2011年2月

住まいの人類学番外編:漂う者たちPart2:文化英雄としての“寅さん”、そしてその永劫回帰

2011 2/26 総合政策学部の皆さんへ

Part1に引き続き、定住をこばんで“漂う人たち”、その典型が1969~95年にかけて日本の国民的映画までになります。現在の学生の方々はぴんと来ないかもしれませんが、少し年配の方なら一度は耳にした名前、そう! “フーテンの寅さん”こと車寅次郎、松竹映画48作+特別編1作という長大シリーズ、映画『男はつらいよ』です。

この稀代のプログラムピクチャーは、第1作は完成後しばらく“お蔵入り”の状態で数ヶ月を過ごす、など会社側からはまったく“期待薄”の出だしでしたが(Wikipedia)、第5作めあたりから国民的人気を博して、毎年盆と正月(=ボーナスの季節ですね)に封切ることが風物詩となってしまい、主演俳優渥美清(また、原作・監督の山田洋次)の人生をも左右してしまうことになります(第30作で、ギネス認定の世界最長映画シリーズに登録)。

Wikipediaでは、この渥美清について

1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』の放送開始。(中略)最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言うストーリーに抗議が殺到した。1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹で映画を製作。これが予想に反し大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎(”フーテンの寅“)役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる.

「映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。

特に1977年『八つ墓村』が松竹始まって以来のヒットとなり、渥美の学者ふうな金田一耕助も好評を得ながら、シリーズ化権を東宝に抑えられていたため1本きりとなったことは大きな岐路となる。

としています。俳優と当たり役の関係はむずかしいですね。嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』のようなものでもあり、また、死ぬまで『サイコ』のイメージを脱しきれなかったアンソニー・パーキンスなども思い起こされます。

さて、その『寅さん』シリーズですが、きわめて定型的なストーリー展開が繰り返されます。毎回変わる旅先と、そこで出会うマドンナ(=寅さんが好意を持つが[そして、しばしば振られてしまう結果になる]女性)、そして故郷柴又に帰っては来るけれど、そこでもやはり落ち着ききれずに(妹夫婦もふくめて、定住民の人たちの生活をかき乱し)、また旅に出るという“おなじみ”のものです。

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故郷には落ち着けない寅さん、Part1での『土佐源氏』のなりわいが博労ならば、この寅さんはテキ屋家業、全国各地で開かれる縁日(隠語では、高市[タカマチ]とも呼びます)を渡り歩きつつ、屋台や露店で小物を売る三寸者(さんずんもの)です。あるいは香具師(やし)。

テキ屋の語源は、一説には“的屋(本来はまと屋)”、つまり射的になぞらえ、口先三寸で商売をする人たちで、寅さんのような小売商のほか、バナナのたたき売りや、リンゴ飴、ヤキソバ・イカ焼き等の食物(消え物)の露店、くじ引き、熊手などの縁起物、大道芸等様々です。

したがって、基本的には“非日常”の世界を毎日駆け巡っている人たち、一般人がいつもは“”の世界に生きているとすれば、年中“ハレ”の世界に身を置く身。おとといが元三大師(1月3日)ならば、今日は水天宮(毎月5日)、そして8日は薬師様、等と渡り歩くわけですから、そもそも定住者との折り合いがあうはずがない=これが寅さんの設定です。

“ハレ”と“ケ”ですが、「柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ)は儀礼年中行事などの「非日常」、(褻)はふだんの生活である「日常」を表している。また、(褻)の生活が順調に行かなくなることをケガレ(気枯れ)という」(Wikipedia)。皆さん、ご存じでしたか? 晴れ姿(ハレ姿)とか、ケガレとか、いろんな概念がここから発生している、これが柳田の説です。

みんな寅さんが心配だけれど(旅先でいつくたばるかもわからない)、しかし、戻ってきたら(そのあふれんばかりの愛情/好意を承知の上で、いやその愛情ゆえにこそ)やはりもてあましてしまうのです。

以前、テキ屋の研究をしている知り合いから、京都は結構テキ屋さんが多く住んでいて、近くのタカマチまで車で出かけていくと聞きました(しかも、結構な儲けなのだというのです)。京都ならば、毎月21日は東寺の弘法さん(一見の価値有り)、25日は北野社の天神さんがなかなかです(『陰陽師』に比べると、菅公もずいぶんおとなしくなったものです)。

参考に:バナナのたたき売りの口上です(ユーチューブ)http://www.youtube.com/watch?v=VN1gO4OCGNQ

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さて、映画では渥美清自身が若い頃にテキ屋をやっていたという身上を活かし、見事に決める使い回しの台詞群が、プログラムピクチャーあるいは大衆演劇の人気の本質を示しています。Wikipediaによれば、

  • それを言っちゃあお仕舞いよ」(渥美自身のアドリブだそうです)
  • 相変わらず馬鹿か?」(こちらもアドリブとか)
  • 貴様、さてはインテリだな?
  • 結構毛だらけ 猫灰だらけ お尻の周りは糞だらけ

なお、私が覚えている限り、寅さんに対するもっとも的確な評は、雑誌『文芸春秋』のグラビアに出ていた福島県中通りの田舎の映画館(ほとんど客がはいらず、屎尿くみ取りで生計をたてながら、好きな映画稼業を続けているという一家)のご主人の台詞でしょう。なかなか客もはいらなくて、「唯一入るのは週末のピンク映画だねえ」という主人は「寅さんは?」と尋ねる雑誌記者に、「寅さんはここらはだめだねえ。田舎だから。みんな、寅さんみたい人ばっかりで!」とこともなげに答える。この答えに寅さん”の秘密が隠されているのかも知れません。

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この寅さんを一種の“貴種流離譚”と見なす研究者もいるようです。

「えっ、貴種流離譚って?」と驚かないで下さいね。ちゃんとWikipediaが解説してくれます。

貴種流離譚とは、折口信夫が一連の「日本文学の発生」をめぐる論考のなかで、日本における物語文学小説)の原型として論じた概念である。その説くところは時期によって細部が異なるが、基本的には「幼神の流浪」をその中核に据える。

文学は古代社会における信仰のうちから生じたとする折口は、日本における信仰形態のひとつとして、無力な幼い神を神人が斎きながら諸国を放浪するかたちの宗教集団の存在を指摘し(この点に関しては折口自身が述べるように柳田国男の影響が大きい)、これらの神人集団が幼神の縁起・由来を語る芸能から「物語」が発達したとする

それゆえ日本における散文文学・物語類には、祖形として「高貴な生まれの、弱く、力ない人間が、遠い地をさすらう苦悩を経験する」(それを護持する有力な随伴者を設定する場合もある)という説話型が組みこまれているとするのが、貴種流離譚である。流浪する幼神のイメージは折口学におけるもうひとつの鍵概念まれびとと重なるものである。

なんだか、深そうですね。つまり、寅さんはまれびと=幼子のような心をもった人、それは故郷に入れられず(「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」=ヨハネによる福音書第4章44節)、諸方をさまようわけです。故郷に戻ってくるものの、この貴種は日常的な“ケ”の世界に落ち着ききれず、また“ハレ”をもとめて流離していく。なぜなら、“ハレ”こそ彼にとっての日常=ケなのですから。

それを見送る人たちも、ケの世界に身を置けばこそ、しばし“ハレ”の人=まれびと、あるいは文化英雄=寅さんを歓迎するものの、ハレはいつかは終わるもの。去りゆくまれびとの背を見送りながら、やがて日常に戻っていく。

さらに言えば、この寅さんのサイクルが見事に日本文化における季節感、盆と正月というおめでたい時期にリンクして、決して終わらないサイクルとして、大衆に与えられる=思えば、プログラムピクチャーの王道をいくわけで、このあたりも寅さん映画の長寿の秘訣かもしれません。

この“決して終わらないサイクル”、 ニーチェ永劫回帰を連想させるかもしれませんが、主人公にとっての悲劇的なシチュエイションとしては、仏教における八大地獄(「死亡しても肉体が再生して苦しみが続く」Wikipediaより)、あるいは近代政治ならば「まず穴を掘らせて、それからそれを埋め戻す強制労働を、毎日させる」という話を聞いたことがあるスターリン時代の収容所、さらには不条理的悲劇としての『シーシュポスの神話』等があげられるでしょう。

さて、日本人にとって親しい貴種流離は例えば伊勢物語源義経かもしれませんが、もっと身近な存在としては水戸黄門が想起されます。

マンガ(コミック)で世界を知ろう!Part1:『陰陽師』に見る平安貴族の心象世界

2011 2/21 総合政策学部の皆さんへ

 私のブログには、時折、マンガ(コミック)が引用されていることにお気づきの方もいらっしゃるかと思います。そこで、「マンガを読んで、世界を知ろうPart1」として、これまで紹介してきたものも含めて、マンガ(コミック)の類を紹介するシリーズとします。

 マンガ/コミックスはなんといっても、その視覚的イメージが肝心なところです(「“もの”や“ひと”をどう見るか?Part1:アーティストはどのようにものを見るのか? あるいは“鉄蔵”の冒険」でご紹介した杉浦日向子作『百日紅』のように)。考証さえしっかりしていれば、目前にかつての世界が広がり、細かなところも手に取るようにわかる(逆の場合は、悲惨ですけどね)。

 ということで、まずは、平安朝時代のきらびやかな世界を背景にしつつ、その裏面の暗黒世界をも自由自在に行き来する男安倍清明(921~1005年)と、その無二の親友、故醍醐天皇の孫にして当代の村上天皇の従兄という貴種でありながら、管弦の道(と清明)にしか興味がない好漢源博雅(918~980年)が主人公の『陰陽師』(書籍番号#62)の紹介から始めましょう。

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#1:『陰陽師』:夢枕獏原作、その原作をベースにかなりアレンジも入った岡野玲子作):平安時代、藤原道長の父兼家君が徐々に権力を集中に収めようとする時代(西暦960年前後)、賀茂氏賀茂忠行の代に陰陽師を家業化(独占)します。

 その忠行に師事した安倍清明が、天体観測から吉凶を判断する天文博士を家業化する過程=特定の“家”と“職業”が連結する宮司請負制(かんしうけおいせい)の成長を、読者の皆さんは読みとる事ができるはずです。

 ところで、陰陽師とは、陰陽五行の考えに基づき、凶事を避けるため何時物忌みしなければならないかを判断したり、奇異なことが起きた時に、それが凶事の予兆か、吉事なのかを判断する専門家です。それがいつか、占術呪術等をあつかうようになり、江戸時代に流行の清明伝説では、式神を操り、呪符・人形を使って呪術を行うスーパーマン的キャラにまで見たてられます。

 その清明の晩年、80歳を超える彼に最後まで吉凶の判断をゆだねるのが藤原道長。当時、硬骨漢として道長の政治的ライバルでもあった藤原実資の『小右記』には「左大臣藤原道長のもとに落書があったらしい。その落書によれば、民部大輔藤原為任が5人もの陰陽師を使って道長に対する呪詛を行っているらしく」と記されたのち、以下の実資の述懐があるそうです。

  •  最高権力者となった藤原道長は、この世にある限り、呪詛の標的とされ続けるのだろう。今や、道長を狙った呪詛の陰謀などは、なんら珍しいものでなくなってしまっている。こうした道長の境遇については、ただただ悲嘆するしかあるまい(繁田信一『陰陽師』中公新書1844)。

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 この藤原実資の祖父藤原実頼は、『陰陽師』巻7「天后」では、当代村上天皇がプロデュースした世紀のイベント 天徳4年(960年)3月30日申の刻に始まる天徳内裏歌合で判者を勤めています。

 この歌合とは、「歌人を左右二組にわけ、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う遊び」で、「審判役を判者(はんじゃ)、判定の詞(ことば)を判詞(はんじ)という」そうです(Wikipedia)。貴族たちの名誉をかけた歌合戦です。

 この天徳内裏歌合では、霞、鶯 、柳、桜 、款冬(山吹)、藤、暮春、首夏、郭公(ほととぎす)、卯花、夏草、恋がテーマ。鶯、郭公が各2、桜が3、恋が5の計20番で戦われました。なお、右方で歌を朗詠する役が源博雅です。夜を徹した勝敗は、左方の10勝5敗5引き分けということで、左方の勝利となります。

 この歌合、史上名高い名勝負が伝えられており、それはともに小倉百人一首でも名高い恋をテーマとした二つの歌です。皆さん、それぞれ意味はわかりますよね?

