2010年8月

リーダーシップ、ラインアンドスタッフ、“能率”とは何か?(前半):総合政策のための名言集Part3+高畑ゼミの100冊Part19

2010 8/30 総合政策学部の学生の皆さんへ

 ビジネスでも、非常時でも重要なリーダーシップ、そしてそのリーダーシップを十分に機能するためにも必要な組織におけるラインアンドスタッフの体制、そして、“能率”とは何か? について話を進めましょう。

 さて、今回は、こんな台詞から始まります。

#21:能率というのは、「目的を果たしながら、もっとも要領よく手をぬくこと」である西堀栄三郎『南極越冬記』岩波新書318;書籍番号75)。

 私の学問上の師匠であった伊谷純一郎のさらに師匠の今西錦司、その今西の無二の親友の一人、京大助教授から東芝技術本部長にトラバーユした後、第1回南極越観測隊に参加、越冬隊長として昭和基地を建設する西堀。

  彼のほとんど唯一の、一般向け著書『南極越冬記』は、しかし、ハードなフィールドワークを志す方(もちろん、そうでない方にも)是非お目を通しいただきたい傑作です。リーダーシップ論、組織論サバイバル等、学生の皆さんがこれから生き延びていくのに必要な知識を容赦なく教えてくれる本かと思います。

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 ところで、この「能率は、目的を果たしながら、手をぬくこと」だという言葉は、どういう拍子にでたのでしょう? 日本人にとってはほとんど未知な世界、南極越冬にむけ、昭和基地を無から立ち上げるべく奮闘する西堀は、隊員に日頃から「能率! 能率!」と口うるさく念をおします。

  すると、隊員から逆に「隊長の考える能率とは何ですか?」と反問される。「たしかに私は日本能率協会の評議員であるが」と思いつつ、あらためて隊員に開陳する西堀のいわば極意の一つなのです。

 この言葉は、テクノクラートとして、目標を達成することこそ、第一義的に大事だ、ということを教えます。次に大事なのは、そこに到達する手段をできるだけシンプルにすることです(それが、結果として、貴方を楽にする)。そして、(私が思うにはたぶん)もっと重要なのは、そこで「手を抜いた分」をさらに別のことに投資する(=これが人生でもっとも大事なこと)。 

  • 清朝末期の実力者、李鴻章がイギリスを訪問した際、パブリック・スクールで校長に案内されていると、グラウンドから歓声があがり、やがて連絡が来て、校長が誇らしげに「たったいま、100ヤード競争で新記録がでました」と李に告げると、李は「ほほう、優勝した学生さんは、その節約した時間を何にお使いになるのかな?」と尋ねたという小話を読んだ覚えがありますが(出典不明、うろ覚えですから、細部は保証しません)、時間を節約した場合、その時間を何につかうか、これで人生が決まっていくのです。
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 例えば、レポートを課せられても、できるだけシンプルに目的を達成し、締切前に提出し、そして浮いた時間を何かに使う=それが勉強でも、ほかの人生経験でも、遊びでも。

 人間として、もっとも貴重な資源とは、どんな方でも24時間しか許されない“時間”なのです。そこをまず考えなければ!

  • ところで、資本主義社会では、その時間を金で買ったりします。その具体的手段が、秘書であったり、そのほか様々な時間を節約する機器だったりするわけです(と思って、機器を購入すると、その操作に振り回されて、かえって時間を使ってしまう=これも何時も変わらぬ人間社会の一コマですが。ということで、現代社会は“時間”をあつかうビジネスが成立しています。皆さんもどうですか? 「あなたの時間を買いましょう!」=ミヒャエル・エンデの『モモ』の世界の対極かもしれませんね。
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  『南極越冬記』に話を戻して、西堀はリーダーとして、隊員11名の南極越冬と全員帰還を第1目標に据え、第2目標として意ならず乏しい機器類しかない現状で、南極という希有なフィールドにおいて現状で可能な限りの観測をおこなうという目標をたてます。

  そして、第2次隊を載せてくるはずの観測船宗谷が接岸に手間取ります(結局、第2次隊は基地に達せず、第1次隊は人間だけを回収して、犬ぞりのイヌを後に残さざるを得ず、それが1年後のタロ・ジロの生存の話に発展するのですが)。

 する西堀は「このようすでは、本隊は来られないかもしれぬ。本隊が来ないなら、われわれはもう1年越冬するぞ。飛行機もいつ故障をおこして、これで打ち切りと言うことになるかもしれぬ。いつ打ち切りになって、後はもう一年ということになってもかまわないように、飛行機にのる順番を決める」(本書、p.246)。

 なんとあと1年、酷寒の南極にとどまろうとする。こうして刻一刻と変わる情勢にあわせ、その場その場の代替案を考え、さらに状況の変化にあわせて、最悪の事態を回避しようとする。これがリーダーシップの本質ですが、西堀は今西らとともに日本の登山界をリードした京大学士山岳会以来の登山経験で磨いてきたとされています。 

 本書はまた、私の個人的意見では、「日本人でもハードボイルドが書ける」証拠でもあるでしょう。西堀の専門は真空管製造、工場実験法、統計的品質管理(『基礎演習ハンドブック』の第5章統計編にちらっと出てくる、あれです)。

 南極まで赴く羽目になったのは、京大学士山岳会の猛者として、登山や探検でならした過去があります。ちなみに、西堀は学生時代、雪山賛歌の作詞者でもあります。

 西堀は(残念ながら、私は一度もお会いしたことはありません)あまりに“伝説”が多く、例えば、越冬記には出てきませんが、基地建設中に「釘が足りません」と隊員が報告したら、「馬鹿!」と一喝して、板と板を押さえさせて、水をざばっとかけて、瞬時に凍り付く(当たり前ですが)のを見せてから、「これで気温があがる次の春まで大丈夫だ」と言い放ったとか、虚実様々に仄聞しています。

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 さて、越冬隊のようなある目標に向かって組織された近代的体制には、ラインアンドスタッフという体制が必要です。これは組織を(1)ライン=職務遂行に直接かかわるメンバーで、階層化されたピラミッド型の命令系統を持つ。その頂点がリーダーです。

 それに対して(2)スタッフは、ラインから一歩しりぞき、スペシャリストとして提案・助言をおこなうが、命令権がない(Wikipediaより)。例えば、ハリウッド映画をしきるプロデューサー=タイクーンたちはリーダー中のリーダーであり、スタッフからの提案を選ぶことはあっても、それに右顧左眄することはない。

 西堀は、学生時代の登山チームの中では今西がリーダー、西堀がスタッフだったようですが、西堀もまた充分にリーダーが務まる人間でありました。 

 以下、To be continued・・・・・・(後半へ)

“植民地”が残したもの:国際援助の現場から#9-タンザニア編Part2

2010 8/27 総合政策学部の学生・大学院生の皆さんへ 

  Part8からの続きです。今回は、植民地経営の実態について、と題して話を続けましょう。

 前回、タンザニア中央鉄道の建設に関して、Wikipediaの記述を引用しました。「鉄道建設はドイツ国庫からの建設借款により行われていたため、植民地政府は借款返済の大きな負担を抱えることになった。1914年の植民地政府歳入の32パーセントが借款返済に当てられていた」(Wikipedia)。

  また、こんな記述もありました。「1905~08年には、綿花の共同栽培と強制労働に反対してマジ・マジ戦争が起きます」。“借款”=要するに借金です。いずれは返さねばなりません。植民地経営は、意外に金のかかるものなのです。

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 例えば、巨船が入る近代を作らねばならない(輸出入の拠点です)。タンザニアのアフリカ側本土の拠点としては、奴隷商人たちがザンジバルに奴隷や象牙を送り出す拠点として、バガモヨ(Bagamoyo)があり、ドイツ領東アフリカ植民地の最初の拠点ともなりました。

 なお、Moyoとはスワヒリ語で“心”です。英語版Wikipeidaには、“This explains the meaning of the word Bagamoyo (“Bwaga-Moyo”) which means “Lay down your Heart” in Swahili.”とあります。おわかりですか? ある説では、“バガモヨ”とは、本土を離れ、これからザンジバルの奴隷市場に出荷される奴隷たちに“お前たちの心をここに埋めておけ”と宣告する場所だ、というのです。

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 そのBagamoyoから、(ヒューエコ入門でちょっと触れますが)植民都市というまったく新しいタイプの都市として、1895年、ザンジバルのスルタンの離宮があった“Dar es Salaam(平和の地)”建設へと向かうのです。

