷徨する人もいます(例えば、“アフリカ学者”で、アフリカのことなら何でも大好き!)。
ここにあげたのは極端な例ですが、ピンからキリまでの間に、様々なバリエーションがあります。もっとも、これは会社に入っても同じこと。一つのことに集中するか、あっちこっちの分野を渡り歩くか、....あるいは、会社や職種自体を変えてしまうか? 皆さんはどれがお好きですか?
野外研究者(フィールドワーカー)も事情は変わらず、一つのフィールドに長期間取り組む人、それもそこでの“支配者”もいれば、“雇われ人”の場合もあります。一方、転々とする人もいる。それでは私自身はどうかというと、長期的な研究体制がある場所に4,5年居候しては、やがてそこを去り、別の場所に厄介になるのを繰り返すタイプです。まるで“やくざ者”のような感じですが、これもまたそれなりに楽しみがあります。ということで、こちらも“連続活劇”よろしく始めてみましょう。
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まず、1975年から1978年まで、京都嵐山にある岩田山自然遊園地(現嵐山モンキーパーク)が初めての居候先でした。そこで、“性行動”を研究せよ、というのが4年生で卒業研究をしなければならない私への指導教官からのアドバイスで、サルが交尾期に入る10月から、数日に1回ぐらいの割で通ったものです。それで、研究の話はまた別の機会にまわして、ここではフィールドでの悩みから話を始めましょう。当時は、日本に野猿公苑が流行ってからおよそ20年、人為的な餌付けによる弊害で様々な問題が起きつつある頃でした。その一つが個体数の増加、つまりヒトで言うところの人口爆発です。
ニホンザルがまったくの自然で暮らしていると、メスが1年に産むアカンボウの数は0.27(屋久島の海岸域)、0.349(スキーで有名な志賀高原)、0.353(宮城県の金華山島)、つまり4年から3年に1回しか出産しないのです。その上、せっかく産んだ子供の53%(志賀高原)~22.7%(金華山)は生後1年以内に死にます。これでは、野生のサルは本来、おいそれとは増えることができません(こうしたテーマが私の本職の一つです)。
◆註:そんなサルが山から下りてきて、田畑や果樹を荒らしたりします(農林水産省鳥獣被害対策コーナーのURLはhttp://www.maff.go.jp/j/seisan/tyozyu/higai/index.html)。長年の経験ですが、人間が作る作物は美味しい、それも栄養がある。実証されているわけではありませんが、畑荒らしをするサルは群れが大きくなるような傾向がある、と(あくまでも個人的に)思っています。
さて、嵐山の群れは1954年に、観光目的で餌付けされます。その時、群れは34頭。それが、人工的な餌付けで、栄養がよくなり、1年あたりの出生数は0.7ほどに上昇、死亡率は逆に10%代に減少して、結果的に激増します(人口転換における初期膨張期と同じ)。1966年3月に163頭になった後で、群れは二つに分かれます。嵐山A群とB群です。ざっと計算すると、年間増加率は15.3%です。
この値がどのぐらいとんでもないものなのか、ヒトの資料と比較してみましょう。外務省のHPでは、2005年にアラブ首長国連邦で4.4%、アフガニスタンで4.1%、エリトリアで3.7%と続きます。つまり、アラブ首長国連邦は16年で、アフガニスタンでは17年、エリトリアでは19年ほどで人口が倍増するわけです。それに対して、嵐山ではほぼ5年で人口が倍増する=10年後に4倍、15年後に8倍になること(=人口爆発)を示しています! つまり、ニホンザルは環境さえ良ければどんどん増えかねない生物です。したがって、よほどの緊急事態がない限り、サル(他の野生動物も)餌付けには注意が肝心というのが(今も変わらぬ)私の実感でした。
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とは言え、どうすればよいのか? 野猿公苑の経営としては、できるだけ公園にサルを引きとめて、かつ、観光客に対しては“かわいいアカンボ”こそ目玉ですから、人口爆発がわかっていても、改善は難しい! 34頭から、私が調査していた1977年ころには300頭弱までに膨れ上がっていたのですが、これをどうするか? 今でいう野生動物管理について、当時はまだ誰も手をつけていませんでした。
そもそも法律的な問題があります。野猿公苑で餌をもらっているとはいえ、あくまでも野生動物です。戦前の狩猟法(1895年制定、1918改正)では狩猟の対象でもありました。例えば、食通の北大路魯山人(=マンガ『美味いしんぼ』の海原雄山のモデル)は著書『魯山人味道』で、戦前、京都でサル肉を買って食べていたことを書いています。「脂がなくて、そううまい物ではなかった。しかし、ウサギの肉よりは美味かった」(『魯山人味道』より)。
しかし、戦後はサルは狩猟対象から外され、その後1963年に「鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律」、そして2002年に改正された鳥獣の保護及び狩猟の適正化に関する法律では日本国民共有の財産(=コモンズ)として保護の対象であり、誰の所有物でもない“無主物(むしゅぶつ)”なのです。なお、無主物の定義については、民法239条をご覧ください(電子政府のHP;http://law.e-gov.go.jp/htmldata/M29/M29HO089.html)。総政の学生さんは、是非、法律のお勉強も!
