2010年6月

リサーチ&レポート;リサフェへの近道Part2~いかにして“課題”に気がつくか?~

2010 6/29 総合政策学部の皆様へ

 Part 1に引き続き、いかにしてリサーチレポートをこなしていくか、インストラクション講座のPart2です。

 まず、課題/問題(=テーマ)を見つけなければいけません。そして、それが身近なものであり、具体的なものであり、そして皆が納得するものほど、「結構!」ということになります。しかし、それがそんな簡単にできるのか、そしてそのテーマをどんなふうに“掘り下げていく”べきか?

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 一つの問題は、目の前の事実(経験)からどんなテーマを引き出すか、人によって違うこと、そして、そのテーマのうちどれを選ぶか自体が、一種の賭けであることです。私が講義でよく話す例は、アメリカの資本主義者の間の小話(アネクドート)である「靴のセールスマンが、船でアフリカの港に上陸した時に・・・・・」です。

 それは、こんな風に始まります。「アメリカの靴の会社から、セールスマンがアフリカに出張した。アフリカの港に着いた時、セールスマンの眼にはいったのは、みんな裸足で歩いていること。A社のセールスマンはあわてて本社に打電した。「ここはみんな裸足です。商売になりません」。同時に、B社のセールスマンも打電していた「みんな靴を履いていない。ここは素晴らしいマーケットです!」。

 では、どちらが正しい資本主義者か? もちろん、後者ですね。何事もポジティブな姿勢で、何もないところから課題を見つけることこそ、資本主義の理想です(ついでに言えば、理想のセールスマンとは「イヌイットに氷を売りつける人」だという話もあります-ちょっと民族差別的な雰囲気を感じて、あまり好きな言葉ではないのですが)。なお、このA社、B社の報告こそが“仮説”なのです。

 もちろん、アフリカに3年いた私からすると、第三の仮説=C社のセールスマンもいるはずです。彼は打電します「みんな靴をはいていないけど、金もないかもしれない。潜在的なマーケットだけれど、売れるかどうかは、リサーチしなければわかりません!」。

 おもしろいことに、これとほぼ同じアネクドートが、松下電器から東海大学に移られた経営学者の唐津一さんの本に出てくるのを見つけた事があります。それは第一次大戦後の日本で、旧ドイツ領の「南方の島にいったら、そこの住民がみんな裸足だった」というバージョンでした(唐津一『販売の科学』)。資本主義者はよほど“”が好きなようです。

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 それはさておき、皆が見る光景は一つ=「みんな裸足」。なのに、仮説は全く異なる。この仮説のどれに“賭けるか?!  これこそリサーチで初めに味わう醍醐味です。同じものを見ても、そこに他人と異なるものを発見、異なる価値(仮説)を付ける、これこそがオリジナリティなのです。

ところで、アネクドートとは本来はロシアの小話、それも権力者をおちょくり、この世をせせら笑う政治的風刺小話です。例えば、ある男が「(当時のソ連共産党中央委員会第一書記の)フルシチョフは馬鹿だ」と赤の広場で叫んで、たちまち秘密警察に捕まった。即座におりた判決は23年の流刑。そのうち3年は国家元首侮辱罪、あとの20年は“国家機密漏えい罪”だった!。

社会主義政権時代の)東欧の首脳をしたがえ、フルシチョフが演説中、つい力がはいってしまったか、おならをかましてしまった。すると東ドイツウルブリヒトが即座に「今のそそうは私であります」と謝った。演説を続けるフルシチョフはまたもう一発、するとポーランドゴムルカがぱっと立って「今度のそそうは、私でございます」と叫んだ。すると、隣にいたチェコスロバキアノボトニーがあわてて立ち上がり「この次のそそうは、私であります」と叫んだ!

フルシチョフの次のソ連最高指導者ブレジネフが母親を招いて、「これはニクソンからもらったキャデラック、これは・・・・・」と各国首脳からのいただきものを自慢すると、母親が急に声を潜めて「でも、お前、革命が起きたら、どうするんだい?」と言った。

エジプトの首相のナーセルがスイスを公式訪問した。閣僚を紹介されるうち、「こちらは海軍大臣です」と言われて、つい、「おや、海のないスイスに海軍大臣とは!」と口走ったら、相手はにこりともせず「お宅(=エジプト)に大蔵大臣がいるようなものですよ」と返された。

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 さて、冗談とアネクドートは別にして、“課題発見・解決・新たな提案”という一連の流れについて、実例を紹介しましょう。『基礎演習ハンドブック』でも触れているように、問題の掘り下げ方の一つには、自然科学のレベル、応用科学のレベル、法・経済・社会学のレベル、そして哲学・価値観のレベルという複層からの視点があります。

ちなみに、前述の唐津さんのご著書には、「南の島の人々に靴を売るため」の販売の智恵を出すための4つのステップとして、(1)事実を知ること、(2)規則性を発見すること、(3)(アイデア等の)組み合わせをつくること、そして(4)(後で思い返して)評価ができること、をあげていらっしゃいます。

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 例えば、抗生物質。この患者にとっては“福音”、医者にとっては“病いへのまたとない武器”、そして製薬業界にとっては“ビック・ビジネス”となる物質の発見は、1928年、後にノーベル賞を受賞する ことになるアレクサンダー・フレミングのいわば実験の失敗から始まります。

 Wikipediaによれば、「実験室はいつも雑然としていて、その事が彼の発見のきっかけになったようである。(中略)彼が実験室に散乱していた片手間の実験結果を整理していた時のことである。廃棄する前に培地を観察した彼は、黄色ブドウ球菌が一面に生えた培地にコンタミネーションしているアオカビのコロニーに気付いた」。

 要するに、汚くてカビが生えてしまった実験結果を見て、失敗 → カビがブドウ状球菌に生えている → そのまわりの菌が死滅している → カビは菌を殺す物質を作っているのでは → 「それは“薬”になるのでは」ととっさに考えたのです。これがペニシリン発見の瞬間でした。ここは、自然科学のレベルからいかに応用科学へ、立ち位置を変えていくか、という段階です。

 これは、「アフリカの人が裸足で歩っている → 裸足の人は靴を欲しがるだろう → 一人に一足売ったとしても巨大なマーケットがあるはずだ」というB社のセールスマンの発想と繋がるはずです。

 さて、フレミングは29年には論文を書きますが、その後、物質の抽出には手間取り、1940年、彼の論文を読んだ別の二人の研究者がペニシリンの精製に成功するまで、医学界からまったく無視されます。しかし、この“再発見”後、ペニシリンは一躍脚光をあびます。

