異文化に出会う時:日本人はどのようにして異なる食文化に出会ったか?Part1

2010 11/15 総合政策学部の皆さんへ

 日本はいまや世界の食事を楽しめるところかもしれません(でも、本当かな? 例えば、ウガリを出してくれる店はあるのでしょうか? と思ったら、検索してみると、あるのですね。ウガンダ料理店ZICOFE COFEE SHOP;愛知県日進駅近くとのこと。今年2月にできたばかりのようです; http://www4.ocn.ne.jp/~kanzi/sub11.htm)。

 なお、東アフリカに広く広がる“固練り粥”の系統の主食ウガリについては、「食べることについてPart3:フィールド初級講座#3 主食について(2010/01/1 12:38投稿)」で紹介済みです。おいしいんですけどね(とくにキャサバのウガリは)、昔、某テレビ番組の現地レポートで、某国民的タレントが「こんなものを食べてるの!」といかにもさげすんで叫んでいたシーンがありましたっけ。

 それではマダガスカル料理は、というと、どうやら次の記事が該当しそうです:「エリックピエール|マダガスカル料理|駒沢大学:駒沢通りと駒沢公園通りの角に、2006年7月に茅ヶ崎から移転オープンしたトラットリア。ふだんはイタリア料理店ですが、15人ほどのグループで前日までに予約をすれば(また、もっと少人数でも材料があれば)、マダガスカル出身のシェフ、エリック・ピエールさんによるマダガスカル料理もいただくことができます(ディナーのみ)。http://e-food.jp/blog/archives/cat138/」とあるのですが、なんとページに小さく、「※残念ながら2009年3月に閉店しました」との註がありました。 残念ですね!

 ということで、今回は、日本人が異文化に出会ったとき、とくに、日々の生活でとまどう“食”を中心に、エピソードを紹介しましょう。登場するのは、あしかけ4年の漂流・異国生活を強いられた船頭重吉に、黒船後、江戸幕府の厳命を受けて、はるばる異国に赴く遣米、遣欧使節の面々等です。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、「高畑ゼミの100冊Part9;食について#2『江戸たべもの歳時記』そして『仰臥漫録』(2009/12/21投稿)でご紹介済みの浜田義一郎先生の名著『江戸たべもの歳時記』には、現在の国民食カレーライスについて、以下の句が採録されています。

 『ライスカレー きたない飯と 下女覚え』(明治31年)

 それまで西洋料理等あまり目にしない地方からでてきた下女の眼には、飯とカレーをまぜあわせるカレーライスは“汚い”と映ったようです。もっとも、この後、夏目漱石の『三四郎』では田舎(熊本)から出てきたばかりの三四郎に与次郎がカレーライスをごちそうするまでに普及するのですが。

昼飯を食ひに下宿に帰らうとしたら、昨日ポンチ絵をかいた男が来て、おいおいと云いながら、本郷の通りの淀見軒と云ふ所に引っ張っていって、ライスカレーを食はした。淀見軒と云ふ所は店で果物を売っている。新しい普請であった」(『三四郎』;ちなみに、この(授業中に)ポンチ絵を描いていたという男が与次郎=後の『赤い鳥』の創刊者である鈴木三重吉といわれています)。 

 それでは、このカレーライスを最初に目撃した記録は? 文久3年12月29日、当時のフランス第2帝政時代の皇帝ナポレオン3世への幕府からの使者(横浜鎖港談判使節団)が横浜を出帆しますが、上海でどうやらイスラームの乗客と同船したと思しく、礼拝の後、

飯の上へトウガラシ細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にてまぜ、手にて食す。いたって汚き人物の者なり」 

 との書き残しがあり、これが日本のカレーライス史の最初の文献ではないか、と浜田先生は考証されています。もっとも、明治7年に刊の『西洋料理指南』では、さっそくカレー料理が紹介されています。ちなみに、カレーに使う肉は「鶏、エビ、タイ、カキ、赤蛙等」とあります。東南アジアのフィッシュカレー(とても美味しいのですが)等を連想させます。

  なお、Webをさがしたら、京都外国語大学のHPに『西洋料理指南』の解説があります(http://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/data17.htm)。

 また、国立国会図書館の第129回常設展の開設のページにも『西洋料理指南』も含めて、カレーに関する各種の文献がでています(http://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/entry/jousetsu129.php)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 本題にもどって、我々の祖先はどのように“異国”の料理に出会い、それに慣れていくのか? そのもっとも典型的な例が、船の難破による漂流、そして異国船による救助です。

 なかでも、 文化10年[1813年]遠州灘沖で遭難、484日の漂流の後、イギリスの捕鯨船に助けられた名古屋納屋町の督乗丸の船頭重吉は、1816年9月現在の北方領土択捉島に帰還、1817年故郷の尾張藩に戻ります。その後、国学者池田寛親の聞き取りによる名著『船長(ふなおさ)日記』を残しますが、14名の乗組員中帰国できたのは2名のみ、後半生を仲間の犠牲者の供養に努めます(Wikipediaより)。

 さて、その『船長日記』、私が持っているのは筑摩書房世界ノンフィクション全集版(現代語訳)ですが、救助直後、船長のベケツ(今の標記では“ベケット”なんでしょうね)は、飢餓状態にある遭難者に急に食べさせると支障をきたすことをおそれて、なかなか飲食物を与えず、

