2010年7月

総政100本の映画Part11:料理と映画、『ディナー・ラッシュ』『コックと泥棒、そしてその妻』

2010 7/28 総合政策学部の学生の皆さんへ

  今回は“レストラン”に関係する映画の紹介です。と言って、とんでもない料理がでてくるかもしれませんが。まずは、ともかくスマートでスピーディ、ディナーが冷めてしまえば、すべてぶち壊し、その緊張感こそ背景の映画です。

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#54:ボブ・ジラルディ監督『ディナー・ラッシュ』:映画には、ウェル=メイド(well-made)という形容があります。要するに“よくできている!”。“芸術の香りが高い”とか、“巨匠”や“鬼才”が“傑作”をものにしたとか、そんな話柄には程遠いかもしれないが、でも物語としてよくできている、と納得するしかない映画。

 もう一つ、この映画は群像劇というジャンルでもあります。映画業界のジャーゴンでいえば“グランド・ホテル”形式映画『グランド・ホテル』エドマンド・グールディング監督、私は残念ながら未見)から、巨大ホテルという一つの舞台に、ある日、この瞬間にたまたま集まった人々のそれぞれの人生の交錯を描く劇です。

 さて、舞台はニューヨークの有名イタリアン・レストラン“ジジーノ”(監督ジラルディが自ら経営するレストランで撮影)、イタリア移民のたたき上げオーナー、ルイスにとっては、しかし、悩みの種は一杯。亡くなった妻とともに築き上げたレストランは、シチリアの田舎料理、素朴な“お袋”の味のはず。

  それなのに、イケメンの長男シェフの ウードにとって、親父の感傷などどこ吹く風、今やNYで一流レストランとして出す料理はヌーベル・キュジイーヌ、料理どころか女性にも手が早い彼は、有名料理評論家ジェニファーを恋人にして、そのジェニファーはカツラをかぶってお忍びで訪れています。

  そして、なにより、ウードは父親ルイスに、そろそろ店のオーナーの座を譲るようせまっているのです。

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 一方、ルイスは副シェフの若者ダンカンがお気に入り。“お袋の味”が得意のダンカンは、いまや実の息子のウードよりも目に入れても痛くない、という風情なのに、このダンカンはどうしようもないギャンブル狂で、多額の借金を抱えている上に、その相手はマフィア。その借金をネタに、マフィアはルイスに店の買収を持ちかけています。

 一方で、ダンカンは店のホールスタッフのまとめ役、ディナーのラッシュ時に客と従業員を巧みにさばくニコーレと付き合っています。ニコーレは以前はウードとも関係を持っていたのですが、今は、この(料理以外はどうしようもない)ダンカンを恋人とも、姉とも、母ともつかぬように包み込んでいます。

 そして、実は、ルイスは表の顔のレストラン経営者とは別に、裏の顔=博打の胴元として、親友エンリコと長年手を組んできました。しかし、そのエンリコをマフィアとのトラブルで殺されて、心中、怒りがこみあげてきている。ついでに、その亡くなったエンリコの娘、シングル・マザーのナタリーに(妻の死後)そこはかとなく思慕を抱いていますが、ナタリーは父の死後、当然、ルイスに少なからず怨みを抱く。

 その今夜、ディナー・ラッシュが始まる頃、それぞれの思惑を抱き、買収を強要するマフィアが、やたらに高慢な画商が、長年ルイスと親しい老刑事とその妻が、もちろんジェニファーも、客が次々に押し掛け、ダンカンは精神的に追いつめられてニコーレに慰められ、そしてルイスはある手をうつ・・・・

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 もちろん、客を迎え撃つスタッフ陣は、ウードを始め、その道では譲ることなき手だれたち。ホールスタッフは巧みに客をあしらい、バーテンダーはいかにも軽そうに客に難問クイズを連発(ほとんどだれも答えることのできない代物、もちろん、客からの難問にも悠々と応じます)、画家志望のウエイトレスは秘かに自分の作品で店を飾り(そして、上記の画商をやりこめる)、さらにスマートそうな客がいて・・・・・

 この結末をばらすのはよしましょう。とりあえず言えることは、ニューヨークでレストランを起業したい方は、是非、観てください、という一点です。

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#55:ピーター・グリーナウェイ監督『コックと泥棒、その妻と愛人』:この映画は、『ディナー・ラッシュ』とはまったく違います。監督は『英国庭園式殺人事件』『Zoo』『数に溺れて』『プロスぺローの本(シェークスピアの『テンペスト』の映画化)』を監督したグリーナウェイ。

 芸術臭ぷんぷんの、ある種鼻持ちならない映画とも言えます。一度、映画評で「どうも賞狙いをするようになって、質が落ちた」等と書かれていましたっけ。

 それでも、作曲家マイケル・ナイマンといわば幸福な蜜月時代を過ごしていた時には才能満開、映像的には『英国庭園式殺人事件』が、ナイマンとの映画音楽と映像との幸福な結合という点では『Zoo』、そして、何ともいえぬ不条理という点で『数に溺れて』がそれぞれピークだったかもしれません。そして、『プロスぺローの本』に凋落の予感を感じる、まあ、そんなところです。

 なお、『コックと泥棒、その妻と愛人』の音楽はまだマイケル・ナイマン、衣裳はジャン=ポール・ゴルチエ、料理はイタリア人シェフジョルジオ・ロカテッリ。

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 舞台はフレンチ・レストラン”ル・オランデーズ”(Le Hollandais)、主人公はそのシェフリチャード(リシャール・ボーランジェ;良いですね。フランスのおじさん俳優、ベッソンの傑作『サブウェイ』では花屋を演じていました)と、そのレストランにあらわれる暴力的な大泥棒アルバート。

 アルバートの妻ジョジーナはDVを受けて虐待され、ついインテリ客のマイケルに惹かれて、レストランのキッチンで逢引する。やがてアルバートはそれに気付き、駆け落ちした二人を追跡、マイケルを惨殺する。そのマイケルの死体を前に、リチャードはジョジーナにある提案を・・・・・・

 この先は『ディナー・ラッシュ』と同様、ここではとてもばらせません。まあ、ジョナサン・デミ監督『羊たちの沈黙』以降、いまや人喰いハンニバルがあたり役になってしまったアンソニー・ホプキンス主演のジュリー・テイモア監督作品『タイタス』(シェークスピアのもっとも残虐・暴力的な劇とされ、上演回数も少ないという『タイタス・アンドロニカス』の映画化)をちょっと思い出すところがある、というのをヒントとしておきましょう。

食べることについてPart6:エネルギーとタンパク質、あるいはブッシュミートとイベリコ豚、またはベリー公のいとも華麗な時祷書

2010年7月24日 総合政策学部の学生の皆さんへ

  (自然環境論やヒューエコ入門でお話ししていることですが)動物は基本的に植物(生態学的には生産者)にパラサイトしている存在です。自分では、光合成によって太陽光等からエネルギーを得る方法をもっていません。

 太陽の光を直接利用する光景は、爬虫類のトカゲやヘビ、あるいは哺乳類でもワオキツネザルのように、日向ぼっこをして身体を温める程度です。

 したがって、動物としての人間にとって、“食べる”ことでもっとも大事なのは、どの食物から身体を動かすためのエネルギーを摂り、かつ、どの食物から身体を作るタンパク質を得るのか、この2点です。

 もちろん、ヨーロッパから遥かに船出の旅についた航海者たちが思い知ったように、ビタミンCを摂らねば壊血病にかかります(この壊血病予防にザワークラウトかんきつ類を用いることを実行したのが、かのキャプテン・クックです。その後、イギリス海軍は水夫たちにライムジュースをのませることとなり、イギリス水兵は通称“ライミー(limey)”と呼ばれる羽目になります)。

 また、高木海軍軍医総監が日本海軍に麦飯を導入したように、ビタミンB1を摂らなければ脚気にかかります(「リサーチ&レポート;リサフェへの近道Part3~“パラダイム”という魔法のメガネ~」[2010/07/3投稿」を参照)。

 と言っても、その前に、まずエネルギーとタンパク質がなければ、ヒトはどうにも動けない。この2つをいかにして確保するか? これがヒューマン・エコロジーの大テーマだとおわかりいただけるでしょう。

