2010年9月

リサフェへの近道番外編:ノーマルとアブノーマル、あるいはナチュラルとアンナチュラル+統計学の奨めPart4(前半)

2010 9/27 総合政策学部の皆さんへ

 リサフェも近いことを踏まえ、リサーチ&プレゼンテーションの例として、何が“普通”あるいは“ノーマル”で、何が“普通でない”≒“アブノーマル”なのか?

 あるいは、何が“ナチュラル”で、何が“アンナチュラル”なのか、というテーマで話したいと思います。

 思えば、ひょっとして“フツー”とか、“アブノーマル”とか考えることはかなり“哲学”的な課題かもしれません。

 例えば、あなた自身は、ご自分を「フツー」だと思っていますか? では、「フツー」とは何でしょう? そして、これらのテーマでリサーチ・プレゼン・レポートは可能でしょうか?

  • ちなみに、かのWikipediaでは、「フツー」という言葉を使う時、関東では「まあまあ良い事だ」=やや肯定的に、一方、関西ではむしろ「とりえが無くて、避けたい」=否定的にとらえる、と書いていますが、本当でしょうかね? 皆さん、どう思います。ご自分を「フツー」だと言う時、関東では「他の人とかわならい」、関西では「とりえもないなあ」ということになってしかねません。
  •  
  •  こうした話題は社会言語学、うちの学部だと陣内先生、あるいは英語ならばHEFFERNAN先生の領域でしょうね。これだけで、プレゼンができそうです。
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 まず、「ふつー」の定義です。Wikipediaでは、「普通」について、以下のようにお書きです。

  • 普通(ふつう)とは、特筆すべき属性を持たない状態の事。「特別」と対比される概念である
  •   

  しかし、これでわかりますか?  一方、『広辞苑』では「①ひろく一般に通じること。②どこにでも見受けるようなものだること。なみ。一般」とあります。こちらはなんとなくわかりやすそうな気もします。

   とりあえずWikipediaに導かれ、それでは「“特別”とは何か?」をさぐりましょう。「特別」の項は以下の通りです。

  • 「特」には抜き出るだとかほかの物より優れているという意味がある。特殊(とくしゅ)ともいう。なお、特別はほかと違うその状態、ある場合にのみ適用されており、重要であるという意味合いも強い。どうして特別であるかといえば、ある特定の人や事物にしか受け入れられないだとか、先述の通り重要であるとか、利用が他と異なるといったことがあげられる
  •   

   なんだか、読んでいても、明晰でないというか、「まあ、どうでもよい」という気になってしまうかもしれません。しかし、それでは、せっかくの話題が台無しです。 

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 それでは、自然科学にとって“フツー”とは何かと言えば、(私の個人的な見解では)ごく単純に「統計的に処理した場合に、“よくある”状態」ということになるでしょう。

 なお、自然科学においては、Wikipediaの「特別」の定義のうち「重要であるという意味合い」等、価値観にかかわるものは一切排除します。たんに、統計的事実のみ、「よくある」か、「あまりないか」の判断だけです。

 そこに価値感が加われば、応用科学なり、社会政策のレベルになってしまいます。

 ということで、統計がまたもや登場します。以前のブログ(例えば、「統計学の奨めPart 1:なぜ“統計”などというものを勉強しなければならないのか?(2010/04/26投稿)」では、何やら生きるために必要なスキルという感じでお話ししましたが、ここでは、あなたが“フツー”にお使いの言葉に、どんな意味を込めているか、それも統計でしか判断ができない、ということになります。

   さて、統計では、一つのことを調べます。例えば、人間の身長でもよい。あるいは皮膚の色でもよい。指紋のタイプでもよい。もちろん、テストの点数でもよい。何でもデータです。できれば無作為に、そして大量にデータを集める。

 こうして大量にかつ無作為にデータを集めると、大数の法則=「ある母集団から無作為抽出された標本平均はサンプルのサイズを大きくすると真の平均に近づき、経験的確率と理論的確率が一致する」(Wikipedia)が成立します。

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 次に、集めたデータを標本分布をグラフにしてみましょう。その全体の形が、「平均値の付近に集積するようなデータの分布を表した」場合、“正規分布”と呼ばれる形になる場合があります。

  Wikipediaでは、「正規分布が統計学上特別な地位を持つのは中心極限定理が存在するためである。中心極限定理は、「独立な同一の分布に従う確率変数の算術平均(確率変数の合計を変数の数で割ったもの)の分布は、もとの確率変数に標準偏差が存在するならば、もとの分布の形状に関係なく、変数の数が多数になったとき、正規分布に収束する」というものであり、大標本の平均値の統計には、正規分布が仮定されることが非常に多い」とあります。

 わかりやすく言えば、データを大量にとって、その分布形を調べると、平均値のあたりがもっとも多く、それよりはずれるにしたがって、裾野がひろがっていく分布をとることがある。それを正規分布と呼ぶ、ということぐらいをまず覚えてください。

 そして、自然科学では正規分布の平均値のあたりを「フツー」、左右の裾野の端の方を「フツーではないかもしれない(あくまでも、“しれない”ですよ。断定はできないのです)」と判断するのが“普通”です。そのうえで、標本の分布を比較して「統計的に有意である」とか、「統計的に差がない」とか計算していくのです。

  • もちろん、正規分布以外に様々な確率分布があるので、そのあたりは統計関係の講義でお勉強を。極端な場合、フタコブラクダのコブのように二山型の分布もあり得るでしょう。
  •  

 例えば、ムブティ(中央アフリカに住んでいる狩猟採集民、一般には「ピグミー」と呼ばれている人たちの一部の自称;身長は平均1.5m未満)と、東アフリカのディンカ(半砂漠地帯でウシ等を飼っている超高身長の人たち;平均1.8m以上)の身長の分布図を比較すると、(私なら、ノンパラメトリック統計ではマン・ホイットニーのU検定を使うところですが)、統計的差がありますね、ということになります。

 そして、世界中の人たちの身長をすべて測れば、この二つの民族の人たちは、それぞれ平均値からかなり離れた両裾野にあることがわかります。これで初めて、ムブティもディンカも身長という基準において、人類全体から見ると「フツー」から離れていることが立証されるのです。

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 このように数的資料から何かを読み取ろうとすれば、グラフは大切。標本の分布を見れば、自分の主張をデータが裏打ちしてくれるかどうか、一目瞭然のこともあります。

 逆にいえば、せっかく発表していても、お前はデータの読み方を知らないね、と言われるだけになるかもしれません。統計ソフトには計算結果だけでなく、グラフ機能がついているはずですから、かならず、グラフを作る事!

 そして、そのグラフの縦軸、横軸にはかならず単位を入れておくこと(あるイベントで、どこのゼミとは言いませんが、どの発表もグラフの軸に単位がついていないことがありました!!

