2011年3月

住まいの人類学番外編:過去の記録にみる人と災害、そしてそこに浮かびあがること#1

2011 3/30 総合政策学部の皆さんへ

 このたびの3月11日の東北・関東大地震はその被害の全貌がいまだに見えず、文字通り、空前絶後の災害のようです。犠牲者の方々には心から哀悼の念を、そして被災者の方々には一刻も早く元の生活を取り戻すことができるように、願わざるをえません。しかし、それが何時までかかるのか、判断も難しいところです。

  とくに、今回の最大の衝撃は、あまりの被害に従来の諸システムがずたずたになったことでしょう(例えば、破壊された町役場等に象徴される行政システム、寸断された輸送流通システム、そして原発事故によってもろくも露呈したエネルギー供給システムの欠点)。

  その結果、全体像がいつまでたっても把握できない。“復興”とは、日常を取り戻すだけでなく、こうした災害に耐えうる(あるいは、やりすごせる)システムを創り上げてはじめて達成されるものでしょうから、よほど腹をくくらないといけないかと思います。

 もうずいぶん前、この総合政策学部に赴任する前に勤めていた鳴門教育大学で、現職の高校教師(生物学)として大学院に派遣されていた方と一緒に、潮間帯動物群集を研究していた頃のことです。

 その方の出身地の和歌山県田辺市周辺の海岸を一緒に歩いていた時、防潮堤ぎりぎりまで家々が並んでいるのを見て、その方は  「昔は台風の時の高潮とか、色々考えて、こんな波打ち際まで家を建てなかった。今は堤防もできたので、安心して家を建てているけれど、巨大台風とかがきたら、大変なことになるのではないか」とおっしゃっていました。

 講義でもたまに触れたりしていたのですが、それがこうして現実のものになるとは。

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 考えてみれば、明治以降の近代化において、それまでの川(流域)や海を利用した輸送システムを捨ててしまいます。そして、海岸線と(地盤が固まりきっていない)沖積平野に線路と道路を張り巡らし、(明治5年9月12日開業新橋横浜間の鉄道では、反対運動等から海に築堤を築き、その上を走らせます=津波が来ていたら、一大事ですね)、広い平野に都会を形成することになります。

 今回の震災は、その海岸線に長く伸びた交通線を、各所で完全にずたずたにして、それがシステムの崩壊をもたらしました(阪神・淡路の際は、神戸~西宮周辺に集中した局地的な範囲にとどまったわけですが)。

  学部の講義でも、一応は、沖積層に発達した日本の都市の基本的リスクについて多少とも触れてきたつもりでしたが、マグニチュード9という破壊力で一気に明るみに出てしまった今回の事態には言葉を失うしかありません。

  とは言え、学生の皆さんにはできるだけ災害とはどんなものなのか、知っていただかないといけないと思います。それで、住まいの人類学番学編で、しばらく、私の乏しい知識から、災害についての文献・事例を紹介しましょう。

  •  もっとも、日本の伝統的な準構造船(和船)を使った廻船システムもまた、それ自体はかなり危険で、多くの難破船を出しています。そうした漂流のあげく、幸運にも生還できた者の一人が、「異文化に出会う時:日本人はどのようにして異なる食文化に出会ったか?Part1」でご紹介した『船長(ふなおさ)日記』の語り手船頭重吉です(実を言うと、私の母方の母方は新潟の廻船問屋の出で、明治の初め、風雨ですべての船が難破して、没落したと子供の頃から聞かされていました。その廻船問屋のあとが現在の新潟の繁華街“柾谷小路 だというのですが、どんなものでしょうね。Wikipediaでは“柾屋四郎衛門(まさやしろうえもん)”という商人に由来するとのことで、どうやらこの方が私の先祖のお一人のようです)。

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 さて、地震と言えば、19世紀が30年ほど経過したばかりの頃、地震がほとんど起きない英国育ちのナチュラリストが一人世界一周の旅の最中に、当時スペインから独立したばかりのチリで大地震に遭遇します。

 もう、おわかりですね。後の進化論の提唱者チャールズ・ダーウィン、乗船はビーグル号、1831年12月27日イギリスのプリマスを出航、1836年10月2日ファルマス港に帰着。ほぼ5年の大航海です。

 この旅は、エジンバラ大学の医学校で(血を見ることが嫌いで)挫折し、同じく博物学も退屈で、牧師にさせようと送りこまれたケンブリッジ大学でも神学に興味をもてない、要するにブルジョアジー階級の“もてあまし者”だったダーウィンを人類史上屈指の大学者の一人に変身させます。

