“国境”とは何か? アフリカで考えた事:国際援助の現場で#5

2010 1/23

 今回は、“国境”とは何か? という話をしたいと思います。アフリカにいた3年間、私はタンザニアとザイールの国境地帯に暮らしていたため、絶えず、“ボーダー”を意識せざるをえませんでした。

 実を言えば、“国境”を論じることは、“境(境界)”を議論することです。“あれ”と“これ”を分ける境は何なのか? 国境以外にも、我々のまわりには、“境”はいたるところにあります。なぜなら、それは分類の基本だからです。そして、我々は絶えず、そもそもどんな基準で“境”を決めているのか、自省することが重要です。

 例えば、“男”と“女”。XY染色体によるデジタル的な分類で方(かた)がつきそうですが、とてもそんな簡単な話でないことは、“性同一性障害”等をご存じの方は納得されるはず。生物的視点からジェンダー論的視点まで、様々な形の性が存在し、かつ性のマイノリティは絶えず多数派から圧力を受け続けてきたのです(性同一性障害(GID)学会のHPのURLはhttp://www.gid-soc.org/)。

 話題が“国境”からずれたかもしれませんが、このようにあるモノと別のモノを区別する、そんな簡単そうに見えることさえ、おぼつかなくなっているのが現代であるともいえるでしょう。

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 それでは、例えば、日本列島は海に囲まれ、その境界は明確なはずです(こうした国境を自然的国境と呼びます)。それでも、周辺地域がどこまで“日本”なのか? 様々な係争の地があることに気づきます。どこまでが“日本”で、どこからが“外国”なのか?

  • 外ケ浜 今日からは日本の雁ぞ楽に寝よ
  • 現青森県津軽半島の外ケ浜を、日本の北の境界と見立てて、雁の群れを詠んだ小林一茶の句(『日本の歴史14周縁から見た中世日本』より)
  •  

  実を言えば、古代から近世にかけて、多くの“国家”では周辺地域を曖昧にしてきましt。例えば、北海道(蝦夷地)は本来先住民(アイヌ)の人たちの土地(アイヌモシリ=人間が住む土地)だったわけです。江戸幕府は、ロシア帝国が南下政策をとるまで、“国境”を意識したことはなかったと言われています(吉田伸之『日本の歴史17 成熟する江戸文化』講談社)。

 つまり、当時は、北海道は“緩衝地帯”として存在していたわけです。しかし、やがて“外圧”によって、そんなあいまいな存在は許されなくなった。なおかつ、その事態に対応する能力に欠けていることがあからさまになった=これが江戸幕府が倒れた究極の理由ともいえるでしょう。

◆ちなみに、そのアイヌ民族はどのように成立したかというと、縄文時代は縄文文化として本土と文化的につながっていたのが、大陸から弥生文化が伝わって以降、次第に続縄文文化擦文文化と変化して、やがて 13世紀頃(鎌倉時代)頃にアイヌ文化が成立したと推定されています。つまり、アイヌ民族は、人類500万年の歴史全体から見ると、非常に新しい文化なのです。

 アフリカでもそうですが、民族決して固定的なものではなく、流動や融合、分離等によって絶えず動いている存在だということは覚えておいてください。国立科学博物館バーチャル・ミュージアム「はるかなる旅展」:http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/ 

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 境界の曖昧性は、李氏朝鮮王朝と日本の境界にある対馬にもいえます。現存する最古の朝鮮図『八道総図』(1530年)では、対馬を朝鮮の一部として地図にいれています(大石直正他『日本の歴史14 周縁から見た中世日本』講談社)。また、室町時代より、対馬の実効支配者である宗氏には、朝鮮王朝から「宗氏都都熊瓦」の印信が与えられ、“領域外の臣下”という形をとります。

 さらに、中国と日本の間でも、鬼界ヶ島奄美沖縄諸島宮古八重山と連なる列島の主権、あるいはどこが境界なのかをめぐって、薩摩藩の琉球侵攻(1609)から、ペリーによる浦賀来航前の寄港等を経て、明治政府による琉球処分が展開します。

 そんな経緯を経ても、さらに最終決着がつけられない土地(北方領土、竹島、尖閣諸島)等があることこそ、“国家”とは何か、“国境”とは何かに思いを巡らし、そして我々は何者なのかを自省する良い機会ではないでしょうか?