ということで、フィールドの話のはずが、“人口問題”から、さらに突然経営や、法律、行政の話までとびましたが、まさに“総合政策”です。こうしてみると、サルを研究していた私が、今は総合政策学部で教えていることも、さほど突飛でもないような気もしてきます。さて、このあたりで十分長くなってきたので、後は続編としましょう。
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セキュリティについてPart2:国際援助の現場で#3
2010 1/13
国際援助の現場で感じたことについて続けましょう。
1984年に、国際協力事業団(当時)の派遣専門家の2年の任期が終わって、日本に戻ってきた時の私の印象の一つは、「なんと無防備な国だろう」でした。タンザニアの首都のダルエスサラーム(アラビア語では“平和の地”のはずですが)では、インド人街に並ぶ店々は暗くなれば、鉄柵のようなシャッターをしめ、それに仰々しく巨大な南京錠をいくつもはめ込み、いかにも“難攻不落”という風情です。それなのに、日本ではどの店もあまりにあけっぴろげです。
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それは、1978年に初めて訪れたインドネシアのメダンの街を訪れた際でも同じでした。旧英領東アフリカで中間層として経済に大きな影響力を持っているのがインド系住民(日本国内しか通用しませんが、印僑という言葉があります)だとしたら、東南アジアでは中国系住民(華僑)です。その中国人街は、何か政変や暴動があれば、やり玉に挙げられかねないということで、セキュリティに余念がないということを聞かされたものです。
それよりも一番驚いたのは、メダンの総領事館で、領事が事もなげに「(1966年に起きた9月30日事件後の、インドネシア全土で50万人ほども犠牲になったとさえ言われている)大虐殺の時、この町でもだいぶ殺されたんですよ。しかも、どの家の誰が、どの家の誰に殺されたか、みんな覚えているんですよ。でも、それは口にださないことにしているんですよ」と話してくれたことでした(インドネシア史、あるいは東南アジア史における9月30日事件の意味について、皆さん、是非、お勉強して下さいね)。
実をいえば、私が滞在したタンザニアも、1970年代には冷戦下でアフリカ社会主義政策をとり、社会主義陣営の一員として隣国のケニアと、とくにザイール(当時)は開発独裁(この典型が9月30日事件以後にスカルノからインドネシアの権力を奪ったスハルトだったわけですが)に走っており、仲が悪かった。
その上、70年代半ばまでポルトガルの植民地だったモザンビークや、イギリス系の白人が支配していたローデシア(現ジンバブウェ;なお、ローデシアとはイギリス植民地主義者の象徴ともいうべきセシル・ローズの名前に由来)のゲリラを支援していたため、当時は、CIAやKGBも含めて各国の諜報機関が入り乱れていたとのことです。
◆註:当時、南アフリカはアパルトヘイト政策下で、タンザニアの役所に行くと、1964年以来、当時の南アフリカ政府によって、悪名名高きロベン島(今はなんと世界遺産)に収監されていたネルソン・マンデラ氏(のちの大統領)の顔写真付きの抗議ポスターがいたるところに貼ってありました。それが逮捕当時の若い頃の写真なので、1990年の釈放時に高齢(71歳)の顔を見た時は、落差に愕然としたものです。それが、その後大統領にまでなるとは、タンザニア滞在中は想像もできないことでした。
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さて、私のタンザニア時代は(1979~84年)、モザンビークもジンバブウェも独立して、そんな雰囲気はほとんど影をひそめていました。その半面、社会主義政策下の停滞した経済のためもあって、町に出る時は用心したものです。例えば、夜は、食事代+強盗に出会ったときに差し上げる分のお金だけを持ち、腕時計も外して、ホテルの外に出たものです。
現実に、市場で財布をすられかけたことが1度ありましたが、知り合いのJETRO(日本貿易振興機構)の職員の人は、ダル・エス・サラームの一番大きな市場で、白昼、いきなり背後からはがいじめにあい、正面からナイフを突き付けられるという強盗にあったとのことです。
それ以外にも、強盗や窃盗はさほど珍しいことではなく、町では常に神経をとがらしたものです。一方、フィールドの田舎でも、調査基地はタンガニイカ湖の湖岸に点在していますから、強盗が船で上陸したら、ちょっとヤバいことも起こりえます。現実に、何回か、船外機のエンジン(アフリカでは貴重品です)を盗まれたりもしました(ちゃんと守衛がいるはずなのに!)。