 そしてもう一つ、ペニシリンの発見は一つのパラダイム(Part3で詳述しましょう)を産み出します。つまり、カビや放射菌が放出する物質を調べれば、その中に“薬”がある可能性がある(それが、抗生物質=「微生物によってつくられ、微生物の発育を阻害する物質」)。これが、抗生物質のパラダイムです。こうして一つの手法が見つかると、次々に薬が見つかっていく。こうした新しい世界を切り開く発見が、自然科学のレベルでのブレークスルーなのです。

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 さて、問題発見=「細菌の培養コロニーにアオカビが生えているのを見つけた…」時、まず、何を考えるべきか、それは自然科学的レベルです。まず、アオカビが出す物質が何かを調べる。それを動物実験・治験に呈すると…=どうやら薬になるようだ。そして、それを例えば、たとえば化学合成できるか? 応用科学のレベルですね。

 総合政策学部の皆さんには、その次のテーマがあるはずです。つまり、この“物質”を使って、問題解決(=病気の治療)に本当にふさわしいか、あらためて考える。そこには、様々な法、経済、社会的課題があるはずです。まず、治験によって、この薬の安全性を確かめるための手続きかもしれません。新薬への健康保険への適用も問題になるでしょう。こうなれば、法・経済・社会学のレベルにも重要です(と言うより、総合政策学部の大半の学生さんはこのレベルに該当するでしょう)。

 治験にかんしては、外国での薬の認可と日本国内でのそれの時間差が大きすぎるというドラッグ・ラグの問題もあります。そして、その片方で薬害の問題もある。そして、副作用(ペニシリン・ショック等)が見つかれば、それについての情報公開の問題も、十分に取り上げられるべき課題ではなかろうかと思われます。さらには、その薬を製造・販売することが経営的にペイするか、という製薬会社として企業経営の問題も浮上する。リサーチのテーマとして次から次への課題が見つかっていくわけです。

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 もちろん、これで終わりになるはずがない(なぜなぜゲームは永遠に続きます)。自然科学でいえば、アオカビが出すペニシリンで病気を治しても、やがてペニシリンがきかない耐性菌が出現する、という問題がでてきます。これは、疫学=病気の生態学の扱う問題でもあります。

 さらに、かつて神戸大学医学部におられた岩村昇先生ネパールでの医療活動で気付いたように、「善意から第三世界で医療活動をおこなっていても、何年たっても病人が減らない。これは医療に問題があるのではなく、その地の社会の構造的欠陥ではないのか?」。こうした視点に立つことが、まさに総合政策にあたります。

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 最後に、倫理/価値観についての問題もふれなければいけません。ごく簡単な問題言えば、例えば、発展途上国の貧しい人たちに高価な新薬を提供するにはどうすればよいか? 例えば、あるWebの記事には「世界貿易機関( WTO )知的財産権協定に例外を設けており、最貧国でエイズが蔓延するなどの非常事態に限り、特許権者の許諾を得ずに医薬品などを製造・輸入できる「強制実施権」を、各国政府に認めている。

 強制実施権はこれまで、途上国政府が製薬会社と医薬品の価格交渉をする際の“脅し”として用いられるケースが多かった。だが、2006年末から2007年にかけてタイとブラジルが相次いで発動に踏み切り、製薬業界に大きな衝撃が走った(http://www.sustainability.com/downloads_public/articles/Nikkei_PeoplesCar.pdf)」

 製薬会社にとっては、薬の開発はきわめてハイリスクで、発見された薬は当然、知的財産権で守られねばならない。その一方で、特許によって貧しい人たちからも、先進国と同じ金をまきあげるのが、正しいのか、皆さんはどう思われますか? この問題は、当然、社会的不平等や南北問題に発展していきます。

 また、新薬開発のための動物実験等は是か、非か? あるいは患者を死なせないためとはいえ、薬漬け医療ははたして正しいのか? それは人間の尊厳が保たれるのか? と考えていくと、いくらでもテーマは出てきそうです。そのためにも、皆さんは最初から一つのテーマ、仮説にこだわらず、複眼的視点をやしないましょう。そのためにも、ディスカッションが必要なのです。

高畑ゼミの100冊Part17:ジュディの読書案内(『あしながおじさん』に見る20世紀初頭のアメリカ女子大生の読書から#2)

2010 6/23 総合政策学部の新入生の皆さんへ

 Part16に引き続き、20世紀初頭のアメリカ女子大生ジュディの読書案内を続けたいと思います。先回は、ついついハンニバルに凝ってしまいましたが、もちろん、ジュディの読書欲をそれだけで満たすことはできません。

 それでは、当時のアメリカの女子大生が当然読んでいるはずの本(あわや「変わり者」の烙印を押されかねないジュディにとって早々に読まねばならない必需品)が、新潮文庫版のp.34、12月19日、午後9時45分の項に出てきます。列挙してみましょう。

 『マザー・グース』『ディビット・コッパーフィールド』『アイバンホー』『シンデレラ』『ロビンソン・クルーソー』『ジェーン・エア』『不思議の国のアリス』『虚栄の市』『若草物語(当時、1ドル12セント)』

 皆さんはどのぐらいお読みでしょうか? 私自身は、『虚栄の市』にはまったく手をつけていません。ディケンズもそれほど趣味ではないせいか、『ディビット・コッパーフィールド』も読んでいません(彼の作品では、『クリスマス・キャロル』はちょっとストレンジ・テーストで、まあまあ好きです)。一方、こうして並べてみると、いわゆる“教養本”はここ100年、あまり変わっていないような気もします。

 そのしばらく後、日付がない手紙が続くため(註)、何月かは不明ですが、ジュディは「17冊の小説と30kgの詩」を読んだとして、さらに19世紀のアメリカの思想家・詩人のエマーソンの論文、イギリスの歴史家ギボンの『ローマ帝国盛衰史』第1巻、そしてベンヴェヌート・チェッリーニの『自叙伝』等が続きます。

註:学生の皆さんへ、プレゼンのレジュメ等には必ず日付を入れるように注意して下さい。それは自分の資料を整理したり、後で読み返す時に便利なためです。

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 さて、ジュディはこのベンベヌート・チェリーニ、西暦1500年生まれのイタリア・ルネサンス期を代表する彫金家彫刻家について、このような感想を述べています。 

チェリーニってとても愉快でございますわね? 彼はいつも朝食前にぶらりと外へ出て行ってふらっと人殺しをしてくるんですもの」 

 なかなか物騒な感じですが、『自伝』をひもとくと、以下のような記述に出くわします。

「・・・(喧嘩相手の)顔面を突き刺そうとしたとき、相手が驚き、とっさに顔をそむけたため、ちょうど耳たぶの下のところを短刀は突いた。そこへ二突き見舞っただけで、その二突き目で彼は息たえ、私の腕にぐったりもたれた。私の意図せざるところであった。よく言うが、思わず殴るときは手加減できるものではない。(中略)ユーリア街の往来を引き上げながら、どこへ行けば助るかを考えた」 (古賀弘人訳、岩波文庫版)