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 “日本”でさえも、“境界”があいまいな現代、アフリカでの“国境”とは何でしょうか? 私が滞在していたマハレ山塊国立公園は、タンザニアザイール(現コンゴ民主共和国)の国境であるタンガニイカ湖の東岸にありました。対岸はザイールになりますが、雨期に入って大気中の埃が雨で落ちると、40-50km離れた対岸のザイールがくっきりと見えます。住民にとっては自転車のような存在であるカヌーをこげば、誰でも行き来できる距離なのです。

 事実、東岸と西岸に住む住民同士は言葉が十分通じあい、日常、それぞれの国に不足するもの(ザイールからビールや大衆雑貨、タンザニアからはナショナルの技術で作られていた乾電池や煙草(たぶん、政府の物資の横流し)を持って往復していました。近代法の立場から言えば、これはすべて不法入国(みんな、パスポートなど持っているはずもない)、密輸出入(関税を払うはずもない)なのです。

 時には、湖を隔て縁組まであります。私のいる間、ザイールから女性がやってきてタンザニア人の男性と結婚(イスラームなので、その男性にとっては2番目か、3番目の結婚でした)しましたが、結婚しても別に役所に届け出るわけでもなし、やがて女性が妊娠したので、周りの連中に、

  • 生まれてくる子は、いったいどっちの国籍になるんだね?」と尋ねると、
  • どっちの病院で産むか、だな。タンザニアの病院で生まれれば、そこで出生証明書をくれるからタンザニア人になる。ザイールの病院で産めばザイール人になるだけさ
  •   

 としごくもっともな回答でした。それでは、タンガニイカ湖を国境とした意味はあるのか? もちろん、皆さんはご存知ですよね。それは1884~85年のベルリンで開催されたベルリン会議で、ドイツ(タンガニイカを植民地として確保)とベルギー(当時のコンゴ植民地を確保)の間での、領有地の境界の手打ちとしてのみ意味があったわけです。

 もっと広い視野でいえば、参加14カ国(イギリスからオスマン・トルコまで)の間で、アフリカ大陸の植民地分割の原則を定めることに意味があるわけで、そこでどんな民族がどんな生活をしていようと、知ったことではなかったわけです。

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 タンガニイカ湖は湖ですから、自然境界でもあり、それなりに納得できるところも無いわけではありません。しかし、例えば、ケニアとタンザニアの国境はきわめて機械的に直線を引いただけなので、遊牧民として有名なマサイの人たちは両国に引き裂かれてしまいます。もちろん、マサイの人たちいとってはそんなことはまったく無意味ですから、家畜をつれて両国の“ボーダー”を自由に行き来する権利を主張しているわけです。

 こうした状況が民族と国家の整合性を危うくして、民族対立・紛争になりかねないことは皆さんもご理解できるでしょう。その最たる例が、ソマリ民族の居住地域と独立国家としてのソマリアの領土が必ずしも一致しないことから生じた、ソマリアとエチオピアの戦争(オガデン戦争)であり、さらにその後に勃発して現在も続くソマリア内戦、そしてその余波ともいうべきソマリア沖の海賊ということになります。

 ところで、アフリカ研究者の立場から言えば、ソマリア内の内戦でソマリア人が何人死のうとあまり関心を払わなかった先進国が、ソマリアの海賊やアルカーイダの浸透等で自分たちにも被害が及びそうになったとたん、あわててソマリアに注目するという状況は、まったく勝手なものに映ってしまいます。 

 その一方で、タンガニイカ湖のほとりに暮らしていると、やがて現在の国境をとりあえずは認めるしかない、とも思います。これを変更しようとしたり、撤廃しようとすれば、また争いがおこり、人が死ぬ。現状をとりあえず認め、その中で人々の暮らしが立っていく道をまず考える。そして、EUで進んでいるように、国家を認めながら、人々の自由な行き来を保障するような仕組みを次第につくっていくしかないのではないか、という気になっています。

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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