  •  左方:壬生忠見 こひすてふ わがなはまだきたちにけり ひとしれずこそ おもひそめしか
  •  右方:平兼盛   しのぶれど いろに出でにけり わがこひは ものやおもふと ひとのとふまで
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 それぞれ『小倉百人一首』41番と40番に残る古今の名歌、この二つの優劣を問われた藤原実頼はあまりのことに窮してしまい、その間、博雅たちは延々とこの二つの歌を、詠い続けます。

 最終的に実資ば、大納言源高明から「村上天皇が右方の「しのぶれど・・・」を口ずさんでいる」と聞いて、右方の勝利と宣言します。

 皆さん、どう思われますか? 高校の古文でこの話を知って以来、個人的には壬生のモダンさに軍配を上げたいところです。

 それかあらぬか、この歌合に自らの人生(出世)をかけた壬生忠見はこの判定に打ちのめされ、そのまま悶死するに至った、というのが伝承として有名ですが、実際には、その後も生きていたようです(もちろん、『陰陽師』では悶死説を採用、プロットをふくらませます)。

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 さて、『陰陽師』第7巻では、この歌合の陰(真)の主役はなんと怨霊菅原道真です。昌泰4年(901年)、時の左大臣藤原時平の讒言で失脚し(昌泰の変)、この歌合の半世紀前に大宰府で憂死している道真が、怨霊となって時平の子孫たちを襲います。

 時平自身も39歳の若さで急死、道真の祟りが噂されるのです。そのため、せっかく北野天満宮(いわゆる天神さん)をつくってもらうのですが、そんなことではおさまるわけもなく、怨霊パワーは全開のままです。

 なお、怨霊とは、「ううらみをいだいて、たたりをなす霊」です(大辞林)。日本文化の一つのトレンドとして、菅原道真、早良親王崇徳院等、政治的に抹殺・失脚された人物が、霊となってこの世に復讐するパターンが繰り返されます。

 大辞林によれば「怨霊事;歌舞伎の演技および演出。怨霊となって現れ、恨みを述べて、所作事・軽業・早変わりなどを演ずる。元禄期の女形の特技の一つ。怪談物もこの系統に属する」とあります。

 例えば、『保元物語』によれば、崇徳院は配流地の讃岐で、自らを追放した後白河院等とのもつれから、「「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている」ということだそうです。

 一方、『今鏡』等にはそうした記述は無く、創作的な虚説であろうとのこと(Wikipediaより)。しかし、こうした虚構のイメージを後世の人たち、とくに追放した権力者の側はそれに信じておびえ、ひたすら安寧を願って、陰陽師にも頼らざるを得ないところが肝心なところです。 

 『陰陽師』では、道真の一件からほぼ半世紀、藤原氏の実権は時平の弟脈忠平にわたり、その子が実頼と師輔、その諸輔の子が兼家らという系譜。したがって、怨霊神菅公こと菅原道真はにっくき藤原一族のため、歌合の最中に雷を落とそうというのです。

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 不思議と言うか、なんと言うべきか? 現世であればあらゆる手段を尽くして抹殺する対象が、怨みをのんで死んでしまうと、その呪いが自らに返ってくる。「それがいやならば、抹殺しなければよいのに」とは誰も考えない。あとは神社を造って、ひたすら鎮まってくれるのを待つだけになる。こうして、京の街の夜は、怨霊たちの跋扈にまかされてしまいます。

 この怨霊パワーを防ぐのが、この巻の清明のお仕事。歌合は無事に済みますが、次に菅公がねらうのは悶死した忠見の魂です。ともに怨霊となり、藤原氏を呪おうではないか、と誘います。

 その魂を菅公の魔手から救い出して昇天させるのが、(歌合では右方として「しのぶれど・・・」の歌を朗詠していた)博雅が「こいすてふ・・・」を歌を朗詠しつつ、心を込めて忠見の霊に呼びかける「おまえの歌は素晴らしい きっと後世にまで残ろうぞ」という言葉にほかなりません。忠見はこの事祝ぎ(ことほぎ)の言葉に、すべてを納得してこの世を去っていきます。

 菅公もいまや北野社に戻り、事が終わった巻末近く、清明は博雅に伝えます。

 言祝ぎは最上の呪(しゅ)なのだよ 博雅くん 最上の浄化だ この道では 事に窮したら まず ほめちぎって 祝福するに かぎる よかったじゃないか おぬしの言祝のおかげで 忠見の名も 歌も後世まで 残るのだ。

 ついでに、歌合で詠うべき歌をまちがえた博雅君の大失態もまた、後世に語り伝えられるわけですが。この清明の言葉、あるいは、カウンセリングの本質かもしれません。

 このあたり、日本語の“言霊(ことだま)”について述べるべきかと思いますが、私にはあまりに荷が重く、どなたかふさわしい師をお探し下さい。

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 一方、貴族たちはその“家業”を政治的権力に定めるわけですが、互いに「取って代わる」ことができる立場にある者同士、例えば、兄弟、叔父甥、従兄、別家、さらには父-息子までもが互いに争います。『陰陽師』でも、清明自身が賀茂忠行からの陰陽道の伝授をめぐって、師の長男賀茂保憲との陰湿かつ微妙な競い合いが展開します。

 「取って代わる」ことができるかもしれない同士のせめぎ合いです。

 この争いに加えて民間マジシャンである法師陰陽師智徳法師からの挑戦もこなしながら陰陽師を便利な道具としてのみ操ろうとする貴族の心の内をも見破り、なおかつ、どんな要望にも応えていく異能ぶりが都の夜に全開します(それゆえに、彼の心にもまた禍蛇が積み重なることになるわけですが)。

 親兄弟で争うと言えば、まるで“人でなし”のようですが、しかし、これは競争の基本です。近い者=取って代われる者だからこそ、争ってしまう/争わねばならない/争いが起こる前に抹殺しておいた方が良いかもしれません。

 もっとも有名なケースは、オスマントルコの皇帝が戴冠した場合、まず実施しなければいけないことが“弟殺し”であったというものです。

 1389年に即位した第4代バヤズィット1世に始まり、第7代メフメット2世が兄弟殺しを法令化したともいわれ、第17代皇帝ムラト4世(在位1623-40年)になると、皇位継承者を殺害しすぎて皇位継承が危ぶまれる事態まで発生したということです(Wikipedia)。

  さて、その清明を駆使しながら、貴族社会での出世を着々と遂げる道長の父親藤原兼家。一見パッパラパーで“色の道”に邁進しているように他人には見せかけても、賢い正妻藤原時姫には見破られています。

 時姫は、後世、互いに争う道隆、道兼、道長の3兄弟、そして冷泉天皇に嫁ぎ三条天皇の生母となる超子、一条天皇に嫁ぎ後一条天皇後朱雀天皇の生母となる彰子たちの母親です。

 兼家はこの作品の重要なバイプレーヤーとして、毎朝起きれば鏡を覗き込みながら「今日もまろはよい男」と自己暗示に耽りつつも、暦で今日の吉凶を読みとり、必要がなければ陰陽師といえども鼻であしらう。

 さすが、のちの藤原道長政権の基盤をつくりあげるだけの能力の持ち主、無能な兄兼通とは比べ物になりません。しかし、兼通と兼家、近親憎悪に燃えて、死の直前まで、兄を乗り越えよう/弟を失脚させようとする血縁同士での容赦ない争いは、貴族社会の本質を象徴するものです。逆に言えば、その憎悪を克服するためにこそ、陰陽師のアドバイスが必要だったのでしょう。

 なお、高名な『蜉蝣日記』の作者藤原道綱の母もこの兼家の妻の一人ですが、残念ながら『陰陽師』には登場しないようです。

 しかし、兼家はこの本朝3美人の一人とうたわれた道綱の母を放っておいて、街の女に通ったりするなど、関係は半ば破綻してしまいますが、そのあたりは以下の歌で有名です。こちらも小倉百人一首に名高いものです( 『拾遺和歌集』恋四・912、小倉百人一首53番)。

  「なげきつつ ひとりぬる夜の あくるまは いかにひさしきもの とかはしる」 

 その一方で、『陰陽師』には、色と政治の欲望にそまりきったパッパラパーの男性どもとに比して、“賢い女性”が何人も登場します。一人は上記兼家の賢妻時姫、あるいは当代の村上天皇の中宮藤原安子(実は、兼家の同母兄弟)。

 もっとも、安子はなかなか嫉妬深くもあり、新たに入内した藤原芳子の美貌に村上天皇が惹かれるのをねたんで、壁の穴から芳子にかわらけを投げつける! という有名な事件を起こしてしまうこともまた『陰陽師』で言及されています。  

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 と書いていたら、なんだか日本文学史(の一部)になってしまったような気もしますが、無味乾燥の日本史の教科書よりも、もちろん虚実入り混じるとはいえ、コミックで勉強するのも面白いというものです。

 ということで、次のコミック『ヒストリエ』の紹介の余裕がなくなってしまいました。次回にまわしたいと思います。

住まいの人類学番外編:漂う者たちPart1:世間師、マレビト、放浪学生~よそ者への微妙な視線について

2011 2/17 総合政策学部の皆さんへ

 住まいの人類学は、いわば定住への道でもあります。ヒト以外のサルの仲間は、複雑な社会を作るほど、固定的な巣を捨てて、絶えず遊動している。それがヒトになると、出産直後はまったく動く能力を持たない幼子をかかえ、“家族”を持つようになり、一定の住み処を持たざるをえなくなる。

 それでも極北のイヌイットでも、アフリカのピグミーの人たちでも(そして、おそらくは縄文人も)狩猟採集生活に頼る限り、季節ごとに移動する遊動生活が営まれています。

 その一方で、とくに農耕社会が始まると、田畑を持ち、次第に定住化していく。つまり、造巣する動物が送る定住生活 → サルや狩猟採集民等の絶えず遊動する生活 → 農耕民等の定住生活と変動するわけです。

 そして、いったん土地と人々の結びつきが強まると、その定住性がさらにヒトの関係を規定するようになる。その結果として、“土地”を媒介とした人間関係、“地縁”が生じてきます。

  するとおもしろいもので、地縁で固まり、互いに社会関係が密にわかり合っている人たちからすれば、そうした地縁社会を時折訪れる“よそ者”に対する間合い、目線が微妙になってしまう。

 しかも、そこに“嫌われるよそ者”、“待たれるよそ者”、“尊敬されるよそ者”等に分かれてくる。これが今回のテーマです。なぜ、彼らはよそ者を嫌うのか? あるいは、よそ者となれば、どんな立ち位置・間合いで生きなければいけないのか?

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  それでは、定住地=村落にはどんな人たちがおとずれたのか? ひとつは商人です。とくに特定の商品を扱う者、たとえば“博労”がいました。『広辞苑』では「伯楽から転じて、馬のよしあしを鑑定する人。馬の病をなおす人。また、馬を売買・斡旋する人」とあります。つまり、“家畜商”の人たちです。

 ただでさえ耕作に忙しい農家にとって、牛馬・山羊等の子供を育て、売買することは難しい。やはり、村の外から家畜を斡旋する人が必要です。しかし、彼らは商人、ギリシャの神ヘルメスが商人と泥棒の神であったように、外から来るよそ者は言葉巧みであっても、本当に信用できるのか?

 人類学者の先輩で、現在は滋賀県立大学教授を務めている方がいますが、岡山の出で、子供の頃(終戦直後ですね)、住んでいる村に博労がくると、定住民の餓鬼であるその先輩は「博労が来た、っていう噂が流れると、とても怖い感じがした」といっていました。まさに偏見なのですが、しかし、“よそ者”に対していわれのない恐怖を抱くのは、洋の東西を問いません。

 その博労の一生を、見事に聞き語りにしたてあげたのが民俗学宮本常一の『土佐源氏』です(『忘れられた日本人』書籍番号#17;「高畑ゼミの100冊Part4;柳田國男と宮本常一(2009/12/14投稿」で紹介済み)。

 一生を百姓を騙し、悪い牛を売りつけ、良い牛を買いたたき、その合間合間に“おなごをころがして”人生を送ってしまい、その因果ゆえか、光を失った老人の台詞、百姓はえらいものじゃ、わしが売りつけて行った駄目な牛が、後で訪れると、丹精込めて育てられて立派な牛になっているという回顧談こそ、日本の村落文化の本質を、そして定住の者と漂泊の者との違いを物語っている証言にほかなりません。 少し引用しましょうか。

  •  ばくろうちうもんは、(中略)ちょいっと見れば旦那衆のようじゃが、世間では一人前にはみてくれなんだ。人をだましてもうけるものじゃから、ウソをつくことをすべてばくろう口というて、世間は信用もせんし、小馬鹿にしておった。それでも、そのばくろうにだまされては牛のかえことをしておった。わるい、しょうもない牛を追うていって、『この牛はええ牛じゃ』いうておいてくる。そうしてものの半年もたっていってみると、百姓というものはそのわるい牛をちゃんとええ牛にしておる。そりゃ、ええ百姓ちうものは神様のようなもんで、石ころでも自分の力で金にかえよる。そういう者から見れば、わしら人間のかすじゃ。(略)
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  •  それにまァばくろうのウソは、ウソが通用したもんじゃ。とにかくすこしべえほう(ぐうたら)な百姓の飼うたしょうもない牛を、かっせいな(よく稼ぐ)百姓のところへ引いていって押しつけてきても、相手が見事な牛にするんじゃから、相手もあんまりだまされたとは思っておらん。うそがまことで通る世の中があるもんじゃ。(略)
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  •  それに村の中へはいれば村には村のおきてがあって、それにしたがわねばならん。村のおきてはきびしもんで、目にあまることをすれば八分(村八分)になる。しかしのう、わしのように村へはいらんものは村のつきあいはしなくてもええ。そのかわり、世間もまともな者には見てくれん。まともなこともしておらんで・・・・・
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  •  なお、この独り語りを演劇化したのが、坂本長利さんです(上演回数は1000回を超しているとのこと)。演劇交差点というサイトに、昨年の高円寺での公演の記事がでています:http://www.engeki.org/2010/08/post_182.html。なお、私は残念ながら見ていませんが、パートナーは大学時代に観劇して、とても印象的だったそうです。
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 さらに、村々を訪れる者たちには、ある種の技能をもった人たちもいます。そのうちのひとつは“木地師”でしょう。木地師とは、轆轤(ろくろ)を使ってお椀や盆等の漆器の木地など、木工品を作る職人です。

 伝説によれば、9世紀、近江国鈴鹿山脈のふところともいうべき小椋谷の君ケ畑周辺に隠棲していた惟喬親王が轆轤を発明、周辺の住民に伝えたのが、のち朝廷・幕府からの免許をもって、全国の野山を良質な材木を求めて20~30年単位で山中を移住していたというのです。定住民からすれば、いかにもよそ者ですが、免許があるため、文句も言えないというわけです。

 実は、私の故郷会津若松は漆器の産地でもありますが(会津塗り)、その木地師の家系の人たちは“小椋”の姓を名乗っていました。京都で大学に通っていた時に、本で小椋谷のことを知り、なるほどと思ったことがあります。大学4年の頃、一晩だけですが、たまたまこの君ケ畑で泊まったこともありました。今はどうなっているんでしょうね?