 なお、私はダル・エス・サラーム等の写真は一切もっていません。私の滞在時代は社会主義政権下で、都市でなにか写真を撮ったら、何時、密告されてぶちこまれるか、わかったものではない、とささやかれていました。

 現に、ダル・エス・サラーム港の写真を撮っているところを捕まって、2日間拘留された日本人がいたそうですが、警察まで会いに行かれた方によれば、まるで犬小屋みたいな牢獄だったと言っていたとJICAダルエスサラーム事務所の方から聞いたことがあります。

 そんなわけで、当時、町に出たら、カメラは封印する、というのが心得でした。

  • 社会主義政権では、いろんなものを撮ってはいけません。鉄道、駅、橋、港、空港。要するに軍事上重要なポイントです。最近は、そうした国も減ったので、トラブルも少なくなったとは思いますが、デジタル機器の発達で、すぐに撮影したがる人がいますよね(あとで整理はどうするんだろう? フィールドワークで大変なことに一つは、映像を“資料”にするため、整理することなのですが、昔は整理だけで大変でした。写真等の整理に追われて、肝心の研究の方がおろそかになりかねない、ということでは本末転倒ですね)。第3世界では、やはり気をつけていた方が良いかと思います。
  •  

 この上、ダル・エス・サラームから内陸部のキゴマまで、タンザニア中央鉄道を敷設し(Part8で述べた、クルップの鉄の枕木を敷き詰め)、さらにタンガニーカ湖畔に奴隷商人の町Ujijiの隣に、これまた新たに植民都市キゴマを造り、駅と港を整える! これでは、お金がいくらあっても足りません。

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   それでは、どうするか? 結局、“未開”の人たちを近代化しなければいけない=無理やりにでも。そうしないと、彼らから“税金”がとれない。

  ちなみに、スワヒリ語では税金は“Kodi”ですが、これは“人頭税”=もっとも単純、植民地政府にはもっとも取りやすい、一人ずつにかかる直接、Wikipediaによれば「所得に対して逆進性の強い税制であるため、現在ではほとんどの国で導入されていない。所得が無くてもそこに住んでいるだけで課税される。そのため、困窮した庶民が逃亡したりすることもあった」。まさに、それが植民地の現実でもありました。

 ですから、みんなKodiを嫌う。独立UhuruでやっとKodiから解放されたはずなのに、国家の経済が傾き(社会主義政権国家は1970年代より、国家経済が傾き出します、まず北朝鮮、そして第3世界の東寄りの国家)、税を復活させるかもしれないという“レディオ”(ラジオのスワヒリ語音)放送に、ある男が私に憤懣やる方ない調子で政府を非難するので、私は「だって、お前らの政府じゃないの。選んだんでしょう。それが政策に失敗したから、そうなってしまうんで、国民の責任でしょうが」と(と、もちろん、スワヒリ語で)会話したことがありました(今の民主党と自民党を見ていると、同じことを口走りそうですが)。

 そして、近代化された人たちは、やがて、圧政者に反抗し、独立していく=世界史でいつも変わらぬ光景です=以下、To be continued (Part3へ).

総合政策のための名言集Part2:ポパイの名セリフほか

2010 8/22 総合政策学部の学生の皆さんへ 総合政策学部のための名言集Part2です。今日は、皆さんにはとても“名言”と思えないものを集めましょう。それでは、まず、

#17:“I am what I am and that’s all that I am.”

 皆さん、どう訳します? 『平凡社大百科事典』の訳では「オレはオレだから、オレなんだ!」となっています。これは、皆さんご存じのポパイ、かのアメコミの傑作、空威張りがとりえで、危機に追いつめられるとホウレン草の缶詰を食べて怪力を発する、セーラー服姿のあのポパイが発する決め台詞です。

 この「幼いころに父親に生き別れた孤児で、独立独行、唯我独尊のポパイ哲学」! 良いですね! 皆さんも、これぐらいの自我をもちましょう。「オレはオレだから、オレなんだ」。そのかわり、この言葉を使う限りは、究極の自己責任を問われかねません。「あなたはあなただから、あなたなんですね!」と言われてしまいます。

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#18:“Paris vaut bien une messe.”

 フランス語です。当然、私にはわかりませんが、「パリはミサに値する」という訳があるそうです。と言っても、これだけでは何をさしているのか、(フランス人でない)皆さんにはわからないでしょう。これはフランス、ブルボン王朝の祖、アンリ4世(Henri IV de France, 1553~1610年)が、プロテスタントからカトリックに改宗する時の、いわば政治的キャッチコピーです(愛人だったガブリエル・デストレには、その直前「私は“とんぼ返りを”打つことにする」と手紙で知らせているそうです)。

 フランス王家のヴァロア朝(1328~1589年)は(世界史を履修された方はご存知ですよね?)、イタリアから嫁いだカテリーヌ・ド・メディシスの息子たちが皆、不慮の死を遂げ、とくに最後のアンリ3世は、カトリック同盟ギーズ公アンリ1世、そしてナヴァラ王国のプロテスタント派の王ブルボン家のアンリと、有名な“3アンリの争い”を繰り広げ、1588年5月首尾よくギーズ公アンリを暗殺するも(初期のサイレント映画に『ギーズ公の暗殺』があります)、カトリック派の憤激を誘い、自らも1589年8月1日、ドミニコ派の修道僧に暗殺されます。

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 死の床で、アンリ3世はブルボン家のアンリを呼び、この異教の政敵(ただし、妹マルグリット・ド・ヴァロワの夫)をかき抱いて、「あとはあなたがおられるので、私は安んじて息が引き取れます。王冠はあなたのものです。私の死後、あなたを王と認めることをすべての臣下に命じましょう」と言ってから、

 「あなたが宗旨変えを決意されないと、事態は難しいでしょう、思い切って改宗して下さい・・・」(大野真弓『絶対君主と人民』中公文庫版)

 そのアンリ3世の遺言から4年、アンリはつい改宗を決意、先ほどのキャッチコピーを発して、1594年3月22日、フランス王としてパリに入場します。これがフランス絶対王政の始まりでした。つまり、この言葉を下手に意訳すると、

カトリックに改宗しないと、フランス人、とりわけパリは私を王として認めない事を、私は知っている。フランスを統治する能力をもっている者として、私はカトリックに改宗することで、パリでミサに出席しよう。それがフランス人が望む事ならば、よろこんで改宗したいし、私の真意をカトリックもプロテスタントも理解してくれるはずである

 という、100%政治的発言なのです(ちなみに、愛人ガブリエルはカトリック、アンリに改宗を奨めた忠臣はプロテスタントだったそうです)。

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 なお、マルグリット・ド・ヴァロワは絶世の美貌を噂されていますが(「みんな、王の方など見ないで、彼女の方ばかりみつめていた」という当時の目撃談を、まったく別の服飾史の本で読んだ記憶があります)、アンリ4世とはほとんど形式上の結婚で、夫婦仲は冷え切っていたといわれています(戴冠後二人は離婚、アンリ4世は「肥った銀行家の娘」マリー・ド・メディシスと結婚して、息子ルイ13世-『三銃士』に登場の王です-を得ます)。

 なにしろ、二人の結婚式の6日後、1572年8月24日、カテリーヌ・ド・メディシスの指図とも、上記のギーズ公や(アンリ3世の一代前の)マルグリッドのもう一人の兄で当時のフランス王シャルル9世の指図とも言われていますが、ブルボン家のアンリの婚礼を祝ってパリに集まったプロテスタント系貴族・市民3,000~4,000人が虐殺されるサン・バルテルミの大虐殺があったのですから(アンリはこの時、幽閉され、カトリックへの改宗を強制されますが、その後、脱出、再びプロテスタントに戻ってしまっていました)。

 サン・バルテルミの虐殺をクライマックスに、このあたりの人間模様を映画化したのが、1994年のフランス映画『王妃マルゴ』で、イザベル・アジャーニがマルゴを、後のアンリ4世を渋い立役ダニエル・オートゥイが、そして(娘や息子たち=国王たちも含めて)すべての人間の心を支配・操る“蛇大后(マダム・セルパン)”こと、カテリーヌ・ド・メディシスをヴィルナ・リージが演じています。

