2011年1月

総政をめぐるトピックPart1:“国勢調査”、“人口”、そして国家統計#4:近代のシステム

2011 1/30 総合政策学部の皆さんへ

 #1#3に続いて、国勢調査について話を続けましょう。人口調査についてのセンサスは、17世紀頃からしだいに近代化します。それは、(1)たんなる人口だけではなく、社会の構造の変化を明らかにすることを目的とするようになり、(2)調査対象も特定の者からすべての人を対象とします(いわゆる悉皆調査)。

 例えば、江戸時代の資料として宗門人別改帳では、無籍者や武士、武家奉公人・従者(武家方奉公人並又者)、公家皇族は除外されていました。近代的調査では、こうした例外を許さないわけです(総務省統計局HP;「国勢調査に関する詳細な解説第4章外国の国勢調査」)。なお、Wikipediaに「規則や法則には例外がつきもの」と書いてはありますが、実のところ、自然科学を筆頭に近代科学は“例外”を嫌います。例外が存在している時は、理論がまだ未熟だ、と考えるべきなのです。

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  さて、このような状況下、1776年に独立したアメリカ合衆国では、1787年に憲法によって下院議員と直接税は各州の人口数に応じて分配すると定めます。そのため、合衆国議会の第1回の開会後3年以内に人口調査を行い、以後10年以内ごとにおこなうと規定します。これにもとづいて、1790年に第1回のセンサスがおこなわれます。

 その結果は、合計3,929,214人(1.8人/1k㎡)となっています(資料はhttp://www.census.gov/prod/www/abs/decennial/1790.html)。それが10年後の1800年には5,308,483人(同2.4人/k㎡)で、10年間の増加率35.1%。ちなみにもっとも増加率が高かったのは1800~1810年の36.4%で、もっとも低かった時期は(大恐慌後の10年間に相当する)1930~40年の7.3%ですね(U.S. Census BureauHPの資料;http://www.census.gov/population/www/censusdata/files/table-2.pdf)。

 この後、国家運営の近代化のため、各国は次々に国勢調査に着手します(つまり、己を知らない限り、近代国家を運営できない。こうしてヴァーバンの先駆的事業が形を結び始めます);1801年 イギリス、フランス、デンマーク、ポルトガル、1815年 ノルウェー、1818年 オーストリア、1829年 オランダ、1837年 スイス、1846年 ベルギー 、1851年ニュージーランド、1877年 フィリピン、1881年 インド、ミャンマー、オーストラリア、1883年 エジプトと、やがてヨーロッパ以外にも広がります。

 それにしても、例えば、1881年のインドとミャンマーは1877年のイギリスによる“インド帝国”の成立=直轄植民地化、1883年のエジプトは1879~82年のウラービー革命鎮圧後のエジプト保護領化と連動しているわけです(=植民地帝国主義の最盛期)。

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 もっとも、19世紀当時のセンサスの項目は非常に少なく、1790年のアメリカ合衆国の第1回センサスでは、16歳以上の自由白人(男子),16歳以下の自由白人(男女),その他の自由人及び奴隷という項目だけだったそうです。イギリスでも、例えば職業は農業、商業、その他の3区分しかなかったとのことです。

 なお、明治12年の「甲斐国現在人別調」の調査事項は、①住地及び住家の持借の別、②姓名(家主は華族,士族,平民など族籍も記入)、③家主及家族(世帯主との続柄)、④男女の別、⑤身上の有様(配偶の関係)、⑥年齢、⑦生国、⑧宗旨、⑨職業等からなっていました(以上は、上記総務省統計局HPより)。こうした世界の大勢のなかで、近代国家化するためには、戸籍法による人口把握だけでなく、悉皆調査による国勢調査が必要だ、というのが杉亨二らの主張であったわけです。

 しかし、その実施は明治35年(1902年)の「国勢調査ニ関スル法律」(明治35年12月2日法律第49号)を経ながら、日露戦争および第一次世界大戦の参戦で遅延し、なんと1920年(大正9年)にずれこみます;ちなみに私の亡くなった父の生年が1919年なので、この時の国勢調査に含まれていたはずです。この調査の予算案が公表されたのは1918年、杉亨二が89歳で逝去した日にあたるそうです。

 その結果、1920年の時点で日本の人口は55,963,053人と報告されます。ちなみに、国勢調査の根拠となる統計法(平成19年5月23日法律第53号)の条文は、以下の法務局HPで閲覧できます(国勢統計にかんしては第5条ですね。国民経済計算は第6条です):http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H19/H19HO053.html

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 それにしても、国勢調査以前の日本の人口統計を見ると、1905年1月1日の時点で男性23,421,000人、女性23,199,000人、総計46,620,000人。この23,421,000人の男性にはもちろん老若入り混じっているわけです。人口問題研究所のHPに出てくる資料を見ると、1898年の人口で15~64歳の人が占める割合をが61.7%、1908年で60.5%とあります。

 まさか60歳では戦争にいけないと思うので、まったく大雑把に、戦争に動員できる男性を50%として、11,700,000人が動員対象としましょう。

 そうすると、1904年2月8日~1905年9月5日におこなわれた日露戦争の総動員兵力109万人は、対象の男性のほぼ10人に一人が動員されたことになります。また、日露戦争の戦没者は88,429人(病死27192人を含む)で、負傷者が153,584人ですから、動員された者の4人に1人は戦死(あるいは戦病死)か負傷したわけです。

 これがいわゆる“総力戦”の実態です。こうした総力戦に耐えるためにも、確実な人口の把握が必要になるのです。

    総力戦は、フランス革命後半における、徴兵制度によるフランス国民軍の創設に兆し(“勝利の組織者”カルノーによる総動員体制と、それを駆使してヨーロッパを一時席巻したナポレオン)、アメリカ南北戦争で本格化します。南北戦争時のアメリカの人口は北部2200万人、南部900万人で、動員数はそれぞれ220万人(全人口の10分の1)と106万4千人(8人に一人)、戦死と戦病死が47万人と35万人にのぼります。この総力戦が日露戦争を経て、第一次大戦に突入します。

 この機微にいち早く気付くのは、例によって“危機に陥った時のリーダー”、イギリス首相をとして第2次大戦を勝ち抜くウィストン・チャーチルで、第一次大戦を回顧する書に「戦争からきらめきと魔術的な美がついに奪い取られてしまった。アレキサンダーや、シーザーや、ナポレオンが兵士達と共に危険を分かち合い、馬で戦場を駆け巡り、帝国の運命を決する。そんなことはもう、なくなった」(Wikipediaより)と指摘しているそうです。

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 こうして日露戦争は、実は20世紀の近代戦としての嚆矢となります。かつ、兵力の大量投入にもかかわらず、要塞(旅順)や塹壕等の縦深陣地をなかなか抜けず、機関銃の集中使用によって攻撃側を大量殺戮できることを予言した戦いだったわけです。しかし、ヨーロッパの軍事専門家はその意味を見抜けず、日露戦争の拡大版を、とくに西部戦線で引き起こします。

 4年にわたって、無数に走る塹壕の一つ一つを奪い合う死闘で、ドイツ軍177万人、オーストリア軍120万人、イギリス軍91万に、フランス軍136万人、ロシア軍170万人等、計900万人が戦死します。

 イギリスの人口は1913年に4,560万人ですから、全人口の50人に一人が戦死、フランスは3970万人なので全人口の30人に一人が戦死したことになります。

 とくにこの時、貴族のノブレス・オブリージュとしてこぞって志願して戦地に赴いたイギリス貴族の若者が大量に戦死、あるいは負傷します。負傷したあげくに生殖能力までを失ってしまったのが、DH・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』の登場人物チャタレイ男爵にほかなりません。

 この時、「(1914年の)クリスマスまでには戦いは済むはず」と半ばピクニックにいくような気分で戦場に赴いた若者たちは、西部戦線の過酷な現実に叩きのめされます(とくに、陸軍大臣キッチナーの名コピー「Briton wants you」のポスターに魅かれて大量に従軍した、いわゆる“キッチナー・アーミー”たち)。

 その結果は、「戦後の社会に極めて大きな影響を及ぼす事になった」(Wikipedia)とされます。こうして“ロスト・ジェネレーション”世代が形成され、“狂騒の20年代(ローリング・トゥエンティーズ;Roaring Twenties)”に突入していくのです。

“もの”や“ひと”をどう見るか?Part1:アーティストはどのようにものを見るのか? あるいは“鉄蔵”の冒険

2011 1/27 総合政策学部の皆さんへ

 江戸文化も爛熟のかぎりもきわめていた文化文政のある日(文化11年西暦1814年)、白昼、多くの人々が行き来する江戸の往来の真っただ中で、一人の老人が蹴躓いたまま倒れ込んでしまいます。

  そのままたちあがろうともせず、ぶつぶつと何やらつぶやきながら横たわる異様な様に、「どうやら、悪いところでも打ったんじゃねいか」と周りの人は、関わり合いももとうともせず(不人情ですね。ただし、当時はもちろん自動車は存在せず、せいぜい大八車、轢かれる心配はあまりありません)、ひそひそ話している。

 そこへ、たまたまやってきたのはちょっといなせな若者、その老人に眼がとまるなり、「生、先生、こンなンなッちまって・・・・」とかけよると、顔をあげた老人は「馬鹿野郎、絵の勉強をしてんのよ。てめぇもこけぇ来やがれ」と高ぴしゃに命じる。

 故杉浦日向子描く傑作コミック『百日紅(さるすべり)』の「其の十 人斬り」の冒頭近いシーンです(ちくま文庫版『百日紅』より)。

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 老人は相変わらず大道に寝転びながら、しぶしぶ隣に寝転んだ若者に諭します。