 こうした技能を持った漂白する人々のイメージは、ほかにも、山間部に住んで等をつくっていたという山窩(サンカ)の人たち、中国南部で一生を海の上で過ごす蛋民の人たちあるいは東南アジアのオラン・ラウト(マレー語で漂海民のこと)の人たち、その日本版家船の方々もあげられるでしょう。

 また、盲目のため芸で身を立てていた瞽女(ごぜ)の人たちや、徳川家の祖であるという伝説もある遊行僧や、高野聖等の宗教関係者等さまざまです。

 ヨーロッパでは、民族としてロマ(いわゆるジプシーは他称で、かつ差別的色彩もあるというので、避けましょう。ちなみにジプシーとは、由来がわからぬ彼らを勝手に「エジプトあたりから来たのでは」と考えてエジプシャンが訛った言葉と言われています)が有名です。しかし、いずれも、定住の人々からの差別的なイメージが強かったりして、実態がよくわからないことが多いようです。

  •  ジプシーといえば、メリメビゼーの『カルメン』は有名ですが、ツルゲーネフの『猟人日記』に登場するジプシー女も印象的です。
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  •  「恋は野の鳥
  • 誰も手なずけられない、
  • 呼んでもまったく骨折り損で、
  • ふさわしくない時にはやって来ない。
  • 脅してもすかしてもどうにもならない。
  • ある者はおしゃべりで、ある者は無口、
  • 私は好きなのは無口の方。
  • 彼は寡黙、だけど私は見た目が好き。
  • 恋! 恋! 恋! 恋!
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  • 恋は放浪者の子ども、
  • 規律なんて何のその。
  • あなたが私を好きじゃないなら、私が好きになる。
  • 私があなたを好きになったら、せいぜい用心することね」
  •  ビゼー作『カルメン』より、“ハバネラのアリア”(ハバネラは本来はキューバ音楽。この曲の原作はスペインの作曲家セバスティアン・イラディエル;和訳はWikipediaより) 
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  •  ユーチューブに伝説のプリマ・ドンナ、マリア・カラス歌うハバネラの映像がありました。1962年、ロンドン、コベント・ガーデンでのリサイタル:カラス39歳、難曲を歌いすぎたりしたため、すでに絶頂期を過ぎていた時期ですが:http://www.youtube.com/watch?v=6fZRssq7UlM&NR=1
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 もちろん、これが芭蕉吟遊詩人であれば、“よそ者”というよりも、“まれびと”=むしろ神のごとき貴種となるわけですね。絵師にも、田能村竹田等の画家が諸方を遊歴しながら、素封家等の襖絵、屏風図を描いて寄寓していくというのもまた、日本文化の伝統というべきでしょう。一生を就活に失敗した剣豪宮本武蔵もまた、晩年は諸所で名品を描きつつ、寄寓していたようです。

 ヨーロッパの放浪学生もまた、その類かもしれません。学問と師を、諸所に求めながら、大学から大学へ、さまよい続ける学生たち。運がよければ、天才の名前が冠せられ、運が悪ければそこらへんで野たれ死に。学問の道は本当はそんなところにあったはずですが(このあたりは、放浪学生の本場、ドイツで学ばれた鎌田先生あたりが得意のはずですね)。

 このように、“見知らぬよそ者”はいわば善悪両極端、差別されるか、尊敬されるか? そのどちらかになるのです。

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 その一方で、定住者がむしろ積極的に出自の地を離れ、世間を回って、また元の場所に戻る。これもまた、上記『忘れられた日本人』の中で、宮本常一により、見事に描写されています。実は、若いときに故郷を離れ、いろいろな世間を体験して、故郷に戻る。それを“世間師”という、と書かれています。

 私の故郷は江戸時代の後期になってとくに人のふえたところである(=ヒューマンエコロジー入門でもちょっとだけ触れますが、この宮本の証言は、その後、歴史人口学によって全国的な傾向であったことが証明されます)。そうして天保頃にはもう飽和状態になっていた。そのくせ分家はどしどしさせていたのである。

 これは農業以外の職業で飯を食うことが出来たからである。もよとり、村内にそうした仕事があったわけでなく、村外にあった。大工・木挽き・石工・水夫・浜子など、男の働き口はいくらでもあって、二、三男はそうした仕事をもとめて他郷へ働きに出かけた。私のしっている範囲の古老で、出稼ぎにでなかったのはほとんどなかったといっていい。 

 先祖伝来の土地を守る事も重要だが、とくに幕末のように時代も変わっていく時に、広い世間も見なければならない。この広い世間がいまや地の果てまでも広がったのが、現在のグローバリズムだということは、学生のみなさん、十分ご承知ですね。

 となれば、かつての放浪学生のように、地の果てまでも漂泊してみるのも、学生時代のうちにしかできないことかもしれません。ちなみに、スワヒリ語では“tembea”という言葉がありますが、これは文字通り“歩く”こともありますが、“そこらあたりをほっつき歩く=放浪する”という意味もあります

ファッションの人類学Part5:服の洋装化、そして男女の違い:その変遷を写真でさぐるには?

2011 2/15 総合政策学部の皆さんへ

 インドネシアやアフリカ等に長く滞在すると、男性の方が洋装している一方で、女性は伝統的衣装が多いような印象を受けます。例えば、タンザニアでは女性はカンガという巨大な風呂敷のような布をまといます(http://en.wikipedia.org/wiki/File:Kangas_drying_in_Zanzibar.jpg)。これは幅110cm長さ150cmのプリントされた綿地の布です。

 そこら辺の店にはいれば、色とりどりのカンガがぶら下がっています。このカンガ、タンザニアでは見慣れているので違和感を感じませんが、日本に買って帰って、広げてみると、日本ではとても着れないチョーど派手なものです。

 さて、カンガが2枚あると、タンザニアの女性は1枚は巻きスカートに、1枚は頭から上半身を包むように巻き付ます(http://en.wikipedia.org/wiki/File:KangaSiyu1.jpg)。上半身は西洋風のシャツ、下はカンガの巻きスカートもよく見かけます。なお、大学受験パスナビのサイトに、アフリカファッションに詳しいイラストレーターの方のブログに、イラスト付き解説のページがありました:http://eigonochikara.passnavi.com/culture/fashion04.html

なお、同じサイトのベトナムのページでは、ベトナムの民族衣装「アオザイ」のページもありますhttp://eigonochikara.passnavi.com/culture/fashion06.html:Wikipeidaによれば、アオザイはもともとはチャイナドレス原型とのことですが、洋装化にも対抗できるデザインですね。ただし、すべてオーダーメイドで、かつ、肥ると着れなくなるそうです!

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タンザニアに話を戻して、“カンガ”とはスワヒリ語でホロホロチョウのことです。アフリカにいた頃は、藪の中で大群でうごくホロホロチョウをしょっちゅう見ていましたが(ただし、国立公園予定地区で、かつ、私の仕事はタンザニア天然資源観光省の野生動物管理官というわけなので、もちろん、一度も食べた事などありません)、タンザニア人に聞いても、「きれいな鳥だ」という認識です。つまり、カンガという布は、ホロホロチョウのようにきれいな布だ、というわけです。

そう言えば、タンザニア人の若者に「ねえねえ、ら、女性にはどんな風に話しかけるわけ? 女の子が喜ぶ言葉はどんなの?」と尋ねると(もちろんスワヒリ語で)、「Kama ndege(鳥のようにきれいだね)」と言うに限る、というのです。さらに「Kama tausi(孔雀のようにきれいだ)」といえば一番嬉しがるとのこと(アフリカにクジャクはいないのですけどね。アラビア語のイメージの直輸入でしょう)。それでは、「Kama kanganga(ホロホロチョウのようだね)と言ったらどうなる?」と訊くと、もちろん、それも嬉しがるという答えでした。

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 こうした男女の違いですが、日本でも私の子供の頃(1950年代後半から1960年代)父親は(高校の国語の教師だったのですが)、基本的に洋服でしたが、(私の母親も含めて)女性は和服を着ることがまだ多かったように覚えています。

 例えば、北日本の冬、和服の女性が降る雪をよけるため“かくまき(角巻き)”をかぶっていました。今時そんな姿はまず見ることができないでしょうね(「角巻きものがたり」というHPのURLはhttp://www.hokkaido-jin.jp/issue/sp/200401/special_01.html)。

 それでは、日本人に洋服が普及していった様を、どのように調べればよいのでしょう? そんなテーマのレポートが課せられたら、皆さんはどうしますか? しかも、“ふつー” の庶民にも洋服が普及する様を調べるのには。

 そこで要求されるのは一定の様式で、時間変化を比較可能な資料を探すことです。例えば、小学校の入学式/卒業式の写真を調べてみるのも一つの手です。ということで、例題としてとりあげてみましょう。

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 まず、「旧第一我嬬小学校沿革」というサイトには、明治38年の卒業写真が見つかりました。この写真では、男女とも和服で、男の子だけ学帽を被っています。いわゆる“制服・制帽”のうち、お手軽な制帽が浸透していく様が見てとれます。

 次に、 「横浜開港150周年記念事業みんなでつくる横浜写真アルバム-市民が記録した150年」には、明治44年(1911年)の永野小学校の卒業式の写真があります。こちらも生徒のほとんどは和服です。女の子は髷をゆっている方も多く、男の子は羽織袴です。

 一方、1930年の中和田小学校卒業写真には男の子しか映っていませんが、ほとんどが絣のような着物に袴です。そして手元に学帽が写っています。足元は下駄と靴がまじっています。つまり、下駄と靴の比率が次第に後者に傾いてくることもわかります(これは足袋製造業と靴下製造業の交替にもつながるでしょう)。

 これがごくごく簡単な図像学(イコグラフィー)的資料をもとにした社会史調査と言えるかもしれません。写真からはさらに気付くことがあります。明治44年の永野小学校では、大人は駐在武官(当然、軍服)と教員が入り混じっていますが、男性教員には洋服と和服の混成です。それが、1930年の中和田小学校では、男性教師はほとんどスーツです。三つ揃えが多いようですが、ネクタイの結び方では襟を立てる等、現代はちょっと異なる方がいらっしゃいます。

 対照的に、成人女性(写真からは先生なのか、それとも職員なのかわかりませんが)全員和服です。また、中和田小学校の男子生徒のの着物は、まるで制服のようによく似た柄になっていますが、完全に同一柄というわけでもなく、ビミョーな印象です。

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 そうした光景が一変する写真が、1930年代(日本はいわゆる15年戦争に突入)前後からあらわれます。卒業写真には“制服”が全面にでてきます。

 鴻之舞小学校は、北海道紋別市にかつて存在した鴻之舞町(金鉱によって最大13000人の人口)に設けられた小学校ですが、鉱山閉鎖とともに町も消滅、閉校にいたった小学校で、その小学校を回顧するHPがあります(http://www.h2.dion.ne.jp/~cha2/nature/kounomai/school/school.htm#2)。それを見ると、昭和14年~17年の生徒たちは“国民服”を連想させる制服です。もっとも、足下は靴と下駄が混じっています。

 そして、昭和18年の卒業式の写真では、男子がいわゆる学生服、女子の多くはセーラー服になっています。もっとも、女子には一部私服も混じっています。

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 それでは、戦後は? 大府市の大府小学校の昭和40年の卒業式の写真http://www.city.obu.aichi.jp/contents_detail.php?co=&frmId=7330では、完全に制服の世界で、男子は学生服に学帽、女子はセーラー服です。

 また、中頓別小学校の「思い出の写真館」のURLはhttp://www.nakasho100.com/picture/index.htmlですが、各年代の写真がのっているので、比較すると非常に興味深い事がわかります。まず、昭和36年~43年の卒業式の写真は、大府小学校と同様に、男子は学生服(室内のため、着帽していません)、女子はセーラー服です。そして、男性・女性を問わず、教員は洋服です。

 これが昭和44年、女子のセーラー服がなくなります。男子は大半が学生服ですが、私服がちらほら混じります(非制服化でしょうね)。そして、昭和48年度の写真は一気に、男女とも私服です。ちょっと劇的な変化です。高度成長期に一気に普及した学生服とセーラー服、そしてその後の私服化。これを全国の小学校で調べてみると、いろんな傾向が出てくるのではないでしょうか?

