2010年11月

“市”をめぐる人類学Part1:アフリカ等で市場を見ながら、経済人類学から都市・国際政策まで考える

2010 11/27 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ

  今回とりあげる話題は“市”です。“市場(しじょう)”ではなく“市”としたのは、経済学での“市場(しじょう)/マーケット”や“世界市場”等ではないこと、また巨大な“中央卸売市場”等でもないこと、ふつうの“市場(いちば)”あるいは常設でない“市(いち)”のあたりを語るのが私の守備範囲内だからです。

 などと、書き出してから、あらためてWikipediaを閲覧すると、“市”や“市場”、“マーケット”等の定義が結構混乱しているようですね、さらりと整理されているふうではありません(このブログの原稿を書き始めた2010年11月23日の時点で)。

 そこでとりあえず、人々の日々の方便(たつき)をたてるための買物をする場所、そのぐらいの“市”の話から始めましょう。例えば、タンザニアインドネシアマダガスカル等をうろうろしていると、“市”にはある種の共通性が見えてきます。あたりまえですね。みんな生きるために利用する場所なのだから、おのずとその形も収斂してくるわけです。それでは、アフリカ等ではどこに市がたつのか? それはまず、異なる生業をもつ人々が接触するところです。

  例えば、ウシやラクダを飼っている遊牧民は農作物も食べてみたいし、畑を耕している農耕民は肉や乳製品、皮革も欲しい。そうなれば、遊牧民と農耕民が接触する境界に“物”と“物”を交換する場(構造主義文化人類学者のレヴィ=ストロースですね)が必然的に生まれ、そこで等価交換の世界がひろがる(経済人類学のポランニーですね)。そこでいつの間にか、人類学と経済学、そして国際開発がむすびつく。それがヒューマン・エコロジーの視点から見た国際政策の一つの姿です。

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 私の大学院の同級生で今は立教大学で教えている方がいますが、彼がケニアでまず研究したのが、そうした“民族”の“境界”にある“市”でした。ちょっと調べみると、その人の立教大学のHPに「遊牧ポコットと農耕ポコット」(ポコットはケニアの民族の一つです)の境目にある市の写真と記事がでていました(http://www.rikkyo.ne.jp/web/z5000002/kenya/pokot/0508-market.htm)。撮影は1980年、私はその時はタンザニアでの第1回の調査から戻って、1981年の第2回の調査の間に、嵐山のニホンザルの性行動で学位論文を書いていた頃です。

 他に、ケニアの街キスムの市場の小魚売り(たぶん、ビクトリア湖産の小魚ダガーではないかと思います)のおばさんの写真がhttp://www.rikkyo.ne.jp/web/z5000002/kenya/kisumu/fish.htm(1983年撮影ということですが、私はこの時、タンザニアでJICAの派遣専門家をしていました)。

 同じく雑貨売りの兄さんの写真がhttp://www.rikkyo.ne.jp/web/z5000002/kenya/kisumu/retailer-kisumu.htm

 この方は、ケニアの次にマラウイを調査地に選び、現在に至っていますが、そこの土器のマーケットの写真です;http://www.rikkyo.ne.jp/web/z5000002/tanzania/NYAKYUSA/clay-pot-market.htm(背後の巨木はマンゴーです)。 

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 こうした市は、しかし需要の多寡によって、定期市と移動市にわかれます。定期市はいつもそこで営業している。だから、建物もしだいに立派になる。例えば、ギリシア語での“アゴラ”とは、Wikipediaによれば以下の通りです。

 古代ギリシアの市場はポリス内部の地域市場と対外用の市場に分かれていたとし、対内市場の例としてアゴラ、対外市場にはエンポリウムをあげている。アゴラは中央集権制度にかわって食料の再配分を行なうための制度となり、民衆に食物を供給し、新鮮な食材や調理ずみの食品が売られた。アゴラには、カペーロスという小売人が居住していた。ペリクレスは自ら積極的にアゴラで売買を行ない、アテナイは商業的なアゴラを推進したが、アリストテレスは市場としてのアゴラと政治的なアゴラを分離することを主張した。

 とすれば、SPS-アゴラとは、要するに言葉=考え・思想をやりとりする場ということなのですね(ますます、レヴィ=ストロースとポランニーの着眼点の鋭さがわかってきますね)。一方、移動市は、古代~中世日本の六斎市のように、六日に一回ぐらいの割で開かれ、商人たちはそれぞれの商売のルートにそって、巡回していく。

 1960年代、今西錦司率いる京大アフリカ類人猿調査隊の一環でアフリカにつれてこられた京大探検部(久野先生の先輩になるわけですね)の学生谷口穣は、そこでウシ市についてまわる移動食堂に居候(いそうろう)して、旅をともにします。その記録が『日本人牛切りジョー』です(1968年、毎日新聞社刊)。1カ月の居候中、食堂い主が買い込んで谷口たち使用人にと殺、解体、調理させた牛計6頭。この本はもう古書店でしか手に入らないようですね。なかなか面白いのに。

 さて、三日ごとに開く三斎市や六斎市はしばしば交通の要所にもうけられます。これも当り前ですね。人が集まりやすいところ=動線がまじわるところ=そこが市になる。とここまで言えば、都市政策を志す方はすぐ気付かれるでしょう。お偉方が勝手に決めたニュータウンやその他の再開発の商業施設の中で、流行るところと流行らないところがあることを。当然、ヒトの動線を考えながらやらなければいけないのに、それを自らの思惑や利権で進めて・・・・・・結局うまくいかない。よくある話です。

 もちろん、以前も紹介した阪急電車創設者小林一三のように、阪急電車のターミナル=交通の要衝である梅田を、商業施設によってさらに矩地としての存在をたかめるため阪急百貨店を創設する、というように商業施設によってたくみに動線を左右する、これがビジネスプランの極意であるわけですがね(小林一三とそのビジネスプランについては「宝塚映画の謎Part1:総政100本の映画番外編(2009/12/28投稿)等で紹介ずみですね)。    

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 さて、こうして自然発生的に生じた市場は、しかし、様々な権力によって統制されます。一つは、“税金”をとるためですね。アフリカでは民衆から税金をとりたてるシステムも不備なので、政府はこうしたマーケットから取り立てる税金がどうしても欲しい。そうして公的な市場が設定される一方で、(税金を払わぬ)私的な市場は弾圧される(税金がとれないから、イリーガルだとのレッテルをはり、弾圧する)。

 Wikipedeiの“市場”の項には「古代国家においては、中国の制度を参考にしつつ、大宝律令の関市令によって市制を整備した。都の東西に市が設置されて市司という監督官庁が置かれ、藤原京・平城京・難波京・長岡京・平安京などに官営の東西市が運営されていた。この統制市場は正午に開き、日没に閉じ、品物の価格は市司が決定した。また商業施設としての機能だけではなく、功のある者を表彰したり、罪を犯した者を公開で罰する場所としても使用された」とあります。こうして、人々の暮らし→それを支える市→それをコントロールしながら税金をとりたてようという権力機構→その目を逃れようとするブラック・マーケット→・・・・・・ 面白いですね。

 古代中国の歴史書『史記』の「曹相国世家 第24」の恵帝2年(紀元前193年)、漢の宰相蕭何が亡くなると、曹参が後任に任命されます。彼は、その時までつとめていたの丞相の座を後任に引き継ぐのですが、その際に、「監獄と市場は悪人が身を寄せる場所と考えて、慎重に扱ってあまり干渉せぬように」と伝えます。