 ハードボイルドですね! なお、この事件の当時、チェリーニはメディチ家の血を引き、豪勢・鷹揚なパトロンぶりを発揮するローマ教皇(法王)クレメンス7世に依頼を受け、法王の頭部像のメダルを作成中でした。

 イタリアの歴史家モンタネッリはチェリーニをこう評します:「かれはルネサンス・イタリアの冒険児の典型であった。天才異常性格信仰シニズム、無謀な勇気と宮廷人風の卑屈さが、かれの中で共存していた。良心も理想も持たぬかれは、この世紀の知的豪胆と道徳的汚穢を誰よりもよく体現していた。この世紀は、善であれ悪であれ、中途半端な人物、中途半端な手段を許容しなかったのである」(藤沢道郎訳『ルネサンスの歴史』より)。好いですね、中途半端な人間は生きてはいけぬ! 皆さんもこれを心に明記してください。

  • ◆チェリーニがあこがれた先輩、ミケランジェロの作品からいくつか画像をぬきだしましたので、以下のURLをご覧ください。
  •  ・出世作:サン・ピエトロピエタ
  •  ・最晩年の作(未完成):ロンダニーニのピエタ
  •  ・絵画「最後の審判

 

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 さて、不敵なチェリーニはミケランジェロも年老いてきたイタリア・ルネサンス後半を飛び回ります。法王や枢機卿フランス王フランソワ1世ダビンチのパトロンで、その結果、モナ・リザがフランスに残ることになります)や初代トスカーナ大公コジモ1世から注文を受ければ、見事なメダルや金貨を作る代わりに、秘かに金や宝石をくすねて横流しする。法王や王からの注文を取り次ぐ官僚たちとはすぐ険悪な仲になる(とはいえ、この腕だけは確かだが、腹の底はわからないチェリーニに対せば、それも当り前というものです)。

 牢獄にぶち込まれてはそこから脱走を図る。娑婆にでても、女性をめぐってすぐに喧嘩を始める。さらにはいったんはほれ込んだ女性とも派手に立ち回り、ジェンダーバイオレンスの限りを尽くす。これがチェリーニの実態です。

 一方で、チェリーニは細かな彫金の細工から始めますが、やがて“神に紛うミケランジェロ”にあこがれ、彫刻の世界にも羽ばたきます。以下がその傑作たちです。

◆彫金の傑作『黄金の塩入れ(Saliera)』:画像のURlはhttp://www.scultura-italiana.com/Approfondimenti/Saliera_Cellini.htm

 『自伝』では、最初の雛型について「私がつくったのは楕円の型であり、大きさは半ブラッチョ(1ブラッチョは約 58cm)をゆうに越し、ほとんど三分の二ブラッチョあり、その型の上に<海神>と<大地神>が抱き合う形で形に、ゆうに一パルモ以上ある二つの像を載せた。二体は互いに足を差し入れて坐し、海が幾筋かの長い流れとなり大地に割って入っているように見える。男性の像<海神>はその片手に、贅を尽くした一隻の船を持たせた。その船の中にうまい具合にたっぷりと塩が入る。(中略)<大地神>のほうは、眉目麗しく気品があり、美しい肢体の女性に仕上げるべく私のもてる技量の限りをつくした(中略)。神殿は胡椒を入れるために作った」とあります。

 つまり、この黄金の塊は、初めはフェラーラの枢機卿の依頼で発注され、何年も作業の末、結局フランス王フランソワ1世のために作られた卓上の塩・胡椒入れなのです(なお、製作に時間がかかったためか、記述と現在の姿には異同があるそうです)。

 

 本日は、芸術作品についての画像特集にもなってしまいましたが、コジモ1世はチェリーニ以外の様々な芸術家をそれぞれ使いこなします。優雅で美しいブロンズィーノ、芸術官僚として有能なヴァザーリ(チェリーニは彼を嫌いますが、ヴァザーリの方は大著『画家・彫刻家・建築家列伝』』ではチェリーニを公正に評価しています)、そして乱暴で迫力のあるチェリーニ。

 そして、コジモ1世本人はその一身で、この3者の性格をそれぞれ併せ持つ(!)典型的マキャベリズム的君主とされています。ますます、好いですね。この君主にして、この芸術家たち、これでこそルネサンスです。

◆ちなみに、同僚たるブロンズィーノが描くコジモ1世最愛の后エレオノーラ・ディ・トレド(当時のナポリ副王の娘です)の肖像画のURLは右の通りです:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Angelo_Bronzino_038.jpg

 また、そのコジモ1世が、民人に接触することなく(=暗殺の機会を与える事なく)、宮殿からオフィスに移動できるよう芸術官僚ヴァザーリに命じて、5か月の短期間に見事に作り上げられたのが有名な“ヴァザーリの回廊”です(画像はhttp://www.firenze-oltrarno.net/nihongo/arte/corridoiovasariano.php)。現在はヴェッキオ宮殿ウッフィツィ美術館とピッティ宮殿を結びつけています。本来、メディチ家のフィレンツィエ支配のための官僚のオフィスとして作られたウッフィツィ宮殿こそ、英語の“Office(オフィス)”の語源なのだそうです。

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 ということで、今回はルネサンス期の芸術家ベンヴェヌート・チェリーニの不敵な一生、雇い主との絶えない争い(ひょっとして、秀吉と利休も互いの愛憎をぶつけ合ったあげくの切腹だったのかもしれません)という話で終わりそうです。これはいうまでもなく、ヨーロッパの“ピカレスク・ロマン(悪漢小説)”のノン・フィクション版という伝統にのとっています。しかも登場人物は法王クレメンス7世、パウルス3世、コジモ1世にフランソワ1世ときら星のごとく、ゴシップ種としても満載しています。

 その上で、審美観と誇りをかけて、傲慢と卑屈のバランスシートの上を歩いた男の目から見た、上流階級の不信と裏切り、しみったれさと傲岸さをあますことなく開陳するこの書は、ジョディなどの20世紀初頭のアメリカ女子大生にとどまらず、現代日本の学生(もちろん男女を問わず)にもほかに得難い教養を身につけさせてくれるものだ、ということで話を締めたいと思います。

リサーチ&レポート;リサフェへの近道番外編~“退屈”ということについて~

2010 6/12 総合政策学部の新入生の皆さんへ

 皆さんは、“退屈”とは何か、考えた事はありますか? Wikipediaによれば「なすべきことがなくて時間をもてあましその状況に嫌気がさしている様、もしくは実行中の事柄について関心を失い飽きている様、及びその感情ある」とのことですが、たとえば「退屈についてレポートを書け」と言われた場合、どうすればよいか?