 それをさらに学生服・学帽、足袋や靴下、靴等のメーカーの勃興とからめれば、いくらでも日本の産業史と服装史に関するレポートができそうです(そして、就活だって、おもしろそうですよ)。下はご参考に。

尾崎商事株式会社:カンコー(菅公)学生服のメーカー:HPはhttp://ozaki.jp/index.html

アサヒコーポレーション:アサヒシューズ等、運動靴等のメーカー:HPはhttp://www.asahi-shoes.co.jp/

福助:足袋・靴下のメーカー:HPはhttp://www.fukusuke.co.jp/

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 話の脱線ついでですが、私の子供時代、昭和の成人男性は結構、“帽子”をかぶっていたように思います。その帽子も、それなりに身分を表していたりする。

 例えば、ハンチングは本来はハンティング=狩猟時にかぶる帽子のはずが、日本に“鳥打ち帽”として入ってくると、商業用的なイメージになり、大店の小僧さん(上方では丁稚さん)が前垂れかけた伝統的服装に頭だけハンチングをかぶったり、それがまたいつの間にか、その後の通俗文化で刑事/探偵者のイメージになったりする。

 一方、いわゆるソフト帽、こと中折れ帽は公務員や一般の会社員がかぶるものでした。大きな箱に大事そうにしまってあったりしたものです。

 このように帽子はかつて、ある種、身分についてのメッセージでした。一方、パナマ帽は一見“軽そう”な外見ですが、実は明治時代頃は高価な代物で、紳士の正装用でした(作家夏目漱石は結構おしゃれで、『我が輩は猫である』でも、また『夢十夜』でも、パナマ帽が登場します。画像はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:PanamaHatHarryTruman.jpg(アメリカ第33大統領ハリー・トルーマン着用の品とのこと)。

 それが、いつの間にか帽子をかぶらなくなり、そして最近また、ニットキャップ/ワッチキャップが流行るという変遷があるようです。教員からみると、授業中にかぶっておられるのはちょっとむさくるしい気分になりますね。頭が蒸れないのかな? 第2次大戦で徴兵された父親がよく、「軍人は軍帽をびっちりかぶさせられたので、頭が蒸れてしまって、みんな禿げていた」と言っていたのを思い出します(この説が本当かどうかは、もちろん、保証しません。ただし、本人もきちんと前頭部が禿げあがっていました)。

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 さて、日本では、いくつかの新しい服が女性の和装と洋装の仲立ちをします。一つは“割烹着”ですね。

 これは、仕事中に、着物を保護するためににかける前掛け/エプロンの一種として登場します。なんでも、「1913年発行の雑誌『婦人之友』に掲載された笹木幸子考案の「家庭用仕事着」であるとされる」(Wikipediaより)。そのあげくに、第2次大戦中は国防婦人会の制服にまでなってしまいます。

 もうかれこれ20年ぐらい前になりますが、屋久島での調査の帰りに、鹿児島で“鹿児島ラーメン発祥の店”ということで、“のぼる屋”に入ったら、全員割烹着をきたおばさんたちがやっていて、なかなか驚きだった記憶があります。今はどうなっているのかな?  麺はかん水をつかわないほとんどウドンのようなメンで、中国大陸の麺に近く、なかなか面白いものでした。

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 もう一つは“アッパッパ”です。アッパッパ等と言っても、皆さんにはまったく通用しないと思いますが、私が子供の頃は、まだ耳にした言葉です。家庭でも手軽に縫える簡易洋装というところで、夏用のワンピースでした。この名前は、歩くと裾がパッパと広がることから付いたという説があるそうです(Wikipediaより)。当時の写真が http://nakaco.sblo.jp/article/39640983.htmlのブログにいくつも出ています。

 こうした手軽な洋装も、やがては既製品にとってかわられていく。これが日本の近代化です。

 こんな風に歴史を振り返ってみると、今、タンザニアの女性がカンガだけをまとった姿から、上衣はシャツで下がカンガの巻きスカートに、そして、下もスカートをはきながら、その上にカンガを巻いていたりして、最終的に洋装になるのを見る時、ちょうど日本が明治からし昭和にかけて徐々に変化してきた様子を、駆け足でたどっているような印象をうけるのです。

 そしてそれは、日本の繊維産業やアパレルメーカー(とくにユニクロ!)、さらにはデザイン、あるいはアジアやアフリカで自ら服を創り出す現地の人たちへのミシンの輸出等々、皆さんが就活するかもしれない企業にとっても、ビジネスチャンスになるかもしれません、というところで、今回の話は一応終わりにいたしましょう。

“もの”や“ひと”をどう見るか?Part2:ガリバーの視線

2011 2/10 総合政策学部の皆さんへ

Part1に続いて、“もの”や“ひと”をどう見るか? 鉄蔵こと葛飾北斎とともに、皆さんも一緒に考えてみましょう。例えば、“虫の目”、“鳥の目”に近い形で、日常のものを眺めると、どんな世界が展開するか? 皆さんもよくご存じの物語があります。

そう! 17~18世紀のイギリスで、宗教界でも政治の世界でも今ひとつ出世の志を達成できず、故郷アイルランドに戻って、ダブリンの聖パトリック寺院の首席司祭という(彼の野望から見れば)しがない職につきながら、その挫折感をばねにして、晩年を風刺作家として活躍することになるジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』です。

あの第一編『リリパット国(小人国)渡航記』では、主人公ガリバーは巨人としていわば鳥のような目で人々や都のたたずまいを俯瞰します。それでは「自在に景色をみてえのよ」という鉄蔵こと、北斎先生になりかわって、ガリヴァー君の感想を聞いてみましょう(中野好夫訳、新潮文庫版)。リリパット人たちにがんじがらめにされていたガリヴァーが、縛を解かれて初めて立ち上がったところです。

  • 立ちあがって、吾輩はあたりを見廻してみたが、いや実際こんな面白い光景と言うものはなかった。周囲一帯の国土はまず広い庭園といったところ。垣で囲んだ高地は、たいていが40フィート四方くらいの大きさだが、まるで花壇を並べたようで、耕地の間には半スタングばかりの森林が混じっているが、一番高い樹で、見たところ7フィートはあったろうか。左手に市街が見えていたが、それはちょうど芝居の書割に出る町そっくりだった
  • おそらくは、気球の上の写真家ナダールも同じ感想を漏らしたはず。あるいは、フィレンツェの花の聖母マリア教会のドーム完成の日に、町を見下ろすブルネレスキの感想でもあったかもれません。
  • なお、フィートは長さの単位で30.3cm、スタングは面積の単位で4分の1エーカー(4 046.856㎡)の4分の1だから、およそ1000㎡です。

一方、第二編『ブロブディンナグ国(巨人国)渡航記』では、ガリバーはいわばペットのように扱われ、虫のような立場から、巨人たちの生活を眺めます。

  • (巨人国の)国王はまた音楽好きで、だから宮廷ではよく音楽会があった。吾輩もときどき連れて行かれて、箱ごとテーブルの上に載せてもらって聞いたが、なにしろたいへんな騒がしさで、曲もなにもわかったものではない。たとえば近衛隊の太鼓、喇叭いっさいを挙げて、一度に諸君の耳元で鳴らしたとする、それでもとうていかなわないだろうと思う。いつも吾輩は演奏者のいる場所からできるだけ離してもらった上、扉も窓も閉めて、カーテンまで下ろしてしまうと、まあなんとか聞けるようであった」

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それにしても、どうやってスウィフトはこうした情景を想像できたのでしょう? 感心する限りです。しかもなおかつ、この合間に、ガリヴァー君(もちろん、筆者のスウィフト)はさりげない記述で当時のイギリス王家や政界をからかい、つまらぬ争いを繰り広げる人間世界を風刺する。

こうして自らをスケールアップ/ダウンすることで、事物を相対的に見るスウィフトの得意技が全開します。例えば、イギリスの政治・経済を王様に説明した後で、王様はあれこれ問いただします。

  • かりに吾輩(ガリヴァー)の申し上げることが真実だとしても陛下にしてみればいやしくも、国家たるものが、まるで一私人のように、倒産してしまうなどということはどうしてもおわかりにならない。いったい誰が債権者になるのだ、また彼らに払う、そんな金が何処にあるのか、などと色々お尋ねである。
  • いや、それは非常に金のかかる大規模な戦争などといおうものもありますから、と申し上げると、たいへん不思議に思いになって、ではきっと其方らはよほど喧嘩好きの国民に相違ない、でなければよほど悪い隣人たちの間に生活しているにちがいない、してまた其方らの将軍は、きっと君主よりも裕福であるに相違ない、などと仰せになる。いったい貿易、談判などの要や、艦隊をもって海岸線を守ると言うのならとにかく、そのほかに、何を国外に用事があるのだ、というお尋ねだった。
  • なかんずく、ひどく驚きになったのは、平和の時、しかも自由市民の間においてさえ、傭兵の常備軍というものがありますと申し上げた時だった。陛下の言われるには、もしわれわれが代表者を選出して、つまりはわれわれ自身の同意によって治められているとすれば、いったい誰れが怖いのか、またいったい誰を相手に戦争するつもりなのか、想像もできない
  • このあたり、現代のわれわれでも、ブッシュ前大統領あたりにお聞きしたいところではないでしょうか? なお、文中に「彼らに払う、そんな金が何処にあるのか」という部分は、当時、国債がオランダあたりで採用され始めており、「常備軍」と同様に、イギリスの政治問題化していたことを反映しているとのことです(このあたりは、現在の政府も頭が痛いところですね)。

さて、ここまで書けば、皆さんはさらに思いつくかも知れませんね。2010年度、スタジオ・ジブリ製作アニメ映画『借り暮らしのアリエッティ』の原作、メアリー・ノートンの『床下のこびとたち』とその続編『野に出たこびとたち』。こびとの目から見た人間の世界。私は原作を小学校か中学校の頃に読んだっきりですが、あまりにその時の印象が強いので、映画を観に行く気になかなかならず、ジブリの方は未見です。

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一方、「第3編ラピュータ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリッブおよび日本への渡航記」では、どんな視点か? それは、虫でも鳥でもなく、“異邦人”あるいは“まれびと”の目と言えましょう。“ふつー”のヨーロッパ人という装いで、彼は様々な国を渡り歩きます。その中には、日本も入っています。

ヨーロッパへの帰国の途次にザモスキ(横須賀の観音崎)に上陸、江戸では踏み絵だけは避けてもらって、ナンガサキ(長崎)から出国することになっていたはずです。長崎到着は1709年6月9日とのことです。すると、ガリヴァーがエドであったという皇帝は、第6代徳川家宣公になるのでしょうか)。

ちなみに“ラピュータ”は空飛ぶ小島ですが、言うまでもなく、スタジオ・ジブリの“天空の城ラピュタ”はここからインスパイアされたものでしょうね。巨大な天然磁石によって、バルニバービ国の領空を自在に移動、時には反抗する国民を“圧殺”することだってありうる。その空飛ぶ島には、多くの“科学者”が住んでいるのですが、みんなおかしな連中です。

役に立たないトンデモ科学にひたすら凝るだけで(ex.キュウリから光をとりだす)、何の役にも立ちはしない(私たちもみんな反省しなければ)。スウィフトの筆にかかけば、 (万有引力も含めて)古典力学、光の粒子説、そして微積分法の始祖アイザック・ニュートンもトンデモ学者の一員です。

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スウィフトはさらに第4編「フウイヌム国渡航記」ではさらに凝りに凝って、ヒトと動物(主にウマ、ことフウイヌム)の相対化に手をつけます。ここでは、ヤフーという「邪悪で汚らしい毛深い生物」が出てきますが、どうやらこれは人間がいわば“退化”して、欲望と邪悪さにだけ純化された姿のようです。

このヤフーに対比されるのが、馬の形をしながら、高貴で知的な動物フウイヌムです。ここでも、小人国、巨人国と同様に、ガリヴァーとフウィヌムの対話を通してヨーロッパ社会のカリカチュア像が展開します。

  • 主人(もちろんフウイヌム)は、いったい国と国が干戈を交えるというのは、たいていどういう原因動機によるのだと訊く。吾輩は答えた。それは無数にある。だが主なものだけを二三言ってみると、まず君主の野心である。彼らはけっして自分の領土、人民が、これで十分だということ知らないのだ。
  • 次には内閣の腐敗である。彼らは自身の失政に対する人民の不平を抑圧したり、ごまかすために君主を戦争に駆り立てるのである。(中略)それもかんじんの対立問題がどうでもよいような戦争であればあるほど、狂暴凄惨をきわめ、かつ期間もいつ果つべしとは見えないのである」

とこのあたりで十分に長くなったようなので、今回はこのあたりにいたします。

総政をめぐるトピックスPart3:内地雑居の顛末、外国人による土地取得をめぐって

2011 2/8 総合政策学部の皆さんへ

 近年、マスコミを賑わす話題の一つに「外国人や外国法人による土地取得の規制」があります。例えば、2011年1月20日の新聞には、時事通信の記事が配信されています。

民主党は20日、外国人や外国法人による土地取得の規制に向けて、プロジェクトチーム(一川保夫座長)の初会合を開いた。国内の森林や自衛隊基地周辺などを外国資本が購入している実態を踏まえ、水資源確保や安全保障の観点から、森林法外国人土地法の改正などによる制限を目指す

  なかなか難しそうですが、いかにも“政策”的話題ではないでしょうか? もちろん、学生の皆さんの中には日本人(=日本国籍を有している方)や留学生の方等様々で、この話題についてもそれぞれ立ち位置が異なるでしょう。

  さて、今回はそうした議論の是非ではなく、明治初期の日本政府と外国との交渉ごとを紹介、過去を振り返ってみたいと思います。

 当時、日本人はこの問題に非常に神経質だったのに、今はそんなことがらを結構忘れているようです。ここは孔子様の言葉にならって温故知新(ふるきをたずねて、新しきを知る)としましょう。

 というのも、1899年(明治32年)に実施された“内地雑居(あるいは内地解放)”まで、いわゆる外国人は(建前上)日本国内において自由に居住・旅行・営業ができなかったのです。そして、この制度の撤廃をめぐって、それぞれのステータスホルダーは長年にわたって激論を続けます。 その議論の過程をまとめた資料は、実は、KSCの図書館にもちゃんとあります。