◆註:マダガスカルの首都アンタナナリボの街角で、物売りのような風体の少年数人がどこからともなく周りに集まってきたら、それは掏りの可能性が高いと思ってください。差し出す商品の下から、別の手が出てきて、財布に近づくことがあります(財布は、服の内側にしまっておくのが、肝心)。それから、(マダガスカルに限らず)ザック類を背中に背負うと危険です。カンガルー・スタイルにして、おなかの方に回しましょう。
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そしてもう一つ、道を横断しようにも、車が止まってくれないことです。第三世界では、車を持っている者は金持ちです。歩いている者は貧しい。貧しい者には、だれも配慮はしてくれません。というわけで、首都勤務の日本人は皆さん車に乗っていましたが、私はたいていてくてく歩いていました。その代わりに、道をなかなか横断できないというコスト・リスクもあるわけです。
何より(帰国後、かなりの年月が過ぎていましたが)1998年に、日本大使館への途中にあるアメリカ大使館がアルカーイダに攻撃、爆破された時には、さすがに驚いたものでした。もしそんな時に、大使館の前の道を歩いていたら...と思うと、テロも身近なものに感じられてしまいます。
◆註:外務省の海外安全ホームページのURLは次の通りです:http://www.anzen.mofa.go.jp/
生き物を紹介しましょう#1:KSCの自然について
2010 1/13
このカテゴリーでは、私がなじんできた“生き物”について紹介していきたいと思います。総合政策では、“人と自然の共生”をうたっていますが、では、皆さんはその自然とやらについて、ご存知ですか? その手始めとして、KSCの生物に触れてみましょう。
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現在は、箱庭のようにしつらえられたKSCですが、キャンパス建築前におこなわれた環境アセスメント調査では、高度成長期のエネルギー革命等の結果、里山(近畿圏によく見られるコナラ-アカマツの薪炭林)が放置され、写真では裸地が広がって、結構荒れはてた感じでした。それでも、谷筋には湿地には食虫植物のモウセンゴケが生えていたようです(ちなみに、私はまだ見つけていません。たぶん、工事で絶滅したのでしょう)。ジュンサイ池のジュンサイ(=高級食材)も第2厚生棟の建築で全滅しています。
この頃の地形図を見ると、やたら凹凸があります。今のキャンパスは高い場所を削り、低い場所を埋めて、人工につくった平地なのです。さて、現在はほそぼそと斜面に残る里山は、人手が入らなくなってたぶん3,40年がたち、だいぶ下生えがのびてきました。『昔話』で「昔々、お爺さんは山に柴刈りに....」と言うところの「柴」=売り物にならない雑木、灌木の類で、自家で使うための薪の類です。コナラやクヌギ等は端正込めて育てた後で、お金になる炭にします。だから、あだやおろそかにはできません。逆に言えば、そんなコナラやクヌギの競争相手になりかねない柴を刈ってこそ、里山が維持されるわけです。
コナラやクヌギ、そしてもう少し南に行って、たとえば和歌山等にいけばウバメガシ等は、一度切っても、株が残っている限り、また芽吹いてもとの木に戻ります。これを萌芽更新と呼びます。そんな具合に何度切られても、また生えてくる林が萌芽林です。里山とは、そんな植物の性質を巧みに利用してできた人工的な景観なのです。ちなみに鰻の蒲焼に使う備長炭という炭は、ウバメガシから作られることが多いそうです。
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◆註:SATOYAMAイニシアティブのHPはhttp://satoyama-initiative.org/jp/
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里山環境研究所のHPはhttp://homepage3.nifty.com/ytamaki/
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日本自然保護協会の里山関係のHPはhttp://www.nacsj.or.jp/project/satomoni/