  • どうだ。立って見る時と、(寝転んで見れば)景色が違うだろう
  • そりゃ まあ・・・・
  • いいか、立っている時はコウ、地面が三で、空が七。それが寝ると地面が二で、空が八。ほら、床几の裏が見えるんだぜ
  • へい
  • 人間と犬とは別々の景色を見ているんだ
  •  

 と、西洋由来の遠近法の解釈も加わり、白昼の大道で寝たままの絵画教室が繰り広げられます。当然、周りの者には理解されるわけもなく、「なんでしょうなあ、あれは?」「また変なのが増えちまったようで・・・・」と戸惑うだけ。

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 この老人こそ、生涯に改号すること30回、転居すること93回、小さい作品としては米粒にスズメを描き、大きなやつでは文化元年4月13日音羽護国寺で120畳数の紙に大達磨を描くなど、3万点を超える作品を残した「へんちきな爺い」、画狂老人こと葛飾北斎、幼名時太郎、のち鉄蔵、1760年生まれですから、この一件の時は54歳頃のはずです。

 若者の方は、北斎に私綬する絵師志望の浪人池田善次郎こと、のちの浮世絵師渓斎英泉(けいさいえいせん)、こちらは1790年生まれで、この時23歳、まだ無名という設定です。

 しかし、「犬と人とは別の景色を見る」、これはたしか盲導犬の訓練の際の重要事項で、盲導犬に「自分(=犬)ではかいくぐることができても、サポートする人がぶつかる障害物に気付く」ように調教するのが大変だ、と聞いたことがあります(うろ覚えですが)。

 作中で“鉄蔵”が寝ながら善次郎に示す構図は、どうやら文化12年刊『北斎漫画』第三編に出てくる透視画の構図のようです。

 近代デジタルライブラリーの『北斎漫画』のページ(http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851648/22)、右上隅の透視画の構図がそれに当たるようです。

 その1814年、日本では 浮世絵師歌川豊春が死亡(初代歌川豊国の師、歌川派の始祖、亨年は79?)、フランス革命期の作家にして後世には“サディズム/サディスト”で名を残す作家マルキ・ド・サドやナポレオンの最初の夫人ジョセフィーヌ・ド・ボアルネ(亨年50歳)等が亡くなっています。

 一方、バルビゾン派の画家ジャン・フランソワ・ミレーが誕生。政治面では、ナポレオンはエルバ島配流となり、ウィーン会議が始まり(翌年のナポレオンの100日天下で中断)、ジョージ・スチブンソン蒸気機関車を改良します(息子のロバート・スチーブンソンによるロケット号の実用化は1830年)。そんな時代です。  

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  では、ヒト以外のものになりかわってものごとを見るとはどういうことか? 例えば、虫の目でこの世界を見れば、すべてはどう映るのか?

 写真家栗林慧さんは工夫したレンズで「虫の目で見える世界」をとり続けています。そのHPはhttp://www5.ocn.ne.jp/~kuriken/

 対照的に、鳥の目、つまり鳥瞰図に凝るカメラマンの方もいます。いわゆる“写真家”の大先達、ガスパール=フェリックス・トゥールナションことナダールは、1858年、気球に乗って写真撮影を敢行します。

 これをまた高名な風刺画家ドーミエが『写真を芸術の高みに浮上させようとするナダール』(Nadar, élevant la photographie à la hauteur de l’Art)』として描いたとのこと(その絵のURLはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Daumier-nadar.jpg)。

 しかし、このドーミエのタイトルもなんとも言えず象徴的・予言的ですね。このタイトルの先に、スティーグリッツも、マン・レイも、メイプルソープもいるかもしれません。 

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 しかし、視点をどこに置くべきかか、画家たちはかねてから、鵜の目鷹の目状態にあることは、鉄蔵こと北斎の行状からもあきらかなこと。

 早い話が、室町から江戸初期にかけて流行した“洛中洛外屏風図”、あれを描く画家はいったい何処から京都の街を眺めているのでしょう?

 絵巻のかなりの部分は雲でおおわれていますから、ナダールよろしく、雲上までもあがらねばならない。

 となれば、北斎先生とて、ある時は犬になり、あるときは鳥に変身し、またあるときはろくろ首にもなりたいと思うかも知れません。

 上杉本洛中洛外図右双はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E6%B4%9B%E4%B8%AD%E6%B4%9B%E5%A4%96%E5%9B%B3%E5%8F%B3.jpg

 左双はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E6%B4%9B%E4%B8%AD%E6%B4%9B%E5%A4%96%E5%9B%B3%E5%B7%A6.jpg  

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 ちなみに、このブログの最初のエピソードが出てくる『百日紅』の章のタイトル、「人斬り」とは、読本の挿絵を頼まれた善次郎が描いた「人斬り」の絵に、作者がだめ出しして喧嘩となり、

 「これじゃ芝居だ。あたしの小説(はなし)は事実談として書いているのにこんな絵をつけられちゃあ」と強引に言い張る作者に馬糞を投げつけて逃げる(その途中で、倒れ込んでいた北斎を見かける)という設定から来ています。

 作者から「武家の出だからと聞いてまかせたものの、とんだ喰わせ者じゃねえか」とののしられる善次郎は、実は、3年前、侍だった頃、人を実際に斬った経験があること。

 それが、北斎にウナギ屋に連れ込まれて会話を交わす善次郎の脳裏にかすめる思い出から、読者にもやがてわかってくるという趣向です。

 「ありのままの人殺しの絵を描けってぬかすんでさ」とつぶやく善次郎に、鉄蔵は「・・・で てめえ人斬りを見た事があるか?」と尋ね、

 答えも待たずに、自分も一度だけ辻斬りを見かけたことを告げて、「ふん、ありのままの人斬りなんざ 気持ちのいいもんじゃねえや そんなもんを 見たがる奴ァ 大馬鹿野郎だ!!」と決めつけます。

 ありのままでは大馬鹿野郎、では、どう表現すればよいのか? 近松の虚実皮膜論よろしく、議論も絶えないかもしれません。そして二人は北斎の自宅(借り家ですが)の屋根にあがりこみ、鉄蔵は

 「ここからだと地面が六で、空が四だ。タカやトンビが上から見たら、地面ばかりでそのへりに空があるんだぜ」「俺ぁ自在に景色をみてえのよ 人間の目玉だけじゃ物足りねえ」とうそぶきます。

 皆さんも是非、人間の目玉だけでは物足りないぐらいに、世間を(トビのように)上から、そして(犬のように)下から観る技(=ラテン語でアルテ、英語でアート)を身に付けて下さい。それが総合政策というものです。

総政をめぐるトピックPart1:“国勢調査”、“人口”、そして国家統計#3:ダホメ王国の冒険ほか

2011 1/23 総合政策学部の皆さんへ

 “国勢調査”、“人口”、そして国家統計について、#1#2に続けて、さらに話を進めたいと思います。

 今回、まずご紹介するのはダホメ王国、と聞いたただけでダホメがどこの地域にあるのかわかる方は、テストで満点を差し上げたいところですが、どうでしょう? Wikipediaでは、「ベナン共和国、通称ベナン」「西アフリカに位置する共和制国家。南北に長く、西にトーゴ、北西にブルキナファソ、北東にニジェール、東にナイジェリアと接し、南は大西洋のギニア湾に面する。憲法上の首都はポルトノボ、事実上の首都はコトヌー」とあります。皆さん、ご存知でしたか?

  さて、この国が有名なのは、かつて白人との交易によっていくつかの王国が勃興したことがあげられます。そのうちの一つ、内陸部にダホメ王国がありました。その原動力は実は奴隷交易です。Wikipediaを引用しましょう。「1650年頃、(中略)ウェグバジャが自らをアジャ人の住む領域の王であると宣言」、王の後継者たちはアグボメ(アボメイ;世界遺産を都とした中央集権国家を築きます。国家の土地全体は国王の所有に帰し、王は徴税を行います。

 しかし、王国と歴代の王を経済的に支えた主な収入源は「奴隷貿易であり、西アフリカ沿岸の奴隷商人との関係であった。ダホメ王国の王たちは戦争をして領土を広げるに伴い、ライフルや他の火器を使用するようになり、捉えた捕虜たちと火器を交換し、捕虜たちは南北アメリカ大陸に奴隷として売られていった」とあります。

 つまり、国外勢力(ヨーロッパ諸国家、奴隷商人等)との接触によって、隣接民族を侵略して資源(この場合は奴隷)を獲得する。その資源を輸出することで、さらに侵略のツール(この場合は鉄砲)を獲得する。この連鎖の延長によって経済成長をとげ、ついに軍事国家を形成する典型的なパターンです。

 Wikipediaは続けます「(前略)ダホメ王国は膨張を続け繁栄しつづけた。この繁栄は奴隷貿易と、後に導入されたパーム栽培の農園から産するパーム油の輸出によっていた

 「ダホメ王国が最盛期を迎えたのは、1818年に即位したゲゾ王の時代である。即位したその年に、北からのソコト帝国軍の侵攻と内乱で混乱したオヨ王国からダホメは独立を果たした。ゲゾは常備軍を作り、奴隷狩りを広く行う一方、アブラヤシの農園を拡張し、奴隷交易に代わる財政基盤を確立しようとした」。

 このダホメ王国を研究対象にとりあげて、『経済と文明』を著したのがハンガリー出身の経済人類学カール・ポランニーです。 

  •    ちなみに、西欧で常備軍が最初に整えられたのは帝政ロシアの“ストレリツィ”で、16世紀のこととされています。それほど昔ではありません。
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 その『経済と文明』をひも解くと、ダホメ王国はなんと侵略のための兵士の確保のため、センサス(国勢調査)をおこなっていたとのことです! ポランニーはそれを“行政的発明センサス”と呼んできます。