 それは 『内地雑居論資料集成1~6巻 』  稲生典太郎編、原書房 (明治百年史叢書 ; 第404巻-第409巻)ですが、スごい分厚い本で、かつ当時の旧かな遣いの文章をそのまま復刻。しかし、たまにはこうした大著をひも解いて、卒業論文等に挑戦されるのも良いのではないでしょうか。

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 それでは、ちょっと調べてみると、例えば、6巻の後半、佐藤宏の『新条約実施論及其善後策』には、54ページに「外国人の土地所有は由来我邦の国禁たり」として、「外国人には明文を以て土地の所有と土地の抵当とを禁じ、明治6年さらに達を以て土地の質入れをも併せ禁じたり」と確認します。

 そして、「地所は勿論地券たりとも、外国人へ売買、質入、書入等致し、金子受取又は借入候儀、一切不相成候事[明治6年1月17日第18号達第11状」)」という当時の“達(たっし)”を引用しています。これが、外国人の(居留地以外での)土地取得の禁止項目です。

 さて、それでは、幕末、外国人があらわれた時、「彼らが日本の土地を所有できるか?」 それまでオランダ人を“出島”にいわば軟禁状態のように置いていた江戸幕府は当然、悩みます。

 ここで参考資料とあげるのは、文久元年12月にヨーロッパに赴いた江戸幕府派遣の遣欧使節に加わった(後の慶応義塾大学創始者)福沢諭吉先生が書く『福翁自伝』の一節です。

 オランダ滞在中に奇談がある。あるとき使節がアムストルダムに行って地方の紳士紳商に面会、四方山の話のついでに、使節の間に「このアムストルダム府の土地は売買勝手なるか」と言うに、彼の人答えて「もとより自由自在」「外国人へも売るか」「値段次第、誰にでも、また何ほどにても」「さればここに外国人が大資本を投じて広く土地を買い占め、これに城郭砲台でも築くことがあったら、それでも勝手次第か」と言うに、彼の人も妙な顔をして「ソンナことはこれまで考えたことはない、いかに英仏その他の国々に金満家が多いとて、他国の地面を買って城を築くような馬鹿げた商人はありますまい」と答えて、双方共に要領を得ぬ様子で、私どもはこれを見て実に可笑しかったが、当時日本の外交戦略はおよそこの辺から割り出したものであるからたまらないわけさ。

  と、福沢は当時の新進気鋭のインテリゲンチャらしく、当時の幕府高官を諷しています。

 しかし、私が思うには、このアムストルダム府の紳士紳商の言葉を、1624年にオランダ人にニューヨークのマンハッタン島を、60ギルダー分の交易品で(当時の金で「ビールの大ジョッキを2400個買うことができるくらいの金額」Wikipediaより)売り渡したというインディアンが聞けば、怒髪天をつく思いでしょう。 

 もちろん、“暗い血ぬられた土地=ケンタッキー”のインディアンたちも同じ心地になるのではないでしょうか? (「総政100本の映画Part13振り返り編:『ゴッドファーザー』そして『ワイルド・バンチ』:暴力装置を通して見るアメリカ合衆国のなりたちについて#4、あるいは“暗い血ぬられた土地のフライドチキン”(2011/01/20投稿)」を参照)

 つまり、うっかり土地を売ってしまったら、あとはそこを手がかり(拠点)にして侵略が始まりかねないことが、いわば常識だった時代はそれほど遠い過去ではありません。ハワイにおいても、1795年にかのカメハメハ大王が建国したハワイ王国が、アメリカからの入植者の増加で主客転倒、1887年にアメリカ人によるクーデターが起こり、1893年に王国転覆、1898年にアメリカ合衆国に編入されてしまいます。

 とすれば、その後のインテリたちから受けた冷笑とは裏腹に、幕府の高官はそれなりに真実を問いただそうとしたとも言えるのかもしれません。

 なお、マンハッタン島の顛末ですが、Wikipediaには続けて「ただしオランダ人入植者に「マンハッタンを売った」という部族は、レナペ族ではなく、実はマンハッタン島を縄張りにしておらず、レナペ族とオランダ人の抗争の漁夫の利を狙って騙したのだった。また、そもそもインディアンには「土地を金で売る」という文化は無かったので、この取引自体理解していたかどうか疑わしい。実際、島を買い取ったと思い込んだオランダ人とレナペ族とは長く抗争が続いた」と記されています。ニューヨークに行く方は、たまにはこうした歴史もおもいだしましょう。それこそ、温故知新です。

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 さて、幕末の江戸幕府の外交官たちは、(ペリーハリスパークスをはじめとする欧米人、あるいは福澤らの“改革派”から見れば)「嘘つき」で「ぶらかしや」で、かつ「無能だった」というのが通り相場として印象づけられてきました。明治新政府下の新知識=インテリ層もそうした見方を“常識化”しました。

 しかし、「彼らはたまたま身を置かざるを得なかった未曾有の事態に対して、それなりに頑張った」というのが、最近の再評価(リヴィジョニズム)のようです(例えば、井上勝生「幕末期、欧米に対し、日本の自立はどのように守られたか」岩波新書編集部編『日本の近現代をどう見るか』岩波新書)。

 とくに、欧米から“半未開”と見られていた日本で、“外国人の旅行権”に最大限の抵抗をしたことが(つまりは、内地雑居を認めないことですが)、巨大な外国資本の無制限な流入を阻止し、“開港場”での取引を通じて、日本の在来資本家たちの教育と成長の場を与えたことが特記されるというのです。

 そのあたりはとりあえずおいておくとして、結果的に、日本各地に“外国人居留地”が誕生します。その一つが神戸外国人居留地です。

 この土地は永代借地=無期限の借地=事実上の所有という形で、治外法権の一部にみなされます。もちろん、日本の警察権・裁判権は及びません。

  •  神戸外国人居留地の外国人人口は1890年の2039人が最高、そのうち1432人が清国籍です。次がイギリス籍の310人。
  •  ただし、居留地が手狭になったことなので、それ以外の雑居地も実は認められ、それが異人館に結びつきます。
  •  一方、清国籍の中国人の方々は、明治初期、日本と条約を結んでいなかったため、当初居留地に住めず、ひとまず居留地西側の雑居地にすみつきます。そここそ、「市の人類学番外編:異文化交流の場としてのマーケット(2011/02/6投稿)」で紹介した南京町なのです。
  •  

 さて、明治も時代がすすむと、開港場等を通して流れ込む外国からの影響は、日本経済を成長させ、日本を世界システムに組み込みんでいきます。そして、資本主義をこれ以上発展させるためには、欧米との不平等条約の撤廃をめざさなければならない。その改正作業を進展させる過程で、「相互に最恵国を認めることになれば、外国人に対して居住・旅行・外出の制限を解除する必要がある」(Wikipediaより)と明治政府は自覚せねばなりません。

 この結果、上記アムストルダム府の紳士紳商の言葉通り、双方自由自在、外国人に旅行、居住、土地所有の自由を与える=内地雑居にむけて事態が進み始めることにつながります。とすれば、複雑なステークホルダーたちの間で議論が紛糾するのも無理がないところ。例えば、Wikipeidaの解説では以下のように記述されています。勉強になりますね。

内地雑居を認めれば外国資本による侵略が進み、日本の伝統的な文化や生活が破壊されるという立場から反対運動が盛んになった。1892年には内地雑居講究会が結成され、翌年に同会を中心に結成された大日本協会とともに「内地雑居反対」あるいは最低でも関税自主権の回復を含めた全面的条約改正後にすべきであると唱えて、帝国議会でも激しい論議が行われた。

また、外国人の間でもお雇い外国人や宣教師領事裁判権の放棄を容認しても内地雑居を獲得すべきであると唱え、商人達は日本は未だ非文明国であるのだから領事裁判権を維持するのは当然であり、外圧によって内地雑居を日本側に認めさせるべきとの強硬論も出た。これに対して政府は家屋の所有権は認めるが土地については賃貸権(実は永代借地権も含む)に限定するという案を提示して彼らを宥めようとした。

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  また、『中央公論社版 日本の歴史22 大日本帝国の試練』(隅谷三喜男)では、「内地雑居」の章をたてて、この間の議論を詳しく触れます。それでは、当時の日本で、誰が内地雑居に危機感をもったのでしょう。

 例えば、低賃金労働者でした。彼らは「清国人労働者が大挙流入はしないかという心配であった。それは港湾荷役労働者の問題を中心として、清国人が多数居住していた神戸で燃え上がった」そうです。現在のEUで、外国人労働者を排斥しようとする風潮に相通じるところがありますね。

 当時、清国労働者非雑居規制同盟なる団体が組織され、「きびしい規制でしばられているアメリカにさえ、清国労働者は陸続として侵入している。ところが、わずかに5、6円を出せば迅速安全に渡航することのできるわが国には、かれらのような低廉な労働者を望む事業がもとより少なくない」と訴えたといいます。こうした労働者側の危機感をジャーナリストとして素早くキャッチしたのが、名著『日本之下層社会』で名高い横山源之助です。

 横山は天涯茫々生という筆名で『内地雑居後之日本』を出版します(KSC図書館では、上記の『内地雑居論資料集成6巻 』の冒頭に収められています)。彼は外国資本の流入によって労働者の権利が低下することを憂い、次のように悲憤慷慨します。

 次に労働者の待遇なり、職工諸君は或いは知らざるもあらん、暫く余が言ふ所を聴け、欧米人は利害の観念極めて強く、権利の思想極めて高し、むしろ彼等欧米人は営利に凝り固まりたる拝金奴なり、ゆえに彼等は我が資本家の如くアマッチョロイ者にあらずして、事業の前には人情なく、涙なく、欲しいままに其の位置を利用して巨額の利を貪る、其の上に彼等は異人種なるとを忘るべからず、(中略)勘定高く、権利をこの上なく武器とせる欧米人が、異人種たる我が労働者を使役するに於いては、何の人情あるべき、涙あるべき・・・

 まったくの名調子、大したものですが、発行は明治32年5月3日(1899年)。この4年後にはあのフォーディズムの開祖、ヘンリー・フォードフォード・モーターズを設立、労働者にそれなりの給料を払い、かつ自動車の定価を下げることで、労働者が自分の製作物である自動車を所有する道を開く、まさに近代的雇用関係の黎明期の発言と思ってください。

 こうして、様々な議論、思惑を超え、『内地雑居後之日本』出版の同年、不平等条約の撤廃=日英通商航海条約の実施にともない、内地雑居が実現します。その結果は、隅谷は『大日本帝国の試練』で「憂慮したような外国資本の進出も、キリスト教の浸透も、清国労働者の侵入も、取り立てて言うほどのものではなかった」としています。

 ちなみに外国人の側でも、内地雑居が実現すると、それに関連する自体の変化で、困惑せざるを得ない方もでてきます。例えば、それまで治外法権下の居留地において発行してきた風刺雑誌類(『トバエ』等)が、条約改正によって日本の法律下にはいり、禁書になることを予測したフランス出身の風刺画家ジョルジ・ビゴーは、1899年6月、条約改正1ヶ月前に日本人妻と別れ、フランス国籍の長男だけをともなって、フランスに帰国を余儀なくされます。

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 さて、例によって世の流れの機微に敏感な勝海舟は、論争のさなかの明治31年1月29日、「日本の政治はもはや対外的なことを考えないとやってはいけないよ」と、からかうように、諭すように切り出します。「グローバリズムは避けようがない、お前さん方(=明治新政府)はそれをどう思っているのかね?」というところです。

 「ダガ、今日ではネ、外国人といふものがあるから、ソンナ、をかしな芝居はやれないよ。その代わり、実権が何処にゆくといふと、即ち西洋人の所へゆくのだよ。ワシのこの邸が、外国人なら、15万円に買ふと言うのよ。ワシはそれを待っているのだ。早く内地雑居になればこれを売る。スルト長屋のもの等も、「勝サンの時には大根5本しか買わなかったが、西洋人が来てから20本買ふ」と言って、喜ぶよ。この近所が潤ふよ。

 スルト、ワシが怒って「外国人にへつらふ売国の奴だ」と言って、憤慨すると、みんながそう言ふよ、「勝サンは、どうも少し気が違ったやうだ」ツテネ。(中略)実に、気のきかないことだ。アレは、畢竟ヤキモチといふものだ、と今では思って居るよ。ダッテ、お前、しかたがないぢゃないか。どうせ、実権が外国人にうつってしまふのだもの」(江藤淳・松浦玲編『海舟語録』講談社学術文庫版)。

 勝の一人漫才風政談もここにきわまった観があります。 

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 それでは、現代世界では地球のどこでも自由に外国の土地を買えるのか? そうでもありません。例えば、中国では土地の私有制度がないので、購入できるのは土地そのものでなく、その使用権です(http://www.kaigaifudousan.jp/chfudousan/qa/tothi/)。例えば、工場を建てたいという場合、国家や土地を所有している集団から、「期限付きの土地使用権」を購入し、かつそれは用途付き(=工場を建てる)ということになるそうです(http://www.smbc-consulting.co.jp/company/solution/oversea/oversea_224.html)。

 とすれば、これから中国がどんな土地制度に変化していくか(「アムストルダム府の土地の売買は自由自在」になるか?)、それとも現在の制度で市場経済を発展させるには何らかの工夫がいるのか、そのあたりは十分総合政策としての研究対象になるでしょう。留学生の方も、是非日本でそのあたりを研究されると、役にたつのではないでしょうか。

