2010年2月

岩田山自然遊園地(続き):フィールドについて#2

2010 2/28

 学生・院生の皆さんへ

 皆さんは、私のような生態学系フィールドワークと、いわゆる文系フィールドワークと違う点はどこにあると思いますか?

 もちろん、理系フィールドワークは3K(きつい、きたない、きけん!)は当然ですが(私の昔の同僚の一人はカリフォルニア湾で溺死、知人の一人は帰国後急性マラリアで死亡。と言っても、“ニューヨークの地下鉄”よりは安全かも!)、もっと肝心なことがあります。それは、とくに生き物相手の調査は「退屈」なのです。

 なにしろ、人相手のフィールドワークと違い、“インタビュー”は不可能で、ひたすら待たなければいけない。例として、チンパンジー子殺しという皆さんからすればとんでもない現象をあげてみましょう。私のアフリカでの調査中、計3年間で1度だけ目撃できました(殺す瞬間から、アカンボウを食べつくすまで見ることができた稀有なケースでした)。ざっと計算すると、2年に一度ぐらいの頻度で子殺しが起きている勘定ですが、それを“待つ”のも大変です。

◆上記のチンパンジーの子殺しについての論文は、右のURLでアブストラクトを読むことができます → http://content.karger.com/ProdukteDB/produkte.asp?Aktion=ShowAbstract&ArtikelNr=156210&Ausgabe=238805&ProduktNr=223842

 ということで、私が見るところ、生態学系フィールドワークの基本は“退屈に耐え”、「今日は、何が起きるかわからない。楽しいな!」と思う“ポジティブさ”が肝心なのですが、ひょっとしたら、これは今の学生さんにはもっとも“苦手”なことかもしれませんね(皆さん、クリックさえすれば、すぐ入手できるものの方がお好きでしょう? でも、そこで入手する資料は、誰かが“退屈さ”をこらえて、“測った”結果の一部(=セカンド・ハンド)に過ぎません。そのことは覚えておいて下さいね)。 

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 戯言はここまでにして、嵐山で私があったサルの紹介をしたいと思います(嵐山モンキーバークのHPは → http://www.kmpi.co.jp/;サルの写真がてんこ盛りです)。

 まずはオトナのオスから、と言いかけて、そう言えば、オトナとは何歳からか、説明しなければいけないことに気付きました。基準は“性=繁殖行動”にほかなりません。生き物はやはり次の世代を作っていくことが使命です。そのために、身体の成長にも“性”が一つの判断基準となります。例えば、オスは射精が、オトナへの第一歩になるでしょう。

 順をおって述べると、ニホンザルは生まれてからほぼ半年間の、母親に絶対的に依存して、食も最初は母乳に100%頼るアカンボウ期があります。生後半年まで生き残れば、あとは徐々にコドモ期に移行します。餌付け群では繁殖率が高いので、1歳以上になれば、弟妹が生まれている可能性が高いのです。したがって、母親との関係も変化せざるをえません(母親としては、もっとも弱いアカンボウに投資を集中します)。

 嵐山で、オスが射精を始めるのは、満4歳半で迎える交尾季です。これは肉眼でも確認できます。というのも、ニホンザルの精液は空気に触れると白く固化して、一見、吐き捨てられたチューインガムのような見てくれになるからです。そして、メスが妊娠するのはごくごく稀に3歳、4歳も少なく、5歳ぐらいで初産を迎えます(これが野生群だと6~7歳)。ここからがワカモノ期(ヒトでいえば、中学から高校生)。こうして、栄養状態のよい餌付けされ群れでは、実年齢にだいたい3の数値をかけると、ヒトの年齢に達することになります。5歳だと、ヒトの15歳前後にあたるかな、という感じです。

 さて、性成熟し始めると、そこで男女(雄雌)の人生(ライフヒストリー)ははっきり分かれます。オスは次第に自分の群れを離れ、他の群れに移籍します。嵐山のようにまわりが人間だらけだと大変です。昔、嵐山から比叡山まで移動したというチークシャと名付けられたオスザルが有名になりましたが、私がいた頃、金閣寺のあたりで捕まったオスがいました。京都の地理に詳しい方はわかるかと思いますが、先輩チークシャの行程のほぼ半分あたりで挫折してしまったわけです。

 対照的にメスは一生生まれた群れにとどまるのが普通です。そのため、ニホンザルの群れの本質は“母系”、遺伝子が共通するメスたちが母系的な血縁関係を(=ミトコンドリアDNAがその象徴ともいえます)をベースに社会関係を築き、そこに血縁関係のないオスが移籍してくる。そして、また去っていく(まるで股旅ものです)。こんな感じなのです。しかし、こんなことを言っているといつまでたっても、話が肝心の嵐山のサルにたどり着けないようです。

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  それで、嵐山を代表するサルとして、“ミノ”を紹介しましょう。1957年生まれで、私がお会いした時はすでに18歳、その後、25歳で最後の子供を産み、33歳で大往生した時には、“金さん・銀さん”のような風情でした。3をかけるとほぼ100歳です。

 彼女(および彼女の家系)は、まさに波乱万丈なのですが、それは、長女が母親を“噛み倒す”、そこまでいかなくても順位を逆転する、これが何代も続いた、という因縁の方々なのです(=実は、私の昔の仕事の一部です。下記参照)。あわてて付け加えますが、ニホンザルではそんなことはまず起こりません。めったに起こらないからこそ、特異なパーソナリティの持ち主たちというイメージになるのです。

◆この件の論文の一部はこちらで読めます。

  話は1966年にさかのぼるのですが、群れには16の“家系”(母系でつながったメスの血縁関係)があり、この間には厳しい優劣関係が形成されていました。第1位の家系に生まれたメスは、まず、一生トップクラスにいることになるし、最下位の家系に生まれたメスは一生うだつが上がらぬ地位にいることになる、というのが一般的です。

 このメスの家系順位のほぼ中央に、“コジワ(顔に小皺が目立ったので付けられた名前だと聴いています)”という家系があったのですが、その娘のミノがある日、突然、母親を“噛み倒し”ます。こんなことはめったにおこることではありません。その結果、は母親よりも優位になったミノは、次にオトナオスのなかで一番順位が高いゾラと親和的な関係を結びます。

 ゾラは実は、当時もっとも高順位だった“マツ”の家系出身と推定され、つまり“ええとこのボンボン”なのですが、ミノと親しくなると、次第に、自分の家系と疎遠になっていきます(まるで、人間みたいだ、と思う方もいらっしゃるでしょう)。日ごと、ミノ等の低順位だったメスと、ゾラの血縁で高順位だったメスが衝突したあげく、結局、群れは二つに(嵐山A群とB群)に分かれてしまいます。つまり、ミノはそのきっかけを作った“傾城の美女”とまでは言わないまでも、キーモンキーなのです。このあたりは、私が調査を始めるずいぶん昔のことなので、先輩たちの仕事です。

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 そして、私が研究を始めたばかりの1975年(当時学部4年生でした)、このミノが1963年に産んだミノ63♀(つまり娘=嵐山のサルの名前の付け方は、母親の名前+生まれた年の下二桁)を観察していると、突然その娘(ミノから見ると孫)のミノ6369♀が飛びかかり、噛みつきます(きっかけはわかりません。あまりにとっさのことでした)。2頭はからみあったまま、餌場の下の崖を転がり落ち、組ずほぐれずの死闘のあと、なんとミノ6369♀が優位になって、ミノ63♀は娘に対しておびえているではありませんか。

 しかし、痛恨な事に、その後30分ほどつい目を放しているうちに、次に見たのはミノ6369♀が左腕を血だらけにして(その後、完治に数週間かかりました)、おびえながらミノ63♀を避けようとしている光景です。しかも、ミノ63♀は何をするのかと思いきや、娘を毛づくろい(グルーミング=親愛的行動)しようとしするのです。そして、娘の方はおびえ切って、毛づくろいをしてあげようとする母親の接近に浮足立ち、3本足で逃げようとするのです。これは、35年たった今でも覚えている、異様な光景です。

 あまりのことに絶句した私の前で、ミノ63♀は昂然とそこで餌を食べているミノ(すでに18歳、老境に入りつつつある年恰好です)に近づくと、ミノはそそくさと餌をあけわたして、去っていきます。つまり、短時間のうちに、私は「娘の母親への攻撃」「母親との順位の逆転」「リターンマッチかどうか、わからないが、娘がかなりの重傷を負っての再逆転」、そして、「母への(攻撃をともなわない)順位の逆転」を見せられる結果になりました。

 そして、この後日談が続きます。いったんは母親に再逆転を許したミノ6369♀ですが、数年後(私はすでに嵐山を去っていましたが)、再びミノ63♀に挑戦、大けがを負わせたのち、ミノ63♀は姿を消します。

 そして、数ヵ月後、春が来て、氷と雪がとけた池から水死体で発見されます。負傷で身体を痛め、池に転落してそのまま死んだのでしょう。とすれば、この件は、広い意味での“母親殺し”になるのかもしれません。ミノ6369♀は、その後、群れのトップのメス(αメスと呼びます)として君臨することになります。

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  こうした現象(母殺しまで発展しかねないような攻撃行動)は、他の家系ではまず起こることはなく(母親がかなりよぼよぼになっても、娘が順位を逆転することも珍しい)、これがトップの座というステータスから来るものなのか、それともコジワの家系が特殊なパーソナリティの持ち主だったのか、そのあたりはまったくわかりません。たぶん、そのどちらもかかわっているのでしょう、とごくもっともらしく言うことしかできないのです。

 さて、右のURLをクリックすると、ミノの孫、ミノ63♀の娘のミノ6375の晩年の写真を見る事ができます → http://www.kmpi.co.jp/syasin/main/hanaore.jpg