  •  ところで、なぜ、ヒトはビタミンCを補給しなければいけないのか? 考えてみた事はありませんか? 肉ばかり食べているライオンは、かんきつ類もサプリもとっていないのに?
  •  実は、ビタミンCを補給しなければいけない哺乳類はサルの仲間(霊長目)やフルーツバット類(オオコウモリ:果実食性の大型コウモリ) 等、限られているようです。
  •  これはサルもフルーツバットも果実食にかなり依存する生活に適応しすぎて、ふだんからビタミンCが摂れるため、ビタミンCを自力で合成する能力を捨ててしまった可能性があります。
  •  つまり、環境が良いばっかりに、面倒で不必要な能力は捨ててしまう。それが後で困った事態になる(ヒトの進化において、誰も後世、長期間海上を漂う事態等、想定していなかった)。
  •  つまり、楽勝科目ばかり履修していると、後で恐ろしい羽目に陥るようなものかもしれませんね。 
  •  

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 残念なことに、農業だけでエネルギー源とタンパク質を十分に確保するのは容易な業ではありません(とは言え、米と豆、つまり三田米と丹波の黒豆だけでも十分といえるのですが=精進料理ベジタリアンの世界)。

 例えば、東南アジアからポリネシア、さらにはアフリカにも広がるイモ類(タロヤム)やバナナ、パンノキ等にたよる根栽農耕文化では、エネルギー源は得られても、タンパク質を農業で摂るのはそれなりに難しい。

 そのため、タンパク質を野生鳥獣(英語でBush meat)や魚介類に頼ります。

 また、アフリカからアジアに広がり、日本の米作も包含するサバンナ農耕文化でも同様で、主要な蛋白源として家畜を利用する習慣はあまりありません(明治維新前の日本がそうだったように)。

 もっぱら、鳥獣や魚類のタンパク質に依存しながら暮らしてきたわけです。

 こうしたわけで、第三世界で人口が増大すると、Bush meatの需要が増して、野生動物が狩られていきます。

 例えば、私の研究対象であるサルの仲間、ヒトが飛び道具を発明するまで、彼らを狩ることはなかなか難しいことだったでしょう。しかし、いまや彼らはやすやすと狩猟の餌食になってしまいます。吹き矢で(マレーシア等)、弓矢で(アマゾン等)、そして鉄砲で(世界中で)。

 ただし、人類学者としては、これを“密猟”とか、非難することにはためらいを感じてしまいます。

 人々も生きる権利があり、その土地に住む野生鳥獣を持続可能な範囲ならば、ある程度利用することも当り前ではないのか? とつい思ってしまいます。

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  ちなみに、わたしが3年間を過ごした西部タンザニアタンガニーカ湖畔にあるマハレ国立公園周辺にすむトングゥエの人々は、湖岸住みの人たちと山住みの人たちと、(流通経済が発達していないことも手伝い)食生活がそれぞれ違いました。

 まず、湖岸住み(わたしの調査ベースも湖岸)の人たちは、キャサバ(山の上だと寒さで生育が悪く、暖かい湖岸が最適)、コメ(アフリカ土着のアフリカ米Oryza glaberrima Steud.ではなく、アジア系のアジア米Oryza sativa L;インディカ種。おいしいのですが、現地の人からは高級品)、トウモロコシ等でエネルギーをとります。

 一方、タンパク質は湖の魚(ナイルパーチシクリッド(カワスズメ)、ダガー[ニシン科の小魚Limnothrissa miodonStolothrissa tanganicae]、ナマズ)に頼ります。

 なお、湖の数々の魚のうち、近代的流通経済にのっていたのは、ダガーの日干し(日本の煮干しのように使われていました)だけでした。

 ダガーを干している写真が、JICAの記事に出ています http://www.jica.go.jp/tanzania/office/others/newsletter/pdf/pamoja0605.pdf#search=’ダガー タンガニーカ 写真’  

 漁猟も様々な手段を使いますが(例えば、煙草の箱の銀紙を割いて疑似餌にしてシクリッドを一本釣りしたり、大勢で地引網を引きダガーを獲る)、もっとも効率が良いのは、夜に刺し網をしかけて朝引き上げる事。

 とはいえ、刺し網漁にはナイロン製の網を調達しなければならず、それには資本がいるので、普通の人は手が出せません。

 もうおわかりでしょうけれど、私が買って(=網元になって)、誰かに預けて、その上前をいただき、もちろん「残りは皆で分配しなさい」ということになります。

 刺し網とは、「網目に魚の頭が刺さる=エラが邪魔してぬけなくなる」ことを意味します。覚えておきましょう。

 この種の網は(地引き網や底引き網と異なり)、網目の大きさ(対角線の長さ=テレビの大きさの表示と同じですね)を選ぶことで、獲る魚種や大きさをある程度調整できます。

 つまり、5インチの網だと大物しかかからない。1.5インチの網だと、大型の魚は「刺さらない」し、中型よりもちょっと小形の魚ばかりがかかるから、漁獲総量は多くとも、幼魚ばかりで持続可能ではない(!!)。3インチぐらいが、我々にはちょうど良い、とトングゥエに教えてもらって買っていたわけです。

 一方、魚や流木、そのたもろもろ、色々引っかかるため、網は結構消耗します。一番痛い事態は、網にかかった魚を狙って、ワニに暴れられることでした。なお、滞在中、ワニは2回見ました。全長5~6mはありましたか。

 ついでに言うと、私の網を誰に預けるべきか? 預かった者は、誰にどの魚をあげるか、決定権を持つわけですから、その影響力も考慮しなければいけません。私としても、人選に苦慮するところです。

 なお、ナイルパーチやシクリッドは味は抜群。シクリッドは観賞用熱帯魚としても超有名種です。(もう亡くなられましたが)私の先輩の京大教授は東京の熱帯魚屋で、自分が食べていた種が体長1cmで1万円単位で売られてのに仰天してしまったとのことです(値段が体長で決まるとすれば、おいしく食べていたやつは日本では10数万円!!)。

World Lakes DatabaseのLake TanganyikaのURLは http://www.ilec.or.jp/database/afr/afr-06.html

Lake Tanganyika Biodiversity ProjectのHPのURLは http://www.ltbp.org/

 野生動物(Bush meat)も、もちろん手に入るの限りは(例えば、畑に罠を仕掛けて、畑荒らし対策とタンパク質確保の両立を狙う)いただいているのですが、まことに残念なことに、イスラーム化しているので、イノシシだけは手がだせません。

 一方、山住みの人たちは、トウモロコシ雑穀でエネルギーを摂り、タンパク質はもちろんBush meat。銃もつかいますが、これがなんとスタンレー時代からのマスケット銃だったりします。どんな古い銃でも、使う分には問題がないのかもしれませんが、やはり昔は暴発事故があったとのことでした。

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 さて、根栽農耕文化やサバンナ農耕文化と対照的に、ヨーロッパで発達した農耕文化(農学者中尾佐助の命名による「地中海農耕文化 」は、エネルギーを穀物(オオムギコムギライムギ等)で、タンパク質を豆、肉、ミルクで得るという農業+牧畜の複合形態をとった農耕文化です。

 その主な作物は冬作の、豆、根菜類ですが、そこに家畜(ヤギヒツジウシ)が加わります。

 とくにウシは牛耕に使用するものの、ミルクもいただき、かつ肉も得る。さらには、家畜類の糞で畑の地力を回復させる(世界史を勉強した方は、三圃制を思い出しましょう。3年に1度は、耕作を休み、家畜は放ち、糞などで肥料を施さないと、穀物が取れなかったのです-毎年、米がとれる水田システムとの大きな違いです)。

 となると、ミルクを出し、糞をして、かつ耕作にも使えるウシがもっとも普遍的な家畜となるのも、いわば当然です。そして、残飯やヒトがたべられないドングリ等を食べる動物=ブタがそこに続きます。

 ということで、ここで15世紀、中世フランスの王族ベリー公ジャン1世が作らせた華麗な装飾写本(illuminated manuscript)、「ベリー公のいとも華麗な時祷書」をひもといてみましょう(このように、古い画像から、その意味を読み取る学問分野を図像学[イコノグラフィー]と呼びます)。

◆3月:農夫たちは見事な牛に犂をひかせ、畑を耕しています:画像のURLは http://www.christusrex.org/www2/berry/f3v.htmlです。

 ◆4、5月と貴族と貴婦人の画像が続きます(ファッション関係に興味がある方はどうぞ)。しかし、このブログではあまり関係ないので、一気に6月に。今や牧草の収穫の時です。みんな大鎌で草を刈っていきます:http://www.christusrex.org/www2/berry/f6v.html

 ◆7月はどうやら、冬作のコムギの収穫の時のようです。そして、画像の右下では、ヒツジの毛を刈っているようです:http://www.christusrex.org/www2/berry/f7v.html

 ◆またもや9月にジャンプすれば、そこはブドウの収穫期。ワインの製造にも欠かせません。絵の背景には、文字通り、シャトーが映っています:http://www.christusrex.org/www2/berry/f9v.html