 毎年、大雨季が終わり、収穫が完了すること、王国は毎年恒例の軍事遠征(=言うまでもなく、奴隷獲得)の準備を整えるため、召集(=徴兵)と徴税の資料となるセンサスを始め、それは人口、農業、手工業生産、家畜等王国のほとんどの生産物をカバーしていたというのです! 驚きですね。もっとも、本来は文字をもたない無文字文化ですから、人口を“小石”で記録していたようです。

 実際のセンサスの手続は、以下のようなものだそうです。宮殿に、女性の役人の監督下、男性用と女性用のそれぞれ13の箱が置かれます。そして、村落や地方の首長から新生児の誕生が報告されるたび、小石を加える。

 年末に、箱ごと小石が移し変えられ、第13番目の箱の中身は(14歳になった子供は成人したとみなされ)投げ捨てられ、毎年の成人の計算に加えられる。別室には、死亡を記録する箱が置かれて、同じ方法で死亡報告が処理される。とくに軍隊の長官は戦死者の数を報告しなければならない。

 奴隷と捕虜の勘定はまた別の役人にまかされる。こうして、男性、女性、少年、少女のセンサスの結果をまとめる4つの袋に集計がまとめられるわけです。さらにあと3つ、戦死者、病死者、捕虜を示す袋があったそうです。

 こうして小石の出し入れで人口を管理しつつ、軍隊を動員する10~12日ほど前に、各村の成人の数から軍団に徴収される数が計算されるのです。このセンサス結果は、(当然)国家機密であり、王だけが知っており、自分の村落等の資料を漏らした者は死刑になったと言われています。

  •     ところで、ダホメでは子安貝が貨幣として流通し、「32000個の子安貝と金1オンスという不変の交換比率を保った」とのこと(以上はポランニー『経済と文明~ダホメの経済人類学的分析』(栗本慎一郎・端信行訳)ちくま学芸文庫版より抜粋)。
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 さらに家畜等に関する経済センサスもおこなわれました。毎年、各村落の豚の頭数計算が集計されるほか、各種の措置(メス豚のと畜禁止、関所での豚の移動チェック、市場で売られた頭数チェック等)をもとに、「あまりにも多くの豚がと畜されたり売られれたりしたことが発見されると、豚肉の販売が一年間停止されるよう命令された」(『経済と文明』より)。

 こうしたセンサスは王室収入の基盤となり、脱税に対しても二重点検のシステムが存在していました。例えば、家畜については、豚の所有者には年一頭の税割り当てが、牛、羊、山羊は三年目ごとに課税されていました。同様に、蜂蜜、胡椒、ショウガ、塩なども厳しく課税されたそうです。

 さらに、製鉄、織工、きこり、商品の輸送、人頭税、相続税、農産物の税、墓堀り人には埋葬の税等がとりたてられ、国家歳入の源泉になりました(ユリウス=クラウディウス朝崩壊後にローマ帝国を立て直したウェスパシアヌスを思い出しますね;「総合政策のための名言集Part5:政治的発言について#1(2010/10/31投稿)」を参照して下さい)。 

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 無文字文化でここまでやっていたというのは、ちょっとすごいですね。欲望と必要に迫られて、他民族を犠牲(奴隷として白人奴隷商人に売り飛ばす)にして富を蓄積することで精緻なまでに築き上げられたこのシステム=ダホメ王国の冒険は、しかし、フランスによって1892年から1894年にかけて征服されます。

 同じ時期、同じように奴隷貿易による侵略王朝を作ったアシャンティ帝国も、王権の象徴たる黄金の床几(The Ashanti Royal stool)を要求するイギリスの軍隊に占領され、終焉を迎えることになります。

総政100本の映画Part13振り返り編:『ゴッドファーザー』そして『ワイルド・バンチ』:暴力装置を通して見るアメリカ合衆国のなりたちについて#4、あるいは“暗い血ぬられた土地のフライドチキン”

2011 1/20 総合政策学部の皆さんへ

 暴力装置を通して見るアメリカ、ある意味で、アメリカ大陸の開拓=マニフェスト・ディスティニー自体が先住民への暴力以外の何物でもないかもしれないのですが。ということで、アメリカのもう一つの暴力世界、それが“西部”です。そこでの暴力は、まず、先住民インディアンネィティブ・アメリカンへの暴力と、そこに進出した白人(Part1で説明したように、実は様々な民族からなっているのですが、その総称としてのWhite man)同士の暴力ですね。

 ところで、“西部”の定義は時代によって変遷しているそうです。例えば、18世紀の開拓者ダニエル・ブーン(1734~1820)の頃は、ニューイングランドからアパラチア山脈を越えて、ケンタッキーに行けば、そこが”西部”だったわけです。それが合衆国の拡大によって、どんどん西に移動することになります。

  なお、ケンタッキー・フライド・チキンで知られている“ケンタッキー”という地名ですが、Wikipediaによれば、土地契約で欺かれた先住民の長ドラーギング・カヌーお前らは公平に土地を買ったつもりだろうが、晴れたつもりのその土地の上には雲が掛かっている。そこに入植すればそこは暗く血塗られたものになるだろう」と警告したとのことです。

  こ の「暗い血塗られた土地」は現地の言葉では「Kain-tuck-ee(Ganda-giga’i)」で、この音が「ケンタッキー」と標記されているわけです。とすれば、“ケンタッキー・フライド・チキン”とは、“暗い血塗られた土地のフライド・チキン”になってしまうのでしょうか? 

  それでは、現在のアメリカではどこまでが西部か? アメリカの国勢調査における区分では西部13州が狭義の西部にあたるそうです。さらに広義にとらえると、ミシシッピ川以西の11州が入るようです(地図のURLはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:120px-US_map-West.png)。合計すると24州、アメリカ合衆国の3分の2を占めてしまいます。 

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  さて、インディアン戦争に興味がある方には、以下にインディアンと白人入植者、そして植民地を争うイギリス・フランス政府等がからんだ一連の戦争について、参考資料をいくつか並べておきましょう。

 このように並べていくと、アメリカ合衆国という国家は、成立以来、戦争ばかりやっていたことが如実にわかりますね。これがアメリカ合衆国のなりたちの一つです。そして1890年にフロティアが消滅が宣言されると、1898年のハワイ併合(準州として、後、州に昇格)、同年の米西戦争の結果グアムの割譲(現在、「アメリカ合衆国自治的・未編入領域 (organaized unincorporated territory)」)、1903年のパナマ運河条約によるパナマ運河地帯の租借(1999年にパナマに返還)と続きます。

 しかし、この調子で1876年のブラックヒルズ(スー族)戦争、そのさなかジョージ・アームストロング・カスター中佐ほか騎兵隊225名全員が戦死(インディアン側は少なくとも136名が戦死)したリトルビッグ・ホーンの戦い(1876年6月25日;なお、インディアン側の呼称はグリージーグラス川の戦い)や、その後、騎兵隊が非武装で老人・子供も含まれたインディアン200~300名を虐殺したウーンデッド・ニーの虐殺(1890年12月28日)と続けていくと、とても白人同士の暴力まで話がたどり着けそうもありません。ご興味がある方は、是非、お勉強を。

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  さて、西部劇では、“征服戦争”におけるインディアンとの闘争というストーリーと、征服戦争後の白人同士の暴力というストーリーが交錯します。

 ハリウッド映画の例を挙げれば、前者の代表がジョン・フォード監督の『駅馬車』ですね(1939年公開、映画の中でジェロニモが言及されているので、ジェロニモとアパッチが降伏する1886年以前の設定となります)。一方、後者の代表は同じジョン・フォードの『荒野の決闘』としましょう (1946年公開、モデルとなったワイアット・アープらのOKコラルでの決闘は1881年10月26日)。

 ちなみにジョン・フォードはメイン州生まれながら、筋金入りのアイルランド系で、フォード一家と呼ばれた一群のアイルランド系俳優たち(モーリン・オハラウォルター・ブレナンバリー・フィッツジェラルドベン・ジョンソン等)を使って映画を撮り続けます。アイルランドものでは『我が谷は緑なりき』が代表作。炭鉱街で育ちながら、石炭もやがて尽き、かつて緑だった谷も人の心もすさんでいく。何とも言えない切ない映画ですが、思えばこのストーリーもヒューマン・エコロジーに関連していますね(=産業革命前後のエネルギー資源の枯渇と交替)。  

 こうした暴力シーンもやがて影を潜め始め、ブッチ・キャシディサンダンス・キッドが率いた“ワイルド・バンチ強盗団”は1899年~1908年に銀行強盗を繰り返したあげく、散り散りになって殺されていきます。このブッチ&サンダンスがボリビアまで逃亡、そこで殺されたストーリーが映画『明日に向かって撃て』です。 

 なお、オリジナル“ワイルド・バンチ強盗団”はさらに古く、1893年にウィリアム・”ビル”・ドゥーリンが結成した強盗団の名前の一つだそうです。別名は、彼らが着用していたダスターコートから“The Oklahoma Long Riders(オクラホマ・ロングライダーズ)”(Wikipedia)。銀行強盗や列車強盗、殺人等でならしたそうですが、1896年にドゥーリンが射殺されて、1898年までに消滅したそうです。  

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 こうして西部がようよう無法地帯から脱しようとする1913年、もはや時代遅れの無法者たちが、それを自覚しながら、人生の最後に見せるバイオレンス・シーンが「総政100本の映画編Part2:#16~#36、『灰とダイヤモンド』から『シンシナティ・キッド』まで(2009/11/22投稿)」でご紹介した映画番号#19:サム・ペキンパー監督『ワイルド・バンチ』です。

 その主な舞台はもはや、純粋西部でさえありません。冒頭は1913年、テキサス州との国境にほど近いサン・ラファエルの街。強盗団“ワイルドバンチ”はリーダーパイク・ビショップのもとに強盗を計画しますが、かつての旧友デケ・ソーントン率いる賞金稼ぎたちに一敗地にまみれ、メキシコに逃亡します。

