2010年4月

統計学の奨めPart 1:なぜ“統計”などというものを勉強しなければならないのか?

2010 4/26

総合政策学部の学生・院生の皆さん、とくに新入生の皆さんへ

 教員の高畑ですが、今回は“統計”の薦めです。授業しているといつも感じることですが、今の若い方も、年寄りの方も、皆さん一般に“統計”が苦手です。かく言う私自身が苦手なのですから、これほど確かなことはないでしょう(笑)。とは言え、統計をお勉強しないと“まずい”こともまた確実です。『基礎演習ハンドブック』では、第5章で亀田先生が情熱をこめて“統計”について語っておられます。その一方で、たぶん、多くの方は「統計学」とか「社会調査」の話等、「できるだけ早く通り過ぎたい」というところが本音でしょう。

  それでは、まず、先輩(卒業生=社会人)のお言葉をお聞きください。以下は、渡部先生と私が現在まとめている「卒業生の方から、社会に出た時に“総政”を振り返ってみたら」というインタビュー&アンケート調査の一部です(ちょっと、先走りですが、渡部先生にはお許しいただくことにして)。 

  • 渡部先生: 総政でもっと別のことを学んでおいた方が良かったということが、就職に関してありましたか?
  •  
  • Aさん(現在、B市役所勤務): 今思うと、哲学と国際関係とか、結構限られた分野の授業しか取ってなかったので、今本当に思うのは「データ解析」とか「社会調査法」とか。修士論文を書く時に一番困ったのが、統計と社会調査法とデータ解析をあまり知らない。アンケートでは体系立って勉強やっておかんと、今、ちょっと苦しんでいるので・・・。あれは必修でも良いんじゃないかと思っているんですけど。
  •  
  • 渡部先生: 結局、自分が何かを考え、行動するために、データを取り、分析して、実証するスキルを身につけておけば、良かった・・・。
  •  
  • Aさん: 今も統計学の本を買って来て読んでるんですけど、時間を取って勉強せんとわからんし、やっぱり授業でコースの授業で実習しながら、先生とかに聞きながら半年、一年かけてくらいで身に着けるもんやと思うと、やっとかないかんかったなあと・・・。何となく難しそうとかで避けてしまったんですけど。統計学等をはじめ、数学関係の授業を避けてしまったのが一番悔やまれています。
  •  
  • 渡部先生: 公務員ってデータを取らなければいけないし、それを分析して、そこから政策提言があるので、必須ですよね?
  •  
  • Aさん: 必須です。知らないと辛いことになります。いろんな先生にお願いして、レポートを書いていただいても、統計を知らないと「すごいですね」で終わってしまう。ちゃんとやっとくべきだったと思います。学生でいる時は、何のためになるかわからんと思うのですけど、企業に就職しても、マーケッティング(市場調査)やる人も知らんとあかんだろうし・・・。
  •  
  • 渡部先生: 心強いあなたの意見です。私も嬉しいです。本当にそうなんですよね。
  •  

 というのが、卒業されてからの皆さんの本音なのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 また、別の方のインタビューでは、大学院(総合政策研究科)での経験を、こんな風に話されています。

  • Cさん: (前略)大学が与えてくれたチャンスですが、修士課程でリサーチプロジェクトがあって、初年度が地域福祉ライフデザインでした。調査者募集に応じて、高齢者福祉の知識ゼロから入ったのがきっかけです。修士の五、六割ぐらいのエフォートをかけたと思います。介護職員の職務意識とか、利用者さんや家族の調査で報告書を書いた。不勉強で、統計や福祉系も含めて社会心理学の知識がなく、必要に追われて勉強した。それが大きかったかな。引っ張り込んでもらい、みんなでやったから楽しかったし、関心もまた芽生えて・・・。
  •  
  • 渡部先生: また新しいことを学んだ。大量のデータを取って、報告書を書く。プロジェクトで4回講演してますね。成果を関係者に聞いていただく。
  •  
  • Cさん: その影響は大きいと思います。
  •  

   ひょっとしたら国際だとか、環境だとか、Webだとか、まちづくりだとか、色々授業がありますけれど、企業や公務員でジェネラリストとしての職務に携わる時、もっとも応用範囲が効く学問が“統計”かもしれません。中世ヨーロッパの大学の教養科目=リベラル・アーツの“自由七科”でも、算術がはいっているではありませんか(「新入生の皆様へ、ご入学おめでとうございます;大学とは何か?Part1(2010年4月1日投稿)」もご参照)。フランスの啓蒙主義思想家ドニ・ディドロも、無名時代、数学の家庭教師をして糊口をしのいだと18世紀フランス啓蒙思想の書として傑作の『ラモーの甥』で述べています。

 亀田先生が『基礎演習ハンドブック』で「総合政策学部のカリキュラムを子細に見ると、「統計学Ⅰ」を履修するように「誘導」されているのに気づくかもしれません。総合政策というマルチディシプリンを標榜する学部において、統計学は唯一と言って良いほど、誰にも必要な科目です。社会科学や自然科学はもとより、言語学や哲学でも統計を使うことがあります。どんな学科に進むにせよ、統計手法は身につける必要があります」とお書きの理由は、こんなところにあるのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  ・・・それなのに、みんな、あまり統計を勉強しない! というのが統計関係の先生方の昔からの悩みの種でした(というより「です」)。

 でも、なかなかなじめないですよね、それは認めます。そのかわり、いったん統計を身につければ、こんな面白いものはありませんし、自分の得になるスキルもめったにありません。リサーチ・フェアの発表を聞いていると、「統計的素養があれば、もっと良い結果がでるのに!」と思うことしばしばです。ということで、授業の「統計学」とは別に、裏マニュアル的に「統計」について(ただし、私がわかっている範囲で)紹介してみたいと思います。

 さて、亀田先生は『ハンドブック』で、次のように続けています。「それでは、統計学とはどんな学問でしょうか? 実は、「統計」のイメージは人によって異なります。それはこの分野が、国家運営に必要な社会統計(人口や農業生産等)を目的とする学問と、賭け事(バクチ!)の勝率を計算するための「遊び」ともつかない学問が融合し、発展してきたからです。しかし、近年、その体系は整備され、どんな教科書でもほぼ同じ内容になっています」。したがって、そのあたりから、お話しましょう。

 まず、“統計”は近代国家において必須でありました。なにしろ、戦争するのに、兵隊さんを何人動員できるか? そもそも、うちの国にどれほど人間がいるのだ? “ユビュ王”(「高畑ゼミの100冊Part14;“20世紀現代演劇”について;“うんこったれ!”から、“考えたりするには頭がよすぎるのです”まで(2010年4月9日投稿)」のような、“狂気の王”でさえ、兵隊がいなければ戦争はできない!

 このようにして、絶対王政下、王は貴族による間接的な兵員動員に飽き足らず、“国家”による強制的な兵員動員をはかります=徴兵制の始まりです。この結果、官僚制による国土の支配と国民の把握が必要となってくる=これが近代的統計の起源の一つである、というのが上記の亀田先生のお話です。その一方で、政府が“統計”を握ることで、国民の知識を支配する、そのまたとない道具になるかもしれません。したがって、皆さんはすべからく政府や企業に“騙されない”ためにも、統計の本質を理解する必要があるわけです。

◆近代的官僚制の発達については「官僚について考える~サミュエル・ピープスと朝日文左衛門から:高畑ゼミの100冊Part11(2010年2月4日投稿)」で触れましたので、そちらもご参照ください。 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、近代的官僚が生まれると、その中の優秀な者がテクノクラートとして頭角を現します。その最初の一人が、「“統計”とは何か? アフリカで感じたこと;国際援助の現場から#6(2010年1月24日投稿)」でも触れたルイ14世治世下の優秀な要塞建築技術者にして(一生に150の要塞を築き)、同時に敵方の要塞を落とすことにも長けている(53の敵方の要塞を攻め落とす)「矛盾」の象徴(なんとなく墨子を思い出しますね)のような人物ヴォーバンです。

 彼は、母国フランスがどこまで戦える知るために国勢調査を実施します。しかし、自然科学者としての側面を持つ彼は、当然、フランスの暗黒面=王政は繁栄していても人民は疲れ切っていることに気づき、それを発表せざるを得ない(『王室の十分の一税』, Projet D’une Dixme Royale)。その結果、絶対王=ルイ14世に罷免されます。

 このルイ14世のような“真実”を嫌う権力者(=王であれ、独裁者であれ、政治家であれ、“党”であれ、民衆自身であれ)は結局は生き延びれない((『王室の十分の一税』から“バスティーユ襲撃”まで81年)。こうして、我々は知りたくもない我々自身の素顔を、近代統計によってやむなく見せつけられることの重要性に気付きます。