 以上、かなり長い記事になってしまいましたので、このあたりで終りにいたしましょう。

スワヒリ語をベースにピジン、クレオールを考える;言語政策についてPart2;国際援助の現場から#7

2010 2/23

 これまでに、ブログで何回か触れたスワヒリ語をベースに、言葉についての話を進めたいと思います。ちなみに、先日、上ケ原で講演されたケニア出身のノーベル賞受賞者のマータイさんと関学との意見交換会に出席した際、マータイさんにスワヒリ語で、以下のような自己紹介をしました。

  •    Mimi ni namba nane (私は、その書類だとNo.8の者です)
  •    Jina langu ni Yukio Takahata (名前は高畑由起夫)
  •    Kazi yangu ni utafiti ya wanyama wa poli (仕事は野生動物の調査)
  •    Ni-li-kaa Tanzania kwa muda wa miwaka mitatu (タンザニアに3年いました)

 その場にいる者で(院長のグルーベル先生や、学長の杉原先生も含めて)スワヒリ語がわかるのは二人しかいないわけですから、ちょっと変わった気分です。20年以上ほとんど話していない割には、結構、口任せにでてきます。しかし、書きつけるとなにか怪しげで、正当スワヒリかどうか自信がありません。マータイさんには「Safi(結構ですよ)」と言っていただいたのですが。

   実は、交換会がはじまる少し前に会議室をノックすると、マータイさんよりかなり年若の女性がいらっしゃって、娘さんなのです。 U-na-toka Kenya?(あなたは、ケニアから来たんですか?)と尋ねる、ちょっと目を丸くして、それで会話していると赤ちゃんの声がする。Mtoto? Miwaka ngapi?(子供がいるの、何歳?)と聞くと、Miweji mitatu (3ヶ月)とのこと。

 よく見ると、会議室の床に毛布に包まって赤ちゃん(マータイさんのお孫さん)が眼をぱっちりと開けていて、Umelala Slaama(よく寝た?=お目覚めいかが?)と聞いてみました、もちろん、答えてくれるはずはありませんが。

 以前にも触れましたが、スワヒリ語は東アフリカのかなり広い地域で共通語として通用しています。その基本はこれも先回紹介したように、その地に住むアフリカ人の多くが話すバンツー語に、奴隷商人が話すアラビア語が混じってできた言葉です。こうした異文化の融合で生じた言葉を一般にクレオールと呼びます。ここでは、スワヒリ語を例に、ピジンそしてクレオールという言葉とそこにまつわる概念を紹介しましょう。

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 さて、“クレオール”という言葉ですが、どことなくラテン系の感じですよね。これは本来はフランス語やスペイン語で「混淆」という意味なのだそうです(細川英雄「日本語教育クレオール試論」http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/5812/1/34068_9.pdf)。

 そこから、さらに「植民地生まれ」という意味、つまりヨーロッパを離れて、植民地で生まれた子供たちを人種を問わず、“クレオール”と呼ぶ、こんな具合に変化してきたようです(Wikipediaより)。したがって、本来は“クレオール”と言う場合、フランス語やスペイン語が植民地でいわば“変形したり、混じりあったり”した言葉、そしてそこから生まれる文化を指す言葉かと思います。

 ちなみに、“クレオール料理”と言えば、アメリカのニューオーリンズ周辺でフランス、スペイン、中南米、アフリカの食文化が混じってできた食文化です。なお、このクレオール料理に関するもっとも初期の紹介=料理本を書くのは、来日する直前のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)であることを存知ですか?(執筆は1885年、来日は1890年;本間千枝子『アメリカの食卓』より)。

 しかし、今ではクレオールの意味はさらに拡がり、文化の接触による言葉の融合等をすべて含むようになります。したがって、“クレオール語”は世界各地に何種類も存在しています。たとえば、インド洋の島嶼国家セーシェルではフランス語系の“セーシェル・クレオール語”が、西アフリカの島嶼国家カーボベルデではポルトガル語系のカーポベルデ・クレオール語が話されているそうです。

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 スワヒリ語では、その歴史は数百年のレベルに達し、どのように言葉が融合していったかは、単一起源説とそれを否定する非単一起源説があるぐらい、よくわかっていません。つまり、すでに歴史も持つ言葉になっています。それに対して、きわめて近年、言葉が出来上がったケース、それが“ピジン語”です。

 なお、ピジンの語源ですが、中国で英語の“business”が“pidjin”になまったとの説があるそうです。 奴隷商人のビジネス言語でもあったスワヒリ語同様、お金儲けのためにはまず、言葉が通じなくてはいけない、ということかもしれません(そういえば、ポール・ニューマンロバート・レッドフォード主演のアメリカン・ニュー・シネマ明日に向かって撃て』で、南米ボルネオまで流れたブッチサンダンスが銀行強盗をしようにも、“スペイン語”を使えず、苦労するのを思い出します。奴隷を買うにも、強盗するにも、お金儲けをするにも、言葉は必要なのです)。

 ピジンとクレオールとの違いは相対的なもので、母語で使う者がいるかどうか、で判定されます。つまり、両親と子供たちの意思の疎通がピジン語で行われれば、それはクレオールへの道の一歩ということになります。こうしたピジン語の代表が、パプアニューギニア周辺のトク・ピシンとソロモン諸島のピジン語です。しかし、現在では、この二つはスワヒリ語等のように、だんだんクレオール化(つまり母語で話す人ができつつある)しつつあるそうです。

 こうした過程をクレオール化としてとらえることにして、初めは語彙が少なく、難しいことは表現も伝えることもできない言語が、やがて話者が多数になり、かつ母語化して、複雑な意志の疎通も可能になり、やがて自然言語に近づいていく、そうした過程になります。とすれば、“言葉”は生き物で、絶えず変化していく、ことを実感されるかもしれません。例えば、日本語をベースにするクレオール語ができる可能性はあるのか?

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 何年か前、神戸の南京町でエスニック料理の材料をあさっていると、たぶん、インドネシアかマレーシア系の女性が店にあらわれ、中国系とおぼしき店主に日本語で「ケチャップ(トマトケチャップ等のヨーロッパ系調味料でなく、インドネシア周辺の伝統的調味料ケチャップ・マニス等です)ある?」と声をかけると、店主が「あるけど。そういえば、このソースが何だか、わからないんだけど、この文字は何て読むの?」と女性に日本語で尋ね返し、そのやり取りをしばらく聞くうち、「おお、日本列島系日本人ではない者同士が日本語で話し合ううち、クレオール化していく可能性もあるかな」と思ったことがあります。

◆実は、小笠原諸島では、19世紀に移住した欧米系島民の間で複数の言語が使われている(標準日本語、標準英語、日本語小笠原方言、混合言語、小笠原クレオール英語)という報告があります → 文部省科研費の報告書のURLはhttp://www.let.osaka-u.ac.jp/~sbj/ogasawara.htm

◆また、日本語と台湾の言葉の接触で生まれた日本語クレオールについての報告のアブストラクトは次のURLです → http://ci.nii.ac.jp/naid/110006946039/

 保守的な人は嫌がるでしょうね。「それは日本語ではない」と言って、存在自体を貶めるでしょう。そんな事態は、例えばシンガポールではシングリッシュで起きています。しかし、それは無理というもの。例えば、レゲェは本来ジャマイカ英語で歌われるわけですが、それに心ひかれれば、歌詞が標準英語であろうとなかろうとかまわないはずです(ちなみに、この“レゲェ”という言葉さえ、起源に諸説あるようです)。言葉は生き物です。

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 ピジンとクレオールについて、共通にいえることですが、やはり文法や言葉が単純だということが挙げられます。スワヒリ語も実は本来のバンツー語よりよほど単純になっているらしく、その点、私のような語学が苦手な人間にもまことに好都合な言葉です。おまけに、発音も比較的単純で、例えば、“L”と“R”の違い等、さほど気にする必要はありません(これが英語なら、Rice(米)がLice(シラミたち)になってしまいます!)。

 共通語を論じる時、もう一つの重要な要素は、どんな文字を使うのか? ということかもしれません。スワヒリ語では、アラビア人が文字(アラビア文字)を持っていたのに対して、バンツーは無文字文化でしたから、当然、初期はアラビア文字で表記されました。それが、アルファベットで表記されることによって、共通性・遍性がさらに広がったとはいえるでしょう。

 一方、スワヒリ語にも欠点があります。それというのも、元来が実用目的の言葉のため、抽象的な単語、あるいはグローバリゼーションに対応した言葉、専門用語等々、ボキャベラリーが足りないのです。そのため、日本語と同様、外国語がどんどん入ります。例えば、「Nataka lisensi!」といきなり言われたことがあります。

 Natakaは、Ni-na-takaの略です。Niは主格をあらわす代名詞(主語接辞)で「私」、「na」はこの場合は現在型をあらわす時制詞(時制接辞)、「taka」は動詞で「欲しい」という意味で、あわせるとNatakaは「オレは、****が欲しいんだけどね」になりますが、「lisensi」がわからない。簡単な辞書を引いてものっていない。

 あれこれ聞いていると、どうやら英語のlicence(ライセンス)をスワヒリ語風にlisensiと読んでいるようなのです。やれやれというところです。なお、辞書には「liseni」で出ていました。

 スワヒリ語では、外来語の語尾がiの音に変わることがよくあります。例えば、DanceがDansiに変わる。首都に出て、スワヒリ語の新聞(実は、文章はなかなか読めない)をのぞくと、ディスコの広告が「Dansi! Dansi! Dansi!」と大書してあったりします。こうなると、とても英語のダンスの世界ではありません。

