総合政策の名言集Part7:政治的発言#3

2010 11/26 総合政策学部の皆さんへ

 名言集の続きです。まず19世紀、アフリカはナイル上流に住んでいたアフリカ人の長老の言葉からです。

#32: 「人間はたいてい性悪なものだ。強い者が弱い者から搾り取る。“善人”は皆弱い。悪いことをするほど強くないから、善人なのである」

 すでに「高畑ゼミの100冊Part11:探検記・旅行記・国際関係(2010/01/12投稿)」で紹介済みの台詞でもありますが、19世紀半ば、奴隷市場で出会って恋におちた奴隷の少女フローレンスと共にナイルの源流に向かって遡っていくイギリスの探検家サミュエル・ホワイト・ベーカーに、スーダン上流のある民族の長コモロがつぶやく言葉です(アラン・ムアヘッド( 篠田 一士訳)『白ナイル』より)。マキャヴェリグィチャルディーニロシュフコーら歴代のユマニストモラリストも真っ青なこの台詞、説明は要らないですよね?

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 #33: 「人は罪なきものとして王たりえない」「この男は王として統治すべきか、それとも死ななければならないのです」

 1792年、フランス革命が進行中、フランス国民を裏切った存在として裁判にかけられたルイ16世に対して、弱冠25歳、ジャコバン派の論客として頭角をあらわした“革命の大天使(Archange de la Revolution)” サン・ジュストの王弾劾の演説。この言葉が王殺しを前にたじろぐ議員たちを圧倒、翌1793年の1月14日の審判では、693対28(棄権5)で「ルイは有罪」、292対423(欠席29、棄権5)で「人民への上訴は棄却(つまり、裁判が最終審)、そして387対334で「ルイは死刑」とされ、1月20日に死刑宣告、そして、21日にギロチンによる刑が執行されます。

 その半年後の7月27日(フランス革命暦テルミドール9日)、サン・ジュストはルイを死刑に導いた国民公会を牛耳っていたジャコバン派の首魁ロベスピエールとともに、反ロベスピエール派のクー・デ・ターによって失脚、ルイの後を追うようにテルミドール10日に処刑されます。

#34: 「諸君は、国民が同じ国民に対して砲火を浴びせてもよい、という許可を私にあたえてくださるのでしょうか?」

 1795年、上記ロベスピエールを打倒、プチ・ブルジョアジー革命を停止させたテルミドール派が擁立した総裁政府は、しかし、その中途半端な性格によって、王党派を筆頭とする反革命勢力からも、あくまでも革命の推進を求める勢力からも、さらにはフランス革命をつぶそうとする外国勢力からも挟撃されます。フランス共和国第4年ヴァンデミエール(ブドウの月)13日(グレゴリオ暦で10月5日)、国民公会に攻勢をかける王党派に対抗すべく、抜擢されたこれも弱冠26歳の青年将校ナポレオン・ボナパルトがテルミドール派に確認した際の言葉です。パリのど真ん中で大砲を撃つ、しかも同国人に! この勝利が、ナポレオンを皇帝にまで押し上げていきます。

 「フランス革命の限定相続人」にして後のフランス皇帝ナポレオンの政治的デビューを飾るにふさわしい台詞ではありますが、そこにはフランスの植民地コルシカ出身、政治的経緯からコルシカ革命派から島を追われ、支配者フランスに身を寄せているマイノリティという複雑な立場から、いわば第三者的にフランス人に向ける冷徹な視線がうかがえるかもしれません。

  •  ちなみに、この時、ナポレオンが散弾を発射、王党派の暴徒をやすやすと鎮圧した“革命広場”はその後、“コンコルド広場”と名を変え、現在もパリに残っています。革命前は“ルイ15世広場”だったそうです。なお、コンコルドとは“協調/調和”のことでしょうか? フランス語にはうといのですけれど、言葉の変遷は微妙です; 王名 → 革命 (→ 虐殺) → 調和!
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  •  まったく蛇足ですが、私の好きな抽象派の巨匠モンドリアンの作品に「コンコルド広場」があります。画像のURLはhttp://art.pro.tok2.com/M/Mondrian/pho026.htm
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#35:「一盤散砂」

 近代中国の革命家孫文の言葉。「中国人は盆の上に散らばった砂だ」という、あまりに広大な土地と多くの人民が暮らす中国をなんとかまとめて統治することの難しさを歎じた言葉といわれています。孫文の後継者たちの頭には、たぶん、この言葉がいつも渦巻いているでしょう。

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 それでは、日本の戦国武将の言葉からいくつか。

#36:「これほどにくだりはてたる世の中に候・・・はかりごと多きは勝ち、少なきは負け候と申す兵書の言葉候・・・能も芸も慰みも、道立ても本路だても、何もかもいらず候、ひとえにひとえに武略、計略、調略かたの事までに候」

 4歳で母を、10歳で父をなくし、続いて兄、そしてその嫡男の死で、27歳で一介の国人領主の地位をついでから、75歳で没するまで武略・知略の限りをつくして、中国地方をほぼ制圧するにいたる梟雄毛利元就(1497-1571)の(“くどい”との定評もある)台詞です。“武士道”については、近年、江戸時代の政治的安定期に様々な著作によって形成されたいわゆるクラシックな武士道観に対して、いわばリビジョニズムとして「武士とは、要するに暴力装置の類である」という見方も広まっていますが、少なくとも戦国期の武士にとって、江戸後期の武士道等、鼻の先で笑い飛ばすようなものだったかもしれません。次の朝倉宗滴の言葉も、同様でしょう。

#37:「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」

 毛利元就にやや先んじて、越前国でやはり守護代から国主になりあがる朝倉氏に属し、朝倉貞景から朝倉義景までの三代に仕え、軍配者として79歳まで現役だったという朝倉宗滴(1477-1555)の言葉として伝わる『朝倉宗滴話記』からの台詞です。軍配者とは、大名のスタッフとして軍陣を決定する方ですね。つまり、参謀です(スタッフ、参謀については「リーダーシップ、ラインアンドスタッフ、“能率”とは何か?(後半):総合政策のための名言集Part4+高畑ゼミの100冊Part20」をご参照)。

 しかし、やはり戦国の世を勝ち抜いてきた方々の言葉はすごいですよね。「自分が生きている時代を生きることができる」者たちの述懐です。この『宗滴話記』には以下の台詞がでてきます(現代語訳;出典は杉山博『日本の歴史11 戦国大名』中公文庫版)。

  • 第3条:いっさい「できない」ということばを言ってはいけない。心中を敵にみすかされるからだ。
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  • 第4条:攻勢のとき、「おそらく敵はふせぎきれないだろう」ということをことばに出してはいけない。もし敵が防ぎきれなくなったら、自然と敵の心が変わるものである。自分から予測してはいけない。
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  • 第9城:大事の合戦のときや、大義の退却のときは、家臣らが大将の気持ちを気にするものである。そのとき、いささかも弱弱しい態度を見せてはいけない。またことばにだしてもいけない。
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  • 第28条:蓄えがなくてはいけない。しかし金持ちのように蓄えることを目的としてはいけない。伊豆の早雲(=北条早雲)は針をも蔵につむほどの蓄えをしたが、軍備にはおしげもなくつかった。
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 等と、現在の政策学・経営学でも通用しそうな事が満載です。現代の政治家もすこしは勉強したら良いのに、とつい思ってしまいます。

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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