 ◆10月は、冬作の麦畑のシーン、畑を均し、種をまいていきます:http://www.christusrex.org/www2/berry/f10v.html

 ◆11月は、豚飼いがブタ(イノシシのような外観ですが)をオークの林に放って、ドングリを食わせて肥らせています。これぞ、まさにイベリコ豚のご先祖の姿です。ブタこそは、純粋に肉(=タンパク質)のために飼われている家畜なのです:http://www.christusrex.org/www2/berry/f11v.html 肥った豚は、しかし、ドングリが無くなると、種豚等を残して、と殺されます。冬には餌がないからです。

 そこで、大量に余る豚肉をなんとか冬が終わるまで残したい。この情熱のために、ハムソーセージベーコンが発達するのです。保存やおいしさを増すためにもスパイスが必要です。

 イスラーム教徒のためにその値段がつり上げられるとすれば、いくら金がかかろうと、何人船乗りが死のうと、アジアまで船を出す=大航海時代が、もうじきやってくる、そんな時代なのです。

 ◆そして、(本当はカレンダーの最初の1月)領主たちの“day chosen for exchanging gifts”の光景です:http://www.christusrex.org/www2/berry/f2r.html

 

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 さて、中学の頃、イギリスの19世紀の小説家W・スコットの『アイヴァンホー』 を読んでいると、時はあたかもヘンリー2世がなくなってしばらくの後。

 一代の傑女、フランス王ルイ7世の王妃にして、離婚後、ヘンリー・プランタジネット(ヘンリー2世のこと)に嫁ぎ、彼の戴冠によってイギリス王妃になるも、夫と不和に陥り、子供たちをそそのかして父と争わせた一代の才女アエリノール・ダキテーヌもお亡くなりになった頃。

 闘いにしか興味がない異常性格者リチャード1世(獅子心王)の御代(紀元1194年ころ)、道化が豚飼いに「アングロサクソン人(被征服者)のお前が飼っている時は、ブタも“Swain(ゲルマン語系のブタの意味)”だけど、それがノルマン貴族(征服者)の食卓に載ったら、“Pork(ノルマン語系のブタの意味)”になるのさ」とからかう場面が出てきますが。

 まさに社会言語学にして、英語がノルマン・コンクエスト以後、ゲルマン語とノルマン語のクレオール化が進行した一つの証でもあったのです。

 ちなみに、アンヴァンホーの時代をさかのぼることしばし、まだ健在なヘンリー2世(50歳)、彼に幽閉されているアエリノール・ダキテーヌ(61歳)、父に反抗するか、母に従うか絶えず揺れるリチャード(26歳)、リチャードの弟で後年マグナカルタを認めさせられることになる(後の)ジョン無地王(16歳)、そして、父ルイ7世への複雑な思いをいだく(アエリノールとは血縁のない)フランス王フィリップ2世オーギュスト(19歳;彼はリチャードと同性愛の関係にもあります)、フィリップの異母姉で、リチャードの婚約者のはずが、今はヘンリーの愛人になっているアリース(23歳)等が、1183年、シノン城に会する複雑な家庭劇(まあ、これ以上複雑な家庭は『カラマーゾフの兄弟』でも追いつきません)映画『冬のライオン』は傑作です。いつか紹介しなければ。 

 というわけで、書いていくときりがなさそうです。十分長くなってしまったので、このあたりで、今日は打ち止めにしましょう。

ギリシア悲劇とその変奏Part2:三大悲劇詩人たち~高畑ゼミの100冊番外編~

2010 7/20 総合政策学部の学生の皆さんへ

Part1に引き続いて、ギリシア悲劇とその変奏について、もう少し紹介を続けましょう。それでは、まず、ギリシア悲劇のなりたちについて、少し説明したいと思います。

ギリシア悲劇とは、もともとは古代ギリシアのアテナイで毎年開催されていたディオニューソス祝典祭でのコンテストで上演された劇です。さらにこれは、一つの共通テーマによって結ばれた3つの悲劇(古代ギリシア語で“トラゴイディア”=言うまでもなく、英語のTragedyの語源です)と1つの喜劇の組み合わせ(セット)だったということです。

ただし、2500年の歳月を閲した結果、3作の悲劇の組み合わせがそのまま残っているのは、アイスキュロスのオレステス3部作(Part1参照;『アガメムノーン』、『供養する女たち』、『慈しみの女神たち』)のみと云われています。

この祝典祭の優勝者達のなかで、後世に名が残っているのが、年代順にアイスキュロス(紀元前525-456年)、ソフォクレス(同496-106年)、そしてエウリピデス(同480-406年)の3人です。アイスキュロスの作品は90編(優勝回数13回)、ソフォクレスは123編(同24回)が記録に残っているそうですが、現存しているのはそれぞれ7編ずつ。エウリピデスはやや多く19編が残っています。

  • なお、劇の構成の完成度からいえば、この三大詩人について、アイスキュロスはまだ発展途上、ソフォクレスによって頂点にたち、エウリピデスで(デウス・エクス・マキナの多用など)ややご都合主義的筋立てになる、というのがごく一般的な評価でしょうか。

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一方、その劇はどんなスタイルだったのか? まず、そもそもの基本形は俳優が一人(日本の舞台でのシテに該当)とコロス(合唱隊とも訳され、英語のコーラスの語源)、この2者間の朗詠と合唱舞踊の対話が、演劇の始まりだろうと推測されています。そして、日本の能がシテに対するワキ、さらにはワキツレを“考案”していくように、俳優が二人になり(これがアイスキュロス)、三人になり(ソフォクレス)、次第に“劇”というものが出来上がっていったのだろうと考えられています。

それでは、どんな風に劇が始まるのか、紀元前480年のペルシャクセルクセスのギリシア侵攻の際に、ペルシア側が決定的敗北を喫したサラミスの海戦の8年後、アイスキュロスの『ペルシアの人々』が上演されます。初めに登場するのは、ペルシア人の長老たちからなるコロスで、まず、イントロダクションとして、この戦いの経緯を詠い始めます。舞台はペルシアの都スーサ、劇の前半は王宮の前という設定である。

  • 我らはギリシアの国に攻めいった
  • ペルシア人の信望厚い留守居たち、
  • 富み栄え、黄金ゆたかな王宮の
  • 守護のもの。われらの年功のゆえに、
  • ダレイオスの子クセルクセス王みずからが、
  • われらをえらび、国の守りにつけられた。
  • 王のお帰りをおもい、
  • 黄金のしつらえみごとな兵たちの
  • 帰りをおもうわれらの心は、はや
  • わるい予感におののきたつのだ。(久保正彦訳『ギリシア悲劇全集Ⅰ』人文書院より)

ひとしきり、劇の背景、出来事の経緯、人々の思いが詠われたのち、ペルシア太后(ダリウス1世の妻、クセルクセスの母)アトッサが登場、コロスの長とのやりとりに移ります(=対話形式)

  • コロスの長:おお、情けふかいペルシアの女たちの、神とあがめられる女王さま、クセルクセス王の母君さま、ダレイオス王のお妃さま、われらの神の母君さまにおわします。古い守りの運命神がわれらをお守り下さるかぎりは。
  • アトッサ:ダレイオス王の伏床を後に、黄金づくりの宮殿をでて、ここに来たわけをいいましょう。心配がわたくしの胸をかきむしる、おまえたちと話をがしたい、みなのもの、わたくし自身、不安でたまらないのです。もしやこの大きな富があだとなり、王宮の床が埃にまみれ、ダレイオス王が神の手からえたしあわせを、うしなう日がやってくるのではないか、と。わたくしの心には、口ではいえない心配が二重にいりまじる、わたくしたちは人なき富の山をむなしく守っているのではないか、しかし金銀なくしてはちからある人も輝きを失うのではないか、と(以下、略)

こうして、(アイスキュロスの想像による)戦役に出たペルシアの銃後の人々が感じる不安が表明され、そして、それはやがって現実のもの(=サラミスの海戦での徹底的敗北)となって、観客の目前に現出し、8年前の偉大な勝利の再現をアテナイの観衆に見せつけます。

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さて、演劇はそもそもは神々、ことにこの演劇祭では豊饒とワインと酩酊の神ディオニソス(ローマ神話ではバッカス)を喜ばすためのものという設定ですが、もちろん、観客の人気を集めなければ優勝するはずもありません。それでは神と人々は何を喜ぶのか? それはまことに不条理な世界、けして変えられない運命に抗い、神と人々に抗議し、破滅への道をたどる主人公達の姿なのです。