 ありていに言えば、単位のないグラフはまったく意味がない、ただのゴミです。その場合は、リサフェの審査で点数が下がる事を御覚悟下さいね)。

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 これで進化の世界を論じれば、突然変異であらわれるミュータントはみんな、「フツー」ではないわけですね。もちろん、ブレークスルーであらわれる新たなビジネスプランも「フツー」ではないわけです。

 それがいつの間にか「フツー」のパラダイムになってしまう=これが進化あるいはパラダイムシフトです。あるいは陳腐化でもありますが。

 ただし、せっかく新しいビジネスプランを考えて、最初はブレークスルーしたはずなのに、皆が同じことをやりだし、差がなくなってしまうと、そのプランナー/会社の立場にたてばビジネスプランが“陳腐化”したことになります。

 というあたりで今回も十分長くなってしまいましたので、とりあえず前半としましょう(→ 中へ

就職活動についてPart1:求職の際のミスマッチ、あるいは宮本武蔵とダ・ヴィンチの憂愁

2010 9/25 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ

 今日は就職活動について、触れてみたいと思います。と言っても、理系大学院を出てから大学教員をやっている私は、皆さんが経験する/経験された就職活動をしたことがありません。それで、これまでの有名人の“就活”から始めたいと思います。

 さて、就活と聞いて私の頭に浮かぶのは、実は、宮本武蔵です。天正12年(1584年)から正保2年(1645年)にかけて生き、下剋上(一介の庶民から関白まで出世する豊臣秀吉に代表される何でもありの世界)の世に、ちょっと遅れて生まれてしまった武蔵の人生は、言ってみれば、就職活動の連続だったとも言えるでしょう。

 しかし、自書と伝えられる『五輪書』に「廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるという事なし」と豪語する天下一の剣豪が、どうして就職できなかったのか? それは彼が望んだ職種と、雇い主候補が考える職種のずれだったのかもしれません。

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 昔読んだことがある小説ともエッセイともつかぬもの(著者は司馬遼太郎だったと思うのですが、記憶が定かでありません)に、就活中の武蔵が、徳川家康の9男、尾張藩徳川義直の面前で試合をした、というのがありました。武蔵は見事勝つのですが、義直は腹心に言います。

見た! 強い! だが、教えられぬ

 さすがは義直、上泉信綱新陰流の流れをくむ神影流開祖奥平久賀に自ら剣術をならったという家康の息子として、きちんと見ぬくのですね。武蔵の技は個人技であり、彼自身の身体的ベースに支えられる部分が多く、したがって他人に教えるのは容易ではないことを(これは「野球の名選手が名監督になれるか?」という問題でもあります)。

 このギャップが、武蔵の尾張藩での就職活動を挫折させた、という筋書きだったかと思います。よくできた話です。たぶん、伝説か、創作でしょうけれど、武蔵を彷彿とさせます。

 学生の皆さんも、自分の能力(顕在化している部分も、そして自分で自覚しているか否かは別にして、潜在している能力の双方)をふまえ、相手方からの要求とこちらの要求のすりあわせを考えて下さい。

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 武蔵のその後を紹介すると(なにしろ、有名な巌流島の決闘が慶長17年(1612年)とすれば、武蔵28歳前後、彼はそのあと30年余の齢を重ねます)、最終的に熊本城主細川忠利に客分として招かれ熊本に移ります(Wikipediaによる)。

 武蔵には7人扶持18石に合力米300石が支給されますが、「客分」、わかりますか? つまり、「あなたは家臣としていてもらうわけではない。私の客として、名誉ある立場で我が藩に留まっていただければ、それだけで私どもの名誉を高めるのです」という意味ですね。

 つまり、齢50を過ぎ、いわゆる出世路線=就活からはずれて初めて、武蔵と言う超有名人を「客」として迎えることができる。さすがは、もともとは足利幕府に仕える身ながら、新興の織田信長、そして豊臣秀吉、最後は家康にトラバーユすることで、戦国期を乗り切り、かつ二条流歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受けつぐ文化人細川藤孝こと幽斎の孫です。このあたりがオーナーとしての人事の極意と言えるでしょう。

 なお、武蔵は熊本の地で『五輪書』を書き(偽書という説も有力だそうですが)、数々の書画も残します。

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 その武蔵をさかのぼることほぼ100年前、イタリア(おっと、その頃はそんな統一国家はありませんでした。都市国家フィレンツェというべきでしょうか)出身のある男が、就活すべく、ミラノ公の摂政(実質的な支配者)イル・モーロことルドヴィーコ・スフォルツァに自薦書を提出します。

  • ロドヴィコ・イル・モーロ宛
  • 名声嚇嚇たる殿下、、兵器の大家ならびに製作者をもって自任しておる人々全部の試作を十二分に吟味いたし、その発明および発明品がありきたりのものと少しも異ならないと考慮いたしましたので、いかなる他人をも顧慮することなく、閣下に私見を申し上げて、小生の秘訣を披露いたすことに努めましょう(略)。
  • (1)小生、きわめて軽く、頑丈で、携帯容易な橋梁の計画を持っています。それによって敵を追撃することもできれば、時には退却することもできます(中略)。
  • (2)ある町の攻囲にあたって、濠の水を浚え、無数の橋梁や上陸用舟艇雲梯その他かかる攻撃に付随する諸道具を製作することができます(中略)。
  • (7)同じく、堅牢で攻撃不可能な覆蓋戦車を制作しましょう。それは砲兵をのせて敵軍の間に突入しますが、いかなる大軍といえどもこれに出会って壊滅せざるはありません(中略)。
  • (8)同じく、必要とあらば、在来のものとは全然ことなる、非常に美しくかつ有用な形態をもった大砲臼砲ならびに軽火器を制作いたしましょう(中略)。
  • (10)平和な時代には、建築、公私大建築物の構築、また甲地より乙地への水道建設に、他の何びとに比べてもこの上なき御満足をいただけると信じています。
  • 同じく、大理石、青銅およびテラコッタの彫刻をいたします。絵も同様、他の何びととでも御比較あれ、いかなることでも致します(以下、略)。

 すごいですね。まさに墨子もびっくりの無敵の軍備の提案。さて、この自薦書の書き主は誰か?