 ビショップを演ずるのは往年の青春スター(1931年、21歳で映画『ゴールデン・ボーイ』でデビュー)であったウィリアム・ホールデン。第二次大戦での兵役を経て、演技派に転身、1950年の『サンセット大通り』や1955年の『ピクニック』で演技派に転向するも、1960年代後半、もはや初老も近くなって、人気も衰え始めた頃の起死回生の演技です(その後、『タワーリング・インフェルノ』等に出演)。

 一方、釈放を条件にバイクを待ち伏せするソーントンはこちらも初老を迎えたロバート・ライアン。どちらも人生のピークを過ぎた悲哀を自覚しながら、どこで最後の一花を咲かすべきか、心が迷います。そして、もはや黄昏時のギャング同士を戦わせる権力側の無慈悲な視線が交錯します。 

 もはや“死に花”を咲かすしかないジェイクのもとに残った仲間は、ダッチ・エングストローム(アーネスト・ボーグナイン)、ライルとテクターのゴーチ兄弟(ウォーレン・オーツベン・ジョンソン)等、この煮ても焼いても食えない連中に唯一の若者エンジェル。

 逃げ延びたメキシコで、紆余曲折ありますが、ジェイクはメキシコ政府軍のマパッチからアメリカ軍から武器を奪うように要らされます。そして、さらにいざこざのあげく、エンジェルはマパッチに捉えられ、救出にむかったパイクの面前で虐殺・・・・・残りの4人は、数百人のメキシコ軍相手に、デス・バレイ(死の舞踏)、あるいは「ボリスティック・バレティックス(弾道バレエ)と形容される壮絶な大銃撃戦を展開することになります。

 これ以上は、とても文字では形容できません。ご興味がある方は、是非、6台のカメラを用い、11日間を費やして撮影されたというスローモーション多用の大虐殺のクライマックス・シーンをご覧ください。

 そのシーンが終わった後、惨劇の場にようやくたどりついたビショップは、己たちの時代が終わったことを悟る・・・・。こうして国家の中に存在が許される暴力装置は軍隊と警察だけになる。ということは、しかし、(少なくともアメリカでは)永遠に実現されないかもしれない、ということも、本年1月8日にアリゾナでおきたガブリエル・ギフォーズ下院議員(民主党)銃撃事件で明らかです。

総政をめぐるトピックPart1:“国勢調査”、“人口”、そして国家統計#2

2011 1/16 総合政策学部の皆さんへ

  国勢調査の話題に戻りましょう。Part1でも紹介した総務省統計局のHPに掲載の「国勢調査に関する詳細な解説」には「第4章外国の国勢調査」もついています。

 このなかから、英語のセンサス(Census)の語源を紹介しましょう。センサスとは、古代ローマのCensor(観察官)が5年に一度ローマの市民権を持つ17歳以上の人数をチェックする作業=ケンススに由来するようです。

  ちなみにBC578~534年におこなわれた最初のケンススでは、80000人(ティトゥス・リヴィウスローマ建国史』)~84,700人(ハリカルナッソスのディオニュシオス『ローマ古代誌』)だったそうです。

 もっとも、ローマ市民権は男性にしか与えられていませんし、奴隷等もはいっていないので、ローマの正確な人口はさらにこの何倍もあることになります。

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 さて、ローマ市民権を持つ者は「市民集会(民会)における選挙権・被選挙権、婚姻権、所有権、裁判権とその控訴権(ローマ法の保護下に入る)」を持ち、「属州民税(収入の10%)も課されない」のですが(Wikipediaより)、同時に兵役の義務を負います。

 ローマを襲う夷敵(例えば、ハンニバル)と戦わねばならず、当然、戦死もします。戦いが長引けば(どんどん長引くようになるのですが)、家にも帰れません。

  兵役はローマというコモンズを守るための義務ですが、武具は自前で、戦争での分捕り品も私有してはならず、国庫におさめられる。それでは市民兵に個人的メリットがありません。こうして、兵役の義務はローマ市民に重くのしかかってきます(誰でも戦争に行くのはいやでしょう)。

 その一方で、ローマ共和国の拡大により敵対する民族は増え、また(ローマに蓄積された富を狙った)異民族からの襲撃もさらに増え、兵役は長期化します。長年の兵役で故郷とのきずなも薄れ、農地も荒廃し、市民=自作農が没落する。

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  つまり、コモンズを保つための戦いが、そのコモンズの構成員を破滅させていく=体制の内部崩壊です。

 こうしたシステムに内包された自己矛盾・崩壊を防ぐため、体制を鍛え直そうとしたのが、グラックス兄弟の改革、すなわち自作農の復活による市民軍の再生だったわけです。

 しかし、兄弟は伝統=自己利益を主張する保守派によって殺され、改革は挫折をよぎなくされます。

  このような経緯を経て、平民派マリウスvs.閥族派スラの死闘から始まるローマ内戦を乗り越え、カエサルがローマ帝国を創り上げていくことになります。なお、平民派といっても、所詮は上記のように社会のごく上層のローマ市民がベースですから、現在の“市民”のイメージとは随分異なります。

 グラックス兄弟の夢とは、かつての「自作農=土地所有者=市民兵士」という社会を復活させることでした。

 一方、理想よりも現実に立脚したマリウスは、もはや市民兵ではガリア人に勝てないと見切りをつけて、傭兵の全面採用を断行、市民の兵役を免除します。そして、傭兵たちは、勝てば分捕り品を自分の懐に入れることができるようになる。

 戦争は一種のビジネスになり、それが傭兵をひきつけ、優秀な将軍は傭兵たちから個人的な信頼を獲得して、やがて軍閥化して・・・・という形で、マリウス以降、パトロン=クライエント関係にベースをおく軍閥が登場します=すなわち(国家という公的なものではなく)私的な暴力装置の誕生です(Private organization of violence=PVO)。

 それでは、ローマの未来をどう見るか?

 昔の理想を追い求めるグラックス兄弟の道をとるか? 「私欲にひたり、元老院という権力機関を独占して、現体制を維持すべきか?(これが閥族派の願望)」

 「共和制等という衆愚政治を捨てて、ラテン人という民族の枠も乗り越え、ローマ法に代表される理念によってコントロールされる国際帝国を創るか?(これがカエサルの構想)」

 ポリシー・プランの鬩ぎ合いが展開します(だんだん、国勢調査から話がずれるので、このあたりで、この話題はおさめましょう)。 

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 さて、ケンススの対象であるローマ市民はいわば特権階級であり、かつラテン人という民族集団がベースのはずでしたが、やがてどんどん拡大してきます。

 例えば、新約聖書に登場の使徒パウロもユダヤ人という民族集団に属しながら、ローマ市民権をもっており、ローマ法の保護下にあります。ガリア戦役の戦友たちを従えてローマに進軍したカエサル自身が、自らの支持基盤としてガリア人のローマ市民権付与を積極的におこないます。

  ここがローマ帝国が民族の枠を超えて国際帝国として君臨した所以でもありますし、ヨーロッパ世界という概念が誕生した由来でもあります。

   こうしてローマにも、トーガの着方もおぼつかないガリア出身の元老院議員があらわれ、風呂の入り方さえ知らない始末(というシーンが、以前のブログでも紹介したヤマザキマリの傑作コミック『テルマエ・ロマエ』にも活写されています。是非、ご一読を。  

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 さて、カエサルの覇権前のBC70/6年のケンススでは90,000~910,000人まで増えていたローマ市民ですが、カエサル暗殺後の混乱から神君アウグストゥスが覇権を握るまでの間のBC28年には一気に4063,000人に増えます。さらにAD47年には590~690万人までに拡大します。

 そして、セウェルス朝最後の皇帝カラカラ(AD186~ 217年)は、212年アントニヌス勅令によってローマ属州の全自由民(=奴隷は対象外)にローマ市民権を与えます。

 もっとも、これは崇高な目的等ではなく、たんに「ローマ市民への税金を増やし、国庫収益をはかる」ことで、「軍団兵を増やして軍を強化する」という身も蓋もない政策とも言えます。そして、この思惑通りにまったく働かず、かえってローマの衰退を早めたともいわれています。

 その当否はともかく、この段階で、「古くから人口に限らず土地や財産等について調査が行われてきたが,これらは,人々の利益のためではなく,納税,徴兵,強制労働を達成するための情報収集として行われてきた」(総務省統計局のHP)という国勢調査の性格がはっきりでてきたのではないでしょうか? 

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 ではアジアではどうでしょうか? 実は、中国では世界でも最も古くからセンサスをおこなっているところとされ、史書としては、書経、周礼、礼記等に記録されているそうです(上記、総務省統計局HP)。

 まず、古代王朝周では、井田法という土地制度が整えられ、1里四方、900畝の田を「井」の形に整理、真ん中の1区画を公田として、残りの8区画を私田とします。8区画は8家族にわけられ、公田はこの8家族が共同で耕して、それを租税とする。といっても、ほとんど伝説・神話のようなものだそうです。

 儒教で理想とみなされたこの井田法の下に「人口調査は(略)紀元前2698年から紀元前246年まで続いた。井田法の廃止後,租,庸,調という税制の下に,課税基準を決めるための人口調査が1712年まで実施されている」と総務省統計局のHPに記されていますが、本当でしょうかね?

 Part1で紹介した『死せる魂』状態ではなかったかなとも思います。このあたり、どなたかご存じの先生がフォローしていただけないでしょうか?