 ともかく、統計は国家の必須事項となり、18世紀末にはこうしてドイツの文豪にして、自然科学者でもあったゲーテが名著『イタリア紀行』で「統計ばやりの当今では・・・・ものの本によって調べることもできると思えば、気が休まるというものだ。しかし、現在の私としては、本でも絵でも与えてくれない感覚的印象が大事なのだ」と書きつけるまでになります。

 なお、(念のために付け加えておきますが)アフリカ等では統計というものがそもそも信用できないこと、したがって統計を信じ切ってデータ処理するのも危険であることは、上記のブログで議論してあります。 というあたりで、十分ながくなってしまったので、続きはまた別の機会にしたいと思います。

◆日本政府の総務省統計局のHPに「統計についての総説に関するpdf資料があります。URLはhttp://www.stat.go.jp/info/kenkyu/kyouiku/pdf/1siryo3.pdfです(是非、お勉強を)。それによると、「統計」の三つの源流があり、(1)国の実態をとらえるための「統計」これは、ローマ帝国の「Census」 につながる。(2)そうした資料から、大量の事象をとらえるための「統計学」が発展する。(3)そして確率的事象をとらえるための「統計」として、数学者パスカルフェルマーの交換書簡(1654 年頃)による「サイコロ賭博の問題」をベースにした確率論なのだそうです。 

 それでは、統計学の奨めPar2へ

食べることについてPart5;アフリカの食卓、あるいは“食卓”と“家族”について

2010 4/22

 「高畑ゼミの100冊Part8」(2009年12月21日投稿)でも触れましたが、今は亡き小説家池波正太郎の傑作エッセイに『食卓の情景』があります(『散歩の時なにか食べたくなって』もお薦めです)。

 また、元東大教授本間長世(政治・思想史)夫人の本間千枝子の執筆による『アメリカの食卓』も、日本人などからみればいかにも安直に見えるハンバーグステーキコンビーフ、(ヴァージニア)ハムなどがアメリカ人の心情に占める重さをいかんなく伝える(筆致がちょっと感傷に流れがちな印象はありますが)好著です。

 そこで、「アフリカの食卓」とすれば、まずはじめに、「アフリカにはもともと食卓はなかったのですよ」というあたりから始まることになります。

 例えば、私が3年を過ごした西部タンザニア、タンガニイカ湖畔では、伝統的には、ゴザ(Mkekaと呼ばれる野生のナツメヤシの葉を編んだもの)や木製の椅子にすわって、食べ物はじかに床に置いたりして食べていました(なお、タンガニイカ湖で何をやっていかたについては、「セキュリティについてPart1:国際援助の現場で#1」(2009年12月24日投稿)をご参照)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 そもそも、かつては日本でも、“食卓”という言葉も、その概念も、あまり一般的なものではありませんでした。江戸時代ではみんな“箱膳”で食事をすることが常でした。Wikipediaでは、「各自が箱膳とよばれる銘々の膳に、箸、食器などを出し入れし使っていた。これを背景とする習慣とされている」と述べています。

 こうした食器類を「属人器」、つまりそれぞれの個人に属する食器として、日本の食文化の特徴の一つとしています。 箱膳は、ある意味、合理的なもので、とくに禅宗のお寺などでは、食事を以下に合理的に済まし、後片付けも簡単に済ませるか、という意味で「禅」の精神のシンボル的意味さえ漂わせているものでした。

◆こうした情景を再現する江戸東京博物館のHPのURLはhttp://www.edo-tokyo-museum.or.jp/

 それが「ちゃぶ台卓袱台)」の登場で、食事時に、一家が皆で集まり、互いの顔を見ながら、食事を共にする=近代的家族の誕生です! なお、「ちゃぶ」という名称には諸説ありますが、いずれにしても明治前後に海外から入ってきたものであることは間違いないでしょう(例えば、横浜で西洋料理を呈する店を「ちゃぶ屋」と呼んだりします)。ちゃぶ台の形自身、中華料理の円形テーブルに似ています。

 それでは、このちゃぶ台はいつから登場するのか? こうしたリサーチは、「文化史学」あるいはその手段としての「図像学」等でもありますし、生活科学(家政学)の中でも位置づけが可能でしょうし、建築学でも台所や食堂の設計に関係するに違いありません。

 と、まあ、それほど御大層なことでなければ、小説の挿絵の世界でいうと、1904~1905年に雑誌『ホトトギス』(NHKTV放映の『坂の上の雲司馬遼太郎原作)』の登場人物の一人、正岡子規高畑ゼミの100冊Part9に登場済み)の弟子である柳原極堂創刊、当時は高浜虚子主催)に連載された、夏目漱石作『吾輩は猫である』に洋画家浅井忠が描いた挿絵に、ちゃぶ台にむかって飯をほおばる苦沙弥先生の娘たちが描かれています(長山靖生『「吾輩は猫である」の謎』文春文庫)。

 さすが、ロンドン留学帰りの漱石家では、近代的家族の実践が始まっていたのかもしれません。もちろん、上記、池波がエッセイのタイトルに「食卓」と使ったのも、自ずと彼が愛した下町の人たちの、日頃の生業(なりわい)がにじみ出てくるわけです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  このように明治後期から日本を席巻し、家族関係も変えた(個人で食べて、かつ、膳の配置によって身分関係すらあからさまに規定するような世界から、傘連判状(からかされんぱんじょう)のようにみんなで輪になって食卓にむかう、まさに近代的家族の誕生です)ちゃぶ台=食卓ですが、昭和30年代、2DKアパートに代表されるような生活の西洋化(畳に正座する世界から、イスに座る世界へ)にともない、急速に(ダイニングテーブル)に移行します。学生の皆さんも、ちゃぶ台で食事をする経験はあまりないでしょう。

 しかし、現在、そこのテーブルを舞台におきていることは、家族のだんらんの象徴としての食事から、“個食”、すなわち、個人個人がみずからのタイムスケジュールで独りで食べる世界への移行、およびそれを可能にする台所システムや食品工業、流通システムの急速な変化です=近代化JAPAN!

 と、まるで、授業のような展開になってしまいましたが(しかし、こんな風に議論を展開すれば、すべてのテーマがレポートの材料になるのは、もうお分かりのはず)、ここまでが“食卓”についての話のマクラです。

◆昭和の暮らしを再現する“昭和の暮らし博物館”のHPのURLはhttp://www.showanokurashi.com/

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 では、私が3年ほど暮らしたタンザニア西部のトングウェたちの食事風景はどんなものでしょう?

 まず、彼らの伝統的生活は、荒野の中に(年間降水量が800~1000mm程度のサバンン・ウッドランド(一年の半分の乾季は葉をおとし、雨季になると一斉に若葉をしげらせる疎林)に、農耕が可能な僅かな場所(水があるかないかが決定的要因)に、数家族ずつ、小集落に分かれて暮らす、まさに「自然に密着して生きる」人々でした。

 そんな人たちですから、食事は、その小集落の中で分け合って食べます。その際、たいていは成人男子だけの食事の集まりと、(文字通り)女子供の食事の集まりに分かれます。つまり、男女原理がはっきりしている人たちなのです。なお、彼らは宗教的には、イスラームが浸透していますが、もともとのアニミズム的信仰とまじりあい、いわゆるシンクレティズムの様相を呈しています。

 したがって、敬虔なイスラームの人たちと比較すると、断食は守らない(「だって、腹がへるんだもの」)、酒は飲む(一番豪快な酒造りは、アブラヤシの木を一本切り倒して、枝を払い、梢に溝を穿って、そこにヤカンをおいておくと、樹液がちろちと溜まるうち、天然酵母で自然発酵して、カルピスに少し混ぜたアルコールを混ぜたようなヤシ酒ができます。

 また、一番イージーな作り方は、採ってきた蜂蜜を、こちらも天然酵母が活動できるぐらいの糖度に水で薄めてほっておくと、自然にできあがるハチミツ酒です)。

 ともかく守るのは豚(と野生のイノシシ)を食べないことぐらいです。しかし、カバはどうか? 遠くからシルエットを見れば、いかにも豚ではないか! ということで、敬虔なアラブ人たちはカバを食べないのですが、トングウェたちは「あれは水にいるから魚(Samaki)だ」と称して、カバ肉をやめられない! そんな時代もあったとのことです。

◆トングウェの人たちの生活を彷彿とさせる写真がなかなかに見つからないので、代わりに、京都大学アフリカ地域研究資料センターのHPのアフリカ・フォト・ギャラリーのURLを貼り付けましょう → http://jambo.africa.kyoto-u.ac.jp/gallery/index.html