言うまでもなく、イタリア・ルネッサンスの三大芸術家、ミケランジェロラファエロとならぶ巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチです(杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫より引用)。

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 もうお分かりかとおもいますが、武蔵がたんなるプレーヤーやコーチでは満足できなかったように、ダ・ヴィンチもまた、様々な現象に興味をいだき、そのため、すべてを極めようとする自らの欲望と、世間からの要求(芸術家としての才能だけ)のギャップに直面します。

 そのイル・モーロは1499年、フランス軍の侵攻でもろくも権力を失い、ダ・ヴィンチも失職します。イル・モーロがのぞんだ父フランチェスコ・スフォルツア(一介の傭兵隊長の息子として生まれ、自らの才知を駆使して、ミラノ大公までのぼりつめる立志伝中の方)の騎馬像もまた原型の石膏像の段階で挫折します(名古屋国際会議場に、FRPで復元した全高8.3mの騎馬像が飾られています)。

 イル・モーロの没落後、ダ・ヴィンチはこれまた一代の梟雄、法王アレクサンデロ6世の私生児に生まれ、一時期、イタリア中央部ロマーニャを支配、マキャベリに『君主論』のヒントを与えたチェーザレ・ボルジアに軍事技術者として使えるのですが(チェーザレについてもいずれ紹介せねばなりません)、チェーザレも父の死とともに失脚、ダ・ヴィンチにはついに画家としての立場しか残りませんでした。

 そして人生の結末を迎え、ダ・ヴィンチはフランス王フランソワ1世と出会います。フランス最初のルネサンス型君主といわれる彼は、アンリ4世(「総合政策のための名言集Part2:ポパイの名セリフほか(2010/08/22投稿)」を参照)に並んでフランス人にもっとも愛される王だそうですが、このルネサンス型巨人ダ・ヴインチにほれ込み、フランスに招きます。

  • 豪胆にして繊細、ただし、やや軽率な(それが愛される理由でもあるのでしょうが)フランソワ1世の名セリフは、1524年(ダ・ヴィンチの死の5年後)、パヴィーア包囲戦で宿命のライバル神聖ローマ帝国皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の軍にやぶれて捕虜になった際、母国の母と姉にあてた手紙の一文「すべてを失ないましたが、生命と名誉だけは保つことができました」とされています。

フランソワ1世の招きにダ・ヴィンチは応じますが、この時、未完の作品『モナ・リザ』を持参、この絵がルーブルに残る結果になります。「フランソアはこの百科全書的な会話の名手と一緒にいると、決して退屈しなかった。レオナルドに応えられぬような疑問はなく、解けないような謎はなく、解決が見つからぬような問題もなかった」(モンタネッリ(藤沢道郎訳)『ルネサンスの歴史』中公文庫)。こうして、1519年、ダ・ヴィンチは異郷フランスで生を終えます。

 この結末、なんとなく細川忠利と武蔵に似ていますね。

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 さて、ダ・ヴィンチの作品です。ひょっとして生涯最大の遺作は残された膨大なメモ=『レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿』かもしれませんが、私自身が実際に見た事がある絵はロンドン・ナショナルギャラリー蔵「岩窟の聖母」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Leonardo,_Felsgrottenmadonna2.JPGと、ポーランドのチャルトリスキ美術館蔵「白貂を抱く貴婦人」です。

 とくに「白貂を抱く貴婦人」は数年前、京都でチャルトリスキ美術館展が開かれた際、この一作だけのためにでかけました。モデルはイル・モーロの愛人チェチーリア・ガッレラーニ。この絵は彼女自身が持っていたと言われています。そして、ある時、彼女は他の人に見せながら「この絵が描かれた時、私はまだ若く(17歳の頃)、美しかった」と語ったとのことです。

 ということで、今回は、ちょっと変わった就活話になってしまいましたが、皆さんも、自らの希望、そして先方の要求、このマッチング、あるいはミスマッチに気をつけて下さい。

戦争について考えてみましょうPart1:貧しさの中の平和 vs. 豊かさの中の戦争?

2010 9/23 総合政策学部の学生の皆さんへ

新しい話題として、「戦争」をとりあげたいと思います。皆さんにとって、戦争とはどんなイメージでしょう?

私は以前(といっても10年以上前ですが)、千葉県は佐倉市、旧堀田氏11万石の居城、佐倉跡に位置する、歴史民俗学博物館主催の『戦争の研究会』の末席を占めていたことがあります。その時の話も思い出しながら、戦争について少し考えてみたいと思います。

まず、「戦争」というテーマをどういう角度であつかうか? 皆さん、先生から課題を出された場合、どうします? 総合政策では複数、多層な視点が必要です。それぞれの方々が、それぞれの興味で切り込んでいくわけですから。

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ということで、その研究会にでかけると、4種類の人々がいることがわかりました。そして、互いのテーマに興味をもつか、もたないか、なかなか興味深い光景が展開します。

まず、この研究会の主催者は佐原真先生でしたが、考古学の泰斗で、本当の意味の碩学、博覧強記の方でした。この佐原先生が(この研究会の何年か後にお亡くなりになります)最後に興味をもったのが、「戦争とは何時はじまったのだろうか?」という疑問です。

佐原さんの持論は以下のようなものでした。縄文時代、日本列島に住んでいた人たちは最大で約30万人、採集狩猟生活に依存するため、人口密度も少なく、かつ、あらそったような形跡がすくない。例えば、出土するも食物獲得用とおぼしき小型のものばかり。つまり、貧しい中での平和、です。

逆に、稲作がもたらされ、日本列島に桁違いに人が増え始めた弥生時代、遺跡はしだいに環濠集落化(つまり、外敵からの防御)が進み、鏃などはあたかも対人殺傷用のように大型化する。そして、現実に、北九州などを中心に、首のない埋葬例、あるいは鏃や刀傷が骨に残っているのです。つまり、豊かさの中の戦争ということです。

  • 刀傷といえば、私自身は学生時代、自然人類学の研究室で、時代は離れますが、京都旧二条城跡から出土の頭蓋骨に、日本刀とおぼしき刀傷で、右下の底部がごっそり削られているものを教授から見せられたことがあります。戦国時代のものであろうとのことだったかと覚えています。

こうして、佐原さんひきいる考古学者のグループは、文字による証拠がない先史時代に「何時戦争がはじまったのか?」熱をこめて語ります。

とくに貧しさの中の平和と、豊かさの中の戦争の対比に興味をもっておりました。なかなかぞくぞくするテーマですね! 皆さん、どう思います?