 それはともかく、抽象語や専門用語が少ないと、初等教育はともかく、高等教育は大変です。タンザニアの高等教育も、今のところは英語でやるしかないわけです(外務省のHPで、タンザニアの教育についてふれたページ → http://www.mofa.go.jp/Mofaj/world/kuni/tanza_1.html)。

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 今回もかなり長くなってしまったようなので、とりあえず国際政策ならびに言語に興味がある方にとって、言語政策あるいはピジン・クレオールいずれも、これからは欠かせない知識になってくるだろうということで、いったんおしまいにしたいと思います。

プロモーターの時代:高畑ゼミの100冊および総政の映画100本番外編

2010 2/18

 20世紀の時代を象徴する職業プロデューサー興行師、香具師)として、ディアギレフを2回とりあげましたが、次に皆さんに紹介したいのは、もう一つの興業の世界、ボクシングです。ボクシングの試合には、当然、二人のボクサーが必要ですが、それにもまして試合を差配する興業主(ボクシングではプロモーター)が必要です。

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 さて、総合政策で“スポーツ”を議論しようとすれば、“スポーツ社会学”あるいは“スポーツ史”という分野に属する話柄となるでしょう (松井良明『近代スポーツの誕生』) 。近代社会のなかで、スポーツをどう位置づけるか、とくに、ボクシングのような“ブラッディ・スポーツ(流血が避けられないスポーツ)”の意味をどう論じるか、それは哲学的課題でもありますし(ローマ帝国では、セネカが“剣闘士(グラディエーター)”の存在に異議を唱えています)、大衆にいかに満足感を与えるかという政治的課題かもしれません(いわゆる“パンとサーカス”です)。

 それにしても、我々はなぜ“ブラッディ・スポーツ”に引き付けられるのか? そして、どんな仕組みで引き付けられているのか? ここでとりあげるのは20世紀最強のボクサーの一人、“マナッサの虐殺者”あるいは“拳聖”ジャック・デンプシーと、彼を操るように巨大興行にしたてあげていく希代の興行師テックス・リカードです。舞台はまたしても“狂騒の20年代”、この時代の精神を余すとこなく伝える本としてご推奨なのは、『総政100冊の本』でも触れたと思いますが、FL・アレンのルポルタージュ文学の古典『オンリー・イエスタディ(#61)』です(英語の原文がHPで読めます→ http://xroads.virginia.edu/~hyper/Allen/Cover.html)。

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  ジャック・デンプシー(1895-1983)を私が紹介するのはおこがましいのですが、アメリカ合衆国出身、世界ボクシング協会認定ヘビー級第9代チャンピオン(在位:1919年7月4日 – 1926年9月23日、5回防衛)、相手をノックアウトする攻撃力(83試合、62勝6敗、9引き分け、無効試合6;ノックアウト勝50試合、KO率60.2%)と、相手からの攻撃をしのぐ防御力を兼ね備えたボクサー(オーソドックススタイル)です。

 しかし、彼の名を高めたのは“凶暴性”、まさに“流血のスポーツ”の荒神にふさわしい激しさです。マナッサの貧しい家に生まれ、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教とは蔑称だとのことです)というマイノリティに属し、そこから這い上がるのは自分の“拳”しかない、という状況で、なかなか目がでず、“ジャック・カーンズという(デンプシー側から見れば悪徳)マネジャーの手で、ようやくトレドでの世界戦までたどりついたのが1919年7月4日でした。

 当時の国民的英雄、身長2mで「動く山」とあだ名されたジェス・ウィラードとは体重で65ポンド(約29kg)、リーチで5.5インチ(14cm)の差がありながら、初ラウンドで7回ダウンを奪い(つまり、3分間に7回ウィラードをマットに這わせ)、第3ラウンド終了後ウィラードがギブアップするまで、顎が骨折、右目がつぶれ、歯2本と肋骨1本を折られ、ついに第4ラウンドに立てずTKOに追い込まれます(常盤新平『アメリカン ジャズエイジ』より)。

 かろうじて起き上がろうとするウィラードを殴り続けるなど、相手が動かなくなるまで痛めつける惨状に(といっても、当時のボクシングは誰れも同じだったのですが)、この試合は「トレドの惨劇」と呼ばれ、ウィラード側はデンプシーがグローブの下に焼石膏をまいていたのではないか(=反則)と抗議します(ウィラードは晩年もその主張を取り下げませんでした)。

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 とりあえず、新チャンピオンになったデンプシーですが、その凄惨な試合状況に加えて、「パンチを受けても平気なように、毎朝、肉屋から牛肉を洗った塩水をもらって、日に三度も顔を洗う」という都市伝説じみた話も手伝い、希代の悪役(ヒール)として一躍有名人になります。このヒールさにはさらに、モルモン教徒として第一次大戦の兵役を逃れたために受けた「非国民(兵役拒否者=スラッカー)」の悪名も加わり、アメリカ人に嫌われるアメリカ人チャンピオン=アンチヒーローという不思議な存在になっていきます(常盤、前掲書)。

  なお、ウィラードが国民的英雄になった理由ですが、それは世界最初の黒人ヘビー級チャンピオンジャック・ジョンソンを破って、「チャンピオンを白人の手に戻した」ことです。白人ボクサーを打ちのめし、白人女性と結婚したため、「マン法」違反で有罪になったジョンソンは、「13年以上にわたり、地球上で最も有名であると同時に、最も悪名高い黒人であった」。打倒した白人ボクサーを露骨に侮蔑するジョンソンの試合結果に、人種暴動さえ起きたと言われるほどです。結局、1915年4月5日、酷暑のハバナでウィラードになんと26ラウンドでノックアウトされます(以上、Wikipediaより)。

 ついでに付け加えると、スポーツしか出世の方法がないような社会では、貧困層がボクサーになるのはいわば当たり前のことかもしれません。

 1892年、クインズベリー・ルールで初の世界チャンピオンに認定されたジョン・L・サリバンはアイルランド系(WASP社会でのマイノリティ)、1930年代に25回の防衛を果たした“褐色の爆撃機”ジョー・ルイスはアフリカ系、1950年代に不敗のまま引退したロッキー・マルシアノはイタリア系(映画『ロッキー』の主人公は、マルシアーノの名前をリング・ネームにいただいている、という設定です)、1960代からはソニー・リストンモハメド・アリをはじめとするアフリカ系が占め、21世紀に入ると落日の旧東側のロシア、ウクライナからチャンピオンが出る、という具合です。

 もちろん、映画『ロッキー』に限らず、貧しき境遇から這い上がろうとする“男の野望と挫折”、ハリウッドではジョン・ヒューストンがもっとも得意としたジャンルですが(ちなみに、ジョン・ヒューストンの自伝『王になろうとした男』(#62)では、デンプシーに出会うシーンがでてきます)、当然映画の題材にとり上げられ、上記のジョン・L・サリバンがクインズベリー・ルールでジェームズ・コーベットに21ラウンドでノックアウト負けを喫する試合は、コーベット側の視点から『鉄腕ジム』(主演エロール・フリン;未見)で映画化されています。

 中でも必見は、何を演じても限度というものを知らないロバート・デ・ニーロが、引退後の醜態を見せるため実際に27kgも体重を増やしたという(その迫力でアカデミー主演男優賞獲得)、ミドル級チャンピオンジェイク・ラモッタの、ストリートのワルから世界チャンピオン、そして敗北、その後のむなしい生活など、波乱万丈の人生を撮った『レイジング・ブル』をあげておきましょう(映画番号#50;監督マーテイン・スコセッシ)。

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 一方、テックス・リカードも西部カンサス・シティに生まれてから、賭博場・酒場の経営を経て、ボクシングのプロモーションに手を染め、ついにニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンのプロモーションを手掛けるまでに出世した男ではありますが、しかし、それも“ジャック・デンプシー”という稀有な珠を手中にしたからこそ。

1921年7月2日、ニュージャージー州でおこなわれたデンプシー対カルパンティエ(フランス)の世界戦は、入場者9万1千人、入場料収入がついに100万ドルを突破した試合として後世にも名を残します。その知試合直前、控室でリカードは、

今日はボクシング始まって以来の大事件だ。だから、そいつをきみのためにぶちこわしたくない。これはほんのはじまりなのだ。われわれはこれから何百万ドルも儲けるんだ」と言ってから、デンプシーに「彼を殺すなよ、ジャック。もし彼を殺したりしたら、きみはボクシングを殺すことになる」と誓わせたといわれています。

 ちなみにデンプシー×ウィラード戦(1919年)の入場料収入は45万2千ドル、それが後で触れるジーン・タニー戦(26年)では200万ドル、そしてジーン・タニーとのリターン・マッチ(27年)では実に260万ドルに膨れ上がります(『オンリー・イエスタディ』から)。

 なお、テックス・リカードもまた純粋に賭けを愛した時代の子、ヘビー級としてはけして身体が大きいわけではないデンプシーを見込んだのも、また、ヒールとしてのデンプシーの評判にひるまなかったのも、“賭博師”としての矜持がさせたことかもしれません。

 リカードは、1919年のワールド・シリーズを買収したと噂されているアーノルド・ロスタイン(フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の登場人物ウルフシャイムのモデルとも言われています)を評して「私はパーセンテージで勝負するが、アーノルド・ロスタインのように確実なものにしか賭けない賭博師ではない。そんな賭けは博打でもないし、冒険でもない。私は一か八かをやってみる賭博師なので、勝つために“買収”をやるような賭博師ではない」と嘲笑ったといわれています(常盤、前掲書)。

 つまり、決して負けないように仕組む賭博師は、真の意味での賭博師ではないです(これは、もちろん、ディアギレフにもあてはまるかもしれません。現代の映画監督では、ひょっとしてヴィスコンティコッポラが一番該当するかもしれません)。