 例によって、レポート作成のためのインストラクション、まずは“退屈”をどの角度からあつかうか、テーマの指導です。

 こういう場合に、まっさきに考え着くのは、「退屈の起源」あるいは「人はいつから退屈するようになったのか?」かもしれません。とりあえず、その事物がはじまった起源を考えるのは、思考のきっかけとしては正当なものです。もっとも、そのWikipediaの「退屈」の項に書かれているのは、いわば退屈の現象学であって、その起源については何も書かれておりません(ということに、気付かれましたか?)。例えば、私の専門は“サル学”ですが、それではサルは“退屈”するか? 難しいですね。

 サルにインタビューするわけにいきませんから、こうした微妙な心理学的な心の揺らぎについては、本当に印象論でしか物語れません。その上で、大胆に言ってしまえば、“野生”のサルに“退屈”はなさそうだと思います。

 ところで、上の文章でわざわざ“野生”と付け加えたのは、実は、動物園等の狭い檻に閉じ込められていると、サルや肉食獣、あるいは猛禽類等もそうですが、いわゆる拘禁反応のような症状を示したりするからです(例えば、絶えず身体を小刻みに動かす常同運動[『介護ことば辞典』のHPのhttp://www.kaigo110.co.jp/word/%E5%B8%B8%E5%90%8C%E8%A1%8C%E5%8B%95等参照]をしたり、自分の毛をむしったりします)。

 やはり、“自由”を奪われるのは、ヒト以外の動物にとっても苦痛の場合があるのです。そうした異常な(=普段は見られず、また合理的とも思えない)行動が出来しているということで、“退屈”の存在を類推する、ということも興味深いことかもしれませんが、実は、ここまでが今回の話のマクラです。

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 一方で、“退屈”をめぐる歴史、とくに文化史というテーマも面白そうです。それでは、古来、人々は“退屈”にどう接してきたのか? 少し、“名言”を発掘してみましょうか。

 “退屈”についてもっとも有名な台詞の一つは、18世紀、神聖ローマ帝国のハプスブルグ家から、長年の敵対的関係を清算するための政略結婚としてフランス王家のブルボン家に嫁ぎ、夫ルイ16世と前後してともにフランス革命で処刑されるマリー・アントワネット(正式な名はマリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ドゥ・ロレーヌ・ドートゥリシュ)にほかなりません。『ベルサイユのばら』の主人公である彼女は、ある日、ふと漏らします。

私、退屈するのが、怖いの

 この瞬間、歴史の歯車は、先王ルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人がつぶやいたという「我らの後は、大洪水」との予言が現出するカタストロフィーフランス革命へと確実に回り始めるのです。

 マリー・アントワネットの生涯については、フランスの歴史家A・カストロの『マリー・アントワネット』を推奨しておきましょう。かなりの大部ですけれど。さて、このマリー・アントワネットの自らの退屈さを紛らわそうとする行為が、仮面舞踏会や賭博等での享楽・奢侈による乱費に耽らせ、それがフランス革命に直結した(とくに、彼女にとっては完全な冤罪である“女王の首飾り事件”では)、というのが通説です。

 もっとも、フランス革命とは、マリー・アントワネットやルイ16世ばかりが個人的に責めを負わせる出来事と言うよりは、アンリ4世以来のブルボン絶対王政の矛盾が表面化、その結果として(革命からナポレオン戦争にいたる)数百万人の血の犠牲のもと、フランス国民(ネーション)が誕生して、近代的共同幻想による国民国家(ネーション・ステーツ)の誕生に至る、いわば必然の道でもあると言えます(国際政策に進む人は、きちんと勉強して下さいね)。そのあたりは是非斎藤先生ご推奨のベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』をお読みください。

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 一方、フランスの小説家・詩人・劇作家ルナールは、赤毛の少年(だから、ニンジンと呼ばれてしまう)の孤独で悲惨な生活を綴った小説『にんじん』の作者として有名ですが、警句家でもあり、いかにも皮肉っぽくこんな台詞を残しています。

人生は短い。しかし、退屈がその居場所を見つけえぬほど短い人生はない

 なお、ルナールには「樹の皮の半分は北風を知らない」(言われてみればその通り)等、秀逸な警句をいくつも作っています。

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 ところで、“天下泰平”の到来で、本来は弓矢の道で生きるはずの武士が、江戸幕府の安定政策のため、吏員としての仕事しかなくなり、ついつい“退屈”を感じる。それを紛らわすため、旗本ともあろう者が自己の存在証明として伊達者になり、かぶき者になって、さらに「旗本奴」と称して乱暴狼藉を働く!

 その象徴というべき水野十郎左右衛門成之は、「町奴」の頭領幡随院長兵衛と対立、明暦3年(1657年)、自宅に招いた上で、湯殿で暗殺してしまいます(歌舞伎『極付幡随長兵衛河竹黙阿弥作)。その後も、成之の行状は変わらず、寛文4年(1664年)、行跡怠慢で評定所に呼び出されたところ、月代も剃らず、着流しで現れたため、即座に切腹を仰せつかり、お家も断絶します。彼の祖父さんは大坂城夏の陣大和口方面の先鋒をまかされた猛将水野勝成だというのに!

 「落とすなら 地獄の釜を 突ん抜いて 阿呆羅刹に 損をさすなり」(水野成之辞世;Wikipediaより)

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 しかし、成之の祖父である水野勝成という人物、戦国最盛期の永禄7年(1564年)に徳川家の武将(その後、織田家に“とらばーゆ”します)の水野忠重の子として生まれ、16歳で初の首級をあげて信長から感状をいただくも、乱暴狼藉やまず。小牧・長久手の戦いの前後に、父忠重と感情的に対立したあげく、なんと父の部下を斬殺して、絶縁・奉公構(他家への仕官の禁止)を宣言されてしまいます。

 勝成はその後、身を寄せていた徳川家を退転、佐々成政小西行長加藤清正黒田如水等の名将の元を手柄を立てつつも、各地を転々とします。ちなみに、水野忠重は徳川家康の母親於大の方の弟ですから、水野勝成は家康の従兄にあたります。

