2010年12月

“市”をめぐる人類学Part3:“インフォーマル・セクター”とは? +研究論文検索実習付き

2011 12/30 総合政策学部の皆さんへ 

 2010年もあますところあと2日だけになりましたが、“市”をめぐる人類学として、Part1Part2に続いて、インフォーマル・セクターの紹介です。

  アフリカの市には(1)伝統的な市場、(2)そこから脱却しつつある市場、(3)完全に政府等に統制された(税金を払わねばならない)市場、様々ですが、最近、アフリカ学会等の大会では、“インフォーマル・セクター”等という言葉をよく耳にします。それでは、この言葉は何か?

 例によって日本語版Wikipediaを見ると、なんと「見出し語」にない! 検索でひっかったものは、まず、“イランの経済”、次に“インドの経済”、前者はインフォーマル・セクターについてさらっと書いてあるだけですが、後者では「インドの全人口の65%に相当する750百万人が一日20ルピー以下で生活し、彼等の殆どがインフォーマル・セクターで職も無く失業保険も無く悲惨な貧困状況で働いているとのことである」とありますね。なんだか、悲惨なイメージですね。日本の戦後の“闇市場”、なかば無法地帯のような印象さえあります。

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 それではWikipediaのEnglish versionを検索してみましょう。さすが、きちんと出てきます。皆さんも、日本語versionを開いて「なんだ、これは!(=内容があまりに薄い!)」と思ったら、まずEnglish versionを開けてみることです。英語の勉強にもなりますし。  さて、そこでの定義では、

 The informal sector or informal economy is the part of an economy that is not taxed, monitored by any form of government or included in any gross national product (GNP), unlike the formal economy. Examples are barter and gift economy.Although the informal economy is often associated with developing countries, where up to 60% of the labour force (with as much 40% of GDP) works, all economic systems contain an informal economy in some proportion. The term informal sector was used in many earlier studies, and has been mostly replaced in more recent studies which use the newer term.”

 要するに、政府の統制外で税もはらわず、GNPにも貢献しない闇市場的存在、そんなイメージが従来の見方でした。そして、Part2で紹介したバンダ・ビーチはインフォーマル・セクターの典型であったのが、それが(日本の援助もあって)立派な建物を作り、フォーマル経済になりましたとさ、めでたし、めでたし、というわけなのですが、「それで良いのか?」、という見直しが始まっているということです。

 なぜなら、アフリカで生きている人たちの商売はたいていインフォーマル・セクターに該当してしまうからです。それでは、彼らは“脱税”行為者なのか? つまり、犯罪者なのか? 皆さんはどう思いますか? 私がタンザニアに住んでいた1979~1984年当時、社会主義政権下のタンザニアではまぎれもなく“悪”でした。

 一つには、タンザニアの経済は結局、イギリス植民地時代からしぶとく生き残っているインド系商人(印僑)と奴隷商人時代から土着しているアラブ系商人に握られていて、社会主義政権としては、脱税や闇ドルに手を出すものはすべて“犯罪者”でしたから、バンダ・ビーチの小売手たちもまた税を払わず、おしなべて犯罪者とみなされかねない存在でした。しかし、彼らの行為こそ“内発的発展”ではないのか?

 そうしてもう一つ思い出していただきたいのは、アフリカの民人にとっては、税金とは自分たちを支配するための資金を確保するための、植民地政府の罠だったことを。独立したからといって、そうした構造が変わるわけではなく、なぜ、税金を払わねばならないのか? というより、現実に、税金を払うことへの共感がわきにくい状況があることを。

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  ということで、現代のインフォーマル・セクターの研究を、研究資料専門検索エンジンのGoogle Scholar(http://scholar.google.co.jp/)で検索してみましょう。皆さんもご一緒に。例えば、「アフリカ、インフォーマル・セクター」と入れてみましょう。2010年12月17日付けでいれると、159の論文がヒットします。以下の先頭の4件を紹介しましょう。

 さらに喜ばしいことには、すべてPDFファイル付きです。つまり、皆さんは書斎にいながらにして、論文をダウンロードして読める。ただし、コピペだけはいけませんよ。きちんと読んで、自分の言葉にすることです。

[PDF] 東アフリカ小農社会のモラル・エコノミーをめぐる諸論(上田元 – 開発途上国の農産物流通 ̶ アフリカとアジアの経験』 …, 2002 – ide.go.jp)
「…受けたものとして,また都市という多民族的,新開地的状況においてモラ ル・エコノミーを議論したものとして,参考となる(Tripp [1997])。この研究は,アフリカの伝統に根ざした社会主義を標榜する国家によって運営され … 1994 年にはインフォーマル・セクター活動に資金援助を行う全国政策が策定 …

[PDF] ガーナの中等職業教育政策に対する国内外からの影響− 植民地時代から現代まで−(山田肖子 – 2003 – hiroshima-u.ac.jp)
「.. 62.2%)で、続いてサービス業(27.9%)、工業 (10.1%)となっている(ILO, 2002)。学校ベースの職業教育と最も関係が深いはずの工業が 労働市場に占める割合が最も小さい。アフリカの都市では、年々インフォーマルセクター(7) が肥大化している。元来アフリカ経済はイン フォーマル … 」 

[PDF] アジアにおけるプログラム・ベースド・アプローチ(本田俊一郎… – 国 際 協 力 研 究 – jica.go.jp)
「… セクター 包括 的 な 政策 や 行 政 改革 の 動き が ある. 5) LENPA の 前身 は, 英・北欧 を 中心 に,セクター・ワイ ド・アプローチ を 推進 する イン フォーマル ドナー グ … や コモンバス ケット は, 過去 に 大量の 援助 を 投入 してき た に も か か わら ず 開発 が 停滞 する アフリカ 諸国 において …

[PDF] アフリカ都市零細商人の商慣行に関する人類学的研究(小川さやか – 2009 – repository.kulib.kyoto-u.ac.jp)
「… ( 続紙 1) 京都大学 博士(地域研究) 氏名 小川 さやか 論文題目 アフリカ都市零細商人の商慣行に関する人類学的研究 (論文内容の要旨) 本論文は、タンザニアの都市インフォーマルセクターのうち、商業部門に焦 点を当て、零細商人とくに古着商を対象として、商慣行ならびにその変容過程 …

 例えば、トップの上田さんの論文からタンザニアでのインフォーマル・セクターについての記述を取りだすと、

 「トリップは,こうした内からの不服従の結果として,国家がインフォーマル経済を徐々に認知し,自由化し,合法化することになったと論じ,また国家と社会の間の交渉と互酬的関係を通して経済のなかにインフォーマル性の境界を定める制度が変化していったと考える。農村強制送還策は1984 年に停止され,1985 年にムウィニ(Mwinyi)大統領に政権が移行した頃から徐々に都市インフォーマル経済の零細企業に対して営業許可が与えられ始めた。

 1986 年には構造調整をめぐってタンザニア政府とIMF との間に合意が成立し,同年にはバス運行も自由化された。1991 年にはいわゆるザンジバル宣言が出され,現状を追認するかたちで国民の10%を超える党員・公務員とその配偶者の副業活動が認められた。そして,1992 年の複数政党制導入ののち,1994 年にはインフォーマル・セクター活動に資金援助を行う全国政策が策定されていった。

 こうした政策の変化を経済・政治の自由化への外圧に対応したものと解釈する見方が多いなか,トリップは,都市住民による内からの静かな抵抗の果たした役割の重要性と,彼らの行為能力を指摘しているのである」とあります。

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  つまり、旧来の経済学の観点からすれば、非合法で悲惨な零細経済、それがインフォーマル・セクターのイメージなのです。冒頭の“インドの経済”での定義ですね。しかし、今や、価値観は逆転している。アフリカで真の内発的発展は実にインフォーマル経済にある、というのが上記諸論文の主張です。 

 私がタンザニアを最終的に離れたのは1984年、つまり、すべてを国家の統制下におこうとした社会主義政権の末期、それが翌年にはIMFの軍門に下り、経済を自由化するとともに、バンダ・ビーチのようなインフォーマル経済を認めなければ、国家が立ちいかなくなった、まさにその頃だった、ということは、実感をもって納得できます。 

 悲惨の象徴としてのインフォーマル・セクターか、それとも国家経済再生へのカギとしてのインフォーマル・セクターか、このあたりはADB出身の西本先生や、国際開発政策の鈴木實先生に是非ご意見をいただきたいところです。

高畑ゼミの100冊Part22:“政治家”はもっと“古典”を読むべきでは?#2 『史記』について(前半)

2010 12/28 総合政策学部の皆さんへ

 政治家の出処進退、発言等について、とりあえず“古典”を読むのもお勉強のうちである、という連続講座を続けましょう。例えば、前漢大史令司馬遷(BC145年~没年不詳)があくまでも私家版として著しながら、正史の第一として扱われた長大な歴史書『史記』(書籍番号#79)は生きた知識(=それこそ、教養/リベラル・アーツ)が満載です。

 例えば、前漢の初代皇帝高祖(劉邦)はBC209年、中国を統一した秦王朝に叛意を示し、軍師としての張良、戦術指揮官としての韓信、後方兵站を担当する蕭何、このいわゆる漢の三傑を使いこなすことで、ライバル西楚の覇王項羽との楚漢戦争(BC206~202年)を戦い抜きますが、その戦いのさなかである漢の三年(BC204年)、股肱の臣であるはずの蕭何と劉邦の関係についての記述を、『史記』から引用します(『史記世家下』(小川環樹他訳)岩波文庫版)。

 「漢王(劉邦)は項羽と京・索のあたりで対峙しているとき、お上(劉邦)はたびたび使者をやって丞相(蕭何)をねぎらわせた。(蕭何のスタッフの)鮑生は丞相に言った「王(=劉邦)には[戦場で]風雨にさらされながら、たびたび使者を出してあなたをねぎらわれるのは、あなたの心に疑念を抱いておられるからです。あなたのために画策いたしますに、あなたの子・孫・兄弟のうち軍務にたえられる者をすべて戦地に行かせるのが一番です。お上は必ずますますあなたを信頼なさるでしょう」。そこで可はその計略に従い、漢王は非常に喜んだ」(蕭相国世家第23巻) 

 中国統一の覇業達成後、(蕭何のごとき献身的な)功臣たちを疑い、最大の功労者の一人である韓信をも結局失脚させ、抹殺する劉邦、そうした後(のち)の心までをも事前に読み取ろうとするスタッフと、そのスタッフの提言を即座に採用して生き延びようとする蕭何。#1で紹介したグィチャルディーニ君の台詞が権力者側からのものとすれば、これはその部下側からの冷めたものの見方というものであり、この二つの平仄があってこそ、現代社会の複雑な社会機構を生き延びる知恵(=教養)もつくというものです。