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 デンプシーもまた、テックス・リカードの期待に応え(プロモーターとしては、ヒールであろうとなかろうと、客が入れば満足です)、“マナッサの虐殺者”の名にふさわしい試合を続けます。観客席からそれを見守った後の大監督ジョン・ヒューストンの『王になろうとした男』から一節を引用しましょう。

 その夏(1923年)のクライマックスは、父に連れられて見に行ったデンプシー対フィルポの世紀の一戦だ。劇的な衝撃の大きさで私の知る限りこの試合に匹敵するのは、その20数年後、メキシコシティで見たロレンソ・ガルサとマノレテの闘牛合戦しかない・・・・・フィルポは巨体を褐色のバスロープに包んでいた。リング上の誰よりも、肩から上の分だけ高く・・・・両者の体格の相違に観客は息を飲んだ。フィルポに比べればデンプシーはまるで子供だった。(中略)

 フィルポのパンチも効いていた。彼はジェス・ウィラードのような見かけ倒しではない・・・デンプシーの闘いぶりには命がけの必死さがうかがえ、彼独特のかがんだ姿勢で左右に体をかわしながら、変幻自在のフックを右から左からも放っていた。(中略)。第一ラウンドでの終わり近くになってフィルポはおのれを取り戻し、デンプシーをリングの外に殴り倒した。

 アリーナの客は絶叫して総立ちになった。・・・フィルポは突進して、デンプシーをコーナーに追い詰めた。しかしいっきにカタをつけようと頭に血がのぼったのか、右からも左からもしゃにむにパンチを繰り出した。あのパンチの一つでも命中していれば、試合はそこで終わっていたはずだ。でもここでデンプシーは真のチャンピオンは誰かを証明した・・・

 結局終了のゴングが鳴るまで嵐のような攻撃から身を守った。第2ラウンドでは、生気をよみがえらせたデンプシーがフィルポをノックアウトした。そのとたん会場のポログラウンドのいたるところで喧嘩が始まった。群衆の感情の爆発であり、その有様は形容を絶した 

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 観衆の悪罵、怒号のなか、フランスから来た優男カルパンティエ、アルゼンチンの猛牛フィルポらをノックアウトして、全盛期を誇ったデンプシーですが、やはり落日の日々は訪れます。1926年、物静かなアウトボクサー、「戦う海兵隊」ことジーン・タニーの挑戦を受けると、そのアウトボクシングの前に、最終ラウンド、デンプシーの顔は無残に腫れあがり、無念の敗北を喫します。その時、「どうしたの?」と尋ねた奥さんのエステル・テーラーに、デンプシーは傷んでいない方の口のすみで微笑んで、

 「僕はダッキングを忘れたんだ」と答える。

 この前チャンピオンのいさぎよい答えっぷりに、アメリカ国民がはじめてデンプシーを認める、これこそがアメリカ国民のパーソナリティの秘密をとくカギかもしれません。ヒールが負け、その負けを率直に認めて、自省の言葉を発した時、負のイメージが一瞬にして逆転する瞬間です(常盤、前掲書)。これ以後、二度とチャンピオン・ベルトを手にすることはできなかったデンプシーですが、アメリカというより世界史上もっとも人気のあるボクサーに変貌します。

 真の賭博師テックス・リカードにとっては、同時に、“稼ぎ時”です。ジーン・タニーとのリターン・マッチにこぎつけるため、再起をめざすデンプシーに次々に試合をあてがいます(もちろん、大儲けです)。映画『ロッキー』のシリーズさながら、その試練を駆け抜けて、1927年9月22日、ジーン・タニーと再戦、10万4千人の観客を前に、第7ラウンドにダウンを奪うも、レフェリーからニュートラルコーナーに行くよう注意され、その間にカウントが中断したため(通称、ロングカウント事件)、タニーはカウント8で立ち上がります。

 そして、第8ラウンド、ついにデンプシーはノックアウトされてしまいます。以下が、英語版、Wikipediaからの引用です。それにしても、最後のセンテンスのデンプシーの言葉、勝ったタニーの腕をあげて、彼をたたえる言葉をどう訳せばいいんでしょう? 「お前は最高だぜ! (おれを破るなんて)このガキは大したもんだぜ!」とでも意訳すれば良いのでしょうか? 英語が得意な方は、是非チャレンジを!

     In round seven, however, the 104,000  in attendance witnessed a moment that would live on in boxing history. With Tunney trapped against the ropes and near a corner, Dempsey unleashed a combination of punches that floored the champion. Two rights and two lefts landed on Tunney’s chin and staggered him, and four more punches deposited him on the canvas. It was the first time in Tunney’s career that he’d been knocked down.

     Apparently dizzy and disoriented, Tunney grabbed on to the ring’s top rope with his left hand. Dempsey, who used to stand over opponents and rush right back at them after they got up, looked down on Tunney. Referee Dave Barry ordered Dempsey into a neutral corner to no avail; Dempsey just stood there, observing his opponent. This gave Tunney precious seconds to recuperate. By the time Dempsey finally walked to a neutral corner, Tunney had been down for around 3 to 7 seconds. Barry could not start to count on Tunney until Dempsey reached the neutral corner, but he was still able to count to nine before Tunney got up. Some believe that if Dempsey had responded to the referee’s orders in time, he would have likely regained the world Heavyweight crown with a seventh round knockout of Tunney. The validity of this argument has been debated even to this day. In the fight film, a clock was superimposed that recorded Tunney’s time on the floor as 13 seconds, from the moment he fell until he got up. Because of this delay, it became known as The Long Count Fight.

     By the eighth round, Tunney had resumed boxing from a distance, and he floored Dempsey with a punch. It’s notable that this time, the referee started counting right away, before Tunney had moved to a neutral corner. Tunney was then dominant in the final two rounds, and went on to retain the world title by a unanimous decision. After the fight, Dempsey lifted Tunney’s arm and said, “You were best. You fought a smart fight, kid.” It was Dempsey’s last career fight, and Tunney’s next-to-last.

 

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 いささか長くなりすぎたようですので、このあたりで一応終りにしたいと思いますが、プロモーターとして試合を取り仕切る場合、“deep play”(深い遊び)を実現しようとすれば、まったく五分と五部、甲乙つけがたい対戦相手とのマッチ・メークしかありません。例えば、インドネシアの闘鶏では、マッチ・メーカーは対戦する軍鶏の実力を冷静に評価し、五分五分にするため、脚の蹴爪に装着するナイフの角度を微妙に調整するそうです(人類学者のC・ギアツの『文化の解釈学』から;書籍番号#29)。

 一方、個々のボクサーのマネージャーにとっては、(客は喜ぶでしょうが)そんな凄惨な試合はやりたがらず、自分の手ごまには絶対に勝ちそうな格下と対戦させて(これは孫子の兵法です)、勝利の数を増やしたい(クリント・イーストウッドの映画『ミリオンダラー・ベイビー』[映画番号#27]に活写されています)。1920年代のヘビー級チャンピオンはこうして黄金の時代を迎えた後、デンプシーの凋落とタニーの早めの引退によって、いったん幕を閉じます。

 

ディアギレフに関する様々なこと#2:バレエ、ダンス、アート、ファッション

2010 2/11

 先に、20世紀初頭、ロシア・バレエ団を率いて、バレエの歴史を塗り替えたセルゲイ・ディアギレフの話をしましたが、もう少し話をつづけたいと思います。

 先回も紹介した初期のダンサー(ディアギレフの愛人でもあった)ヴァーツラフ・ニジンスキーですが、彼が活躍を始めたのは1909年、そして13年にはロモラ・デ・プルスキとの結婚で解雇され、そこに第1次大戦等の影響も加わり(ロモラの母国ハンガリーはニジンスキーの祖国ロシアと戦争状態に入ります)、1919年統合失調症を発症して、以後、1950年に死亡するまで、ついに一度も踊ることができませんでした。ヨーロッパの舞台に立ったのは正味ほぼ10年(しかも世界大戦をはさんで)、文字通りの“伝説”のダンサーなのです。

なお、私が依っている本を紹介すると、ロモラ・デ・プルスキが書き残した手記『神との結婚』、ニジンスキー自身が発症直前に書きつけた『ニジンスキーの手記 肉体と神』、W・ワイザー『祝祭と狂乱の日々』、A・ゴールド&R/フィッツデイル『ミシア』等です。

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 「一瞬、宙に静止したように見えた」という彼の映像は、まったく残っておらず、また、ロシア・バレエ団での振付もほとんど失われたそうです(こうした事情は、もう一人の偉大なダンサー、イサドラ・ダンカンも同じですが、彼女は自分の踊りを撮影されることを嫌っていました。1度だけ、庭園で踊るところを隠し撮りされ、その映像を観た事があるのですが、ギリシャ風のチュニックをまとって、くるくる回っているらしい姿が、びっしりの人越しにかすかに見える程度です)。

 ダンサーとしては、跳躍や優美な動きで注目を集めたニジンスキーですが、振付師としては、毀誉褒貶すさまじく、パリの観客を二分にした『牧神の午後』や『春の祭典』等、古典的バレエを破壊するような特異な振付を押し通します。とくに、『牧神の午後』の最後は、見る者だれもが“性的な行為”を連想する身ぶりで、困惑も最高潮に達したようです。「ニジンスキーの見事な跳躍を期待していた観客は、静的な官能表現とプログラムの解説-『牧神の午後』は亜鉛の木々の茂る風景の中で踊られるべきである-にとまどいの色を隠さなかった」(『ミシア』より)。