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 次に彼らの食事ですが、以前投稿したブログで、は“主食”と“副食”の関係について書いたかと思います(「食べることについてPart3:フィールド初級講座#3 主食について」2010/01/1 12:38)。そのなかで、主食と副食の概念は文化によって変わること、とくにイギリスやアメリカ、フランスでは主食という概念自体があまり存在しないとしました。日本でも、最近はそうした傾向がありますね。

 一方、私が滞在したタンザニアは、まさに主食と副食(“おかず”と形容した方がよさそうです)の組み合わせでありました。ただ、その主食には結構種類が多いわけです。

 まず、アフリカ原産の主食作物は、日本語では雑穀(英語でMillet)と一括されます。正直、「雑穀」という言葉自体が、ちょっと“差別的”なイメージもしないわけではありませんが、アフリカ原産と言えばトウジンビエ(皆さん、ご存じ? 日本でいえばチカラシバの仲間です)、モロコシ(ソルガム、日本ではタカキビとも呼ばれます)、シコクビエ(日本語の“シコク”は“四国”ではなく、「一石種をまくと、四石採れる」という“四石”です)、テフ(エチオピアに局地的に食べられている穀物)。

 これらの雑穀はみな粒が小さい。お米みたいにそのまま炊くよりも、いったん粉にして、おかゆにする。それも、やわらかいおかゆでなくて、固練り粥にする(テフは発酵させて、巨大クレープ状のインジュラにします=酸味があって、とてもおいしいとのこと)。

 この固練り粥がスワヒリ語のウガリ(Ugali)です。日本で該当するとすれば、蕎麦がきです。これをバスケットボールぐらいの塊にして、それを囲んで、皆で手(かならず右手、左手を使ってはいけません)でそれをてんでにちぎって、おかず(スワヒリ語でMaboga)に漬けて、口に運ぶ。そんな感じです。なお、西アフリカにいくと少し作り方が違うフフがあります。

◆ケニア大使館のHPにアフリカ料理のページがあり、ウガリの作り方が載っています。興味がある方は是非どうぞ → http://www.kenyarep-jp.com/newsletter/070226_letter.html

 つまり、東アフリカの食卓は、男同士、そして女子供がかたまって、ウガリを囲み、てんでに手でちぎって、それをおかずと一緒に口にする。このパターンが一般的です。豆がおかずの例では、上記のケニア大使館のHPに「ギゼリ(豆シチュー)」が出ています。

 もちろん、アフリカは広いので、様々な土着の作物があります。例えば、エンセーテバナナ。我々の知っているバナナではなく、茎にでんぷんをためるので、収穫は太く育った奴を切り倒して、中のでんぷんを(日本ならばクズ粉のように)取り出して食べる。あるいは西アフリカではアジアのイネと近縁のアフリカイネの栽培化もおきました。

◆上記のアジア・アフリカ地域情報資料センターのHPに、研究者によるエチオピアの土器つくりの紹介ページにエンセーテ料理の写真があります。 → http://areainfo.asafas.kyoto-u.ac.jp/japan/f_essays/v3_kaneko/kaneko.html

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 一方で、アフリカ原産の作物は、現在、旗色がよくありません。よそから色々な作物が入ってきます。そのトップバッターは、バナナでしょう。この場合、生食用の“フルーツ”としてのバナナではなく、料理用のバナナのことです。なお、バナナについては、「食べることについてPart2(バナナ特集):フィールド初級講座#2(2009年12月20日投稿)もご参照に。原産地は東南アジアかパプアニューギニアのあたりですが、それがいつしかアフリカにわたり、かなりの地域で、主食としての立場を確保します。

 料理用バナナ(Matoke)は、でんぷんを含み、まあ、甘みの薄いサツマイモといったところです。そのまま直火であぶって、焼イモならぬ焼バナナで食べたり、ヤシ油等で煮込んでよし、酒作りの材料にも使われます。西アフリカではゆでたものを臼でついて、上記のフフにします。つまり、バナナを雑穀を食べる料理法にあわせているのですね。

 こうした状況に、さらに、コロンブスによる大西洋航路発見とその後の奴隷貿易等の副産物として、キャッサバとトウモロコシがウガリ=フフ文化に受容されます。とくに私はキャッサバのウガリはとてもすきなんですけどね、日本では材料が入手困難です。

 随分昔ですが、某テレビ番組が「アフリカの飢餓」をテーマに、某有名タレントが現地を訪れるという設定で、私のように現地事情を知っている者からすると、そもそも飢餓と縁遠いはずの地域で、そのタレントがウガリを見て「まあ、こんな貧しいものを食べているんですね!」と放映されていたことがあります。

 これぞ偏見以外のなにものでもありません。取材場所も間違っていれば、ウガリはおいしいものなのです-国際政策に興味を持つ人は、こんな発言はしないで下さいね。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 一方、アジアからイネももちこまれます(東アフリカで栽培されているのはいわゆる“アフリカイネ”ではなく、アジア系のイネです)。そして、概して高級品です。

 米は日本風に炊き上げるのではなく、「湯とり法」と言いますが、大量の湯に米をいれて、芯まで火が通る頃に、余分のお湯を捨てて、あとは蒸らすように炊き上げる方法をとります。したがって、粘りをむしろとりさり、パサパサご飯になるのですが、これもまたアフリカのおかずにあいます。また、焼き飯やピラフにはこちらの米が向いています。

 さて、こうして“食卓”ならぬ、主食(ウガリ、Matoke(料理したバナナ)、米の飯)を囲み、そこにおかずがつきます。

 豆のシチューならUgali (Matoke/Wali)na Maharage [スワヒリ語で、ウガリと豆の煮込みの意味]、肉の煮込みならUgali(Matoke/Wali) na Nyama[ウガリと肉の煮込み]、焼魚(といっても、内陸部ではたいて干魚をもどしたものですが)ならUgali (Matoke/Wali) na  Samakiです。

 皆で周りから手がのびる。この時、まず手で触れる触感で、手で味わいながら、それを口に運ぶ。日本食では、鮨とおにぎりですね。それも独特の味わいを醸し出します。

総政100本の映画Part9+高畑ゼミの100冊Part15:ドキュメンタリー映像について~知らぬ世界を映像で~

 2010 4/16

 映像等に興味を持つ学生・院生の方々へ

 映画によって知らぬ世界を垣間見る。そもそも、リュミエール兄弟が1890年代に映画カメラの基本型シネマトグラフ・リュミエールを作った時、彼らがまずやったことは、全世界に撮影班を派遣することでした(書籍番号#73;E・バーナウ『世界ドキュメンタリー史』)。

 彼らから逆に刺激を受けたキネトスコープ(箱をのぞき込む形で映像をみたため、一回に一人しか見れない)の発明者、エジソンは映画産業に乗り出し、また、リュミエールのカメラを購入したメリエスが、1902年、初のストーリーをもつ劇映画『月世界旅行』(Part6で紹介してあります;なお、映像のURLはhttp://www.alz.jp/221b/archives/000673.html)を作ります。

 また、エジソンが公開した「Boxing Cat」(1894年だそうです。現代なら、動物愛護団体に抗議を受けるかもしれません)、ならびに1894年から98年にかけての諸作品の映像のユーチューブは以下の通りです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、今日、映画と言えば『月世界旅行』あるいは『大列車強盗』の系譜の“劇映画”をまず連想されるかと思います。しかし、映像が誕生した時、最初は現在のドキュメンタリーフィルムに近い形から出発しました。

 例えば、1890年代、労働者が工場の入り口からでてくるだけで、あるいは機関車がこちらに突進してくるだけで、今日の3D映画等およびもつかぬ衝撃を観客に与える事が出来たのです。

 以下は、1895年から1897年にかけて、Lumiereらによる動画のユーチューブですが、上記の『工場の出口(1895年世界初の実写映画として公開、46秒)』『列車の到着』『散水夫』等が見れます。このうち、『散水夫』はあきらかにフィクション性がでてきます。

    http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=NrhVvp2IfYA

 上映時間はいずれも短いものですが(=当時は、これでも商売になった!)、カメラの視線が動かず、ずっと同じ光景(=単一のショット)であったことに気付きましたか? 同じフィルムを時間を隔てて撮影した複数のショットを並べることで、シークエンス=ストーリーを作っていくことも、さらに複雑なシークエンスを作るため、フィルムを切断して(=いわゆる“カット割り”)、異なる時に撮影した違うフイルムをつなげていくこともありません。

 これらの作業は、初の映像ストーリー作家メリエスらによって発見され、やがてソ連の映画監督エイゼンシュテインらによって、モンタージュ理論へと発展していきます。これは、「視点の異なる複数のカットを組み合わせて用いる技法の事。元々はフランス語で「(機械の)組み立て」という意味。映像編集の基礎であるため、編集と同義で使われることも多い」(Wikipediaより)。