  •  ちなみに、地球の陸地は安定した大陸塊(プレート)の地域と、そのプレートが移動し、押し合ううちに地震が発生する地域とにわかれます。イギリス等は安定しているので、地震を起きにくい。だから、ダーウィンも経験していなかったです。
  •  なお、私が3年滞在したアフリカ・タンザニアのマハレ山塊国立公園は、大地溝帯に接していますから、時々地震が起きました。スワヒリ語で“Tetemeko la ardhi”です(スワヒリ語のWikipediaはこちら)。一度、チンパンジーを観察しながら山の中でちょと揺れたのですが、チンパンジーはきょとんとして空を見上げただけで、わりに平気な顔をしていました。
  •  

 そのビーグル号が1834年6月マゼラン海峡を通過して、7月チリのバルパライソに寄港しますが、そこで熱病にかかります。

 やがて、回復してビーグル号でヴァルデヴィア港に滞在中、2月20日に大地震が発生します。マグニチュードは実に8.5。以下、ダーウィンを一躍有名にした名著『ビーグル号航海記』(書籍番号#81)の一節です。

  •   「2月20日 この日はヴァルディヴィアの年代記に記念されるべきものだった。住民の最長老にも、最も激しかったと思われた地震を経験したからである。私はその時、海岸にいて、森の中で横になって休んでいた。地震はいきなり起こり、二分間つづいた。その時間は実際よりもはるかに長く思われた・・・・
  •  「3月4日 (ヴァルディヴィアの北320kmの)コンセプションの港に入った。その領地の執事が20日の大地震の恐ろしい報知を私に知らせにうまで馳せつけた。「コンセプションもタルカファノ(港)にも、家屋は一軒も立っていないこと。70ヵ村がひどく壊されたこと、大波がタルカファノの廃墟をほとんどあらいながしたこと」を・・・・まもなく私もその証拠を十分に見た - 海岸一帯は千隻の船が難破したように、木材や家具が一面に散乱していた・・・・
  •  「翌日、私はタルカファノに上陸し、その後コンセプションにうまを進めた。この二つの町は、私がかつて見たこともないほどの、ひどく怖ろしいまた興味のある光景を呈していた。以前にこれらの町を見た人たちには、さらにその印象がふかいであろう。壊滅の後は入り乱れて、その全体の姿には人の住める処という気配が極めて乏しく、従前の状態を想像することはほとんどできなかった・・・」

 そして、ダーウィンは博物学者として、さらに何よりも後年の進化論の主唱者として、考えをめぐらします。

  •  どの国の繁栄も、地震だけで十分に破壊できる。イギリスの地下では、現在は不活動になっているこの地震の力が、かつて地質時代には活躍したことを確信する。その力が再び働き始めたとしたら、国内全般の状態はどれほど完全に変化されるであろうか。高楼も、周密な都市も、大工場も、美しい公私の建造物もどうなるであろうか?・・・・あらゆる大都会では飢餓が起こり、疫病と死とはあいつらなって続くであろう
  •  

 それにしても、日本でも、このダーウィンの叡智が少しでも伝わっていたのならば、と思わないわけにはいきません。そのダーウィンはその後、中部チリを旅して、5月12日には鉱山労働者たちに接します。

 つまり、2010年8月5日のコピアポ鉱山落盤事故で、10月13日までに33人が全員無事に救出された、あの鉱山労働者の方々の先輩たちにほかなりません。

  •  その労働が自発的なことがわかっていても(=つまり、奴隷ではない)、坑口に達した時の様子を見れば、まったく気持ちが悪くなる。体を前に屈げ、うえで階段によりかかり、脚をゆみなりに曲げ、筋肉は震え、汗は顔から胸に流れ、鼻孔は広がり、口角を無理に後ろに引き締め、吐き出す息は極度に苦しそうである。息を吸うごとに、「アイ、アイ」と明瞭に聞こえる嘆声を出す。それは胸の奥底から出る音に終わり、横笛のような鋭いものである。鉱石の堆積によろめいてゆき、「背負い籠」を空にする。2-3秒ののちには呼吸を恢復して、額の汗をぬぐい、見かけは全くいきいきして、再び速足で坑内に降りてゆく
  •  

 ダーウィンの旅から170年あまり、チリで何が変わったのか? あるいは変わらなかったのか? そんなことも考えさせられます。  

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 1963年12月に筑摩書房から刊行の『筑摩世界ノンフィクション全集49巻』は3つの文献がおさめられていました。J・リーサー著(由良君美訳)『ロンドンの恐怖』、佐藤亮一編訳『ポンペイの最後』、そして田淵巌著『大地は壊れたり』です。この巻は災害特集というべきものですね。