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さて、もう一つのグループがいます。それは歴史学者の人たちです。実は、私もはじめて実感したのですが、考古学者と歴史学者は激烈なライバル意識があるのですね。この二つの学問は、文字のあるなし=人が自らの行為を書き記しているか(当然、嘘も、誇張も、書き漏らしも、さらには失われることもある資料)どうかでわかれるわけですが、双方に強烈な競争意識があふれていました。

その一方で、研究会に参加された歴史学者の方々は、これまでの歴史学が軽視してきたこと、例えば、百姓町民は一方的に被害を受ける“無辜”の民人であったのか、それとも、落ち武者狩りに代表されるような、敗者・弱者にはすぐに牙をむく存在であったのか? (これが傑作『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』の作者、藤木久志先生;たとえて言えば、黒澤明の『七人の侍』的感覚の否定)

さらに古代末期から中世初頭にかけて(10 – 12世紀)に成立した国家軍事制度=国衙軍制を研究した下向井龍彦先生のように、当時の朝鮮半島への対応のため、軍国主義化と平和政策の間を迷走した古代日本の戦略政策を論じる。また、果たして鉄砲は1453年にもたらされたものなのか、それともそれ以前からも伝わっていたのか(宇田川武久先生)?

あるいは、いくさに出かける時、馬には一日どのぐらいの飼料が必要で、それを運ぶのにどれぐらい苦労するものなのか? なんとなく、フランスのアナール派を思い起こさせる議論が展開したものです。

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そして、いわば“パッパラパー”に“戦争”に“おたく”的興味をもつ考古学者と歴史学者の人たちとは、完全に一線を画す方々として(おれたちはまったく真面目なんだぜ、という風情でした)、近現代史の研究者の方々がいて、こちらは、日本の軍国主義化の流れの中での戦争責任戦争犯罪、あるいは一般民衆が戦争に巻き込まれながら、変質していくさまを、例えば、故郷に向けての軍事郵便の文書を研究したりしています。例えば、日清戦争では、庶民出身の兵士たちが驚くほど客観的に朝鮮半島や中国東北地方の様子を故郷につたえますが(この時、白菜が日本に渡来したとも伝えられています)、日露戦争でははや、朝鮮・中国人民への定型的な差別的言説がでてくるような、そうした研究もあったかと思います。これが第3のグループでした。

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そして最後、グループとはとても言えない、佐原先生の個人的趣味でかき集められた古人類学者(国立科学博物館の馬場悠男先生;結局、研究会の後で出版された本では食人習慣の真贋について書かれていました)と霊長類学者(=私;チンパンジーの子殺し等の研究から呼ばれていました)。

ということで、 今回は「戦争」という言葉一つをめぐっても、かくも“立場”の違いがあるということを確認したうえで、To be continuedとします。

なお、どうやらこれが記念すべき100回目の投稿のようです。

生き物を紹介しましょうPart4:マダガスカルやその周辺の不思議な生き物Part2

2010 9/17 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ

 今、京都で開催中の第23回国際霊長類学会の事務局から京大の無線ラン経由で打っているところです(今日の夕方まで、仕事があります)。月曜日からずっと英語のプレゼンテーションを聞きっぱなしなのに(本当にひさしぶりに自分でも一つ英語で研究発表しましたが)、ちっとも英語のヒアリングは上手になりません。あいからわず、自分の英語力にはがっくりきているところです。

 それはともかく、これで99回目の投稿です。Part3では、マダガスカルの爬虫類のあたりの説明で紙数が尽きてしまいましたが、マダガスカルで何と言っても有名なのは、近絶滅種、つまり、1500~2000年前と推定されているヒト(そして、そのあとヒトがつれてきたウシ等の家畜)によって絶滅させられてしまった動物たちです。たいていは、”They have been eaten!”(食べられちまったよ!!)というわけです。

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 その代表格がエピオルニス、世界最大の鳥でした(ダチョウ目、エピオルニス科;ただし、ダチョウ目に含めない説もあるようです)。現在残されている骨格では体長が3メートル、体重450キログラムで、ダチョウのほぼ3倍という巨体です。このため、英名はElephant Birdつまり、“象鳥”です。マダガスカルの南端、フォーカップ岬は、エピオルニスの卵の殻が貝塚のように堆積していることで有名ですが(ジグソーパズルよろしく、破片をつなぎあわせて、卵を復元したりします)、この卵殻の散乱はおそらくヒトの仕業もまじっていることでしょう(ところで、復元された卵はあまりの大きさに、恐竜の卵を連想してしまいそうです)。

 自然環境論等でも、進化や適応放散の際に説明しますが、天敵がいない孤島で、もはや空を飛ぶ必要もなく、その環境に慣れ切ったところに、突然環境が変わる(マダガスカルの場合は、ヒトの到来とそれにともなう外来種の侵入)で、運命が変転してしまったのです。

 エピオルニスと同じ運命をたどった種には、ニュージーランドに生息していたモア類等がいます。モアの場合は、マダガスカルよりもさらに近年、9~10世紀頃、それまで無人の島だったニュージーランドに侵入したマオリの人たちによって“They have been eaten”という運命をたどり、16世紀頃までにはすべて絶滅したようです。最大種のジャイアントモアDinornis maximus)は全長3.6m、体重250kgだったとのこと(Wikipediaから引用)。

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 そして、エピオルニスやモアよりもさらに短期間にほろびたものに、マダガスカルの東のインド洋にうかぶ孤島モーリシャスに生息していたドードーがいます。1505年にボルトがル人がこの島を発見、1638年以降、オランダ、ドイツ、フランス、イギリスとめまぐるしく支配者が変わり、ほとんどがサトウキビのプランテーションに変貌してしまったこの島に生息していた「白鳥ほどもある、不格好なアヒル」のようなとべない鳥、ドードーは人に食べられてしまったとも、人が持ち込んだイヌやブタ、ネズミに卵や雛が食べられたとも言われていますが、とりあえずわかっているのは1681年に最後に目撃されたのが最後で、たった180年で絶滅してしまいます。

 なにしろ、満足な標本も(船乗りたちには、貴重な種だ、などという意識があるはずもなく)、骨格ものこらず、わずかに断片的な遺体とイラストが残るだけ、という有様です。

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 このドードーが少しでも人口に膾炙しているとすれば、それは19世紀イギリスの数学者チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンこと小説家ルイス・キャロルの傑作『不思議の国のアリス』に登場するためでしょう。一説によれば聖書の次に読まれているというこの本の中で(別の説では『ロビンソン・クルーソー』だったかと思います)、ドードーは以下のように登場します。

  •  そろそろひきあげどきでした。なぜなら、そのころ池には、さまざまな鳥だの動物だのが落ちこんで、もういいかげん、混雑していましたからね。アヒルに、ドードー。これは、馬鹿に大きな鳥で、むかしむかし住んでいたって話だけれど。(略)
  • すると、へんな鳥のドードーが、どうどうとたちあがりました。
  • 「しからば、ここにてわがはいは、本会議の休会を提議するものであります。現状におきましては、さらなる有効なる抜本的対策の採用を決議せねばならぬときでありましてー」
  • 「ぼくにもわかるようにしゃべってよう!」とワシのぼうやがいいました。「そんなややっこしいの、つづけざまにしゃべったって、半分もわからないんだもん。だいいちさ、おじちゃんだってわかっていないんだもん!」(中山知子訳『ふしぎの国のアリス』フォア文庫版、岩崎書店)
 