 やがて、映画(映像)はノンフィクション的な作品と、フィクション的な作品に分かれていき、その記録性を意識したところに、自覚的なドキュメンタリー映画が誕生します(“自然環境論”や“ヒューマンエコロジー入門”で説明する“適応放散”ですね)。

◆ところで、あらためて時代は変わったものだ、と思います。私が学生時代は、こうした古典作品は、せいぜい本に掲載されたスチールを目にする程度でした。「月世界旅行」とか「アンダルシアの犬」等は、古い(著作権切れの)フイルムを持っていた上映サークルが、細々とやっている上映会(京都では、四条大宮のあたりにありました)に行くほかありませんでした(煙草の煙でスクリーンもくすんでしまうような、小さな上映室でした)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ノンフィクション系の映画はさらにいくつかの派に分かれていきます(適応放散は進みます)。

 一つは、純粋な“報道映画”、“ニュース映画”。私の子供の頃は、映画館にいくと、幕間に独特のナレーション、独特の画面の“ニュース映画”を上映するのが常でした。

 NHKで時々、昔のニュース映像をアーカイブ(本来は公記録保存所、公文書館の意味、今は情報倉庫というべきように言葉の使われ方が広がっています)から取り出して放映することがありますが、それを見ると、昔を彷彿とさせます。

 今日では、報道映像がそこあらにあふれています。それをドキュメンタリーとあえて区別するとすれば、報道では撮影時の意志が中立性、客観性があることを要求されるのに対して、“ドキュメンタリー”ではそれを撮影している方の主観、世界観が表出されるものとしています(Wikipedeiaのドキュメンタリーの項から引用)。このあたりの差は「相対的」なものです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 それに対して、ドキュメンタリーにおいても、“映像性”というか、映像における美を追求する動きもでてきます。

 初期の作品では、後に社会派ドキュメンタリー作家の方向に変わっていくヨリス・イヴェンスの『橋』(1928年)や『雨』(1929年)が有名です。

 何気ない風景や情景について、カメラの眼を通して、まったく新しい視点を紹介する、そうした映像もまた生まれてくるのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  一方、題材を“未知の世界”にとって、人類学の基本である「知らない人に出会うことで、自分を見つめ直す」手段としてのドキュメンタリー映画も現れます。その最初期の傑作と謳われた『北極の怪異、ナヌーク(Nanook of the North)』(イヌイットの人を対象に、“ドキュメンタリーの父”ロバート・フラハティが数年の歳月をかけて撮影、1922年公開)もユーチューブに出ています。

   http://www.youtube.com/watch?v=cLERFRQl5EY

 また、フラハティがその後に、スコットランドの孤島、アラン島で撮影した『アラン島』のユーチューブは以下の通りです。ちなみに、アラン島はアランセーター(フィッシャーマンズセーター)の発祥の地です。

   http://www.youtube.com/watch?v=Pc1SkNsYHig&feature=related

 さらに、フラハティに関する“Flahaty Seminar”のURLは以下の通りです(今回は、URLがてんこ盛りです)。

   http://www.flahertyseminar.org/

 さて、英語版Wikipediaでのフラハティへの評価は以下の通りです。英語の勉強です。読んでくださいね。

   Flaherty is considered a pioneer of documentary film. He was one of the first to combine documentary subjects with a fiction-film-like narrative and poetic treatment.Flaherty Island, one of the Belcher Islands in Hudson Bay, is named in his honor.Flaherty’s contribution to the advent of the Documentary is itself to be scrutinised closely in a new UK Academic work – a documentary ‘A Boatload of Wild Irishmen”, which will explore the nature of ‘controlled actuality’ and sheds new light on thinking about Flaherty. Furthermore the impact of these early films on subsequent generations of the indigenous peoples portrayed changes over time, as the films become valuable records of long ago.

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 “ドキュメンタリー”映画には、あっという間に大衆向け“安ピカ”作品が登場します(『世界ドキュメンタリー史』)。現在のTV画面の多くを占めている、とりあえず“未開/未知”なところに出かけて、面白おかしく撮っては売り飛ばしていく。1920年代から30年代にかけて、世界をまたにかけて“安ピカ”映画を量産した(とは言え、その企業家努力は凄まじいものがあります)巨匠ジョンソン夫妻の『コンゴリラ』の映像が、下のURLで公開されています。

   http://www.youtube.com/watch?v=F6nbXDPDTOQ

 ジョンソン夫妻については、夫の事故死後、残された妻オサ・ジョンソンが綴った『私は冒険と結婚した』(書籍番号#74)が、筑摩版世界ノンフィクション全集第47巻に収録されていますが、なかなか興味深いものです(20世紀初頭の、ベンチャービジネスとしてのドキュメンタリー作家の日常が見えてきます)。

 ドキュメンタリー映像作品に関心がある方は、是非、ご一読を(撮影フィルムの製造者、イーストマン・コダックの創業者のイーストマン氏も登場します)。なお、ジョンソン夫妻の1930年代までの映像をまとめたものが下のURLで見れます。

  http://www.youtube.com/watch?v=jJX7nEyRNUY&feature=related

 ジョンソン夫妻について、英語版Wikipediaでは以下のように評価されています。これもまた、英語の勉強として、トライしてみましょう。

    In the first half of the 20th century an American couple, Martin and Osa Johnson—from Lincoln, Kansas and Chanute, Kansas, respectively—captured the public’s imagination through their films and books of adventure in exotic, faraway lands. Photographers, explorers, marketers, naturalists and authors, Martin and Osa studied the wildlife and peoples of East and Central Africa, the South Pacific Islands and British North Borneo. They explored then-unknown lands and brought back film footage and photographs, offering many Americans their first understanding of these distant lands.

 こうした傾向が強くなれば、一般大衆に「野蛮な」風習を紹介する扇情的な作品が、しばしば大流行することになり、その象徴としてよく引用されるのがイタリアの映画監督ヤコペッティの『世界残酷物語』です。こうした作品をモンド映画と呼ぶそうですが、やらせや誇張等があからさまなことも特徴的です。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  一方、映像はいち早く権力者によって利用もされます。その顕著な例は、映画誕生にやや遅れてレーニンによって打ち立てられ、スターリンが権力を継いだ社会主義国家ソビエト社会主義共和国連邦』において、製作された一連のプロパガンダ映画である。そういう点からすれば、日露戦争末期の第一次ロシア革命における“戦艦ポチョムキンの反乱”を描いた、エイゼンシュタイン監督の『戦艦ポチョムキン』も、ある意味で再現ドキュメンタリー映画とも言えます(なお、作品としての『戦艦ポチョムキン』は思想性やプロパガンダ性を捨象しても、なおかつ映画史上に残る傑作です )。

   ◆『戦艦ポチョムキン』の有名なオデッサの階段(での大虐殺)のシーンのURLはhttp://www.youtube.com/watch?v=Ps-v-kZzfec&feature=related

 しかし、それは敵対者の同じことで、1933年に第一次大戦の敗戦国ドイツの権力を握ったアドルフ・ヒトラーは、腹心のゲッペルスをトップに据えた国民啓蒙・宣伝省を作ります。ゲッペルスは、フリッツ・ラングの『メトロポリス』を高く評価して、ラングに宣伝映画を作らせようとして、結局亡命されます(ラングは亡命先のアメリカで反ナチ宣伝映画『死刑執行人もまた死す』を撮影します)。

  ヒトラーがゲッペルスの意思を無視して、次に選んだのは“呪われた監督”の一人、レニ・リーフェンシュタールで、彼女に、ナチスの党大会の記録映画『意志の勝利』、そしてベルリン・オリンピックの記録『美の祭典』『民族の祭典』を作らせます。リーフェンシュタールはナチスの同調者として、戦後、冷遇され、映画を撮ることができず、『ヌバ』等の記録写真家に転身を余儀なくされますが、彼女が真の才能をもっていたこと自体は、『意思の勝利』『美の祭典』『民族の祭典』を観たナチスがみんな奮い立つと同時に、非ナチ・反ナチの者たちもまたみんなそこにナチスの本質=禍々しさを感じ取る、その両義性に明らかです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 そろそろ長くなってきましたので、このあたりでおしまいにしたいと思いますが、最後に、ナチスの将校等のかなりの者が当時から家庭用小型カメラを愛好しており、ヒトラーもその愛人エバ・ブラウン(1945年4月29日、ソ連軍の猛攻下のベルリンで、総督官邸においてヒトラーと結婚、翌30日二人で自殺するまでのほんのわずかな間、ヒトラー夫人(Frau Hitler)になるのですが)との秘められた家庭生活を映したフィルムが残っていると聞いたことがあります。