 それにしても、ここしばらくの日本の政局、とくに民主党関係者(菅首相、小沢氏ともども)の思惑違いはどうしたものでしょう。心を虚しくてして史書でも読めば、ない知恵も浮かぶものなのに。たぶん、優秀なスタッフが払底しているのかもしれません。

スタッフについては、「リーダーシップ、ラインアンドスタッフ、“能率”とは何か?(前半):総合政策のための名言集Part3+高畑ゼミの100冊Part19(2010/08/30投稿)」を参考に。思えば、総合政策学部こそ、こうしたスタッフの養成機関にぴったりのはずでは。

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 一方、井陘の戦いでの背水の陣、あるいは濰水の上流に土嚢を積んで堰を造り、水を塞いでおいてから秦軍が半ば川を渡るに乗じて水を流して撃破する濰水の戦い等に代表される、中国戦史上まれにみる名戦術家韓信、彼もまたスタッフに献言されますが、それは劉邦からの独立(あるいは裏切り)です。以下はスタッフの蒯通の台詞です。 

 大王さま(=韓信)は、ご自身では漢王(=劉邦)と親しいとお思いで、遠い後の子孫にまでつづく事業を立てるお心組でございましょう。わたくし恐れながらそれはまちがいと思っております。そのむかし常山王(張耳)西安君(陳余)が平民でありました頃、互いに死を誓い合った交わりを結んでおりましたが(中略)、(二人は仲違いのあげく、張耳は陳余を)殺し、その頸と足は離ればなれとなり、結局天下のものわらいになりました。あの二人の仲のよさは、天下最高の親しさでした。ところが、最後には一方が他方をとられることになりましたのは、なぜでしょうか?

 災いは過度の欲望から生まれ、人の心は予測しにくいからです。いま大王さまは忠誠の行動で漢王との関係をたもつお心でしょうが、(張耳・陳余の)二人のつきあいほど固いまじわりをむすべないに決まっています。(中略)ですから、漢王がご自分に危機を与えることはけしてないという大王さまのお考えを、やはりまちがいであろうと私は存じます 

註:張耳と陳余のかつてのまじわりを「刎頸の交わり=お互いに首を斬られても後悔しないような仲」(Wikipedia)と呼びます。しかし、この二人は張耳が、鉅鹿において秦将章邯に包囲され、絶体絶命に陥った時、陳余が援兵を出さなかったことで(張耳は結局、楚の項羽に救出されます)、不倶戴天の敵になってしまうのです。ちなみにその章邯は、スタッフにたとえ秦にこのまま忠誠を誓っても「功を立てても誅殺され、功を立てなくても誅殺される」とさとされて、項羽に降服しますが、秦人にうらまれ、後、劉邦に敗れて自殺を余儀なくされます。   

 蒯通のこの血を吐くような必死の説得も、しかし、韓信の心を動かすことはできず、縦横家としての策士蒯通は自ら去ってきます。そして、結局、韓信は劉邦によって失脚させられますが、縛り上げられた韓信が以下のようにつぶやく時、彼の心に「狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵(かく)る」という范蠡の言葉があらためてよぎります。

 「やはり人のいった通りだった。『すばしっこい兎が殺された後、良い猟犬は煮殺される。空飛ぶ鳥がとりつくされると、りっぱな弓はしまわれる。敵国が破滅したあと、謀臣は殺される』。天下がすでに平定された今、わしが煮殺されるのも当然だ

 さすが劉邦もこの言葉に同情したか、即座に死を賜るのはためらい、王から候に落とすにとどめます。そして、ある日、二人は雑談するうちに、

劉邦「わしなどは、どのぐらいの兵を指揮できると思うな?」

韓信「陛下は10万人の指揮がおできになるにすぎません」

劉邦「君の場合はどうだね?」

韓信「私は多ければ多いほどよろしゅうございます」(「多多益善(多々ますますよし)」)

劉邦(笑い出して)「多ければ多いほどよいならば、どうしてわしにつかまったのじゃ?」

韓信「陛下は、兵を指揮される能力はおありになりませんが、将軍を指揮されるのがお上手です(将に将たり)。これこそ、私が陛下にとらえられた理由です。それに陛下はいわば天から授かった能力をおもちで、人間の能力ではありません」  

 奥が深いですね。「将に将たる」者でなければ、天下を治めることはできない。他者はその者(=まさにカリスマです)にただひたすら奉仕するしかない。この親しげな会話も、しかし虚しく、韓信はこの後、劉邦の妻呂后らの陰謀にかかって、死を迎えます。このあたり、Part1のグィチャルディーニ君の台詞にあい響き合うところ多しというべきでしょう。 含蓄がありすぎますね。人は裏切る、しかし、その裏切りもまた読み取られていく。すべては天の命じるところ、才なき者はおのずと滅び、才ある者はそれを縦横につかって天下を自ら差配しようという。

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  さて、古代中国の智恵、『史記』、その気になればまだまだ続きそうですが、それはto be continuedとして、本巻の締めくくりとしては、「史客列伝」に登場の荊軻が、BC230年、人質としてとらわれていたから逃れてきたの太子丹の依頼で、秦王政(後の始皇帝)を暗殺すべく旅立つ時(しかし、結局暗殺に失敗、燕は秦に征服されます)、易水(えきすい)のほとりまで従った燕の人々に別れをつげる時に、自らの覚悟を詠み込んだ詩がふさわしいでしょう。

風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還」  風は蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず)

ファッションの人類学Part3:軍服、あるいは機能の追求

2010 12/26 総合政策学部の皆さんへ

   ファッションの人類学の続きです。今回はまず、ヒトはなぜを身につけるのでしょう? その機能とは何か? という問題からです。例えば、J.C.フリューゲルという研究者は『衣服の心理学』(1930)という著作の中で、以下の三つを指摘しているそうです。

  • ①身体を美化する「装飾
  • ②身体美を隠し、他者の注意を引かないように自制する「慎み」、そして
  • ③皮膚を守り、体温を調節する=健康維持に関する「身体保護」

 一方、さらに別の分類もあります。ラバー(1932)という研究者は、衣装を身につける/選ぶ動機について、

  • ①自分が何者であるかを主張(上下関係の原理)
  • ②異性の目をひく(魅惑の原理)
  • ③生活や仕事をよりやすく、より快適にする(実用の原理)の3つを提唱しています。    

  こうしてみると、Part1で触れたシャネルのシャネルスーツは、(a)身体の美化としての「装飾」=異性の目をひく魅惑、(b)何者であるかの主張=“社会に進出する女”であるというメッセージ、そして(c)着易さ・仕事のしやすさ=実用の原理、この3つを兼ねそろえた傑作といえるかもしれません。

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 さて、“仕事”における機能を最大限に発揮させるように進化した例の一つが、今回のテーマの“軍服戦闘服”です。ちなみに、軍服と戦闘服が微妙に異なりだしたのは20世紀も進んだ頃からです。これも上述の機能の違いですね。軍服は「おれは軍人だぜ」あるいは「私は兵士で、あなたは下士官、あそこにいらっしゃるのは士官将校です」という身分・上下関係をあらわすメッセージであるのに対して、戦闘服は文字通り戦闘という行為の中でのみまとう服ということになるからです。

 それでは、戦闘服が20世紀に入ってから広がった理由はと言えば、とくに近年、遠距離からの攻撃が日常茶飯事になったからです。こちらが見えないところから、攻撃を受ける。例えば、対人狙撃の世界記録は2002年、アフガニスタンでの戦場におけるカナダの狙撃手ロブ・ファーロング兵長によるマクミランTAC-50長距離狙撃ライフルの実に2430mです。ちなみに、その一つ前の記録は、ベトナム戦争でアメリカ海兵隊軍曹カルロス・ハスコックブローニングM2機関銃を用いた約2300mです。こんな遠距離からでも狙撃されるということなれば、服装はできるだけ目立たない方がよい。 

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 こうしてカッコが良い軍服から、いかにも作業服的な戦闘服へ、おまけにめだたない迷彩服へ。ということで、例えば、以下の二つの軍服/戦闘服を比較すれば、その違いが見えてくるものでしょう。

◆1742年、マスケット銃で武装するイギリス兵士:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Piechur_brytyjski_z_1742_r._22_regiment_piechoty.jpg

◆バクダットのアメリカ第2歩兵師団の戦闘服:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:2ID_Recon_Baghdad.jpg 

 もちろん、かつての過剰なまでに装飾的な軍服がまったく非合理的だったのかと言えば、それは違います。当時の戦闘では、むしろ過剰に飾り立てることで、相手を精神的に圧倒する意図もあったと思われます(例えば、日本の当世具足)。現代の戦争においては、そうした“過剰さ”はむしろ戦闘に不利になる(相手に気付かれやすい)というだけのことです。

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 軍服に代表される“制服”の一般化(学校、会社、接客業等)も現代の特徴かもしれません。ファーストフード店の全国統一の制服は、提供される商品の均一な室の高さを象徴しているとも言えるでしょう。こうした点では制服はきわめてメッセージ性が高い衣装であり、警官とガードマンの制服が似ているように、ある種の擬態とも思えないわけではありません。

 ところで、総政100本の映画Part13振り返り編:『ゴッドファーザー』そして『ワイルドバンチ』:暴力装置を通して見るアメリカ合衆国のなりたちについて#1で触れた『続あしながおじさん』の主人公、サリー・マックブライドの父親は「作業衣製造工場主」ということで、いかにも19世紀から20世紀にかけての産業革命勃興期のお仕事だと指摘しました。それでは、「作業服」の歴史はどうなるんでしょう?

 残念ながら、Wikipediaには「作業衣」「作業服」等の独立した項目がありません。「制服」のところに、制服にはその職務にあった機能性が求められる。特定の作業用に機能性を重視して規定された服は作業服と呼ばれ、制服と区別されることもある。企業によっては作業服を業務において常に着用する服装であるとし、作業服を制服と位置づけるところもある。但し、この場合でも営業職など接客を伴う場合に限りスーツ着用を基本としている」とあるぐらいですね。となると、サリーのお父さんが作っていたという作業衣はどんなものだったのでしょうか?

