総政をめぐるトピックスPart2:誰が“国家”を防衛するのか?:カッテンディーケの回想から、マキャベリ、キッチナーまで

2011 2/1 総合政策学部の皆さんへ

 1857年(安政4年)9月21日午後9時、長崎町民は深夜とどろく砲音に驚き、大騒ぎになります。オランダの海軍士官ファン・カッテンディーケ二等尉官率いる蒸気船ヤパン号(後の咸臨丸)が、深夜、オランダからの4000海里の航海を終えて、長崎港に到着、入港の合図を放ったのです。カッテンディーケは2年間の日本滞在を振り返る『長崎海軍伝習所の日々』でやや誇らしげに語ります(書籍番号#80;水田信利訳、平凡社東洋文庫版)。

       これまで外国船が、夜中に湾中に来て闘病するというようなことはなかった。しかるに私がこれを敢えてしたのは、つまりは、夜中には何事も起こらないと安心しきった気持ちでいるお人好しの日本人の夢を、多少とも覚ませようとの考えであった。

 その砲声に驚き、陸にはたちまち明りがともされると、

 る見るうちに、周囲の山の上に一面に火が点けられたが、それは実に見ほれるばかりの美しい光景であった。

  さて、江戸幕府からの要請で、日本に近代海軍を普及するための第2次教育班を統率して訪日したカッテンディーケは、きわめて好意的に日本人および日本を評します。このあたりの立ち位置は、後にトロイを発掘するドイツ系商人にして発掘家のシュリーマンが1865年に日本を訪れた際の『シュリーマン旅行記清国・日本』(石井和子訳)講談社学術文庫版)や、あるいは後にサラエボで暗殺されるオーストリア皇太子フェルディナンドの『オーストリア皇太子の日本日記―明治二十六年夏の記録』(講談社学術文庫版)にも共通します。

  とくに、カッテンディーケとシュリーマンの著作は1860年と1869年の出版。したがって、その後の日本の急速な近代化を知らぬままに、文字通りのリアルタイムで近代化前の日本を評価する好著と言えましょう。

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 カッテンディーケはその後もお節介気味に、この“平和ぼけ”した民人たちにあれこれ心配します(まったく、この若いヨーロッパの軍人にとって、心配と世話焼きの種は一向に尽きません)。

       一旦緩急の場合には、祖国防衛のために、力をあわせなければならぬという義務は、他国少なくともヨーロッパでは、いや洋の東西を問わず、至る所の国々の臣民に課せられるところであるが、どうも日本人には、その義務の観念が薄いようである。

  或る時、長崎の一商人に、一体この町の住民は長崎が脅かされた時に、果たして町を防衛できるかどうかと尋ねてみたが、その商人の曰く「何のそんなことは我々の知ったことではない。それは幕府のやる事なんだ」という返事だった。

 そんな具合だから、もし艦長が1名の士官と45名の陸戦隊を率いて上陸すれば、恐らく一発の砲弾も放つことなくして、幕府の役所をはじめ海岸に面した町々は苦労なくして占領することができるであろうが、そうした場合にも、市民は或いはその陸戦隊の上陸を、知らぬ顔で見て過ごし、幕府を窮地に陥れるかもしれない。これは勿論、幕府に加えうる最大の侮辱である。敢えて奥地に深く攻め入る必要はないであろう。

 しかし、そもそもは“日本人”という概念さえ確立していないところで(2010年度NHK大河ドラマの『竜馬伝』をご覧になっていた方はわかりますよね)、かつて“刀狩り”によって、“公的暴力装置”から免除されたはずの農工商民が、何が悲しくて祖国防衛の任に当たらなければならないか?