 そうした“個人用フィルム”にはユダヤ人などへの暴力行為と彼らの家庭内で円満な生活(=まさに、両義性)がともに写る映像が残され、後世の映画作家にまたとない材料=なごやかな家庭の情景と、おぞましい暴力行為の共存という20世紀最大の問題の一つを提起したことを付け加えておきましょう(バーナム『ドキュメンタリー史』より)。 

高畑ゼミの100冊Part14;“20世紀現代演劇”について;“うんこったれ!”から、“考えたりするには頭がよすぎるのです”まで

2010 4/9 総合政策学部の皆さんへ

 以前の投稿で、ロシアバレエ団を率いたディアギレフニジンスキーについて紹介した時に、ニジンスキーの振付の『春の祭典』を再現したユーチューブの映像(下のURL参照)を紹介し、「これが20世紀バレエの幕開けを告げるシーン」と書いたかと思います。

 http://www.youtube.com/watch?v=bjX3oAwv_Fs&NR=1

 http://www.youtube.com/watch?v=vb8njeKBfqw&feature=related

 それでは、「20世紀現代演劇の幕開けを告げるシーン」は何時、どこで?  これが今回の話のマクラです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 もちろん、演劇好きの方々は、それぞれ、「これこそ、俺にとっての“現代演劇”の幕開けだ!」というシーンがあるでしょう。それは、ノールウェイの劇作家ヘンリック・イプセンが、因習的な家庭生活からの女性の解放を宣言した『人形の家』(1879年;#69)かもしれません。また、(野生の鴨のように自由で、魅力的で、かつ(男にとっては)危険な女が、ある男の姦計でその“自由=翼”を奪われそうになった時、自死を選ぶ『野鴨』も良いですね[1884年、#70])。

 ところで、20世紀前半のイギリス大衆演劇の人気作家でもあった小説家サマセット・モームはそのエッセイ『要約すると(The Summing Up)』において、イプセンについて降れています。

 そこでモームは「彼の唯一の差し手は、[たとえ嘘でつつまれていても、みんな幸福に暮らしているところへ]、見知らぬ客が来て、蒸し暑い部屋に入って、[「ここは嘘の世界だ、もっと外の世界を知るべきだ」と]窓を開ける。そこで、そこにいる人々は風邪をひいて死に、すべてが不幸に終わる」中村能三訳;[ ]内は高畑による補註)と指摘しています。

 私が読んだことがある作品で判断する限り、まことに至言。つまり、20世紀とは、知りたくもない“真実”に直面することを強いられる時代であり、その象徴こそ、いまだにある種の人々に非難、中傷され続けているイプセン、フロイトダーウィン等かもしれません。

 また、別の人にとっては、ロシアの小説家・劇作家のアントン・チェーホフが彼の晩年を飾る4大劇、『かもめ』、『ワーニャ伯父』、『三人姉妹』、『桜の園』(吉田秋生作コミック『桜の園』と、その映画化(中原俊監督、1990年版=傑作です)のライトモチーフです)を上演した時かもしれません。

 とくに、初演はみじめな失敗に終わったとはいえ、1896年秋のサンクトペテルブルグの“アレクサンドリンスキイ劇場”で、『かもめ』のヒロイン、二ーナが

 私は-かもめ。いいえ、そうじゃない・・・・わたしはもう本物の女優なの」「わたしたちの仕事で大切なものは、名声とか栄光とか、わたしが空想していたものではなくって、実は忍耐力だということが、わたしにはわかったの、得心が行ったの。おのれの十字架を負うすべを知り、ただ信ぜよ-だわ。わたしは信じているから、そう辛いこともないし、自分の使命を思うと、人生もこわくないわ神西清訳)。

と、かつて愛したこの劇の主人公コスチャに宣言する瞬間こそが、近代劇誕生かもしれません(やがて、コスチャの引止めを振り切ってニーナは立ち去り、そしてコスチャは自殺します)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、それでは、ニジンスキーの『春の祭典』に比肩すべき20世紀近代演劇の幕開けは、といえば、是非、アルフレッド・ジャリ原作、シュールレアリズム劇および不条理劇の幕開けである『ユビュ王』をお薦めしたいと思います(1896年、パリ制作座[リュニェ・ポー主催]で初演;書籍番号#71)。

 シェークスピアの『マクベス』を大胆に換骨奪胎、舞台を(当時の)ヨーロッパの果て、ポーランド王国に移して、魅力的なことがまったくない下品で、野蛮で、欲望だけで生きている権力者“ユビュ親父(=マクベスから、すべての人間的魅力を取り去ったような存在)”が、パートナーの“ユビュおっかあ(=マクベス夫人から、これも魅力を完全に除去したような存在”)に、劇の冒頭、以下のように叫ぶことから始まります。

 “メル・ドル”(うんこったれめ!)

 この瞬間こそ、近代劇の誕生(の少なくとも一つ)です。

 この言葉から展開される荒唐無稽なストーリー、ユビュ親父は(マクベスよろしく)強欲なユビュおっかあにそそのかされ、大恩あるポーランド王を殺して国をのっとり、協力者には恩賞を与えず(ケチだから)、チャンスがあれば皆殺し、結局、ポーランドを追われて、生まれ故郷に逃げ帰る(マクベスと違って、ユビュ親父は死にません。

 そして、あなたの周りにも、何時出現するかもしれません)。その進行中に連発される下品な言葉。劇場はもちろん、賛否の嵐、よせばよいのに、ジャリが劇の深意を説明しようとして、これがさらに混乱に輪をかけるという有様だったと伝えられます(10数年後の『春の祭典』の大騒動の先駆であることは、お分かりいただけるでしょう)。

 このジャリは、この毀誉褒貶はなはだしい『ユビュ王』のゆえか、ほぼこの一作で人生が終わってしまった、いわば“呪われた作家”でもあるのですが、本人自体が大変な人で、朝食はなんと「2リットルの葡萄酒」、パリに自転車で出かける時は「呼び鈴のかわりにピストルをかざして疾走していた」というとんでもない方でした。

 そういう点を考えれば、イプセン以来の命題、「日常性を打破する」精神につながっているのかもしれません(この話を、今は滋賀県立大学の教員をしている知人にしたら「それじゃ、赤塚不二夫拳銃をすぐにぶっぱなすお巡りさん「目ン玉つながりのお巡りさん」)ではありませんか」と感心していました)。

 ◆公演のポスター等のURL http://www.bankart1929.com/finish/jinjan.html

◆自転車にのるジャリの写真のURL http://rui4oyo.img.jugem.jp/20071008_402942.jpg

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 1896年の『ユビュ王』から44年後の1940年6月21日、こちらは現実の権力者、現実のユビュ王たるアドルフ・ヒトラーが第2次大戦下のパリを訪れて、ヴィシー政府との降伏調印式に臨みます。、 

 その少し前、第2次大戦もまだ始まらない、しかし、ヨーロッパに次第に不安がにじみ出す1938年、後のノーベル賞作家アルベール・カミュは一つの劇を作ります。それが『カリギュラ』です(書籍番号#72)。

 ローマ帝国第三代皇帝カリグラ(これはあだ名で、本名はガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(Gaius Julius Caesar Augustus Germanicus ;AD12~41年、在位37年~41年)をモデルとしたこの劇は、精神疾患も噂され、残忍で浪費癖や性的倒錯の持ち主であったとされているこの皇帝を、きわめて知的で近代的、かつ政治的怪物として、現代によみがえらせます。

 これ以上は、この劇を観る、あるいはテキスト(台本)を読んでもらうほかありません。とりあえず、皇帝が突然失踪したため大混乱の宮殿に、こっそり舞い戻ったカリギュラが腹心の解放奴隷エリコンと交わす、エスプリに満ちた会話から言葉を借りましょう(「不可能なことをおこなおう」と自らの使命と欲望に目覚めた主人に、すべてを知り尽くし、かつ眼から鼻にぬけるほどのやり手ながら、協力してしまう従者、コンメディア・デラルテ以来、モリエールを経たヨーロッパ演劇の基本的パターンを踏襲しているともいえます)。