 どこにも落ち着けなかった勝成は中国地方の各地を放浪、そこここに“勝成伝説”をふりまきながら、一時は食客にまで落ちぶれるという貴種流離が展開します。結局、豊臣秀吉の死後の政治的混乱時に、36歳で徳川家に身を寄せ、父と和解後、1615年の大阪夏の陣の大役を任されます。夏の陣最後の日には、真田信繁(一般には真田幸村で知られています)、明石全登隊を続けざまに撃破、主将自ら首級を二つあげるという活躍でした。

 もっとも、彼の性格を知っているが故に、事前に「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と言い含めていた家康は機嫌をそこね、恩賞は過小にとどまります。すると、やはり勝成は立腹、それを2代将軍秀忠がなだめたとのことです(Wikipeidaより)。上司にとっては使いにくい部下No.1というところかもしれません。

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 このように紹介してみると、祖父の水野勝成も周囲にとっては十分に“困ったちゃん”で、ただただ戦国という時代がかろうじて彼の人格に枠をかぶせ、なんとか天寿をまっとうさせたのかもしれません。亨年は88歳、初代福山藩主として10万石を与えられ、75歳で島原の乱に孫、子をともなって出陣。当時としては驚異的な高齢でありがら、最後まで“現役”だった勝成です。

 その一方で、意外にも(=失礼)平時の藩政にも多大の功績をあげる面もあったとのことです。水野十郎左右衛門にとって、“天下泰平=祖父のような活躍の場も残されていない時代”、退屈を紛らわそうと、自らを精一杯誇示しようとしての猛将の孫としてむしろふさわしい最期とも言えそうです。

 さて、こうした状況を巧みに背景にして、「退屈で仕方がない」と言いつのりながら、天下の悪人を退治する旗本のご大身、早乙女主水之介というキャラが佐々木美津三原作の『旗本退屈男』です。

 戦前から戦後、日本映画の全盛期、映画化は全30作を数え、主役はすべて市川右太衛門が演じていました。私も子供の頃、東映の2本立て映画の一本としていくつか観ていた覚えがあります。

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 ところで、やや視点を変えると、“退屈”を究極の刑罰手段としたものが“禁固刑”にほかなりません。禁固刑は法的には「自由刑」=自由を奪うことを刑罰の手段とするものに属します。なお、自由刑には、禁固の他に、懲役(拘束が続く禁固と違い、作業が課せられます)、拘留(これは短時間の拘束を指すそうです=最長29日、つまり1カ月未満)等に分かれるとのことです。皆さん、禁固と懲役とどちらが良いですか?

 こうした刑罰は、もちろん歴史的経緯があります。例えば、ルネサンス期イタリアの小国家フェラーラでは、1506年、女官をめぐる恋のさや当てから、異母兄の枢機卿イポリート・デステに眼をえぐり取られた弟のジュリオ・デステはもう一人の異母兄フェランテとともに、ローマ教皇を警戒して枢機卿に手を下さない兄のフェラーラ公アルフォンソ・デステに怨みをいただき、暗殺を計画します。それにしても凄まじい展開ですが、フェランテはアルフォンソの同父の弟なのです(塩野七生ルネサンスの女たち』より)。

 ことは破れて、二人は最初死刑を宣告されますが、姉イザベラ・デステの嘆願で、終身刑に減刑、城の塔の上下の部屋に投獄されます。食事のみが差し入れられるだけの禁固ののち、二人は大部屋に一緒に入れられますが、26歳だったフェランテは、投獄から37年後、ついに再び外界を見ることなく死にます。

 そして、25歳だったジュリオは、フェランテの死後さらに19年拘束され、その死の2年前に釈放されれますが、それは事件の56年後、アルフォンソ公はすでに亡く、孫のアルフォンソ2世の代になっていました。年代記には、釈放の際、以下のように書き遺しているそうです。

この老人が塔から出てきた時、彼の身につけていた衣服は、ちょうど半世紀前の最新流行のものだった

 また、昔は流刑がありました。いわゆる島流しも含みます。江戸時代の画人にして文化人である英一蝶(はなぶさ いっちょう;1652-1724)は、47歳の時に権力者への風刺生類憐みの令に違反して「釣りをする」(!)等の理由で幕府ににらまれ、三宅島に島流しになってしまいます。結局、5代将軍綱吉が死んだ1709年におこなわれた大赦まで、とどめられます。

 その間の一蝶の句と、それを江戸で聞いた俳人宝井其角の返句を紹介しましょう。なお、当時は、の刺身は芥子醤油で食べるのが一般的だったそうです(浜田義一郎『江戸たべもの歳時記』もご参照を;書籍番号#49)。

初鰹 芥子がなくて 涙かな (はつがつお からしがなくて なみだかな)       一蝶
その芥子 効いて涙の 鰹かな (そのからし きいてなみだの かつおかな)       其角

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 一方、フランスでは古来、徒刑地は熱帯地方、要するに「その地で死んでくれれば大変結構」ということで、南米の仏領ギアナデビルズ島(悪魔島)や、ニューカレドニアが使われます。とくにデビルズ島は、ドレフュス事件で冤罪の憂き目にあうユダヤ系将校ドレフュス大尉や、島より脱獄に成功、ハリウッド映画『パピヨン』で映画化されたアンリ・シャリエール等でつとに有名になります。

 作家サマセット・モームも1936年、仏領ギアナのサン・ロウラン・ド・マロニの監獄町をおとずれて、『作家の手帳』に記事を書き遺しています。

  • ・海には鮫が群居している。彼ら(囚人)は鮫が獄吏だと笑いながら言う。
  •  
  • ・きょうわたしは、終身刑の判決を下された囚人たちの、その殺人の動機の実際について調べてみた。そうして驚いたことは、(中略)もう少しつっこんでみると、表面のすぐかげに大部分は金銭的な動機がひそんでいると結論しないではいられないことであった。わたしが調べたうち、一人の場合をのぞいてどの殺人もみな、金の問題が根底だった。
  •  
  • ・サンジャンの老看守(中略)。彼は、だれももう一つの生を持つ権利は与えられていないという考えから、死刑には反対する。ある医者が、断頭台に行く男に首をきられたあとで、もしできるなら三度瞬きをするように言ったという話をし、そして彼はたしかに二度は瞬くのを見たと語った(中村佐喜子訳、新潮文庫版)

 それでは、死刑が良いのか、それとも終身刑(日本には無期刑[無期懲役と無期禁固]懲役はありますが、終身刑は存在しません)が良いのか? ジュリオ・デステの例と言い、“退屈”を刑罰にすることの重さが伝わってくるかも知れません。