 後任の者は、政治には市場等より「もっと大事なものがあるのでは?」といぶかしんで問うと、「そうではない。そもそも監獄と市場は善悪すべてを受け入れる場所だ。今君がそれにあまりに干渉すると、どこに悪人がいる場所があるのだ。わしはだからこそこのことを優先するのだ」とさとしたとのことです(『史記世家下』小川環樹他訳、岩波文庫版)。

 この曹参の言葉は、士太夫階級あるいは儒教等の目線から見た“商売観”を物語るとともに、上記の大宝律令等の条文の背景に潜む権力者の視線を感じさせます。ということで、ここで to be continued….(Part 2へ)としましょう。

総合政策の名言集Part7:政治的発言#3

2010 11/26 総合政策学部の皆さんへ

 名言集の続きです。まず19世紀、アフリカはナイル上流に住んでいたアフリカ人の長老の言葉からです。

#32: 「人間はたいてい性悪なものだ。強い者が弱い者から搾り取る。“善人”は皆弱い。悪いことをするほど強くないから、善人なのである」

 すでに「高畑ゼミの100冊Part11:探検記・旅行記・国際関係(2010/01/12投稿)」で紹介済みの台詞でもありますが、19世紀半ば、奴隷市場で出会って恋におちた奴隷の少女フローレンスと共にナイルの源流に向かって遡っていくイギリスの探検家サミュエル・ホワイト・ベーカーに、スーダン上流のある民族の長コモロがつぶやく言葉です(アラン・ムアヘッド( 篠田 一士訳)『白ナイル』より)。マキャヴェリグィチャルディーニロシュフコーら歴代のユマニストモラリストも真っ青なこの台詞、説明は要らないですよね?

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 #33: 「人は罪なきものとして王たりえない」「この男は王として統治すべきか、それとも死ななければならないのです」

 1792年、フランス革命が進行中、フランス国民を裏切った存在として裁判にかけられたルイ16世に対して、弱冠25歳、ジャコバン派の論客として頭角をあらわした“革命の大天使(Archange de la Revolution)” サン・ジュストの王弾劾の演説。この言葉が王殺しを前にたじろぐ議員たちを圧倒、翌1793年の1月14日の審判では、693対28(棄権5)で「ルイは有罪」、292対423(欠席29、棄権5)で「人民への上訴は棄却(つまり、裁判が最終審)、そして387対334で「ルイは死刑」とされ、1月20日に死刑宣告、そして、21日にギロチンによる刑が執行されます。

 その半年後の7月27日(フランス革命暦テルミドール9日)、サン・ジュストはルイを死刑に導いた国民公会を牛耳っていたジャコバン派の首魁ロベスピエールとともに、反ロベスピエール派のクー・デ・ターによって失脚、ルイの後を追うようにテルミドール10日に処刑されます。

#34: 「諸君は、国民が同じ国民に対して砲火を浴びせてもよい、という許可を私にあたえてくださるのでしょうか?」

 1795年、上記ロベスピエールを打倒、プチ・ブルジョアジー革命を停止させたテルミドール派が擁立した総裁政府は、しかし、その中途半端な性格によって、王党派を筆頭とする反革命勢力からも、あくまでも革命の推進を求める勢力からも、さらにはフランス革命をつぶそうとする外国勢力からも挟撃されます。フランス共和国第4年ヴァンデミエール(ブドウの月)13日(グレゴリオ暦で10月5日)、国民公会に攻勢をかける王党派に対抗すべく、抜擢されたこれも弱冠26歳の青年将校ナポレオン・ボナパルトがテルミドール派に確認した際の言葉です。パリのど真ん中で大砲を撃つ、しかも同国人に! この勝利が、ナポレオンを皇帝にまで押し上げていきます。

 「フランス革命の限定相続人」にして後のフランス皇帝ナポレオンの政治的デビューを飾るにふさわしい台詞ではありますが、そこにはフランスの植民地コルシカ出身、政治的経緯からコルシカ革命派から島を追われ、支配者フランスに身を寄せているマイノリティという複雑な立場から、いわば第三者的にフランス人に向ける冷徹な視線がうかがえるかもしれません。

  •  ちなみに、この時、ナポレオンが散弾を発射、王党派の暴徒をやすやすと鎮圧した“革命広場”はその後、“コンコルド広場”と名を変え、現在もパリに残っています。革命前は“ルイ15世広場”だったそうです。なお、コンコルドとは“協調/調和”のことでしょうか? フランス語にはうといのですけれど、言葉の変遷は微妙です; 王名 → 革命 (→ 虐殺) → 調和!
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  •  まったく蛇足ですが、私の好きな抽象派の巨匠モンドリアンの作品に「コンコルド広場」があります。画像のURLはhttp://art.pro.tok2.com/M/Mondrian/pho026.htm
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#35:「一盤散砂」

 近代中国の革命家孫文の言葉。「中国人は盆の上に散らばった砂だ」という、あまりに広大な土地と多くの人民が暮らす中国をなんとかまとめて統治することの難しさを歎じた言葉といわれています。孫文の後継者たちの頭には、たぶん、この言葉がいつも渦巻いているでしょう。

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 それでは、日本の戦国武将の言葉からいくつか。

#36:「これほどにくだりはてたる世の中に候・・・はかりごと多きは勝ち、少なきは負け候と申す兵書の言葉候・・・能も芸も慰みも、道立ても本路だても、何もかもいらず候、ひとえにひとえに武略、計略、調略かたの事までに候」

 4歳で母を、10歳で父をなくし、続いて兄、そしてその嫡男の死で、27歳で一介の国人領主の地位をついでから、75歳で没するまで武略・知略の限りをつくして、中国地方をほぼ制圧するにいたる梟雄毛利元就(1497-1571)の(“くどい”との定評もある)台詞です。“武士道”については、近年、江戸時代の政治的安定期に様々な著作によって形成されたいわゆるクラシックな武士道観に対して、いわばリビジョニズムとして「武士とは、要するに暴力装置の類である」という見方も広まっていますが、少なくとも戦国期の武士にとって、江戸後期の武士道等、鼻の先で笑い飛ばすようなものだったかもしれません。次の朝倉宗滴の言葉も、同様でしょう。

#37:「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」

 毛利元就にやや先んじて、越前国でやはり守護代から国主になりあがる朝倉氏に属し、朝倉貞景から朝倉義景までの三代に仕え、軍配者として79歳まで現役だったという朝倉宗滴(1477-1555)の言葉として伝わる『朝倉宗滴話記』からの台詞です。軍配者とは、大名のスタッフとして軍陣を決定する方ですね。つまり、参謀です(スタッフ、参謀については「リーダーシップ、ラインアンドスタッフ、“能率”とは何か?(後半):総合政策のための名言集Part4+高畑ゼミの100冊Part20」をご参照)。

 しかし、やはり戦国の世を勝ち抜いてきた方々の言葉はすごいですよね。「自分が生きている時代を生きることができる」者たちの述懐です。この『宗滴話記』には以下の台詞がでてきます(現代語訳;出典は杉山博『日本の歴史11 戦国大名』中公文庫版)。

  • 第3条:いっさい「できない」ということばを言ってはいけない。心中を敵にみすかされるからだ。
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  • 第4条:攻勢のとき、「おそらく敵はふせぎきれないだろう」ということをことばに出してはいけない。もし敵が防ぎきれなくなったら、自然と敵の心が変わるものである。自分から予測してはいけない。
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  • 第9城:大事の合戦のときや、大義の退却のときは、家臣らが大将の気持ちを気にするものである。そのとき、いささかも弱弱しい態度を見せてはいけない。またことばにだしてもいけない。
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  • 第28条:蓄えがなくてはいけない。しかし金持ちのように蓄えることを目的としてはいけない。伊豆の早雲(=北条早雲)は針をも蔵につむほどの蓄えをしたが、軍備にはおしげもなくつかった。
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 等と、現在の政策学・経営学でも通用しそうな事が満載です。現代の政治家もすこしは勉強したら良いのに、とつい思ってしまいます。