 例えば、代表的な作業着としてつなぎオーバーオール等が考えられますね。ちなみにWikipediaの「オーバーオール」には「全身を覆う形状をした作業着全般を指し、「つなぎ」の作業着なども含む」とあります。それで英語版をしらべたら、ちゃんと出てきました。”overall”という言葉の初出は以下の通り、18世紀末、産業革命勃興の頃です。

First in 1792 as “overalls” or “overall trousers” = “trousers worn outside the normal trousers to protect them” (from which the “bib-and-brace” use).

First in 1815 as “overall” = “any outermost coat or cloak”, with a long list of examples, which do not show when “overall” began to mean “boilersuit”.

 そして、19世紀から20世紀にかけて、次第に労働着として広がって行ったようです(線路工夫を想定した広告の画像がhttp://en.wikipedia.org/wiki/File:Railwayworkersinoveralladvert.jpg;ちなみにこの図はJobbers Overall Company, Inc., Lynchburg, Vaの宣伝です)。

 このJobbers Overall Companyのブランドは”Blue Buckle”だったようですが、さらに調べたら、なんとこの会社の工場の建物の写真がでてきました(http://www.flickr.com/photos/retroweb/2972966020/)。ちょっとした廃墟ですね。さらに調べると労働者住宅の建物も残っているようです。こちらは文化財のようなかんじです(http://www.flickr.com/photos/retroweb/2915805153/)。

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 ところで、現代ホワイト・カラーの“制服”あるいは“戦闘服”とも言える背広/スーツですが、このルーツの一つは軍服だといわれています。Wikipediaによれば、19世紀中頃から20世紀初頭にかけて使用された昼間の男性用礼装フロックコートの起源の一つが、ポーランド軽騎兵ウーランの「馬の際に風が入らないように前合わせがダブルで襟が高くなった」軍服であるということです。

 そして、「19世紀初頭、プロイセン軍の軍服であったダブルの前合わせで紺青色(プルシアンブルー)のコートが、男性の服装として地味な色彩が好まれていたイギリスにも広まった。軍服は立襟のままだったが、それ以外のものは背広襟となり、色は更に濃い色調の濃紺や黒のものが19世紀中頃には男性の昼間用正装となった」とのこと。さらに「海軍では背広襟のフロックコートが略礼装として採用され、それが紺色ダブルのブレザーとなったと言われている」(Wikipediaより)。

 このフロックコートがモーニングコートになり、さらにその裾をきりおとしてラウンジ・スーツとなって、背広に変化していく。こうみていくと、背広(スーツ)が仕事着として合理性をもつのも、機能美を追求した軍服の末裔なればこそ、とも思います。となれば、学生の皆さんが就活に着用するリクルートスーツも、ある種“戦闘服”ということになるかもしれません。

総政100本の映画Part13振り返り編:『ゴッドファーザー』そして『ワイルドバンチ』:暴力装置を通して見るアメリカ合衆国のなりたちについて#1

2010 12/23 総合政策学部の皆様へ

 昨年、ブログを投稿し始めた頃は、まだ要領もわからず、映画紹介もごく簡単にすませてしまいました。その頃、ほとんど名前だけの紹介に終わった作品をあらためて取り上げてみましょう。

 ということで、今回は「総政100本の映画編Part1:#1~#15、『桜の園』から『サイダーハウス・ルール』へ(2009/11/22投稿)」で取り上げたアメリカの映画監督コッポラの出世作『ゴッドファーザー』、そして同じくペキンパー監督の最高傑作の一つ『ワイルドバンチ』について、アメリカ社会にとって“暴力”は本質的なものなのか? という考察も含めて紹介したいと思います。仙谷官房長官の発言で“暴力装置”等ちょっと懐かしい言葉も飛び出す昨今、社会と暴力も興味深いテーマかもしれません。

 それでは映画番号#14:フランシス・コッポラ監督『ゴッド・ファーザー』Part1&Part2(Part3はやはりちょっと省きましょうね)です。ちなみに、“ゴッドファーザー”とはキリスト教社会でいうところの「代父母聖公会では教父母)」 、洗礼式に立会って、神との契約の証人となる者として、その後も信仰生活の導きをするはずの者です(Wikipediaから)。しかし、犯罪組織では、「擬制的親子関係」として、社会的装置の中に強固な人間関係を作り上げるツールとして機能します。

  こうして映画の原作者マリオ・プーゾは、イタリアからアメリカに最下層の移民として渡り、やがて犯罪組織を立ち上げて、擬制的親子関係で人々を支配する主人公ビトーを象徴する言葉として、「ゴッドファーザー」を小説のタイトルに選びます。実は、こうした事情は東西変わりません。日本においても、やくざさん等の世界では同様の擬制兄弟・親子関係がつくりあげられ、その表象として“事(さかずきごと)”をかわします。

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 『ゴッドファーザー』の解説に入る前の前置きとして、アメリカの移民社会に触れましょう。アメリカの“移民”は実に多様です。『ゴッドファーザー』の背景には、アメリカ合衆国の“移民”の問題が潜んでいます。1607年のバージニア植民地や1620年のプリマス植民地に住みつき、やがて先住民(インディアンあるいはネィティブ・アメリカン)を圧迫して、新大陸を支配し始めたのは、イギリスを中心としたプロテスタントの人たち、いわゆるワスプ(WASP=White, White Anglo-Saxon Protestant)です。

 WASPに対するイメージの例として、例えば、ウェブスターの『あしながおじさん』の続編『続あしながおじさん』(原題は「敵様(Dear Enemy;書籍番号#80)』をとりあげてみましょう。ジュディ夫妻に頼まれて孤児院院長として、周囲の無理解に孤軍奮闘するジュディの親友サリー・マックブライドは、養子に「メイフラワー号以来の血統がはっきりした子供」を希望するような方々に悩まされます。これがつまりWASPです。

 ちなみに、サリーの名前Sallie McBrideは、姓の出だしにMcがついています。これは「誰それの子」という意味のゲール系の言葉で、一目瞭然サリー自身はアイルランド系(=辛抱強い)とスコットランド系(=頑固)のダブルなのです。さらに、その燃えるような赤毛(=気性が激しい)が幾度も強調されます。また、サリーが末尾近くで互いの思慕を確かめあう相手役、Robin ‘Sandy’ McRae(=敵様)も姓は同様ですが、こちらはこれまた頑固な上に、自分の本心を素直に表にだせない「スコットランド系」という設定です。

 19世紀のアメリカ社会における孤児院や養子制度の研究材料としては、『あしながおじさん』より、『続あしながおじさん』の方がお薦めかもしれません。  

 やがてWASPはアメリカ合衆国のエリート層を形成します。こうしたイングランド系アメリカ人は現在人口の9%を占め、これにスコットランド系やウェールズ系等をあわせると13%ほどになるそうです。そして、いかにもエリート層として、歴代大統領の大半はこのイギリス系に含まれます。

  その後、ヨーロッパの社会の変化にあわせ、ほかの民族が次々に移ってきて、階層を形成します。現在、アメリカで最大の人口(17%)を占めているというドイツ系アメリカ人が17世紀末から20世紀前半にかけて現れます。このうちプロテスタント系はやがてエリート層に昇格していきますが、それでも、ドイツ系の大統領はフーヴァーニクソンのみにとどまっているとのこと。宗教的には、カトリックはその下に位置し(カトリック出身の大統領はケネディのみ)、そのまたさらに下にユダヤ系という結果になっていきます。

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 さて、19世紀にアイルランドで起きたジャガイモ飢饉は、小作人の立場でイギリスに小麦を輸出し、自らは新大陸からもたらされたジャガイモを主食にしていたアイルランド人をおいつめ、アメリカ大陸に大量のカトリック系移民を送りだすことになります(ケネディ大統領の曾祖父パトリック・ケネディも含まれます)。こうしてアイルランド系アメリカ人(人口比12%)となります。

 アイルランド人はまたオーストラリア等にも移住し、この結果、現在のアイルランド共和国(当然、北アイルランドは含みません)の人口が450万人にとどまるのに対して、アメリカ合衆国だけで4400万人、全世界をあわせると8000万人にもなると言われています。故郷にとどまることは半ば死を意味したわけで(じゃがいも飢饉では100万人以上が餓死)、200万人以上が故国を捨てて、“新世界”へ移住したと言われています。

 その際のアイルランドの人口減少のグラフはhttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d8/IrelandEuropePopulation1750.PNGを参照して下さい。こうして故国に残った者は死んでいき、故郷を捨てた者には生きる道が与えられたのです。

 『続あしながおじさん』のサリーは作業衣製造工場主の娘という設定です。祖先が新大陸で頑張って資本家まで出世して、娘を女子大学まで送ったという設定なのですね。これはケネディ家と似た展開です(アメリカに流れ着いた曾祖父は早死にしますが、二代目は港湾労働者から酒場の店主を経て、下院議員に出世、その息子(ジョセフ・ケネディ)はハーバード大学に進んで、投資家になります)

  ところで、労働者用の服の販売、これもまたいかにも19世紀から20世紀にかけての産業革命勃興期のお仕事ですね。それまでのエリート層が手を出さなかった仕事かもしれません。ファッションの人類学シリーズでもとりあげなければ。

  そしてこの小説は何より、サリーはブルジョア資本階級の「てっとうてつび軽佻浮薄(=サリーの自称)」な有閑女性から、見事な「孤児院経営者=社会運動家」にまで変貌をとげる女性の自己実現の物語とも言えます(Dear Enemy shows how Sallie McBride grows from a frivolous socialite to a mature woman and an able executive. It also follows the development of Sallie’s relationships with Gordon Hallock, a wealthy politician, and Dr. Robin McRae, the orphanage’s physician. Both relationships are affected by Sallie’s initial reluctance to commit herself to her job, and by her gradual realization of how happy the work makes her and how incomplete she’d feel without it. The daily calamities and triumphs of an orphanage superintendent are wittily described, often accompanied by the author’s own stick-figure illustrations英語版Wikipediaより)。 

 アメリカの福祉政策、あるいは女性の自己実現に興味がある学生さんは是非ご一読を。   

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 やがて、こうした移民の流れにポーランドクリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』の主人公、人種差別的発言連発のコワルスキーですね)やロシアからの移民も加わる。そして、この間、アフリカから大量の奴隷が輸入され、それがアフリカ系アメリカ人として現在の人口の12%を占めます。

 19世紀以降はイタリア系(カトリックが多い)も流れ込み(現在、6%)、さらに中国系等のアジア系が増加しそうと見るや(最初の中国系移民は1820年にアメリカに着きます)、1882年に中国人排斥法(Chinese Exclusion Act)が、1924年にはいわゆる「排日移民法」が制定されて、アジア系を締め出そうとする。その一方で、20世紀に入り中南米からのヒスパニック系移民、あるいは不法移民が流れ込み、社会問題化する。