  • カリギュラ:お前、おれが気が触れた、そう考えているな。
  • エリコン:わたしがものを考えたりしないことは、よくご存知のはず。考えたりするには頭が良すぎるのですな。
  • カリギュラ:それはそうだ。しかしな、おれは気などふれてはいないぞ、それどころか、これほど頭のはっきりしているときはかつてなかった。ただ、おれにはな、突然、不可能なことが必要となったのだ(間)。物事すべて、このままでは満足のいくものとは言いがたい気がする。
  • エリコン:かなり多くの人々の意見ですな。
  • カリギュラ:それはそうだ。しかし、以前には、おれはそのことを知らなかった。今は知っている。
  •  (略)
  • エリコン:つまりどういうことなのです。その真理というのは?
  • カリギュラ:(顔をそむけ、特徴のない口調で)人間はすべて死ぬ、だから人間は幸せではない。
  • エリコン:(ちょっと間をおいて)なんですね、カイユス様、そんな真理なら、みんなうまく折り合いをつけているではありませんか。まわりの連中を見て御覧なさい。その真理のために飯が喉を通らなくなったりはいたしません。
  • カリギュラ:(急に激して)つまりそれは、おれのまわりのすべてが嘘で塗り固めてあるからだ。このおれはな、やつらをこの真理の中でいきさせてやる!しかも、いいか、やつらをこの真理の中で生きさせる方法を、おれは持っているのだ渡辺守章訳)。
  •    

 この魅力的なやり取りの後、真理を大衆に教えるため、カリギュラがどう変貌していくかは、是非、本書をお読み下さい。

◆2007年のシアター・コクーンでの上演についてのHP http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/07_caligula/index.html

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

   ヒトラーの出現をはさんで、1945年、『カリギュラ』は、後にフランス映画きっての二枚目俳優として有名になるジェラール・フィリップの記念すべき主演として初演され、フランス戦後劇のトップを飾ることになります。おそらく、初演時には、観客のだれもがヒトラーを想起せざるをえなかったでしょう。

 この作品を読みながら、権力の魔力について考えるのも、総合政策学部にふさわしいかもしれません。ついでながら、いわば定説的なカリグラ像については、ローマ時代の歴史家スエトニウスの『ローマ皇帝伝』がお奨めです。一方、名著の誉れも高いタキツスの『年代記』は、まことに残念ながらカリグラの項が失われています。

新入生の皆様へ、オリエンテーションはお疲れさまでした;大学とは何かPart2

2010 4/5

新入生の皆様へ

 オリエンテーションはお疲れ様でした。突然、色々な話を聞かされて、さぞかし戸惑われたことと思います。と言う私自体が、今を去る38年前、大学に入学した際は、オリエンテーションを聞いても、東も西もまったくわかりませんでした。ということで、新入生の方には、これからの4年間、できるだけ楽しく大学生活を送るコツとして、まず以下の二つをあげておきましょう。

  •  (1)わからないことがあれば、(誰か=もちろん、学部関係者)に聞く
  • (2)嫌なことから初めに片づける

 この2点さえ守れば、それなりに充実した大学生活になるのではないか、と思う次第です。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 徒しごとはさておき、先回の投稿では、最後に、19世紀、ドイツの大学を一新する“フンボルト理念”について触れましたので、そこから話を続けたいと思います。

 フンボルトとは、近世ドイツの言語学者にしてベルリン大学の創設者であるヴィルヘルム・フォン・フンボルト(1767-1835)のことです。ちなみにドイツの知識人として先輩がゲーテ(1749-1832)、後輩がグリム童話の採集者で言語学者のヤーコプ・グリム(1785-1863)、ヴィルフィルム・グリム(1786-1865)等です。彼らはいずれも、同時代の出来事であるフランス革命、そのフランス革命の「限定相続人」と呼ばれたナポレオンが引き起こすナポレオン戦争にかかわったり、振り回されます。

 その頃、ドイツには、統一国家が存在していなかったわけです。それどころか、「国民国家」さえ、フランス革命と100万人を超える犠牲者の血を吸ったナポレオン戦争の結果として、やっとフランスが誕生する、そんな時代でした。

 そのため、ゲーテからグリムまで、彼らは一様に「国家とは何か?」、「民族とは何か?」、「民族、国家を振興するためには、何をすべきか?」に取り組まざるを得ない。「学者」だけでは、やっていけなかった日々が続きます。

 そのフンボルトが1810年にベルリン大学(現在の「フンボルト大学ベルリン」)を創設します。ちなみにこれは、ナポレオン戦争では、近代戦上、もっとも悲惨な闘いと言われたヴァグラムの戦い(1809年7月、18.8万のフランス軍と15.5万のオーストリア軍(ハプスブルグ朝)が激突、双方72,500人が死傷=死傷率21.1%!、フランス軍の辛勝)と、ナポレオンの命運を決めたモスクワ遠征(1812-13年)の間です

  このベルリン大学こそ、フランス革命による文化的ショックで、当時の後進国ドイツに花開く一連の改革、政治(シュタイン)、軍制(グナイゼナウクラウセヴィッツ)等と並ぶ「ドイツ改革」の一つの試みなのですが、それは要するに「教育の近代化」として、「伝統的な分野からさらに新しい分野へ(=多くが自然科学)」への積極的取り込み」であり、同時に「大学とは教育する所であると同時に、研究する場である」という理念=フンボルト理念が生まれます。

◆これが一つの「近代的モデル」として、途上国におけるキャッチアップ型大学として、遠くは日本の帝国大学(当時、現東京大学)まで影響を与えます。また、自然科学への取り組みが、結果として、第一次大戦までのノーベル賞受賞者数のダントツのトップの座をもたらします(例えば、ロバート・コッホ)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 一方、オックスフォードとケンブリッジに代表されるイギリスの大学は当時「聖職者養成」に傾いたまま、実学に関心を向けませんでした。いわば、聖職者のコピーを代々つくっていく、それが使命です。したがって、「革新」等ありません、というよりむしろ嫌われていたかもしれません。

 例えば、経済学の父にして『国富論』の著者アダム・スミスはオックスフォードに入学するも、結局、退学してしまいます。そして、むしろ、その後の貴族の家庭教師としてグランド・ツアーに出かけた際の、ヨーロッパ大陸体験から多くを学びます。19世紀に入っても、自然科学に興味をもった進化論の理論家、チャールズ・ダーウィンはケンブリッジの学友たちに「ガス(気体の)」とあだ名をつけられ、さげすまれます! 父親がダーウィンをケンブリッジに入学させたのは、エディンバラ大学(1582年設立、イギリスで3番目の大学)での医者修行になじめなかった彼を、牧師にするためだったのですが。

 あるいはアメリカの伝統的大学、ハーバード、イエール等では、ラテン語の文章等の「暗記」教育がもっぱらで、ドイツの大学に圧倒的な差をつけられていた、これが当時の大学の実相だったというのです。アメリカの大学で改革が起きるのは19世紀後半、その一つの試みが「大学院大学」をめざしたジョンズ・ホプキンス大学です(1876年設立、関学設立の13年前)。

 また、アメリカ全土で職業学校や師範学校、農業試験場が規模を拡大させて州立大学に昇格させて、プロフェショナル養成コースを整備していきます。この中には、農学と工学に特化したA&M(Agricultural and Mechanical)大学も含まれます。

  その過程で、アメリカの伝統的大学もいくつかの道をたどります。例えば、ハーバード(1636年設立)、イエール(1701年設立)はいずれも教養学部だけ(=中世ヨーロッパの「哲学部」)、そしてそこを出て、スペシャリスト養成は大学院に任される。とくに、ダートマス大学(1769年設立)やブラウン大学(764年設立)は、ハーバード等に比べてもさらに学士課程(いわゆるリベラル・アーツ)重視の方針を貫く。 

 一方、アイビー・リーグでもプリンストン大学(1746年設立)やペンシルベニア大学(1751年設立)、コーネル大学(1865年設立)では伝統の教養学部に、新興の学問分野(工学部、経営学部、農学部)をプラスする方向へ変わる。

 そこに新しいタイプの大学ができます。例えば、MIT(マサチューセッツ工科大学;1865年設立)スタンフォード大学(1891年設立)は19世紀後半に建てられ、複数の学部にわかれています。そして、カリフォルニア大学(1877年設立)等では日本の大学のように、多数の学部を持っています(キャンパス自体が10!に分かれている巨大大学です)。

◆アメリカにおいて、法律家養成のスペシャリストコースとしてロー・スクールが盛んになるのは、1865年の南北戦争終了後(1850年の15校から、1900年に102校に増加)だそうで、このあたりの時期でアメリカ型カリキュラムも固まってくるのでしょう(ハーバードのロースクールは1870年に設立)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 “大学”と“学部”はかくも様々です。そして、フンボルト理念が全世界に伝わるにつれて、大学は自らの存在意義において、“教育(それも、ジェネラリスト養成とスペシャリスト養成のバランスも含め)”と“研究”のバランスに腐心してきました。

 それでは、日本の大学は? これも試行錯誤の連続です。例えば、適塾等が(前回参照)“蘭学”という語学教育=いわば教養教育をベースに、福澤諭吉(教育、経済)、大村益次郎(軍事)、佐野常民(日本赤十字)等、多方面にスペシャリストを産み出したことを考えると、明治維新を経て、どんな風に変遷したのでしょうか?

