リサーチ&レポート;リサフェへの近道番外編~“退屈”ということについて~

2010 6/12 総合政策学部の新入生の皆さんへ

 皆さんは、“退屈”とは何か、考えた事はありますか? Wikipediaによれば「なすべきことがなくて時間をもてあましその状況に嫌気がさしている様、もしくは実行中の事柄について関心を失い飽きている様、及びその感情ある」とのことですが、たとえば「退屈についてレポートを書け」と言われた場合、どうすればよいか?

 例によって、レポート作成のためのインストラクション、まずは“退屈”をどの角度からあつかうか、テーマの指導です。

 こういう場合に、まっさきに考え着くのは、「退屈の起源」あるいは「人はいつから退屈するようになったのか?」かもしれません。とりあえず、その事物がはじまった起源を考えるのは、思考のきっかけとしては正当なものです。もっとも、そのWikipediaの「退屈」の項に書かれているのは、いわば退屈の現象学であって、その起源については何も書かれておりません(ということに、気付かれましたか?)。例えば、私の専門は“サル学”ですが、それではサルは“退屈”するか? 難しいですね。

 サルにインタビューするわけにいきませんから、こうした微妙な心理学的な心の揺らぎについては、本当に印象論でしか物語れません。その上で、大胆に言ってしまえば、“野生”のサルに“退屈”はなさそうだと思います。

 ところで、上の文章でわざわざ“野生”と付け加えたのは、実は、動物園等の狭い檻に閉じ込められていると、サルや肉食獣、あるいは猛禽類等もそうですが、いわゆる拘禁反応のような症状を示したりするからです(例えば、絶えず身体を小刻みに動かす常同運動[『介護ことば辞典』のHPのhttp://www.kaigo110.co.jp/word/%E5%B8%B8%E5%90%8C%E8%A1%8C%E5%8B%95等参照]をしたり、自分の毛をむしったりします)。

 やはり、“自由”を奪われるのは、ヒト以外の動物にとっても苦痛の場合があるのです。そうした異常な(=普段は見られず、また合理的とも思えない)行動が出来しているということで、“退屈”の存在を類推する、ということも興味深いことかもしれませんが、実は、ここまでが今回の話のマクラです。

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 一方で、“退屈”をめぐる歴史、とくに文化史というテーマも面白そうです。それでは、古来、人々は“退屈”にどう接してきたのか? 少し、“名言”を発掘してみましょうか。

 “退屈”についてもっとも有名な台詞の一つは、18世紀、神聖ローマ帝国のハプスブルグ家から、長年の敵対的関係を清算するための政略結婚としてフランス王家のブルボン家に嫁ぎ、夫ルイ16世と前後してともにフランス革命で処刑されるマリー・アントワネット(正式な名はマリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ドゥ・ロレーヌ・ドートゥリシュ)にほかなりません。『ベルサイユのばら』の主人公である彼女は、ある日、ふと漏らします。

私、退屈するのが、怖いの

 この瞬間、歴史の歯車は、先王ルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人がつぶやいたという「我らの後は、大洪水」との予言が現出するカタストロフィーフランス革命へと確実に回り始めるのです。

 マリー・アントワネットの生涯については、フランスの歴史家A・カストロの『マリー・アントワネット』を推奨しておきましょう。かなりの大部ですけれど。さて、このマリー・アントワネットの自らの退屈さを紛らわそうとする行為が、仮面舞踏会や賭博等での享楽・奢侈による乱費に耽らせ、それがフランス革命に直結した(とくに、彼女にとっては完全な冤罪である“女王の首飾り事件”では)、というのが通説です。

 もっとも、フランス革命とは、マリー・アントワネットやルイ16世ばかりが個人的に責めを負わせる出来事と言うよりは、アンリ4世以来のブルボン絶対王政の矛盾が表面化、その結果として(革命からナポレオン戦争にいたる)数百万人の血の犠牲のもと、フランス国民(ネーション)が誕生して、近代的共同幻想による国民国家(ネーション・ステーツ)の誕生に至る、いわば必然の道でもあると言えます(国際政策に進む人は、きちんと勉強して下さいね)。そのあたりは是非斎藤先生ご推奨のベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』をお読みください。

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 一方、フランスの小説家・詩人・劇作家ルナールは、赤毛の少年(だから、ニンジンと呼ばれてしまう)の孤独で悲惨な生活を綴った小説『にんじん』の作者として有名ですが、警句家でもあり、いかにも皮肉っぽくこんな台詞を残しています。

人生は短い。しかし、退屈がその居場所を見つけえぬほど短い人生はない

 なお、ルナールには「樹の皮の半分は北風を知らない」(言われてみればその通り)等、秀逸な警句をいくつも作っています。

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 ところで、“天下泰平”の到来で、本来は弓矢の道で生きるはずの武士が、江戸幕府の安定政策のため、吏員としての仕事しかなくなり、ついつい“退屈”を感じる。それを紛らわすため、旗本ともあろう者が自己の存在証明として伊達者になり、かぶき者になって、さらに「旗本奴」と称して乱暴狼藉を働く!