 すでに1949年出版のロス・マクドナルドの傑作ハードボイルド小説『動く標的(The moving target)』では、行方不明の大金持ちが裏では不法難民のビジネスに手を染めている描写がでてきます。以下は、犯人の一人の女が、探偵リュ・アーチャーに語る言葉です。 「でも、いいお金になったのよ。二重取りしていたのよ。貧乏人の貯めた金を運賃としてまきあげて、農園にひとり頭いくらという約束で送りこんでるのよ。メキシコ人たちは何も知らないけれど、ストライキ破りに使われているのよ。そんなことをしているから、トロイは地方警察なんかからは守ってもらっていられるのよ。ルイスは向こう側で、メキシコ側の役人に鼻薬をきかせていたのさ」(井上一夫訳、創元推理文庫版) 

 こうして“遅すぎた移民”は次々に社会の最下層に吸収され、アメリカ社会の階層=ヒエラルヒーがいよいよ複雑化する。そんな社会現象を端的にあらわすのが、例えば、プロスポーツの世界です。以前、「プロモーターの時代:高畑ゼミの100冊および総政の映画100本番外編(2010/02/18)」でとりあげたボクシングです。観衆の前で流血を流すブラッディ・スポーツの典型であるボクシングでは、その時々の社会情勢にあわせて、大衆向けの英雄として、様々な民族出身者が変遷していきます。

 アイルランド系(ジョン・L・サリバン=初代ヘビー級チャンピオン;在位1882~1892) → モルモン教徒(ジャック・デンプシー;1919~1926) → アフリカ系(ジョー・ルイス;1937~49) → イタリア系(ロッキー・マルシアノ;1952~56) → アフリカ系 (モハメディ・アリ;1964~67、1974~78) → ロシア・ウクライナ(ニコライ・ワルーエフ;2005~2007、2008~2009; ビタリ・クリチコ;2004~2005、2008~)   

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 それでは、19世紀に遅れてやってきた移民のアイルランド人はどんな地位を占めたのか? まず、警察ならびに消防士です。Wikipediaには「1820年から1860年にかけて、アイルランド人はアメリカ合衆国内の移民のうち3分の1を占め、1840年代には移民の半分を占めるようになっていた。初期の移民の職業は警察官、消防士、軍人などが多く、アイルランド系の警官、消防士、軍人が活躍する映画が多い。これは移民として比較的後発だったため、命がけの危険な仕事にしかありつけなかった歴史的事情や、血気盛んなアイルランド気質ともマッチしている要因が挙げられる」とあります。

 アイルランド系の警官・消防士というイメージはハリウッドではいわば定番化して、『ディパーテッド』でディカプリオが演じるコスティガンはアイルランド系という設定ですし(ちなみにディカプリオ自身はイタリア系とドイツ系のダブルです)、映画『バックドラフト』の主人公である消防士スティーブン・マカフレイ(Stephen “Bull” McCaffrey)も姓の出だしにMcがついています。

 そして、アイルランド人が就いた職のもう一つのタイプは、酒場(ケネディ大統領の祖父が最初についた職)やギャングだったのです。19世紀、アメリカに渡ったばかりのアイルランド系移民のギャング”Dead Rabbits“,と、すでに土着化していたWASPのギャング”Natives”との抗争を描いた映画こそが『ギャング・オブ・ニューヨーク』、ディカプリオ君はここでもアイルランド系のギャング志望の若者を演じています。対する“Natives”のリーダーWilliam “Bill the Butcher”を演じるのはイングランド系名優ダニエル・デイ=ルイス 

 警官とギャング、なんとも対照的な取合せではありますが、これこそが“遅れてきた移民”としてのポジションであり、そこから徒手空拳でなりあがるためにボクサーを選んだのがジョン・L・サリバンだったと言えましょう。なお、『ギャング・オブ・ニューヨーク』の舞台はスラム街ファイブ・ポインツ、のちのイタリア生まれの犯罪王アル・カポネが育った街でもあります。 

 その抗争の風景を描いたイラストのURLはhttp://en.wikipedia.org/wiki/File:Dead_rabbits_barricade_new_york.jpg。ほとんど戦争です。 

 ということで、#1はそもそも『ゴッドファーザー』にまでまだ到達しないまま、いったん幕にして、 to be continued としましょう。

総政をめぐるトピックPart1:“国勢調査”、“人口”、そして国家統計#1

2010 12/21 総合政策学部の皆さんへ

 今回はまたも統計です、それも国勢調査。それではまず、19世紀に生きた帝政ロシアの小説家・劇作家のゴーゴリの遺作小説『死せる魂』(1842年刊;書籍番号#79)から始めましょう。この小説の梗概は以下の通りです。

 1861年、ロシア帝国の皇帝アレクサンドル2世の時に農奴解放令を発布しますが、それまでロシアでは少数の地主が多数の農奴をかかえていました。その農奴には国家から人頭税がかかりますが、それは地主の負担です(人頭税については、「“植民地”が残したもの:国際援助の現場から#9-タンザニア編Part2(2010/08/27)」等も参照に)。

 それでは、国家は何時農奴の数を数えるのか? それは国勢調査です。

 すると、国勢調査から国勢調査までの間に農奴が死んでしまった場合、地主は次の国勢調査があるまで「次の国勢調査まで死亡した農奴の人頭税も支払わなければならなかった!」 (封建制の前近代的システムではよくあること)。それで・・・・・ 

 「彼らは何とかしてその税を逃れる方法を探していた。そこに注目したチチコフは死亡した農奴の名義を買い集めて書類を捏造し、中央政府から金を騙し取ろうと計画を練る。それを実現する為にチチコフは広大なロシア全土を旅して歩き、至る所で一癖二癖持っている人々と出会う(Wikipediaより引用)」

 こうして滑稽とも、悲惨とも、なんとも言えない筋書きが展開します。「総合政策」にぴったりですね。「総合政策の100冊」のNew versionを作るとすれば、是非、推薦しなければ。

 それにしても、人口、税金、土地問題、階級制度・・・・・ 皆さんもたまには(シミュレーションゲームとして)ロシア皇帝政治顧問の立場にたち、ロマノフ朝存続のためのロシア帝国改善案等考えてみては?

  コンピュータゲームで、政策ゲームのシリーズ化! 面白いかもしれませんね。あなたがオスマントルコ大宰相だったら、トルコ帝国は生き残れたか? たまたまルイ16世だったら、作り等の趣味に走らず、ギロチンをかわして、フランス経済を立て直せたか?  

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 しかして、国勢調査(こくせいちょうさ)とは、基本的に国家のため、国家が国民から税金を集め、徴兵制を施行して、政治的権力を保つための道具であったわけです。

 その結果として、人口も把握できる。その一方で、スキルとしての国勢調査を確立しなければ、『死せる魂』のような滑稽劇さえ生まれかねない。なかなかに面白いものです。

 ちなみに、ヨーロッパでは伝統的にキリスト教会が信者を束ねるために用いた教区簿冊が人口統計につかわれています(ヒューエコ入門で説明する人口革命/人口転換も、この教区簿冊の分析によるわけです)。

 一方、日本の歴史人口学では、資料として宗門人別改帳(=「江戸時代の日本で宗門改(宗門人別改)によって作成された民衆調査のための台帳。本来の目的は、信仰宗教を調べることであったが、現在で言う戸籍原簿や租税台帳の側面も持つ(Wikipedia)」が用いられています。

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 さて、明治初期、宗門人別改帳に頼るばかりではらちがあかず、日本の人口はどれくらいか? 流通している金貨・銀貨はいかほどか? 米はどれほど採れるのか? 江戸幕府体制を倒したばかりの新政府には頭の痛い事でした。これらをすべて国家統計の対象としなければなりません。

 その頃、人口について孤軍奮闘したのが勝海舟の最初の弟子、杉亨二(1828~1917年)と言われています。

 長崎生まれの彼は1853年、江戸で勝海舟の門人となりますが、勝の推挙ですぐに老中阿部正弘の侍講(顧問)に採用され、そこから蕃書調所教授手伝を経て、開成所教授となる。この過程で洋書の翻訳を通じ、統計の重要性に気付きます(このあたりこそが、『基礎演習ハンドブック』に亀田先生がお書きの第4章冒頭の部分[p.75]に該当します)。

 しかし、杉のキャリア・パスの展開、すさまじいですね。幕末です。やはり文化大革命だったのです。ちょっと前は小普請組でくすぶっていた勝が、老中への口利きをして、どこの馬の骨とも知れぬ者がそのまま幕臣になる。「おれは、時代が人を作るのをこの目で見たよ」という勝の述懐そのままです(なお、勝海舟については「総合政策のための名言集Part 1:勝海舟、永井荷風、そしてラ・ロシュフコー(2010/08/1 投稿)」をご参照ください)。 

 杉は御一新後の明治4年12月24日に「太政官正院政表課大主記(現在の総務省統計局長にあたる)を命じられ、ここで近代日本初の総合統計書となる「日本政表」の編成を行う」。そして1879年、国勢調査の試行として、現在の山梨県を対象に「甲斐国現在人別調」を実施し、同年の12月31日午後12時現在人数は397,416人という結果を得ます。

 なお、調査人は2,000人、調査費用は約5,760円(当時としてはかなり高額ですね=国家の運営は金がかかるものなのです)。「その後は政府で統計行政に携わる一方、統計専門家や統計学者の養成にも力を注いだ」とあります(以上、Wikipediaより)。

  この間の様々な事情について、総務省統計局のHPに「国勢調査に関する詳細な解説」があり、そこに第Ⅲ章「国勢調査の歴史」が掲載されています。pdfファイルのURLはhttp://www.stat.go.jp/data/kokusei/pdf/kaisetu3.pdfです。それによると、「甲斐国現在人別調」のコストは一人当たり1銭4厘4毛9糸、当時の欧米のとなっている費用の1/2~1/4に過ぎなかったが、戸籍局調べ(下記参照)による明治13年1月1日の全国人員で、全国調査のコストを計算すると52万5千余円が必要で、種々の理由によって、明治時代にはついに国勢調査は実施できなかったとあります。  

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 その一方で、行政機関としての明治新政府は、江戸期の宗門人別改帳から国家による人民支配のツールとして“戸籍”制度の確立をめざし、“戸”を単位に、“国民の創成(=ネーション・ビルディングですね)”とその把握をはかります。