それがもっとも端的に現れたのが、Part1でご紹介のテーバイの王、スフィンクスを退治した男、そして知らなかったとはいえ実の父ラーイオスを自らの手にかけ、実の母イオカステーと結ばれて、子供たちをつくってしまうオィディプス王の悲劇です。

そのオィディップス王が残した二人の遺児、エテオクレスとポリュネイケスはこの呪われた家族の末裔にふさわしく、互いに父が残したテーバイの王権を争い、あげくにポリュネイケスは他国の軍勢を率いてテーバイに迫ります。紆余曲折の果て、兄弟はテーバイの7つの門の一つで闘い、ともに死にます(これが、アイスキュロスの『テーバイ攻めの7将』の梗概です)。

その後を襲った新王クレオンは、いかにも秩序維持派の政治家らしく、祖国をまもったエテオクレスを英雄として葬り、ポリュネイケスの死骸を打ち捨てて、鳥獣がついばむままにする=葬ろうとする者には厳刑に処すと宣言します。

この宣告に身内の者として反発したのが、この兄弟の姉妹(そして、オイディプスイオカステーの娘)アンティゴネーで、彼女は兄を埋葬しようとして、つかまり、クレオーンによって死刑を宣告されます。

実は、アンティゴネーはクレオーンの息子ハイモーンの許婚(いいなずけ)なのですが・・・・・・。こうして、冷たいまでの市民倫理を主張するクレオーンと、肉親としての情を訴えるアンティゴネーの間に、(アンテイゴネーの死を決した)論争が始まります。なお、このやりとりこそ、コロスの頭越しに、俳優同士が語り合うアイスキュロス以来のギリシア悲劇の深化なのです。

  • クレオン:さあ言いなさい、要領よく手短にな、そうしたことをしてはならんという布礼を知ってのことか。
  • アンティゴネー:知っていました、なぜしらないわけがありまして。公けのことを。
  • クレオン:では、それなのに、大それた、その掟を犯そうとお前はしたのか。
  • アンティゴネー:だっても別に、お布礼を出した方がゼウスさまではなし、彼の世をおさめる神々と一緒においでの、正義の女神が、そうした掟を、人間の世にお建てになったわけでもありません。また貴方のお布礼にそんな力があるとも思えませんもの。(呉吾一訳『ギリシア悲劇Ⅱ』人文書院より)

この“小娘”の言葉こそが史上初の“確信犯=異議申し立て”であるのに対して、クレオンはただ世の秩序維持、掟の正当性を頭ごなしに主張して、命乞いをするハイモーンや妻(ハイモーンの母)のエウリュディケーの言葉にも心をゆるがしません。彼にとっては、社会の秩序維持こそが使命です。しかし、その維持の目的は? 世の秩序とは、そもそも人々の幸福のためではなかったのか・・・?

その間に、アンティゴネーは牢屋で縊死し、それを見たハイモーンは自らに剣をつきたてます。コロスはクレオンをあざけるかのように詠います。

  • コロス:それで今は骸となって屍を抱いて横たわり、お気の毒にも、結婚の式はとうとう冥途へいってからなさるという仕儀でして、人間世界に、思慮を欠くということが、この上もない不幸の種かを、お示しになったわけでした。

この死の連鎖はさらに続き、ハイモーンの母エウリュディケーもまた死を選びます。事態のあまりの展開に、クレオンが「連れ去ってくれ、この用もない人間を他処へ」と嘆きながら退場した後、コロスの長が静かに独唱します。

  • コロスの長:慮りをもつということは、仕合せの
  • 何より大切な基、また神々に対する務めは、
  • けしてなおざりにしてはならない。傲りたかぶる
  • 人々の大言壮語は、やがてはひどい打撃を身に受け、その罪を償いおえて、
  • 年老いてから慮りを学ぶが習いと。

法とは何か? 正義とは何か? 共同体とは何か? ギリシア悲劇の観客たち同様、皆さんも考えてみてください(それこそ、総合政策です)。

スマトラで感じたこと:フィールドについてPart3~ネーション・ビルディングを中心に

2010 7/12 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ

 私が初めて外国に出かけたのは、「TVドキュメンタリー撮影クルーの際に教えてもらったこと:総政100本の映画番外編(2009年12月30日投稿)」で触れたように、インドネシアのスマトラで、オランウータンのリハビリテーションセンターを撮影する日本映像記録センターの撮影クルーの一員というちょっと変わった身分でした(「食べることについてPart1:フィールド初級講座編#1(2009年12月16日投稿)」もご参照に)。

 それが生まれて初めての海外体験であり、嵐山の野猿公苑に引き続く二つ目のフィールド体験です。かれこれ30年もことですが、その時感じたことをいくつか書きつけてみましょう。

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 インドネシアでもスマトラ島というちょっと僻地に行ったことが良かったかどうか。私がまず実感したことは、ちょっと違和感をもたれるかもしれませんが、「明治維新というのが、一大文化革命だった」ということでした。

 というのも当時の私の眼に入ったインドネシアは、ハード的(建物、道路、その他)にもソフト的にも(入国管理、ホテルのチェッキング、撮影許可、その他)中途半端に文明化されている。

 その現代文明の破れ目は、例えば、道路の舗装、ちょっとしたところで綻びのあるホテルの造作、メダンの街中のごみの山のようなささいなことにあらわれ、それが民人の暮らしと溶け合っていないような印象です。

 今はどうかわかりませんが、メダンの町は、皆が吸っているインドネシア煙草のクレテック(砂糖と丁子[スパイスのクローブ=実は、タンザニアのザンジバル島からの輸入が多かったそうです]の香り(部屋で一服吸ったら、3日間は匂いが消えません)のにおいと、みんなが食事後に捨てるバナナの葉っぱが路上で腐るにおいと、パダン料理をはじめとする食事のスパイスのにおい、そして産油国として安いガソリンに支えられ、メンテナンスの悪い車やバイクから吐き出される排気ガス、これらが混然一体となって、『風の谷のナウシカ』の“瘴気”のように町に漂っている、そんな雰囲気も感じました。

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 町から、撮影現場のオランウータンのリハビリテーションセンターがあるボホロクの保護区までの道も、ほぼ5分の1ほどはどこまで続くかどうかわからぬスラム、残りの半分は平たい大地に広がる水田と、これまた丘陵地に果てしなく続くゴム園の林が続きます。ここは政治的にはジャワ島人の植民地(当時は、スハルト大統領による長期開発独裁政権下)、経済的には欧米の国際資本の植民地、というのが私の印象でした。

 さらには、スマトラ島の北端旧アチェ王国地域では、あのスマトラ沖地震(2004年)まで、自由アチェ運動によるインドネシア国軍との準戦闘区域[軍事作戦地域;DOM]でもありました。

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 とどめは、これも以前のブログで書いたかと思いますが、メダン領事館で、総領事から、その時点で13年前の事件だった9・30事件後の混乱で、インドネシア全土で50万~200万人ともいわれる左派系(主にインドネシア共産党系)の人々が虐殺された事件について「ここの町の人は、みんな覚えているんですよ。誰が誰に殺されたのか。でも、それは言わない事にしているのです」と聞いた時でした。

 その後の長いスハルトによる開発独裁、それが1998年に倒れてからすでにハビビワヒドメガワティ(9・30事件後に失脚した初代大統領スカルノの長女)と続きながら、現在のユドヨノ大統領でなんとか安定しているインドネシア政府にとって、あいかわらず9・30事件は、すべてを明らかにすると政治的大混乱をひきおこしかねない“パンドラの箱”であり、事件の真相もその後殺された人の数も正確にはわからないままになっているようです。

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 次に感じたのは、インドネシアが一種の人工国家であり、“国民”の創生=ネーション・ビルディングこそが一番大事なのだ、ということです。これは授業(ヒューエコ入門等)で触れていることですが、強調してもしすぎる事はありません。“国民”とは何か? 皆さん、あらためて考えてください。

 このあたりの消息をWikipediaの文章を借りると、「大まかに分類しても70余の民族が居住する多民族国家であるインドネシア共和国に国のまとまりが生まれたのは比較的新しく、狭義のインドネシア史は第二次世界大戦後の独立時代に過ぎない。そもそも、この地域がはじめてひとつの政治体によって統一されたのは、17世紀に建設が始まり20世紀初頭にようやく完成をみたオランダ領東インドの時代が最初であった」となります(インドネシアの歴史からの引用)。