 その象徴というべき水野十郎左右衛門成之は、「町奴」の頭領幡随院長兵衛と対立、明暦3年(1657年)、自宅に招いた上で、湯殿で暗殺してしまいます(歌舞伎『極付幡随長兵衛河竹黙阿弥作)。その後も、成之の行状は変わらず、寛文4年(1664年)、行跡怠慢で評定所に呼び出されたところ、月代も剃らず、着流しで現れたため、即座に切腹を仰せつかり、お家も断絶します。彼の祖父さんは大坂城夏の陣大和口方面の先鋒をまかされた猛将水野勝成だというのに!

 「落とすなら 地獄の釜を 突ん抜いて 阿呆羅刹に 損をさすなり」(水野成之辞世;Wikipediaより)

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 しかし、成之の祖父である水野勝成という人物、戦国最盛期の永禄7年(1564年)に徳川家の武将(その後、織田家に“とらばーゆ”します)の水野忠重の子として生まれ、16歳で初の首級をあげて信長から感状をいただくも、乱暴狼藉やまず。小牧・長久手の戦いの前後に、父忠重と感情的に対立したあげく、なんと父の部下を斬殺して、絶縁・奉公構(他家への仕官の禁止)を宣言されてしまいます。

 勝成はその後、身を寄せていた徳川家を退転、佐々成政小西行長加藤清正黒田如水等の名将の元を手柄を立てつつも、各地を転々とします。ちなみに、水野忠重は徳川家康の母親於大の方の弟ですから、水野勝成は家康の従兄にあたります。

 どこにも落ち着けなかった勝成は中国地方の各地を放浪、そこここに“勝成伝説”をふりまきながら、一時は食客にまで落ちぶれるという貴種流離が展開します。結局、豊臣秀吉の死後の政治的混乱時に、36歳で徳川家に身を寄せ、父と和解後、1615年の大阪夏の陣の大役を任されます。夏の陣最後の日には、真田信繁(一般には真田幸村で知られています)、明石全登隊を続けざまに撃破、主将自ら首級を二つあげるという活躍でした。

 もっとも、彼の性格を知っているが故に、事前に「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と言い含めていた家康は機嫌をそこね、恩賞は過小にとどまります。すると、やはり勝成は立腹、それを2代将軍秀忠がなだめたとのことです(Wikipeidaより)。上司にとっては使いにくい部下No.1というところかもしれません。

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 このように紹介してみると、祖父の水野勝成も周囲にとっては十分に“困ったちゃん”で、ただただ戦国という時代がかろうじて彼の人格に枠をかぶせ、なんとか天寿をまっとうさせたのかもしれません。亨年は88歳、初代福山藩主として10万石を与えられ、75歳で島原の乱に孫、子をともなって出陣。当時としては驚異的な高齢でありがら、最後まで“現役”だった勝成です。

 その一方で、意外にも(=失礼)平時の藩政にも多大の功績をあげる面もあったとのことです。水野十郎左右衛門にとって、“天下泰平=祖父のような活躍の場も残されていない時代”、退屈を紛らわそうと、自らを精一杯誇示しようとしての猛将の孫としてむしろふさわしい最期とも言えそうです。

 さて、こうした状況を巧みに背景にして、「退屈で仕方がない」と言いつのりながら、天下の悪人を退治する旗本のご大身、早乙女主水之介というキャラが佐々木美津三原作の『旗本退屈男』です。

 戦前から戦後、日本映画の全盛期、映画化は全30作を数え、主役はすべて市川右太衛門が演じていました。私も子供の頃、東映の2本立て映画の一本としていくつか観ていた覚えがあります。

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 ところで、やや視点を変えると、“退屈”を究極の刑罰手段としたものが“禁固刑”にほかなりません。禁固刑は法的には「自由刑」=自由を奪うことを刑罰の手段とするものに属します。なお、自由刑には、禁固の他に、懲役(拘束が続く禁固と違い、作業が課せられます)、拘留(これは短時間の拘束を指すそうです=最長29日、つまり1カ月未満)等に分かれるとのことです。皆さん、禁固と懲役とどちらが良いですか?