市の人類学番外編:異文化交流の場としてのマーケット

2011 2/6 総合政策学部の皆さんへ

 2月5日の土曜日に上ケ原で用事があったのですが、それが早めに終わったので、阪急で久しぶりに南京町まで出かけてところ、時ならぬ大賑わいです。土曜日のせいかとも思ったのですが、いつもの土日とは少し雰囲気も違う。実はこの3日から6日まで、春節祭だったのですね。

  南京町の春節祭HPは http://www.nankinmachi.or.jp/shunsetsu/spring2011/index.htmlですが、旧暦で節句を祝う中国では旧暦のお正月を「春節」として盛大に祝います。この時期の中国は爆竹が鳴り響き、祝い事には欠かせない龍や獅子が舞い踊り、大いに賑わいます」とあります。なお、年によって、1月の終わりから2月の中旬まで、変動するようです。これは中国の旧暦、すなわち太陰太陽暦に基づくからだそうです。

 実際の季節のずれを、閏月の挿入によって補正するのですね。イスラーム暦(ヒジュラ暦)も太陰暦ですが、太陽暦のグレゴリオ暦とは差が生じるため、毎年の断食月(ラマダーン)がだんだんずれていくのを思い出します(3年間、アフリカのイスラーム社会で暮らしましたから)。残念ながら、今日の6日で春節祭はおしまいですが、9月頃には中秋祭というのもあるようです。

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 しかし、良いですね。移民の人達が、移住先で故国の習慣でお祭りして、そのお祭りで異文化の交流が始まる。似たようなイベントで世界でもっとも有名なものの一つには、イギリスはロンドン西部のノッティングヒルで、トリニダード・トバコ出身者によって行われる“ノッティング・ヒル・カーニバル”があげられます。

  英語版Wikipediaは“The Notting Hill Carnival is an annual event which since 1964 has taken place on the streets of Notting Hill, Royal Borough of Kensington and Chelsea , London, UK each August, over two days (the August bank holiday Monday and the day beforehand). It is led by members of the British African-Caribbean community, particularly the Trinidadian and Tobagonian British population or ‘Trinis’, many of whom have lived in the area since the 1950s. The carnival has attracted up to 2 million people in the past, making it the second largest street festival in the world after the Trinidad and Tobago Carnival held in that country”と報じています。

 1983年、初めてロンドンに行った時(といっても、2回しか行ったことはありませんが)、ロンドンの街はアフロ系、アジア系いりまじっていて、まことに国際都市なのだという印象だったのを思い出します。なお、ユーチューブに2010年のカーニバルがのっています(http://www.youtube.com/watch?v=eAHWe381-hU&feature=fvw)。

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 さて、南京町に話を戻すと、やはりお祭りですから、普段とは、雰囲気も、店の様子も違います。いつも立ち寄る廣記商行(http://www.koukishoko.co.jp/main.html)は、店頭で焼きそばのファストフードを営業しているので、すごい人だかり、店の中に入るのが一苦労でした。

 この店は地階が中華料理や東南アジアの材料がぎっしり並んでいるのですが、とりあえず蝦子麺(蝦の卵が練り込んである麺という触れ込みですが、邸永漢の『食は広州に在り』(書籍番号#46)によれば、実は蟹の卵である由。とりあえず、味が良ければ、蝦であろうと蟹であろうと、こちらに文句はありません)と、タイの麺類クィティアオ(ライスヌードルの幅広型)を買い込みましたが、レジがまた何時になく混んでいて、支払いに待たされてしまいました。

 その次に、こちらも店頭でやっているファストフードをぱくついている方々を押しのけるように、林商店に入ります。こちらも店は小さいながら、種類がいっぱい。インドネシアの調味料と四川料理火鍋のペーストを買い込みました。私が買っている隣では明らかに東南アジア系の方々が、中国系の店主と日本語で会話を交わしている。このあたりから、日本語のクレオール化リンガ・フランカ化も始まるかもしれません(という話は、すでに「スワヒリ語をベースにピジン、クレオールを考える;言語政策についてPart2;国際援助の現場から#7(2010/02/23 でも触れていますが)。

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 それにしても、南京町もファスト・フード化がますます隆盛をきわめていました。食堂の店頭に露店を出して、各種の麺類・点心類等を商う。たしか、最初は、20年前くらいに、廣記商行の斜め向かいの食堂、青龍あたりが始めたのではないかと思うのですが、一杯200円でポリスチレン製の小丼で一口ラーメンを売り出し、それが水餃子になり、大根餅があらわれ、ビーフン専門店があらわれ、刀削麺屋ができて・・・・と今や、点心・麺類全盛期です。是非、皆さんも(あまり混まない時期に)お出かけ下さい。

 なお、 南京町での私のお薦めは、廣記商行製の鳥ガラスープの素、蝦子麺、エビ煎餅、タイ製ではセンレック(ライスヌードル)、トム・ヤム・クンペースト、魚醤のナンプラー(ラドル先生のご専門ですね)。ファスト・フードではなんといっても油条(揚げパンとして売っていますが、千切ってお粥にいれると絶品です)等でしょうか。

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 さて、異文化が出会うマーケット、もう一つお薦めは、なんといっても上野アメ横のアメ横センタービルの地下の食品店街です。 そのセンタービルの公式サイトはhttp://www.ameyoko478.com/ですが、とくに地階の店々は売る人も買う人も、日本人はあまり目立たず、様々な人々がいきかう、アジア的世界です(福澤諭吉先生等が“脱したかった”アジアかもしれませんが)。

 この場所は、たまたま、まったく偶然見つけました。上野のアメ横は皆さん、ご存じですね? 上野駅から南に延びる高架下を中心に、戦後発達したといわゆる闇市場からたくましくも生き残った巨大商店街。一説には、アメリカ軍の払い下げ物資を売りさばいたためとも、戦後の貧しい時代、飴をうっていたために「アメや横町」と呼ばれるようになったともいわれている場所です。NHKでは、年末に限り、人々が安い食材に殺到してるところをTVで放映するのが、年の背の年中行事になっているあそこです。ある年、そのアメ横を歩いていると、階段の入り口のあたりから、なんだか嗅いだ事があるような匂いがかすかに漂ってきて、そのまま引き込まれるように下に降りた、そんな感じです。

 私が知っている限り、ここはエスニック材料がもっとも揃っているところかと思うのですが、例えば、イスラーム教徒用のハラールの冷凍カモ肉がどういうわけかブラジル原産であったり(ただし、中国産の冷凍カモに比べて、味はもう一つでした)、ニュージーランドのラム肉の塊が超安値だったり、タイ産の小形トウガラシ(かわりにとんでもなく辛い)の冷凍が一パックたった300円だったり、日本人はまず食べない雷魚が置いてあったりします。

 また、上海蟹が十文字に糸に縛られて並んでいたり(心なしか、だんだん小形になっていくような気がするのですが。乱獲ではないでしょうね)、フィリッピン産の塩干物の魚等が無造作においてあったり、バナナの花(食べるためです)が置いてある八百屋もあり、エスニック料理の材料の百花繚乱、東京で何か時間が空いた時は、是非、お出かけ下さい。Wikiepdiaでも「中国やエスニックの食材が売られており、多くの中国人、インド人などが買い物に訪れるため、店員も中国人が多く、中国語が飛び交っている」と書かれています。

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 このあたりで充分長くなってしまったので、to be continued・・・・とします。

ウサギ、か弱く“kawaii”者か? それとも危険な存在か?:生き物を紹介しましょうPart6

2011 2/6 総合政策学部の皆さんへ

 今年の干支は、ウサギ(卯)年です(なお、ベトナムでは猫年とのこと)。皆さんは、ウサギと聞くとどんなことをイメージしますか? 実は、ウサギは文化人類学的にはなかなか楽しい話題です。

 というのも、ウサギに対するイメージは、身体も小さくて肉食獣に食べられるだけの“かわいそうな/かわいい”生き物から、“危険な魅力”を発しながら他者を誘惑、騙し、虚仮にする(近代市民社会からすれば)危険な存在まで、実に様々だからです。これが今回のテーマです

 なお、ウサギはKSCの片隅をうろうろして、皆さんの目にとまるかもしれない数少ない野生哺乳類でもあります。昨年もリサフェ第1日目の早朝に、3号館の前の植え込みで1匹見ました。れっきとしたニホンノウサギです。ところで、皆さんがふつうに見るウサギは、ウサギ科に属する50種のうちヨーロッパに生息するアナウサギを家畜化したカイウサギです。日本に江戸時代に伝わったということですが、「白くて眼が赤い」というイメージは、カイウサギの中でさらに色素を作る能力を失ったアルビノ個体を固定化した品種に由来します。  

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 まず、生態学的にはウサギはまぎれもなく肉食獣猛禽類、さらには人間のハンター等に絶えず狙われる“か弱い”動物です。その上、つぶらなヒトミでニンジン等をモクモク食べている様は“kawaii”の極地かもしれません。そうしたイメージの典型は、オランダのデザイナー、ディック・ブルーナが描く“ミッフィー”でしょう。

 ちなみに、ミッフィーは英語圏での名前で、オランダ語の原題は“ナインチェス・プラウス(Nijntje Pluis)”、さらには日本語圏では“うさこちゃん”と呼ばれることもあります。 

 こうしたイメージの路線は、ウサギの品種改良にも影響して、いわゆる幼児図式(動物行動学で、親等からの保護を引き出すため、幼児/幼体がもつ特有の視覚刺激=丸みのある体型、大きな頭と眼、張出た額、やわらかな体表等)にふさわしい形態に改良されてペット(コンパニオン・アニマル)化した一群の品種群、“ドワーフ種”を作りだします。

 その典型例がネザーランドドワーフホーランド ロップ等です(なお、アメリカのウサギのブリーダーの集まりARBAことAmerican Rabbit Breeders AssociationのURLはhttp://www.arba.net/index.htm)。

 例えば、もう一人の高名なウサギ、ビアトリクス・ポッターが描く“ピーター・ラビット”のモデルは、ネザーランドドワーフだそうですから、その画像は完全な野生種ではありません(幼児図式化された図像を人々は好むことを示します)。

 このピーターは当然、“かわいいウサギ”の範疇に入ります。しかし、お母さんの言いつけをまもらず、マグレガーさんの野菜畑を荒らす等、トム・ソーヤー的にやややんちゃではありますね。そして、ピーターのお父さんは人間につかまってミートパイにされてしまった、といういかにもイギリス風な背景もひかえています。 

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  その一方で、ウサギは食べられっぱなしでは絶滅してしまいます。それをまぬがれる方法はただ一つ、ひたすら繁殖することです。つまり、哺乳類としては究極のr戦略者なのです(多産多死=繁殖にすべてをかける刹那主義者です。“自然環境論”を履修した人は思いだして下さい)。

 このため、ウサギは特定の繫殖季がなく、周年交尾・妊娠・出産をします。その上、ヒトも含めて他の哺乳類と異なり、ウサギのメスは交尾の刺激で排卵するというきわめて変わった“性”を持っています(つまり、非常に効率的な性なのです)。こうしたウサギの性質は、“多産”“豊饒”のシンボルともみなされ、そのため、キリストの復活を祝う復活祭(イースター)には、イースター・バーニーとして登場します。

 Wikipediaによれば「英語圏やドイツでは、ウサギをかたどったチョコレートやパンが作られる。ウサギは多産なので生命の象徴であり、また跳ね回る様子が生命の躍動を表しているといわれる」とのこと。

 その一方で、“多産”“豊饒”は、“性的放縦”も連想させます。こうして、欧米圏ではウサギは古くから性的誘惑のシンボルとなります。“危険な女=ファム・ファタール”です。

 皆さんもうお気づきですね、そちらの方の象徴こそ、アメリカの成人男性向け娯楽雑誌“PLAYBOY”誌とその連動企画高級クラブ“プレイボーイ”のウェイトレス、ウサギをモチーフにしたコスチュームをまとった“バニーガール”です。いまや、コスプレ衣装として定番化している観があります。

PLAYBOY誌の創業者ヒュー・ヘフナーは「ウサギには“快活で、遊び心や茶目っ気がある”というイメージから、「ユーモラスであり、セクシーさの象徴」としてウサギをマスコットに選んだ」と伝えられています(Wikipediaより)。その象徴としてのロゴが、蝶ネクタイをつけたウサギの横顔である「ラビットヘッド」です。 

 そしてもう一つのウサギに付与されたイメージがトリックスターです。どちらにしても、野生の(生物学の対象としての)ウサギとはかけ離れているのですけれど。 

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 それでは、トリックスターとは何でしょう? またもWikipediaを引用すると「トリックスター (trickster) とは、神話物語の中で、や自然界の秩序を破り、物語を引っかき回すいたずら好きとして描かれる人物のこと。ポール・ラディンがインディアン民話の研究から命名した類型であり、のちカール・グスタフ・ユングの『元型論』で「トリックスター元型」として人間の超個人的性格類型として取り上げられたことでも知られる」とあります。

  あのカルト的に人気を誇る分析心理学者ユング派の始祖であるユングの“アーキタイプ”の一つなのですね。トリックスターの具体例をあげましょう。西遊記孫悟空古事記須佐乃袁尊(スサノオノミコト)、ギリシャ神話ヘルメスローマ神話マーキュリー)、あるいはディオニソス(同じくバッカス)等々、既存の秩序に収まらない人達。

 何しろ、ヘルメス(マーキュリー)は商人と泥棒の神様ですから、古代文明を支えた農耕民からすればいかがわしい/信用できない人達なのですが、社会にとっては必要(必要悪?=たぶん、儒教的精神からは)ということになるわけです。