 明治4年、戸籍法制定、明治6年(1873年)壬申戸籍を集計、全国民を33,110,825人(皇族29人、華族2666人、士族1282167人、卒659074人、地士3316人、僧211846人、旧神官102477人、尼9621人、平民30837271人、樺太人員2358人)と算定します。

 この戸籍による人口把握と国勢調査による人口把握はそれぞれ性質が異なる点、とくに前者は人々の移動や出生・死亡を追い切れないために脱漏が生じることは、上記の『死せる魂』を想起すれば、皆さん、理解できますよね。

 ちなみに、この戸籍制度は、中国・日本を中心に東アジア特有の制度で、世界の他の地域にはありません。ごぞんじでしたか? Wikipediaから該当部分を以下に引用しましょう。

 「戸籍制度は(中略)中華文明圏で成立した家族集団の認定を基礎とする、他地域には存在しない特有のものである。近代以降、国民・住民の把握は国家により、個人単位あるいは家族集団単位で行われ、欧米でもアングロサクソン系国家では個人単位、大陸系国家では家族登録制度を採用する傾向がある。中略)特にアメリカ合衆国イギリスオーストラリアでは国家による家族登録を行わない伝統を持ち、戸籍のような家族単位の国民登録制度は存在しない。社会保障番号(Social Security Number)制度はあるが、これは年金の加入・支給を管理するため、つまり日本における基礎年金番号に相当するもので、戸籍のようなものは存在せず、結婚などの登録も役所の住民登録で済まされる。多くの州では居住地でなくとも婚姻届を受理する」 

 ということで、今回はこのあたりでto be continued・・・・・としましょう。 

“市”をめぐる人類学Part2:アフリカ等で市場を見ながら、経済人類学から都市・国際政策まで考える

2010 12/19 総合政策学部の皆さんへ

 Part1に引き続いて、“市”の話です。今日、紹介するのは東アフリカはタンザニア、実質的な首都ダル・エス・サラームの港の出口あたり、砂浜に忽然として出現した“魚市場”の栄枯盛衰の話です。名前は“バンダ・ビーチ”、タンザニア関係のHPを閲覧していると、この名前がそこここに出現します(日本人は魚が好きですからね)。

 一番良さげなWeb情報は、協力隊の方の「Jambo!タンザニア実習録」(http://gogotanzania.blog100.fc2.com/blog-category-2.html)かもしれません。

 ちなみに、私がJICA(国際協力機構)の専門家をしていた1980年代も同じでしたが、協力隊員はタンザニアに赴任すると、まず現地に慣れるための実習があります。その最後はたしか、独りで旅行=例えば、タンザニア中央鉄道(「国際援助の現場からPart8」で既出)に乗って、内陸部のキゴマの街までたどりつき、そこの(ドイツ植民地時代に作られた)港からタンガニイカ湖を行き来する汽船リエンバ(同じくPart10で既出)の定期航路に乗船する等のメニューをこなします。その最初の一歩に関するブログです。青年海外協力隊や海外援助に興味のある方は是非ご覧下さい。

 さて、上記の方は2007年05月22日にダレス・サラームの市内をJICA職員に案内されています。ダレス・サラームには大使館とは別にJICA事務所があります。私も、当然、何度も出入りしていました、懐かしいですね。ちょととだけ、引用させていただくと

 ダルエスサラーム湾東端のバンダ・ビーチにある魚市場を案内していただきました。(中略)写真を撮る場合は正式な許可が必要なことがあり、勝手に現地人の写真を撮ってトラブルになったケースもあるそうで、人を撮影する場合最低許可を得てから撮る必要があるそうです。(中略)当魚市場は日本の援助で建設されたそうです。親日の人が多く、いかにも売り込み上手そうな現地人が”こんにちは”と話しかけてきます。

 なんと、あのバンダ・ビーチに日本の援助でできた“市場”がある! という驚きから、とりあえず、話を始めましょう。 

 それでは、現在のバンダ・ビーチが どうなっているのか、We bで探すと、2002年に日本の援助で建物が建っているのですね(写真が見つかったので、URLを貼りつけておきます;http://members.jcom.home.ne.jp/naito6231/sub2912b.html)。

 この記事の筆者はどうやら、私と同様かつてJICAの派遣専門家でタンザニアに滞在していらして、その再訪記事のようです。ただし、この写真をみると、ちょっと「もう、世界が変わってしまったのだ」という気がします。この写真だと立派なアゴラです(Part1参照)。

 ちなみにどんな援助だったのかをJICAのHP(http://www.jica.go.jp/)で調べてみても、タンザニアでの援助実績の表がありますが、どうも突きとめられませんでした。ご参考までにタンザニア関係の援助実績についてのHPのURLは以下の通りです:http://gwweb.jica.go.jp/km/ProjDoc548.nsf/VW02040102?OpenView&ExpandView&RestrictToCategory=%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B6%E3%83%8B%E3%82%A2

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 さて、昔(1979-1984=私のタンザニア滞在)のバンダ・ビーチは、ただの砂浜でした。要するに手こぎ、あるいはダウ船的な三角帆で小舟を操り、漁業をたつきにしている人たちが魚を荷揚げする。それを浜で待ち構えている“棒手売(ぼてふり)”行商、“仲買”の商人が魚を買取、市内に売りに行く。もうお分かりですね、Part1に述べた異なる生業=この場合は漁業と商業の人たちが境目で出会う場所、それがバンダ・ビーチと呼ばれる砂浜だったわけです。ビジネスのチャンスです。

 私の大学院時代、原子(はらこ)さんという東大人類学教室出身の方が助手で(その後、明治大学に移たのですが、60歳でお亡くなりになってしまいました)、70年代初頭にタンザニアを訪れた時のことを聞いてみると、「僕が最初に来たときは、本当に砂浜しかなくて、漁民と買い取る商人ぐらいしかいなかった」と証言いただきました。

 その7~8年後、私がタンザニアに着いた時に見かけた光景は、自力でひたすら“市場(いちば)”化への道を走る姿です=まさに、内発的発展論ですね!(内発的発展論の定義は右のURLの『マネー辞典m-Word』の記述を参照;http://m-words.jp/w/E58685E799BAE79A84E799BAE5B195E8AB96.html)。

 まず目につくのは、砂浜に並んで立っている粗末な木製の売り場です(アフリカの田舎の市場でよく見かけるタイプ)。そこで、浜からあがったばかりの魚介類を売っている(ぼてふりから常店への出世と言えましょう)。日本人とみれば「イカ、イカ・・・サヨリ、サヨリ・・・エビ、エビ、ヤスイヨ!」等と、ダレス在住の日本人から覚えたと思しき魚名を連呼、当時のさびれきったタンザニア社会主義政権下のマーケットで、随一活気のある場所だったといっても、過言ではないでしょう!

 そして、最初に訪れた1979年から1982年までの変化も顕著です。この魚市場にどんなものがつけ加わっていったと思いますか? それはまず、土産物、例えば木彫=マコンデの実演・販売所です。あきらかに、このバンダ・ビーチに魚をもとめてやってくる金持ち=外国人の旅行者や援助関係者等をめあてに、いかにも安げに(実際には、店によったら、市内の土産物店の方が安かったりするのでしたが)売りさばく、そんなビジネスです。なお、上記の協力隊の方のHPに写真で映っている貝殻も、当時からの有力土産物でした。

 マコンデとは、海岸地帯にすんでいる民族マコンデの人たちが作る木彫りの彫刻類のことをさします。材料はアフリカ黒檀(African black woods;http://www.fuchu.or.jp/~kagu/mokuzai/ab.htm)。なお、マコンデも含めてアフリカ彫刻のWikipediaのページは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%BE%8E%E8%A1%93です。また、三重県伊勢にマコンデ美術館があります(http://www2.ocn.ne.jp/~makonde/)。 

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 土産物屋とともに79~82年の間に広がったのが、“飯屋”です。ご飯(スワヒリ語ではWali)はジャーにいれて持参、魚市場で材料を仕入れて、エビを油であげたり、魚を焼いたりして、小屋掛けの食堂が立ち並びます。人があつまり、そこで仕事をするようになれば、当然、腹も減り、飯屋も生まれる。よくできています(日本の魚市場等も、あたりを見まわすと、結構飯屋があります。しかも朝からやってたりする-魚河岸の朝は早いので)。

 ただし、バンダ・ビーチの飯屋の油は何時換えるともしれぬ茶色の液体、フツーの人は手を出さない方がよいかと思います。私は大丈夫でしたが、一匹だけエビを口にしたパートナーはあっというまに下痢をする羽目になりました。

 売っている魚介も何時採れたものかわからぬものばかり(刺し網の場合は、夜仕掛けて、朝引き上げるので、早朝に買いに行けば、まず大丈夫ですが)、一番安全なのはカニのノコギリガザミで、こいつばかりは店頭の籠の中で生きていますから、それを79年ころは10タンザニアシリング、当時の金で300円ぐらいで買って、ホテルにもどり、ガソリンストーブとコッヘルで茹でて食べるのが、一番安全で安くて、美味しいものでした。

 ただし、そのカニにハサミはありません。ハサミは高級レストランでクラブ・カクテル(高いけれども、絶品でした)になるので、ハサミは別売りでそれが10シリング、ハサミ抜きの本体が同じ10シリング。とは言え、殻には蟹ミソがびっしりと詰まっていて、結構なものでした。

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 その誰もが幸福なバンダ・ビーチが、突然官憲の手入れを受けたのが1983年、私が一時帰国した際のことで、タンザニアに帰ってみると、浜はほとんど人気もひいて、ダレスの魅力が一気に半減というより、ほとんど亡くなった風情です。聞いていみると、やはり税金が問題。もちろん、貧しい庶民はだれも税金等はらわないので、社会主義政権としてせっかくの内発的発展の芽をつぶす=正規の商取引は(税金が課せられた)正規の市場でやれ、ということです。

 おかげで、漁師も、商人も、魚を買っていた人たちもみんな困ってしまって、もちろん、それでも税金を払う者等いない。つまり、誰も得をするものもいない。得意然としているのは、役人しかいない。それが社会主義の断面というわけです。

 その市場が、いつの間にか、立派になっている。とは言え、これですべてうまくいくとは、私にはちょっと思えません。というあたりで、to be continued・・・・・としましょう。

高畑ゼミの100冊Part21:“政治家”はもっと“古典”を読むべきでは? ということで『リコルディ』こと『フィレンツェ名門貴族の処世術』のご紹介を

2010 12/14 総合政策学部の皆さんへ

 日本ではここしばらく、総理大臣が安定していません。もちろん、それではどのぐらいの期間まで安定すればよいのか、あまりに長すぎたら独裁になっちゃうんじゃない? とか思ったりもしますが、現在の日本の政治が“不安定”であるという印象を否定はできないでしょう。しかし、これはいったいどういうことなんでしょうね?