 どうやら、アリスの世界でも、ドードーはあまり颯爽とはいかないようです 。

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 一方、陸上に眼を向けると、例えば、バオバブがいます。サンテグジュ・ベリの『星の王子様』ではすっかり悪役ですが、現地ではそんなことはありません。樹皮からは繊維からロープを造り、若葉は野菜にして利用、大きな実の殻のなかには種が甘酸っぱい果肉に包まれて入っています。タンザニアにいた時、味見したことがありますが、(飲み物ではない)錠菓の方のラムネ の味の感じです。水に溶いてジュースにするとも聞いています。

 さて、このバオバブですが、世界に8種、そのうちオーストラリアとアフリカにそれぞれ1種ずつ、そしてマダガスカルにはなんと6種。なんとなく、ボアの分布を思い出しますね(「生き物を紹介しましょうPart3:マダガスカルの不思議な生き物#1(2010/08/13投稿)」をご参照)。これも、ゴンドワナ大陸の名残なのでしょうか。

 それにしても、バオバブの写真は、何か、ヒトの心をやさしく包み込むようなところがあるように思いませんか?

 しかし、この調子で行くと、マダガスカルの生物の紹介だけで、なかなか終わりそうにありません。世界は広い、そして、その広い世界は皆さんを待っているのです。

“植民地”が残したもの:国際援助の現場から#10-タンザニア編Part3

2010 9/11 総合政策学部の学生・大学院生の皆さんへ

 Part9からの続きです。 さて、“未開”の人たちを“近代化”=植民地経済に巻き込むのはどんな方法がよいか? 政策学部の皆さんは、どうお考えになりますか?

 何しろ、ついさっきまで、荒野に雑穀の畑をひらき、カヌーで湖をわたり、牛を放牧していた人たち、ぴかぴかの硬貨を首飾りの格好の装飾品と考えていても、近代経済学で言うところの“お金=貨幣”に縁がなかった方々を、植民地経済、あるいは資本主義経済に巻き込むには?

 それは“税金”を課すにかぎります。いままでお金がなかった人たちは、あるいは“売り物”でさえなかったウシを売り、あるいは命ぜられるままに綿花を栽培する。そして、なけなしに稼いだ金で人頭税を払うか、、または路や線路の建設・補修に肉体労働(強制徴用)を提供する。

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 ある意味、租庸調の世界が突然、アフリカの荒野に現出する。それでは、反乱も起こしたくなるわけです。それを抑えて、できるだけうまく税金をまきあげねばならない。そんな時、アフリカにおいてもあくまでもスマートに振る舞おうとするフランス人のやり方は、フランス革命前と同じ徴税請負人をもうけることでした。

 この制度は、Wikipediaによると、かのアンリ4世までさかのぼり、「税の支払いの見返りに官職の世襲を保証するポーレット法を定め、また金融家から地域の税金を前借りして代わりに徴税を請け負わせる徴税請負人制度を作り、財政の再建に努めている」とあります。

 こうした徴税請負人に、現地の“王”を任命する、これが例えば、ブルキナ・ファソでフランスがおこなったやり方です(文化人類学者の川田順造『曠野から―アフリカで考える』)。すると、当然、王様は家臣から巻きあげた税金の一部を手数料として懐にいれ、それまで家臣たちとそれほど変わらぬ生活だった王様たち(王といっても、地方の一領主ぐらいの感じですが)の収入が増加して、格差社会が出現する=植民地という“近代化”で、逆に身分制度の差が開く! これはインドネシアの各地のスルタンたち(植民地政府やスハルト政権に優遇された)や、他の土地でもよく起きることです。  

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 さて、私が30年前にタンザニアを訪れた時、ドイツの置き土産がもう一つ残っていました。それは、タンガニイカ湖をブルンディブンジュンブラ港から、キゴマを経て、ザンビアムプルングまで、国際航路を旅して齢100歳を超えなんとする汽船リエンバです。

 英語版Wikipediaには、“The MV Liemba, formerly the Graf von Götzen, is a passenger cargo ferry that runs along the eastern shore of Lake Tanganyika. The ship was built in 1913 in Germany, and was one of three vessels operated by the Germans to control Lake Tanganyika during the early part of World War I. It was scuttled by its captain on 26 July 1916 off the mouth of the Malagarasi river, during the German retreat from the town of Kigoma.”とあります。

 写真のURLはhttp://en.wikipedia.org/wiki/File:Liemba1.jpgです。なお、淡水では(海水に比べて)さびにくいため、鋼鉄船の船齢は長いのです。

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 実に、波瀾万丈のこの船は、1913年ドイツで作られます。当時は、1575トン、全長70.7m、幅10.3mの船は(1970年まで蒸気エンジンで、その後デーゼルに交換)、速力毎時9ノット(17km/h)、一等船客18人、2等船客16人、そして3等船客(いわゆるデッキパッセンジャー)350人。第一次大戦直前、分解されてタンザニア中央鉄道で運ばれてドイツ名Graf von Götzenとして湖デビューするも(なお、そのときには10.5cm砲1門、37mmリボルバー砲2門を搭載)、Part1に書いたドイツ帝国植民地防衛隊司令官パウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍のキゴマ撤退戦略のもと、1916年、キゴマ南方のマラガラシー川河口近くで自沈を決行します。そして、1924年、イギリス海軍はこれをひきあげ、MV Liembaとして再デビューをはかります。

 なお、このタンガニーカ湖をめぐるイギリス軍vs.ドイツ軍の戦いはホーンブロワーシリーズで名高いイギリス海洋冒険作家セシル・スコット・フォレスターに小説『アフリカの女王』(1935年)をインスパイアさせます。そして、その『アフリカの女王』の映画化のため、監督ジョン・ヒューストンは1951年、アフリカロケまでも敢行、男性主人公を演じたハンフリー・ボガードに待望のアカデミー主演男優賞を与えます。もっとも撮影中、ヒューストンは酒とハンティングに熱中、主演女優を演じたキャサリン・ヘプパーンにそのことを暴露されてしまいますが、この破天荒なアフリカロケそのものが、1990年代にはクリント・イーストウッド監督・主演の『ホワイトハンター ブラックハート』として映画にまでなってしまいます(映画ファンにはこたえられないエピソードの連発です)。 

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  私がリエンバに初めて乗ったのは、1979年か1981年か、少し定かでありません。この頃、いったん変えたはずのディ-ゼルはぼろぼろ、しょっちゅう修理で運休していました。JICAの派遣専門家として滞在していた1982~84年にかけては比較的順行で、何度もこの船のデッキパッセンジャーの中に加わった覚えがあります。

