ファッションの人類学Part1:帽子をめぐるフェルナンドとココの冒険~パリが移動祝祭日であった頃~

2010 11/18 総合政策学部の皆さんへ

 ファッションがどのような“パワー”を持つか? 例えば、20世紀初頭のパリ、ピカソの最初の妻(正式な結婚ではないので、愛人というべきかもしれませんが)フェルナンド・オリヴィエはアメリカから来た女流作家ガートルード・スタインの秘書(同性愛のパートナーでもありますが)アリス・B・トクラスに、パリ女としてのファッション観を教え込まそうと気をもみます。

 その二人のやりとりを、スタインは「トクラスの目から見た」という設定の『アリス・B・トクラスの自伝』にちょっと皮肉っぽく書きつけます。

  •  「フェルナンドはわたしが初めて同席した天才の最初の夫人でしたが、あまりおもしろい女性ではありませんでした。この最初の日、わたしたちは帽子の話をしました。フェルナンドの話題は二つきりで、それは帽子と香水でした。(中略)フェルナンドは帽子というものが好きでした。彼女は帽子について真のフランス的感情をもっていました。
  •  「もしある帽子が、街の男性からなんらの警句もひっぱりだしえないとしたら、その帽子は失敗なのです
  •  
  •  あるときフェルナンドとわたしはモンマントルを一緒に歩いていました。かの女は大きな黄色い帽子を冠り、わたしは小さな青い帽子を冠っていました。わたしたちが歩いていくと、ひとりの労働者が立ち止まって叫んだものです。
  • ほらお陽さまとお月さまが一緒に照りながらあそこを行くぜ
  • 「ああ」、といってフェルナンドが晴れやかな微笑を浮かべてわたしにいいました。
  • ほらね、わたしたちの帽子は成功よ
  •       (ガートルード・スタイン[金関寿夫訳『アリス・B・トクラスの自伝』より)
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 ラテン文化では、人々は(カフェテラス等に集う)他の人たちに見られることを意識しながら、通りを歩きます。つまりは、街中がファッション・ショーをしているようなもの。年代を考証すると、1907年のことでしょう。まさに、ベル・エポック、パリが移動祝祭日であった頃です。

 帽子は、ルイ14世の昔からフランス女のあこがれの的です。そして、ファッションの世界でそれまで君臨していた男性デザイナー(ポール・ポアレ)を蹴落とし、女性デザイナーとしてスキャパレリとともにファッション界に君臨するガブリエル・ココ・シャネルのいわば出世の第一歩が、その帽子専門店なのです(シャネル・モードの帽子の写真はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Chanel_hat_from_Les_Modes_1912.jpg)。

  ところで、この頃、ピカソはガートルード・スタインの肖像画を描くのですが、その絵はみんなに不評です。アリス(の目線でのガードルード・スタイン)はこう書き記します。 

 「わたしはピカソが描いたガードルード・スタインの肖像が気に入ったことをピカソに低い声で告げました。そうです、ピカソはいいました。みんなあれはかの女に似ていないっていうけれど、そんなことはどうだってかまわない、そのうちにガートルードの方が(絵に)似てきます。かれはそういいました 

 そして、その後、ガートルードはいつのまにか絵に似てきた、というのが、現在の評価の通り相場になっています。その肖像画は、現在、ニューヨーク・メトロポリタン美術館にあります(画像のURLは以下の通り)。http://www.metmuseum.org/works_of_art/collection_database/all/gertrude_stein_pablo_picasso/ 

 ちなみにフランス人をもさしおいてアンリ・マティスの絵を買い込み、自宅にピカソの『花篭を持つ少女』を飾ったガートルードのコレクションは、彼女の死後、まことに残念なことに散逸してしまったそうです(ガートルード・スタインを紹介するサイトはhttp://ellensplace.net/gstein1.html)   

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 さて、フェルナンドとアリスの散歩の3年後の1910年、心持ち顎をもちあげ、口元に浮かぶ微笑みのうちに負けん気を秘める若い女性、ガブリエルがパリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という帽子専門店を開店します。