戦争について考えてみましょうPart2:武器と兵器の違い#1

2010 11/21 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ

 今回は、戦争について、その道具=兵器と武器にまつわる話をしたいと思います。以前の記事にも書きましたが(「戦争について考えてみましょうPart1:貧しさの中の平和 vs. 豊かさの中の戦争?(2010/09/23 05:29投稿)」)、縄文時代のは食物獲得用とおぼしき小型のものばかりだが、弥生時代の鏃は対人殺傷用のように大型化する。「それが日本列島における戦争の起源にかかわっている」というのが、戦争の研究会の主催者佐原真先生の持説でした。 

 子供の頃、ハリウッド映画(たぶん、西部劇)を観ていたら、主人公がピストルを持たない理由を問いただされて、「あれは人を殺すためにしか役立たないから」と答えるシーンがうろ覚えながら頭の隅に残っています。たしかに、ライフル銃散弾銃は、開拓時代の生き残りのための道具(狩猟・護身)としての存在意義がある。しかし、ピストルはたとえ護身用としても、人を殺傷するためにしか役立たない。ピストルは銃身が短いため、射程距離が短く、かつ、弾道も不安定からです=これは物理学の世界ですね(もっとも、ごくわずかながら狩猟用大型ピストルも市販されているそうです。例えば、S&W M29ダーティ・ハリーの使用銃ですが、本来は大型獣狩猟用)。 

 つまり、生きるための道具としての武器と、人を殺すための道具としての兵器がある。この違いを、皆さんはどの程度意識されていますか? 「平和ボケ」しているかもしれない日本では、ある意味、興味深い話題かもしれません。刃物を使った殺人事件がおきるたび、刃物に対する規制が進みますが(銃砲刀剣類所持等取締法;URLはhttp://www.houko.com/00/01/S33/006.HTM)、しかし、最後は包丁までもなくすわけにはいかない。

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 そこで、またWikipediaをひもとくと、

  •  武器:「戦闘や狩猟に用いる道具や器具の総称である」
  •  兵器:「戦争において使用する全ての車両、航空機、船舶、設備等の事を指し、敵となった目標を殺傷、破壊するためや、敵の攻撃から防御するための機械装置である」
  •   

 また、「兵器」にはあきらかに武器でないものも入ります。例えば、コンピューターや、兵士の食事をつくる調理器具も入るかもしれない(=「腹が減っては、戦ができぬ」)。このため汎用機器でさえ兵器になる。すると、「日本のいわゆる武器輸出三原則も考えものだ」と政財界の方々等は思うかもしれません。 ということで、政治家の意見も千路に乱れがちです。最近の報道記事に、以下のようなものもあります。

  •   「武器輸出三原則の見直し、防衛大綱向け議論 政府答弁書」
  •  菅内閣は22日午前、武器輸出三原則の見直しについて、年末の防衛計画の大綱(防衛大綱)の改定に向けて「三原則を取り巻く状況の変化を考慮しつつ、その扱いについて議論していく考えだ」とする答弁書を閣議決定した。 防衛大綱の改定で、武器輸出三原則の見直しに踏み込むかどうかが、今後の焦点となる。(中略)
  •  武器輸出三原則の見直しをめぐっては、産業界や防衛省内に、国際共同開発に参加して技術力を維持したいという強い要望がある。菅直人首相の私的諮問機関「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会(新安保懇)」も今年8月末の報告書で、「国際技術革新の流れから取り残されるリスクにさらされている」と見直しを提言した。(以下略;asahi.com[2010年10月22日12時12分]からの引用;http://www.asahi.com/politics/update/1022/TKY201010220188.html)。
  •     

 なお、日本は現在のところ、“兵器”の輸出に慎重とは言え、小形“武器”は狩猟用(=民生用)として結構輸出しているそうです(例えば、豊和工業製造の豊和M1500ボルトアクションライフル等)。これを“兵器輸出”と見るかどうか、微妙なところです(こんなことをほざいていると、“平和の鳩時計”だけを輸出してきたわけではないスイス人などから、あまりのナイーブさを笑われるかもしれません)。

 その一方で、“兵器”から“民生用道具”に生まれ変わる事もあります。例えば、明治13年、念願の近代的国産小火器として誕生した村田銃(これで日清戦争を戦います)は、戦後、兵器の更新とともに、民間に払い下げられ、散弾銃に改造されて、長らく狩猟用に使われています。あるいは、甲冑師として名高かった明珍家は、明治の廃刀令等以後、その技術を転用して火箸(明珍火箸)や風鈴制作に転じるのも、兵器用技術の民生品転用にあたるでしょう。

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  ということで『戦争の研究会』での佐原真先生の持論は、上記のように、“生活のための道具(民生品)”が護身用であれ、殺傷用であれ、“殺人”のための道具に変身したことを重視した、まことに卓見というべきものでした。 

 ちなみに、ヒト以外の霊長類はたいてい犬歯が発達して、キバ状になっています。有蹄類(ウシやウマの類)がたいてい犬歯が小型化、あるいは失い、もっぱら脚の速さで捕食者から逃げるのに対して、サルの仲間はある程度の武器を口の中に仕込んでいるわけですが、ヒトはキバがない → つまり、手=前肢の発達で、手に武器をもつことを習いにしたためです。なお、チンパンジーはよく狩猟するのですが、この時に獲物(小形のサルやカモシカ類が多いのですが)を捕まえるのは圧倒的に手で、かなり大きな犬歯(キバ)を使うことはありません。すでに、ヒトへの道をたどりつつあるとも言えるかもしれませんね(大昔に、私がチンパンジーの狩猟について書いた論文を、右のURLで見ることができます;http://www.springerlink.com/content/y743337171720075/)。

 それでは、この霊長類の犬歯=“武器”は何のためか? アメリカ合衆国憲法修正条項第2条に定められた「武器を所持して携帯する権利」を根拠に、銃規制に反対している全米ライフル協会等のように、“護身”のための必要品だというのならば、実はメスの犬歯が小さい理由が説明できない。オスの犬歯が大きいのは、メスという限られた資源をめぐるオス間の競争のために発達した性的二型によるものなのか? そうなると、護身用というよりも、争いのための武器=兵器の根源ともいえるかもしれない。

 こんな風に考えていくと、武器と兵器の違いは、十分に総合政策的考察の対象とすべきものになっていくかもしれません。ということで、この項も to be continued ということにしましょう。

ファッションの人類学Part1:帽子をめぐるフェルナンドとココの冒険~パリが移動祝祭日であった頃~

2010 11/18 総合政策学部の皆さんへ

 ファッションがどのような“パワー”を持つか? 例えば、20世紀初頭のパリ、ピカソの最初の妻(正式な結婚ではないので、愛人というべきかもしれませんが)フェルナンド・オリヴィエはアメリカから来た女流作家ガートルード・スタインの秘書(同性愛のパートナーでもありますが)アリス・B・トクラスに、パリ女としてのファッション観を教え込まそうと気をもみます。