 なにしろ、キゴマの港を出ると、途中、本格的な港はほとんどなく、たいてい沖に停船して、カヌーか小型の船に乗り換えて上陸しなければならず、かつ、私が降りる場所はたいてい深夜の到着で、ボートピープルさながらの光景でした。

 その頃を思い出すと、リエンバいかにもボロボロな船で、かつ、めちゃくちゃな運行状況ではありましたが(何しろ、何時通るかわからないと言うことで、浜辺で寝ながらまったことも何回もあります)、そのリエンバがまだ走っている(そろそろ齢100歳ですが、淡水なので、鋼鉄船の寿命は長持ちするのです)。懐かしくもあります。

 ただし、ちょっと間違えると、タンガニイカ湖のきれいだが冷たい水に落ちそうだし、うっかり足でも挟まれれば骨折しかねません。こうして、タンザニアの旅は絶えず気の抜けないもので、一回旅行するたびに疲れ果てます。

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 そんなわけで、キゴマに出る時には、ついつい調査基地所有(といっても、ほぼ100%、日本人研究者が工面した金で作らせたものですが)ボードに船外機エンジンを付け(燃費はなんとリッター1km)、空のドラム缶(スワヒリ語で“pipa tupu”)を10本位載せ、行きと帰りにそれぞれドラム缶1本(ほぼ200l)のガソリンを使い、のこり8本分のドラム缶のガソリンを持ち帰る。

 ボートを走らせるのは夜中(涼しいため)で、そのドラム缶の上で寝ながら旅をする-これが、私の国際援助の現場(一応、JICAの派遣専門家でしたから)です。他の先生方のお話とは、随分違うかもしれませんね。

 おかげで、ドラム缶の容量等にも詳しくなりました。ふつうは200リットルですが、満杯にすると220リットルぐらい入る。政府機関用のガソリンスタンドで、「できるだけ満タンに(スワヒリ語ではzidisha!)」等と叫んで、少しばかり多めにいただく、などというコツも、援助の現場では必要です。

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 これだけ投資したら、ドイツもよほどのお金がかかったのではないか、と思われますが、すべてはイギリス人に(アフリカ人の頭越しに)接収されてしまう、それがベルサイユ条約での結末でした。

リーダーシップ、ラインアンドスタッフ、“能率”とは何か?(後半):総合政策のための名言集Part4+高畑ゼミの100冊Part20

 2010 9/4 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ

 前半に引き続き「リーダーシップ、ラインアンドスタッフ、そして“能率”とは何か?」後半です。まず、ご紹介する言葉は、 

 #21:“Don’t Say Yes Until I Finish Talking”

 これまたどう訳せばよいのでしょう? 平凡社大百科事典によれば、「おれが話し終えるまで、イエスと言うな」。この言葉は、実は、「総政100本の映画Part7:映画を作っている人たちについて(2010/01/17投稿)」ですでに紹介済みですが、リーダー中のリーダー、ハリウッドのタイクーンのなかのタイクーン、ダリル・F・ザナックの言葉です。

 部下から、“No!”等と言う返答があるなど、考えてもいない。そうでもしなければ、映画などつくれるわけがない、という強烈な意思表示=リーダーシップです。

 すでに「総政100本の映画Part7:映画を作っている人たちについて(2010 1/17投稿)」で書いていますが、映画製作には、監督(ディレクター)、原作者、脚本家撮影照明録音美術音楽衣裳編集・・・・・とかくも多くの方々の協同作業でなりたっています。このピラミッド的組織を束ねるのが、もっとも“偉い”プロデューサー(製作者)であり、作品の企画・立案・運営を手がけて、結局全責任を負うことになります。それゆえの“タイクーン”のリーダーシップなのです。

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 さて、前半でラインアンドスタッフ、つまり(1)ライン=職務遂行に直接かかわるメンバー+(2)スタッフ:ラインから一歩しりぞき、スペシャリストとして提案・助言をおこなうが、命令権がない(Wikipediaより)、を説明しましたが、これは基本的に近代的軍隊組織です。そこではスタッフは参謀と呼ばれます。

註:参謀として、史上もっとも有名な人物の一人に、『史記』に登場するの初代皇帝劉邦の謀臣、留候張良があげられるでしょう(彼については、稿を改めなければ)。なお、総帥(=リーダー)劉邦は参謀(スタッフ)長=張良、中国史上屈指の戦術指揮官=韓信、そして兵站ロジスティクスの達人=蕭何という絶妙のトリオに支えられていました。劉邦は、それぞれの能力において、とうていこの3人に及ばないのですが、この3人の長所を見抜いて任命したのは劉邦である=それが将の将たる所以なのです。

 それでは、近代的軍隊組織の中でのリーダーとスタッフの関係は、どんなものでしょう。その典型例に、アメリカ人ジャーナリストコーネリアス・ライアンのルポルタージュ文学の傑作『いちばん長い日』(映画『史上最大の作戦』の原作;書籍番号#76)の1シーンがあげられます。

 1944年6月4日、すなわち、史上最大の上陸作戦となるノルマンディー上陸作戦の数日前、悪化と回復が測りがたい天気予報をもとに、何時、作戦を決行するか? ヨーロッパ方面連合軍最高司令長官(=ラインの頂点=リーダー中のリーダー)アイゼンハワー将軍(通称“アイク)”は悩みます。

 すべては彼の決断のもと、数万人が戦死するかも知れぬ命令を下す(アイクの指揮下にある連合軍は総数300万人)。しかも、それは勝つかどうかさえ、わからない。

  何しろ、相手は「ババリアの伍長」こと独裁者アドルフ・ヒトラーへの軽蔑を隠そうともしないながら、近代的軍事テクノクラートとしての矜恃を保つ「最後の黒騎士」ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥(もっとも、連合軍上陸後のルントシュッテット最後の戦いについては、とくに制空権(航空優勢)の認識等に精彩を欠くなど、時代の進歩に取り残されたと言われているそうです)、そして「砂漠の狐」ことエルヴィン・ロンメル元帥なのですから。勝つ保証がどこにあるのか?