 ちなみに、近代政治史上、長期間首相を務めた例として、ポルトガルのアントニオ・サラザールの名前がよくあげられます。この政治経済学の大学教授あがりの政治家は実に1932~68年、権威主義的独裁者として首相のポストを占め続け、国民各層の利害を調整しながら(政教分離派でありながら、カトリック教会の支持を取り付ける。右派過激派と対立しながら、王党派の指示も得る。こうしてある程度の社会改革を進めながら、左派も右派も秘密警察で弾圧する)“新国家体制”を確立するという綱渡りを演じ続けます。

  サラザールはきっと“テクニシャン”だったんでしょうね。しかし、この一種のパターナリズム的“安定”にまどろむことで、ポルトガルは本格的改革を経ぬまま時だけが過ぎます。この結果、ヨーロッパ諸国の進歩に取り残されて(=赤の女王仮説ですね)、いつのまにかアフリカ等の植民地に依存する後進国と化してしまいます。そのあげく、この“新体制”は1974年の軍部のクーデターで崩壊します。

  •   ところで、サラザールは晩年不慮の事故で執務不能になり、首相交代になるのですが、2年後になんと意識を回復、しかし、周りは本人が気づくのをおそれ、「執務室を病態に陥る以前と同じ状態に保全し、のみならず当時のポルトガルの動乱のことなどは一切記載されない偽の新聞を読ませ、サラザールが権力を喪失した落胆に見舞われないよう配慮した。 サラザールはこの執務室で、何の影響力もない命令書を書き、偽新聞を読んで晩年を過ごした。その甲斐あってサラザールはポルトガルの混乱を知らないまま、間もなく幸福に世を去ったという(Wikipediaより)」という有名な逸話があります。
  •  
  •   そしてもう一つ、サラザールの名前はかの『ハリポタ』に登場の4つの学寮の一つの創設者、サラザール・スリザリンのモデルという噂もあります。
  •  

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 さて、ひょっとしたら、現代日本の政治家は圧倒的に教養が足りないのではないでしょうか? 例えば、20世紀初頭のアメリカの女子大で、『あしながおじさん』の主人公ジュディがラテン語の授業で受けたように、ハンニバルやらカトーキケロやら、カエサルの演説をたたき込まれていたら、国会で突っ込まれたときに、どんな台詞で切り抜けるべきか、ちゃんと身についているものかもしれません。

 その点で、今の首相にまずお奨めなのは、司馬遷史記かもしれませんし、尾藤先生お奨めのプルタルコスかもしれませんし、マキャベリ等の政治学でなければ、ロシュフコーのモラリスト的発言かもしれません。例えば、マキャベリのお友達にして真のマキャベリスト、16世紀のローマ法王庁のトップ官僚フランチェスコ・グィッチャルディーニが子孫のために書き残した処世訓の言葉『リコルディ(覚書)』等、絶対に役に立つと思うのですが(なお、この台詞は『基礎演習ハンドブック』で紹介済みですね)。 

  • 権勢ならぶものがなく、また賢君の誉れも比肩するもののなかったアラゴンフェルデナンド・カトリック王が、なにか新しい仕事をやろうとしたり、あるいは非常に重要な決定を下そうとしたとき、王みずから自分の考えを公にする以前に、宮廷および人民全体が「王はまさにこれこれの事業をしなければならない」と声を大にして熱望するようにし向けていたのに、私は気付いたものである。こうして王の立場が一般に待望され要求されるようになってはじめて、自分の考えを公にしたわけである」(『リコルディC』80節;書籍番号#78 F・グィッツチャルディーニ(永井三明訳)『フィレンツェ名門貴族の処世術』講談社学術文庫版)
  •  

 管首相など、「消費税」を進めようとするならば、こういう策略にでるべきではなかったのかな。グィッチャルディーニのリコルディにはさらに「7 発言に注意」として、以下のように書き付けます。この言葉が耳に痛い政治家ばかりではないでしょうか? 今の民主党の閣僚の皆さん、とくに仙谷官房長官等には是非肝に銘じてもらいたいところです。

  • 君が口を開くとき、必要でもない限り、他人を不愉快にさせるにちがいないようなことは決して口にせぬように注意をはらわなければならない。というのは、時と場所とをわきまえずに、そのような発言をすれば、それは君自身にはかり知れぬ害をもたらすからである。(中略)用心深い人間でも、このことではずいぶん失敗するものだからである。また、これを避けるのは至難のわざである。けれども、それがどれほどむずかしいことであっても、それを乗りこえる方法を知っている人にとっては、それだけ大きな報いがあるというものである
  •  

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  一方、貴族上がりの政治的テクノクラートとして、グィッチャルディーニは「5.人を使う技術」にこんなことを漏らします。

  • もし部下が、あたうかぎり節度をまもり感謝の気持ちを抱いているとすれば、主人たるものはあらゆる機会に応じて、できるだけのことをして彼らに報いてやらなければならない。
  •  けれども経験に照らしてみるに、以下の事が明らかである。実は私自身の使用人を観察してわかったことなのだが、使用人というものは充分なものをうけとるやいなや、または、これまで主人から受けていた手あついとりあつかいを、もう主人からしてもらえないようになると、たちどころに主人を見捨てるものなのである。だから自分の利益をまもろうという主人はけちけちしなければならない。(中略)折に触れて使用人のうちの一人にだけ気前よくふるまうことである。(中略)その理由は、人間の性格などというものは、一般に恐怖よりもむしろ希望によって動かされるものだからである。また一人の人間が良い待遇を受けている実例を見せつけられることは、多くの人間がろくにかまってもらえないのを見てぞっとさせられるよりも、はるかに人々の希望をかきたてて満足を与えるものだからである」
  •  
  •  そう言えば、昔タンザニアでJICAの専門家をしていた頃、日本大使館の方と話していると、当時の社会主義政権時代のカリスマ、ジュリウス・ニエレレ大統領(当時は、本当にカリスマでしたね)が話題に上り、「ニエレレの支配のコツは、馬鹿で無能な人をNo.2に据えることですよ」とおっしゃっていました。「まず、No.2に寝首を取られることがない。そして、周りの連中は「あんな馬鹿でも務まるのだから」と思って、今度は自分がその後釜に座りたいと忠誠を誓うんです」ということでしたが。
  •   

 としながらも、「11 忘恩を気にするな」では、

  • 「多くの人々が恩知らずであるからと言って、他人に恩恵をほどこすことをためらってはならない。なんの下心ももたずに善を行なうことは、高潔でほとんど神の御わざといって良いからである。しかも君が折りにふれて善行をほどこす態度で人に接するなら、それを受けた相手は、他の人間共の恩知らずをつぐなうほどの恩返しをしてくれるだろう」
  •  

と指摘して、まさに「情けは人のためならず」の本来の意味=「情けは人のためではなく、いずれは巡って自分に返ってくるのであるから、誰にでも親切にしておいた方が良い」(Wikipediaより)の実践を勧めます。

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 ところで、徹底的に経験を重視するグィッチャルディー二は「6 経験の尊重」で

  • この世の中のことがらを語るにあたって、あたかもそれが決まり切ったことのように考え、見境もなく絶対的なもののように言うのは、大へんなまちがいである。それというのも、ほとんどすべてのことがらには、それぞれの環境の差異につれて、区別やら例外やらがあるものだ。その環境というのは、同一の法則では律しえないものである。そしてこれらの区別や例外は、書物をひもといてもみても探し出すことはできない。こういったことは自分で考えて学ぶしかないのである」 
  •  

と断言します。とすれば、この『リコルディ』を読む意味はないのか? もちろん、そんなことはありません。

 経験はたしかに重要です。しかし、次から次に訪れる経験を片端から理解していくために、先哲の書をひもとき、事態を理解しようとする努力も必要です。あのマキャベリでさえ、塩野七生によればルネサンスの梟雄チェーザレ・ボルジアの政治的行動を理解しかねて、参考資料とするため(現実の政治の展開を、古典を通して読み解くため)友達に『プルタルコス英雄伝』を送ってくれるように依頼したと言います(『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』中央公論新社より)。

生き物を紹介しましょうPart5:嫌われる生き物とは?:嫌うことと好む事についての考察も含めて#2

2010 12/11 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ

 #1に引き続いて、“嫌う”ことと“好む”ことにからんで、臭いについての考察です。まず、なぜ、“嫌われるのか”? それはたいてい、“いつもの世界”とは違う“刺激=信号”が引き金です。例えば、“におい”。この“におい”という大和言葉も、文字表現しだいで、それぞれ意味が違ってきます。“にほひ”、“におい”、“匂い”、“臭い”、etc.  言葉を見るだけで、情感が揺れる、これが言葉という世界を創造し、かつそれに囚われてしまうヒトの心理です。 

 さて、ヒトはしばしば他者を軽蔑差別する時、「あいつらは臭い」等と表現します。すなわち感覚的嫌悪の表明ですが、その場合の「臭い」とは、まさに自他の差の強調以外の何ものでもありません。差をみつければそれを強調し、さらに意識することで、相手を貶めていく。昔、TVで放映されていたイスラエルの子供たちの映像に、アラブ人を指して「あいつらは臭い」といかにも軽蔑しきって発言しているのが印象的でした。ヨーロッパで、アメリカで周りから差別されてシオニズムに救いを求めて、イスラエルを建国したユダヤ人の子供たちが、今度は周りのアラブ人を差別する。この差別の連環こそが現実というものです。

 そういえば、ちょっとstrange tasteな映画にジャンヌ・モロー主演『エヴァの匂い』(ジョゼフ・ロージー監督、1962年)があります。この邦題の“匂い”も微妙ですね(英語の原題はただ“Eva”だけです)。 

 そんな世界を勉強しようとすれば、例えば、 フランスの才気に満ちた歴史学者A・コルバンの傑作『においの歴史―嗅覚と社会的想像力』(書籍番号#77)あたりが、皆さんにとりあえずの光明をあたえるかもしれません。映画『パフューム ある人殺しの物語』(私は未見)の原作にヒントをあたえたというこの一書、分厚くて(フランス系の思想家・歴史家が書く本はたいてい分厚いですね。さすがは言葉の国というべきもしれませんが)、読み応えがあります。