 この12分間のバレエにもっとも強く反応したのは彫刻家のロダンで、新聞『ル・マタン』に「・・・ニジンスキーは、肉体的な完璧さ、調和のとれた体つき、もっとも複雑な感情でさえ、肉体によって伝達することができる稀に見る能力、というきわだった長所を備えている。『ペトルーシュカ』の悲しい演技は胸に迫るものであり、『バラの精』の最後の跳躍は、あたかも無限の空間へ飛び去るような感じを与える。だが、『牧神の午後』におけるニジンスキーをしのぐほどすばらしくまた称賛すべき演技を見出すことは不可能であろう。跳躍もなく、難しい技術の見せ場もない。ただ、半ば人間の意識を持つ動物の身ぶりとしぐさがあるだけだ・・・彼こそはすべての画家、すべての彫刻家が求めていた理想のモデルにほかならない」と擁護します(『神との結婚』より)。

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 さて、調べてみると、ユーチューブに関連する映像がいくつか出ています。最後のダンスから90年、死亡してから60年経っても、まだ、後輩のダンサーたちの心と技を支配する神、ニジンスキー。まず、以下はマーゴ・フォンテイーンバリシニコフが踊る『バラの精』のユーチューブです。

http://www.youtube.com/watch?v=wMbZ7dfcUco

 次に、ニジンスキーの振付を再現した『春の祭典』とされる映像です。たった4回の上演に、120回のリハーサルをダンサーに課したというニジンスキー。これをいきなり見せられれば、1913年のパリのブルジョアジーたちが戸惑い、激怒したのもわからないわけではない、と思うかもしれません。とりあえず、これが20世紀バレエの幕開けを告げるシーンなのです。

http://www.youtube.com/watch?v=bjX3oAwv_Fs&NR=1

http://www.youtube.com/watch?v=vb8njeKBfqw&feature=related

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 ニジンスキーの手記は、私がもっている日本語訳で229頁、冒頭はこう始まります。

  •  「人々は、ニジンスキーが悪いことをして気狂いの真似をしていると言っている。悪いことは恐ろしい、私はそれを憎んでいる、だからそんなことをやろうなんて思わない。私は神を知らなかったので以前は誤りを犯した。私は神を感じた。しかし、皆がやることを理解しなかった。人々は「感情」を持っている。しかし、彼らはそれが何であるのか知らないのだ。私は、感情とは何であるかを説明するためにこの本を書きたい・・・・私は間違いを犯した。しかし、私は一生をかけてそれをただした。私は世界中のだれよりも苦しんだのだ・・・
  •  「私は愛そのものであるので、幸福である。私は神を愛す、それで自分自身に微笑みかける。人々は、私が狂って理性を失うと考えている。ニーチェはあまりに考え過ぎて理性を失った。私は考えない、それで狂うはずがない・・・

  そして、最後はこんな風に閉じられます。

  • ・・・私は求道者だ。神を感ずることができるからだ。神は私を求め、そうして私たちはたがいに見つけ出すのだ。
  •                     神とニジンスキー サンモリッツ村 ガーダムント別荘にて
  •                                            1919年2月27日

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  さて、前回には、ディアギレフとココ・シャネルの出会いを紹介しましたが、「誰にも言わないで」というシャネルの条件を、ディアギレフはすぐに裏切り、誰より知られたくなかったミシア・セルトにもらします。この二人は、まさに腐れ縁、離れられないライバル同士で、ディアギレフのパトローンの座を争います。もちろん、お金の余裕という点では、ミシアがシャネルに勝つはずはありませんが。

 男性にしか興味を持てず、かつ若者たちに次々に裏切られるディアギレフと、次々に結婚しながら、結局は長続きしない“ベル・エポックミューズ(美神)”ミシア(彼女の容姿はロートレックボナールルノワール等の大画家たちにインスピレーションを与え、数々の肖像画にとどめられます)、そして、孤児の生まれながら愛人から援助を受けて、帽子屋からファッションへと才能を発揮する、しかし、最愛の男性に先だたれ、ついに一生、心に決めた男性と結婚できなかったココ・シャネル、この不思議な三者関係が続きます。

◆シャネルのHP;http://www.chanel.com/index.php?zone_lang=ASIJP

 1929年、かつての愛人への想いからか、ディアギレフは新しいスター、セルジュ・リファールが踊るペトルーシュカを見せれば、ひょっとしてニジンスキーが正気を取り戻すのでは、と策略をめぐらし、ロモラの旅行中、オペラ座にニジンスキーを招きます。しかし、ニジンスキーは何の反応も見せず、試みは失敗します。

◆パリ・オペラ座のHP http://www.operadeparis.fr/cns11/live/onp/

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 ディアギレフがニジンスキーに再会したその夜、彼は16歳の若き音楽家イーゴリ・マルケビッチを知ります。そして、二度目の出会いにシャネルの屋敷を選び、マルケビッチがピアノで弾く曲を聴きます。最初、他者の模倣が強い作を聞いたディアギレフは、こう言ったと伝えられています(『祝祭と狂乱の日々』より)。

  • 私のために“明日”を準備してくれ、と言ったのに、君は“昨日”のことしか考えていないね
  •  この問いかけに、マルケビッチはエスプリを持って応じます。
  • 僕の関心は昨日、今日といったことではなく、“永遠”にあるのです
  •   その後、マルケビッチが演奏する未完成の断章をめぐって、つい話し込んでしまったディアギレフは、思わず時間が過ぎたのに気付き、劇場に向かおうとして屋敷の主人にすれ違う際、「親愛なるココ」と声をかけます。「この子はいずれ、偉大なものを産み出すだろう」*

 イーゴリと並んでもう一人の“ディアギレフの子供たち”、ボリス・コフノは亡命ロシア人の子弟で、秘書として雇われますが、なんでも自分でやってしまうディアギレフに困惑してしまいます。ついに意を決して、「私は何をやればよいのでしょうか?」と尋ねたコフノに、「ようするに、無くてはならない存在になるのが、秘書の務めだよ」**と言われ、自らそんな存在になるべく努力する(これこそセクレタリー・ワークの基本です)。ディアギレフの死後、コフノとリファールはロシア・バレエ団を共同で運営しようとしますが、失敗、コフノはモンテカルロ・ロシア・バレエ団、そして、シャンゼリゼ・バレエ団等にかかわっていきます。

 *:イーゴリはのち、ニジンスキーの一人娘キュラと結婚しますが、結局、離婚します。

**:実はもう一つの説があって、「それを探すのが、君の仕事だよ」と答えたともいわれています。

高畑ゼミの100冊Part12:ユリウス・フチーク『絞首台からのメッセージ』

2010 2/11

ユリウス・フチーク『絞首台からのレポート』(#60):今回は、このまったく無名のチェコの共産主義活動家が書いた本を取り上げたいと思います。

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1989年のベルリンの壁の崩壊以来、「社会主義」の旗色は悪そうです。1980年代初期、アフリカに滞在した3年間、当時のタンザニア政府は社会主義政策をとっていましたが、その実態はひどいもので、少なくともアフリカでは社会主義は難しい、とてもうまくいかない、というのが私の実感でした。

とは言え、20世紀、社会主義共産主義無政府主義帝国主義資本主義ファシズムに対するアンチ・テーゼとして、それなりの社会的意義をもった(ただし、あまりに高価につきすぎた)実践・実験だったかもしれません。そこに参加した多くの人たちは、(少なくとも初めは)きわめてまじめだったのです。そのあたりへの素朴な感情は、例えば宮崎学の『突破者』の冒頭近く、やくざか土建屋か定かならぬなりわいに身を呈し、目に一丁字なき父親が、安保闘争の際に、息子の宮崎に突然「左翼はエグイぞ」と言いだし、戦前の左派系政治家山本宣治との交友を口にするエピソードに鮮やかです。

おまえは知らんやろうが、昔、この京都に山本宣治ちゅう左翼がおった。京都のもんは山宣と気やすう呼んで人気もあった。戦前は国会でたった一人か二人しかおらん左翼の代議士をやっておったんやがお上にとことん楯ついたんで、お上の手先に殺されてしもうた。その山宣と若いころに知りおうて、けっこうな付き合いをさしてもろた事があるんや」そして、「あいつら偉いで、わしらやったら、警察に一日パクられただけでもひや-いうのに、あいつらとことんいきよる。それにや、おのれには一銭にもならんことに命張りよる。わしらにはなかなか真似できんコっちゃ

なお、この山宣は大学院および教員として、私の大先輩にあたる生物学者ですが、産児制限運動や科学教育の実践から社会活動に目覚め、ついに政治家に転身します。しかし、1929年普選運動に挺身している際に右翼に暗殺されます。Wikipediaによれば、残された長男は第三高等学校と早稲田の受験で「父(山本)を尊敬している」と言ったため落とされ、その後、関西学院に入学しているそうです)。

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さて、本題にもどりましょう。ユリウス・フチーク(1903-1943)は、1938年のミュンヘン会議以降のナチス・ドイツ侵攻によって占領状態にあったチェコ・スロバキアの首都プラハで、共産党中央委員として地下活動に従事、抵抗運動を組織した人物です(長谷川四郎による『筑摩世界ノンフィクション全集』版の解説から)。1940年にはナチスの宣伝相ゲッペルスに対して、次のような公開状を書いたそうです(前掲、長谷川による)。

君たちはヨーロッパに市の好調を組織した。君たちは空・海・陸における宣戦を布告した。しかし、君たちはそれを君たちがチェコ、フランス、ベルギー・・・・・イタリアおよび君たち自身の国の人民を追い込もうとしている地下で終結するだろう