 その災害もさまざまですが、『ロンドンの恐怖』は1664年の王政復古期にロンドン市民が多い日には6,000人死亡したというペストの大流行とその後のロンドン大火を、『ポンペイの最後』ヴェスヴィオ火山の噴火(AD79年8月24日)による火砕流で埋め尽くされたローマ帝国の都市ポンペイから、1871年のアメリカ合衆国ミシガン州等の大山火事(1500人が死亡)まで様々な災害の記録を集めたもの、そして、最後は1923年9月1日の関東大震災で被害にあった当事者の手記です。

 とくに『大地は壊れたり』は、大正12年9月1日午前11時58分32秒、近代都市東京を襲った未曾有の大地震(ただし、マグニチュードは7.9)によって、10万5000人が死亡したと伝えられる地震の直後の状態を(明治・大正期のインテリゲンチュアがよく使う衒学的文章ではありますが)よく伝えています。

  • 真に突如としてであった。
  •  「地震!」
  •  という間もなかった。
  •  「アッ!」
  •  と、驚愕の一声を漏らす余裕も見出しえぬほど突発的であった。
  •  と、建物という建物 - 日頃はその広壮を誇り、輪かんの美を競うていた、和、洋、あらゆる近代的建築物一切 - 否、地表に物的存在を有するもののほどはすべて、覆う身に揺らるる葉舟のそれのごとく、ユラユラユラと前後左右に不規則に翻揺せされ、瞬時にして、その寸前の姿を破却しつくされ、大半は倒れ、残りのものは傾き、また半壊し、瓦解崩壊! 誠に無造作なものであった。(略)
  •  時間にしてほんの5分間ほど - 長くて10分間の間であった。
  •  間髪を容れぬ微妙なその時!
  •  しかも帝都の物象は、すでにもはや永久にもとの雄大、壮麗、井然、繁華、殷盛等の形容詞をもって称されるべき、何物も、然り、ほんの何物も、存じ残すものとてはなかった。
  •  全滅、壊滅!
  •  その一語、その一言に尽きる
  •   

 著者は勤務先である帝国教育会から、歪んであかないドアを蹴破り、揺れる大地に足元がゆらぎ、その倒れかけた場所に瓦が直撃するのをかろうじて避け、揺れる大木に抱きついて余震を避けると、かろうじて脱出した帝国教育会の建物を振り返れば「ピサの斜塔のように傾いて、もう半潰れである」。

 隣の一ツ橋図書館(現江東区立図書館)も「大音響を発して、さながら蛙を圧しつぶしたように、圧しつぶられてしまった。と、館内に読書研究に余念なかった読書子たちの叫喚とおぼしき「ウハーッ」という圧しつけられたようなうめきが、ものすごく伝わってきた」。

  • 帝国教育会(大日本教育会)とは明治16(1883)年から昭和19(1944)年まで活動した、日本初の全国規模をもつ教育団体(白石崇人『大日本教育会・帝国教育会の群像』http://sky.ap.teacup.com/siraisi/2011年3月28日閲覧)。
  •  

 この後、迫りくる大火を避け、我が家を案じたかれは「そうだ、こんな非常の場合のことだ、すべてが許されなくてはならぬ」と、たまたま通りかかった自動車に無理やり乗り込み、勝手に行き先を命じて、目的地近くまで走らせるという乱暴さを発揮します。

 この震災直後の動転ぶりは、しかしながら、やがて彼本来の職種=文部官僚的教養人(地震前の主著のタイトルは『教育美談 噫(ああ)! 殉職の十訓導』、そして地震突発時には『噫(ああ)! 殉職の教育者』の出版準備中)としての地金が出てきます。貴重な地震体験記が、いつのまにかジャーナリズム的美談に変わり、田淵は「『関東壊滅大震災実記筆者』と書いたタスキをかけ、原稿用紙をつけた画版を持って災害地をめぐります。

 そして、9月9日には、「災禍のうちに命がけにて書きつづけきた『関東壊滅実記(=『大地は壊れたり』)』を刊行」すべく、新宿駅から(現在の中央線経由で)東京を脱出します。

