異文化に出会う時:日本人はどのようにして異なる食文化に出会ったか?Part2~村垣淡路守から渋沢栄一まで~

2010 12/2 総合政策学部の皆さんへ

 Part1に引き続き、江戸幕府末期にアメリカに送られた遣米使節の“俗吏代表”、副使の村垣淡路守の『遣米使日記』の紹介をつづけましょう。 この日記の中でもとくに有名なところは、日米修好通商条約批准書交換のため、アメリカの首都ワシントンでのブキャナン大統領と会見した際の見聞、ならびに議事堂見学の際の感想でしょう。安政7年(1860年)閏3月28日、一行はワシントンを狩衣(かりぎぬ)姿で行進します。村垣の筆を借りましょう(ただし、筑摩世界ノンフィクション全集版の現代語訳)。

12時に大統領の謁見なので、きょうを晴れの日と、いろいろ支度した。(正使の)豊前守正興は狩衣(鞘巻太刀)、おのれも同じ(毛抜形太刀)、(監察の)忠順(鞘巻太刀。各烏帽子(えぼし)は萌黄の組掛け、糸ぐつを用う)、・・・・・・

 「大路はところ狭いまで、物見の車や歩行の男女が限りなく群集している。おのれが狩衣を着ていて、海外では見なれない服であるから、かれらはとても珍しそうに見ているようだが、このような胡国に来て皇国の光を輝かせた心地がして、おろかな身の程も忘れて、誇り顔に行くのは、われながらおかしい」  

 とあくまでもどうどうとしたものです。なお、使節はニューヨークのブロードウェイでも行進しますが、その光景を目撃したアメリカの詩人ウォルト・ホイットマンが“A Broadway Pageant(初出はThe Errand Bearer)”という詩を作ったのは有名です(The Walt Whiteman Archiveでの“A Broadway Pageant”のURLはhttp://www.whitmanarchive.org/published/LG/1891/poems/105です)。興味のある方は、是非、訳に挑戦を!

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 その彼らは宿舎に戻ると、次のような述懐をもらします。

大統領は70有余の老翁、白髪温和で威厳もある。しかし商人と同じ姿で、黒ラシャの筒袖股引は何の飾りもなく、太刀も持たない。高官の人々といっても、文官はみな同じ。武官イポレット(金でつくった房のごときものを両肩につける。官の高下によって長短があるという)をつけ、袖に金筋(これも三筋を第一とし、二筋、一筋とある。合衆国はこの飾りだけ。西洋各国はえりにも飾りがある)がり、太刀も付いている。こういう席にたくさんの夫人が装って出るのも奇なことだ(中略)」

  「大統領は総督で、4年目ごとに国じゅうの入れ札で定めるよしであるから、国君ではないが御国書も与えられたことであるので国王の例を用いたが、上下の別もなく礼儀も少しもないので、狩衣を着たのも無益だったと思う。しかしこのたびの御使いは、かれらもことさらに喜び、海外へ誇って、きょうの狩衣の姿等を写し、新聞紙にだしたよしである。はじめての異城への御使い、事故なくお言葉を伝えることができたことは、実に男子に生まれたかいがあって、嬉しい事限りがない」

 なお、筒袖はモーニング等(そういえば、この時期は、近代的な男子の服装が固まってきた時期のはず=ファッションをめぐる社会学です。面白いですね)、股引はズボンのことでしょう。そう言えば、幕府の使節は侍ばかり=武官なのですが、(韓流ドラマ等でなじみのように)中国・韓国の儒教世界では文官の方が上、アメリカ合衆国もまた文官が上なのですね。このあたりの違和感は致し方ないところでしょう。 それにしても、さらりと「新聞紙」等という言葉が出てくるのは、面白いですね。

 となかなか複雑な感想です。とは言え、これを名言集Part1で紹介した(咸臨丸でカリフォルニアに行っただけで引き返した)勝海舟の#2の言葉(下に再録)に比較すると、やはり、勝と村垣、互いに切れ者とは言え、異文明への批評家としての才に自ずと差も見えてくる、というところでしょう。

おれが初めて亜米利加へ行って帰朝した時に、御老中から「其方は一種の眼光を具えた人物であるから、定めて異国へ渡りてから、何か眼を付けたことがあろう。詳らかに言上せよ」とのことであった。(中略)再三再四問はれるから、おれも、「左様、少し眼につきましたのは亜米利加では、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧で御座います。この点ばかりは、全く我が国と反対のやうに思いまする」と言ったら、御老中が目を丸くして、「この無礼もの控えおろう」と叱ったっけ。ハハハハ・・・・(江藤淳・松浦玲編『氷川清話』講談社学術文庫版)。

  この勝の見聞を聞いた福井藩松平春嶽公の政治顧問、儒学者の横井小楠が「ははあ、つまり、堯舜の世ですな」と、アメリカ共和制を(こともあろうに)儒者の理想たる堯舜に例えて即座に理解したのは、あまりに有名な話ですが(『氷川清話』)、そのあたりも、人によって同じ体験の読み取りの度合いが異なるのは致し方ないところかもしれません。

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 村垣たちはこの後、舞踏会に招待されると「男女がくみあって足をあげ、調子につれてめぐることコマネズミのまわるようで、何の風情手品もなく幾組もまわり、女のすそには風を含み、いよいよひろがってめぐるさまは、とてもこっけいである」と記したり、国会議事堂を尋ね「衆議の最中なり。国政の重要な評議であるが、例の股引を付け、筒袖を着た姿で、大音にののしる様、副大統領の高いところにいるありさまなどは、わが日本橋の魚市場のようすによく似ている、と秘かに語り合った」と書いたために、100年後のインテリ達にまでその言葉をあげつらわれる始末です。とは言え、「礼もなく義もなく、ただ親の一字を表すとみて許すことにする」という言葉には、いきなり接した異文化をなんとか理解・納得しようという村垣の努力の表れでしょう。