このきわめて勇敢で「不思議な明るさ」を持つ活動家は、しかし、1943年4月24日の「美しい、なま暖かい春の夜」、ゲシュタポ(ドイツ秘密警察)に逮捕されます。その日のうちに始まった拷問が、翌日の午後5時、「エル・ハト・ショーン・ゲヌーク(これでもう十分だ)!」の声で終わるまで、彼はついに自白を拒みますが、その結果、ほとんど死体も同然の身体になってしまいます。それなのに、護送中の車の中でピストルを突き付けられている。それを感じとった彼は、いかにもナチスを揶揄すべく「それは私の今の状態ではこっけいに見える」と想うのです。監房にぶち込まれた彼に、同房の者が「あの連中ときたら何ということをするのだ!」ともらし、「朝まで、もたないだろう」とつけくわえるところで、25日の夜が訪れます。

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文字通り「絞首台」直前のこの「レポート」は、レジスタンスに心寄せる看守の一部の手引きにより、秘かに持ち込まれた紙片に、フチークが書きつけるという形で、ナチス・ドイツの本質を後世に伝えるべく残された記録です。しかし、全編をつらぬくのは、フチークの明るさ、この不正義(ナチス)がいつまでも続くはずはない、という信念とも、使命感とも言える思いと、すべてを冷静に理解しようとする明るさです。

「・・・私の裂けた歯茎は日曜のグラーシュの中にある煮過ぎたジャガイモさえかむことができない・・・「グラーシュさえ、この人はグラーシュでさえいらないと言っている」とカルリークは嘆いて、私の体の上の方で頭を悲しそうにふる。それから彼は「お父さん」と公平に分け合ってから、私の分も半分飲み込む

ああ、パンクラーツ(監獄)で1943年を暮らした者でないとグラーシュのほんとうの味はわからない。胃袋が飢えのためにうなり声をあげ、入浴のとき体が人間の皮をかぶった骸骨同然になっていることがわかる」「肉切れの少しはいったグラーシュをひと匙かけてくれた。それは奇跡的においしかった・・・それは人間生活、ゲシュタポ監獄の過酷な異常さのただ中で、文明的なもの、正常なものを思いださせる形のある何ものかであった

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その後、ゲシュタポは手を変え、品を変え、かれに自白を迫ります。ある日、ゲシュタポの一人が尋問後、フチークを車に乗せて、プラハの町を見せます。現世を見せつけることで、彼を誘惑しようというのです。

「きみがプラハを愛していることをぼくは知っている。見てみたまえ! プラハにはもう二度と帰るつもりはない、などときみは本気で思っているのかね? なんと美しい町だろう! きみがいなくなっても、プラハはやはり美しいのだよ・・・・」

私は・・・彼の言葉をさえぎった。

「それからプラハは、あんた(ナチス)がこの世にいなくなったあかつきには、今よりもっと美しくなりますよ」

彼は笑ったが、その笑いは短かった。しかし、意地悪いものではなく、むしろ悲しみがこもっていた。彼はいったのである。

「きみはシニカルだね」

この日々もやがて終りを告げます。パンクラーツ監獄から移送された彼は、8月25日ベルリンで死刑判決をうけ、9月8日処刑されます。その3か月前最後に書き記された数行は以下の通りです。

  • 私自身の劇は終りに近づいている。私はその結末を書くことはできぬ。なぜなら私はそれがどうなるのかまだ知らぬからである。これはもはや劇ではない。これは生活である。
  • 生活に観客などというものはない。
  • 幕が上がる。
  • 人々よ私は皆さんを愛した。気をつけなさい!
  • 1943年6月9日
  • ユリウス・フチーク

プロデューサーの奨め~ディアギレフに関する様々なこと~;高畑ゼミの100冊番外編

2010 2/8 総合政策学部の皆さんへ

 20世紀は、すべてをビジネス化する資本主義の時代であり、それに例外などあるはずもありませんでした。飛行機を発明すれば、それが売れるかどうか考える(先のブログで触れたライト兄弟とその競争者たち)。同様に、ニューヨークからパリまで無着陸飛行をしたければ、まず、出資者(パトロン)を探さねばなりませんでした(リンドバーグ)。こうして、一つの企画を進める際、すべてをまとめあげて一つの目的に進行させる役、プロデューサーこそ、20世紀を象徴する職種の一つになりました。

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 ここで紹介するのは、20世紀初頭、ロシア・バレエ団を率いて、帝政ロシアからヨーロッパに渡った20世紀最大の芸術プロデュ-サーの一人、セルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)です。とくにロシア革命以後、貴族階級出身のディアギレフはいわば亡命状態になり、“浮草”的な状況を余儀なくされますが、それをものともせず、舌先三寸で世界のバレエ界に衝撃を与え続けます。

 その彼が世渡りのために使った才能とは何か? 実は、彼は自分でバレエを踊れるわけではなく(ダンサーではない)、振付できるわけでもなく(コレオグラファーでなく)、曲を作れるわけでなく(コンポーザーでなく)、演奏できるわけでもない(ミュージシャンでなく)、舞台配置をつくるわけでもなく(舞台美術家でなく)、作り手としては何者でもないのですが、“美”を理解し、なにより“アバンギャルド”であり続けることで(「僕を驚かせてくれ!」というのが、彼の決め台詞です)、プロデューサーをつとめます。

 バレエという総合芸術を制作(プロデュース)する際に発揮される大胆な企画、意表をついた音楽家の起用、有名芸術家への依頼等を駆使して、それまでだれも見たことのないものを作り出す、まさに20世紀がもたらした独特のステータスです。

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 こうしてロシア・バレエ団(通称バレエ・リュシュ)は、1909年から20年間、才能の濫費ともいえるような豪華メンバーを集め、ヨーロッパのバレエの歴史を文字どおり書き換えます。1909年の『イーゴリ公韃靼人の踊り』『レ・シルフィード』等に始まり、翌年の『火の鳥』ではディアギレフの依頼で、当時の若手イーゴリ・ストラヴィンスキーが作曲、バレエ団初期のコレオグラファーのミハイル・フォーキンが振り付け、ターマ・カルサヴィナが踊りました。さらに、1911年の伝説のダンサーヴァーツラフ・ニジンスキーが「一瞬、空中で静止した」と謳われた『薔薇の精』等を経て、バレエ団として正式に発足、1929年のディアギレフの死まで、快進撃が続きます。

 このブログにしばしば登場するイギリスの小説家サマセット・モームの『作家の手帳』には、インド旅行中、車を走らせていくと林の中から美しく羽を広げた野生の孔雀が突然現れるという印象的シーンがでてきます。その足取りは「いかにも上品な、ふしぎなくらいしとやかな歩きぶりなので、わたしはふとコヴェント・ガーデンの舞台にあらわれたときのニジンスキーの、ちょうどこのように優美でしとやかで上品な歩き方を思い出した。ジャングルの中を寂然と孔雀がぬい歩いているのを見るのは、かつて知らぬ感興であった」。これは、伝説のダンサーをもっとも称揚する形容ではないか、と私は秘かに思っています。

 その間、主な者だけでも、舞踊家・振付師にアンナ・パヴロワブロニスラヴァ・ニジンスカレオニード・マシーンジョージ・バランシンセルジュ・リファール、音楽家にクロード・ドビュッシーエリック・サティモーリス・ラヴェル、セルゲイ・プロコフィエフダリウス・ミヨーフランシス・プーランク、画家・美術家にレオン・バクストアンリ・マティスジョルジュ・ルオーパブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラックココ・シャネルジョルジョ・デ・キリコジョアン・ミロ。台本作家等にフーゴ・フォン・ホーフマンスタールジャン・コクトー等です。

 とくにマシーンやバランシン、リファールらはその後、めいめいバレエ団を運営、世界のバレエ界に影響を与えます。とくに有名なものにバランシンが創設したニューヨーク・シテイ・バレエ団などがあります。

 また、舞台美術の系譜では、例えば初期のバクストのオリエンタル的なエキゾチズムから、やがてシュールレアリズム系の画家の採用と、初期のロシア・ベースから、次第にインターナショナルへ、立ち位置を移していきます。

 芸術の目利きとしての彼は、無名・有名を問わず、才能のある芸術家を見出し、起用し、成功させます。それゆえ、芸術家たちもディアギレフに一目も二目も置いて、自らを売り込みます。しかし、すべて受け入れていたわけでなく、とくに“ジャズ”等、当時パリで大流行していた黒人音楽の売り込みは警戒したといわれています。

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 「なによりも私は香具師だ。しかし、スタイルを持った香具師だ」と豪語したというディアギレフにまつわるエピソードは、そのまま並べれば尽きることがないかと思いますが、一つつ二つ紹介しましょう。

 1920年、ストラヴィンスキーに作曲させた『プルチネルラ』では、舞台はピカソに任されます。そして、ピカソが描いた第1案のスケッチを、ディアギレフは気に入らず、ピカソの面前で(現在残っていれば、それこそ何百万円になるかもしれない)そのスケッチを、びりびりに破いて踏みつけます。日頃はそんな無礼を決して許さぬあのピカソが、心中の激怒を懸命に抑え、やむなく第2案を提出します(W・ワイザー『祝祭と狂乱の日々』より)。

 ある日、ディアギレフはヴィネツィアのホテルで、知り合いの女性ミシア・セルトと見知らぬ黒いドレスの女性に出会います。そこで「『春の祭典』の再演のためには、ストラヴィンスキーが要求する大編成のオーケストラを雇う必要があるが、今の財政状態ではとてもそれは不可能だ」とひたすらミシアに愚痴をこぼしたディアギレフですが、後刻、パリのホテルに戻ると、驚いたことに、先ほどの名前も知らず、一言も発しなかった女性が訪ねてきます。そして、30万フランの小切手を差し出します。条件は一つだけ、それは「私が寄付したことを決して他人に言わないこと」(W・ワイザー、前掲書)。これこそパトローンの究極の姿というべきでしょうが、女性は先ほど画家・美術家の欄に載っていたココ・シャネルその人です。