 その二人のやりとりを、スタインは「トクラスの目から見た」という設定の『アリス・B・トクラスの自伝』にちょっと皮肉っぽく書きつけます。

  •  「フェルナンドはわたしが初めて同席した天才の最初の夫人でしたが、あまりおもしろい女性ではありませんでした。この最初の日、わたしたちは帽子の話をしました。フェルナンドの話題は二つきりで、それは帽子と香水でした。(中略)フェルナンドは帽子というものが好きでした。彼女は帽子について真のフランス的感情をもっていました。
  •  「もしある帽子が、街の男性からなんらの警句もひっぱりだしえないとしたら、その帽子は失敗なのです
  •  
  •  あるときフェルナンドとわたしはモンマントルを一緒に歩いていました。かの女は大きな黄色い帽子を冠り、わたしは小さな青い帽子を冠っていました。わたしたちが歩いていくと、ひとりの労働者が立ち止まって叫んだものです。
  • ほらお陽さまとお月さまが一緒に照りながらあそこを行くぜ
  • 「ああ」、といってフェルナンドが晴れやかな微笑を浮かべてわたしにいいました。
  • ほらね、わたしたちの帽子は成功よ
  •       (ガートルード・スタイン[金関寿夫訳『アリス・B・トクラスの自伝』より)
  •  

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 ラテン文化では、人々は(カフェテラス等に集う)他の人たちに見られることを意識しながら、通りを歩きます。つまりは、街中がファッション・ショーをしているようなもの。年代を考証すると、1907年のことでしょう。まさに、ベル・エポック、パリが移動祝祭日であった頃です。

 帽子は、ルイ14世の昔からフランス女のあこがれの的です。そして、ファッションの世界でそれまで君臨していた男性デザイナー(ポール・ポアレ)を蹴落とし、女性デザイナーとしてスキャパレリとともにファッション界に君臨するガブリエル・ココ・シャネルのいわば出世の第一歩が、その帽子専門店なのです(シャネル・モードの帽子の写真はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Chanel_hat_from_Les_Modes_1912.jpg)。

  ところで、この頃、ピカソはガートルード・スタインの肖像画を描くのですが、その絵はみんなに不評です。アリス(の目線でのガードルード・スタイン)はこう書き記します。 

 「わたしはピカソが描いたガードルード・スタインの肖像が気に入ったことをピカソに低い声で告げました。そうです、ピカソはいいました。みんなあれはかの女に似ていないっていうけれど、そんなことはどうだってかまわない、そのうちにガートルードの方が(絵に)似てきます。かれはそういいました 

 そして、その後、ガートルードはいつのまにか絵に似てきた、というのが、現在の評価の通り相場になっています。その肖像画は、現在、ニューヨーク・メトロポリタン美術館にあります(画像のURLは以下の通り)。http://www.metmuseum.org/works_of_art/collection_database/all/gertrude_stein_pablo_picasso/ 

 ちなみにフランス人をもさしおいてアンリ・マティスの絵を買い込み、自宅にピカソの『花篭を持つ少女』を飾ったガートルードのコレクションは、彼女の死後、まことに残念なことに散逸してしまったそうです(ガートルード・スタインを紹介するサイトはhttp://ellensplace.net/gstein1.html)   

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 さて、フェルナンドとアリスの散歩の3年後の1910年、心持ち顎をもちあげ、口元に浮かぶ微笑みのうちに負けん気を秘める若い女性、ガブリエルがパリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という帽子専門店を開店します。

 死ぬまで他人から隠し通しそうとした幼いころの境遇(母が死に、父に棄てられ、孤児院や修道院で暮らした日々)を抜け出し、金持ちの男たちの愛人としてパリに上京して、ココという愛称で社交界に顔をだすも、それにはあきたらず、愛人の一人イギリス人アーサー・カペルの援助で自らの才能だけを武器にして挑戦するのです。

 彼女はある日、ごてごてに飾り立てた女性たちをみながら(それらは、やがてシャネル自身によって一気に“旧式”にされてしまうのですが)、カペルの耳元で囁きます

こんなことが続くはずはないわ。あの人たちにシンプルな服を着せてやるわ、それも黒ずくめで」(ワイザー(岩崎力訳)『祝祭と狂乱の日々』より)。 

 1913年には、ノルマンディーのリゾート地ドーヴィルに第1号のモードブティックを開店(女友達等がシャネルの服を着て浜辺を闊歩して、いわば動く広告塔となります=「その服はどちらでお仕立てになったの?」)。続いて1915年、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン、ココはオートクチュールのデザイナーとしてデビューします(Wikipedia等による)。

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 その後のシャネルの快進撃は、驚くべきものがあります。ブティック開店の数年後、ベル・エポックのミューズ、ミシア・セルトはこの若い娘のような経営者にたまたま出会うこととなります。ミシアは回想します。

 「テーブルにつくとすぐ、私は黒髪の若い女に注意をひかれた。ひとこともしゃべらなかったけれど、抗しがたい魅力があった。どこかマダム・ド・パリを思い出させるところもあった。食後、それとなく彼女の隣にすわるようにした。サロンで初対面につきものの陳腐な挨拶を交わすうちに、彼女がマドモアゼル・シャネルという名でカンポン通りに帽子屋をもっていることがわかった。(中略) カンポン通りの店が急激な拡張をとげ、マドモワゼル・シャネルが女性の装いを変革したのは、戦後間もないころだった。彼女はコルセット、鯨の髭のステー、高いカラーを廃止し、髪も短く切った。(中略)ファッションに関する限り、シャネルは当時の法律制定者だったと言っても過言ではない」(ゴールド&フィッツテイル(鈴木主税訳)『ミシア』)

 そして、ミシアはシャネルとロシア・バレー団主催者セルゲィ・ディアギレフとの運命の仲立ちも、心ならずもしてしまう。1920年代初め、たまたまホテルでディアギレフにであったミシアはシャネルを彼に紹介するが、同性愛者でもあるディアギレフは黒いドレスの寡黙な女性に一顧だにすることなく、ミシアに窮状を訴えた。『春の祭典』の再演のためには、なにしろ金が要る。

 虚しくパリに帰ったディアギレフを、しかし、先ほどの黒服の訪問客がおとずれ、小切手をプレゼントする。ただ一つの条件は、自分の寄付を誰にも知られないようにということだけ。

 この時以来、ディアギレフとミシアとの腐れ縁のもと、シャネルはバレー団の衣裳をも手掛けるようになっていきますが、このエピソードは「プロデューサーの奨め~ディアギレフに関する様々なこと~;高畑ゼミの100冊番外編(2010/02/8投稿)」等で紹介済みですね。

 ブティック開店ほぼ10年、シャネルはロシア・バレエ団のパトローンになることで、全パリのあるいは全ヨーロッパのファッションを支配するまでにいたるのです。

 ポアレが、現在は再評価の声が高いとはいえ、一介のデザイナーに終わったのに対して、シャネルはその存在自体が社会現象であり、シャネル・スーツに象徴されるように、女性の社会進出の偶像になっていきます(それにもかかわらず、シャネル自身は、若くして死んでしまったカペルへの思いに引きずられてか、結局いつも男に頼ってしまうところもまた指摘の声が多いところではあるのですが)。  

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 これこそまさにソフト・パワーかもしれません。同時に、シャネルは20世紀前半の(エジソンやフォード等)一群の起業家の輝かしい星の一人になります。→ Part2へ