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 ところで、霊長類(サルとヒトを含む哺乳動物の系統群)では、進化が進むにつれて、嗅覚が退化し、視覚聴覚が重要になります。例えば、原始的(=6000万年前からあまり変わっていない)な夜行生活を送る原猿類等では、排池物や皮脂腺の分泌物等をナワバリ内の枝等に塗りつける“マーキング行動”が認められます。つまり、犬の小便やタヌキの“ためグソ”と同様、匂いで同種他個体にアピールするナワバリ宣言=マーキング行動の一種です。

 こうした嗅覚によるコミュニケーションは、直接会わなくても(=闘争なしに)、自らの“なわばり”内の資源を防衛できます。その特徴はなんといってもその“チープ”さでしょう。もっとも、実効性に今ひとつ信頼がおけません。例えば、私がマダガスカルのベレンティ私設保護区で観察していたワオキツネザルは、昼行性にもかかわらず、排他的行動圏の境界付近でしきりに皮脂腺をこすりつけてマーキングするのですがが、実際には容易く侵入されています。

 一方、ニホンザルやチンパンジーなどの真猿類=昼間、主に樹上で行動するようなサルの仲間では、嗅覚の重要性は減ります。(外界へのセンサーが集中する)顔面において、鼻先が乾き、両目が前を向き(立体視を可能にして)、皮膚が裸出して表情筋が発達します。とくにヒトでは、ホミニゼーション(ヒト化)の過程で、一貫して嗅覚的コミュニケーションから視覚・聴覚的コミュニケーション(この二つが合体したのが言語・文字)に重きをおいてきた経緯があります。

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 その一方で、とくに近世以降、ヒトの社会に二つの傾向が現れてくる。社会史、文化史的に興味深い事ですね。一つは、自らの(あるいは他人の)体臭を脱臭(デオドラント)することです。つまり、自分の身体から“生物性”を除去しようとするかのような動きです。そしてもう一つは、その脱臭された身体に別の匂い(香水)をかける習慣です。

 とくにヨーロッパ社会では、19世紀にヘゲモニーを握るブルジョワジー社会において、“下層民”の“悪臭”を排除しようとしながら自らの身体には芳しい香りをふりかける身体感覚・政治学が発達した。これが、・コルバンの『においの歴史』の主張です。 

 とすれば、冒頭近くで説明した「あいつらは臭い」という台詞は、異者を(臭いで)関知し、それへの嫌悪を嗅覚で象徴し、なろうことなら相手を脱臭(無力化)して、自分たちの臭いをしみこませようとする、まさに差別の連環の一部なのです。

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 もちろん、生き物にとって普段と違う「臭い」は「信号」です。腐った臭い、刺激的な臭い、異種のにおい、同種のにおい、異性のにおい、それらはすべて“メッセージ”であり、真実を伝えてくれるかもしれないし、あるいはこちらを罠にはめるための“嘘”かもしれない。ヒトと同様視覚・聴覚が発達したチンパンジーでさえ、見なれぬものがあると(例えば、散髪した人間の髪!)顔を近づけ、臭いを嗅ぎます。

 ということは、“嫌な”においというのは、こちら側(=感じる側)が“これは危険だ”と予断をもって下す(生き延びるための)判断ともいえます。つまり、“嫌悪/差別”は基本的に、“嫌悪/差別される”側にあるのではなく、“嫌悪/差別”する側にある。それが「あいつらは臭い」という言い方によって、見事に責任転嫁されている、これが“嫌悪/差別”の本質かもしれません。

 と言っても、自然の世界はしたたかです。逆に、「臭い」を利用する生き物もいっぱいいます。例えば、(悪臭をだすので皆に嫌われる)カメムシ、そして(東南アジアからヨーロッパにかけて広くつかわれるハーブの)コリアンダー。コリアンダーは一部では“カメムシソウ”と呼ばれていたそうですが、前者のにおいは“トランス-2-ヘキセナール(CH3-(CH22-CH=CH-CHO)などのアルデヒド類)”、コリアンダーは“モノテルペン類のセルミン C10H16デカナール”なのだそうです。もちろん、こうした臭いをわざわざ合成するのは自分の身を守るためのものでしょう。こうした化学物質を体内で合成するのも、それなりにコストがかかるもの。それを上回る利益こそ、生物の進化の原動力です。

 もっとも、コリアンダー(中国野菜としては香菜[シャンツァイ]、タイ語でバクチー)の場合、防衛のために臭いを発していると、その臭いをハーブに利用しようとヒトに食べられてしまい、しかし、農作物に昇格すると、ヒトのおかげで分布が広がる。「人間万事塞翁が馬」のような塩梅です。

 昔、日本からタンザニアへの直行便がなく(今でもないと思いますが)、トランジットでムンバイによったとき、何とも言える悪臭が料理から立ち上るので、何が原因か、あれこれ探ったあげく、どうやらこのパセリのような生葉から出ているとわかった時は、ちょっと驚きました。その後、食べ慣れれば、やみつきになって、自宅に植えるような有様なのですが。   

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 しかし、一番怖いのは、云うまでもない事ですが、「無臭の毒」というわけです。一酸化炭素等がまさにこれにあたります。つまり、“刺激”=“警告”を一切発しない相手こそ、真の恐るべき敵といえるでしょう。スマトラの山の中で、痛みも感じることもないまま、ヤマビルに血を吸われる(ことに気づく)恐怖は結構深いものがあります。これが、資本主義社会にいつの間にか侵入する異教=冷戦時代の社会主義への恐怖となる(トルーマン・カポーティの珠玉の傑作『ティファニーで朝食を』の基調低音でもありますが)、そのあたりは、冷戦時代(1951年)のSF映画『遊星よりの物体X』を大人になってから再見した際のスティーブン・グールドの評にも明らかです。

ファッションの人類学Part2:衣裳と権力~ジャンヌ・ダルク裁判、あるいは“危険な女”への社会的制裁

2010 12/7 総合政策学部の皆さんへ

Part1に引き続き、ファッションというより、衣裳の話を続けましょう。ある社会において、メンバーは一定のスタイルを押し付けられる。その一方で、そのスタイルに違反すると懲罰が下る。これが世の常というものです。その典型例がフランス人にとっては“百年戦争”におけるオルレアンの解放者(1429)、そしてシャルル7世戴冠の立役者にして救国の英雄(しかし、シャルル7世にはうまく利用されただけで、最後は見捨てられるとも云われていますが)、イギリス人にとっては(シェイクスピアの『ヘンリー6世第一部』で描かれているように)恐るべき魔女であるジャンヌ・ダルクでしょう。

1430年、ブルゴーニュ派の手によって捕虜となり、1万リーブルの身代金によってイギリス軍に引き渡されたジャンヌは、はたして神の“声”を聞いた預言者か、それとも悪魔にそそのかされた魔女なのか(もしそれが証明されれば、ジャンヌに後押しされた国王の座についたシャルル7世自身の王位の座もあぶないものとなるかもしれない)、裁判にかけられます。私が持っている資料は高山一彦編訳 『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』 (白水社、2002年)ですが、それをひも解くと、ジャンヌの罪状の中に「男の服(=戦闘用の軍服も含めて)を着ている」という項目が、執拗にでてきます。男の服を着て、戦闘に加わる=キリスト教のジェンダー論(=争うのは高貴な立場の男たちで、女たちはその結果から、男を選べばよいのだ)からすれば、ありうべからざる事態なのです。

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さて、ジャンヌを裁くためのイギリス側が開催した1531年2月27日の予備審理に、以下のような記述が書きつけられます。

  • 男の服を着るように命じられたのかと問うと、(ジャンヌは)服装など大したことではない。小さなことである。しかし男の服を着たのは現世の誰の忠告によるものでもない。男の服を着ることにせよ、どのようなことをするにせよ、神や天地たちの命令以外でしたことはない、と答えた。
  • 男の服を着用せよというその命令は正しいものだと思えるのか、と問うと
  • 「私の行いはすべて神の命令によるものです。神が他の服を着用せよとお命じになったなら、他の服を着ていたでしょう。神の命令であったからです」と答えた。
  • 男の服を着たのはロベール・ド・ポードリクールの命令ではないのか、と問うと、ノンと答えた。
  • 男の服を着ることが正しい事だと考えるか、と尋ねると、この世で自分が行ったことで、神の命令によらないものは一つもない、と答えた。

翌月27日・28日の普通審理で、彼女に下された告訴状は70条の条文がつきますが、その第13条は次のようなものです。

  • 被告ジャンヌは、下着もズボンも短い下品な男の衣服を着るような、女性の貞淑さに背き、神の掟で禁ぜられ、教会法規においても破門の罰をもって禁ぜられている、神にとっても人間にとっても忌むべき諸行為を、神ならび被告の言う天使や聖者の命令によるものだと述べている(中略)神の掟を否認し、教会法を犯し、女性の本性と貞潔を愚弄し、人間の礼節を腐敗させ、人類におけるあらゆる堕落の範を示して、同じ類の輩をはびこらせるものである。

こうして、5月24日、火刑という最終判決が下されようとした時、ジャンヌは改悛の誓いをたて、いったん「キリストの御受難を偲ぶパンと水のみによる永久入牢」の判決が下り、ジャンヌは男の服を脱いで与えられた女性の服を着ます。

しかし、同月28日、ジャンヌは牢内で再び男の服をまとい、改悛の誓いを否定、この結果、30日最終判決が下され、同日、火刑による処刑が執行されます。

ズボンをはき、男の服をきた魔女、それが少なくともイギリス軍とこの審判をとりしきったパリ大学等カトリック神学の権威たちからみたジャンヌのイメージです。そんなイメージからすれば、愛人ウェストミンスター公爵からヒントを得て、シャネル・スーツをつくりあげ、パンツ・スタイルを確立することで、“社会に進出する女性像”を創造したシャネルはある意味、保守的な男どもからすると20世紀最大の魔女の一人だったかもしれません。

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それでは、ファッションと権力、次のテーマは“軍服”にしましょうか?