 最後に付け加えますが、ディアギレフは同性愛者で、バレエ団の男性バレエスターたちは彼の愛人でもありました。ニジンスキーは、よく知られているようにひそかに女性の恋人を作り、ディアギレフから離れたすきに結婚してバレエ団を解雇されます。その後任のマシーンもまた、同様に、ディアギレフから逃げる等、1929年の死まで芸術と愛欲と、そしてプロデュースそのすべてが絡み合った人生を送ることになります。

 以下、to be continued・・・(#2へ)

官僚について考える~サミュエル・ピープスと朝日文左衛門から:高畑ゼミの100冊Part11bis

2010 2/4

  今日、新聞を開けば“官僚(あるいは官僚制度)バッシング”的なニュースを見ない日はなさそうです。それでは、“官僚”とはどのようにうまれてきたのか? 高畑ゼミの100冊にかこつけて、いくつか本を紹介しましょう。

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書籍番号#44サミュエル・ピープス『日記』:以前の投稿でご紹介したJ・ウェブスター作『あしながおじさん(#43)』に関してちょっとだけ触れたサミュエル・ピープスの『日記』をもう一度とりあげてみたいと思います。とは言え、この『日記』はかなりの大部ゆえ(私も2巻しか持っていません)、一般の方には岩波新書版『ピープス氏の秘められた日記:17世紀イギリス紳士の生活』(臼田昭;#44a)がとっつきやすいでしょう。

 まず、ピークス君(1633-1703)について紹介すると、イギリスの清教徒革命の結果成立したクロムウェル政権が結局は崩壊、国外亡命中だったチャールズ2世が復位した後、海軍省に入省、一平民から出世して、イギリス海軍の大立者(ただし文官)になりますが、名誉革命でジェームズ2世が追われると引退する、というのが一応の履歴です。

  それでは、ピープス君には何を注目すべきでしょうか? 彼は実は、近代的官僚制度の草分けの例ともいえる方です。Wikipediaでは、「官僚としての業績も大きく、王政復古後の海軍再建に手腕を発揮したことにより“イギリス海軍の父”とも呼ばれている」と書かれています。もちろん、彼は文官であって、武官ではありません。あくまでも官僚として、軍政に携わる、これがピープスの基本姿勢です。

そのために、海軍のこと等何も知らない彼は、それなりに勉強します。どんな木材が、ロープが軍艦に最適なのか? 船乗りたちに満足の与える食料等を供給するにはどうすればよいか? 国家と王への負担を減らしながら海軍としての機能を充実させる(負担を減らした幾分かは自分の懐も肥えさせる)、その刻苦勉励ぶりが彼をして“アドミラルティ書記官”、実質的な海軍大臣にまで出世させます。

 実は、絶対王政は官僚を必要とします。王は、もはや(阿呆で無能な)貴族に頼ることはできず、優秀な官僚を、それがしばしば異国人であれ(=明治期の日本の“お雇い外国人”を思い出して下さい)、異教徒であれ(神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世とその後継者たるシチリア王国は、イスラーム教徒の官僚までいました)、王にとって必要であれば雇われます。

 貴族制のもとで、優秀な人材が出世できないイタリアの現状を嘆き、皇帝以外はすべてひとしなみに扱われるオスマン・トルコの体制をうらやんだルネサンス期のインテリたち(そのなかには当然、マキャヴェッリも入るでしょう)がついに実現し始める。それが、ピープスの時代ともいえます。

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 といっても、彼の場合、あくまでも官僚の“草分け”です。仕立て屋の子どもながらも、遠縁には貴族階層もいます。それが初代サンドイッチ伯爵エドワード・モンタギュー=その4代目サンドイッチ伯爵がバクチ好きのあまり、食べる暇も惜しむため、サンドイッチを“発明”したという伝説になっています。

 ピープスはサンドイッチ伯の伝手で海軍省に勤めるや、自分の懐にもある程度金を回しつつ(日記には、自らの収入と蓄えについて、事細かな記録がついています)、王と国家のために、そして自分に何ができるのかを追求します。

 二兎を追うともいえますし、この時代は皆そうだったともいえます(『日記』には同僚への悪口があけすけに書かれています)。

 さて、彼が現世に知られている所以は、しかし、その優秀な官僚ぶりよりも、1660-1669年に日々書き綴った奇書『日記』において、チャールズ2世を中心とした王政復古期の政治(王や愛人、貴族のゴシップも含めて)・経済・風俗演劇や文芸(彼は無類の女好きのため、自らの情事も書きつけるため、各国語をまぜこぜにした暗号文まがいの言葉で執筆)を書きつ けます。

 ピープスの“好奇心”は多岐におよび、当時設立されたばかりの“ロイヤル・ソサエティ(=王立協会;現在も続いている、世界最古の学会組織=紀要を見たければ、KSCの図書館にも在ります)”の会員にも入ります。さらに彼はおしゃれ好きで、(フランスから亡命した貧乏貴族出身で、大恋愛の結果結ばれたはずの)奥さんの衣装に文句をつけつつ、自分はちゃっかりと着飾る始末で、『あしながおじさん』のジョディに以下のようにからかわれてしまいます。

ピープスは、女同様に着物のことに夢中だったのです。なにしろ衣装費を奥さんの5倍も使ったのです-どうやら旦那様にとって黄金時代だったと見えます。次の一節はなんといじらしいではありませんか? これによってピープスはたしかに正直だったことがうなずかれます。「本日黄金のボタンを付けたる豪華なる呉絽(ごろ)のマントが届いた。これは莫大なるカネのかかったものである。神よねがわくは余をしてこの代金を支払わしめ給え

 『日記』の中でも知られる事例としては、1665年のペストの流行および1666年のロンドン大火があります。このロンドンの大火の結果、1667年には「建物を煉瓦造か石造として、道路の幅員も規定する」「再建法」ができたわけなので、都市政策を学ぶ方々には是非、お勉強を。ちなみに世界初の火災保険がロンドンで設立されるのは、ピープスがまさに現役の頃の1681年とのことです。

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 そのピープスにある意味でよく似ている日記が、朝日文左衛門『鸚鵡籠中記』(書籍番号#60)です。こちらもかなり長大(抜粋版だけで岩波文庫2冊分)、かつ昔の言葉なので、現代文で紹介する中公新書(現在は中公文庫)『元禄御畳奉行の日記:尾張藩士の見た浮世』(神坂次郎;書籍番号#60a)がお薦めでしょう。

 尾張藩の中級武士(家督は知行100石、のち御畳奉行としての役料40俵)として、朝日文左衛門は“御畳奉行(城等の畳を扱う係り=今でいうと“施設課”の“内装係”あたりになるのでしょうか?)を拝命しつつ、元禄4年6月13日(1691年7月8日)から享保2年12月29日(1718年1月30日)まで、26年8ヶ月にわたり、200万字に及ぶ日記を書きつけます。

 その内容たるや、芝居好き(江戸中期の名古屋を中心とした芝居関係の貴重な文献)、ゴシップ好き(日記のかなりの部分が藩主やその母上等の行状から、世俗の犯罪、痴情、酒の上の失敗等に至るまで、正史にはとても載せられるようなことばかり)、料理や酒が大好き(享保2年[1717年]9月24日の条には、「お役所帰り、予、申前市に寄り、かばやき等にて酒給ぶ」とありますから、蒲焼が18世紀初頭には存在していたことがわかります)。

 さらにピープス同様に大の女好きな上に、日記を他人に読まれまいと(とくに自分の行状について)当て字等を駆使して、暗号まがいの文章を書くなど、まさにピープスの同時代人としての資格十分です。

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 元禄14年[1701年]3月14日、「快晴」で始まるこの日の記録は、町屋10数件を焼いた火事のニュースが続き、その後に「江戸において喧嘩あり」とあります。これは何かというと、

 毎年春勅使・院使江戸へこれあり・・・・吉良(上野介)は欲深き者故、前々皆音信にて頼むに、今度(浅野)内匠が仕方不快とて、何事につけても言い合わせ知らせなく、事々において内匠齟齬すること多し・・・・ その次の廊下にて内匠刀を抜きて詞を懸けて、吉良の烏帽子にかけて頭を切る・・。

 つまり、ご存じ忠臣蔵、赤穂浪士の同時代ニュースです。テレビもケータイもない時代ですから、当然、後日の補注がはいっているはずですが、現在の通説的な筋書きがほぼ書き込まれており、驚くほかはありません。

 浅野内匠は即日切腹、吉良にはおとがめなしという判定については、日頃幕府や藩に対してかなり批判的な言動を書きつける(その癖、すぐに反省して、おどおどしてしまう=要するに文弱の徒)の文左衛門ですが、あっさり

 ことに殿中の喧嘩は是非を論ぜず、先太刀打つ者非分になる事なり

と書きつけています。この時、1年半後の「討ち入り」を予想だにしなかったに違いありません。

 翌4月7日の“赤穂城請け取り”の段でも、

 内匠喧嘩の埒ならばもっとも相手をも無事に置くまじけれども、ただ殿中狼藉の趣にして切腹なれば、誰に対し恨みを述べん。

と記しています。もし、裁判員制度があれば、裁判員(=ひょっとしてあなた方もなるかもしれない)の方々は浅野内匠と吉良上野介にどんな判決を下すでしょう?