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一方、“柴”とはどんな木でしょうか? KSCでは、入学式前後に赤紫の花をつけるミツバツツジや、その少し前に白い小さな花をつけるアセビ、若葉が山菜になるウコギ科のタカノツメ(=トウガラシの品種とは別種です)とコシアブラ(天ぷらにすると美味)、枝をゆらすと葉がざわざわというソヨゴ等です。この連中は、かつては農家の人たちによって柴として刈られていたわけですが、今はわが世の春になっている次第です。付け加えると、KSCでは(場所によりますが)ワラビやフキノトウ等、結構山菜があります。
そんな中で、里山の遷移も進むと、コナラーアカマツは次第に樹勢が衰え、常緑のアラカシ等が顔を出し始めます。ですから、学生の皆さんが卒業して2,30年後に再訪されると、すっかり様子が変わっている可能性があります。
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こんなキャンパスですが、意外に頑張っている動物もいます。まず、タヌキは2回ほど見ましたが、どちらもペアでした。タヌキは、雄雌1匹ずつでペアを作って、一緒に子育てする動物なのです。ちなみに分類上はイヌ科です。
それとノウサギもいます。目撃が多いのはⅢ号館の周辺です。地味な色なのでなかなか分かりませんけれど。ちなみに、小学校等で飼われている白いカイウサギは、ヨーロッパ等のアナウサギを家畜化したもので、属レベルで異なります。キツネもいるというのですが、私はまだ見ていません。こうした動物は夜、車で走行していると、眼がライトの光を反射したりします(個体数を夜、道路でチェックするという調査法があります)。そのかわりに、タヌキなのか、アライグマなのか、とっさにはわかりかねます。
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◆註:森林の生物を研究している独立行政法人森林総合研究所のHPは以下の通りです。
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森林動物の研究のページはhttp://www.ffpri.affrc.go.jp/quick/q0050_01.html
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鳥でもっとも目立つのはキジです(さすが、三田市の“市の鳥”です)。早朝のキャンパス等、人がいない場所で結構歩いています。朝7時頃、1号館の中庭から歩いてくるやつにばったり出会ったこともあります。「ケーン、ケーン」とよく鳴いていますが、皆さんお気づきになるかどうか? 姿が見えずに「テッペンカケタカ(あるいは「東京特許許可局」とも)」という泣き声だけ聞けるのがホトトギスですが、江戸時代の狂歌に「ホトトギス、自由自在に聞く里は、酒屋へ三里、豆腐屋ヘニ里」(頭光[つむりのひかる]作)とあって、まさにKSCができたばかりの1996年ころの風情でありました(今でもそうだと言えますが)。
あともう一種、声はすれども姿が見えないのがコジュケイです。鳴き声が「ちょっと来い、ちょっと来い」と聞こえますが、地面を歩いているので、藪の中ではほとんどわかりません。一度だけ、それらしい集団が、学園3丁目のバス停から上る階段のわきで見かけました。
さて、日本には何種類かカラスがいますが、三田ではハシブトガラスとハシボソガラスが混在しています。元来は前者が森林部、後者が田園地帯に分布しており、三田ではその両方の環境が入り混じっているので、当たり前かもしれません。しかし、近年はハシブトガラスが急速に都市に進出、東京都心はほとんどハシブトに占められているとのことです。繁殖期はペアで巣を作り、子供を育てますが、ある年はKSCの1号館と2号館で、それぞれハシボソとハシブトのペアが分かれて、ナワバリを作っていたこともありました。一方、秋から冬にかけては両者ともに集まって、巨大な塒(ねぐら)を形成します。一時期、神鉄の横山駅のあたりにありましたが、今はまた別の場所が塒になっているようです。
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一方、小鳥類にはキャンパスやニュータウンの整備にともない、それぞれ盛衰があるようです。96年にKSCに来た時には、現在の理工のあたりは草原か石ころだらけの土地でした。当然、そんな荒れたところに住む鳥、例えば、ケリ等が子育てしています(近づくと、親が“ケリ、ケリ、ケリ、ケリ”と警戒音を発して威嚇するため、ケリと名がつきました)。