 この地は紀元前1世紀頃から、主にインド文明の影響を受けます(海伝いに訪れる商人たちによって、宗教や文化が広がります)。その結果、仏教(もっとも著名な遺跡がボロブドゥール)、ヒンドゥー(ジャワの遺跡にプランバナン-個人的には、ボロブドゥールよりお薦めです。巨大石造建造物の前に立つと、もう言葉もありません。ただし、2007年の地震でかなりの被害が出て、なかなか復旧していないようです)、そして最後にイスラームが海を渡ってやってきます。

 つまり、インドネシアとは陸地伝いに文明・文化が広がるのではなく、海・港伝いに飛び地のように伝播してから、徐々に内陸部に浸透していく形をとるのです。

 こうして、建設された王国の中には、世界史に記述されるシュリーヴィジャヤ王国クディリ王国シンガサリ王国マジャパヒト王国などの大国が勃興しますが、肝心なのはこれらの国々が現在のインドネシア全土を統一的に支配したことは一度もなく、つまり、民族的統合もなかったことです。一方で、17世紀からのオランダ東インド会社の支配が浸透していく中、1800年にほぼ現在のインドネシアをオランダの直接統治下におかれ、政治的空間としてのインドネシアが成立します。

 これはもちろん、マラッカ海峡の対岸、シンガポールを支配するイギリスとのいわば住み分けの形です。このようにして政治的統合(植民地)→植民地人の創生→対植民地政府に対するナショナリズムの勃興→共同幻想(想像)による国民概念の形成が進めます。

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 こうした植民地形成で引き起こされた国家創設のパターンには、インド(インドネシアと同様、かつてのインド帝国[英領インド]全土を恒常的に支配した王国などは存在しません)、イラク(第一次大戦後、シーア派、スンニー派、クルドの人たちをあわせたイギリス委任統治領を中央集権化、現在のサウジアラビアメッカの大守だったハーシム家のファイサルを国王にします=映画『アラビアのロレンス』で名優アレック・ギネスが演じるあのファイサルです)等も同様に、独立前後に民族間・地域間の紛争が勃発する(インド帝国は結局、インドパキスタンバングラディシュスリランカに分解)のも、これらの国家が一つの国民としてまとまることの困難さを表しています。これこそが、ネーション・ビルディングなのです。

 さて、インドネシアのネーション・ビルディング(国民創生)の程度はどのぐらいか? 個人的感想で大胆に言いきってしまえば、タンザニアにかなり及ばず、マダガスカルよりやや劣り、イラクよりははるかに進んでいるというところかもしれません。それは皮肉にも、オランダ東インド会社とオランダ政府という支配者=共通の敵に対する国民意識の形成によるものなのです。

 なお、マダガスカルは実はフランスの植民地化の少し前、自力でほぼ全土を統一したメリナ王朝があったというところで、他の国家よりもネーション成立のきっかけを自力で獲得したところです。これはアフリカではエチオピアと並ぶ事例であり、それゆえ明治時代の政治小説家東海散士による『佳人之奇遇』にも言及されています。

 国際政策学科の卒論で、“第三世界におけるネーション・ビルディングの過程”、“各国のネーション・ビルディングの達成度の比較”等、面白いテーマではありませんか?

 再びWikipediaの文章を借りると「オランダによる過酷な植民地支配下で、20世紀初頭には東インド諸島の住民による民族意識がめばえた。ジャワ島では、1908年にブディ・ウトモが結成され、植民地政府と協調しつつ、原住民の地位向上をはかる活動に取り組んだ(その設立日である5月20日が「民族覚醒の日」と定められている)。1910年代にはイスラームを紐帯とするサレカット・イスラームが東インドで大規模な大衆動員に成功し、1920年代にはインドネシア共産党が労働運動を通じて植民地政府と鋭く対立した。

 「インドネシアの民族主義運動が最高潮を迎えるのは、1927年のスカルノによるインドネシア国民党の結成と、1928年の「青年の誓い」である。インドネシア国民党の運動は民族の独立(ムルデカ)を掲げ、青年の誓いでは唯一の祖国・インドネシア、唯一の民族・インドネシア民族、唯一の言語・インドネシア語が高らかに宣言された」。

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 こうした過程を分析して、“国家”“国民”が作り上げられていく過程を分析したのが、『総政の100冊』で斎藤先生ご推奨のベネディクト・アンダーソン著『想像の共同体』なのです。

 ちなみにこの時提唱されたインドネシア語は、どの民族の母語でもない、マレー語の方言をベースにした共通語(リンガ・フランカ)です。これも上記のように海伝いにやってくる商人たちによって共通文化化されてきた経緯を考えると、ある意味、自然なことであり、タンザニアが奴隷商人とアフリカ人の間で自然発生したクレオール=スワヒリ語を統一言語としていることとも重なります(「母語、共通語、公用語、...言語政策についてPart1;国際援助の現場から#4」2010年1月15日投稿、「スワヒリ語をベースにピジン、クレオールを考える;言語政策についてPart2;国際援助の現場から#7」2010年2月23日投稿も参照)。

◆と、ここまで書けば、皆さんもお気づきでしょうが、「ネーション・ビルディング」の実態は、NHKの大河ドラマの幕末ものの定番です。例えば、現在、毎日曜日に放映されている『竜馬伝』。あなたは“土佐藩(正称は高知藩だそうです)の下民”なのか、“郷士(=長宗我部旧臣)”なのか、“上士(山内家家臣)”なのか、それとも“日本国民”なのか?

大河ドラマ『竜馬伝』に登場の近藤長次郎こと饅頭屋長次郎はその階段をかけあがって、さらに日本の枠を超えることをめざし、国外に渡ろうとして失敗、腹を切ることになるのです。

総政100本の映画Part10:『田園に死す』、『パリ、テキサス』、そして『バクダッド・カフェ』

2010 7/5 総合政策学部の学生の皆さんへ

 しばらく映画の話題を投稿しませんでしたが、リサーチ等の硬い話題ばかりでもおもしろくありません。今回、まず紹介したいのは、寺山修司田園に死す』。

 本心を言えば、この映画は、わざわざ紹介などしたくもなく、「さっさと観ろ!」というだけで終わりたいところです。でも、今の学生さんは、そんなことを言っても決して観ないはず。もちろん、何を書いてもやはり観ないでしょうから、結局は、こうした業もすべては虚しいわけですが、その“虚しさ”こそ、寺山修司が本当に表現したかったことかもしれません。

 つまり、皆さんはまだ“観ていない”のに、寺山ワールドに巻込まれてしまうのだ、という烙印付きの映画なのです(=ここまで書いてしまうと、ちょっと、褒めすぎ、という気もしてきますが)。ということで、総政100本の映画の折り返し点、#51は『田園に死す』です。

#51:寺山修司『田園に死す』:この映画は、映画の中で劇中映画が展開し、いったいどれが本当の“時間”なのか、観る者は混とんとした世界に引きずり込まれる、つまり“メタ映画”です。そういえば、劇中、主人公の家には無数の時計があって、しかし、みんな違う時刻をさしている。そのなかで育った主人公=私は、ある日の会話で、「この世には時間は一つしかない」と聞かされて、「えっ、時間っていくつもあるのではないの!」と仰天するシーンがあったように覚えています。、

 さて、映画は、劇中映画ではじまります。都会の映画会社ではたらくうちに、いつしか疲れた中年の映画監督の新作は、かつて青森の恐山近くで、父親がなく、母との二人暮らしを回想します。彼の日々は、頭が煮詰まってしまうとイタコ口寄せを通して父の霊と会話することに始まりますが、この東北の寒村を嫌い、牛のようにたくましい母を嫌い、突然現れたサーカスに心ひかれ(春川ますみ演じる空気女が最高です!)、隣家の人妻(八千草薫が好演)に恋して二人で駆け落ちの家出を決行することに・・・ ちなみに若き日の主人公やその母を演じる俳優たちは白塗りの顔です(ギリシア悲劇の仮面=ペルソナを思い出します;ギリシア悲劇とその変奏Part1:高畑ゼミの100冊番外編参照)。

 試写室が明るくなり、映画が終わったことがわかりますが、監督はそこでかつての自分自身=当時の少年に出会います。そして、いま終わったばかりの映画が嘘であることを告げられます。故郷は人々は残酷で、人妻は実は愛人がおり(まだ若くて、個性が次第に固まり始めた頃の原田芳男)、二人は少年の眼の前で心中してしまいます・・・・

  最後、現代に戻った映画監督は、捨てたはずの故郷に戻る(戻らざるを得ない。結局、決行できなかった母殺しも含めて決着をつける時なのです)。そして故郷で、ずっと彼を待っている母親は彼に気付き、穏やかに「さあ、ご飯をお食べ」とさそう。二人は向かい合って、だまって食事を始めます。