異文化に出会う時:日本人はどのようにして異なる食文化に出会ったか?Part1

2010 11/15 総合政策学部の皆さんへ

 日本はいまや世界の食事を楽しめるところかもしれません(でも、本当かな? 例えば、ウガリを出してくれる店はあるのでしょうか? と思ったら、検索してみると、あるのですね。ウガンダ料理店ZICOFE COFEE SHOP;愛知県日進駅近くとのこと。今年2月にできたばかりのようです; http://www4.ocn.ne.jp/~kanzi/sub11.htm)。

 なお、東アフリカに広く広がる“固練り粥”の系統の主食ウガリについては、「食べることについてPart3:フィールド初級講座#3 主食について(2010/01/1 12:38投稿)」で紹介済みです。おいしいんですけどね(とくにキャサバのウガリは)、昔、某テレビ番組の現地レポートで、某国民的タレントが「こんなものを食べてるの!」といかにもさげすんで叫んでいたシーンがありましたっけ。

 それではマダガスカル料理は、というと、どうやら次の記事が該当しそうです:「エリックピエール|マダガスカル料理|駒沢大学:駒沢通りと駒沢公園通りの角に、2006年7月に茅ヶ崎から移転オープンしたトラットリア。ふだんはイタリア料理店ですが、15人ほどのグループで前日までに予約をすれば(また、もっと少人数でも材料があれば)、マダガスカル出身のシェフ、エリック・ピエールさんによるマダガスカル料理もいただくことができます(ディナーのみ)。http://e-food.jp/blog/archives/cat138/」とあるのですが、なんとページに小さく、「※残念ながら2009年3月に閉店しました」との註がありました。 残念ですね!

 ということで、今回は、日本人が異文化に出会ったとき、とくに、日々の生活でとまどう“食”を中心に、エピソードを紹介しましょう。登場するのは、あしかけ4年の漂流・異国生活を強いられた船頭重吉に、黒船後、江戸幕府の厳命を受けて、はるばる異国に赴く遣米、遣欧使節の面々等です。

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 さて、「高畑ゼミの100冊Part9;食について#2『江戸たべもの歳時記』そして『仰臥漫録』(2009/12/21投稿)でご紹介済みの浜田義一郎先生の名著『江戸たべもの歳時記』には、現在の国民食カレーライスについて、以下の句が採録されています。

 『ライスカレー きたない飯と 下女覚え』(明治31年)

 それまで西洋料理等あまり目にしない地方からでてきた下女の眼には、飯とカレーをまぜあわせるカレーライスは“汚い”と映ったようです。もっとも、この後、夏目漱石の『三四郎』では田舎(熊本)から出てきたばかりの三四郎に与次郎がカレーライスをごちそうするまでに普及するのですが。

昼飯を食ひに下宿に帰らうとしたら、昨日ポンチ絵をかいた男が来て、おいおいと云いながら、本郷の通りの淀見軒と云ふ所に引っ張っていって、ライスカレーを食はした。淀見軒と云ふ所は店で果物を売っている。新しい普請であった」(『三四郎』;ちなみに、この(授業中に)ポンチ絵を描いていたという男が与次郎=後の『赤い鳥』の創刊者である鈴木三重吉といわれています)。 

 それでは、このカレーライスを最初に目撃した記録は? 文久3年12月29日、当時のフランス第2帝政時代の皇帝ナポレオン3世への幕府からの使者(横浜鎖港談判使節団)が横浜を出帆しますが、上海でどうやらイスラームの乗客と同船したと思しく、礼拝の後、

飯の上へトウガラシ細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にてまぜ、手にて食す。いたって汚き人物の者なり」 

 との書き残しがあり、これが日本のカレーライス史の最初の文献ではないか、と浜田先生は考証されています。もっとも、明治7年に刊の『西洋料理指南』では、さっそくカレー料理が紹介されています。ちなみに、カレーに使う肉は「鶏、エビ、タイ、カキ、赤蛙等」とあります。東南アジアのフィッシュカレー(とても美味しいのですが)等を連想させます。

  なお、Webをさがしたら、京都外国語大学のHPに『西洋料理指南』の解説があります(http://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/data17.htm)。

 また、国立国会図書館の第129回常設展の開設のページにも『西洋料理指南』も含めて、カレーに関する各種の文献がでています(http://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/entry/jousetsu129.php)。

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 本題にもどって、我々の祖先はどのように“異国”の料理に出会い、それに慣れていくのか? そのもっとも典型的な例が、船の難破による漂流、そして異国船による救助です。

 なかでも、 文化10年[1813年]遠州灘沖で遭難、484日の漂流の後、イギリスの捕鯨船に助けられた名古屋納屋町の督乗丸の船頭重吉は、1816年9月現在の北方領土択捉島に帰還、1817年故郷の尾張藩に戻ります。その後、国学者池田寛親の聞き取りによる名著『船長(ふなおさ)日記』を残しますが、14名の乗組員中帰国できたのは2名のみ、後半生を仲間の犠牲者の供養に努めます(Wikipediaより)。

 さて、その『船長日記』、私が持っているのは筑摩書房世界ノンフィクション全集版(現代語訳)ですが、救助直後、船長のベケツ(今の標記では“ベケット”なんでしょうね)は、飢餓状態にある遭難者に急に食べさせると支障をきたすことをおそれて、なかなか飲食物を与えず、

午前10時ころになって、茶に砂糖を入れ、黒ん坊(差別用語ですが、原文のママ出します)が持ってきた。「いまいっぱい」と頼んだが、その後は持ってこなかった。お昼になって、浅い皿鉢のようなものに、小麦だんごを大きくして焼き、正月の切りもちのようにきったものを一切れ入れて持ってきた。また赤い蒲鉾のようなもの一切れ、鯨の脂身のようなものを一切れ、水をいっぱい持ってきた」

「まず水を飲み、その小麦だんごを喰い、鯨の脂身を食べ、さて蒲鉾のようなものを食べようとしたが、塩辛く臭いにおいがするので食べることができない」 

 もうおわかりですね。浅い皿鉢は洋皿のこと、小麦団子はパンのこと=形状からすると食パンのトーストかもしれません。それでは、蒲鉾と鯨の脂身は? それは重吉が異国人との付き合いにだんだん慣れてくる頃にわかります。

それまで鯨の脂身だと思っていたのは最前の豚の頭を蒸し焼きのようにしたものだった・・・・鯨と思っていたのも豚であったので、かの蒲鉾も何で作ったものか聞きたく思い・・・(水夫が)間もなく下へ行き、ウシの角を二本もってきて見せてくれた・・・・桶の蓋を取って見せたから、よくよく見ると、ウシをいろいろに切り 刻んで塩漬けにしたものであった。 これには驚きあきれてしまった。

  ・・・・(仲間が)「ことに鯨の脂身は味が良かった」など言うのを聞いて、 「その鯨というのは実は豚なのだ。蒲鉾だと思っていたのはウシである。いまや私たちは もう神々は拝めない身だぞ」 と言ってきかせた

 鯨の脂身とは、たぶん沖縄やバリ島の市場にいけば売っている豚の頭の皮と脂肪の部分の薄切りでしょね。 一方、赤い蒲鉾とは牛肉で作ったソーセージかハムのような保存食品で、ウィンナーのように赤く着色していたかもしれません。 

 重吉の言葉に、仲間たちはうろたえて「このうえは豆のようなものとだんごだけを与えて下さるようお願いして下さい」と懇願します。しかし、重吉は気丈にもそれをしりぞけ、「いやそれはよろしくない、こうした場合だから、何にても下さるものを我慢して食べるべきである」と言って聞かせるのです。