 一方、懲役は、その昔、徒刑(日本では古来「ずけい」と呼んでいたようです)と呼ばれていました。現在ならばとても許されることではありませんが、「死んでもよい」ぐらいの感覚で、重労働を課すわけです。これが「重徒刑」です。例えば、ヨーロッパ等では、徒刑囚を軍船のガレー船漕手として、鎖でつながれながらオールを漕がせます。

 もちろん、戦いに負けて、船が沈没する場合は、鎖から解放されない限り、文字通り、海の藻屑です。ハリウッド映画の巨匠ウィリアム・ワイラー監督の快心作『ベン・ハー』でガレー船を漕ぐチャールトン・ヘストンを思い出しますね。

 話題が“退屈”そのものから、それを使った“刑罰”に移ってしまいましたが、それでは“退屈”の本質とは何か、まだまだ奥深そうです。心理学でも、哲学でも、何でも議論できそうです。

統計学の奨めPart3:“賭博”と“確率論”+高畑ゼミの100冊番外編

2010 6/9 新入生の皆さんへ 

 統計の奨めPart1とPart2に引き続いて、Part3です。ここでは、“統計”のもう一つの起源、“賭博”との関係についてご紹介しましょう。

 と言いたいところですが、その前に、イギリスの誇る探偵小説作家アガサ・クリスティが創造した何人かの名探偵の一人パーカー・パイン氏をご紹介しましょう。ロンドンの朝刊一面の片隅に、個人広告「あなたは幸せ? でないのならパーカー・パイン氏に相談を。リッチモンド街17 (Are you happy? If not consult Mr Parker Pyne, 17 Richmond Street」(乾進一郎訳『パーカー・パイン登場ハヤカワ・ミステリ文庫版)と掲載するパーカー・パイン氏です。

 この英文広告も良いですね、短く、的確。広告代理店に興味がある方は、是非、キャッチコピーのお勉強を。

 さて、不幸の渕にあり、ついこの広告に目がとまった依頼人たちは、おしなべて決まりきった行動をとります(=いわばエンターテイメントのお約束事)。「ばかばかしい!」、それから思い直して「でもとにかくちょっと会ってみるだけなら・・・」。その依頼人にパイン氏は問題点を的確に指摘します。

 驚いた依頼人はこう叫ぶことになっています、「どうしてこんないろんなことをご存知なんです?」。この言葉への返答こそ、パイン氏のきめぜりふ「統計ですよ」。彼は続けます。「わたしの仕事は知るという事なんですよ。なにしろ、わたしの人生の35年間をわたしはある官庁で統計収集の仕事をしておったんですからね。退職した今、わたしは思いついたんですが、身についた経験を新しい形で使ってやろうと」 。

 そしてパイン氏は断言します「不幸は5大群に分類できます・・・・それ以上はない、絶対に。ひとたび病根がわかりさえすれば、治療は不可能ではありません」(乾訳、前掲書)。

 ということで、1934年、クリスティ44歳の時に生まれたパイン氏こそ、“統計”とはいかに使うべきか、皆さんに楽しく(=ここが肝心!)教えてくれる方かもしれません。『シラーズの家』で不幸なイギリス娘を救うべく、わざわざ出かけてきたパイン氏にヒロインは最後に尋ねます。 

  • 「あなたはわたしに会う前に、わたしがレイディ・エスターでないことがわかったとおっしゃいましたね。いったい、どうしてそんなことがわかったんでしょう?」
  • 「統計です」パーカー・パイン氏がいった。
  • 「統計ですって?」
  • 「そう。ミッチェルドバー卿も卿夫人も、二人とも青い目をしています。領事から卿夫妻の娘がきらきらした黒い目をしていると聞いた時、何かこれはへんなことがあるな、とわかりましたね。茶色の目をした人たちからは青い目の子供が生まれるかもしれないが、この逆の場合はないということです。科学的な事実で、間違いはない」(乾訳、前掲書)。

 なお、パイン氏の判断の根拠は、青い眼虹彩)の遺伝子劣性であることです(詳しくはメンデル遺伝を)。

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 さて、Part1で引用している「総務省統計局のHP(http://www.stat.go.jp/info/kenkyu/kyouiku/pdf/1siryo3.pdf)」には、「 数学者パスカルフェルマーの交換書簡(1654 年頃) サイコロ賭博の問題を基に確率論の基礎を確立」と書いてありますが、これは何のことでしょうか?

 パスカルは17世紀の高名な思想家にして数学者、10代の終わりには機械式計算機を発明していたという天才児です。一方、フェルマーは弁護士として身をたて、数学は余技だったとはいえ、数学史に名を残す超有名人。確率論において、我々はこの二人に深く恩恵を被っているのです。

 では、この問題とは何か? いくつものWebが記事を掲載しているので、気軽に探してみましょう。すると、博打好きの自称貴族のシュバリエ・ド・メレから、いくつかの相談を受けたことから始まるというのです。

 まず、第1の問題は、以下のように、二つのテーマが含まれます(http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~yokoyama/ptheory.htmlhttp://www.juen.ac.jp/gp/yousei/exercise/iwasaki/exercise05.htmlhttp://www.roulette-10jqka.com/info/probability/DeMere.html等をご参照。どうやら確率論の先生方は、皆さん博打の話題がお好きなようです)。

  •  
    • テーマ1: 「1つのサイコロを 4 回投げて、そのうち1回でも6 が出た場合は勝つ」という賭けに挑戦した場合は、勝つことができた。
    • テーマ2: 一方、「2つのサイコロを 24 回投げる。そこで、6と6 、いわゆる“ぞろ目”が1回でも出た場合は勝つ」という賭けについて、「同じ確率なんだから、勝てるだろう」と思ったのに、勝てなくなった。
    •  これはなぜか?

   まず、初めのテーマです。サイコロは6面、それぞれに1~6の数値があります。この場合、1回ふって、「6」が出ない確率は5/6になります。すると、4回とも「6」が出ない確率は、5/6の4乗=(5/6)4=0.4823になります。ということは、4回のうち1回でも「6」がでる確率は、1からこの数値を引けばよい=1-(5/6)4=0.5177。すなわち、一回でも「6」がでる確率は、そうでない確率よりも高く(0.5177>0.4823)、1/2の確率を超えている。ということは、この賭けに何度もチャレンジすれば、最終的には勝てるはずなのです。

 あるHPは「ド・メレは、1個のサイコロを4回振って、1回でも6の目が出ることに賭けるときは、勝つ確率が高いということをおそらくは経験的に知っていたと思われます」と書いています(http://www.juen.ac.jp/gp/yousei/exercise/iwasaki/exercise05.html)。これが「経験」と「理論」の関係。つまり、パスカルらがまず解決したことは、「ギャンブラーの経験」を「数学者の理論」で裏打ちすることなのです。