 こうして、トリックスターは硬直した定住民たちの生活に“悪戯”や“悪さ”で話題を提供し、時には社会にイノベーションをもたらし、社会に活気を与える必須のアイテムとして、各文明にそれぞれ顔をのぞかせます。ヨーロッパの伝統文学の主人公の一人“ティル・オイレンシュピーゲル”などはその筆頭でしょう。

 さて、アフリカの伝統社会は無文字文化だったので、口承文化、つまりは“昔話”が連綿と語り継がれることになりますが、それらのストーリーの中にはトリックスターがしばしば登場します。そして、通文化的にその役をになうことが多い動物として、ウサギが登場します。

 このあたりは、アフリカにおける文化人類学的研究の草分け山口昌男の『西アフリカの神話的世界』等につまびらかにされています。以下は、スーダン付近の民話に登場する野兎です。

  •  野兎は森に行って狩りをしてきた。伯父が、どうやってそんな大きい獲物を手に入れたかと聞いた。野兎は「野獣を射るのは簡単だが、もって返るのが大へんだ。途中にヌアーの男が現れてお前さんの背中をたたく。いくらたたかれても、じっとこらえなければ、彼らは呪術に訴えてお前を殺してしまう。我慢が肝心と」教えこんだ。
  •  果たして獲物を担いで帰ってくると、“ヌアー”が背後から現れて背中をたたき出した。家に帰ったとき伯父は半死半生の状態だった。ところが、実は伯父の後ろから随伴してきたのは“ヌアー”ではなくて野兎だったのである。(同書、3ページ、岩波新書版)
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 それでは、日本の神話や民話に登場するトリックスターは? こちらもお気づきですね。ご存じ、『古事記』の「因幡のシロウサギ」において、ちょっと“お間抜けのトリックスター”としてワニを騙そうとして、ついつい最後の瞬間に嘘であることを放言してしまい、皮をひんむかれるあのウサギです(そして、大国主神のご登場、となるわけですが)。

 なお、この“ワニ”とはサメを指すとも言われています。国文学者の喜田貞吉がウサギの出発地かもしれない隠岐に旅行中、サメの刺身を「ワニの刺身です」と出されたことにヒントを得て、ワニ=ワニザメ説を唱えた話は有名です。 

 そうしてもう一人、かわいいけれども、やや残忍かもしれない勧善懲悪のヒーロー、「かちかち山」で婆さんの仇としてタヌキを殺すウサギも忘れてはなりません。とくに、戦後文壇の無頼派作家太宰治の傑作『お伽草紙』では“かちかち山”を巧みに奪胎換骨、タヌキを37歳(=執筆時の太宰の実年齢)の醜男ダヌキに、ウサギをその醜男ダヌキが惚れてしまう16歳の美少女に設定してしまいます(作者のジェンダー観を彷彿とさせると言うべきでしょうが)。

 この小説の最後に、タヌキは「ぽかん、ぽかん」と「無慈悲の櫂」の痛打を浴びて沈んでいくのですが、Wikipediaでは「少女の純粋さゆえの悪意と恋する男の惨めさを描いた作品」と評されています。皆さん、ぜひ、太宰版『お伽草子』を一読を。

 この『お伽草子』ではほかに、結末を「性格の非喜劇と言うものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れています」と結ぶ「瘤取り」もお薦めです。

  一方、『不思議の国のアリス』で登場の白ウサギはややドタバタ気味で、トリックスターというよりはただの“あわて者”という気配もあります。 

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 それでは、ウサギがあんまりだという方には、最後に、仏教における至高の行為=飢えた老人(実は、帝釈天)に「我が身を食べて下さい」と火に自らを投じるという仏教説話『ササジャータカ:sasajātaka(感心した帝釈天により、ウサギは月まで運ばれ、そこで暮らすことになります)』をご紹介して、いったん幕にしましょう。

ファッションの人類学Part4:制服とそれにまつわるいくつかの話題

2011 2/4 総合政策学部の皆さんへ

 ファッションの人類学、軍服について紹介したPart3に続いて、“制服”一般の話に移りたいと思います。すでにPart3等で何度も紹介したように、国家や経済の近代化にともない、制服の採用は人々のファッションにも関係していきます。つまり、職業→制服→(コスプレも含めて)他の領域に、という具合に影響が広がります。

 ところで、制服の典型は近代的軍隊です。兵士たちは軍服をまとったとたん、個としての性格(個性)を失い、集団の中の一単位(=統計の対象)に過ぎなくなります。岩明均作のコミック『ヒストリエ』で、古代マケドニアの絶対君主ピリッポス2世が息子のアレクサンドロス(後の大王)に言い聞かせる言葉、「個々ではなく、全体で一つの生き物となる。それが理想だ」。

 このマケドニア軍最精鋭ファランクスの理想像が具現化した近代軍の誕生は、否応なく一定の制服・軍靴・装備等を整える必要に直面し、軍需産業の勃興を巻き起こします。ということで、明治初期、何もなかった日本では、すべてに国営工場をたてねばなりませんでした。

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 Webを探すと、「旧広島陸軍被服支廠」についてのサイトには、こう書いてあります。

広島陸軍被服支廠は、日露戦争たけなわの明治38年4月に陸軍被服廠広島出張所として開設され、同40年11月に支廠に昇格した。(中略)陸軍被服廠は明治19年3月11日に陸軍被服廠条例が制定され、陸軍で使用される被服などの調弁、分配及び戦用予備被服の貯蔵を掌る独立の機関として設置され」「特に軍服と軍靴については、布や皮革の電動ミシンや裁断機、踵革打貫機など最新式の機種を導入して大量生産を行っていた

取り扱っていた品目は軍服や軍靴だけでなくマント、下着類、帽子、手袋、靴下等身に着ける物の外、背嚢、飯盒、水筒、ふとん、毛布、石鹸、鋏、小刀、軍人手帳等こまごました雑貨まで含まれていた。大正、昭和時代に入り、戦線が拡大し、武器や戦備の多様化に対応して、防寒服、防暑服、航空隊用・落下傘部隊用・挺身隊用被服あるいは防毒用被服なども取り扱うようになった」。

 どうやら、軍人のための民生用品の総合取り扱いをしていたようです。大学生協へ商品を一手に製造・卸売するようなものですね。とくに、明治の日本では、民生品等なかったので(どこにも軍靴は売っていない)、軍隊=国家が自ら作らざるを得なかった。なお、軍隊内部で兵士に民生品を販売する店を“酒保”と言います。この語源、私も長らく疑問に思っていたのですが、どうやらこれも翻訳語(フランス語でkantine、ドイツ語でFeldschenke,Soldatenschenke、直訳は“兵隊居酒屋”;Wikipediaより)のようです。

 その一方で、民営化も次第に進みます。例えば、呉市の「宮地洋服店」のサイトには、店舗紹介として「弊社は明治24年4月、海軍兵学校生徒様の被服縫製工場として創立し、戦後は海上自衛隊制服、紳士服の専門店として親しまれて参りました」とあります(1900年の日本陸軍の軍服の画像がhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:JapaneseArmy1900.jpgに出ています)。 

 こうして、明治から大正、昭和にかけて、一連の軍需産業が設立、いつのまにか民生企業に変身する。これから就活する人のために、いくつか紹介しましょう。

(1)大砲作成: → 明治初期の4斤山砲以来、国立の大阪砲兵工廠が作成していきますが、1907年に民間企業として日本製鋼所が設立されます(現在も、自衛隊関係の大砲を製作)。

(2)軍艦建造:1853年、水戸藩の徳川斉昭が建設した石川島造船所 → 1876年、民間に払い下げ → 1889年、有限責任石川島造船所 → 1945年、石川島重工株式会社(同年、ジェットエンジン製造) → 1960年、合併で石川島播磨重工業 → 現IHI

(3)戦争で使う望遠鏡・双眼鏡等の製作:1917年、光学兵器の国産化のため、日本光学株式会社設立 → 現ニコン

  • (4)軍隊用缶詰製造:日本の缶詰工業は、明治4年に長崎の「広運館」という外国語学校に勤めていた松田雅典が松田缶詰工場」を設立、イワシの油漬缶詰を製造したのが始まりとのこと。
  •  日清戦争、日露戦争では兵食として採用されるなど、国内向け生産はほとんどが兵食用の軍需物資だった(http://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/local_foods/kan_info.htmlを参照)。その一方で、1897年設立の陸軍中央糧秣廠宇品支廠等でも、缶詰工場で牛肉缶詰が生産されていたといいます。 

 デジタルカメラで皆さんおなじみのニコンは、かつて軍需産業だったのです。

  

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 さて、Part3では、軍服の一部が紳士の仕事着=スーツに変化することを紹介しましたが、他にも軍服から転用されていったスタイルがあります。お気づきですね。その典型は“セーラー服”、そして“Tシャツ”です。

 薬師丸ひろ子主演の映画『セーラー服と機関銃』でも知られる通り、日本では女子生徒の制服として広がったこの服ですが、もともとは水兵(英語でセーラー/sailor)が着る服です。その一番の特徴である大きな襟は「ジョンベラ」と呼ばれますが、語源は「イギリス人の総称=John Bull」からとも言われています。

 この襟については「甲板の上では風などの影響で音声が聞き取りにくくなるので、襟を立て集音効果を得るためとか、セーラー服が出来た頃の貴族階級の男性の髪型は長髪を後ろで括ってポマードで塗り固めていたため、なかなか洗濯が出来ない船乗りにとっては後ろ襟や背中がすぐに脂やフケで汚れてしまったためと言われているが、定かではない」そうです(Wikipediaより)。

 セーラー服は19世紀、まず「海軍幼年学校の制服に採用され、その後海軍好きのイギリスの国民性から、子供服として流行するようになった」。そして「19世紀のフランスでは女性のファッションとしてセーラー服が着られるようになり、その後ボーイッシュ・ブームの一環としてヨーロッパ各国やアメリカで女性のファッションとして流行した」。それが、日本ではいつのまにか、ほとんど女の子専用の制服になる。

  このあたり、ちょっと研究するとなかなか面白そうです。ファッションに興味がある方で、どなたかとりあげませんか? そのセーラー服も、1920年に京都の平安女学院で採用された時はワンピース型だったのが、福岡女学院で動きやすいツーピース型に改良されたそうです(Wikipediaより)。

 そこで平安女学院のサイトを閲覧すると、学院の沿革のページに「大正デモクラシーの時代」として「1920年11月 洋式制服及び記章を制定」とあります。セーラー服とは書いてありませんが、おそらくこれが該当するものでしょう。 さらに続けて、「同年12月 1921年度限りで裁縫科の廃止を決定」とあります。

  まさに日本の洋服受容の歴史、つまり家庭で簡単に作ることができないセーラー服の採用とともに、女子教育から和装の裁縫を省く、こうした経緯を垣間見ることができます(http://www.heian.ac.jp/head/history/03.php)。

 一方、福岡女学院のサイトでは、ツーピース型セーラー服発祥の由来がきちんとページになっています(http://www2.fukujo.ac.jp/university/125th/index.html)。

  第9代校長のエリザベス・リー先生は日本語が苦手で、スポーツを通して生徒と交流を深めようとしたが、当時は着物と下駄ばき、自由に運動できなかった。それで、当時の博多でテーラーを開業していた太田豊吉とともに究極の制服づくりをめざし、ツーピース型セーラー服を開発、現在もほぼ変わらぬ姿だということでした。

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 そして“Tシャツ”。語源は両袖を広げると、アルファベットのTに見えるため、ということはご存知ですよね。一方、このシャツが世界にひろがったきっかけは、アメリカ海軍の下着(肌着)として採用されたことだと言われています。つまり、Tシャツは下着であり、本来は人前で着る等とんでもないものだったのです。このあたり、日本語版Wikipediaには記載がないので、英語版を見てみましょう。

 「T-shirts, as a slip-on garment without buttons, originally became popular in the United States when they were issued by the U.S. Navy during or following the Spanish American War. These were a crew-necked, short-sleeved, white cotton undershirt to be worn under a uniform. It became common for sailors and Marines in work parties, the early submarines, and tropical climates to remove their uniform “jacket”, wearing (and soiling) only the undershirt. It is possible that the Navy uniform boards first discovered the T-shirt by watching dock crews

 このTシャツを下着ではなく、ごくふつうにまとって映画画面にクローズアップされるセクシーな男。そう、英語版でも言及のテネシー・ウィリアムズ原作、エリア・カザン監督の1951年ハリウッド映画『欲望という名の電車』で、俳優マーロン・ブランドが汗がにじむTシャツ姿で登場した瞬間です。この時以来、Tシャツだけでいても不思議は無い。それどころか、Tシャツを着ることはアメリカ文明、資本主義文明を象徴している、ということになってしまいます。

 この映画『欲望という名の電車』では、自我が崩壊し狂っていく女主人公ブランチを畢生の演技でこなしたヴィヴィアン・リーがアカデミー主演女優賞を(彼女にとっては2度目の受賞)、ブランチの妹で事態を傍観するしかなく、結局はセクシーでかつ野獣のような夫スタンリーのもとにとどまるしかないステラを演じたキム・ハンターが助演女優賞、そしてさらに一見善良そうに見えながら、心の奥に小市民的卑劣さを潜ませるハロルド役のカール・マルデンが助演男優賞を受賞します。

 なお、“欲望(Desire)”とは、1940年代の執筆当時、実際に舞台となるニューオーリンズの“欲望通り(Desire Street)”を路線とした電車の名前からきています。さらにニューオーリンズでは“極楽通り(Elysian Fields Avenue)”もあって、こちらは作者ウィリアムズが実際に住んでいたとのことです。劇中、“極楽”に行くには、“欲望”という名の電車を、“墓場”で乗り換える。この台詞に象徴される悲劇が展開されるのです。 

