“市”をめぐる人類学Part1:アフリカ等で市場を見ながら、経済人類学から都市・国際政策まで考える

2010 11/27 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ

  今回とりあげる話題は“市”です。“市場(しじょう)”ではなく“市”としたのは、経済学での“市場(しじょう)/マーケット”や“世界市場”等ではないこと、また巨大な“中央卸売市場”等でもないこと、ふつうの“市場(いちば)”あるいは常設でない“市(いち)”のあたりを語るのが私の守備範囲内だからです。

 などと、書き出してから、あらためてWikipediaを閲覧すると、“市”や“市場”、“マーケット”等の定義が結構混乱しているようですね、さらりと整理されているふうではありません(このブログの原稿を書き始めた2010年11月23日の時点で)。

 そこでとりあえず、人々の日々の方便(たつき)をたてるための買物をする場所、そのぐらいの“市”の話から始めましょう。例えば、タンザニアインドネシアマダガスカル等をうろうろしていると、“市”にはある種の共通性が見えてきます。あたりまえですね。みんな生きるために利用する場所なのだから、おのずとその形も収斂してくるわけです。それでは、アフリカ等ではどこに市がたつのか? それはまず、異なる生業をもつ人々が接触するところです。

  例えば、ウシやラクダを飼っている遊牧民は農作物も食べてみたいし、畑を耕している農耕民は肉や乳製品、皮革も欲しい。そうなれば、遊牧民と農耕民が接触する境界に“物”と“物”を交換する場(構造主義文化人類学者のレヴィ=ストロースですね)が必然的に生まれ、そこで等価交換の世界がひろがる(経済人類学のポランニーですね)。そこでいつの間にか、人類学と経済学、そして国際開発がむすびつく。それがヒューマン・エコロジーの視点から見た国際政策の一つの姿です。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 私の大学院の同級生で今は立教大学で教えている方がいますが、彼がケニアでまず研究したのが、そうした“民族”の“境界”にある“市”でした。ちょっと調べみると、その人の立教大学のHPに「遊牧ポコットと農耕ポコット」(ポコットはケニアの民族の一つです)の境目にある市の写真と記事がでていました(http://www.rikkyo.ne.jp/web/z5000002/kenya/pokot/0508-market.htm)。撮影は1980年、私はその時はタンザニアでの第1回の調査から戻って、1981年の第2回の調査の間に、嵐山のニホンザルの性行動で学位論文を書いていた頃です。

 他に、ケニアの街キスムの市場の小魚売り(たぶん、ビクトリア湖産の小魚ダガーではないかと思います)のおばさんの写真がhttp://www.rikkyo.ne.jp/web/z5000002/kenya/kisumu/fish.htm(1983年撮影ということですが、私はこの時、タンザニアでJICAの派遣専門家をしていました)。

 同じく雑貨売りの兄さんの写真がhttp://www.rikkyo.ne.jp/web/z5000002/kenya/kisumu/retailer-kisumu.htm

 この方は、ケニアの次にマラウイを調査地に選び、現在に至っていますが、そこの土器のマーケットの写真です;http://www.rikkyo.ne.jp/web/z5000002/tanzania/NYAKYUSA/clay-pot-market.htm(背後の巨木はマンゴーです)。 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 こうした市は、しかし需要の多寡によって、定期市と移動市にわかれます。定期市はいつもそこで営業している。だから、建物もしだいに立派になる。例えば、ギリシア語での“アゴラ”とは、Wikipediaによれば以下の通りです。

 古代ギリシアの市場はポリス内部の地域市場と対外用の市場に分かれていたとし、対内市場の例としてアゴラ、対外市場にはエンポリウムをあげている。アゴラは中央集権制度にかわって食料の再配分を行なうための制度となり、民衆に食物を供給し、新鮮な食材や調理ずみの食品が売られた。アゴラには、カペーロスという小売人が居住していた。ペリクレスは自ら積極的にアゴラで売買を行ない、アテナイは商業的なアゴラを推進したが、アリストテレスは市場としてのアゴラと政治的なアゴラを分離することを主張した。