 こうした刑罰は、もちろん歴史的経緯があります。例えば、ルネサンス期イタリアの小国家フェラーラでは、1506年、女官をめぐる恋のさや当てから、異母兄の枢機卿イポリート・デステに眼をえぐり取られた弟のジュリオ・デステはもう一人の異母兄フェランテとともに、ローマ教皇を警戒して枢機卿に手を下さない兄のフェラーラ公アルフォンソ・デステに怨みをいただき、暗殺を計画します。それにしても凄まじい展開ですが、フェランテはアルフォンソの同父の弟なのです(塩野七生ルネサンスの女たち』より)。

 ことは破れて、二人は最初死刑を宣告されますが、姉イザベラ・デステの嘆願で、終身刑に減刑、城の塔の上下の部屋に投獄されます。食事のみが差し入れられるだけの禁固ののち、二人は大部屋に一緒に入れられますが、26歳だったフェランテは、投獄から37年後、ついに再び外界を見ることなく死にます。

 そして、25歳だったジュリオは、フェランテの死後さらに19年拘束され、その死の2年前に釈放されれますが、それは事件の56年後、アルフォンソ公はすでに亡く、孫のアルフォンソ2世の代になっていました。年代記には、釈放の際、以下のように書き遺しているそうです。

この老人が塔から出てきた時、彼の身につけていた衣服は、ちょうど半世紀前の最新流行のものだった

 また、昔は流刑がありました。いわゆる島流しも含みます。江戸時代の画人にして文化人である英一蝶(はなぶさ いっちょう;1652-1724)は、47歳の時に権力者への風刺生類憐みの令に違反して「釣りをする」(!)等の理由で幕府ににらまれ、三宅島に島流しになってしまいます。結局、5代将軍綱吉が死んだ1709年におこなわれた大赦まで、とどめられます。

 その間の一蝶の句と、それを江戸で聞いた俳人宝井其角の返句を紹介しましょう。なお、当時は、の刺身は芥子醤油で食べるのが一般的だったそうです(浜田義一郎『江戸たべもの歳時記』もご参照を;書籍番号#49)。

初鰹 芥子がなくて 涙かな (はつがつお からしがなくて なみだかな)       一蝶
その芥子 効いて涙の 鰹かな (そのからし きいてなみだの かつおかな)       其角

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 一方、フランスでは古来、徒刑地は熱帯地方、要するに「その地で死んでくれれば大変結構」ということで、南米の仏領ギアナデビルズ島(悪魔島)や、ニューカレドニアが使われます。とくにデビルズ島は、ドレフュス事件で冤罪の憂き目にあうユダヤ系将校ドレフュス大尉や、島より脱獄に成功、ハリウッド映画『パピヨン』で映画化されたアンリ・シャリエール等でつとに有名になります。

 作家サマセット・モームも1936年、仏領ギアナのサン・ロウラン・ド・マロニの監獄町をおとずれて、『作家の手帳』に記事を書き遺しています。

  • ・海には鮫が群居している。彼ら(囚人)は鮫が獄吏だと笑いながら言う。
  •  
  • ・きょうわたしは、終身刑の判決を下された囚人たちの、その殺人の動機の実際について調べてみた。そうして驚いたことは、(中略)もう少しつっこんでみると、表面のすぐかげに大部分は金銭的な動機がひそんでいると結論しないではいられないことであった。わたしが調べたうち、一人の場合をのぞいてどの殺人もみな、金の問題が根底だった。
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  • ・サンジャンの老看守(中略)。彼は、だれももう一つの生を持つ権利は与えられていないという考えから、死刑には反対する。ある医者が、断頭台に行く男に首をきられたあとで、もしできるなら三度瞬きをするように言ったという話をし、そして彼はたしかに二度は瞬くのを見たと語った(中村佐喜子訳、新潮文庫版)

 それでは、死刑が良いのか、それとも終身刑(日本には無期刑[無期懲役と無期禁固]懲役はありますが、終身刑は存在しません)が良いのか? ジュリオ・デステの例と言い、“退屈”を刑罰にすることの重さが伝わってくるかも知れません。

 一方、懲役は、その昔、徒刑(日本では古来「ずけい」と呼んでいたようです)と呼ばれていました。現在ならばとても許されることではありませんが、「死んでもよい」ぐらいの感覚で、重労働を課すわけです。これが「重徒刑」です。例えば、ヨーロッパ等では、徒刑囚を軍船のガレー船漕手として、鎖でつながれながらオールを漕がせます。

 もちろん、戦いに負けて、船が沈没する場合は、鎖から解放されない限り、文字通り、海の藻屑です。ハリウッド映画の巨匠ウィリアム・ワイラー監督の快心作『ベン・ハー』でガレー船を漕ぐチャールトン・ヘストンを思い出しますね。

 話題が“退屈”そのものから、それを使った“刑罰”に移ってしまいましたが、それでは“退屈”の本質とは何か、まだまだ奥深そうです。心理学でも、哲学でも、何でも議論できそうです。

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...