  • 完全に脱線ついでですが、司馬遼太郎が明治初期の政治家江藤新平を描いた小説『歳月』では、イギリス公使のパークスが慶応4年、新政府にキリスト教の自由を認めさせようと会談にのぞみ、「日本の国法こそ世界の通念からずれている」と怒号するや、 対応者の(後の総理大臣早稲田大学創始者)大隈重信は敢然と応じて、
  • そのあと展開した大隈のキリスト教論というのはパークスをさえ沈黙させた。大隈は言う。キリスト教の真理であることはみとめる。しかし半面、キリスト教がおびただしい弊害を欧州の歴史に流したことも我々は知っている。「聞かずや」と、大隈はいう。ある欧州の歴史家は「欧州の歴史は戦乱の歴史である」と。而してある宗教家-大隈にひそかに聖書を教えたフルベッキのことだが-「欧州の歴史はキリスト教の歴史である」ともいう。この二つの言葉がもし真実であるとすれば、キリスト教の歴史はすなわち戦乱の歴史である。(中略)フランスのユグノー教徒の乱を見られよ、セント・バーソロミューの新教徒2万人の虐殺を見られよ、これらの歴史を貴官はどう見られるか。(略)
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  • (この男は、欧州史を知っている、もしくは知っていることを最大限に生かす能力を持っている)パークスはそのことに驚いた。(中略)この若い男が、どこでこれだけの知識を仕入れてきたのであろうか」(司馬遼太郎『歳月』講談社文庫版より)

 なお、大隈が7割方は怒号してひきわけになったというこの会談のしばらく後、新政府に金がないことを知った大隈は、「それではイギリスの銀行に借りる。そのことについてパークスを保証人にする」と言いだして、同僚たちを仰天させます。

 しかし、当のパークスは大隈の訪問に「君は、私がこの国にきて会ったいかなる日本人よりもすぐれている」と言い、事情を聞くと「私は官吏としてはオリエンタル・バンクに特別な行動をとることはできないが、一私人としてこの問題の斡旋者になろう」と応じたと続きます。

国際関係に進みたい方は、是非、この大隈の交渉態度(タフ・ネゴシエーター)を見習ってください。ちなみに、大隈重信この時ほぼ30歳。

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 さて、アンリ4世に話を戻して、この方はいにしえのローマの英雄、ユリウス・カエサルにまさるとも劣らないキャッチ・コピーの名手で、その点については、19世紀のフランスの小説家モーパッサンのエッセイ『水の上』でも激賞されています。そこで、手元にあったはずの『水の上』の文庫本を探したのですが、見つからない! それで、まったくのうろ覚えですが、

 #19:余が王である間には、民人たちが日曜日ごとに鳥鍋を食べることができるようにしたいものじゃ。

 この名セリフもあってか、フランス人は鳥鍋の匂いにアンリ4世を思い出し、暗殺後400年たった今もフランス人にもっとも人気がある王だということです。それと、一説によれば56人にものぼる“愛人”がいたという、いかにもフランス人好みの話題の主(ツルゲーネフの名作『煙』の台詞を思い出します)。なかなかのキャラです。ちなみに、この“鳥鍋”はフランス語で“ラ・プール・オ・ポ”、雌鶏1羽分を玉ねぎ、にんじん等と土鍋でことこと煮込むもの(粘り気をだすため、米を入れることもあるそうです)。

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 それでは、今回の締めとして、フランス語の警句を、

#20:人々を軽蔑すると言うのは、まだ軽蔑の仕方が足りないからである。沈黙こそ、唯一至上の軽蔑だ。-と言う事だって既に言いすぎである。

 小林秀雄の『近代絵画』からの孫引きですが、19世紀フランスの最高の文芸評論家(ただし、自分がついに創造の世界に手をだせなかったあまり、嫉妬から、作家への批評がきつかったともささやかれている)サント・ブーブの言葉です。これも完全に“自己責任”の世界かもしれません。

高畑ゼミの100冊Part18:Yuriko’s adventure in Wonderland

2010 8/19 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ 

 今回の紹介は、少し以前の投稿(「高畑ゼミの100冊Part9;食について#2『江戸たべもの歳時記』そして『仰臥漫録』(2009/12/21投稿)に書籍番号#53として名前だけ出した武田百合子の『富士日記』から始めたいと思います。

書籍番号#53:武田百合子『富士日記』:昭和39年(1964)7月4日、小説『ひかりごけ』『富士』等の作者武田泰淳は富士のふもとに山荘を開きます(時、あたかも、東京オリンピック直前)。そして、一冊の日記帳をおき、その見返しに『不二小大居百花庵二期 武田泰淳』と書きつけます。この日記はしかし、泰淳に「おれと代わる代わるメモしよう。それなら続けるか?」と言われた夫人百合子ほとんど一人によって書きつづられることとなり、その末筆は昭和51日(1976年)9月21日、泰淳が死ぬのがその10月5日のことです。

 この(まったくの私的な家族)日記が世に出たくだりについて、当時中央公論社の編集者だった(現在作家)村松友視が次のようにあかしています。

 「(泰淳の)お通夜の日にね、(略)塙嘉彦さんという編集長が「村松君ね、百合子さんの山荘日記みたいなのが溜まっているらしいだけど、それを『』に連載するっていうのを頼まない?」と言うのですよ。(略)僕の方はそれを聞いてむしろすごく不愉快になちゃってね、「イヤだ」っていっちゃたんですよ。それで塙さんが百合子さんに頼んだら、即座にOKしてくれた」

 「お通夜の夜の未亡人とね、塙さんが降りって行って、その話がトントンってきまった。そのことを僕が塙さんから聞いて、階段を降りようと思ったら、下から百合子さんがすれ違いざま、「村松さん、勇気がないのね」って言ってすっと行っちゃた

(作家川上弘美との対談『武田百合子 天衣無縫の文章家』文藝別冊より)。

 本当は、これ以上何も付け加えたくないのですが、プロの世界ですね! 亡夫の葬式の席で、(それまでまったく文章を発表したことのない)未亡人に、その夫の思い出がこもる文章の執筆を薦めることを思い立ち、それも出入りの若い編集者に花を持たせようと勧めるも、若造に拒否されるとそのまま直接交渉する編集者も編集者なら、その依頼をその場でいともたやすく引き受ける武田百合子も、どうしようもなく“武田百合子”!

 これが、近代出版ジャーナリズムにおける著者と編集者の関係なのだと、出版業界にご関心がある方は、是非、覚えていて下さい。 

 Wikipediaによれば塙嘉彦は、ガブリエル・ガルシア=マルケスマリオ・バルガス・リョサを日本に紹介。筒井康隆に純文学を書かせ、小林信彦には「カート・ヴォネガットのような『想像力の文学』を書いたらどうか?」とアドバイスし、塩野七生には担当編集者としてもっとも信頼されていたとのこと。編集者になったら、ここまでいかなければ!! 

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 さて、 その『富士日記』で展開されるのは、夏目漱石の『吾輩は猫である』の主人公、珍野苦沙弥先生と珍野夫人の珍妙なやりとりを思わせる不思議な世界です。『総合政策の100冊・書評編』の『我が輩は猫である』を再録すれば、「漱石がなれ親しんだイギリス文学にしばしば見られるように、筋らしい筋はありません。そこで描かれている「高等遊民の遊び」のような世界は、実のところ、漱石の頭脳に積み上げられた近代的知識と、それを消化しきれない当時の(今も?)日本を対比させます。

 例えば、(漱石の一分身である)主人公の珍野苦沙弥先生は、奥さんに書物の大事さを説教すべく、『ローマの歴史』にも登場するタルクィニウス驕慢王を例にだしますが、奥さんの方は漱石のもう一人の分身、美学者迷亭先生を相手に“タルクィニウス”を“樽金”と呼び、あまつさえ「私は唐人の名はむずかしく、覚えられませんわ」とうそぶきます。これらのやりとりは、知識人(苦沙弥先生)のある種の傲慢さ(苦悩の裏返しでもありますが)と、庶民(奥さん)のたくましさの対照の妙とも言えましょう。逆に言えば、漱石は自らの滑稽さを冷静に眺めることのできた希有な文化人なのです」。

 その『吾輩は猫である』から60年後、かつて漱石が幾人もの人格に“分裂”しながら表現した日本の近代化における自我の確立・対立(?)を、一介の主婦武田百合子は、小説家にして中国文学者、一代の碩学ともいえる武田泰淳を相手役に、インテリどもを軽々と笑い飛ばしながら(もちろん、亭主としては愛しながら、ですが)具現化します。

 つまり、この『日記』は、漱石的存在に対する鏡子夫人的目線での近代日本批判の書、とはいえ、永井荷風より一見おとなしげにふるまいながら、かつ権威批判に満ちた、いわば“Yuriko’s adventure  in Wonderland”です。