異文化に出会う時:日本人はどのようにして異なる食文化に出会ったか?Part2~村垣淡路守から渋沢栄一まで~

2010 12/2 総合政策学部の皆さんへ

  Part1に引き続き、江戸幕府末期にアメリカに送られた遣米使節の“俗吏代表”、副使の村垣淡路守の『遣米使日記』の紹介をつづけましょう。 この日記の中でもとくに有名なところは、日米修好通商条約批准書交換のため、アメリカの首都ワシントンでのブキャナン大統領と会見した際の見聞、ならびに議事堂見学の際の感想でしょう。安政7年(1860年)閏3月28日、一行はワシントンを狩衣(かりぎぬ)姿で行進します。村垣の筆を借りましょう(ただし、筑摩世界ノンフィクション全集版の現代語訳)。

12時に大統領の謁見なので、きょうを晴れの日と、いろいろ支度した。(正使の)豊前守正興は狩衣(鞘巻太刀)、おのれも同じ(毛抜形太刀)、(監察の)忠順(鞘巻太刀。各烏帽子(えぼし)は萌黄の組掛け、糸ぐつを用う)、・・・・・・

 「大路はところ狭いまで、物見の車や歩行の男女が限りなく群集している。おのれが狩衣を着ていて、海外では見なれない服であるから、かれらはとても珍しそうに見ているようだが、このような胡国に来て皇国の光を輝かせた心地がして、おろかな身の程も忘れて、誇り顔に行くのは、われながらおかしい」   

 とあくまでもどうどうとしたものです。なお、使節はニューヨークのブロードウェイでも行進しますが、その光景を目撃したアメリカの詩人ウォルト・ホイットマンが“A Broadway Pageant(初出はThe Errand Bearer)”という詩を作ったのは有名です(The Walt Whiteman Archiveでの“A Broadway Pageant”のURLはhttp://www.whitmanarchive.org/published/LG/1891/poems/105です)。興味のある方は、是非、訳に挑戦を!

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 その彼らは宿舎に戻ると、次のような述懐をもらします。

大統領は70有余の老翁、白髪温和で威厳もある。しかし商人と同じ姿で、黒ラシャの筒袖股引は何の飾りもなく、太刀も持たない。高官の人々といっても、文官はみな同じ。武官イポレット(金でつくった房のごときものを両肩につける。官の高下によって長短があるという)をつけ、袖に金筋(これも三筋を第一とし、二筋、一筋とある。合衆国はこの飾りだけ。西洋各国はえりにも飾りがある)がり、太刀も付いている。こういう席にたくさんの夫人が装って出るのも奇なことだ(中略)」

  「大統領は総督で、4年目ごとに国じゅうの入れ札で定めるよしであるから、国君ではないが御国書も与えられたことであるので国王の例を用いたが、上下の別もなく礼儀も少しもないので、狩衣を着たのも無益だったと思う。しかしこのたびの御使いは、かれらもことさらに喜び、海外へ誇って、きょうの狩衣の姿等を写し、新聞紙にだしたよしである。はじめての異城への御使い、事故なくお言葉を伝えることができたことは、実に男子に生まれたかいがあって、嬉しい事限りがない」

 なお、筒袖はモーニング等(そういえば、この時期は、近代的な男子の服装が固まってきた時期のはず=ファッションをめぐる社会学です。面白いですね)、股引はズボンのことでしょう。そう言えば、幕府の使節は侍ばかり=武官なのですが、(韓流ドラマ等でなじみのように)中国・韓国の儒教世界では文官の方が上、アメリカ合衆国もまた文官が上なのですね。このあたりの違和感は致し方ないところでしょう。 それにしても、さらりと「新聞紙」等という言葉が出てくるのは、面白いですね。 

 となかなか複雑な感想です。とは言え、これを名言集Part1で紹介した(咸臨丸でカリフォルニアに行っただけで引き返した)勝海舟の#2の言葉(下に再録)に比較すると、やはり、勝と村垣、互いに切れ者とは言え、異文明への批評家としての才に自ずと差も見えてくる、というところでしょう。

おれが初めて亜米利加へ行って帰朝した時に、御老中から「其方は一種の眼光を具えた人物であるから、定めて異国へ渡りてから、何か眼を付けたことがあろう。詳らかに言上せよ」とのことであった。(中略)再三再四問はれるから、おれも、「左様、少し眼につきましたのは亜米利加では、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧で御座います。この点ばかりは、全く我が国と反対のやうに思いまする」と言ったら、御老中が目を丸くして、「この無礼もの控えおろう」と叱ったっけ。ハハハハ・・・・(江藤淳・松浦玲編『氷川清話』講談社学術文庫版)。 

  この勝の見聞を聞いた福井藩松平春嶽公の政治顧問、儒学者の横井小楠が「ははあ、つまり、堯舜の世ですな」と、アメリカ共和制を(こともあろうに)儒者の理想たる堯舜に例えて即座に理解したのは、あまりに有名な話ですが(『氷川清話』)、そのあたりも、人によって同じ体験の読み取りの度合いが異なるのは致し方ないところかもしれません。 

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 村垣たちはこの後、舞踏会に招待されると「男女がくみあって足をあげ、調子につれてめぐることコマネズミのまわるようで、何の風情手品もなく幾組もまわり、女のすそには風を含み、いよいよひろがってめぐるさまは、とてもこっけいである」と記したり、国会議事堂を尋ね「衆議の最中なり。国政の重要な評議であるが、例の股引を付け、筒袖を着た姿で、大音にののしる様、副大統領の高いところにいるありさまなどは、わが日本橋の魚市場のようすによく似ている、と秘かに語り合った」と書いたために、100年後のインテリ達にまでその言葉をあげつらわれる始末です。とは言え、「礼もなく義もなく、ただ親の一字を表すとみて許すことにする」という言葉には、いきなり接した異文化をなんとか理解・納得しようという村垣の努力の表れでしょう。

 とはいえ、そろそろ長期滞在が続き、ヨコメシにげんなりする頃、つい、以下のような記述が現れます。「わが国の風もしらないので、例の肉のみであるが、ふたものに飯をだしたので、これさえあればととってみるとボートル(=バターのこと)を入れたもので、いかに空腹だからと言っても食することができない。通弁もさまざまに言ってボートルを断ったが、彼は怪しむのみ。やがてボートルはとったといって飯をだしたが、このたびは砂糖をいれてかき混ぜてある。いかんともしかたがない。またパンをたべてすませた

 ボートル臭というのは、バターライスをだされたのでしょうか? また、ご飯に砂糖をかけるというのは、ライスをデザートの一種とみなして出したのかもしれませんが、実は、Part1で登場の船頭重吉も捕鯨船上で経験します。「さては久々に米の飯を(中略)ベケツがそれを取り、一番白い上等な砂糖をそれにかけ、5人前に盛り分けて出したので、心中がっかりしてしまった」。実は、私もスコットランド系アメリカ人とアフリカで食事をした時、シナモン+ハチミツ+ピーナツの引き割りライスを食べました。考えてみれば、日本のおはぎだって、飯と餡なのだから、その調子で食べればよいわけかもしれませんが。

 ともあれ、このころの日本人旅行者をなやましたのは、肉よりも、むしろバター(文中のボートル)で、動物性油脂の匂いが最悪だったようです。対照的に、だれもが喜んで食したのが、19世紀になって夏でも食べられるようになったアイスクリーム(アイスクリンとか呼んでいます)だったよし。使節たちは、夏なのに出されたシャンパンに氷が浮かんでいるのに仰天します(福澤諭吉福翁自伝』から)。バナナも好評だったとのこと(『江戸たべもの歳時記』より)。

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 さて、浜田義一郎先生は『江戸たべもの歳時記』で、幕末の武士たちがいかにボートルの臭いに悩んでいたかを指摘し、「食料の異なるには何分困り申候、何方にても随分美味を重ね候へども、多くは獣肉にて、偶々魚肉を交え候へどもこれまた脂に揚げ、野菜いたって少なく、そ菜の類出し候てもまた油を加味致し(=サラダかもしれません)、ボートルなどぬりつけ候ゆえ、一種も口に合候品無之、・・・」と引用しています。

 ちなみに、この候文、主語もなければ、延々と文章が続き、句読点もどうなっているんだ! と思うでしょう。日本文はそもそも、主語がはっきりせず、かつ句読点も後からつけくわわったもの。これでは、現代のレポートには不適です。とはいえ、皆さんのレポートの中には、この江戸時代からあまり抜け出ていない方もたまに見受けられますが、それでは、エントリーシートを突破できません。 

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 さて、これだけ洋食に拒絶反応を示していたはずの日本人ですが、慶応3年丁卯(ひのとう)正月11日(もちろん、陰暦。グレゴリオ暦では1867年2月15日)、横浜港からフランス郵船アルヘー号に乗船したある人物が旅日記をしたためます(『航西日記』筑摩世界ノンフィクション全集、現代語訳)。

郵船中での食事の取り扱いはきわめて丁寧である。毎朝7時ころ、乗り組みの旅客洗面をすませたころ、テーブルで茶をのませる。茶にはかならず白砂糖を入れ、パン菓子を出す。また豚の塩漬けなどを出す。ブール(フランス語系ですね。バターです)という牛の乳を固めたものをパンに塗って食べさせる。味はたいへんよい。(中略)夕方の5時か6時ころ、夕食を出す。朝食にくらべるとすこぶる丁重である。スープからはじまって、魚や肉を煮たり焼いたりした各種の料理と、山海の果物やカステーラのたぐい、あるいは糖でつくった氷菓子のグラスオクリーム(アイスクリーム)を食べさせる(中略)。」 

 まさに悠揚迫らぬ乗船客としての態度、たった7年で驚くべき進歩というべきかもしれませんが、天保11年(1840年)生まれ、この時26歳のこの人物、武蔵国血洗島の豪農に生まれながら尊王攘夷に志し、京に上るも活動に行き詰って一転、一橋慶喜にリクルートされ、なんと幕臣として、慶喜の弟徳川昭武の随員としてパリ万国博覧会に出席、そのまま留学する若き日の(後の大実業家)渋沢栄一です(Wikipediaより)。

 こののちの渋沢の新政府大蔵省勤務、政争に敗れた井上馨とともの退官、国立銀行設立、そして500以上にのぼる株式会社の設立にかかわり、さらに第一国立銀行をめぐっては三井と対立するほか、海運をめぐっては『竜馬伝』に登場の海坊主こと岩崎弥太郎と死闘を繰り広げるあたりは、また別項にしたいと思います(以前、「あなたにとって、“仕事”とは何か? 陰陽師から漱石、そしてトム・ソーヤーからフランクリンまで;高畑ゼミの100冊Part 13-とくに卒業生の皆様へ(2010/03/18投稿)」でご紹介した奴隷から総理大臣までやってしまった高橋是清には及ばないかもしれませんが、なかなか波乱万丈の一生です)。

 ちなみに、渋沢栄一はハワード田園都市構想に興味を感じ、それが息子の渋沢秀雄につたわり、田園調布に発展しますから、「都市社会学=ヒューマン・エコロジーの一部」にも関係しているわけです。ということで、このあたりでひとまずto be continuedとしましょう。 

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...