 こう書いていると、船頭重吉も並々ならぬリーダーシップの持ち主、あしかけ2年の孤独の漂流を見事乗り切った器量は高く評価されます(その間、飲料水をためるため“らんびき(海水から真水を得るための蒸留機)”まで自作します)。

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  さて、話をまた江戸末期にもどして、1860年、日本からアメリカに“万延元年遣米使節”が旅立ちます。その副使村垣淡路守範正こそ、代々御庭番の家に生まれ(要するに隠密です)、そこから出世を重ねて勝手掛勘定奉行、そして神奈川奉行を経て、ついに日米修好通商条約批准書交換のための使節副使にまで出世します。

 ちなみに、一行中、長崎の通詞あがりで、明治維新後はジャーナリストに変身するやや“パッパラパー”気味のインテリ福地源一郎こと桜痴には「純乎たる俗吏にて聊か経験を積たる人物なれば、素より其の器に非ず」と酷評されていますが、いやなかなかの才気、『遣米使日記』(筑摩ノンフィクション全集14巻)には、異国の風情をきわめて素直に受け取る観察眼が結構です(それなのに、この14巻の編者の木村毅も「この日記については特に言うべきことをもたない」と冷たいようです。どうも、インテリが一般人を軽視したがるのは、太古の昔から変わらぬようですね)。    

 村垣が書き残した『遣米使日記』には、半世紀後にアメリカ帝国主義者の毒牙にかかり、アメリカ合衆国に併合されてしまうハワイに往路立ち寄った際、ハワイ王国国王のカメハメハ4世夫妻に謁見する場面もでてきます。謁見後の村垣の日記には、つい王宮を竜宮に、王妃を阿弥陀如来に例えるざれ歌まで書き付けられます。

  •  つくづくきょうのありさまを考えるに、海外の事情は、たまに漂流人の話を聞き書きにしたものを見るばかりであったが、このような礼節をもって国王・妃に会見するとは、実に夢路をたどるばかりである。
  •  「わた津海の 竜の宮とも いはまほし うつし絵に見し 浦島がさま」
  •  王は金のたすきようのものをかけてかざり、妃は前にいったごとくあみだ仏のごとし。さればまたざれ歌を、
  •  「ご亭主は たすき掛けなり おくさんは 大はだぬぎて 珍客に会う」
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  •  これを桜痴のように「純乎たる俗吏にて」と片づけるか、それとも異国の王にも悠々接する様ととらえるか? 皆さんの感想は?
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 なお、このカメハメハ4世は先進的な政策をとろうとして、「1855年にカメハメハ4世は公立病院や高齢者向け施設の建設などを盛り込んだ野心的な法案を議会に提出するものの、1852年の憲法で多くの権限を手にしていた議会はこれを否決。

 これを受けてカメハメハ4世とエンマ女王は独自で基金を募り、現在も先進的な病院として知られるクイーンズ病院を建設、またマウイ島にはハンセン病の医療施設を建設するなど、かなりの成果を」あげるのですが(Wikipedia)、村垣たちに謁見した3年後、29歳の若さでなくなります。それはいずれハワイ王国がアメリカ帝国主義によって合併される道への序曲でもあります。

 と以下は、to be continud・・・・・(Part 2へ)としましょう。

生き物を紹介しましょうPart5:嫌われる生き物とは?:嫌うことと好む事についての考察もふくめて#1

2010 11/13 総合政策学部学生・院生の皆さんへ

 今回は少し変わったテーマかもしれませんが、生き物を通じて、「好まれること」と「好まれないこと」、そして「嫌われること」について、少し考えたいと思います。それにしても、“好悪”というのはどんな基準で決まるのでしょうね? 例によって、 「なんでも出ているけれど、あまり信用してはいけない」“Wikipedia”で“好悪”を検索すると、なんと単独の項目には出てきません。

 Yahoo辞書ではどうかといえば、「 好むことと憎むこと。すききらい」(『大辞林』)。これでは肩すかしです。我々は「表面的な意味」ではなく、「根源的な真理」が知りたいのに。

 ということで、ヒトになぜ“好悪”の感情が走るのか? すべての人間に共通の“好悪”は成立するのか? 共通の“好悪”に近いものがあれば、それは“倫理”のベースになるのか? それは遺伝的なベースがあるのか? 儀役に、特定の人だけが持つ“好悪”を論理的に説明できるのか? 哲学的問題でもあり、倫理学的問題でもあり、心理学的問題でもあり、ひょっとしたら進化心理学的問題かもしれません。

  •  もうお気づきでしょうけれど、好悪を考えていくと、国家・人種・民族(=外国人嫌悪/ゼノフォビア)、文化、宗教、階級、世代・・・・・・・さまざまな好悪のレベルに適用可能な問題提起がたてられるはずです。このあたり、是非、哲学者としての鎌田先生や細見先生等、あるいは国際政治等での現実面に関しても国際政策等のご専門の先生方のご意見等お聞きしたいところですね。
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 さて、話をあまり大きくすると、私の守備範囲から逸脱してしまうので、生き物の話の方にあわてて戻りましょう。好き嫌いが典型的にうかびあがる動物がいます。その筆頭は、ネズミとリスでしょう。ちなみに、ネズミ下目には1000種を超えますが、そのうち、人為的環境にすりよったイエネズミはたいていクマネズミドブネズミハツカネズミの3種なのに、ネズミというだけで嫌われてしまう。

  • 往年の人気アニメ『トム&ジェリー』のジェリー(Jerry Mouse)や、かのミッキーマウスMickey Mouse)も“ラット(Rat;ドブネズミ/クマネズミのような大型ネズミ)”ではなく、“マウス(Mouse;小形ネズミ類)”というからには、ハツカネズミなのでしょう。

 なぜ、ヒトはネズミを嫌うのか? その一つは、イエネズミが人間の生活にあまりに密着していることかもしれません。野生生物にとって、人間が作る人工環境はけっして悪いものではありません。サルの研究者として、私は(とくに毒とわかっているもの以外は=実は、サルは、結構、毒のあるものを口にするのですが)サルが食べる植物をおおかた試食していますが、たいていは農作物と比べて、不味い。作物はとても美味しいし、そして、栄養もある(=それこそ、人類史上最大の文化遺産なのです)。

 となれば、ひとたび人間の環境に忍び込めば(=パラサイトすれば)、結構な生活が待っている。こうして、例えば、ゴキブリ(語源は、食器(御器=ゴキ)にカブリつくとんでもない虫=ゴキカブリ → ゴキブリ;Wikipediaによると、用語集の誤植によるという話があるそうですが、本当かな?))、イエバエイエシロアリ等が出現します。これらはひとくくりに「害虫」とされます。

  • そういえば、ゴキブリの本来の生活をご存知ですか? 彼らはもともとシロアリに近縁で、森林の中で朽木や腐食物を食べるという、自然のリサイクル屋さんとして立派な任務を預かっていたのです。例えば、屋久島の森には、巨大森林棲ゴキブリがいて、サルに食べられていたりします(さすがに、私もゴキブリに手を出す勇気はありません) → Web上では、ゴキブリ専門のサイト「ゴキブリ秘宝館」があります:http://members.at.infoseek.co.jp/dentan/
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 なお、害虫等の定義は結構複雑で、実際に被害をあたえるもの(農作物にダメージを与えれば農業害虫、病原体等を媒介すれば衛生害虫)、被害と言うほどのものは与えなくても不快感をあたえるものは不快害虫となります。現在の学生さんは、“虫”の気配を感じると、どんな虫なのかを問わず、とりあえず、不快感を発するように(私の眼からは)見えますから、今や、すべての虫が不快生物とも言えるでしょう。これはネズミなどの有害/不快動物にも共通です。