 そして、翌年元禄15年12月15日、

 夜、江戸にて、浅野内匠家来47人亡主の怨を報ずると称し、吉良上野介首を取り、芝専岳寺(泉岳寺の誤記)へ立ち退く

とあります。残念ながら、この件について、文左衛門君の感想はありません。彼はどちらかと言えば、儒教的価値観の持ち主ですが、亡主への忠を重んじるか、御上の裁定に異を唱え、天下を騒がした罪をとるか、是非、意見を聞きたいところではあります。 

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 こうして『鸚鵡籠中記』は、江戸中期の風俗を伝える膨大な記録となりますが、“官僚”ぶりとしては文左衛門君の行状はあまりにさえません。彼は何よりも享楽家でもありますから、まじめに官僚を務めているとはとても言えず、“酒毒”が昂じて、亨年45歳の若さで亡くなります。

 このように、“黒船”があらわれた時、江戸幕府や旗本八万騎も含めて、武士階級が統治者能力を失っていることが白日の下にさらされ、一大文化革命でもある明治維新が幕をあけることとなります。

総政100本の映画Part8:#45~#49:『太陽がいっぱい』から『過去をもつ愛情』まで、犯罪映画について

2010 2/3

 今回は、“犯罪映画”を特集しましょう。正面から“犯罪”と言うと、「不道徳な」と思う方も多いでしょうが、人類学の立場から言えば、なぜ、犯罪が存在しているのか? (人類の歴史の中で)そもそもはなかったはずですから、なぜそれが現れ、なぜそれがなかなかなくならないのか、まじめに考えるのも必要では? 大学の講義にも犯罪学戦争学があってしかるべきかもしれません。徒し(あだし)言葉はそれぐらいにしますが、ハリウッド映画で初めて筋立てを持った作品といわれる『大列車強盗』(1903年)が、西部劇かつ犯罪映画であることも、いわば象徴的です。

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『太陽がいっぱい』(#45):それにしても、犯罪映画を観る時、どうして我々は“犯人”に感情移入してしまうのでしょうか? パトリシア・ハイスミス原作、ルネ・クレマン監督、アラン・ドロンモーリス・ロネマリー・ラフォレ主演のこの映画の結末で、観客は全員、アラン・ドロン演じる主人公トムの運命に固唾を飲むほかありません。もちろん、我々も皆さんも犯罪者ではない(はずですね?)。しかし、我々は犯罪者の欲望を感じ、その成就を願い、そして、犯罪の失敗(=正義の遂行)という結果に打ちのめされます(うまくいけば、いったで、成功のカタルシスにしばしふけります)。

 モーリス・ロネ演じる金持ちの放蕩息子フィリップとその恋人マルジェ、そのフィリップの父親からの依頼で引き戻しに来る貧しい友人トム。しかし、本音は金目当てのトムは、フィリップとその父親の双方から金で操られる存在に過ぎず、心中ひそかに殺意をめぐらし、フィリップと二人きりになったヨットの上で、ついに殺害に及びます。

 フィリップがまだ生きているように父親やマルジェを操りながら、サインを偽造し、さらに重ねた殺人をフィリップになすりつけ、やがて大金とマルジェの両方を手に入れようとするトム。その綿密な計画ぶりは、「完全犯罪のためのハウ・ツーもの」という印象さえ与えかねません。

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 しかし、才人ルネ・クレマンが映画スキルを駆使してウェル・メイドに拵えたこのピカレスクサスペンスが、映画としての永遠の生命を持つとすれば、それはやはりアラン・ドロンとモーリス・ロネ、そしてマリー・ラフォレたちが発する刹那的であるがゆえの青春の輝き(と残酷さ)に由来するものでしょう。彼らはこの映画で出会い、そこに永遠の若さをとどめて、また去っていくのです。アラン・ドロンがその“イケメン”ぶりで50代までフランス映画界を代表する二枚目だったのに対して、モーリス・ロネが青春の虚しさを色濃くただよわせる『鬼火』(ルイ・マル監督;#46)で迫真の演技をするのも、いわば両者の“人(にん)”の違いというべきでしょう。

 その点、ハイスミスの原作『才人リプレイ君』の再映画化(『太陽がいっぱい』のリメークではありません)『リプリー』のマット・ディモンジュード・ロウ、そしてグウィネス・バルトロウには、先輩たちにややオーラが及ばぬ感じがします(しかし、このあたりは個人の好みでもありますね)。

 なお、ハイスミスの原作では、いかにも彼女の趣味にふさわしく、トム・リプリーは官憲の手を逃れて、脱出に成功、続編『アメリカの友人』でドイツに現れることになるそうです。残念ながら、私はどちらの原作も読んでいませんが、『アメリカの友人』(#47)は、1977年ドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースによって、ブルーノ・ガンツとデニス・ホッパー(=中年になったトム・リプレイ!!)を使って映画化されました。昔、京都の映画館で観ましたが、なかなかのものです。

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地下室のメロディー』(#48):アラン・ドロンで始めてしまったために、つい、フランス暗黒映画フィルム・ノワールの世界にはまりこんでしまいそうです(注意しなければ)。

 さて、1960年『太陽がいっぱい』で一躍スターになったアラン・ドロンは、1963年、戦前からのフランス映画の立役者ジャン・ギャバンと共演しますが、こちらはベテランとルーキーの顔合わせ、ドロンはいかにも経験不足の若者として、ギャバンとの格の差を見せつけられます。

 監督はサスペンスや活劇が得意のアンリ・ヴェルニュイユ、『太陽がいっぱい』にも勝るとも劣らぬウェル・メイド劇ですが、筋はベテランの老ギャングがカジノの金を狙って、若造と組んで大勝負に出るというものです。計画はすべてうまくいくはずでしたが、小さなミスが起きる(もちろん、若造のせいです)。そのミスを取り戻すために焦るドロン、そして最後の最後に予想もしなかった結末が・・・。それを見届け、サングラスをかけるギャバンの顔に隠せぬ老いがにじみ出し、「若造などと組むのではなかった」という悔恨がよぎります。

 言い忘れましたが、『太陽がいっぱい』も『地下室のメロディー』のどちらも、そのテーマ曲でも知られています。

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 ドロンからギャバンに移ったので、当然、ギャバン主演の『現金には手を出すな』に行きたいところですが、それではいくらなんでも偏り過ぎかも知れません。

 ということで、#45~#48とまったく異なり、観客が犯人を追いつめる刑事に感情移入するドン・シーゲル監督、クリント・イーストウッド主演『ダーティ・ハリー』(#30)をとりあげましょう。

 犯罪に対しては自らも暴力的な対応をしてはばからない一匹オオカミ的刑事キャラハン。名前からしてアイルランド系=WASP社会でのマイノリティですが、彼の象徴こそ44口径マグナム弾を使用する大型拳銃S&WM29です。

 劇場型犯罪を繰り返す殺人鬼、その殺人鬼を追い詰めるための捜査に要求される“手続き”(ミランダ原則ならびにデュー・プロセス・オブ・ロー)。今や皆さんにもおなじみになった世界ではありますが、1970年に劇場公開されたこの映画では、アメリカ社会の暴力的側面を見せ付けて余りあるものとして、後世のアクション映画に大きく影響します。

 さて、『太陽がいっぱい』『地下室のメロディー』で犯罪者に感情移入する観客(大衆)は、この映画では、警察の体制になじめないまま、自らの価値感をかけて、あくまでも“正義”を遂行しようとするキャラハンに引き込まれてしまいます。この映画から「ダーティハリー症候群Dirty Harry syndrome;別名ワイアット・アープ症候群(Wyatt Earp syndrome)」という言葉さえ生まれたといわれています(「現実社会において、正義の執行者を自任し、“悪党に生きている資格はない”という判断、正義感によって、目の前の現行犯人をたとえ微罪でも射殺し、「逮捕に抵抗するからだ」と正当化してしまう」という警察官の心理を指す言葉だそうです[Wikipediaより];なお、映画のキャラハンには、この症候群は必ずしもあてはまらないことをつけくわえておかねばなりません)。

 キャラハンは最後、犯人を射殺した後、警察におさらばするように、バッジを沼に投げ込みます。しかし、大衆の人気は、ダーティ・ハリー5を作らせるまで高まり、ドン・シーゲルとイーストウッドの二人の人生を変えていきます。

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  犯罪映画もきりがないので、このあたりにしたと思いますが、過去に不倫を犯した妻を殺した経験のあるフランス男と、金持ちの夫を殺したと疑われ、刑事にずっと付きまとわれるフランス女が、ヨーロッパの西の果て、そこから船に乗ればすべてを忘れられるかもしれない南米への出発地、リスボンで出会う『過去を持つ愛情』も、一度観たら忘れられない作品です(監督は『地下室のメロディー』のヴェルネイユ;#49)。

 女優フランソワーズ・アルヌールの憂いに満ちた顔に見入る者には、はたして彼女は殺人を犯した悪人なのか、それとも地の果てまでも彼女を追い詰めようとするトレーバー・ハワード扮する(実に渋い男ぶりの)刑事の間違いなのか? 緊迫する展開を包むように流れるファドの女王アマリア・ロドリゲスが歌う『暗い艀(BARCO NEGRO)』に聞き入る時、その艀が波にもてあそばれるように、観客の心も左右に揺らぎます。ラストシーンには、呆然自失となる人もいるかもしれません。

 調べていたら、ブログでアマリア・ロドリゲスに関する記事の最後に、彼女のインタビューと『過去を持つ愛情』で歌うシーンが混じったユーチューブの映像が載っているブログがありました。「小舟(実は“艀”は誤訳だそうです)は暗い波間に難破して、あなたは帰ってこない。私は信じられない・・・・」という意味とのこと。URLを貼り付けておきますので、関心がある方はどうぞ。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...