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 さて、こうして制服が流行して、アパレルメーカーが制服も含めて、衣裳を大量生産していく20世紀は、庶民の暮らしも否応なく変えていきます。例えば、フランスの歴史人類学者Y・ヴェルディエの著作『女のフィジオロジー』では、19世紀のフランスの伝統的村落で、社会階層の隙間におさまるような形で3タイプの「自立した女」が存在していたことが描写されています。(葬式等の)手伝い女、(おめでたい席のための)料理女、そして裁縫女です。

 とくに、裁縫女は当時、その技術=衣装を縫うことで女たちの人生に重要な意味をになっていました。しかし、彼女たちは、もう一つの自立した存在、産婆とともに、近代化によって消滅していきます。それが日本でも同じことは、上記、平安女学院での「制服の採用と裁縫科の廃止」をご覧になればわかるかと思います。

 もちろん、その中でただ一人、たくましくも生き残るのがココことガブリエル・シャネルであることは、Par1「ファッションの人類学Part1:帽子をめぐるフェルナンドとココの冒険~パリが移動祝祭日であった頃~(2010/11/18投稿)で紹介済みですね。

総政をめぐるトピックスPart2:誰が“国家”を防衛するのか?:カッテンディーケの回想から、マキャベリ、キッチナーまで

2011 2/1 総合政策学部の皆さんへ

 1857年(安政4年)9月21日午後9時、長崎町民は深夜とどろく砲音に驚き、大騒ぎになります。オランダの海軍士官ファン・カッテンディーケ二等尉官率いる蒸気船ヤパン号(後の咸臨丸)が、深夜、オランダからの4000海里の航海を終えて、長崎港に到着、入港の合図を放ったのです。カッテンディーケは2年間の日本滞在を振り返る『長崎海軍伝習所の日々』でやや誇らしげに語ります(書籍番号#80;水田信利訳、平凡社東洋文庫版)。

       これまで外国船が、夜中に湾中に来て闘病するというようなことはなかった。しかるに私がこれを敢えてしたのは、つまりは、夜中には何事も起こらないと安心しきった気持ちでいるお人好しの日本人の夢を、多少とも覚ませようとの考えであった。

 その砲声に驚き、陸にはたちまち明りがともされると、

 る見るうちに、周囲の山の上に一面に火が点けられたが、それは実に見ほれるばかりの美しい光景であった。

  さて、江戸幕府からの要請で、日本に近代海軍を普及するための第2次教育班を統率して訪日したカッテンディーケは、きわめて好意的に日本人および日本を評します。このあたりの立ち位置は、後にトロイを発掘するドイツ系商人にして発掘家のシュリーマンが1865年に日本を訪れた際の『シュリーマン旅行記清国・日本』(石井和子訳)講談社学術文庫版)や、あるいは後にサラエボで暗殺されるオーストリア皇太子フェルディナンドの『オーストリア皇太子の日本日記―明治二十六年夏の記録』(講談社学術文庫版)にも共通します。

  とくに、カッテンディーケとシュリーマンの著作は1860年と1869年の出版。したがって、その後の日本の急速な近代化を知らぬままに、文字通りのリアルタイムで近代化前の日本を評価する好著と言えましょう。

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 カッテンディーケはその後もお節介気味に、この“平和ぼけ”した民人たちにあれこれ心配します(まったく、この若いヨーロッパの軍人にとって、心配と世話焼きの種は一向に尽きません)。

       一旦緩急の場合には、祖国防衛のために、力をあわせなければならぬという義務は、他国少なくともヨーロッパでは、いや洋の東西を問わず、至る所の国々の臣民に課せられるところであるが、どうも日本人には、その義務の観念が薄いようである。

  或る時、長崎の一商人に、一体この町の住民は長崎が脅かされた時に、果たして町を防衛できるかどうかと尋ねてみたが、その商人の曰く「何のそんなことは我々の知ったことではない。それは幕府のやる事なんだ」という返事だった。

 そんな具合だから、もし艦長が1名の士官と45名の陸戦隊を率いて上陸すれば、恐らく一発の砲弾も放つことなくして、幕府の役所をはじめ海岸に面した町々は苦労なくして占領することができるであろうが、そうした場合にも、市民は或いはその陸戦隊の上陸を、知らぬ顔で見て過ごし、幕府を窮地に陥れるかもしれない。これは勿論、幕府に加えうる最大の侮辱である。敢えて奥地に深く攻め入る必要はないであろう。

 しかし、そもそもは“日本人”という概念さえ確立していないところで(2010年度NHK大河ドラマの『竜馬伝』をご覧になっていた方はわかりますよね)、かつて“刀狩り”によって、“公的暴力装置”から免除されたはずの農工商民が、何が悲しくて祖国防衛の任に当たらなければならないか?

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 さて、ただいま紹介したカッテンディーケの指摘は、実は幕府を倒した明治新政府の心配事であり、明治2年に暗殺された初代兵部大輔(次官)大村益次郎らの構想(諸藩の廃止、廃刀令の実施、徴兵令の制定、鎮台の設置、兵学校設置による職業軍人の育成)によって主唱され、明治5年11月28日、徴兵告諭として宣言されます。

      世襲座食の士は、其禄を滅し、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せしめんとす。是れ上下を平均し、人権を斉一にする道にして、即ち兵農を合一にする基なり。是に於て士は従前の士に非ず。民は従前の民にあらず。均しく皇国一般の民にして、国に報ずるの道も固より其の別なかるべし。

 この文中の「血税」が要らぬ誤解を招き、各地に血税一揆が勃発したとされます。「凡そ天地の間、一事一物として税あらざるはなし、以て国用に宛つ。然らば則ち人たるもの固より心力を尽くし、国に報ぜざるべからず。西人之れを称して血税と云ふ。其の生血を以て国に報ずるの謂なり」の一節ですね。

 しかし、たとえローマ市民(下註)でなくても「戦争にいかなくても済めば、恩の字」であり、「傭兵」に任せておいた方がよい、ということになるでしょう。

  • 註:  「総政をめぐるトピックPart1:“国勢調査”、“人口”、そして国家統計#2(2011 1/16投稿)」で触れましたが、古代ローマの軍制の基本が市民兵による皆兵制度だったのが、システムの自己矛盾から崩壊してマリウスが開始する「傭兵制」に代わり、それがパトロン=クライアント関係を経て中世ヨーロッパの封建制による軍事組織に変化する。
  •  それが、ヨーロッパにおいて国民国家が現れるに従って、国民皆兵/徴兵制度が普及する。そこに日本が追いついた、というのがこのテーマの基本的構図です。
  •  ですから、カッテンディーケ君がタイムマシンで数百年時間を遡り、自分の御先祖のヨーロッパ市民に同じことを聞いたら、ひょっとして長崎町民と似たような答えが返ってきたかもしれませんね。このあたり、おわかりいただけますか?
  •    

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 さて、それでは「傭兵」あるいは「封建時代の軍制」に反対して、近代的徴兵を主唱したのは誰か? Wikipediaが指摘しているように、この制度は国民国家の成立、つまり政治思想とかかわる歴史上の大テーマなのです。そして、数々の方々がこの制度の発足にかかわるのですが、もっとも有名どころでは、近代的政治学の始祖、マキャヴェッリ君をあげるのが常道です。

 16世紀初頭、メディチ家追放後の共和制時代、第二書記局長として渾身の力をふるってピエロ・ソデリーニ政権によるフィレンツェ経営に身を粉にするように尽くしたマキャベッリは、自分たちの利益しか考えない傭兵たちにうんざりして、“国民軍”創設を唱えます。そして「貴族や富裕層の中には国民軍創設に反対する者もいたが、その企画は実現する」(Wikipediaより)。彼の主著『君主論』から該当部分をひけば、

    聡明な君主はつねにこのような兵(=傭兵)を避けて自国の軍隊に頼り、他国の兵力によって勝利を得るよりは、むしろ自分の兵とともに敗北を選ぶ、これ他人の軍隊の助けをかりて得た勝利は真の勝利でないことを知っているからである。

 チェーザレ・ボルジアが)自分の軍隊の完全な所有者となったことを誰もが認めた時ほど大公(チェザレ)の威勢の張ったときことはなかった。

  そこで私は次のような結論に達する、自分の軍隊を有しない君主はけっして安全でない、何か事あるときみずから衛る力のない者は僥倖をたよるほかはない。「みずからの力を基礎とせざる威勢や名声ほど頼りがたく定まりなきものなし」とは、先哲が常に言うところの意見で断案である。自己の軍隊とは、その国民、臣下、または従属民によって構成された軍隊であって、自分の軍でない者は傭兵か援兵である」(黒田正利訳『君主論』「第13章 援兵と混成軍と国民軍について」岩波文庫版)。

  •  

  しかし、現実はマキャヴェッリの夢想を裏切ります。彼が組織した国民軍はフィレンツェ市民そのものというよりも、フィレンツィエ周辺の農民たちを徴募したものであり、その点、真に国民国家たりえないフィレンツェでは徴兵制の採用はやはり無理でした。結局、彼の国民軍は、1512年、神聖ローマ帝国軍(つまり、プロの傭兵)に粉砕され、マキャヴェッリも失職することになります。

 なお、マキャヴェッリのお友達でもあるグイッチャルディーニは、いかにも貴族上がりらしく、国民軍に対して疑いの眼を向けます。それには、下賤な町民に武器を渡せば、それが何時、領主・貴族に対して向けられるかどうか、わかったものではないという権力者特有の惧れもあったわけです(そのあたりは、下級貴族出身のマキャヴェッリと、上流貴族出身のグイッチャルディーニの立ち位置の違いとも言えましょう)。

註:グイッチャルディーニについては「高畑ゼミの100冊Part21:“政治家”はもっと“古典”を読むべきでは? ということで『リコルディ』こと『フィレンツェ名門貴族の処世術』のご紹介を、マキャヴェッリについては「総合政策のための名言集Part5:政治的発言について#1」などをご参照ください。 

 マキャヴェッリの真意とはまったく別に、その後、絶対王政のもとに徴兵制の試みが繰り返されます。例えば、30年戦争時のグスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍、そして(後世、ドイツ帝国の基盤となる)プロイセン王国中興の祖であるフリードリッヒ大王の常備軍、いずれも、強制的な徴募によって大軍を編成しますが、ともに、経済的・心理的負担が大きく、兵士の質も低下しがちであったと言われています。とくに、フリードリッヒ大王の軍は規律をまもるため厳罰主義をとりますが、脱走兵等が続出します。

 もうお分かりですね。こうした経緯を経て国民国家が成立した時(それはフランス革命ですが)、真の国民軍が創設されます。そして、フランスの巨大な人口がもたらした国民軍を使って、一時的ながら全ヨーロッパを支配しかけた男、それがフランス革命の限定相続人ナポレオン・ボナパルトにほかなりません。カッテンディーケ君の訪日はそれからおよそ半世紀、国民軍と徴兵制度がもはや常識になった時のご発言である、とお考えください。

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 その徴兵制は巨大な軍隊を創り上げます。フランス革命戦争を戦い抜くため、1793年8月23日、国民公会は「国家総動員」を発令、新たに120万人を動員したと言います(Wikipediaより)。1800年頃のフランスの人口は4000万人だそうですから、この4分の1ぐらいを戦争にいける年齢の男性と考えると1000万人、そのおよそ8人に一人が戦争に行くと同時に、国内での生産もまた維持しなくてはいけないわけなので、もはや徴兵制抜きでの戦争は不可能とも言えましょう。

 ちなみにナポレオン戦争最後の激戦、ワーテルローの戦いでは、フランス軍72000人、イギリス・オランダ軍68000人、プロイセン軍48000人、計188000人が激突、フランス軍25000人と連合軍側22000人が死傷します。死傷者率が30%を超えると継戦能力が失われるというのが戦術論の常識ですが、フランス軍の死傷者率34.7%はまったく危険水域というべきで、実際、ナポレオンはその覇権を失います。

 これがクリミア戦争中のセヴァストポリ要塞攻囲戦ですと、1854年10月の時点でロシア帝国軍36600人、イギリス・フランス・オスマン・トルコ連合軍67000人が長期の消耗戦の結果、ロシア側死傷者10万2000人、連合軍側死者(戦病死も含む)128387人(これにたぶんその数倍の負傷者)という結果になります。

 そして、1905年2月21日~3月10日に、現在の中国東北地方でロシア軍と日本軍という侵略者同士が激突した日露戦争最大の激戦奉天の会戦は参加した兵士は日本側23万人、ロシア側24万人、日本側死者15892人及び負傷者59612人、ロシア側死者8705人及び負傷者51438人、そして捕虜28209人という規模にまで拡大するのです。

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 その10年後、チャーチルが総力戦の到来をなげいた第一次大戦、イギリスの陸軍大臣ホレーショ・キッチナーはキャッチ・コピーの傑作「Briton wants you」というポスターで、大量の一般市民を志願兵として戦場に動員します(1回目の募集で48万人)。一般にはキッチナー・アーミーと呼ばれる彼らですが、1914年のクリスマスまでには戦いも片づき、母国に帰れるはずだったのに・・・・・・。

 そして、「徴兵制は不要」としたキッチナーの意向もまた裏切られ(彼自身も1916年6月5日乗船していた装甲巡洋艦ハンプシャーが触雷して戦死します。その日に、キッチナー・アーミーの最後の大隊がドーヴァーを渡ります)、ドイツとの死闘に打ち勝つため、制度的な徴兵制の導入へとひた走ります。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...