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 しかも、(高名な作家と言うよりは、アル中で、自己チューで、傲慢で、かつ恥ずかしがり屋で、見栄っ張りで、かつ投げやりな)旦那武田泰淳が投げる大暴投まですべてキャッチする離れ業! どちらが主役で、どちらが従者か、それ、にわかには見定めがたく、ちゃうどドン・キホーテとサンチョ・パンザ、ガルガンチュワとパニュルジュの関係のようです。 おそらく、いまはなき中央公論社発行文芸誌『海』を手にとった読者たちは、「なんだ、泰淳の嫁さんか、変な日記だな!」と思いながら、いつしかこの主客転倒の混乱の世界(Wonderland)にまきこまれていく。これがYuriko’s Worldの記念すべき出発点でした。

昭和三九年(1964)八月十二日  (中略)

  (註:中国文学者の竹内実氏らが来訪)今日は毛沢東の詩についての本を出す相談にこられて、ビールを一杯皆で飲んだ。毛沢東の詩の話はあまりしないで、戦争のころの話などをした。

 私「今度戦争がはじまったらを一杯するんだ。この前のときはまだ女学生だったでしょ。自分では何もできなかったけど、闇のやり方は見ていたから今度はできる。政府の言っていることと反対のことをやるようにする。敗戦後は闇商売やったけど、それでもあまりうまくなかった。今度はうまくやるから」 

主人「ウフフ。水爆があるってことしらないのかな」 

竹内さん「ぼくは中国うまれでしょ。中国育ちで、この前の戦争のときは物資不足とか食料なんとか買い出しとか、内地の経験がないでしょ。闇の買いだしなんかできるかなあ。とてもできそうもないですねえ。心配だなあ。そうなったらやり方がわからないし、大へんだなあ」と、おだやかなゆっくりした口調でいう。竹内さんは上品だなあ。 

  知識人は天下、国家を論じながら(現在、放映中の『竜馬伝』を見てください)、自分では何もできない。その典型が横井小楠(もちろん、武田泰淳も)。それらあまた論客たちの中で、地面からなかなか足を離せないのが三菱の創設者岩崎弥太郎だとすれば(=インテリなのにね!)、庶民感覚でみんなの考えを遥かに飛び越すのが坂本竜馬勝海舟という構図です(二人はそれぞれ小普請組郷士=いわば庶民出身者ですから)。そして、その100年後、庶民代表の武田百合子はあくまでもふてぶてしく生きることを主張し、真の文化人たる竹内実は己の危うさを自覚している、という構図です。 

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 さて、正岡子規の『仰臥漫録』が、彼の生への執着の象徴として、日々の“食”へのこだわりを見せ、永井荷風が『断腸亭日乗』で戯作者三昧の合間に食へ言及を書きとどめたとすれば、武田百合子はむしろたんたんと日々の食事を書きつけます。

 それも、日記が進むにつれて、記述はシュールレアリスティックなまでに、洗練されていくのですが、そこには泰淳とのやりとりや、世間の流れがふいにはさまり、そして、時折、鋭い批評が散りばめられます。

昭和四一年(1966)四月九日(土)晴、午後よりくもり夕方雨(略)

  朝ごはん ごはん、海苔、うに、ひらめでんぷ、牛肉の煮たの、みそ汁(略)

  ひる お好み焼き(中味は、さくらえび、牛肉の刻んだの、ねぎ、青のり)、スープ、キャベツ炒め

  そのあとで、へそまんの残りをふかして食べる(略)

  夜 ごはん、塩鮭、さつまいも味噌汁、夏みかん。赤坂もちも食べる。黄な粉の残りをポコ;武田家のペットの犬)は喜んでなめる。

夕食のときのラジオ。<南ベトナムの反政府運動はますます盛んとなり、今夜から明日は危険な状態となっている。ダナンも反政府運動についた第一軍団の対空砲は、つつ先が米軍基地に向けられている>

  それでは、『仰臥漫録』から、結核性カリエスによって死期がせまる正岡子規の食事について、

 (明治34年)十月廿六日 晴  (中略)

 食事は相変わらず唯一の楽であるがもう思うやうには食はれぬ。食ふとすぐ腸胃が変な運動を起こして少しは傷む。食ふた者は少しも消化せずに肛門に出る。

 さしみは醤油をべたとつけてそれを飯または粥のうえにかぶせて食ふ。

 佃煮も飯または粥の上に少しずつ置いて食ふ。

 歯は右の方にて嚙む。左の方は痛くて噛めぬ。

 朝起きてすぐ新聞を見ることをやめた。目をいたはるのぢや。人の来ぬ時は新聞を見るのが唯一のひまつぶしぢや。

 食前に必ず葡萄酒(渋いの)一杯飲む。クレオソートは毎日2号カフセルにて六粒。

  ついで、『断腸亭日乗』昭和20年8月18日、すなわち、敗戦の3日後、疎開先の岡山での永井荷風の日常は、

  食料いよいよ欠乏するが如し、朝おも湯を啜り昼と夜とには粥に野菜を煮込みたるものを口にするのみ、されど今は空襲警報を聞かざることを以て最大の幸福となす、夕飯の後月よければS氏夫婦と共に山門神社の山に登る、涼風水の如し、帰途染物屋の老媼に逢う、此の媼親切にて世話好きと見え余が宿泊する貸二階の周旋をなせしのみならず其後も絶えず野菜小麦粉などを贈り来れり、此夜胡瓜の塩漬をもらう 

 さらに、高度成長期に劇作家・小説家・映画評論家・食愛好者として一世を風靡した池波正太郎の「食日記」を、『食卓の情景』から引用してみましょう(1970年代初期前後)。

 第一食は中華風の卵スープにオムライス。

 散歩を終えてから外出。「ジョニーは戦場へ行った」の試写を見る。(中略)

 帰宅して、夕飯は、ハマグリを入れた湯豆腐。 

 湯豆腐には大根をうすく切ったものを入れると、豆腐が白くふっくらと、おいしく煮える。まことに食物の取合せはふしぎなものなり。

 冷酒を茶碗で三杯。

 ハマグリのフライとソーセージに切れ目を入れて網で焼いたのを辛子醤油で食べる。

 夜は小説新潮の連載「剣客商売」を二十枚進める。

 寝しなに、京都・五条の[野村屋]の千枚漬で、水割りウィスキー二杯。ぐっすりねむる。 

 さて、『富士日記』に話を戻して、日記中もっとも心に残るシーンの一つは、体調を崩した泰淳に、百合子が「糖尿病にはカロリーをとっては駄目」と宣告して、「おせんべ沢山食べてビール沢山飲むと、ほかのもの減らすよ」と叱ると、泰淳は、

 しばらくして、うっすら笑いながら「食べ過ぎると毒、のみすぎると毒、あの食べものは体にわるい-医者や新聞はいうがな。公害だから、この海の魚は毒、東京の空気はわるい-学者もいうがな。おれはそういうのはさっぱり判らん」

 「・・・・・・」

 「生きているということが体には毒なんだからなあ」 

 とつぶやくくだりです(昭和47年6月24日)。皆さん、泰淳の最後の台詞の意味がわかりますか?

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 その武田百合子が、ある日、突然、泰淳に「(親友の)竹内好と百合子とおれで旅行しておきたいと思っていたんだ。それに三人で行けるなんてことは、これから先、まあないだろうからな」と誘われて、旧ソ連に「F旅行社企画の“69年白夜祭シルクロードの旅”」にでかける旅行記が、第2作『犬が星見た』です。 

書籍番号#76:武田百合子『犬が星見た』:「つれて行ってやるんだからな。日記をつけるんだぞ」と泰淳に言われ、昭和44年6月10日から7月4日まで、泰淳・好も含めた同行者たちの立ち居振る舞い、旧ソ連の名所旧跡、インテリ二人の想いと、ガイドもふくめ現地の人々の肌触り、克明にも、かつ投げやりにも、微に入り細をうがつつ、ちょうど中央アジアのゼラフシャン河の流れのように過ぎていく時間・・・・・.。

 なお、『犬が星見た』というタイトルは、中公文庫版あとがきによれば「仕事部屋の掃除をしながら、ものめずらしげに本を覗いてる私を、武田はおかしがったものである。「やい、ポチ。わかるか。神妙な顔だな」」とからかったことに、由来するようです(もっとも、異説もあるようです)。百合子たちは「まことに、犬が星見た旅であった。楽しかった。糸が切れて漂うごとく遊び戯れながら旅を」します。