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 さて、ただいま紹介したカッテンディーケの指摘は、実は幕府を倒した明治新政府の心配事であり、明治2年に暗殺された初代兵部大輔(次官)大村益次郎らの構想(諸藩の廃止、廃刀令の実施、徴兵令の制定、鎮台の設置、兵学校設置による職業軍人の育成)によって主唱され、明治5年11月28日、徴兵告諭として宣言されます。

      世襲座食の士は、其禄を滅し、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得せしめんとす。是れ上下を平均し、人権を斉一にする道にして、即ち兵農を合一にする基なり。是に於て士は従前の士に非ず。民は従前の民にあらず。均しく皇国一般の民にして、国に報ずるの道も固より其の別なかるべし。

 この文中の「血税」が要らぬ誤解を招き、各地に血税一揆が勃発したとされます。「凡そ天地の間、一事一物として税あらざるはなし、以て国用に宛つ。然らば則ち人たるもの固より心力を尽くし、国に報ぜざるべからず。西人之れを称して血税と云ふ。其の生血を以て国に報ずるの謂なり」の一節ですね。

 しかし、たとえローマ市民(下註)でなくても「戦争にいかなくても済めば、恩の字」であり、「傭兵」に任せておいた方がよい、ということになるでしょう。

  • 註:  「総政をめぐるトピックPart1:“国勢調査”、“人口”、そして国家統計#2(2011 1/16投稿)」で触れましたが、古代ローマの軍制の基本が市民兵による皆兵制度だったのが、システムの自己矛盾から崩壊してマリウスが開始する「傭兵制」に代わり、それがパトロン=クライアント関係を経て中世ヨーロッパの封建制による軍事組織に変化する。
  •  それが、ヨーロッパにおいて国民国家が現れるに従って、国民皆兵/徴兵制度が普及する。そこに日本が追いついた、というのがこのテーマの基本的構図です。
  •  ですから、カッテンディーケ君がタイムマシンで数百年時間を遡り、自分の御先祖のヨーロッパ市民に同じことを聞いたら、ひょっとして長崎町民と似たような答えが返ってきたかもしれませんね。このあたり、おわかりいただけますか?
  •    

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 さて、それでは「傭兵」あるいは「封建時代の軍制」に反対して、近代的徴兵を主唱したのは誰か? Wikipediaが指摘しているように、この制度は国民国家の成立、つまり政治思想とかかわる歴史上の大テーマなのです。そして、数々の方々がこの制度の発足にかかわるのですが、もっとも有名どころでは、近代的政治学の始祖、マキャヴェッリ君をあげるのが常道です。

 16世紀初頭、メディチ家追放後の共和制時代、第二書記局長として渾身の力をふるってピエロ・ソデリーニ政権によるフィレンツェ経営に身を粉にするように尽くしたマキャベッリは、自分たちの利益しか考えない傭兵たちにうんざりして、“国民軍”創設を唱えます。そして「貴族や富裕層の中には国民軍創設に反対する者もいたが、その企画は実現する」(Wikipediaより)。彼の主著『君主論』から該当部分をひけば、

    聡明な君主はつねにこのような兵(=傭兵)を避けて自国の軍隊に頼り、他国の兵力によって勝利を得るよりは、むしろ自分の兵とともに敗北を選ぶ、これ他人の軍隊の助けをかりて得た勝利は真の勝利でないことを知っているからである。

 チェーザレ・ボルジアが)自分の軍隊の完全な所有者となったことを誰もが認めた時ほど大公(チェザレ)の威勢の張ったときことはなかった。

  そこで私は次のような結論に達する、自分の軍隊を有しない君主はけっして安全でない、何か事あるときみずから衛る力のない者は僥倖をたよるほかはない。「みずからの力を基礎とせざる威勢や名声ほど頼りがたく定まりなきものなし」とは、先哲が常に言うところの意見で断案である。自己の軍隊とは、その国民、臣下、または従属民によって構成された軍隊であって、自分の軍でない者は傭兵か援兵である」(黒田正利訳『君主論』「第13章 援兵と混成軍と国民軍について」岩波文庫版)。

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  しかし、現実はマキャヴェッリの夢想を裏切ります。彼が組織した国民軍はフィレンツェ市民そのものというよりも、フィレンツィエ周辺の農民たちを徴募したものであり、その点、真に国民国家たりえないフィレンツェでは徴兵制の採用はやはり無理でした。結局、彼の国民軍は、1512年、神聖ローマ帝国軍(つまり、プロの傭兵)に粉砕され、マキャヴェッリも失職することになります。

 なお、マキャヴェッリのお友達でもあるグイッチャルディーニは、いかにも貴族上がりらしく、国民軍に対して疑いの眼を向けます。それには、下賤な町民に武器を渡せば、それが何時、領主・貴族に対して向けられるかどうか、わかったものではないという権力者特有の惧れもあったわけです(そのあたりは、下級貴族出身のマキャヴェッリと、上流貴族出身のグイッチャルディーニの立ち位置の違いとも言えましょう)。