 結局、彼は今度も決着をつけることはできないだろう、この母親の前では、と観客が思い知るその時、突然、その家の壁が外に倒れて、そこは新宿駅前の人々が行きかう雑踏の真っただ中、訝しげな人々の視線をよそに黙々と食べる二人・・・・・というこのラスト・シーンこそ、天才監督川島雄三『幕末太陽伝』での構想にインスパイアされたものなのです(「総政100本の映画Part3:#37~#38『幕末太陽伝』他」で紹介済みですが)。

  • この映画はまた、寺山修司の歌集『田園に死す』の短歌を、主人公が詠うシーンが挿入されるという、文学と映画の融合シーンもあります。寺山の短歌をいくつか紹介しましょう。
  •   ・マッチ擦るつかのまの海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや
  •   ・大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ
  •   ・新しき仏壇を買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥
  •   ・売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき
  •   ・たった一つの嫁入道具の仏壇を義眼のうつるまで磨くなり
  •  

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#52:ヴィム・ヴェンダースパリ・テキサス』:パリ・テキサスとは、実はフランスのパリではなく、アメリカ合衆国テキサス州にある町パリス(綴りが同じで、英語で読めばパリスになる)。しかし、この映画ではパリスはでてきません。すべてに絶望した主人公は、パリスに行くことを望んでいるのですが、その前にすべきことがあるのです。

 主人公トラヴィス(ハリー・ディーン・スタントン)は4年間失踪していた男ですが、ある町で倒れ、身元がわかります。弟がロスアンゼルスからやってきて、トラヴィスを成長した息子に引き合わせる。息子の母親は、遠くヒューストンから養育費を送金している。トラヴィスは、息子を母親(つまりもう何年も会っていない妻;ナスターシャ・キンスキー)に預けることで、人生に一区切りさせることを決心します。

 そのトラヴィスと息子ハンターのロスアンゼルスからヒューストンまでの道行き、はてしもない南部アメリカの荒野、息子が物心がついてから一度も会ったことのない父と息子の関係の再生、これらがこの映画を究極のロード・ムービーに仕立て上げます。

 そしてヒューストン、久しぶりにあう妻はピープ・ショー(覗きショー)でその日暮らしを送っている。その妻と(妻からは見えない)マジック・ミラー越しの会話を交わすトラヴィス。すべてを語り合い、理解し、そしてまた別れねばならないトラヴィスは、マジック・ミラー越しに妻に息子がいるホテルの番号を告げ、母子の再開を確認してから、ヒューストンを一人去っていく。

 おそらく観客すべてが望んでしまう家族再生は実現することなく、つかの間の出会いが終わりを告げる。この80年代のアメリカ人の心象をみごとに映した映画の原作・脚本は劇作家兼俳優のサム・シェパード

 ヴェンダースはドイツ生まれの映画監督で、フランスに留学中映画に出会い(1日に5本の映画を観ていたと言います)、1970年代一連の映画『都会のアリス』『まわり道』『さすらい』で、ニュー・ジャーマン・シネマに頭角を現します。ちなみに1975年公開の『まわり道』はゲーテ教養小説ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』をベースにしたロード・ムービーで、上記のナスターシャ・キンスキーが13歳でデビューした記念すべき作品です(原作に照合すれば、ナスターシャ・キンスキーはミニョンの役になるのでしょうか)。そして、『まわり道』の9年後、ナスターシャ・キンスキーは覗きショーの女を演じています。

 若い時からアメリカ映画の影響を受け、ロード・ムービーを得意としたヴェンダースはやがてハリウッドに進出、『ハメット』等を撮りますが(私自身は、『ハメット』は性に合いません。何よりも、主人公が“ハメット”というより“チャンドラー”になってしまっている観があります)、賢明にも適当な距離をおいて、今日に至っています。

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#53:パーシー・アドロン監督『バクダッド・カフェ』:1987年この映画が公開された頃、イラクの首都バクダッドの支配者はご存じサダム・フセインでした。当時は、イラン発のイスラム革命をおさえるための代理戦争ともいえるイラン・イラク戦争の真っただ中、アメリカからの支援を受けて8年間の戦争を展開中でした。その時分、中東でもっともアメリカナイズされた国と言われたイラクが、その後の湾岸戦争イラク戦争、そしてその後の泥沼になるとは、誰が考えていたことでしょう(映画『ハート・ロッカー』もいずれ紹介しなければ)。

 さて、この映画の舞台はアメリカ、ラスベガス近郊のモハーヴェ砂漠、映画の舞台が“バクダッド・カフェ”という名前のうらぶれたカフェというだけで、イラクの首都とは何の関係もありません。ちなみに原題は“Out of Rosenheim”、「ローゼンハイムを遠く離れて」というべきでしょうが、これはドイツの町ローゼンハイムからの旅行者ジャスミン(ドイツの太り気味の女優マリアンネ・ゼーゲブレヒトが快演!!)が、夫婦げんかの挙句、トランク片手に砂漠の真っただ中に一人降り立ち(英語もほとんど話せないのに)、ぼろぼろのうらさびれたモーテル兼カフェ兼ガソリンスタンド「バグダッド・カフェ」にたどり着く・・・・ 

 そこはまったく人生の吹き溜まり、女主人公ブレンダ(CCH・パウンダー、こちらも快演)はいつも不機嫌、家族はばらばら、客もめちゃくちゃ、カフェは汚れ放題・・・・。そこに突然あらわれたジャスミンが「マジック!」とつぶやき、簡単な手品で心をなごませ、汚れだらけの貯水タンクを磨き、すべてがいやされ始める。

  まあ、こう書くとおとぎ話のようですが、そこにジェヴェッタ・スティールが歌うテーマ曲「コーリング・ユー(Calling you)」が流れると、これも人生なのだという気がしてきます。チェーホフ以来の「ここでない、どこかへ行きたい」という方に、「それはここなのだよ(some place better than where you’ve been)」と澄んだ高音で呼びかけるこの曲、

A desert road from vegas to nowhere,
some place better than where you’ve been.
A coffee machine that needs some fixing
in a little cafe  just around the bend.

I am calling you.
Can’t you hear me?
I am calling you.

A hot dry wind blows right through me.
The baby’s crying and I can’t sleep,
but we both know a change is coming,
coming closer sweet release.(以下、略)

 しかも、バクダッド・カフェへと導く道はどうやらかの“ルート66”、60年代の楽天的だが残酷なアメリカから80年代の心地よい退廃へ。右が“コール・ミー”のユーチューブのURLです:http://www.youtube.com/watch?v=VdvbgW3YOVM&feature=related

 しかし、ただの旅行者であるジャスミンがいつまでもアメリカに滞在するのは不法?! 彼女は入国管理官に拘束され、カフェを後にせざるをえない。ブレンダをはじめ、みんなの心にぽっかりと空く隙間・・・・しかし、ある日突然、ジャスミンはバクダット・カフェに戻ってきます。

 ちょうど、ブレンダの子供が砂漠で飛ばすブーメランのように、みんなはやがてまたここに帰ってくる(『パリ・テキサス』と逆ですね)。

 映画の最後に、モーテルに独り暮らす孤独な画家ルーディ(昔は『シェーン』の悪役でならしたジャック・パランスが不器用そうな古老の絵描きを演じます)との恋が訪れます。

リサーチ&レポート;リサフェへの近道Part3~“パラダイム”という魔法のメガネ~

2010 7/3 総合政策学部の皆様へ

  Part1では知識のつなぎ合わせ方を、そしてPart2パラダイムあるいはブレークスルー等の言葉を紹介しました。それで、パラダイムについてもう少し説明しましょう。

 まず、覚えたいのは“理論”と“経験”という言葉の意味です。近代の自然科学はこの二つの相克でもあり、その歴史を扱う学問領域を“科学史”と呼びます。

 また、科学史に必要な「科学に対する哲学的考察/哲学的基礎付けの作業の総称」を“科学哲学”と呼びます。

 と書いていると小難しそうですね。それでは、経験とは何か?