草地で子育てするセッカやヒバリもやたらにうるさいぐらい鳴いていたものです。それが最近は、造成が進み、草地も石原もなくなって、ケリはまったく姿を消し、セッカもほとんど聴かなくなり、ヒバリもめっきり減ったようです。代わりに森林性の小鳥類、ホオジロ、シジュウカラ、ヤマガラ等が結構目につき、メジロも花の蜜を吸っていたりします。このように、人間側の都合で、鳥の種類も変わっていったりするのが、ニュータウンの特徴ともいえます。
また、冬はこの時期に群れをつくるエナガやいわゆる冬鳥、ジョウビタキやツグミが現れます。三田市には多数あるため池にはカモ類も多く訪れるのですが、残念ながら、ニュータウンのため池にはあまり現れません。たぶん、できたばかりの池だと、魚や水生動物・植物が少なく、住みずらいのでしょう。三田では、ヒドリガモやオナガガモが多いようです。KSCのキャンパスの上を、時折、中型のタカが飛んでいます。残念ながら、飛ぶのが早すぎて、私にはどの種か特定することができません。
◆註:日本の鳥類研究の総本山である山階鳥類研究所のHPはhttp://www.yamashina.or.jp/
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高畑ゼミの100冊Part11:探検記・旅行記・国際関係
2010 1/12
今回は探検記・旅行記、そしてその後に起きる様々な問題についての本の紹介をつづけましょう。
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アラン・ムアーヘッド『白ナイル』(書籍番号#57)および『青ナイル』(書籍番号#58):太古の昔から、下流に肥えた泥を運び、ナイル・デルタ地帯を形作り、エジプト文明をささえたナイル河、しかし、ナイルはいったいどこから流れてくるのか? スーダン南部のハルツームで白ナイルと青ナイルが合流するあたりまでは、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスにもわかっていましたが(著書『歴史』にヘカタイオスの「エジプトはナイルの賜物」という言葉を書き残します) 、その先は誰にもわからない・・・・・
◆Nile Basin InitiativeのHPのフォトギャラリー:http://www.nilebasin.org/index.php?option=com_easygallery&Itemid=107
これが、17世紀以降、ヨーロッパ人たちをひきつけた「ナイルの源流探し」の物語です。そして、ムアーヘッドによるこの二冊の本の主人公はこのナイル河自身であり、ヨーロッパの枠からはみ出してしまった男どもが、不思議な情熱にかられて、この河辺に次々に登場する様を紹介する、そんな歴史絵巻です。
まず、青ナイルの源流の確認者ブルース、そしてビクトリア文化への反逆者にして奇書『アラビアン・ナイト』の翻訳者、方言を含めると40以上の言語を操り「神の額と悪魔の顎を持っている」と言われたバートン、最初はバートンの相棒でしたが、やがて永遠の敵対者になるスピーク、ブルガリアの奴隷市場で出会ったハンガリア人の女奴隷を愛してしまったが故に、ナイル探検の栄光を手にするまで、二人でアフリカを彷徨うベーカー(まさにロマンティック・ラブ・イデオロギーの勃興期です)、そしてキリスト教伝道とアフリカ探検に自らの身さえもささげるリビングストンたちです。
しかし、時代は変わります。最初は名もなく、欲望だけに燃えた奴隷商人たち(その最後の大立者がリビングストンやスタンレーを助けたティップ・ティップ)、その次が宗教・国家的使命・科学に身も削る宣教師・探検家・科学者たち(そこにはナポレオンに引き連れられた一群のフランス人学者もいます)、やがてジャーナリストと帝国建設者が続き、そして最後に冷徹な官僚たちが現れます。
◆タンザニアのザンジバル(オマーンのスルタンの家系がザンジバル・スルタン国を形成、奴隷貿易で栄える)のSlave Tade Memorial周辺の写真:http://www.flickr.com/photos/remyomar/419787556/