 旅の始まりは船です。横浜大桟橋からハバロフスク号に乗船して、ナホトカまで(当時、ウラジオストクは軍港で、一般人は立ち入り禁止。日本人のシベリア旅行はナホトカが出発地)。乗船してまもなく、昼食後、泰淳は目ざとく酒場を見つけ、早くもアルコールを摂りながら(旅行中、絶えず百合子に酒屋を探させ、ほとんど飲み続けています。酒が手にいればあたりはカラー写真、酒が切れればモノクロ写真、というわけです)。

 「百合子。面白いか? うれしいか?」ビールを飲みながら主人が訊く。

 「面白くも嬉しくもまだない。だんだん嬉しくなると思う」と答える。

 ・・・5時からサロンで映画会。私は眠りたいので行きたくないが、「一緒に行こう。一緒に行こう」と主人が誘う。

 「きっと文化映画だよ。タメになる映画だよ。眠いから行きたくない」と言うと、

 「さっき船に乗ったばかりの癖に、もうバカにする。そんなこっちゃ行かんぞ。なんでも馬鹿にしてはいけない」とにらむ。  

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 こうしてはじまったこの旅の同行人中最大の傑人は、参加者中最長老の“銭高老人”(おそらく1705年創業の中堅ゼネコン“銭高組”元会長故錢高久吉翁ではないでしょうか? 関西圏の美術館や博物館で、ところどころに翁寄贈の美術品の寄贈を見たような気がします)にほかなりません。

 同行の人士、泰淳、好は知識人インテリとしてやはり“はずれた方々”であるとはいえ、それは一種想定内。しかし、戦前から大陸を彷徨、大阪では大名暮らしをしているのに、齢80歳を越してただ一人ツアーに参加しているこの老人は、世間をほかの方とはちょっと違った角度から見ることにおいて、百合子と相通じることが、やがて文章のはしばしに滲み出てきます。

 ハバロフスク最後の夕食に、ペリメニが出て、

 ペリメニがここのホテル独特の自慢料理だ、と女給仕は説明した。

 「メリケン粉の蓋や。この焦げ具合で中身の塩梅がわかるんや。この壺は見事じゃ。わしゃ欲しい!!」私の向かいに座った銭高老人は上機嫌で叫んだ。蓋も食べようとしていた私はやめた。(中略)

 「東京のお人は勲章がお好きでんな。文化勲章やら何やら。わしら、あないなもん。何ともありまヘンな」竹内さんも主人も私も、勲章をもらったこともないので、おかしがってきいている。

 

 「おいおい。タバコをくれ」銭高老人は女給仕に平然と日本語で注文し、まるで違うものを出された。水だった。

 「ちがうがなあ。タバコじゃあ」老人は、また日本語で、なさけなさそうに怒った。  

 そして、旅の終盤にモスクワで一行が解散、自由行動に出るまで、銭高老人の決め台詞「えらいもんや。たいしたもんや。わしゃ前からよう知っとった」が、旅の基調低音として、絶えず流れます。

  定規でひいたような一直線上に、ぽつんとあるもの。汽車かしら、家かしら、少し動いているようだから汽車かしら。銭高老人はもう見つけて声をあげる。

 「汽車が走っとるわ。汽車が走っとるわ。えらいもんや。えらいもんや。こない仰山な砂ん中を。よう走っとる。ロッシャはたいしたもんや」

  (朝の散歩中、共同水道から自動車のラジエターまで、水を何度も運ぶ男を見たという話を百合子にしながら)

 「何度も何度も繰り返してやってまんがな。汗流しながら。気の長い話じゃ。えらいもんじゃあ。何度も何度も、長いことかかりましたんや。わし、汲み終るまで見とったんじゃあ。えらいもんじゃあ。えらい国や。たいした国や。ロッシャはえらい国や。わしゃ、よう知っとった」

 暑さでぼんやりときいていた一人が、

 「はああ、40年まえは、そんなでしたか」と、まちがった相槌をうった。

 老人は、

 「いまじゃがなあ。今朝のことじゃがなあ。わし、今朝、散歩しとって見たんじゃあ。今の話じゃあ」と、まどろっこしそうに泣き声になって主張した。 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 旅はいつかは終り、皆、モスクワからチリチリばらばらになって、己の人生に戻っていきます。旅のあと、ほどなくして病をえてから、もう旅もすることなく死んだ泰淳と好を振り返り、百合子はあとがきを以下のように結びます。

  帰国の折の飛行機は、そのまま宇宙船と化して軌道にのり、無明の宇宙を永遠に回遊している。(中略)船内で、二人は、何て楽しげに酒をのみつづけているのだろう。その酒盛りには、もう一人、旅行後やはり世をさられた、私の大好きな銭高老人も加わっていて。

  わたしだけ、いつ、どこで途中下車したのだろう。

  昭和54年 春

生き物を紹介しましょうPart3:マダガスカルの不思議な生き物#1

2010 8/13 総合政策学部の学生の皆さんへ

 今回は、マダガスカルの生き物の話をしたいのですが、まことに残念にも、今や彼らは風前の灯火状態である、という話から始めなければなりません。まず、生物地理学的には、マダガスカルは長期間にわたって他の大陸と接触せず、ずっと隔離状態のまま今日に至ったと見なされています。

   長さ1570km、最大幅は580km、日本の1.6倍ほどの大きさのこの島は、約6億年前にはゴンドワナ大陸の一部でしたが、ジュラ紀の中・後期(1億6千万年前頃)にアフリカ大陸と分かれ、さらに白亜紀(約1億4550万年~6550万年前)前半、1億2千万年頃にインド亜大陸とくっついた状態で、南極大陸からも離れ、さらに8千万年前には、インド亜大陸とも離ればなれになったそうです(インド亜大陸はその後アジア大陸と衝突、そこにヒマラヤ山脈が隆起します)。したがって、ジュラ紀から白亜紀にかけての陸上生物の大立者、恐竜などはマダガスカルにもいらっしゃたわけです(事実、化石が出てきます)。

 この長い隔離のため、新生代の大半を通じてマダガスカルは大型の食肉獣や有蹄類が生息することなく、この島固有の生物たちにとっては楽園状態でした。原始的なサルの仲間であるキツネザル、あるいはオオハシモズの仲間、地上を走り回るエピオルニスから、リクガメヤモリカメレオン等々です。それが、1500~2000年前、ガサツな二足歩行動物(=ヒト)が、これまた獰猛な四足動物(=ウシ)を連れてこの生物たちの楽園に侵略、その結果、平地はほとんどすべて水田にされ、山はすべてウシの放牧地に変貌して、土着の生物はどんどん追いつめられている(They have been eaten!)、これがマダガスカルの現実なのです。

 それにしても大陸が離ればなれになったり、移動したり、ぶつかったり、壮大な話ですが、これはすべてドイツの気象学者のヴェーゲナー大陸移動説です。思えば、これも一つのパラダイム(「リサーチ&レポート;リサフェへの近道Part3~“パラダイム”という魔法のメガネ~」[2010/07/3投稿])。1915年にヴェーゲナーが発表した際は、「では、なぜ大陸が動くんだ?」というメカニズムを説明できなかったためもあって(今日では、プレート・テクトニクスで説明されています)、トンデモ科学とも見なされ、私が小中学校の頃は、「昔、こんな変なことを考えた変な人もいたんだってさ!」という感じで教科書の片隅に紹介されていました。

 それが、1950年代以降のプレート・テクトニクスの勃興で、一気に“神様”のような存在に変身しました。パラダイム転換恐るべし! ビジネスプランでも、バラダイムが転換すると、あっというまに置いてきぼりにされますので、ご注意を(例えば、百貨店が出現した時の呉服屋、スーパーマーケットが出現した時の百貨店コンビニが出現した時のスーパー、IPodが出現した時のWalkman、etc.)。

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 太古の時代に話を戻して、先ほど述べたように、新生代にはいる前に、マダガスカルは他の大陸から孤立しますが、それまでにたどり着いたいくつかの生物は遠い異国と共通します。その一例がボアです。大蛇と言えば、たいていの方はニシキヘビを連想されると思いますが、ボア科にまとめられるボアは、主に南米に分布しながら、そして一部マダガスカル(マダガスカルボア属とサンジニアボア属)、ニューギニア・南太平洋(ナンヨウボア属)、ユーラシア大陸とアフリカ大陸(スナボア属)に散らばっています。