 死ぬまで他人から隠し通しそうとした幼いころの境遇(母が死に、父に棄てられ、孤児院や修道院で暮らした日々)を抜け出し、金持ちの男たちの愛人としてパリに上京して、ココという愛称で社交界に顔をだすも、それにはあきたらず、愛人の一人イギリス人アーサー・カペルの援助で自らの才能だけを武器にして挑戦するのです。

 彼女はある日、ごてごてに飾り立てた女性たちをみながら(それらは、やがてシャネル自身によって一気に“旧式”にされてしまうのですが)、カペルの耳元で囁きます

こんなことが続くはずはないわ。あの人たちにシンプルな服を着せてやるわ、それも黒ずくめで」(ワイザー(岩崎力訳)『祝祭と狂乱の日々』より)。 

 1913年には、ノルマンディーのリゾート地ドーヴィルに第1号のモードブティックを開店(女友達等がシャネルの服を着て浜辺を闊歩して、いわば動く広告塔となります=「その服はどちらでお仕立てになったの?」)。続いて1915年、ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン、ココはオートクチュールのデザイナーとしてデビューします(Wikipedia等による)。

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 その後のシャネルの快進撃は、驚くべきものがあります。ブティック開店の数年後、ベル・エポックのミューズ、ミシア・セルトはこの若い娘のような経営者にたまたま出会うこととなります。ミシアは回想します。

 「テーブルにつくとすぐ、私は黒髪の若い女に注意をひかれた。ひとこともしゃべらなかったけれど、抗しがたい魅力があった。どこかマダム・ド・パリを思い出させるところもあった。食後、それとなく彼女の隣にすわるようにした。サロンで初対面につきものの陳腐な挨拶を交わすうちに、彼女がマドモアゼル・シャネルという名でカンポン通りに帽子屋をもっていることがわかった。(中略) カンポン通りの店が急激な拡張をとげ、マドモワゼル・シャネルが女性の装いを変革したのは、戦後間もないころだった。彼女はコルセット、鯨の髭のステー、高いカラーを廃止し、髪も短く切った。(中略)ファッションに関する限り、シャネルは当時の法律制定者だったと言っても過言ではない」(ゴールド&フィッツテイル(鈴木主税訳)『ミシア』)

 そして、ミシアはシャネルとロシア・バレー団主催者セルゲィ・ディアギレフとの運命の仲立ちも、心ならずもしてしまう。1920年代初め、たまたまホテルでディアギレフにであったミシアはシャネルを彼に紹介するが、同性愛者でもあるディアギレフは黒いドレスの寡黙な女性に一顧だにすることなく、ミシアに窮状を訴えた。『春の祭典』の再演のためには、なにしろ金が要る。

 虚しくパリに帰ったディアギレフを、しかし、先ほどの黒服の訪問客がおとずれ、小切手をプレゼントする。ただ一つの条件は、自分の寄付を誰にも知られないようにということだけ。

 この時以来、ディアギレフとミシアとの腐れ縁のもと、シャネルはバレー団の衣裳をも手掛けるようになっていきますが、このエピソードは「プロデューサーの奨め~ディアギレフに関する様々なこと~;高畑ゼミの100冊番外編(2010/02/8投稿)」等で紹介済みですね。

 ブティック開店ほぼ10年、シャネルはロシア・バレエ団のパトローンになることで、全パリのあるいは全ヨーロッパのファッションを支配するまでにいたるのです。

 ポアレが、現在は再評価の声が高いとはいえ、一介のデザイナーに終わったのに対して、シャネルはその存在自体が社会現象であり、シャネル・スーツに象徴されるように、女性の社会進出の偶像になっていきます(それにもかかわらず、シャネル自身は、若くして死んでしまったカペルへの思いに引きずられてか、結局いつも男に頼ってしまうところもまた指摘の声が多いところではあるのですが)。  

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 これこそまさにソフト・パワーかもしれません。同時に、シャネルは20世紀前半の(エジソンやフォード等)一群の起業家の輝かしい星の一人になります。→ Part2へ

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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