まず、ジャーナリズムの隆盛にのって、アメリカの新聞王“ニューヨーク・へラルド”社主のベネットから命じられ、たまたま「リビングストンの発見者」の栄誉を得た後、孤児=浮浪児からの出世を夢見て探検家に変身、さらには悪名高きベルギー国王レオポルド2世の走狗となって、帝国建設者になってしまうスタンレー、エジプトによるスーダンへの侵略の後始末にのりだし、1885年ハルツームで戦死する“Chinese Gordon”ことゴードン将軍、エジプト・イギリスに反抗ののろしをあげ、ともかくも13年にわたってイスラーム政権を維持したマフデイーとその後継者たち、そしてそのマフディー政権の息の根をとめ、1898年さらに上流のファッショダに到着したフランス軍マルシャン少佐とイギリス・フランスのアフリカ分割の手打ちをする、後のイギリス陸軍大臣キッチナーが続きます。
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つまり、この2冊は、男たちの野望と栄光、そしてその挫折、さらに個人的意志・感情を乗り越えて進むグローバリズムの実相を、ナイル河を中心に綴った長編叙事詩なのです。そのなかで、様々な名セリフが飛び交います。スピークによって“ルタ・ヌジゲ”と紹介された湖=ナイルの源流に向かって遡っていくベーカーとフローレンスに、スーダン上流のある民族の長コモロはこう尋ねます。
「その大きな湖に行かれたら、いったい何をなされるのかね? 何か好いことでもありますか? そこから大きな河が流れ出すのを見つけなさったら、どうなさる?」そして、別の日はこうも言います「人間はたいてい性悪なものだ。強い者が弱い者から搾り取る。“善人”は皆弱い。悪いことをするほど強くないから、善人なのである」
なお、私の滞在地、西部タンザニアはスタンレーとリビングストンがであったウジジの町がありますが、どちらかと言えば『白ナイル』の舞台の中では南に偏った地域です。残念ながら、源流の一つであるビクトリア湖等には行ったことがなく、一度だけ、ハルツームの空港にトランジットで降りた事があるだけです。「ここがゴードンが死んだ場所か」とちょっと感慨がありましたが、周りは荒涼とした砂漠のような景観だったと覚えています。
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服部正也『ルワンダ中央銀行総裁日記』(書籍番号#59):『基礎演習ハンドブック』にもご紹介しましたが、服部さんは日本銀行在任中に、国際通貨基金からのオファーで、アフリカのルワンダ共和国の中央銀行総裁として1964年から6年の長きにわたって活躍されました。その後、世界銀行に転じて、日本人初の世界銀行副総裁を務めた方です。
その『ルワンダ中央銀行総裁日記』こそ、優れたフィールドワークの結晶、アフリカの小国になんの予備知識も持たずにでかけた服部さんが、銀行員としての誇りと経験をベースに、多民族・多文化社会による民族対立に加え、植民地の残影を引きずりつづけるこの国の実状を、穏やかに、しかし、冷静に受け止めていきます。
「だんだんにではあるが、ルワンダの外人のあげている事実は殆どが事実であるが、その解釈がまったく間違っていることを発見した」
「私は、国際通貨基金の通貨改革の論理を考え直した・・・低成長国で生産の急速な伸びは期待できないという通説をとれば、通貨基金の論理にも一理がある。しかし後進国はすべてが不足しているのであるから、何をしても改善になるはずである・・・かりに低成長であればそれは人的障害によって本来の力を出せないためである」
「ある日・・ルワンダ人が細々とではあるが密輸をしてることを思い出した・・・まず障害の除去を、という答申全体の思想にもとづいて・・・なぜ輸入がのびないのかを考えた。それはまず「密輸」という言葉自体に対する不正の意識であろう。次には輸入手続きの煩瑣である・・・外貨の入手難と、その持込持出が禁止されている・・・私は飛び起きて、「商業における構造的競争の導入」という題で1件200$までの国境貿易の許可免除、外国銀行券の携帯輸出入の許可免除、外国銀行券の保有と取引の自由化を内容とする答申の追加を書き上げた」
服部さんの姿勢は、本書の結びの言葉「戦に勝つのは兵の強さであり、戦に負けるのは将の弱さである」に象徴されます。それはたぶん黒沢明監督の映画『七人の侍』で、志村喬扮する島田勘兵衛が最後に発する台詞に通じる時代精神に共通するものでしょう。
しかし、服部さんが去って数年後、ルワンダはクーデターが繰り返され、1994年には大統領の事故死(暗殺と推測されています)をきっかけに、民族対立から80~100万人が虐殺されるという悲惨な状態が続き、現在もルワンダ国際戦犯法廷が開かれています。