 と言えば、皆さん、ピンとこられるでしょう。ジュラ紀から白亜紀のゴンドワナ大陸の分裂で、それぞれの地に“ちりちりばらばら”になった末裔たちであり、ある意味、ヴェーゲナーのパラダイムの勝利の徴(しるし)でもあるわけです。実は、私の調査地、マダガスカルのベレンティ私設保護区で、主な観察対象のワオキツネザルCX群の遊動域のどまんなかに、このマダガスカルボアの巣があり、毎朝、穴からずるずると出てきては、全長2mほどの全身をとぐろに巻いて、ひなたぼっこしていました。ヨーロッパ人の観光客を案内するガイドたちは大喜びで、毎日、このボアを白人客に披露してはチップを稼いでいたものでした。

マダガスカルボアの画像のURLは http://en.wikipedia.org/wiki/File:Acrantophis_madagascariensis_(3).jpg

 さて、マダガスカルは爬虫類と両生類の宝庫です。皆さん、おわかりですね! 他の大陸からあまり哺乳類が入り込まない状態で別れたものだから、この天地で、生き残った爬虫類や両生類が種分化適応放散したわけです。この結果、マダガスカルに生息する淡水魚・両生類・爬虫類はその90%がマダガスカルの固有種です。哺乳類も80%以上、鳥類も50%以上が固有種です。

 これは植物も同然で、最近、日本でも園芸種としてよく目にするニチニチソウ(学名:Catharanthus roseus)はマダガスカル原産ですが、ビンブラスチンビンクリスチンという2種のアルカロイド(窒素原子を含み、塩基性を示す天然の有機化合物。強い生理活性を示し、植物毒の多くがアルカロイド)がとれ、これが悪性リンパ腫急性白血病の特効薬であり、製薬会社は年間数百万円の売り上げをあげているということです。

 ◆マダガスカルを広く紹介しているマダガスカル研究懇談会(私も世話役の一人です)のHPのURLは http://www.africa.kyoto-u.ac.jp/~malagasy/index.html です。また、サンフランシスコ動物園に本部を置く、マダガスカルの動物保護に関するマダガスカル・ファウナ・グループのHPのURLは、http://www.savethelemur.org/ です。

 さて、マダガスカル特産の爬虫類としてとくに有名で、かつ密輸や不法取引の対象になってしまうのが、ホウシャガメ(別名、ホシガメ)です。写真のURLは http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Astrochelis_radiata1.jpg です。実は、何年も前の話ですが、ある県警から電話がかかってきて、捜査協力依頼なのです。

  何かと言えば、ワシントン条約違反のうたがいで、ある方が逮捕された。自供では、自宅にはサルを飼っているとのことで、ワシントン条約違反の種かどうか鑑定してくれ、というものです。

 どうして発覚したのか、尋ねたら、やはり周囲の情報で密かに内偵を進めていたところ、覚悟の上か、「昨日、マダガスカルのカメ(つまりホウシャガメ、もちろん違反品!)を抱えて、出頭してきたのです」というお話でした(サルも、南米の小型サル類(コモンマーモセット)など、しっかり違反品でした)。ただし、飼っていた檻など見ると、非常に丁寧に世話されている様子で、本当に“愛好家”だったと見受けられました。きちんと手続きを踏んで飼えばよいのにね、と思わざるを得ません。

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 余談が過ぎたようですが、ヘビやトカゲ、ワニ、ヤモリが苦手の人でも、カメと同様、目を細めるかもしれない爬虫類がいます。それは先ほども触れたカメレオンです。実は、マダガスカルはカメレオンの宝庫、3属64種類ほどに分けられているようですが、たぶん、(他の爬虫類も含めて)新種がまだまだ出てくるでしょう。なお、カメレオンは、ほとんどの種がワシントン条約に掲載されているので、不法な飼育は厳禁です。世界最小(メスで全長34mm、オスで28mm)のBrookeshia minimaの画像のURLは http://naturacuriosa.blogspot.com/2008/11/el-camalen-ms-pequeo-del-mundo-el.html です。一方、世界でもっとも巨大なウスタレカメレオンFurcifer oustaleti(オスの全長685mm)の画像のURLは http://en.wikipedia.org/wiki/File:Cam%C3%A9l%C3%A9on_Madagascar_02.jpg です。

  •  ◆それにしても、どうしてヘビやトカゲは嫌われるのに、カメやカメレオンはそれほどでもないのか? 不思議ですね(リスも、ネズミと近縁なのに、樹上生活のリスだけがなんとなく霊長類に姿勢も仕草も似て、おまけにしっぽもふさふさで、好かれてしまうのを思い出します)。  最近は、NHKの「みんなのうた」にまで「みならいカメレオン」として登場していますね(作詞今泉朋子、作曲戸田ダリオ)。一番だけ紹介しましょう。
  •  
  • おいらは みならいカメレオン  まだまだ 未熟なものですが
  •   いろんな色にそまります     日々これ 修行にござります~!
  •    あ、ひぃ、あ、ふぅ、あ、ひぃ、ふぅ、みぃ、よっ!
  •  
  •  ごはんはしっかり 噛めレオン   残さずペロッと 食べレオン
  •   歯みがきシュパッとピカレオン
  •    エビバデ~エビバデ~ロックンロール! イエイ!・・・・
  •  

  さて、カメレオン以外でもさらにいろいろ登場です。次はヤモリの仲間ですが、なぜか、しっぽが平べったい(=木の葉っぱの形に似ている)ヘラオオヤモリ属等いかがでしょうか? 画像のURLを下に貼り付けます。

   というあたりで、今回もずいぶん長くなってしまいました。このあたりでto be continued にしたいと思います。最後は、どういうわけか、アフリカ大陸と同じ種がいるナイルワニ! それにしても、どうやってアフリカ大陸から流れてきたのか? モザンビーク海峡はかなり潮の流れの速いところのはずなのに!

 実は、ベレンティでも、何年か前、保護区の脇を流れる大河マンジャレー川が干上がったとき、水たまりにワニが取り残されて捕獲されたという話です(今は、ベレンティ私設保護区の所有者、フランス系マダガスカル人の大資本家ド・ファームさんの私設動物園で飼われていると聞いています)。 

“植民地”が残したもの:国際援助の現場から#8~タンザニア編Part1

2010 8/6 総合政策学部の学生の皆さんへ

 私がこれまで長期滞在した国はまずインドネシアに2カ月、そしてタンザニアに計3年(そのうち2年間はJICAの派遣専門家として、一応ODAの末端)、マダガスカルに計4カ月。いずれもかつての欧米の植民地を経験しています(それぞれオランダ、ドイツ・イギリス、フランス)。

 マダガスカルはそれでも植民地になる前に、メリナ王朝ラダマ1世による征服・統一を経験しています。

 一方、タンザニアとインドネシアはむしろ植民地という枠において、国家形成をした国です(「スマトラで感じたこと:フィールドについてPart3~ネーション・ビルディングを中心に」[2010年7月12日投稿] 参照)。

 そして、それぞれの国には、旧宗主国が残していった爪跡がそこここに残っていました。今回はそんな話をしてみたいと思います。

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 それでは、まず、タンザニア。現在のタンザニアは、実は二つの植民地からなっています。一つは、1499年にヴァスコ・ダ・ガマがインドへの航海の際に訪れ、その後ポルトガル人が入植、そしてヤアリーバ朝等のオマーン人がポルトガル人を追い出して占拠するインド洋の島々、ザンジバル。そしてもう一つはアフリカ本土のタンガニーカ。

 ザンジバルは結局、1832年の(1714年から現在も続く)ブーダイード朝のスルタンサイイド・サイードの遷都と、サイイドの死後の分裂による、スルタンの弟バルガッシュが分離独立したザンジバル・スルタン国の成立を経て、1890年イギリスの保護領化(スルタンはそのまま残る)、1963年にいったんイギリス連邦一員として独立します(ザンジバル王国)。

 しかし、オマーン人の長年の支配に対するアフリカ大陸系人の怒りは、1964年1月12日ザンジバル革命として爆発。

 たった8時間で成立したもっとも短い革命といわれていますが、この後、5000~12000人のアラブ系住民が虐殺されたとも言われています。

 その結果ザンジバル人民共和国が成立しますが、すぐに本土のタンガニーカとの合併によってタンザニア連合共和国が成立する、というある種めまぐるしい足取りです。

 なお、ザンジバル生まれの有名人に、ロック・グループ“クイーン”のボーカリスト、フレディ・マーキュリーがいます(彼はイスラームへの改宗を拒否したゾロアスター教徒のペルシア系民族パールシーの末裔として、1946年、ザンジバルの世界遺産ストーン・タウンに生まれ、1991年、HIV感染合併症で死亡します)。