 朝、かれは特派員メリル・ミューラーに声をかけ、二人で散歩します。ライアンの筆致では、

 それは静かな奇妙な散歩だった。アイク(=アイゼンハワー)は口をきかなかった。ミューラーは「アイクは考えに沈みこみ自分の問題に没頭していたので、私がそばにいるのを忘れているようだった」と回想している。ミューラーは最高司令官に質問したいことがたくさんあったが、我慢した。差し出がましい態度はとりたくなかったし、またその時期でないと思ったからだ(近藤等訳『いちばん長い日』筑摩世界ノンフィクション全集版より)

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  やがて、散歩は終り、アイクは「4つの星章」の重みに打ちひしがれるように、部下と参謀たちと会議を開きます(連合軍総参謀長スミス、海軍司令官ラムゼイ、空軍のマロリーとテッダー、イギリス軍代表モントゴメリー)。そこに、思いがけない気象変化で、6日だけ、たった1日だけ、上陸が可能かもしれない瞬間が訪れるかもしれない、というニュースが・・・

 アイクは部下たちに意見を聞きます。スミスは6日の攻撃を「賭けだがやる値打ちがある」とし、テッダーとマロリーは(空軍という立場上)ためらい、陸軍出身のモントゴメリーは決行すべきだと主張する。

  こうしてスタッフたちがそれぞれの分野にもとづいて意見具申した後、2分とも5分ともいわれる沈黙の熟考の末、「アイクは憔悴した顔をあげて」つぶやきます。

#22:とにかく決定を下さねばならない。私はそれを好まない。しかしそうなのだ(=決定しなければならない)。だとすれば、私には選択の余地がないような気がする」 

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  この決断の瞬間、アメリカ軍第82および第101空挺師団他は6月6日午前0時15分にノルマンディーにパラシュート降下を、同日午前5時30分にはアメリカ第一師団による(ドイツ軍第352師団が待ち構える)“Blady Omaha(血だらけのオマハ)”海岸への上陸を皮切りに、史上最大の上陸作戦に突っ込むという運命に導かれます。

  第82空挺師団の訓練中、弱冠37歳で師団長を命ぜられている指揮官ジェームズ・ガヴィン将軍は兵士たちに訓示します。

ノルマンディに降下するときには、君たちの伴侶はただ一人しかいない - 神だ」(『いちばん長い日』より)

なお、ガヴィン将軍はM1ライフルを持って、一兵卒たちとともにパラシュート降下を敢行、愛称は「ジャンピング・ジム」。

  全参加戦力は連合軍15万5千人、ドイツ軍38万人、作戦中の死傷者は連合軍10,264人、ドイツ軍13,000人(Wikipediaより)。第一派にともなって、上陸した者の中には、「国籍不明の敵国人」カメラマン、ロバート・キャパが混じっていたことは、すでに「キャパと写真について:本の紹介番外編(2010/01/8投稿)」でお伝え済みですね。有名な「キャパの手は震えていた」の写真です。 

 この上陸作戦後、“血まみれのオマハ海岸”の部隊から、8名の兵士が選ばれ内陸部に降下した第101空挺師団所属の(兄弟全員が戦死したという)ライアン二等兵を救出に赴くという設定の映画がトム・ハンクス主演、スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』です。ちなみに、この映画にモデルが実在しますが、救出隊の編成というストーリー自体はフィクションだそうです。 

  さて、アイクは、部下たちが任務に動き出したあと(決定はリーダーでも、戦うのは部下たちなのです)すべきことがありました。彼は一つの声明文を用意します。

 「シェルブールル・アーヴル地域における連合軍の上陸企図は失敗に帰し、自分は軍の後退を命じた。(中略)部下将兵、空軍および海軍は驚くべき義務感と勇敢さを明らかにした。もし過誤がおかされたとすれば、また何人かその過ちの責を負うべきであるとすれば、それは自分である。自分一人である」。敗退が決まった瞬間、部下の健闘をたたえながら、リーダーとして自らの責任を認める予定稿です。

 もちろん、6日9時33分に発表されたニュースはそれとは違い、「アイゼンハワー将軍の最高指揮下に、強力な空軍によって援護された連合軍兵力は、けさ、北部フランス海岸に連合国陸軍の揚陸を開始した」という簡素なものでした。

  そして、この勝利はやがてアイクをアメリカ合衆国第34代大統領へと導きます。

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 ところで、この日、もう一人の立役者=リーダーがノルマンディーには不在でした。それは、ライアンの作品の原題“The Longest Day”という言葉のそもそもの発言者、ヒトラー配下の元帥ロンメルです。この原題は、ロンメルがある日副官ランク大尉につぶやいた次の台詞に由来するのです。

「いいかね、ランク。上陸作戦の最初の24時間は決定的なものになるだろう。この日いかんによってドイツの運命は決する。この日こそ、連合軍にとっても、われわれにとっても“いちばん長い日”になるだろう」

 この“The longest day”という発言の主ロンメルは、しかし、この時彼の人生で最大、痛恨の判断ミスを犯します。アイクを悩ました天候条件を楽観的に判断して、彼はこの6月6日、ヒトラーに直談判をするため、ノルマンディーを離れ、ドイツに滞在中だったのです。

 ドイツ第三帝国にとって致命的な時間が過ぎ去り、幸福の天使たちがもはや姿を消した午前10時15分、参謀長シュパイデルの電話で「今日こそ、その“いちばん長い日だ”」と知らされたロンメルは言葉を失い、電話のあとで静かにつぶやきます「おれはなんて間抜けなんだ」。

 それでも、“親愛なるモントゴメリー”に対処すべく(エジプトを目前にしたエル・アラメインの戦いで、補給上の問題も手伝い、モントゴメリー率いるイギリス軍に一敗地にまみれてから、2年)、急遽、ノルマンディーに引き返す車中、彼は副官ランク大尉に言います.

私は、けっして誤りを犯さなかった。初めからだ。私は正しかったのだ」。こう言ってから、ロンメルはふたたび道路にじっと目を注いだ、ということです。

 註:エル・アラメインの戦いは、あとで振り返ると「あの時こそが(第2次大戦の)分岐点だったのだ」とわかる瞬間でした。こうしたことにいつも敏感なイギリス首相チャーチル、「これは終わりではない、終わりの始まりですらない、が、おそらく、始まりの終わりであろう」と言ったそうです。なお、チャーチルもまた非常時でしか役立たたないけれど(第1次大戦のガリポリ上陸では、海軍大臣として決定的な失敗をするのですが=この失敗がオーストラリア・ニュージーランドののアンザック・デイの由来です)、リーダー中のリーダーの一人でもありました。 

 最後に、皆さんにはあらためてリーダーシップとは何か、またラインとスタッフの違いは何か? そのあたりをしっかり勉強されて、会社等の組織に入られることをお薦めしますということで、今回はいったん終わりましょう。

ギリシア悲劇とその変奏Part3、あるいは総政の100本の映画Part12:“インセプション”と“アリアドネ”

2010 9/1 総合政策学部の学生の皆さんへ 

 先週、話題の映画“インセプション”(#56)を観ました。なかなかの傑作です。監督クリストファー・ノーランについては、最初に注目を浴びた『メメント』しか観ていませんでしたが、着想といい、複雑なストーリーをともかくも最後まで持ちこたえた力技といい、俳優たちのキャステイングのよさもあり、映画館に出向いても十分満足できる作品ではないかと思います。