註:グイッチャルディーニについては「高畑ゼミの100冊Part21:“政治家”はもっと“古典”を読むべきでは? ということで『リコルディ』こと『フィレンツェ名門貴族の処世術』のご紹介を、マキャヴェッリについては「総合政策のための名言集Part5:政治的発言について#1」などをご参照ください。 

 マキャヴェッリの真意とはまったく別に、その後、絶対王政のもとに徴兵制の試みが繰り返されます。例えば、30年戦争時のグスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍、そして(後世、ドイツ帝国の基盤となる)プロイセン王国中興の祖であるフリードリッヒ大王の常備軍、いずれも、強制的な徴募によって大軍を編成しますが、ともに、経済的・心理的負担が大きく、兵士の質も低下しがちであったと言われています。とくに、フリードリッヒ大王の軍は規律をまもるため厳罰主義をとりますが、脱走兵等が続出します。

 もうお分かりですね。こうした経緯を経て国民国家が成立した時(それはフランス革命ですが)、真の国民軍が創設されます。そして、フランスの巨大な人口がもたらした国民軍を使って、一時的ながら全ヨーロッパを支配しかけた男、それがフランス革命の限定相続人ナポレオン・ボナパルトにほかなりません。カッテンディーケ君の訪日はそれからおよそ半世紀、国民軍と徴兵制度がもはや常識になった時のご発言である、とお考えください。

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 その徴兵制は巨大な軍隊を創り上げます。フランス革命戦争を戦い抜くため、1793年8月23日、国民公会は「国家総動員」を発令、新たに120万人を動員したと言います(Wikipediaより)。1800年頃のフランスの人口は4000万人だそうですから、この4分の1ぐらいを戦争にいける年齢の男性と考えると1000万人、そのおよそ8人に一人が戦争に行くと同時に、国内での生産もまた維持しなくてはいけないわけなので、もはや徴兵制抜きでの戦争は不可能とも言えましょう。

 ちなみにナポレオン戦争最後の激戦、ワーテルローの戦いでは、フランス軍72000人、イギリス・オランダ軍68000人、プロイセン軍48000人、計188000人が激突、フランス軍25000人と連合軍側22000人が死傷します。死傷者率が30%を超えると継戦能力が失われるというのが戦術論の常識ですが、フランス軍の死傷者率34.7%はまったく危険水域というべきで、実際、ナポレオンはその覇権を失います。

 これがクリミア戦争中のセヴァストポリ要塞攻囲戦ですと、1854年10月の時点でロシア帝国軍36600人、イギリス・フランス・オスマン・トルコ連合軍67000人が長期の消耗戦の結果、ロシア側死傷者10万2000人、連合軍側死者(戦病死も含む)128387人(これにたぶんその数倍の負傷者)という結果になります。

 そして、1905年2月21日~3月10日に、現在の中国東北地方でロシア軍と日本軍という侵略者同士が激突した日露戦争最大の激戦奉天の会戦は参加した兵士は日本側23万人、ロシア側24万人、日本側死者15892人及び負傷者59612人、ロシア側死者8705人及び負傷者51438人、そして捕虜28209人という規模にまで拡大するのです。

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 その10年後、チャーチルが総力戦の到来をなげいた第一次大戦、イギリスの陸軍大臣ホレーショ・キッチナーはキャッチ・コピーの傑作「Briton wants you」というポスターで、大量の一般市民を志願兵として戦場に動員します(1回目の募集で48万人)。一般にはキッチナー・アーミーと呼ばれる彼らですが、1914年のクリスマスまでには戦いも片づき、母国に帰れるはずだったのに・・・・・・。

 そして、「徴兵制は不要」としたキッチナーの意向もまた裏切られ(彼自身も1916年6月5日乗船していた装甲巡洋艦ハンプシャーが触雷して戦死します。その日に、キッチナー・アーミーの最後の大隊がドーヴァーを渡ります)、ドイツとの死闘に打ち勝つため、制度的な徴兵制の導入へとひた走ります。

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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