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  Wikipediaでは「実際に単一あるいは複数の行為に参加あるいは行動を実践することによって、物事を理解したり、技術を習得したりすること」とあります。

 これまた、小難しそうですが、以下が経験からのブレークスルー(あるいはパラダイムの変換)の実例です。要するに、貴方の眼の前で起きていることに(誰よりも早く)「気付く」ことだと考えて下さい。例をあげましょう。 

  • 実例1:イギリスが第一次大戦戦車を発明します。でも、ドイツ軍の塹壕を突破するための歩兵の支援ツールとしか考えていなかった
  •     → むしろ戦車を主体で歩兵が従の機甲師団を作って、塹壕戦等にかかわることなく、敵の前線を突破しよう!
  •     → これが第二次大戦で出来する電撃戦理論=フラー、ド・ゴールグデーリアンリデル・ハート等少数の先駆者だけがこれに気付きます
  •       しかし、権力者=ヒトラーの支持によって実現させたのはドイツ国防軍のグデーリアンだけでした
  •  
  •  ところで、上記のド・ゴールとは第2次大戦後、フランス第5共和制において強力な大統領権を得て、アメリカを相手にフランス・ナショナリズムを振り回すことになる、あのド・ゴール将軍/大統領です。
  •  
  • 実例2:リンゴが地面に落ちる
  •    → なぜ、落ちるのか?(どうして、どこかに飛んで行かないのか?)
  •    → 万有引力の解明(理論)=アイザック・ニュートン(「リンゴ」の話自体は後世の創作だそうですが) 
  •  
  • 実例3:それまでの「掛け売り」商売を「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」にビジネスを変換させる
  •    → 薄利多売で高利益
  •    → 延宝元年(1673年)の三井高利による越後屋(現、三越)のビジネス・プランの変換 
  •  
  •  ちなみに、19世紀のパリで、同じような掛け売り商売の店から、巨大店舗による「派手なショーウィンドウと大安売りの季節物」(Wikipediaより)で大成功をおさめ、百貨店という小売り業界のブレークスルーを実現したのが、現在も経営している百貨店ボン・マルシェ
  •  
  •  ボン・マルシェの経営によって、19世紀の百貨店革命をリードしたのはアリスティッド・ブシコーとマルグリット夫妻で「バーゲンセール、ショーケースによる商品の展示、値札をつけ定価販売」を打ち出します(1852年営業開始、1887年に完成)。
  •  なお、越後屋の後身「株式会社三井呉服店」が百貨店(デパートメントストーア)に変身するのは1904年です。 
  •  
  • 実例4:ガラパゴスゾウガメや小鳥のフィンチは島や食べ物によって、少しずつ形態が違う
  •   → 祖先は1つで、それが島の環境やニッチで変わっていく

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 このように自らの経験から、従来の発想を転換して、新しい世界を発見する。また、その新しい世界を説明するのが“理論”です。

 理論で裏打ちされなければ、それは経験則として、感覚的な意見(いわゆる直感)の段階にとどまり、説得性に乏しいとみなされます。

 リンゴが落ちることは誰でも知っていますが、それを「質量をもつ物質は互いに引き合引力を持つ」と考えれば、体系的に経験を説明できる。この思考体系を形作ったのが、ニュートンなのです。

  •  上記の実例3のように、特定のビジネス・プランについて具体例を考えさせて、経験 → 理論 → 実践の過程を追体験させるのが、アメリカのビジネス・スクール(経営大学院)等で一般的なケース・スタディにあたります。このケース・スタディの分析例を豊富に持っているスクールこそ、有力校なわけです。

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 さらに、理論を応用(いわばコピー)することで、次々と新発見ができる。

 Part1で説明したフレミングによるペニシリンの発見は、同じスキルの適用で、数々の抗生物質の発見につながります;エリスロマイシンセファロスポリンテトラサイクリンストレプトマイシンバンコマイシン、etc. 

 これこそ、“現状突破”=ブレークスルーの賜物です。

 このように、“理論”あるいは“パラダイム”はみんなにとって世界が違って見える“魔法のメガネ”、なんと素晴らしい! はずですが、実は、そのメガネが知らぬ間に流行遅れになってしまえば、たちまち別のメガネに乗り換えなければいけない。

 こうなると、自然科学の世界もコメディに堕ちかねません。

 ほら、よくいるでしょう。いつもメガネを探し回っているのに、肝心の“ブツ”が見えない人たちが。

 また、いつも新しい理論を紹介してやる、と言っているのだけれど、肝心のこと=“貴方はいったい何をやっているのですか?”がはっきりしない人たちが。

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 さて、“パラダイム”について、あらためて説明しましょう。

 これは科学哲学者のクーンが提唱した言葉で、その時代に「暗黙のうちに研究の指針とする手続きや考え方の集大成」という意味です。

 なお、かなり広義に使われている言葉なので、厳密な定義はなかなか難しいようです。

 クーン自体が、あまりに拡大解釈されてしまうために、自らこの言葉を使わなくなったとも言われています。ここでは、あえてあいまいなまま使いましょう!

 例として日本の近代医学受容における、パラダイム変遷を紹介してみましょう。日本では、以下のような変遷をたどりながら、西洋医学を受容していきます。

  • 段階1:外科技術の受容:江戸時代の蘭学の世界です。当時は、内科よりもまず外科手術のスキルの導入が盛んでした。それだけ、彼我の差が大きかったともいえます。
  •  
  • 段階2:コッホ・パスツールの細菌学的パラダイム:江戸末期から明治期、当時の最新の医学的パラダイムが導入されます。光学顕微鏡細菌を発見 → 培養 → 実験動物に接種 → 発症=感染症説の確認
  •  
  • 段階3:化学療法のパラダイム:細菌学やウィルス学で病因がわかっても、病気がなおるわけではありません。薬の開発のため、1908年にノーベル生理・医学賞を受けたエールリッヒは有機ヒ素系製剤として梅毒の特効薬サルバルサンを開発します。このパラダイムが確立すると、同じような化学製剤(サルファ剤等)が次々に開発されます。
  •  
  • 段階4:ウィルス学のパラダイム:(2)の光学顕微鏡ではとらえられない小さな病原体=生物とも非生物ともとれるウィルスを、電子顕微鏡の発明まで、「そういう微小な病原体がいるに違いない」という理論に基づいて調べていきます。
  •  
  • 段階5:抗生物質のパラダイム(Part2を参照)
  •  
  • 段階6:疫学(病気の生態学)のパラダイム:高木が調査したように、病気は環境と切り離せません。まず、病気の生態を探ることが重要になってきます。
  • ・・・・・・・・・・・(これからもパラダイムシフトは続いていくでしょう) 
  •  

 経済学ならば、古典派経済学も、マルキシズムも、ケインズ経済学も、新しい古典派もパラダイムなのです。

 そして、そのパラダイムがはたして目の前の漆黒の闇をすっきり見とおす“魔法のメガネ”になるのか、それとも、時代遅れのガラクタで、貴方を地獄への道に導くことになるのか、それはあなたの選択次第です。

 こうして、経験 → 新理論 → パラダイムとして確立 → 新パラダイムによる新しい発見 → そのパラダイムで説明できない事例を経験 → 新しい理論 → さらに新しいパラダイムの確立、という向上的(あるいは下降的?)スパイラルの形をとります。

 その結果、自然・社会・人文科学とも、その歴史は“理論(思想)”と“経験(実測/観察・実験)”の果てしもないせめぎ合いです。

 科学史は、かつては一世を風靡したけれど、いまや打ち捨てられたパラダイムの墓場です。これも実例をあげましょう。

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実例1:天動説(例えば、プトレマイオス派)と地動説(コペルニクス派)

 手短に言えば、この論争は、地球から見ての恒星の動きや満ち欠け(経験)を理論(地球が中心で、太陽が回っているか? vs. 太陽が中心で、地球が回っているのか?)で説明できるか?  が主眼です。

 よく知られているように、プトレマイオスは複雑な現象を説明するため、精緻な理論を考え出します。

 彼は「周転円を取り入れつつ、離心円エカント を導入、体系化した。恒星球の中心は地球だが、惑星の従円の中心はこれとは異なる(離心円)。周転円の中心は離心円上を定速では回らないが、エカント点からこれを見ると一定の角速度で動いている。 (中略)プトレマイオスの体系は当時としては非常に優れたものであり、地球を中心と仮定して惑星や太陽の運動を説明するには、これ以上のものは無いと言ってもよい。仮に(そんな事はあり得ないが)太陽系の惑星の運動が全て円運動であったのなら、プトレマイオスの体系でほぼ完璧に説明ができたであろうWikipediaより)」。

 それに対して、コペルニクスは、プトレマイオスの理論では説明できないいくつかの経験(観察値)とのずれについて、発想の転換(パラダイムシフト)によって地動説をベースにすれば説明しうる、何よりプトレマイオスのような複雑怪奇な理論を考えなくてもすむと気づいたのです。これがいわゆるコペルニクス的転換です。

 もっとも、コペルニクスの説は理論的要素が強く、当時の観察精度では“誤差”の範疇とあって、決着はなかなかつきませんでした。

 そのため、その後のティコ・ブラーエの折衷案と精緻な観察(それを分析できずに死亡)、師ブラーエのデータを分析して、法則化(=理論化)に成功したケプラーを経て、ニュートンによって理論化が完成します。