 とすれば、SPS-アゴラとは、要するに言葉=考え・思想をやりとりする場ということなのですね(ますます、レヴィ=ストロースとポランニーの着眼点の鋭さがわかってきますね)。一方、移動市は、古代~中世日本の六斎市のように、六日に一回ぐらいの割で開かれ、商人たちはそれぞれの商売のルートにそって、巡回していく。

 1960年代、今西錦司率いる京大アフリカ類人猿調査隊の一環でアフリカにつれてこられた京大探検部(久野先生の先輩になるわけですね)の学生谷口穣は、そこでウシ市についてまわる移動食堂に居候(いそうろう)して、旅をともにします。その記録が『日本人牛切りジョー』です(1968年、毎日新聞社刊)。1カ月の居候中、食堂い主が買い込んで谷口たち使用人にと殺、解体、調理させた牛計6頭。この本はもう古書店でしか手に入らないようですね。なかなか面白いのに。

 さて、三日ごとに開く三斎市や六斎市はしばしば交通の要所にもうけられます。これも当り前ですね。人が集まりやすいところ=動線がまじわるところ=そこが市になる。とここまで言えば、都市政策を志す方はすぐ気付かれるでしょう。お偉方が勝手に決めたニュータウンやその他の再開発の商業施設の中で、流行るところと流行らないところがあることを。当然、ヒトの動線を考えながらやらなければいけないのに、それを自らの思惑や利権で進めて・・・・・・結局うまくいかない。よくある話です。

 もちろん、以前も紹介した阪急電車創設者小林一三のように、阪急電車のターミナル=交通の要衝である梅田を、商業施設によってさらに矩地としての存在をたかめるため阪急百貨店を創設する、というように商業施設によってたくみに動線を左右する、これがビジネスプランの極意であるわけですがね(小林一三とそのビジネスプランについては「宝塚映画の謎Part1:総政100本の映画番外編(2009/12/28投稿)等で紹介ずみですね)。    

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、こうして自然発生的に生じた市場は、しかし、様々な権力によって統制されます。一つは、“税金”をとるためですね。アフリカでは民衆から税金をとりたてるシステムも不備なので、政府はこうしたマーケットから取り立てる税金がどうしても欲しい。そうして公的な市場が設定される一方で、(税金を払わぬ)私的な市場は弾圧される(税金がとれないから、イリーガルだとのレッテルをはり、弾圧する)。

 Wikipedeiの“市場”の項には「古代国家においては、中国の制度を参考にしつつ、大宝律令の関市令によって市制を整備した。都の東西に市が設置されて市司という監督官庁が置かれ、藤原京・平城京・難波京・長岡京・平安京などに官営の東西市が運営されていた。この統制市場は正午に開き、日没に閉じ、品物の価格は市司が決定した。また商業施設としての機能だけではなく、功のある者を表彰したり、罪を犯した者を公開で罰する場所としても使用された」とあります。こうして、人々の暮らし→それを支える市→それをコントロールしながら税金をとりたてようという権力機構→その目を逃れようとするブラック・マーケット→・・・・・・ 面白いですね。

 古代中国の歴史書『史記』の「曹相国世家 第24」の恵帝2年(紀元前193年)、漢の宰相蕭何が亡くなると、曹参が後任に任命されます。彼は、その時までつとめていたの丞相の座を後任に引き継ぐのですが、その際に、「監獄と市場は悪人が身を寄せる場所と考えて、慎重に扱ってあまり干渉せぬように」と伝えます。

 後任の者は、政治には市場等より「もっと大事なものがあるのでは?」といぶかしんで問うと、「そうではない。そもそも監獄と市場は善悪すべてを受け入れる場所だ。今君がそれにあまりに干渉すると、どこに悪人がいる場所があるのだ。わしはだからこそこのことを優先するのだ」とさとしたとのことです(『史記世家下』小川環樹他訳、岩波文庫版)。

 この曹参の言葉は、士太夫階級あるいは儒教等の目線から見た“商売観”を物語るとともに、上記の大宝律令等の条文の背景に潜む権力者の視線を感じさせます。ということで、ここで to be continued….(Part 2へ)としましょう。

コメント:0

この記事にはコメントすることができません。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

月別記事