 とはいえ、そろそろ長期滞在が続き、ヨコメシにげんなりする頃、つい、以下のような記述が現れます。「わが国の風もしらないので、例の肉のみであるが、ふたものに飯をだしたので、これさえあればととってみるとボートル(=バターのこと)を入れたもので、いかに空腹だからと言っても食することができない。通弁もさまざまに言ってボートルを断ったが、彼は怪しむのみ。やがてボートルはとったといって飯をだしたが、このたびは砂糖をいれてかき混ぜてある。いかんともしかたがない。またパンをたべてすませた

 ボートル臭というのは、バターライスをだされたのでしょうか? また、ご飯に砂糖をかけるというのは、ライスをデザートの一種とみなして出したのかもしれませんが、実は、Part1で登場の船頭重吉も捕鯨船上で経験します。「さては久々に米の飯を(中略)ベケツがそれを取り、一番白い上等な砂糖をそれにかけ、5人前に盛り分けて出したので、心中がっかりしてしまった」。実は、私もスコットランド系アメリカ人とアフリカで食事をした時、シナモン+ハチミツ+ピーナツの引き割りライスを食べました。考えてみれば、日本のおはぎだって、飯と餡なのだから、その調子で食べればよいわけかもしれませんが。

 ともあれ、このころの日本人旅行者をなやましたのは、肉よりも、むしろバター(文中のボートル)で、動物性油脂の匂いが最悪だったようです。対照的に、だれもが喜んで食したのが、19世紀になって夏でも食べられるようになったアイスクリーム(アイスクリンとか呼んでいます)だったよし。使節たちは、夏なのに出されたシャンパンに氷が浮かんでいるのに仰天します(福澤諭吉福翁自伝』から)。バナナも好評だったとのこと(『江戸たべもの歳時記』より)。

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 さて、浜田義一郎先生は『江戸たべもの歳時記』で、幕末の武士たちがいかにボートルの臭いに悩んでいたかを指摘し、「食料の異なるには何分困り申候、何方にても随分美味を重ね候へども、多くは獣肉にて、偶々魚肉を交え候へどもこれまた脂に揚げ、野菜いたって少なく、そ菜の類出し候てもまた油を加味致し(=サラダかもしれません)、ボートルなどぬりつけ候ゆえ、一種も口に合候品無之、・・・」と引用しています。

 ちなみに、この候文、主語もなければ、延々と文章が続き、句読点もどうなっているんだ! と思うでしょう。日本文はそもそも、主語がはっきりせず、かつ句読点も後からつけくわわったもの。これでは、現代のレポートには不適です。とはいえ、皆さんのレポートの中には、この江戸時代からあまり抜け出ていない方もたまに見受けられますが、それでは、エントリーシートを突破できません。

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 さて、これだけ洋食に拒絶反応を示していたはずの日本人ですが、慶応3年丁卯(ひのとう)正月11日(もちろん、陰暦。グレゴリオ暦では1867年2月15日)、横浜港からフランス郵船アルヘー号に乗船したある人物が旅日記をしたためます(『航西日記』筑摩世界ノンフィクション全集、現代語訳)。

郵船中での食事の取り扱いはきわめて丁寧である。毎朝7時ころ、乗り組みの旅客洗面をすませたころ、テーブルで茶をのませる。茶にはかならず白砂糖を入れ、パン菓子を出す。また豚の塩漬けなどを出す。ブール(フランス語系ですね。バターです)という牛の乳を固めたものをパンに塗って食べさせる。味はたいへんよい。(中略)夕方の5時か6時ころ、夕食を出す。朝食にくらべるとすこぶる丁重である。スープからはじまって、魚や肉を煮たり焼いたりした各種の料理と、山海の果物やカステーラのたぐい、あるいは糖でつくった氷菓子のグラスオクリーム(アイスクリーム)を食べさせる(中略)。」

 まさに悠揚迫らぬ乗船客としての態度、たった7年で驚くべき進歩というべきかもしれませんが、天保11年(1840年)生まれ、この時26歳のこの人物、武蔵国血洗島の豪農に生まれながら尊王攘夷に志し、京に上るも活動に行き詰って一転、一橋慶喜にリクルートされ、なんと幕臣として、慶喜の弟徳川昭武の随員としてパリ万国博覧会に出席、そのまま留学する若き日の(後の大実業家)渋沢栄一です(Wikipediaより)。

 こののちの渋沢の新政府大蔵省勤務、政争に敗れた井上馨とともの退官、国立銀行設立、そして500以上にのぼる株式会社の設立にかかわり、さらに第一国立銀行をめぐっては三井と対立するほか、海運をめぐっては『竜馬伝』に登場の海坊主こと岩崎弥太郎と死闘を繰り広げるあたりは、また別項にしたいと思います(以前、「あなたにとって、“仕事”とは何か? 陰陽師から漱石、そしてトム・ソーヤーからフランクリンまで;高畑ゼミの100冊Part 13-とくに卒業生の皆様へ(2010/03/18投稿)」でご紹介した奴隷から総理大臣までやってしまった高橋是清には及ばないかもしれませんが、なかなか波乱万丈の一生です)。

 ちなみに、渋沢栄一はハワード田園都市構想に興味を感じ、それが息子の渋沢秀雄につたわり、田園調布に発展しますから、「都市社会学=ヒューマン・エコロジーの一部」にも関係しているわけです。ということで、このあたりでひとまずto be continuedとしましょう。

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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