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実例2:脚気(かっけ)”をめぐる論争:日本の近代医学における“理論”と“実行(治療)”の衝突

 まず、脚気とはなにか? 『大辞林』には「ビタミン B1 欠乏による栄養失調症の一。末梢神経が冒されて、足がしびれたり、むくんだりする。脚病(かくびよう)。あしのけ。[季]夏。《―病んで国に帰るといとまごひ/虚子》 」とあります。

 しかし、これは今だから言える事。明治初期、日本の陸軍海軍が創設された際、兵士たちに(ビタミンB1をほとんど含まない)白米を中心とした兵食を出すと、脚気患者が続出して、そもそも戦争にも入れない状態が出来したため、国家的大問題になります。

 この事態に対して、ドイツ系学派(陸軍)は当時最新だったコッホパスツールの理論(細菌学のパラダイム)をベースに、感染症説を主張します。一時期、“脚気菌”を発見したという東大教授まであらわれました。

 一方、本症を栄養障害の一種と断定したのが高木兼寛(海軍;疫学のパラダイム)です。その当時、英国系及び漢方医学派が栄養障害説を主張して、陸軍と対立します。

 高木はとくに海軍の軍医として、患者を観察(ここが重要!)、洋食を摂る士官に脚気が少なく、米食が中心の下士卒に多いことから、遠洋航海で西洋食を摂る艦と日本食の艦と比較、前者で患者が出なかったことから栄養障害説を確信します(Wikipediaより)。

 こうして海軍は麦飯導入の結果、1883年から85年にかけて、脚気患者数・死亡者数とも激減します。

 もっとも、その後の経緯をみると、必ずしも根絶したわけではなく、とくに1915年以降にふたたび増加したります(これは兵に不満があった麦飯を減らしたことも一因のようです)。

 ところが、陸軍では森林太郎(森鴎外)、石黒忠悳等を中心に、栄養障害説は科学的根拠がないとして(事実、高木が考えた理論=たんぱく質不足説は、現在では否定されています)。ビタミン自体の発見が1910年ですから、無理もないのですが)、麦飯の食用に強硬に反対します。

 この結果、陸軍は脚気の犠牲者が続出します。日露戦争では、陸軍に25万人の脚気患者がでたとされています。戦死者46,000人余に対して、27,00人余が脚気で死亡したという説があります(Wikipediaより)。

 こうして脚気をめぐる論争は、本来、病因を何に探るべきか? というパラダイム論争であったはずなのに、多くの犠牲者を生じさせる社会問題になってしまいます。

 昨今、Webを見ると、結構、高木の「たんぱく質不足説」をあげつらう説が掲載されていたりしています。

 そういう記事を見ると、ついつい「下種の後知恵」とか、「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」等の台詞を思い出してしまいます。

 何よりも、目の前の脚気患者をなんとかしなければいけない立場の陸軍幹部の態度だけは、自然科学の立場からは首肯しかねると言わざるをえません。 

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   ここでさらに問題になるのは、どうすれば、経験から理論が導き出されるのか、ということでしょう。それが科学史上、ずっと続く帰納法と演繹法のせめぎあいです。

  帰納法とは「個別の経験的事実から、一般的な法則を見つけよう」とするものです。例えば、上述の高木のやり方はそれにあたるかもしれません。以下のような思考の道筋です。

 (1)食べ物が違うと、脚気の発生率が異なる=仮説:脚気は環境、とくに食物に起因する → (2)実験してみると、たしかに麦食では脚気は防止できる → (3)とりあえず、麦食を導入して、脚気を予防する → (4)麦食だと脚気が防止できることから、一般的な説明を考える → (5)たんぱく質不足説を提唱=結果的にまちがいで、森鴎外らにそこを突かれる。

 Wikipediaでは、「演繹においては前提が真であれば結論も必然的に真であるが、帰納においては前提が真であるからといって結論が真であることは保証されない」と指摘しています。

 高木のたんぱく質不足説はこれに見事に該当します。ただし、(3)の実践的業績を否定するものではありません(もっとも、理論の確立に失敗したことは、後世の海軍でふたたび脚気が出来したことにつながります)。

 一方、演繹法では「一般的理論から、個々の現象を説明しよう」というものです。脚気論争にとれば、「脚気=感染症」という理論から、すべてを説明しようというわけです。

 (1)脚気は病原体から起きる病気のはずだ → (2)脚気患者から細菌類を採取する → (3)純粋培養して、他の動物に感染させる → (4)その動物が脚気にかかる=病原菌が特定できた。

 このやり方は(1)の仮説が正しい場合、非常に効力を発揮します。“魔法のメガネ”をかけると、以前は見えなかったものが見えてしまう。

 ただしそれもパラダイムがうまく適合していればこそ。パラダイムがずれていれば、悲惨なことになってしまうのです。その典型例は、コッホ・パスツール型パラダイムの最後の体現者野口英世です。

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実例3:野口英世の悲劇

 このケースは、光学顕微鏡を駆使するコッホ・パスツールのパラダイムでは解決できないはず(と、今ではわかっている)黄熱病ウィルスを、古いパラダイムで探し求めて、結局、自らも死んでしまうという悲劇です。 

 当時高名だった日本出身の細菌学者野口英世は、1918年に南米エクアドルに、黄熱病の病原体を発見するため赴きます。そして、9日後には特定に成功、ワクチンの開発に成功したと発表します。

 しかし、今日では、彼が発見したのはワイル病スピロヘータとされ、電子顕微鏡でしか確認できないはずの黄熱病病原体(ウィルス)の発見は否定されています。

 そして、1927年、イギリスの医学者が野口ワクチンはアフリカで流行している黄熱病に効かないと発表します。

 翌年、野口はガーナで研究を始めるも、自ら感染してしまい、死亡します。「私には分からない」が最後の言葉であったと伝えられています。

 この経緯について、残念ながら、後世の評価は野口に厳しく、「パラダイムの変換期に新しいパラダイムに乗り換え損ねた悲劇の科学者」、「遅れて来た天才」と評されています(Wikipediaより)。

 こうして自らがよって立つパラダイムが時代遅れになると、強者は弱者の立場へと、一気に逆転してしまう。

 例えば、テープやCD/MDを媒体としいたソニーのウオークマンが、iPod等によって圧倒的に不利な立場になってしまう、いわば現実の世界なのです=ウオークマンやフォードT型もまた、立派なケース・スタディの対象です。

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 さて、今日、リサーチでもっとも適当な方法と考えられているのは“仮説検証主義”です(統計学的に検証することを“仮説検定”と呼びます)。この作業は、以下のような手続きを踏むかもしれません。

  • 段階1:課題についての文献調査(サーベイ調査)をおこないます=「アフリカは靴のマーケットになるか?」という課題なら(Part2を参照)、とりあえずアフリカの靴についての既存の統計データを調べる。
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  • 段階2:予備調査をおこないます=(かつては)船でアフリカの港にでかけ、みんなはだしであることを確認する。
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  • 段階3:理論(パラダイム)にもとづき、作業仮説をたてる(作業仮説とは、研究初期の段階で、経験値をもとに、研究方針をとりあえず立てるための仮説)です。この場合、①アフリカでは靴は売れない(A社)、②アフリカでは靴は売れる(B社)、③アフリカでの靴についての需要は潜在的なものにとどまり、経済が上向かないとマーケットにはならない(C社)=この一連の代替仮説を仮説群と呼びましょう。
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  • 段階4:段階3で立てた作業仮説にもとづき、調査を開始。調査はアンケート、ヒアリング、インタビュー他、仮説にあわせてさまざまな手段をとります。
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  • 段階5:段階4のデータを分析します。そして、仮説群から、「どれが経験(実測/観察)値を最もうまく説明するか?」考えます。
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  • 段階6:段階5にもとづいて、靴のメーカーとしての経営戦略(+戦術)をたてます。これがレポートでの“考察”にあたります。

  まず気をつけねばならないのは、段階1です。過去にどんな研究があるか? せっかく調べても、他の人がすでにやってしまっていた周知の事実ならば、オリジナリティはゼロになってしまいます。

 そして次は段階3かもしれません。

 リサフェなどでよく見かけるのですが、可能性を最初から一つに絞っている方が非常に多い。

 “総合政策”なのだから、いろんな視点で、いろんな角度で見るのが肝心!

 自分の進路や病気等についても、セカンド・オピニオンが重要であるという今の時代、やはり共同研究者とのディスカッションや、先生からのアドバイスが大事なのです。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...