 それでは、後半のテーマです。こちらは、メレが「サイコロが1個の場合はと、確率は同じはず」という彼なりの素朴な「理論」 でチャレンジしたのに、うまくいかなかったという「経験」について、「理論」で説明しようという試みです。皆さんも考えてください。これは「組合せ」を使って解かねばならないのです。

 2個のサイコロを投げて、6と6のぞろ目にならない確率を考えます。二つのサイコロの結果の組み合わせを考えましょう。6×6=36の“組合せ”のうち、実に35の組合せが6と6のぞろ目ではありません。だから、この場合の確率は35/36=0.9722です。

 これを24回やって、一度も6のぞろ目が出ない確率は(35/36)24=0.509となります。すると、一度でもそぞろ目がでる確率は1-(35/36)24=0.491となって、「ぞろ目が出ない」確率よりも低くなる。だから、この勝負を続けていると、最終的には負けに追い込まれる。胴元有利というわけですね。

 それにしても、メレ氏はこの相談を持ちかけるまで、何回この博打に挑戦したのでしょう? 相当な回数であることは想像がつきます。

 こうして、メレの第一の疑問は「理論」的に解決されたことになる。しかし、本当にそうなるのでしょうか? 皆さん、一度はサイコロを振って、いにしえのギャンブラー、メレに挑戦してみませんか?

 それも結構おもしろいかもしれません。あるいは、メレに負けずに「サイコロ賭博における勝負」の研究をしてみては?

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  次が、メレの第2の課題です。これは、「AとBという2人の間で同じ金額ずつ出し合って、勝った方が総取り、という賭けをした。2人ともギャンブルの腕は同じで、勝負は運だけで決まるものとする。さて、先に3勝した方が勝ちという勝負をしたとして、今、Aが2勝、Bが1 勝している状態で、警察に踏み込まれたとする。このとき、かけ金はどのように分配すべきか」(http://www.sic.shibaura-it.ac.jp/~yukis/Jyugyo/PDFfile/kajiyama.pdfより引用)。

 ギャンブラーにとってはまことに切実な質問というべきです(当然、メレ氏は実際にこうした場面に直面したのかな? と気になります)。

 さて、この課題は「期待値=見込みの額」の概念を使うことになるそうです。まず、ギャンブルの腕は同じで、勝負は運=純粋の確率で決まるとすれば、五分五分、すなわち勝率をともに1/2=0.5で計算できます。

 次に、現在、「Aが2勝で、次は・・・」という段階ですから、以下のような筋書きが展開されることが「期待」できます。

  •  
    • (1) Aが次の勝負に勝って、そこで勝負が決する=確率0.5
    • (2) Bが次の勝負に勝って、五分五分に持ち込む=確率0.5 → 下の2aと2bに進む
    • (2b) 2の後で、Aが勝って、Aの勝利が決する=確率0.5×0.5=0.25
    • (2b) 2の後で、Bが勝って、Bの勝利が決する=確率0.5×0.5=0.25

 この結果、Aが先に3勝する期待値は0.5+0.25=0.75、Bが先に3勝する期待値は0.25。足すと1になるのは、いわば当たり前。とすれば、配分を0.75対0.25=3:1とするのが、妥当な線だろう(http://www.gakuto.co.jp/w/suugaku/su_daizai02-2.htm)。

 ということで、これが“確率論”の起源のあらましということになるそうです。

高畑ゼミの100冊Part16:ジュディの読書案内(『あしながおじさん』に見る20世紀初頭のアメリカ女子大生の読書から#1)

2010 6/1 総合政策学学部の新入生の皆様へ

 今回は「高畑ゼミの100冊Part7;芸術家たち『アリス・B・トクラスの自伝』等(2009/12/19投稿)」ですでにご紹介済みのJ・ウェブスター原作『あしながおじさん』(書籍番号#43)から、孤児院育ちで「あしながおじさん」の援助を受けて大学で学ぶことになるジルーシャ・アボットこと、ジュディの読書体験を振り返りながら、アメリカ女子大学における教養教育に迫りましょう! なお、作者のウェブスターは1897年にヴァッサー大学に入学していますから、19世紀末から20世紀初頭の女子大学教育と思ってください。

  ちなみに、ヴァッサー大学は1861年設立、アメリカの典型的リベラル・アーツカレッジで(もちろん、教養学部しかありません)、著名女子大学群グループのセブンシスターズの一員だったそうですが、1969年に共学化、現在も最難関校の一つだそうです(大山捨松メリル・ストリープ等が卒業、故ケネディ大統領夫人ジャクリーン・ケネディ・オナシスが一時在籍[ソルボンヌを経て、ジョージ・ワシントン大学を卒業])。

 Wikipediaでも、『あしながおじさん』について、「手紙の中の学生生活は20世紀初頭のアメリカの女子大学生の生活を記した資料としても読むことができる。作者のジーン・ウェブスターは孤児院や感化院の近代化に興味を持っており、それと自らの経験とがこの作品には生かされていると考えられる」と書かれています。つまり、資料として読めば、文化史的レポートの材料になるわけです。

 例えば、「『あしながおじさん』にみられる19世紀アメリカの養子制度」とか、「『仰臥漫録』における明治期文化人の食生活の研究-とくに洋食の受容について」とか、「『サミュエル・ピープスの日記』 における、イギリス近代官僚制の萌芽」とか、「『白ナイル』から読み解くイギリス帝国主義のアフリカ進出」とか、いくらでもレポートのテーマが出てきそうですね。

 と思ってGoogle Scholarという学術論文検索エンジンで調べてみると、例えば、ピープスの日記は「19世紀イギリスにおける貨幣理論の発達」と「『ハイド・パーク』におけるセクシュアリティ表象の双方向性について」「文学ゆかりのコーヒーハウス~ドライデンとウィルズ」等の論文で資料として使われています。それなら、ピープスと官僚制について議論しても十分よさそうです。ということで、以下、どのように文化史的なレポートを書くか、というインストラクションとしてもお読み下さい。

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  ジュディの読書は、実はちょっと複雑です。孤児院で基礎的教養を身につける機会がなかった彼女は、一般常識ももたないため、とりあえず、空いている時間のかなりを一般書に振り向けます。その一方で、授業では、日本の漢文よろしくラテン語の授業もとらねばいけません。これはローマ時代の古典です。また外国語としてのフランス語、そして、もちろん、一般の教科書。