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 さて、ヒトがネズミや害虫、あるいはヘビをきらう究極の理由は、危険回避かもしれません=感染症の蔓延や毒ヘビからの危害を避ける、という進化生物学的な意味があるのかもしれません。皆さん、腐ったもの(=嗅覚的信号)や毒々しいもの(=視覚的信号)は避けますよね? あれは、お腹に悪いもの、そして毒であるものを避けようとする意味があります。それと同じことが、我々の感覚にすりこまれているのかもしれません。

 そのちょろちょろするネズミに比べて、リスがかわいく見える。この理由の方が追求すべきかもしれません。何といっても、枝の先で座る、両(=前足)を使ってもの(=クルミ等の果実)を持つ。同じ樹上生活に適応した我らの先祖、霊長類に生活も仕草もなんとなく似ています。そして、ふさふさした尻尾。それに比べて、屋根裏や溝をうろうろするクマネズミドブネズミの尻尾は、なんとなく不気味です。そういえば、ペットになっているハムスター類は一般に尻尾が短く、ネズミ的尻尾というイメージが薄いですよね。そして、何より、リス等はヒトの生活にあまり立ち入らない、奥ゆかしく見える(タイワンリス等は農業被害もあるようですが)。

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 さて、人に嫌われる不快生物のもう一つの筆頭がカラスです(いにしえは“八咫烏”など、日本神話にも登場していたのに)。私は関学に赴任前に、鳴門教育大学でしばらく教えていましたが、大学のすぐ近くの小山がカラスの塒(ねぐら)でした。塒といっても、冬季のみです。春から夏にかけては、繁殖のため、ペアでなわばりを作ります。

 それで、学生を動員して数を数えると、最高7840羽という値になりました。一方、県内ではこうした塒は数が限られています。そのため、その気になればある県のカラスの全数もカウントできないわけではない、という野生生物では珍しい部類にはいります(同様に、孤島で繁殖する海鳥類や、アザラシ・アシカ等では全数的調査が可能です)。

 カラスも調べ出すと結構おもしろいものです。まず、皆さん、三田で見るカラスに2種類あることはご存知ですか? 北方シベリアから分布、日本列島を南下してきたハシボソガラス(名前の由来は、クチバシが細く見えることから)。そして、東南アジアのジャングル(英名は”Jungle Crow”)から日本列島を北上してきたハシブトガラス(こちらはクチバシが太い。もっとも、見分けるコツは額がこんもりと丸くもりあがっていることです)。この2種が、日本列島に南北から進出してきて、ちょうど混じり合っているのが現状なのです。

 この2種は、ハシボソが開けた田園地帯に、ハシブトが山岳や海岸地帯に住む等、多少のニッチの分離がありますが、日本人の生活にはごく身近にいる=それゆえ嫌われる生物です。とくに、ハシブトは東京等を筆頭に、都市部への進出が著しく、それも都会のビル街も、もともとの生息地にある断崖(=例えば、海岸の崖)に見立てれば、餌(=生ゴミ)さえあれば恩の字です。

 もっとも、銀座のカラスが一年の中で一番悲惨な日々、それは正月三が日なのだそうです。つまり、銀座の店は皆閉まって、生ゴミがない=食べ物がない日々がしばらく続く。つまり、人相手に寄生するのも、それなりにつらい人生なのです。

 と書いていたら十分に長くなってしまったようです。このあたりで、to be continud・・・・(#2へ)にいたします。

総政100本の映画Part12:旧東欧反体制映画の日々:国際政策を映画で勉強しよう(#2)

2010 11/8 総合政策学部の皆さんへ

 リサーチ・フェアも無事終了しましたし、それでは日常世界に戻ることにして、#1に続き旧東欧反体制映画の紹介を続けましょう。とは言え、ベルリンの壁崩壊(1989年)以降、いまやEUユーロが支配するヨーロッパで、かつての社会主義政権(いわゆるワルシャワ条約機構)に対する反体制派の人々はどうしているのでしょうか?

 理想を求めて結局挫折してしまったか? 「こんなはずじゃなかった」とほぞをかんでいるか? あるいは早々に資本主義者に変身して、金儲けに専念しているか? それとも、黙って田舎の別荘(ロシア語のダーチャ)で畑を耕しているか? みんなありそうなことですね。

映画番号#58:「バリエラ」:イエジー・スコリモフスキ監督、1966年公開のポーランド映画です。ゴムルカ体制まだ健在のポーランド、ポランスキーの『水の中のナイフ』から4年後。すでに体制は確立したかにみえ、単純な反抗はいまや児戯に等しく、大学生たちにも体制が要求する道をたどるしかないように見えるワルシャワの街で、そんな社会に疑問を感じる彼らの心象風景と彷徨。それが白黒のコントラストの強い画面に見事に映像化される。

 例えば、カフカの『』の主人公のように、すでにそびえたつ体制になんとか潜りこもう、そんな気概さえ失った若者に、どんな選択が残されているのか?

 映画.comでは「ポーランドの異才J・スコリモフスキーによる実験精神あふれる力作。レールの敷かれた人生に疑問を感じたある学生が、新しい生き方を求めて寄宿舎を出る。彼は夜行列車の中で出会った少女と一日を過ごす。まるで目に見えない障壁(バリエラ)の中で、出口を探そうとするかのような二人の放浪が始まる・・・・」と紹介されています(http://eiga.com/movie/48119/)。

 そう、バリエラは英語のバリケードにつながるかもしれない、貴方をつつむ“壁”なのです。

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#58:『砂時計』:ヴォイチェフ・イエジー・ハス監督、1973年公開、カンヌ映画祭審査員賞受賞。『バリエラ』の息苦しいまでに追いつめられた若者たちの心とはまたまた別の世界、青年が父親が世話になっているサナトリウムに向かう夜汽車(その車内のあまりの猥雑さ)、そしてやっと辿り着いたサナトリウムのめちゃくちゃさ、どうやら青年と父親はユダヤ系らしく、幼い頃を回想する心象風景と、夢とも現実ともつかぬ場面(=それこそ、ゴムルカ以後の、進むべき方向を見失いつつあるポーランドを象徴するわけですが)、そして観客が絶句するしかない展開・・・

 初めに観客の目に飛び込むカラー映像は、あまりに怪しげな夜汽車で、女性はみんな裸同然、何が起きても不思議はない無秩序の極み。一緒に観ていたパートナーが、「是非、今度はポーランドに行って、夜汽車に乗りたい。こんな夜汽車だったら、どんなに楽しいか!」と叫んでいました(あれから25年あまりたって、まだ、二人ともポーランドには足を踏み入れていません)。

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#59:『サラマンドル』:ここで、突然、ポーランドからスイスに話を飛ばし、永世中立国、みんなのあこがれの国スイスの反体制派映画作家アラン・タネールの1971年制作の傑作『サラマンドル』を紹介しましょう。

 さて、タネールの映画に共通の梗概は、みんなが幻想をもつ平和国家スイスとは、実は体制による締め付けによって(なにせ、カルヴァン神権政治で支配したところです)、一皮剥けばマイノリティを圧迫する息苦しい相互監視社会(カルヴァンが自らの著作を批判するスペイン生まれの人文主義者ミゲル・セルヴェートカトリック教会よろしく火あぶりにしてしまったのが1553年)、秩序からはみ出してしまった者たちは、いったいどこに行けばよいのか? ということに尽きます。