 ・フレディ・マーキュリーのユーチューブです http://www.youtube.com/watch?v=lDckgX3oU_w&feature=related

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 ザンジバルに拠点を確保したアラブ人(オマーン人)の奴隷商人たちは、本土のタンガニーカを蹂躙します。最後は、コンゴの東部まで我が物顔で奴隷を集めますが、そこがスワヒリ語(コンゴ東部ではキングワナ語と呼ぶ方言ですが)の分布の西端になります。

 1811年、ザンジバルを訪れたイギリス人T・スミーはこう書き残します(アラン・ムアーヘッド『白ナイル』(篠田一士訳))。

 「市は午後の4時頃はじまる。奴隷たちは体を洗い、ココナツの油をぬられ、顔には紅と白の絵の具で縞文様の化粧がほどこされ(ここではそれがエレガントなことだと考えられていた)、さらに手や鼻や耳や足は、金銀宝石の装飾具できらびやかに飾られ、みな少しでもよく見せようとしていた・・・・奴隷の持主は謡うような調子で、自分の奴隷の美点と、彼らを手に入れるために払ったと称する金額を叫ぶ・・・・私が見たかぎりではたいていの奴隷は元気のない顔つきをしている・・・・こうした情景を目の前にすると、私たちはあわれみといきどおりを感じて目をそむけざるをえない」

 ちなみに『白ナイル』によれば、「1858年には、ザンジバルで男の成人奴隷は一人について4ポンドから5ポンドで売れたし、女の奴隷ならばもっと高値で売れたのだ。当時、毎年2万から4万の奴隷がこの島に輸入され、そのうちの3分の1はここの農場ではたらかせるためにとっておき(これは合法的だ)、残りは法の網をくぐってアラビア、ペルシア、エジプト、トルコ、さらに遠方まで輸出されたのである。もちろん、内陸地帯の部落から海岸までの長旅を行った奴隷たちのなかには、多くの落伍者が出たし、男性奴隷のうち約30%はザンジバルで毎年病気と栄養失調のために死んでいった」。

・世界遺産ストーン・タウンの画像のURLはhttp://whc.unesco.org/en/list/173/gallery/

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 そのタンガニーカは、1884年、ドイツ植民協会の創設者カール・ペータースによって保護領化が進み、ドイツ帝国宰相ビスマルクの支援のもとに1885年にはドイツ東アフリカ会社が設立、1888年のベルリン会議ドイツ領東アフリカとして認められます(イギリスのビクトリア女王はケニアを、孫にあたるヴィルヘルム2世がタンザニアをそれぞれ取り分ける、という形をとります)。

 この会議によって、例えばタンザニアの西の国境であるタンガニーカ湖は(私はその東岸に3年ほど暮らしたわけですが)、ぐるりとまわる湖岸をタンザニア、ザンビア、コンゴ、ブルンジの4カ国に仕切られることになる。もちろん、住民の意思などお構いなくです(「“国境”とは何か? アフリカで考えた事:国際援助の現場で#5」(2010/01/23投稿)をご参照に)。

 すぐにアフリカ人からの異議申し立て、たとえば1905~08年には、綿花の共同栽培と強制労働に反対してマジ・マジ戦争が起きます。結果としては、植民地政府側の犠牲者が数百人であるのに対して、アフリカ人側は数十万人に上ったと推測される、一方的な結果には終わるのですが。 

 こうしたドイツ支配は、1919年のベルサイユ条約まで続き、その後イギリスの保護領を経て、1961年ダンガニーカとして独立することになります(スワヒリ語で独立をUhuruと呼びます)。

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 私がタンザニアを訪れたのは1979年、ベルサイユ条約からすでに60年、その私がドイツ東アフリカ植民地を実感したのは、ある日、タンザニア中央鉄道の終着駅、キゴマの駅近くの線路脇を歩いている時でした。

 Wikipediaによれば、ドイツのタンザニア経営において、鉄道は1888年(日本では磐梯山が噴火した年ですね)に始まり

  「もっとも路線の長いタンザニア中央鉄道はダルエスサラームからモロゴロ、タボラを経由しキゴマに至る全長1,250キロメートルに及んだ。レーヒェンベルクは内陸部での換金作物導入を促すため鉄道建設を優先させ、最終的にタンガニーカ湖東岸まで開通したのは1914年7月で、それを記念し大規模で賑やかな祝典とともに農産物の見本市と貿易博覧会が首都で開催された。

 鉄道開通とインド人商人の働きなどにより内陸部で換金作物が急速に普及したが、鉄道建設はドイツ国庫からの建設借款により行われていたため、植民地政府は借款返済の大きな負担を抱えることになった。1914年の植民地政府歳入の32パーセントが借款返済に当てられていた」(Wikipeida)。

 お気づきですか? 1914年7月! 開通の直前、6月28日がサラエボ事件、7月28日にオーストリアによるセルビアへの宣戦布告、そして第一次大戦勃発(キゴマにこの報が届くまで、当時、どのぐらいかかったでしょうか?)、このあと、ドイツ領東アフリカ(その大半はタンガニーカ)は植民地防衛隊司令官パウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍の指揮のもと、全土でゲリラ戦を展開します。

 フォルベック将軍は侵攻するイギリス軍等に対して、ゲリラ戦、迂回線、焦土戦を展開、しばしば戦術的勝利をおさめ、イギリス領東アフリカ(北ローデシア)の一部までも占拠するなど、「イギリス軍をアフリカに釘付けにして、西部戦線をできるだけドイツ軍に有利な情勢にもっていく」という戦略目標を貫徹してします。

 こうしてフォルベックはゲリラ戦における戦術と戦略の両立を打ち立てます。この戦略は抗日戦争における紅軍インドネシア独立戦争、そしてキューバにおける革命軍等の先駆とも言えましょう。

 こうしてフォルベックはなんとアフリカ大陸を舞台に、幾多の連合軍を敵にまわして、ベルサイユ条約まで降伏することなく闘い続けます。みごとな戦略目標の貫徹。

 しかし、それは同時に、現地先住民およびドイツ系植民者の生活を破壊することでもありました。

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 さて、1979年に私が気付いたのは、鉄道の枕木です。タンザニア中央鉄道の枕木は鉄でできています。理由はおわかりですね? 熱帯で、木の枕木を使えば、シロアリに食べられ、ぼろぼろになる! 

 その鉄製の枕木の表面に、まず「1907」という刻印を、そしてさらに別の枕木に「1908年 Krupp」と見つけたのです。70年前、ドイツの重工業メーカークルップから、はるばる赤道を越えて、莫大な資金をかけながら、インド洋沿岸からキゴマまで敷き詰められた鉄の枕木。

 その完成こそがドイツ東アフリカ植民地の落日を告げる第一次大戦と重なり、ドイツ軍の勇戦もむなしく、すべてはイギリス人によって召し上げられていったその歴史が、一瞬、目の前に展開した思いでした。

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 なんとこのあたりで、ページが十分に長くなってしまいました。タンザニア編Part2は to be continued・・・・・・としたいと思います。

総合政策のための名言集Part 1:勝海舟、永井荷風、そしてラ・ロシュフコー

2010 8/1 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ

 このブログでは、総合政策を学ぶために役に立つ(?)名言を東西から集めたいと思います。李先生の「今日を生きるための名言集」に対する、世俗編と考えて下さい。

 まずは、幕末から明治にかけての政治家、小普請組から幕府第2代陸軍総裁にまでなりあがり、西郷江戸無血開城の手締めをおこない、明治期にはいると海軍卿、枢密院顧問官等を歴任して、伯爵綬爵、のちに福沢諭吉に『痩我慢の説』で批判される勝海舟から、私の好きなくだりをいくつか。

 #1:勝海舟:どうも、みんな*、人間を生きたものと思わないようだ。ソレデ、ワシは、よくいってやるのサ。どうも、あなた方は人間を死んだもののやうに思って居なさるのが悪い。メシを食ふ、生きたものだから、そのつもりで扱かひなさらねばなりませぬと言うたのサ(江藤淳・松浦玲編『海舟語録』講談社学術文庫版)。    *:高畑註:明治期の(とくに藩閥)政治家たちをさします。

 #2:勝海舟:おれが初めて亜米利加へ行って帰朝した時に、御老中から「其方は一種の眼光を具えた人物であるから、定めて異国へ渡りてから、何か眼を付けたことがあろう。詳らかに言上せよ」とのことであった。そこでおれは「人間のする事は、古今東西同じもので、亜米利加とて別にかはったことはありません」と返答した。ところが、「左様であるまい、何か、かはったことがあるだろう」といって、再三再四問はれるから、おれも、「左様、少し眼につきましたのは亜米利加では、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧で御座います。この点ばかりは、全く我が国と反対のやうに思いまする」と言ったら、御老中が目を丸くして、「この無礼もの控えおろう」と叱ったっけ。ハハハハ・・・・(江藤淳・松浦玲編『氷川清話』講談社学術文庫版)。 

  註:第二次大戦中の米英軍側が、連合国軍と日本軍を比較して「将軍は米英側が圧倒的に優秀、佐官も米英側が優秀、尉官でとんとん、それでも一応戦争になっているのは、日本軍の兵隊が純良なことと下士官の優秀さだ」と評価したという小話を聞いたことがありますが(出典はいまのところ不明)、相通じるところがあるかもしれません。 

註の註:ちなみに“連合国軍”で使われる“連合国”の英語は“United Nations”で、これは“国連=国際連合”の英語“United Nations”と同じことを、皆さんはご存知でしょうか? 