 まず、現東京大学が帝国大学が1877年にできた時(上記のコーネル、ジョンズ・ホプキンス、MIT、カリフォルニアとほぼ同時期)、法・理・文の3学部+旧東京医学校の医学部という体制で出発します。

 それが、1885年に司法省所管の法学校を吸収、工部省が管轄した工学寮→工部大学校を移管、1886年に「帝国大学令」の発布で、「帝国大学」の名のもとに、法・医・工・文・理の5分科大学(+大学院)という体制になります(わかりますか? 詳しく知りたい人は、是非、ウィキペディアを)。さらに1890年、農商務省所管の東京農林学校を吸収します(農学部です)。

 そして1897年以降の京都帝国大学以降の大学設置を機に、名称は「東京帝国大学」と改まります。つまり、明治初期、様々に散らばっていた諸スペシャリスト養成コースを次々飲みこんでいって、巨大化・肥大化した「東大」が、その後の国立大学の一つのモデルになっていく、というわけです。また、東大に飲み込まれなかった商法講習所(現一橋大学)や東京職工学校(現東京工業大学)等が、日本の単科大学のモデルになっていったともいえます。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 それでは、日本の私立大学はどうでしょう? (なお、私立大学が正式に誕生するのは、1918年の「大学令」の公布以後です)

 実は、明治期に、スペシャリスト養成コースをきっかけとして、多くの私立学校(のちの私立大学)ができます。そして、東京大学(とくに法学部)が「官吏養成コース」となったのに対して、在野の弁護士(当時は代言人等と呼ばれて、必ずしもステータスが高くなかったのですが)や医者の養成等で、国公立では埋めきれぬ人材養成をにないます。

 この好例が関西大学で、1886年関西法律学校がはじまりです(フランス人ボアソナードの弟子である司法官たちがいわばボランテイア的に教えていたフランス法系の法律学校)。同じような例が、中央大学(1885年、イギリス法系の法律学校としてできた英吉利法律学校)、法政大学(1880年、フランス法系の東京法学社として設立)、明治大学(1881年、フランス系法律学校「明治法律学校」として設立)。ドイツ語およびドイツ法では、独逸学協会学校(1883年、現獨協大学)があげられます。

◆なお、法律の世界では、イギリス・アメリカの法体系を英米法と総称して、フランス・ドイツ等の法体系を大陸法として対比させています。つまり、法律もその土地、文化により変わるのです。

 また、医学系としては、東京慈恵医科大学(1881年、後に兵食改革によって海軍で脚気の予防に成功した海軍軍医中将高木兼寛が開いた「成医会講習所」が発端)が挙げられます。

 一方、宣教師等によって1889年に創設された学校、我らが関学は、最初は神学校+旧制中学(普通学部)から出発したところを見れば、まさに「リベラル・アーツ」派ではないでしょうか。それが、1912年に高等学部(文学部・商学部)ができるあたりで、現在の形に近づいて行ったわけです。明治学院大学も、ヘボン式ローマ字で知られる宣教師ヘボン博士が1863年に開いた私塾、ヘボン塾から始まります。

  それに対して、最初から総合的なスクールを作るというミッションがあったのは東京専門学校、現在の早稲田大学かもしれません。創設者の大隈重信明治14年の政変による挫折時に、立憲政治の人材養成という目的でこの学校を開設します。設立当時、すでに東京大学等のモデルがあったためか、当初から政治経済学・法律学・理学を設け(ただし、理学はその後廃止)、1886年には英学科を英学部とする等の変遷を重ね(いわば試行錯誤です。

 日本の私立文系大学のモデル形成過程かもしれません)、1891年に政学部・法学部・文学部の3学部制となり、1902年には「早稲田大学」への改称が認可されます。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 なんだか、書いているうちに、話がずいぶん大きくなってしまいましたが、これは関西学院大学の総合政策学部は「リベラル・アーツ」型のカリキュラムを提供しながら、都市政策や国際政策、メディア系のスペシャリスト養成コースとも共存できる存在ですよ、と言っているわけを説明するための、いわば「マクラ」と思ってください。

 ここまで話してしまったので、これまでの自分の経験も述べたいと思います。私は(関学外ですが)大学の理学部を卒業後、そのまま大学院の理学研究科に進学しました。学位取得後も、なかなか定職につけないまま、たとえば国際協力事業団(現国際協力機構;JICA)の派遣専門家という臨時職で2年間、アフリカでODAの末端で働いたこともあります。結局、出身母校で理学部の助手になったのが33歳です(大学院から教員・研究職につくのは、なかなか大変なことですよ)。

 6年ほど理学部で教員を勤めた後で、目先を変えようと、ある国立の教育大学にトラバーユしました。このため、教育学部という(理学部とはまったく違う)世界でしばらく過ごしました。それから、96年にここ総合政策学部に来たわけです。

 このように3つの大学・学部をわたり歩いたわけですが、この他、学部生のころから勝手に大学院のゼミに出没したり、農学部や文学部の講義を(登録せずに)聞いたり、文化人類学関係の研究会や大阪市立大学理学部等に出入りして、それなりに色々な大学・学部を見てきました。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その経験を踏まえての結論ですが、あたりまえの話ですが、学部が違うとまったく異なる世界が展開している、と思ってください。まず、学部と就職が直結している(あるいは、そう考えられている)学部があります。そう、この典型例が医・歯・薬学部と文系では教育学部です(ついでに指摘しておくと、これらの学部は卒業後、国家試験教員採用試験(通称、キョーサイ)等があって、学校制度と資格試験が直結しています。

 これこそ、スペシャリスト養成コースなのです)。この点、総合政策学部は、とくに1年生の方など、どんな職につくか、見当も付かないですよね(つまり、学部全体で言えば、ジェネラリスト・コースともとれるわけですが)。

  しかし、教育学部に移った際、私が実感したのは正直に言って、「これで日本の教育の未来は大丈夫か?」ということにほかなりません。18歳で、定年を迎えるまでの40年以上の人生を決められるのか? あるいはその時点で、教師としての適性を判断できるのか? あえて言えば、その大学の教育学部に進学してくる人たちは「せめて、子供のうち一人ぐらいは親元に残したい。それには、田舎でも就職できる先生か公務員だろう」という親の希望にそった「良い子ちゃん」が多いのですが、そうした人が果たして良い教員になれるのかは、また問題が別のような気がしたのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 私の個人的な結論ですが、こういう教育学部のシステムはやはり改善の余地がある。たとえば、いったん他の学部で勉強して(その場合、4年制ではなく、3年制が適当か?)、その結果、やはり教師になりたいという人が、大学院としてエデュケーション・スクールに進んで、そこで数年、教育法をメソッドとして習得する、こうしたシステムの方が良いのではないかと思うのです。これがアメリカ型の大学/大学院のシステムだと、私は理解しています。

  たとえば、皆さんのなかで、総合政策を勉強した上で、それを小学校教育に活したいと思う人もいるかもしれません。そうした人たちには、、総合政策(=真の意味での教養[リベラル・アーツ])を勉強していただいた上で、さらにスペシャリストとして要請されるようにしかるべきコースを用意する。こうしたシステムこそが、将来の日本の教育にとって、ベストとは言わないけれどベターではないか、というのが私の実感でした。

 さて、みなさんの中でロー・スクールに興味を持っている人がいれば、同じ図式であることに気付かれると思います。弁護士や検事を法学部進学者だけにまかすことなく、複線コースで養成することの意味がそこにあると思うのです。

 さて、最後に、推薦図書として、夏目漱石学習院でおこなった講演の記録『私の個人主義』(講談社学術文庫)をあげたいと思います(『基礎演習ハンドブック』でも紹介ずみですが)。明治以来の日本のインテリがとりつかれた悩みとそれを克服しようとする抱負が、ある意味で、凝縮している告白です。

新入生の皆様へ、ご入学おめでとうございます;大学とは何か?Part1

2010 4/1

新入生の皆様へ

 本日は、関西学院大学総合政策学部の入学式ですが、新入生の皆さんへ(もちろん、在校生の皆さんへも)大学とはどんなところか、という話で新年度のブログを始めたいと思います。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 そもそも大学とはどんな風に始まったのか? これは『基礎演習ハンドブック』にもコラムで書きましたが、まず、ヨーロッパの大学について解説しましょう。その起源はおおよそ2つに分かれると言われています。