 私からすると、『ブレードランナー』より上で、『キューブ』と良い勝負、『未来世紀ブラジル』にやや及ばぬか(もちろん、この評価付けは個人的趣味のレベルです)。以下、できるだけネタばれにならないように心しながら紹介したいと思います。

 何といってもクライマックスは、ディカプリオを演じる主人公コブが率いるチームが、夢を通して相手を洗脳すべく、次から次へと深層心理の層を“潜って”いくところ、なんと4層にもわたる深層心理~精神分析医もびっくりというところです~。そして、その層の奈落から現実に戻るべく、“キック”の瞬間をあわせるために、“信号”として各層で鳴り響くエデイット・ピアフの“水に流して(Non, je ne regrette rien、1960年)”、絶品です。

 もっとも、ディカプリオも、強迫性障害に悩む大富豪ハワード・ヒューズを演じた『アビエーター』、さらにギャングに潜入する刑事を演じた『ディパーテッド』、もう、普通の役はやれなくなってしまうかもしれませんね。『インセプション』を観ながらふと感じたのは、ディカプリオがこのまま老けていくと、それはオーソン・ウェルズへの道ではなかろうか、ということでした。

 渡辺謙もまた、監督に直接オファーを受けたという期待に応え、(サイレント映画時代からの定番“怪人フー・マンチュー”よろしく)怪しげな日本人“サイトー”(これはカタカナでしか表現できません)に扮しての快(怪)演です。

 他の登場人物はそれぞれ心に何かのしこりを持っているところ、サイトーのみは“金”に象徴される欲望を軸に(夢の中にでてくる座敷も金屏風か襖絵かで、ぎらぎら輝いていたのでは)、この世のすべて、商売敵の心までも“インセプション”で差配しようという役どころを演じきっていました。

  • 註:登場人物中、最重要人物の一人、主人公コブが夢の中で描く、元妻モルを妖艶に演じるマリオン・コティヤールが出演した映画『エディット・ピアフ』(2007年)では、この“水に流して”の歌唱シーンもあったはず(彼女は、見事セザール賞アカデミー賞の主演女優賞を受賞します)。そのため、『インセプション』を観ながらつい『ピアフ』を連想してしまうのですが、Wikipediaによれば、劇中音楽としての“水に流して”の起用は、企画のかなり早い段階、映画『ピアフ』公開前に決めていたとのことです。
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   しかし、なんでインセプションが“ギリシア悲劇”と関係するのか? 皆さん、わかります? 私も最初のシーンではまったく気付きませんでした。観ているうちに「アッ」と気付いたのは、夢の設計士“アリアドネ”の名前です。

 アリアドネἈριάδνη, Ariadne)、クレタ島の王ミノスと后パーシパエーの娘、本来敵国人のギリシアの王子テーセウスに恋して、クレタ島の王宮深く、ダイダロスが設計した迷宮(ラビリンス)の中に閉じ込められている半身が牛、半身がヒトの怪物、ミノタウロスを殺させ、かつ、糸をたぐることで迷宮を脱出させた女性=つまり、ディカプリオ演じるコブを「4層の深層心理の深みから救い出す女」という寓意が、その名前に込められているのです(これが隠喩[メタファー]です)。

 しかし、もしそうだとすれば、コブが見る夢の中、マリアン・コティヤール演じる、どんな男性でも抗いがたい魅力を発散しながら(=それもコブの深層心理がなすわざではあるのですが)、夢の中にコブを閉じ込めようとするあの元妻モル、あの美女がギリシア神話では人獣合体の怪物ミノタウロスに該当するのでしょうか? そうなんでしょうね!

 実際、Wikipediaによれば、モルとはラテン語で“Mal”、“悪”の意味なのだそうです(言葉遊びがいっぱいです)。それにしても、たいていの男性ならば、たとえそれがミノタウロスであれ、モルと一緒ならば夢の世界(迷宮)に一生とどまることを選ぶのでは? 悪は、善よりも魅力的なのかもしれません。

 それはともかく、いやしくもギリシア悲劇ファンならば、“インセプション”のまだ冒頭、名優マイケル・ケイン演じるマイルス教授(モルの父親であり、コブの師匠)が、コブに新たな“夢の設計士”として教え子を紹介しようと、“アリアドネ”と声をかけたその瞬間、この映画のすべての筋書きが頭に浮かばねばならぬはずでした(残念ながら、私の場合は、映画が後半部分にさしかかってからです)!

  • 註:ちなみに、一見、ごく“ふつー”な女子学生として登場、次第に、コブの夢とそこにあらわれるモルに興味を引きつけられるアリアドネを演じたエレン・ペイジは、2007年のアカデミー賞では女子高生が妊娠してしまう映画『JUNO/ジュノ』(私は未見)で、史上4番目の若さ(20歳と335日)でアカデミー主演女優賞にノミネート、『ピアフ』のマリオン・コティヤールと賞を争ったということです(因縁話がいっぱいです)。 
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 ところで、皆さんお気づきですか? Wikipediaの映画紹介の右上欄、スタッフ・キャストの紹介の下に、製作費と興行収入が書き込んである場合があることを。書き込みがない作品も多いのですが、仔細にみるとそれなりに蘊蓄があります。“インセプション”は8月21日に閲覧した時点で、製作費$160,000,000(閲覧時のレート1$=86.4円で、約138億円)、それが興行収入が現時点で$562,554,000(約486億円)、製作費の3.51倍です。

 これからもアメリカ国外の収入(私が払った入場料も含め)も入るし、やがてDVDでも儲ける=これがハリウッドビジネスの世界です(9月1日の閲覧時には、$624,564,000=8月31日のレートでおよそ526億円。10日間で40億円の増加)。

 ちなみに、低予算で高収入(資本主義の鏡ですね)の映画を探すと、デニス・ホッパー監督・出演、ピーター・フォンダ主演、怪優ジャック・ニコルソンの出世作にして、アメリカン・ニューシネマの傑作1969年公開の『イージー・ライダー』(#57)はほとんど自主映画の感覚で、製作費は$340,000(当時の360円の公定レートで換算して、1億2240万円)、興行収入は$60,000,000(2160億円=現在の物価に換算するといくらになりますか? 1972年に私が京都で大学生活をはじめた時、市バスが30円で現在220円、風呂屋も同じく30円で現在260円、両者の間を取ると8倍で、1兆7280億円!)。製作費の176.5倍。

 もっとも、(私は観ていませんが)1999年公開の『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は3万ドルの製作費で興行収入2億4050万ドル、比率は8016.7倍!

 というあたりで、今回は幕を閉じたいと思います。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...