 #3:勝海舟:(足尾鉱毒事件について):鉱毒問題は、ただちに停止の外ない。今になってその処置法を考究するは姑息だ。先ず正論によって撃ち破り、前政府の非を改め、その大綱を正し、而して後こそ、その処分法を議すべきである。しからざれば、如何に善き処分法をたつるとも、人心改然たることなし。何時までも鬱積して破裂せざれば、民心遂に離散すべし(同)。 

 #4:勝海舟コレデオシマイ(臨終の言葉) 

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  勝海舟が、一生の腐れ縁とも言うべき徳川慶喜の宮中参内を根回し、江戸城明け渡しから30年をかけて、旧幕臣の暴発を防ぎ、かつ、かつての主家の名誉回復を達成し、「おれの役目も、もうこれで終わったのだから、明日よりの事は、若い人に頼むよ(『氷川清話』)」と言い残して(明治31年3月2日)、死ぬのが明治32年(1899年)1月21日、享年75歳。

 その46年後、一介の戯作者と己を任じ、市井の陰に密かに隠れ住むことを旨とした荷風散人こと、永井荷風、本名永井壯吉は、39歳から書き続けた日記『断腸亭日乗』の1945年9月28日の項に、昭和天皇と連合軍GHQ総司令官マッカーサー元帥との会見の趣を聴き、悲憤を感じ、かつ幕府滅亡の経緯を回顧し、思わず筆をとって、戯作者の顔のうちに隠したモラリストの一面を滲ませます。

 なお、『断腸亭日乗』は以前のブログ「高畑ゼミの100冊Part9;食について#2『江戸たべもの歳時記』そして『仰臥漫録』(2009年12月21日投稿)」の書籍番号52として、名前だけ紹介ずみです。

 #5:永井荷風:戦敗国の運命も天子蒙塵の悲報をきくに至っては、その悲惨もまた極まれりといふべし。南宋趙氏の滅ぶる時、その天子金の陣営に至り和を請はむとしてそのまま俘虜となりし支那歴史の一頁も思ひ出されて哀れなり。(中略)我らは今日まで夢にだに日本の天子が米国の陣営に微行して和を請ひ罪を謝するが如き事のあり得べきを知らざりしなり。これを思えば、幕府滅亡の際、将軍徳川慶喜の取り得たる態度は今日の陛下よりも遙かに名誉ありしものならずや。今日この事のここに及びし理由は何ぞや。昭和の現代には軍人官吏中一人の勝海舟に比すべき知勇兼備の良臣なかりしがなるためなるべし。我日本の滅亡すべき兆候は大正十二年東京震災の前後より社会の各方面において顕著たりしに非ずや。予は別に世のいわゆる愛国者といふ者にあらず、また英米崇拝者にもあらず。惟虐げらるる者を見て悲しむ者なり。 

 こう書き連ねる荷風はもとより、軍国主義を嫌い、世の偏狭さを厭い、ひたすら戯作に淫する態度をとり続ける者ですが、この4年前、1941年12月8日の日米開戦の項は、以下のように、開戦の報を聴き、暗く沈む彼の心をさりげなく表現しています。

 #6:永井荷風:日米開戦の号外出づ。帰途銀座食堂にて食事中灯火管制となる。街頭商店の灯は追々に消え行きしが電車自動車は灯を消さず、省線はいかにや。予が乗りたる電車乗客雑踏せるが中に黄色い声を張り上げて演舌をなすものあり。

 その荷風81歳の春、1959年、『断腸亭日乗』 の記述はほとんど一行のみとなり、その最後の記述は以下の通りです(死亡確認翌4月30日、胃潰瘍の吐血による窒息死)。

#7:永井荷風:四月廿九日。祭日。陰。

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    荷風の死から遡ること、約300年、荷風が愛したフランスの片隅で、一人のモラリストが人生の野望のすべてを失って、己の半生を振り返りながら、箴言を書き付け始めます。

 #8:ラ・ロシュフコー我々の美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない。 

   これが人間の真理を喝破した傑作とも、「ジャン=ジャック・ルソーからサルトルにいたるまで、後世の多くの高名な読者に反発、怒り、苛立ちを感じさせ、槍玉にあげられる光栄によくしてきた、あくの強い刺激的な古典」(岩波文庫版『ラ・ロシュフコー箴言集』(二宮フサ訳)の訳者による解説文から)とも言われる問題作、『人間考察もしくは処世訓と箴言』です。

 著者ラ・ロシュフコーは、本名ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世(François VI, duc de La Rochefoucauld; 1613~1680年)は、フランスの大貴族の代表として前半生を、ルイ13世からルイ14世にかけての フランス絶対王政確立期にフランスを取り仕切っていた(=一貫して王権強化に務め、有力貴族の骨抜きをはかる)官僚にして枢機卿リシュリューならびにマザランと対立します。

 そして、民衆と貴族勢力が結合して、絶対王政=マザランと対立するフロンドの乱に自家を傾けてまでのめり込みます。しかし、もとより政治的には老獪マザランの敵ではありません。

 フロンドの乱ではあわや片目を失明しかけるほどの大けがを得た上、乱には敗れ、公然の愛人ロングヴィル公爵人アンヌ・ジュヌヴィエーヴ・ド・ブルボン=コンデ(フロンドの乱の精神的指導者とも言われています)にも捨てられる。

 宮廷からも追放処分を受け、すべてを失ったこの挫折が、しかし、ラ・ロシュフコーを一種の思想家に変え、そして、箴言というスタイルで「人間の考察をおこなう」という新しいスタイルを編みだします。

 #9:ラ・ロシュフコー:我々は皆、他人の不幸には充分耐えられるだけの強さを持っている(箴言19) 

#10:ラ・ロシュフコー:太陽も死も、じっとみつめていることはできない(箴言26) 

#11:ラ・ロシュフコー:率直とは心を開くことである。これはごく少数の人にしか見いだせない。ふつう見られる率直は、他人の信頼をひきつけるための巧妙な隠れ蓑に過ぎない(箴言62) 

#12:ラ・ロシュフコー:真実は、見せかけの真実が流す害に見合うだけの益を、世の中にもたらさない(箴言64) 

  • 註:ノーベル賞作家スタインべックの親友、海洋生態学者にして生物標本販売会社経営者、スタインベックの傑作『キャナリー・ロウ』の主人公“ドック”のモデル、エド・リケッツの裁判に参加してみた時の感想「どっち側も勝ちたい一心で真実にはまったく興味がない、それどころか真実に憎しみさえ抱いていたのさ」を想起します(スタインベック(吉村則子・西田美緒子訳)『コルテスの海』序文より)。  

#13::ラ・ロシュフコー:友を疑うのは友に欺かれるよりも恥ずかしいことだ(箴言84)。 

#14:ラ・ロシュフコー:そうと気づかずに自分で自分をだますことは実に簡単だが、それにひきかえ、そうと気づかせないで他人をだますことは、これはまた実に難しい(箴言115)。 

#15:ラ・ロシュフコー:狂気なしに生きる者は、自分で思うほど賢者ではない(箴言209)。 

#16:ラ・ロシュフコー:最高の才覚は、事物の価値をよく知るところにある(箴言244)。 

 こんなふうに引用していくと、際限がなさそうです。皆さんも、是非、この毀誉褒貶甚だしい著作をお読みください。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...