午前10時ころになって、茶に砂糖を入れ、黒ん坊(差別用語ですが、原文のママ出します)が持ってきた。「いまいっぱい」と頼んだが、その後は持ってこなかった。お昼になって、浅い皿鉢のようなものに、小麦だんごを大きくして焼き、正月の切りもちのようにきったものを一切れ入れて持ってきた。また赤い蒲鉾のようなもの一切れ、鯨の脂身のようなものを一切れ、水をいっぱい持ってきた」

「まず水を飲み、その小麦だんごを喰い、鯨の脂身を食べ、さて蒲鉾のようなものを食べようとしたが、塩辛く臭いにおいがするので食べることができない」 

 もうおわかりですね。浅い皿鉢は洋皿のこと、小麦団子はパンのこと=形状からすると食パンのトーストかもしれません。それでは、蒲鉾と鯨の脂身は? それは重吉が異国人との付き合いにだんだん慣れてくる頃にわかります。

それまで鯨の脂身だと思っていたのは最前の豚の頭を蒸し焼きのようにしたものだった・・・・鯨と思っていたのも豚であったので、かの蒲鉾も何で作ったものか聞きたく思い・・・(水夫が)間もなく下へ行き、ウシの角を二本もってきて見せてくれた・・・・桶の蓋を取って見せたから、よくよく見ると、ウシをいろいろに切り 刻んで塩漬けにしたものであった。 これには驚きあきれてしまった。

  ・・・・(仲間が)「ことに鯨の脂身は味が良かった」など言うのを聞いて、 「その鯨というのは実は豚なのだ。蒲鉾だと思っていたのはウシである。いまや私たちは もう神々は拝めない身だぞ」 と言ってきかせた

 鯨の脂身とは、たぶん沖縄やバリ島の市場にいけば売っている豚の頭の皮と脂肪の部分の薄切りでしょね。 一方、赤い蒲鉾とは牛肉で作ったソーセージかハムのような保存食品で、ウィンナーのように赤く着色していたかもしれません。 

 重吉の言葉に、仲間たちはうろたえて「このうえは豆のようなものとだんごだけを与えて下さるようお願いして下さい」と懇願します。しかし、重吉は気丈にもそれをしりぞけ、「いやそれはよろしくない、こうした場合だから、何にても下さるものを我慢して食べるべきである」と言って聞かせるのです。

 こう書いていると、船頭重吉も並々ならぬリーダーシップの持ち主、あしかけ2年の孤独の漂流を見事乗り切った器量は高く評価されます(その間、飲料水をためるため“らんびき(海水から真水を得るための蒸留機)”まで自作します)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  さて、話をまた江戸末期にもどして、1860年、日本からアメリカに“万延元年遣米使節”が旅立ちます。その副使村垣淡路守範正こそ、代々御庭番の家に生まれ(要するに隠密です)、そこから出世を重ねて勝手掛勘定奉行、そして神奈川奉行を経て、ついに日米修好通商条約批准書交換のための使節副使にまで出世します。

 ちなみに、一行中、長崎の通詞あがりで、明治維新後はジャーナリストに変身するやや“パッパラパー”気味のインテリ福地源一郎こと桜痴には「純乎たる俗吏にて聊か経験を積たる人物なれば、素より其の器に非ず」と酷評されていますが、いやなかなかの才気、『遣米使日記』(筑摩ノンフィクション全集14巻)には、異国の風情をきわめて素直に受け取る観察眼が結構です(それなのに、この14巻の編者の木村毅も「この日記については特に言うべきことをもたない」と冷たいようです。どうも、インテリが一般人を軽視したがるのは、太古の昔から変わらぬようですね)。    

 村垣が書き残した『遣米使日記』には、半世紀後にアメリカ帝国主義者の毒牙にかかり、アメリカ合衆国に併合されてしまうハワイに往路立ち寄った際、ハワイ王国国王のカメハメハ4世夫妻に謁見する場面もでてきます。謁見後の村垣の日記には、つい王宮を竜宮に、王妃を阿弥陀如来に例えるざれ歌まで書き付けられます。

  •  つくづくきょうのありさまを考えるに、海外の事情は、たまに漂流人の話を聞き書きにしたものを見るばかりであったが、このような礼節をもって国王・妃に会見するとは、実に夢路をたどるばかりである。
  •  「わた津海の 竜の宮とも いはまほし うつし絵に見し 浦島がさま」
  •  王は金のたすきようのものをかけてかざり、妃は前にいったごとくあみだ仏のごとし。さればまたざれ歌を、
  •  「ご亭主は たすき掛けなり おくさんは 大はだぬぎて 珍客に会う」
  •  
  •  これを桜痴のように「純乎たる俗吏にて」と片づけるか、それとも異国の王にも悠々接する様ととらえるか? 皆さんの感想は?
  •  

 なお、このカメハメハ4世は先進的な政策をとろうとして、「1855年にカメハメハ4世は公立病院や高齢者向け施設の建設などを盛り込んだ野心的な法案を議会に提出するものの、1852年の憲法で多くの権限を手にしていた議会はこれを否決。

 これを受けてカメハメハ4世とエンマ女王は独自で基金を募り、現在も先進的な病院として知られるクイーンズ病院を建設、またマウイ島にはハンセン病の医療施設を建設するなど、かなりの成果を」あげるのですが(Wikipedia)、村垣たちに謁見した3年後、29歳の若さでなくなります。それはいずれハワイ王国がアメリカ帝国主義によって合併される道への序曲でもあります。

 と以下は、to be continud・・・・・(Part 2へ)としましょう。

コメント:0

この記事にはコメントすることができません。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

月別記事