総政100本の映画Part13振り返り編:『ゴッドファーザー』そして『ワイルド・バンチ』:暴力装置を通して見るアメリカ合衆国のなりたちについて#3

2011 1/13 総合政策学部の皆さんへ

 #1~#2で説明したアメリカ社会における政治と暴力の歴史をたどるシリーズ、ここでやっと本来の映画紹介、映画番号#14:フランシス・コッポラ監督『ゴッド・ファーザー』Part1&Part2の話にたどり着きました。

 すでにイタリア系移民についてはご紹介ずみですが、ゴッドファーザーPart1とPart2、とくにPart2で主人公ビトー・コルレオーネ(Vito Corleone)の前半生が回想的に語られます。故郷シチリアで父を、兄を、そして母も殺され、自らも“復讐”を恐れた仇の目標となり、言葉も満足にできぬアメリカにわたったビトー(Part1で老境のビトーを演じた怪優マーロン・ブランドに負けぬとも劣らぬロバート・デ・ニーロの出世作ともいうべき演技です)。  

 かつてコロシモが経験した“移民からのなりあがり”のストーリーと同様、彼はけちな窃盗犯から、やがて同じイタリア人から金を撒きあげている“黒手組”に対抗する存在にのしあがり、そして持ち前の才能で様々な人々からの依頼に応え始めます。その際の信条が「家族を守る」であり、「友達を信じる」。その結果として、いつしか、政治から経済、労働組合から芸能界まで支配の手を伸ばす存在になってしまう(Part1にはフランク・シナトラがモデルと言われている登場人物がでてきます)。

 その際に、あたかも「名付け親」のごとく、頼み込んでくる者たちの願いをかなえ、また人々の間の軋轢を調停していく存在、これが「ゴッドファーザー」の由来です。

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  とは言え、Part1は映画としてはいわば定石通り、昔からの表と裏の稼業を続けながら、ゴッドファーザーとして頼ってくる者たちにはそれぞれ細かな配慮を示す父親ビトー、家業を継ごうとするけれどやや粗暴で女癖にも問題のある長兄ソニーと、気が弱く、そのためあとで“一家”の足を引っ張る事になる次兄フレド・・・。

 そして、兄たちとあまりに対照的に、家業を嫌い“ふつー”のアメリカ人になろうと、家族の反対をおしきって第2次大戦に海兵隊員として従軍、ガールフレンドもまったく外の女性(アイルランド系のダイアン・キートンが演じています)を選ぶ三男マイケル(俳優アル・パチーノのデビューです。ちなみに彼は祖母がシチリア出身)。

 父親はこの末っ子の“反抗”に手を焼きながらも、実は、もっとも才能があることを感じている。このイタリア系の血でむすびついた家族を、いわば一家の“養い子”のようなドイツ系アイルランド人のトムが半ば第三者的に眺めている、こうした光景が展開します。

 しかし、“赤の女王仮説”通り、すべてが幸せなままで過ぎていくことは無い。環境が変われば、自らも変わらないとやっていけなくなる。この場合、ギャングにとって新たな稼ぎの対象である麻薬ビジネスをどうするか? #2で触れたコロシモとトーリオの対立(新しい密造酒ビジネスに踏み込むか?)と同様に、時代が変わり、小道具が変わっても、人々の心は同じように揺れ続けます。Part2はその人々の心の揺らぎにあわせるように、父ビトーと息子マイケルの二人の人生が、フラッシュバックのように交錯しながら展開します(ちなみに、Part1とPart2の双方でアカデミ作品賞を受賞した唯一の映画です;1972年と1974年)。

   赤の女王仮説:「生存競争に生き残るためには常に進化し続けることが必要であり、立ち止まるものは絶滅する」(Wikipediaより)。『鏡の国のアリス』から、赤の女王の「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」という台詞に由来。   

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 と、このように説明していくとすべてネタバレとなり、映画を楽しむという余裕もなくなるというもの。Part1とPart2の映画はひとえに、(1)最下層移民のイタリア系というアイデンティティにもとづきつつ、頼ってくる者たちの訴えに耳をかし、善悪両方の手段を駆使して、世をうごかし、すべての者への“ゴッドファーザー”として君臨するビトーの人生と、(2)社会の変化にともない、古いビジネスプランが崩れ、また新たなビジネスが生まれてくる様(Part2でのカジノホテル(=現在でも有名なラスベガスのホテル・フラミンゴがモデル)や1950年代後半のキューバ革命直前ハバナでのビジネス等)、そして(3)イタリア系から“アメリカ人”になろうとしながら、様々な経緯で、結局は家業を引き継ぐしかないマイケル(その過程で、裏切った次兄を殺し、妻とも別れ、その後ろめたさに苛まされる)の心情をたどるものです。

  Wikipediaでは「ビトーの前半生とマイケルの現在を対比させ、家族(ファミリー)を守るためにマフィアになり、組織(ファミリー)を作ったビトーと、家族を守るためにマフィアを継いだが、いつの間にか組織を守るために、家族を失っていくマイケルの姿を対照させている」と評しています。皆さんも、アメリカ社会を理解するため、ぜひ、この一大絵巻をご覧ください。

 ということで、#4はもう一つの暴力世界、西部劇に話を移しましたいと思いますが、現存する最古の西部劇(1903年)、「ラストでスクリーンの中から観ているあなたにめがけて撃たれる1発の銃弾!」で有名な『大列車強盗(The Great Train Robbery)』のユーチューブ映像のURLは以下の通りです。 http://www.youtube.com/watch?v=Bc7wWOmEGGY

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 ところで、Part2では、ビトーがアメリカに入国する際、入国管理官のミスから本来の苗字であるAndoliniを出身地のCorleoneに間違えて登録されてしまうエピソードがでてきます。そう言えば、私のアメリカ人の知り合いがちょっと変わった姓だったので、その由来を尋ねたところ、「東ヨーロッパなんだろうけれど、入国管理官に適当にスペルを付けられたので、今となってはどこの国だか分らんね」と聞いたことがありました。

高畑ゼミの100冊Part22:“政治家”はもっと“古典”を読むべきでは?#2 『史記』について(後半)

2011 1/9 総合政策学部の皆さんへ

 前半に引き続いて、中国の古典中の古典『史記』についての紹介です。前漢高祖(劉邦)の3傑のうち、すでに蕭何韓信をご紹介したわけだから、当然、中国戦史上最高の軍師(参謀)の一人張良に話を持っていかねばなりません。しかし、その前に、前半で紹介した将軍韓信のスタッフだった蒯通のその後を紹介しましょう。

 韓信は、項羽が垓下の戦いで滅び、劉邦が覇権を握って漢王朝をたてた後の紀元前196年、劉邦(高祖)が遠征中に、皇后呂后と首相の蕭何の策略で誅せられます。遠征から帰ってきた劉邦はそれを知らされ、「喜んだり、かれをあわれんだりしたが、韓信は死ぬとき何か言いのこさなかったか」と呂后に尋ねます(『史記准陰候列伝 第三十二』(小川環樹他訳『史記列伝三』岩波文庫版)。この「生まれながらの中国人」と言われた権力者の心情は複雑なのです。

 呂后から「蒯通の計略をとりあげなかったのが、残念だと申しておりました」と聞いた劉邦は、蒯通を人が良い韓信をそそのかして謀反の心を芽生えさせた悪人として激怒、蒯通を逮捕させ、自ら尋問にあたります。以下は、司馬遼太郎の傑作『項羽と劉邦』にも紹介されているエピソードです。

劉邦「おまえは准陰候(=韓信)に謀反を教えたな

蒯通「そのとおりです。わたくしはもちろん教えました。あのばかもの(=韓信)がわたしの計略を採用しなかったものですから破滅を招くはめとなったのです。もしあのばかものがわたくしの計略を採用していましたなら、陛下はかれをほろぼせたでしょうか

劉邦(激怒して)「こいつを煮殺せ

蒯通「ああ、無実ですぞ。煮殺すなどと

劉邦「おまえは韓信に謀反を教えたのじゃ。何が無実だ

蒯通「の政治の綱(おおづな)が立ち切れ、維(こづな)がゆるみますと、東中国は大騒動、[秦王室と]を異にする連中がいっせいに蜂起し、英雄たちが鳥のようにむらがりました。秦がその鹿(帝位)をとりにがし、天下の人々はみなそれを追いかけたのです。そのとき、才能が秀いで、早や足のものが、まっさきにつかまえたのです

  [大どろぼうの]蹠の犬が[聖天子の]堯に吠えつくのは、堯が不仁だからではありません。犬は当然飼主以外のものに吠えるのです。その当時、わたくしは韓信を知っていただけでして、陛下を存じ上げませんでした。それに、天下には武力をねり武器をたずさえ、陛下のなさいましたことをやろうと思うものが、数多くございました。ただ力が不足していただけです。かれらを全部煮殺すことができますか

劉邦「よし、助けてやれ」 

 こうして、史記では弁明に感心した劉邦にあっさり許される蒯通ですが(あっさりさこそ、劉邦の持ち味の一つです)、司馬は『項羽と劉邦』において、蒯通が解き放たれたあとではきすてるように

「死んだ方がましだった」

 地に洟(はなみず)を投げすて、天下を動かすために弁論を学んだのに、たかがおのれの命をすくうために役立っただけだ、とつぶやいた。(『項羽と劉邦下』新潮文庫版) 

と自嘲する印象的なシーンで、章を閉じます。 

蹠(せき)は盗蹠(盗跖とも)、中国古代の盗賊。堯(尭、ぎょう)は中国の神話的な帝王、五帝の一人、次代の、さらに次の等とともに、儒教の理想的君主=聖人とたたえられています。とくに、“鼓腹撃壌”のエピソードで知られます。 

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 さて、張良、「計りごとを本営の中でめぐらし、勝利を無形のうちに決定する。子房(張良)は敵にかつ策略を立てたが、知者としての名声もなく、武勇による勲功もなく、困難な事を容易な事から考えていき、大きいな事を小さな事から行っていった」(『史記世家』留候世家 太史公自序より)。この謀臣の外貌は、死後、肖像画を見た司馬遷によれば「夫人美女のようであった」と言われています。