  •  スイスは、かの怪優オーソン・ウェルズ演じる『第3の男』の主人公ハリー・ライムの「イタリアはボルジア家の時代、戦争と流血が続いたが、ダ・ヴィンチミケランジェロを生んだ。しかしスイスの500年の平和で残ったのは、鳩時計だけだ」(出典:http://homepage2.nifty.com/cs-vision/meigakurabu%204.html)という台詞とはうらはらに、スイスの歴史は山岳地帯の貧しさゆえに、輸出するものは“血”=“傭兵”しかなく、自らの家業とした傭兵輸出が続きます。
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  •  しかし、その栄光もつかのま、フランス革命時のテュイルリー宮殿での虐殺(革命派により、ルイ16世を守ろうとしたスイス衛兵786名が全員虐殺される)等をへて、傭兵輸出は割にあわないことに気付きます。その後のスイスは、“鳩時計”ももちろん作りはしますが、その精密技術を活かした兵器産業に転換します。
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  •   しかも得意技は、戦争の当事者双方に武器を売り込むという、いたって上品なビジネスです。武器商人の王道とも言えましょう。例えば、第2次大戦での日本海軍の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の機関砲はそもそもスイスのエリコンFF20mm機関砲のライセンス生産、それを撃ち落とすアメリカ海軍の対空機関砲も同じエリコンSS20mm機関砲、というわけです!
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  •   どうも、ハリー・ライム君は世界史をもう少し勉強した方がよいかもしれません。まあ、もともとアメリカ人ですからね、ヨーロッパで金儲けには長けても、教養を身につける時間はなかったのでしょう(なお、この台詞、グレアム・グリーンの原作にはなく、ウェルズの発案だったようです)。
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  •  ちなみに、エリコン系列の20mm機関砲は現代でも一部使用されているとのこと。優秀作なのですね。 なお、2002-2006年の兵器輸出実績、スイスはなんと世界第14位(Wikipeidaより)。
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 ちょっと話がはずれ過ぎました。このスイスの社会で、ちょっと社会からずれそうなジャーナリストのピエールと脚本家のポールが、新聞の三面記事をもとに映画の脚本を頼まれる。

 彼らはその当事者、実の叔父を殺害したのか、それともそれは銃の暴発だったのか、疑惑につつまれた女性ロズモンドに会いに行く。もちろん、叔父はスイスの“体制”の象徴です=まず、家長であり、という男の象徴というべき武器の持ち主である。対照的に、ロズモンドは、マイノリティにとっては地獄の業火のようなスイスにおいて、その紅蓮の火の中を自由にうごめく“サラマンドル(火とかげ)”=危険で魅力的な女、典型的ファム・ファタール、社会を破綻にもたらすかもしれない存在なのです。

 この女性を、名女優ビュル=オジェが強烈な個性で演じる『サラマンドル』、はたして、ロズモンドは叔父を撃ったのか? 真相は明かされるのか? もし、観る機会があれば、必見の映画です。

総合政策のための名言集Part6:政治的発言#2

2010 11/1 総合政策学部の皆さんへ

 #1に続いて、古今の政治的発言について紹介していきましょう。まず、1521年4月18日、ウォルムスで開かれた帝国議会で、神聖ローマ皇帝カール5世を前にしてのマルティン・ルターの言葉から(モンタネッリ他(藤沢道郎訳)『ルネサンスの歴史』より)。

#29:「陛下が率直な言い逃れのない返答をお命じになるならば、私の答えはこうでございます。私はいかなる権威をも受け入れません。(中略)私は聖書と己れの良心以外、何物にも縛られません。また良心に反しては、救済も安全もないと感じているからでございます。神が私を助けたまわんことを。アーメン」 

 プロテスタントの誕生を告げる思想的発言であり、かつ、世俗の政治体制をも変えてしまう政治的発言でもあるこの言葉(なにしろ、ローマ教皇も神聖ローマ皇帝も否定してしまいます=カールはこの後、多方面の敵=オスマン・トルコ、フランス、そして自国内のプロテスタントに苦しめられることになります)。

  「近代史を決定づける一瞬だった」とはカーライルの指摘だそうですが、協会の分裂を呼ぶとともに、ヨーロッパ思想界における「良心」の登場、その支配の開始の瞬間です。たとえ、どんな権威に命じられようと、己の良心が否といえば、それを否定してもよい=近代的自我の登場です(とはいえ、ルター自身も、その後のドイツ農民戦争等の経緯から判断して、すべての人の良心を信頼していた、というわけでもなさそうですが)。

  とりあえずは、この300年後、マーク・トウェインが創造したあの現代的パーソナリティ“ハックルベリー・フィン”によって「そんなものは欲しくはない」とあっさりと否定されるまで、カトリックがヨーロッパの民を「告白の怪物」としたように(フーコー『性の歴史』)、プロテスタントは「良心の奴隷」にしてしまったともいえなくはありません。 

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  • #30:「わたしがあなたからほしいものは、ただ一つ。
  •      あの街をください」

 ビザンチンの歴史家ドュカスが伝えるオスマントルコの若き皇帝メフメト2世が、(後に粛清してしまう)大宰相カリル・パシャに、父ムラト2世がとった融和共存策をかなぐり捨てて、ビザンティン(東ローマ)帝国首都コンスタンティノープル(=あの街)征服を決行することを伝える台詞です(塩野七生『サイレント・マイノリティ』より)。

 皇帝の宮殿寝室で伝えられたこの一言で、1453年、コンスタンティノープルはオスマン・トルコの大軍の前に陥落、イスタンブールと名を変え、現在もトルコ共和国の首都となっています。メフメトの決断によって、バルカン半島の趨勢は決定し、神聖ローマ帝国とオスマントルコの直接対決に発展します(それを秘かにそそのかしたのは、神聖ローマ皇帝カール5世の対抗馬、フランス王フランソワ1世だったりします=「敵の敵は味方」原則)。

 それにしても、父親が死ぬと、(皇位継承権をもつライバルの)弟を殺害して内紛の芽をつみ、「秩序が乱れるより殺人のほうが好ましい」と断じたともいわれるメフメト2世(真偽定かならないそうですが;Wikipediaより)。幼い頃からの先生でもあったカリル・パシャもコンスタンティノープル陥落後、粛正してしまうのですが、その一方では、ヨーロッパ文化にも関心をもち(もちろん、侵略の意図も潜めて)、ベネツィア派の巨匠ジェンティーレ・ベリーニに肖像画を書かせたメフメト、その一見物静かで、心中深い決意を隠す彼の顔は以下のURLでご覧になれます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gentile_Bellini_003.jpg

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 そのメフメト2世の晩年の1478年(20歳で皇位をついだ彼はこの時まだ46歳、しかしこの3年後に、南イタリア占領の途上、不意の死をとげます=暗殺も噂されていますが、これも定かでありません)、一介の商人ジョバンニ・ダーリオは、ヴェネツィア政府から外交官としてトルコ領内の通行許可をめぐって、困難な交渉を命ぜられます((塩野七生『サイレント・マイノリティ』より)。

 大国トルコと商売に生きるしかないヴェネツィア、圧倒的に不利な立場を余儀なくされる大使ダーリォの報告書の一節を、塩野七生から引用しましょう。現代でも、当てはまる国々がありそうです。

#31:「良識とは、受け身に立たされた側の云々することであります。反対に、行動の主導権をにぎった側は、常に非良識的に行動するものです」 
 
 それでは、どうすればよいのだ? と皆さんは口をそろえるかもしれません。しかし、現実はそうしたものなのです。
 今回は、このあたりでto be continued・・・・(#3へ)としましょう。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...