◆ある日のジュディの手紙「10月10日 あしながおじさま あなたはミケランジェロのことをお聞きになったことはおありでしょうか? 彼は中世紀にイタリアにすんでいた有名な画家でございます(略)私は彼を天使長(アーキエンジェル)のことかと思ったのでクラスじゅうが大笑いいたしました。(略)大学でやっかいなことは、自分が習ったこともないことをいろいろ知っているのが当然だと思われることでございます・・・・」(松本恵子訳、新潮文庫版

 さて、ジュディはそれでは何を勉強していたのか? この10月10日の手紙の後半に、いくつか書いてあります。まず、「(1)ラテン語=第二次カルタゴ戦争ハンニバルとその軍隊は前夜トラシメナス湖畔に野営、ローマ軍に備えて伏兵を配置す。今暁4時、戦闘開始、ローマ軍後退す

 残念ながら、書名が書いてありません。ラテン語ですから、ティトゥス・リウィウスの『ローマ建国史』かもしれませんし、プルタルコスの『対比列伝』(通称『英雄伝』;書籍番号#75)かもしれません。ほら、尾藤先生が「総政100冊の本・書評編」でご推奨の『プルターク英雄伝』です。なお、プルタークとはギリシア語のプルタルコスの英語読みです。

 尾藤先生のご推奨の文は「(1)個性的な実在の人物を歴史的場面の中で描いているわけですから、ともかく面白いです。(2)人生の教訓を学ぶのに役立ちます。これからの人生が定まっていない若者にとって、時代が異なるとはいえ人間社会は変わりないですから、彼らの生き様を知ることは、特にためになるでしょう。(3)欧米の人たちにとっては、この本に描かれた人物や歴史上の出来事は一般的な教養であり、いわば常識化しています。これから海外で活動しようという若者として、欧米人との親しい交流をする上で、この本を読んでいないことは恥ずかしいことでしょう」とのこと。

 まったく同感です。これらの本は欧米の教養として、大学生はみんなが読まされる本なのです。問題はその中身ということになります。

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 このラテン語の教科書が『ローマ建国史』であれ、『プルターク英雄伝』であれ、また、他の書物であったとして、ジュディが読まされた箇所が何をさしているのか、私でも判断がつきます。

 それは第2次ポエニ戦争、はるばるスペインからアルプス超えを敢行、ローマ共和国の心臓部に突撃すべく、カルタゴの知将ハンニバルが、無敵のローマ軍団を続けざまに4度たたきのめす、そのうちの三番目のトラシメヌス湖畔の戦いにほかなりません。紀元前217年6月24日、 濃霧の中を湖畔にさしかかったローマ軍兵力25000人に、周囲を取り囲むべく伏兵を配置しおえたカルタゴ軍の50000~60000人が襲いかかります。

 ローマ軍団は奸知に長けたハンニバルの罠にかかかり、湖畔の隘路にしつらえられた鉄の檻に押し込められ、3時間の戦闘で指揮官の執政ガイウス・フラミニウスも含めて、実に6割の15000人が戦死するという大敗北(逃亡できたのは6000人、後は捕虜となります)。

 ハンニバルの手勢の損害は約10分の1の1500~2000人にすぎません。なお、一般の戦争では、戦闘兵力の3分の1が死傷した場合は、戦闘継続能力を失うといわれています。つまり、戦術的大勝利です。 

 アメリカの女子大の“教養”には“戦争”もはいっているわけです。日本の大学では、しばしば平和を習うが、戦争は習わない。しかし、プルタルコスでもタキツスでも、ヨーロッパの古典は、戦いも裏切りも、要するに善も悪も皆教えてくれる。それが本当の教養なのです。日本の政治家も、明治頃までは漢文で史記とか春秋左子伝などを習っていたでしょうけれど、どうも今の方々はまったくだめなようです。カエサルキケロとは言わないまでも、せめてプルタルコスかタキツスぐらい目を通してほしいものです。そうすれば、追いつめられた修羅場をどうやって切り抜けるか、知恵もつこうというものです。

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 このあと、ハンニバルは紀元前216年、カンナエで5万の兵力で8万のローマ軍に対し、少数兵力で逆に多数を包囲・殲滅するという大勝利をおさめます。ローマ軍の死傷者6万(大半が戦死)、捕虜1万、死者には再び指揮官で執政のルキウス・アエミリウス・パウルスが含まれます。これが、現在でもアメリカ陸軍士官学校(通称ウェスト・ポイント)を始めとするあらゆる将校養成機関で教材になっているという“カンナエ”の戦いです。

 しかし、4度の大勝利にも関わらず、ハンニバルはローマまであと一歩とせまりながら、とどめをさすのをためらう。その時、部下から「神々はただ一人の人物(=ハンニバル)に恩寵を独占させはしない。あなたは勝利をつかむことはできる人だが、勝利を利用するすべを知らない」とののしられます(I・モンタネリ『ローマの歴史』より)。戦闘(=戦術)には無敵でも、その勝利をもって政治的勝利まで勝ち取る(=戦略)ことができないハンニバル。

 栄光と悲惨を経験した彼は、ついにトラシメヌスの15年後、8歳の幼少時に父兄とともに離れた故国カルタゴで、自らの弟子ともいえるローマの大スキピオザマの決戦で敗れます(紀元前202年)。

 このスキピオは18歳の時から、ポエニ戦争に従軍、敗戦を積み重ねて、ついにハンニバルの秘密(ビジネス・プランならぬバトル・プラン)を会得します。つまり、二人は師弟、しかも互いに殺しあいながらの師弟なのです。ちなみに、大スキピオの妻は、カンナエで戦死したパウルスの娘です。

 そのザマの決戦からさらに年を経て、ローマ軍に追われ、亡命の地で、宿命の師弟(敵同士なのですが)が再開します。伝説では、弟子(大スキピオ)は師(ハンニバル)に、「今、もっとも強い将軍はだれか?」と問いかけます。ハンニバルはそれに応えて「まず、アレクサンドロス大王、2番目が戦術の名手エペイロス王ピュッロス[註]、そして次が私だ」と答えます。すると、

スキピオはさらに「もし、ザマであなたが勝っていたら」と尋ね、ハンニバルは堂々と「その場合は、私がアレクサンドロスを越え、トップに立っていただろう」と応じたといわれています。

註:勝利を得ても、出血が多い「割にあわない勝利」を「ピュロスの勝利」と呼ぶのですけれど。これは、「ローマ軍を連戦連勝で撃破したが、戦いのたびにギリシアから遠征してきたピュロスの軍勢は戦うごとに数を減らし、またローマが講和に応じないため、戦勝の慶びを述べた部下に対して、「もう一度戦ってローマ軍に勝ったとしても、我々は全く壊滅するだろう」と言った(Wikipedia)」という故事から来ています。

というあたりで、to be continuedとしたいと思います。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...