 彼は項羽に負け続ける劉邦の陰で、知力を尽くします。それは敵にあたることでも、また味方にあたることでも同様です。 楚漢戦争のまっただなか、漢の4年(紀元前203年)、劉邦から兵を預かり、遠くの地を征服した韓信は、その土地を維持するため「わたしを仮の王にしていただきますようにお願いします」と劉邦に使いをよこします。その時、劉邦は榮陽の地で項羽に包囲され、絶対絶命の危機にあったのですが、

上書をひらき、漢王(劉邦)はむかっ腹をたててどなりつけた。

「わしがここで苦しい目にあい、今にもおまえが助けに来てくれるかと、待ちくらしているのだ。あろうことか、かってに王になるなどと言いおるか」

 張良と(もう一人の謀臣)陳平は漢王の足をそっと踏んでおいて、耳に口をつけ、ささやいた。

「漢はただいま不利なときです。韓信が王となるのを禁止しておれるものですか。この機会に王にとりたて、優遇してやり、自分から進んでやらせるにかぎります。でないとたいへんなことになりますぞ」 

 漢王も気がついた。そこでもう一度どなりつけた。

「りっぱな男が諸侯を平定した以上、真の王となるがよいのだ。代理なんかということがあるか」

 それにより張良をやり、出かけて行って韓信を斉王にとりたて、かれの兵を楚の攻撃によこすようにさせた。 

 韓信がのちに誅されるのもこうした伏線があればこそ、なのですが。

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 こうして紀元前203年、楚漢戦争の最後の決戦である垓下の戦いで項羽を撃破し、ついに紀元前202年烏江(うこう)の地に項羽を自死に追い込む漢の6年(紀元前201年)、天下に平和が訪れ、劉邦がようやく大功臣20名ほどに恩賞を定めた頃、宮廷でふと将軍たちが砂の上に座ってなにやら相談しているのが劉邦の目にとまります。彼は謀臣張良に尋ねます(小川環樹他訳『史記世家下』留候世家 第二十五巻、岩波文庫版)。

劉邦「彼らは何の話をしているのだ

留候(=張良)「陛下はご存じないのですか。彼らは謀反を相談しているのです

劉邦「天下は安定したばかりだ。どういうわけで反乱を起こすのだ

留候「陛下は平民より身を起こされ、この連中を使って天下をとられました。今陛下は天子となられましたが、封賞を与えられたのはすべて蕭・曹(=曹参)といった旧知の親しみあいしていた人たちです。一方処罰したのはすべて平生仇とし怨んでいた人たちです。今、軍吏が功績を計算していますが、天下の土地をもってしても全員を封ずるのに不充分です。この連中は陛下が全員を封ずることができないかと心配し、また平生の過失を疑われ処罰されることを恐れております。だからこそ集まって反乱を計画しているのです

劉邦(憂いて)「どうしたらよいだろう

留候「お上が平生憎んでいるもので、群臣がみなそのことを知っている者のうち、だれがもっともはなはだしいでしょうか

劉邦「雍歯はわしと古い怨みがある。以前たびたびわしを苦しめ辱めた。わしは彼を殺したいのだが、その功績が多いために忍びなでいる

留候「今急いで先に雍歯を封じ、それを群臣にお示し下さい。群臣は雍歯が封じられたのを見れば、各人おのずと安心するでしょう」 (中略)

 群臣は(雍歯の封賞を発表する)酒宴から退出すると皆喜んで言った。「雍歯でさえ候となったんだ。我々は心配いらぬぞ」

 これぞ人事の要諦、グイッチャルデイーニの『リコルディ』にも、マキャヴェリの『君主論』にも通じる、人心の綾をついた提言といえましょう。リーダー&スタッフのシステムが少しはおわかりになりましたか? 同時に、このあたりの機微を日本の政治家はちゃんと学ぶべきではないでしょうか?

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 ところで、皆さんはすでにお気づきでしょうけれど、スタッフの献言の多くは対話/問答形式です。例えば、蕭何の推薦により韓信を大将軍にとりたてたのち、劉邦と韓信ははじめてまともに向き合います。

劉邦「総理(蕭何)からたびたび将軍のことのはなしがあった。将軍はどういう策略を予にさずけてくれるのかな

韓信「現在、東にむかって天下の権力を争うとされる相手は、項王(項羽)ではないでしょうか

劉邦「そうだ

韓信「大王さまご自分でお考えいただきとうございます。勇猛果敢さや情け深さという点で、項王とどちらが上でしょうか

劉邦(しばらく押し黙った後)「及ばぬ

韓信(再拝して賛成したのち)「わたくしも大王さまはかれに及びたまうまいと考えます。しかしわたくしはいぜんかれにつかえたことがございますので、項王がどんな人柄か、申させていただきましょう。

 項王が怒気はげしくどなりつけると、千人の男もみなひれ伏します。ところが、すぐれた将軍にまかせきることができません。あれはただの一凡夫の勇気にすぎません。

 項王は人と会見するとき、礼儀正しくおもいやりがあり、言葉づかいはおだやかで、人が病気にかかりますと、涙を流して自分の飲食物を分けてやります。ところが、人を使って手柄を立て爵位を授けるべき場合になりますと、その印のかどがすりへるまで手の上でおもちゃにし、いよいよ授けるまで思いきる事ができません。あれは婦人の情け深さと言われるやつです」  

 こうして、韓信は現状分析をおこない、劉邦を自らの言葉で納得させながら、劉邦の知らなかった情報を提供・分析します。この問答の全体がビジネスプランでいうSWOT分析に近いことにご注目下さい。すなわち、

  1. どのように強みを活かすか?
  2. どのように弱みを克服するか?
  3. どのように機会を利用するか?
  4. どのように脅威を取り除く、または脅威から身を守るか?(Wikipediaから引用)

 韓信は続けます。

「(項羽は)名目は覇者ということですが、実質は天下の人心を失っているのです。だからその強さを弱くすることはたやすいことだ、といえるのです。

 いま大王さまは、もしかれのやり方の逆をゆかれ、天下の勇士におまかせになれましたなら、[敵対するものは]だれであろうとたたきつぶせましょう。天下も城邑をもって、てがらを立てた臣下たちに分け与えられましたなら、だれだって心服いたしましょう。

 正義の兵をおこし、東へ帰りたいと、しじゅう思っている兵士たちを従えてすすまれましたなら、[敵は]だれだって壊滅いたしましょう

 というあたりで、今回は終りにしたいと思います。

総合政策の名言集Part8:何気ない一言を:“赤毛のアン”から“ボンベイのヨットクラブ”等

2011 1/7 総合政策学部の皆さんへ

 名言集も、あまり偉い方ばかりでも、肩がこるかも知れません。ということで、今回は“フツー”の人々の言葉からいくつか。人々の何気ない一言も、大事です。

#38:「どんなに悪い知らせだって、知らないよりは、知っている方が良い

 まったくのうろ覚えです。L.M.モンゴメリー原作『赤毛のアン』シリーズ、私は子供の頃、第一巻だけ読んだ記憶がかすかにあります。しかし、この台詞はそれではなく、たまたまTVで放映していたシリーズ(アニメ版ではなく実写版)で、慕っているギルバートの病気の知らせを聞いた時、詳しい病状がまだ知らないアンが、不安をねじ伏せるようにつぶやく言葉だったかと思います。たぶん、第2作『アンの青春』ではないのかな? 

  Wikipediaには、過去のTV映画として、①Anne of Avonlea BBC TVのミニシリーズ版(1975)と、②Anne of Green Gables( ミーガン・フォローズ主演、ケビン・サリバン監督、1987)が紹介されていますが、このどちらかもわかりません。

 とは言え、 この台詞を耳にした時、「これが“どんな事態がおとずれようと、それに対して真摯に向き合うことが、神から命じられた人として生きる道なのだ”というプロテスタント派の思想の真髄だ!」と感激したことでした。モンゴメリーは長老会派(プレスビテリアン)協会牧師のユーアン・マクドナルドと結婚していますから、おおもとはカルヴァン派ですね。

 神の意志と己の良心を尊び、孤独にも耐える近代的人格の誕生です。ということで、関学でキリスト教主義教育を受けている皆さんは、是非、この思想を身に付けて下さいね(少なくとも、そうした人たちがいて、それが“ポジティブ”だと評価されている世界があることを覚えておいて下さい)。

 なお、『赤毛のアン』の出版は1908年、夏目漱石の『三四郎』が同じく1908年。ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』がその少し前の1905年、リルケの『マルテの手記』が1910年、森鴎外の『』が1911~13年(ただし、舞台は明治10年代)、ウェブスターの『あしながおじさん』が1912年、そしてゴーリキーの『私の大学』が1923年。若者たちは必死に20世紀という時代に適応しようと苦闘します。

 皆さん、どうですか? このあたりのいわゆる“教養小説=人としての成長の物語”の読書に挑戦されては?