 タイプ1は、(資本を持った)学生たちのギルド(世界史には必ずでてきますね。中世ヨーロッパの同業者組合です)が主体をもったもので、イタリアのボローニャ大学(法学で有名で、当時のロースクール的な機能をはたしていました)などが該当するそうです。つまり、学生が教員を共同で雇う形になるわけです。貴族やブルジョアジーの子供たちが個別に家庭教師を雇うより、共同で雇った方が効率的かもしれません。

◆かの古代ギリシャの哲学者アリストテレスはマケドニアの覇者フィリッポス2世の後継者のアレキサンドロス大王の家庭教師でしたが、やがて「ミエザの学園」で、アレクサンドロスとその学友たちを教えます。つまり、学校の誕生でもあります。このあたりは、岩明均が連載中のコミック『ヒストリエ』をご覧になるのが良いでしょう。ちなみにこの学友たち(ペルディカッスプトレマイオスカッサンドロスら)は、アレクサンドロス大王の死後、ディアドコイ戦争で互いに殺しあうことになります。

 タイプ2は、教員のギルドが中心になったものです。典型は、ノートルダム寺院の神父様たちが共同で教える事で、優秀な後継者を育成する=ギルド後継者養成コースを設立することから始まったパリ大学等が該当します。パリ大学神学部はしばしば“ソルボンヌ”と呼ばれますが、これは、フランス王ルイ9世つき司祭のロベール・ド・ソルボン(1201-1274)が、貧しい学生のために「学寮(寄宿舎+教室的建物)」を1257年に作ったという事例から、ソルボンの名を記念したものです(『ハリー・ポッター』のホグワーツ魔法魔術学校スリザリン寮を連想させますよね!)。

 なお、この「学寮」がフランス語でコレージュ、英語でカレッジになります。こうやって神学寮の神父様たちが開いた学校は、1259年、ローマ法王に認可され、パリ警視庁の管轄から脱して(=すなわち、学問の自由の獲得)、同時に世俗的な権威もそなえていきます。つまり、俗権と聖権のはざまに咲く存在なのです。

◆現在は、「カレッジ」と言えば、単科大学的な存在をさしますが、このようにもともとはキリスト教会付きの全寮制修道士養成学校なので(『ハリー・ポッター』を想起)、当時は、寄宿舎や食堂、教会等、いくつもの建物を含んだセットでした(オックスブリッジはまだその名残りがあると聞いています)。一方、ユニバーシテイとは、いくつものカレッジを包含し、学生と教師のギルドを「統合」したものという意味だったそうです(Wikipediaより)。

 ここで、当時の大学のカリキュラムをちょっと紹介すると、まず「学士号(バチェラー)」をとるために6年間を過ごします。この時勉強するのが、リベラル・アーツ(教養)で「自由7科」と称され、算術、幾何、天文、楽理、文法、論理、修辞からなります。このコースが「哲学部(学芸部)」ですが、これが近代教育では「教養課程」になっていきます。つまり、ジェネラリスト的な素養を身につけるのです。つまり、この7科こそ、ヨーロッパのインテリゲンチャが身につけねばならないものです。

 さて、「教養」を身につけてから、修士(マスター)、博士(ドクター)とさらに6年ほど勉強が進みますが、そこでは専門=スペシャリストへの道として、法学部(上記のボローニャ大学が有名、つまり法律家になる)、医学部(イタリアのサレルノ大学等が有名)、神学(ソルボンヌことパリ大学が有名=聖職者になる)というわけです。

◆さて、ここからは皆さんへのお話ですが、この学部に入学されて、自分はどんなコースを歩みたいか、新年生の1年間でじっくり考えてください。まずは、卒業後、ジェネラリスト(会社や自治体等に入って、どんな仕事もこなしていく、何でも屋=いわゆる総合職)になるか、それとも、一定の資格(=例えば、建築士コース、教員免許等)をとったり、大学院(ロースクール等も含めて)等に進学して、スペシャリスト的なコースを選ぶか、そのあたりで、4年間のキャンパスライフの設計が固まります。そのうえで、自分に興味のある学科を選択されていくのが一つの道でしょう。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 関学は、皆さんもご存知のランバス先生がお建てになったものだから、パリ大学以来の伝統スタイルにそっているとも言えるでしょう。なお、講義や演習、学年暦、学位とその授与権、試験のスタイル、学部、教授団(英語でFaculty)などは、すべて中世ヨーロッパのこのあたりの大学で始まったことだそうです。 ところで、私は個人的には、ボローニャ大学のように、学生のギルドが教員を雇うというシステムも悪くはないと思っているのです。

 下で述べるように、日本の東京大学が明治政府の意図(=社会的ニーズ)に沿ってそれなりに存在価値があったとしたが、学びたい者たちが学びたいことを教える教員を雇う(=消費者的ニーズ)もそれなりに筋が通った話であるとも思います。そのあたりについて、また触れることがあるかもしれませんが、今回はここまでにいたしましょう。

 さて、大学の社会的存在が次第に大きくなるにつれ、当然、利害関係が生じます。学生と教員のギルドが対立したり、大学と地元自治体とが争ったり、戦争や経済的な理由などで学生が離散するなど、大学自体が潰れたり、分裂、移転もめずらしいことではありません。例えば、オックスフォード大学では13世紀初めの大学紛争で、町の人々と対立した学生が移動してケンブリッジ大学ができます(サルの群れの分裂みたいですね)。

 なお、こう述べてくると、私も皆さんも、つい“ヨーロッパ的大学”をイメージしてしまいがちで、無意識のうちにイスラーム圏の“コーラン学校”や、昔にあった“綜芸種智院”や“足利学校”等の学校システムを無視することになりかねません。これも一種の文化的偏見=差別と言えそうです。

 もちろん、日本にも色々な動きがあったわけです。その一つは“私塾”です。大阪の緒方洪庵先生の“適々斎塾”は、やがて慶応義塾を創る福澤諭吉や、日本陸軍の近代化を始めた大村益次郎などを輩出していますから、ある意味、“大学”になりかけていたと言っても過言ではないでしょう(その適塾での日々を再現するものとして、手塚治虫の漫画『陽だまりの樹』を推奨しておきましょう。

 なお、この漫画の主人公の一人で手塚治虫の曾祖父、手塚良仙は実在の人物で、福沢諭吉の自伝にも登場してます)。洪庵先生の場合、ギルドというより個人的なボランテイア精神そのものなのですが、そのお弟子さんはついに大学まで作ってしまったわけです(もっとも、福沢諭吉が亡くなる頃はまだ日本政府は国立大学以外の大学を認めていなかったと思うので、専門学校として扱われていたと思います)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  この二つの原型(プロトタイプ)に加えて、やがて新しいタイプが登場します。それは、“後進国のキャッチアップ”にほかなりません。“教育政策”ですね。 

 その典型例は、ルネサンス期、当時のヨーロッパの後進地帯、例えば、ドイツ等に見られます(当時は、そもそも、ドイツという単一国家がなかったのですが)。そこでは、大学を“領主の支配の中心”として設立することがはやります。ドイツは多くの国家に分かれていましたが、「他の領邦の大学に学んだものは、官吏として採用しない」という政策を立てたりしたそうです。

 つまり、後進地帯で自らの権力強化や、先進地帯の“キャッチ・アップ”を目指すのに、大学を道具の一つにするわけです。この一つの典型が、東京大学であることはすぐお気づきになるでしょう。だから、東大を出て官僚になるというのは、明治政府の設立主旨に合致していると言えなくはないかもしれません。

 私は東アフリカのタンザニアに3年間暮らしましたが、その時分にはタンザニアにはダル=エス=サラーム大学ひとつしかありませんでした(現在は、日本の援助でソコイネ農業大学もできています)。また、この頃の学生は国家公務員待遇であったと聞いていました(学生からじかに聞いたわけではないので、本当はどうか知りませんが)、超エリートなことに変わりはありません(1980年代に、国家経済の破綻でIMFの軍門に下った以降は、変わっているかとは思いますが)。

 なお、このダル=エス=サラーム大学ですが、イギリスの植民地時代は現在のタンザニア、ケニアウガンダの東アフリカ3国でたった一つの大学しか存在しませんでした。それが、この3カ国が結んだ東アフリカ共同体が、政策の違いから(これはまた別の機会に紹介しましょう)空中分解をした際、(2月に関学に来られたノーベル賞受賞者のマータイ先生のおられる)ナイロビ大学、ウガンダのマケレレ大学、そしてダル=エス=サラーム大学の3つに分解したのです。 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、19世紀まで、ヨーロッパには多くの大学が建てられましたが、多くの大学ではぬるま湯のような世界であったともいわれています。こうした大学に次の新たな風が吹くのは、19世紀、ドイツの大学を一新する“フンボルト理念”です。そのあたりは、また、次回にしたいと思います。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...