ギリシア悲劇とその変奏Part3、あるいは総政の100本の映画Part12:“インセプション”と“アリアドネ”

2010 9/1 総合政策学部の学生の皆さんへ 

 先週、話題の映画“インセプション”(#56)を観ました。なかなかの傑作です。監督クリストファー・ノーランについては、最初に注目を浴びた『メメント』しか観ていませんでしたが、着想といい、複雑なストーリーをともかくも最後まで持ちこたえた力技といい、俳優たちのキャステイングのよさもあり、映画館に出向いても十分満足できる作品ではないかと思います。

 私からすると、『ブレードランナー』より上で、『キューブ』と良い勝負、『未来世紀ブラジル』にやや及ばぬか(もちろん、この評価付けは個人的趣味のレベルです)。以下、できるだけネタばれにならないように心しながら紹介したいと思います。

 何といってもクライマックスは、ディカプリオを演じる主人公コブが率いるチームが、夢を通して相手を洗脳すべく、次から次へと深層心理の層を“潜って”いくところ、なんと4層にもわたる深層心理~精神分析医もびっくりというところです~。そして、その層の奈落から現実に戻るべく、“キック”の瞬間をあわせるために、“信号”として各層で鳴り響くエデイット・ピアフの“水に流して(Non, je ne regrette rien、1960年)”、絶品です。

 もっとも、ディカプリオも、強迫性障害に悩む大富豪ハワード・ヒューズを演じた『アビエーター』、さらにギャングに潜入する刑事を演じた『ディパーテッド』、もう、普通の役はやれなくなってしまうかもしれませんね。『インセプション』を観ながらふと感じたのは、ディカプリオがこのまま老けていくと、それはオーソン・ウェルズへの道ではなかろうか、ということでした。

 渡辺謙もまた、監督に直接オファーを受けたという期待に応え、(サイレント映画時代からの定番“怪人フー・マンチュー”よろしく)怪しげな日本人“サイトー”(これはカタカナでしか表現できません)に扮しての快(怪)演です。

 他の登場人物はそれぞれ心に何かのしこりを持っているところ、サイトーのみは“金”に象徴される欲望を軸に(夢の中にでてくる座敷も金屏風か襖絵かで、ぎらぎら輝いていたのでは)、この世のすべて、商売敵の心までも“インセプション”で差配しようという役どころを演じきっていました。

  • 註:登場人物中、最重要人物の一人、主人公コブが夢の中で描く、元妻モルを妖艶に演じるマリオン・コティヤールが出演した映画『エディット・ピアフ』(2007年)では、この“水に流して”の歌唱シーンもあったはず(彼女は、見事セザール賞アカデミー賞の主演女優賞を受賞します)。そのため、『インセプション』を観ながらつい『ピアフ』を連想してしまうのですが、Wikipediaによれば、劇中音楽としての“水に流して”の起用は、企画のかなり早い段階、映画『ピアフ』公開前に決めていたとのことです。
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   しかし、なんでインセプションが“ギリシア悲劇”と関係するのか? 皆さん、わかります? 私も最初のシーンではまったく気付きませんでした。観ているうちに「アッ」と気付いたのは、夢の設計士“アリアドネ”の名前です。

 アリアドネἈριάδνη, Ariadne)、クレタ島の王ミノスと后パーシパエーの娘、本来敵国人のギリシアの王子テーセウスに恋して、クレタ島の王宮深く、ダイダロスが設計した迷宮(ラビリンス)の中に閉じ込められている半身が牛、半身がヒトの怪物、ミノタウロスを殺させ、かつ、糸をたぐることで迷宮を脱出させた女性=つまり、ディカプリオ演じるコブを「4層の深層心理の深みから救い出す女」という寓意が、その名前に込められているのです(これが隠喩[メタファー]です)。

 しかし、もしそうだとすれば、コブが見る夢の中、マリアン・コティヤール演じる、どんな男性でも抗いがたい魅力を発散しながら(=それもコブの深層心理がなすわざではあるのですが)、夢の中にコブを閉じ込めようとするあの元妻モル、あの美女がギリシア神話では人獣合体の怪物ミノタウロスに該当するのでしょうか? そうなんでしょうね!

 実際、Wikipediaによれば、モルとはラテン語で“Mal”、“悪”の意味なのだそうです(言葉遊びがいっぱいです)。それにしても、たいていの男性ならば、たとえそれがミノタウロスであれ、モルと一緒ならば夢の世界(迷宮)に一生とどまることを選ぶのでは? 悪は、善よりも魅力的なのかもしれません。

 それはともかく、いやしくもギリシア悲劇ファンならば、“インセプション”のまだ冒頭、名優マイケル・ケイン演じるマイルス教授(モルの父親であり、コブの師匠)が、コブに新たな“夢の設計士”として教え子を紹介しようと、“アリアドネ”と声をかけたその瞬間、この映画のすべての筋書きが頭に浮かばねばならぬはずでした(残念ながら、私の場合は、映画が後半部分にさしかかってからです)!

  • 註:ちなみに、一見、ごく“ふつー”な女子学生として登場、次第に、コブの夢とそこにあらわれるモルに興味を引きつけられるアリアドネを演じたエレン・ペイジは、2007年のアカデミー賞では女子高生が妊娠してしまう映画『JUNO/ジュノ』(私は未見)で、史上4番目の若さ(20歳と335日)でアカデミー主演女優賞にノミネート、『ピアフ』のマリオン・コティヤールと賞を争ったということです(因縁話がいっぱいです)。 
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 ところで、皆さんお気づきですか? Wikipediaの映画紹介の右上欄、スタッフ・キャストの紹介の下に、製作費と興行収入が書き込んである場合があることを。書き込みがない作品も多いのですが、仔細にみるとそれなりに蘊蓄があります。“インセプション”は8月21日に閲覧した時点で、製作費$160,000,000(閲覧時のレート1$=86.4円で、約138億円)、それが興行収入が現時点で$562,554,000(約486億円)、製作費の3.51倍です。

 これからもアメリカ国外の収入(私が払った入場料も含め)も入るし、やがてDVDでも儲ける=これがハリウッドビジネスの世界です(9月1日の閲覧時には、$624,564,000=8月31日のレートでおよそ526億円。10日間で40億円の増加)。

 ちなみに、低予算で高収入(資本主義の鏡ですね)の映画を探すと、デニス・ホッパー監督・出演、ピーター・フォンダ主演、怪優ジャック・ニコルソンの出世作にして、アメリカン・ニューシネマの傑作1969年公開の『イージー・ライダー』(#57)はほとんど自主映画の感覚で、製作費は$340,000(当時の360円の公定レートで換算して、1億2240万円)、興行収入は$60,000,000(2160億円=現在の物価に換算するといくらになりますか? 1972年に私が京都で大学生活をはじめた時、市バスが30円で現在220円、風呂屋も同じく30円で現在260円、両者の間を取ると8倍で、1兆7280億円!)。製作費の176.5倍。

 もっとも、(私は観ていませんが)1999年公開の『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』は3万ドルの製作費で興行収入2億4050万ドル、比率は8016.7倍!

 というあたりで、今回は幕を閉じたいと思います。

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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