 しかし、考えてみれば、アンも結構“有名人”かもしれません。

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#39:1937年、イギリスの小説家サマセット・モームはイギリスの統治下にあったインド植民地を旅行中、ハイダラバット土公国の皇子と昼餐をともにします。以下は、皇子との会話です(『作家の手帳』中村佐喜子訳、新潮文庫版)

  • ボンベイへは行かれたでしょうね?」
  • 「寄ってまりました」とわたしは言った。
  • 「で、ヨット・クラブにお泊まりでしたか?」
  • 「そうです」
  • 「これからカルカッタに行かれますか?」
  • 「参りたいと思っております」
  • 「するとあすこではベンガル・クラブに泊まるのですね?」
  • 「そのつもりでおります」とわたしは答えた。
  • 「あの二つのクラブのちがいを知っていますか?」と皇子がたずねた。
  • 「いいえ」と私は何の気もなく答えた。
  • 「カルカッタのベンガル・クラブでは、犬とインド人を入れないのです。 だがボンベイのヨット・クラブは、犬はかまいません。ただインド人だけゆるさないのです」
  •  そのときほどわたしは返答に窮したことがなかった。いまだにわたしは、その答えが考えつかない。
  •  

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#40:「お前たちはみんな失われた世代(ジェネラシオン・ベルデュ)」  (ヘミングウェイ『移動祝祭日』福田陸太郎訳、平凡社ライブラリー版)

 ヘミングウェイによれば「ガレージで働いていた青年が不手際だったのか、(中略)とにかく、彼はまじめでないということになり、ミス・スタインが抗議を申し込んだあとで、ガレージの主人にこっぴどく叱られた。主人は彼にむかって言った」台詞がこれです。そして、その言葉を引用したスタインは、第一次大戦で戦場に赴き、人として身につけるべき経験を体得する経験を失った者たちとして、ヘミングウェイに「あなた方はまさにその通りよ」「戦争に出たあなた方若い人たちはみんな。あなた方は失われた世代ですYou are all a lost generation)」と宣言するのです。

 こうして、フランスの一ガレージの主人が何の気なしに叫んだ言葉を、たまたまその場にいあわせた“言葉の魔術師”ガートルード・スタインが拾い上げ、ある種の本質を見抜いた言葉として磨き上げて、それがヘミングウェイの小説『日はまた昇る』のエピグラフによって世界に広がり、日本語でロスジェネ等と略称されていく。そこが“言葉”の世界の面白いところです。

総政100本の映画Part13振り返り編:『ゴッドファーザー』そして『ワイルド・バンチ』:暴力装置を通して見るアメリカ合衆国のなりたちについて#2

2011 1/5 総合政策学部の皆さんへ

  総政100本の映画Part13振り返り編:『ゴッドファーザー』そして『ワイルド・バンチ』:暴力装置を通して見るアメリカ合衆国のなりたちについて#1」につづいての#2ですが、今回もはたして『ゴッドファーザー』まで行きつけるかどうか? 次にご紹介するのは、シカゴで展開するニュービジネス=ギャング商売についてのケース・スタディです(それは基本的に政治と暴力との結びつきの一言につきるのですが)。

 具体的には、#1で紹介したようにアイルランド系が地歩を占めていたギャングの世界に、1880年代以降に急増(ピークは1900~14年頃)したイタリア系はどのように進出したのか? そこにこそアメリカ社会の本質がでているかもしれない、これが今回のテーマです(どんなビジネススクールでも、こんなケース・スタディはないでしょうね?)。

 なお、私の種本はアル・カポネ逮捕前に出版された唯一の伝記『夜の大統領カポネ』(F・パズレー[中野五郎訳]筑摩世界ノンフィクション全集版)です。

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 さて、後世、自称「家具販売業者」こと犯罪王アル・カポネAlphonse Gabriel Capone)が継承することになるシカゴ・ギャングというビジネスは、イタリアカラブリア州生まれで1895年アメリカに渡航、シカゴに流れ着いたジェームズ・”ビッグ・ジム”・コロシモ(James “Big Jim” Colosimo、1878~1920年)に遡ります。例によって社会の最下層として、“道路清掃人”の職を得たコロシモは生来世話好きで、仲間の人気者となり、清掃人の組合を結成します(皆さんは#3で、その面影を『ゴッドファーザーPart2』の若き日のビトーに見るでしょう)。それが彼の快進撃の始まりです。

 組合とギャング、皆さん、こうした組合せに驚かないでくださいね。“遅れてきた移民”として、権利の行使も満足にできない者たちを組織して、自衛していく。それがやがて、みかじめ料等をいただくことで職業的な自衛団体に発展し、やがて自立的な組織になっていく。政府のいわゆる“暴力の独占”による暴力装置(=軍隊+警察; organization of violence?;http://d.hatena.ne.jp/skullsberry/20101123/1290508139からの引用)に対する民間暴力装置“Private organization of violence (略してPOVとでもしましょうか)”の誕生です。このあたりも、洋の東西を問いません。

 それでは、清掃人組合の元締めとしてそれなりの権力の一端をつかまえたコロシモに接近したのは誰か? それは政治家です。たとえ英語がうまく話せなくても、いったんアメリカ人になってしまえば、一票は一票。パズレーは「(コロシモは)絵に出てくるような市会議員マイケル・ヒンキー・ディンク・ケンナと、通称「湯屋」のジョン・コフリンに出会った。ヒンキー・ディンクは「労働者の両替屋」という店を経営していた。そこではわずか5セントで、まるで金魚鉢のような大きさと形の大コップでビールを飲む事ができた(略)。

 この両人はコロシーモを大いに買っていたが、それは彼が選挙の投票を集める能力を持っていたからである。彼は最初から仲間の道路清掃夫たちに人気があり、ただちにこの連中を集めて社交的な体育クラブを結成した。それは選挙のときに、まとまった票の一つとして集まられた」と説明していきます。政治と暴力の結びつきです。

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 こうしてケンナたちは組合の票を頼ってコロシモと交渉、その見返りを提供します。それが、例えば“区長”という社会的ステータスだったり、そしてシカゴの売春街での利権です。こうして、同じ移民上がりでも、(バーの持ち主から自ら政治家になり、息子を実業家にして、そして孫をアメリカ大統領にまでおしあげる)パトリック・ケネディとあまりに対照的に、コロシモはシカゴの売春王へと成長していきます。これも競争社会で必然的に生まれる、移民にとっての生き残り策の一つでしょう。

 才能がある者たちが、ある者は政治家(公的暴力装置の支配者)に、ある者はギャングになって私的暴力装置の持ち主になる(史村翔原作・池上遼一画の劇画『サンクチュアリ』を想起する方もいらっしゃるかもしれません)。

 Wikipediaによれば「新聞の推定では毎月5万ドル以上は儲けていた。この収入から自分と父親に召使を置く豪邸を建てた」というコロシモは、成功したイタリア系移民の常として、犯罪組織ブラック・ハンド(黒手組)の脅迫を受けます。しかし、コロシモはニューヨークの暗黒街ファイブ・ポインツでならしていたジョニー・トーリオを呼びよせ、トーリオはブラック・ハンドを一掃します。ついに犯罪組織=近代的犯罪ビジネスが誕生です。

 ビジネスにも有能なトーリオは「売春宿の管理を徹底し、中には8時間の3交代制で60名の娼婦が交代勤務で対応し、店を回していた所もあったという(Wikipediaより)」。時はローリング・トゥエンティーズ突入直前、ギャングたちを大金持ちにした禁酒法制定も間近です。

  禁酒法ボルステッド法)とは、1919~1933年にかけてアメリカ合衆国において施行された法律で、合衆国内での消費のためのアルコールの製造、販売、輸送を禁止した。第一次大戦後の一種の社会的熱狂状態の中で、長年にわたる禁酒運動の影響下で成立したが、その結果は期待をまったく裏切るものでした。崇高な目的で発足したはずのこの法律で生まれたのが、言うまでもなくギャングによる密造・密売組織であり、違法な酒類の製造、流通、販売は激烈をきわめます。

 当時、ニューヨークだけで数万件の違法酒場(Speakeasy)があったといわれています。コロシモ亡き後、トーリオとその組織は「彼の組織は、酒の密売から年間400万ドル、賭博からもほぼ同額、売春から200万ドルの利益を上げ、シカゴ郊外でも400万ドルの不当利益を得ていた」(Wikipediaによる)。

 こうして、禁酒法は1933年12月5日にフランクリン・ルーズベルト大統領の手で廃止されますが、その際、インサイダー情報によってケネディ大統領の父であるジョセフ・ケネディが酒類の輸入利権をおさえ、大もうけしたこともまた有名です。

  デトロイトの密造所摘発の写真のURLはhttp://en.wikipedia.org/wiki/File:Detroit_police_prohibition.jpg  

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 さて、当時40代を迎えて事業(売春業)の拡大に成功したコロシーモは、しかし、さらに新しいビジネスの開拓(禁酒法制定にともなう密造酒ビジネス)に躊躇し、29歳で野心満々だったトーリオと対立します。そして、トーリオはニューヨークのギャングフランキー・イエールの手を借りて、恩人のコロシモを暗殺します。ビジネスの開拓における世代間の対立ですね。その解決に役員会を使うのではなく、ピストルで方を付けることが違うだけです。

 このトーリオがやはりファイブ・ポインツから呼び寄せた若造こそアル・カポネです。トーリオとカポネは師弟というか、互いに良きパートナーですが、この二人のイタリア人の前に立ちはだかったのが、もう一つの移民、アイルランド系ギャングの代表ダイオン・オバニオンです。シカゴを舞台に、民族対立ともいえるギャング同士の激突が勃発、このために一般市民の眼にもブラックな社会が映ることになってしまいます。

 普段は礼儀ただしく、自らは酒も飲まず(トーリオもほとんど酒を飲まなかったと言われています)、煙草もやらず、イタリア系の売春業を軽蔑して手を出さず、花屋を隠れ蓑に(自分が殺した相手の葬式にも花を届ける)、花屋の上っ張りのなかに少なくとも3丁のピストルを隠し、両手利きでピストルを操り、少なくとも25人の殺しに責任があったというオバニオン。

 最初は、オバニオンもトーリオ=カポネ連合と密造酒ビジネスで提携しますが、やがて巧妙に裏切り始めます(例えば、手入れがあると予想される密造所を、黙って売りつける)。こうして堪忍袋の緒が切れたトーリオ=カポネは、1924年11月10日にイエールほか3名を花屋に送りつけます。店先で握手のためにさしだしたオバニオンの右手はそのまま握りしめられ、左手は右側の男に抑えられ、そして、左側の男が懐から出した6連発の拳銃から全弾たたき込む、この“握手殺人事件”でオバニオンは命を落とします。

 そして、この後、1929年2月14日に起きた“聖バレンタインデーの大虐殺”まで血で血を洗う抗争が展開します。

 ということで、やっと、イタリア系ギャングの成長ビジネスプランの説明まで終えたところで、次に進みましょう。

住まいの人類学Part1:ヒトは何時から“家”を建てるようになったのか?

2011 1/2 総合政策学部の皆さんへ

 新年を迎えて、新シリーズとして“住まい”をとりあげてみたいと思います(これで衣食住の話題が揃います)。まず初めの疑問は、「ヒトは何時から家を建てるようになったのか?」です。もう一つは、「住まいはどんな機能をもっているか?」です。 元国立民族学博物館館長で“食の人類学”で知られる石毛直道は研究生活を“住まいの人類学”で出発します。それが『住居空間の人類学』(1971年、鹿島出版会)です。

ニューギニア、ポリネシア、アフリカでフィールドワークを行った彼は様々な住まいに出合った結果、住居空間で果たされている行動を、①睡眠・休息、②排泄、③入浴・行水、④化粧・着衣、⑤性交、⑥育児・教育、⑦洗濯、⑧炊事、⑨食事、⑩家財管理、⑪生業、⑫接客、⑬信仰、⑭隔離、⑮知的活動、⑯娯楽、⑰美的活動、⑱隠退等に分類します。項目には、ちょっととっぴなもの(美的活動)も含まれているとはいえ、だいたいは首肯しうる機能ではないでしょうか。

 石毛はこうした機能が民族・文化によって異なると指摘します。例えば、アフリカ・タンザニアの遊牧民ダトーガでは、住まいは①睡眠・休息、⑤性交、⑧炊事、⑨食事、⑩家財管理、⑪生業の一部、⑫接客、⑭隔離の機能しか果たしていません。それではということで、ダトーガの家の写真を探そうとしましたが、なかなか見つかりません。なんとか女性と子供の背景に、家の一部が映っている写真を見つけました。URLは以下の通りです(http://www.trekearth.com/gallery/Africa/Tanzania/East/Arusha/Lake_Eyasi/photo1140078.htm)。

   こうのように世界には様々な住まいがあるが、それぞれに異なる機能を持ち、それは文化と深く結びついている。当たり前と言えば当たり前ですが、指摘されればそれこそ「眼から鱗が落ちる」(『新約聖書』「使徒行伝」第9章)というものです。中国の客家の人たちの巨大住宅“福建土楼”、イエメンの世界最初の高層ビル群“シバーム”、ボルネオ・ニューギニア周辺の“ロングハウス”と思えば、モンゴルのゲル、ベドウィンのテント(http://www.geographia.com/egypt/sinai/bedouin02.htm)、オラン・ラウト(漂海民)の家船・海上住宅等々、それぞれに文化や生活がある、これが今回のマクラです(その文化、生活ごとに必要な家具・家電も異なるわけで、相手の文化を知ることがビジネスにも結び付く。このことぐらいは覚えておいて下さいね)。

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 さて、進化の中で「ヒトは何時から家を建てるようになったのか?」 実はよくわかりません。というのも、ヒト以外の霊長類の仲間は、一定の“住まい”をかまえないことが多いからです。ということで、まず、生物にとっての“巣”の意味から説明しましょう。

 生物によっては“巣”をかまえるものも多いのですが、それが果たす機能がかなり限られているケースがあります。例えば、小鳥類の“巣”です。その大半は、卵を産み、抱いて、雛を育てるためのものに過ぎません。Wikipediaの“”では「大抵の鳥類は、繁殖が終わると巣を放置して、次の年に新しい巣を最初から作る」とあります。このあたり、実際に観察しないとなかなかぴんときません。私にとっては、徳島県の鳴門教育大学にいた時に、カラスの塒(ねぐら)を観察していて、はじめて実感しました。カラスは子作り・子育ての時期(繁殖期)だけ、ペアに分かれ、ナワバリを持ち、そこに卵を産んで暖めるための巣を作りますが、雛が育てば、巣はもう使いません(脚の構造上、巣がなくても、枝につかまって寝ることができます)。これらは上述の石毛の分類だと、育児に特化した住まいということになります。

 一方、己の体を守るため、巣を作るものもいます。例えば、海産環形動物のイバラカンザシは“棲管”を基盤に埋め込んで、その中で定住生活しています(写真のURLはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Christmas_Tree_Worm.jpg)。まさに巣です。そのかわり、そこで子育てすることはありません。棘皮動物のタワシウニも岩盤にトンネル状の穴をあけて、そこに身をぴったり潜めています(http://www.env.go.jp/nature/nco/kinki/kushimoto/kyokuhi/tawasiun.htm)。これらはまさに“住まい”ですね。中には、ヤドカリのように、巣とする貝殻を絶えず持って歩くものもいるわけです。いわば“防衛”に特化した住まいとも言えるかもしれません。

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 それでは、サルの仲間ですが、いわゆる原始的なサル(原猿類)には夜行性の種が知られていて、これらの多くは“巣”をつくります。というのも、夜行性ですから、昼間は隠れていなければいけません。私のマダガスカルのフィールド、ベレンティ私設保護区では、イタチキツネザルが該当します。昼行性のワオキツネザル(=私の研究対象)は巣を持たないのですが、イタチキツネザルは木の幹にあいた穴を巣として、昼間はそこで休んでいます(とはいえ、ベレンティは観光地なので、ガイドがひっきりなしにその木をたたくので、昼間でもネボケマナコで巣穴に座っていたりします)。

 ところが、昼行性になったとたん、サルの仲間は巣をつくることをやめます。ニホンザルでもそうですが、毎日、遊動を繰り返し、夜ごとに違った木々の上で寝ます。明日はどこで寝るのか、はっきりわからないのです。

 また、大型類人猿のオランウータンゴリラチンパンジーには共通点があります。やはり特定の場所の巣は作らず、毎日、違う場所で枝をおりまげて、その夜限りのベッドを作るのです(したがって、巣と呼ばずに、ベッドと呼ぶわけですが)。

 これは彼らの社会集団がかなり大きな遊動域を構え、その中を食物資源などを探しながら、広範囲で動くため、特定の“巣”をもたない生活に適応したためでしょう。

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 とこういうわけで、まず、ヒトはなぜ住まい=すくなくとも何日かは定住する住まいをもつようになったのか? という疑問に答えねばいけません。それはたぶん、生物学者のアドルフ・ポルトマンが著書『人間はどこまで動物か』で指摘したように、ヒトの新生児が(生まれた日から走ることができる有蹄類や母親にしがみついて運ばれるサルの新生児と比較しても)あまりに未発達の状態で生まれ、その子を保護するためにはいわばシェルターが必要だったためでしょう(そうした点ではむしろ肉食獣の新生児に似ているかもしれません)。また、そうした新生児を育てるために、何時の時点かはわかりませんが、母親以外の者も子育てにたずさわる“家族”的な社会組織が要るようになったのだと思われます。

 つまり、母親と新生児は定住地にすみ、ほかのメンバーは食物を確保するとそれを持って帰って、母親と子どもたちに与える=食肉獣がよくやるような生活パターンが必要になってくるわけです。

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 こうしてヒトが“住まい”を持ち始めたはずですが、約500万年前の地上に降りたばかりのアウストラロピテクス類が安全なはずの樹上を捨て地上に進出した当時、また約250万年前ころからあらわれたホモ・ハビリスあるいはホモ・エレクトス等でも、とくに夜間は、食肉獣等に対して脆弱だったと思われます。したがって、大型獣が侵入しにくい洞窟や岩陰等に住んでいたというような想像図がよく出てきます。また、事実、洞窟に生息跡が発見されたりします。とくに有名なのは1929年に北京郊外の周口店洞窟(現在、世界遺産)で頭蓋骨が発見された北京原人(80万年前ぐらいまでさかのぼれるとのこと。当初の学名はSinanthropus pekinensis、現在はHomo erectus pekinensis)です。なお、興味深いことに、ヒト以外の真猿類で洞窟に居住するものはいません。

 その後、20~30万年前頃に出現したネアンデルタール人Homo sapiens neanderthalensis)も、多くの人骨が洞窟などから見つかっていて(骨が残りやすい事も手伝っていると思いますが)、東京大学が1961年にイスラエルのアムッド洞窟で発掘したアムッド人も洞窟の床に埋葬されていたものです。

 ところで、洞窟利用はあくまでも自然にできあがった地形をそのまま利用するわけで、“建築”という概念にはほど遠いものがあります。また、洞窟は地形に左右されるため、ヒトの活動が環境条件に強く影響されることになります。したがって、次の段階は、洞窟等の地形に結びつかない、平野での“住まい”の確保という形をとったものと思われます。それでは、平地に進出した場合の住居の例はというと、有名なものはシベリアに住んでいたマンモス・ハンターたちで、マンモス類の骨、象牙等をテントの柱にして暮らしていたとされます(2万5千年前)。以下が、国立科学博物館のバーチャル・ミュージアムでの画像です。

 それが5000年前の日本では三内丸山遺跡にまで発達する(実際には、この遺跡の規模については議論が続いているところですが)。以下の図は、大規模集落を想定しての復元図です。

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 一方で、定住生活にはコストやリスクがかかります。コストとしては、定住生活によって、周囲の動植物を利用しつくしてしまうこと(マンモス等の大型獣を狩猟しつくした、ともよく言われていますが、議論が残るところです。もっともマダガスカルでエピオルニスを、ニュージーランドでモアを絶滅させたことは確実です)。そして、生活によって汚れていく居住空間をクリーンに保つ必要があること(ごく初期の環境汚染とも言えます)。

 リスクとしては、居住空間が汚れることで病原体などが蔓延する可能性、あるいは定住化で天敵にみつかりやすくなるということ(事実、同級生の鳥類学者に聞いたところでは、小鳥類の巣はしばしばヘビなどの襲撃をうけるそうです)。とすれば、ヒトの住まいもそうした点をクリアーしなければいけないわけで、そのあたりはPart2で触れたいと思います。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...