  • この49巻の解説者である小説家三浦朱門は、この著について、こんな風に評します。
  •  「まり、(田淵は)見当ちがいの張り切り方をしている訳だ。天をあおいでなげき、地に伏して慟哭する、といった修辞やタスキのかわりに、素直な目さえあればよかったのに、彼はそれよりも、皇室の御慈悲や、被害の統計を集めることに熱心であった・・・
  •  「それでも、最初の激震を受けた部分には、空疎な修辞の奥に、すなおな人間的心理を見ることができる。・・・我にかえって、急に妻子が心配になって、一散に我が家に駆けつけ、通りかかった自家用車を強引にとめて、乗り込むあたり等は、ショックに常識的な判断力を失った人々の姿が浮かびでて、それがかえって、この地震の恐ろしさをよく伝えているのだ・・・
  •  彼は現場にいたのだ。それなのに、事実の一部しか眺めていない。これは異常な体験をした多くの人に共通の現象ではないだろうか。非常に鮮明な、しかし脈絡のない数枚の絵が、各人の脳中に焼きつけられているだけである。したがって、事実を再現するということは、多くの人に会って、それぞれの記憶を取り出して、はめ絵のようにして、それを組み立てねばならない。しかもそれはけっして一枚の絵にならず、組み立て方によっては、幾通りもの絵ができあがるはずである。
  •  その食い違いが、事件の複雑さ、深刻さそのものではないだろうか・・・したがって、事件の規模全体をうかびあがらせるには、多くの個人の体験、統計、その他を十分に集めて、裁判官が多くの証言から事件を再現するように、史学者が資料によって過去を組み立てるように、事件を再構成しなければならない。これによって、当事者の誰もが意識しなかった新しい意味が発見されるものである」(49巻のあとがきから)
  •  

 この三浦の言、とくにその後半は単なる書評にとどまらず、フィールドワーク等における視点についての鋭い指摘と言えるかもしれません。

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  さて、49巻にさらに含まれている『ポンペイの最後』から、震災関係の記事を抜き出すと、『カラブリアの大地震』として、1783年2月5日、そして3月28日にイタリア西南部カラブリア地方を襲った地震の記事がでています(原文は1873年出版、なお、この地震はこの後、4年間近く余震が続いたとのこと)。

 この一連の地震での死亡者は4万人、その後の伝染病の流行による死者が2万人、カラブリア地方は壊滅的被害を受けます。中には、以下のような悲惨な記述も目につきます。

  •  「老齢に達していたシーラ公は、2月5日の大地震のあと、住民に危険な海岸を離れて、それぞれ漁船に避難するよう命じ、自らその模範を示した。ところが、その夜漁船や海岸の安全と思われる平地に眠っていると、続いて襲った二度目の大揺れで近くのイアチ山が地滑りを起こし、巨大な土塊が海や平地になだれ落ちてきた。そして、瞬間にして海面が地上20フィート(6m)も高くなり、海岸の平地に眠っていた人々を、丸のみにしてさらってしまった。
  •  この大波はいったん引いたが、やがてまた一段と狂暴さを増して海岸に引き返し、さきに丸のみにした人間や動物の死体を打ち上げると同時に、漂流していた漁船もことごとく木っ端微塵にしてしまった。シーラ公は、1430人の住民と共に、この時改訂の藻屑となった
  •   

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 地震ではありませんが、1871年のアメリカ北中部をおそった史上最大の山火事の記述も圧倒的です。なにしろ、町の住民にとって、初めは、雰囲気からどこかで山火事があるように思われるのだけれど、あまりに遠くなので、どこで燃えているかよくわからない(=とてつもない大火事が迫りくるわけですが、それが今、どこを燃えているのか、見当がつかない)。

 しかし、次第に「気温があがり、煙がむせるほどになるにつれ、はるか南西の方角ににぶい騒音が発生した・・・・。だが、火事は見つからない。町を走り抜けて、森林近くまで行ってみたが、火のかけらもなかった・・・・。こうして騒ぎが大きくなり、男たちがみんな家を飛び出し、焼けつくような熱風が町に吹き寄せるうちに、南西の方角に、煙を通して、断続的に閃光が見え始めた」。そして、

  「母親たちは子供を起こし、あわてて着替えさせた。恐怖の叫び声が町にあふれた。男も、女も、子供も、馬も、犬も、牛も、豚も、鳥も、生きるものはみんな駆け出し、迫りくる破局を逃れようと狂奔した

 しかし、「川に飛び込んだものも、安全なのは水中にもぐっている間だけで、水面に顔を出すこともできなかった。多くは溺れ死んだ。溺れなかった者も、息継ぎに顔を出して火を呑み、死んだ

 こうしてペシュチーゴの町では、750名が死亡したということです。こうした記述の最後の頃に、先住民についての記述がちらりと顔を出します。

 「一部の観察者が指摘するところでは、インディアンの焼死者が奇妙に少ない。おそらく、山火事から避難する方法は、白人入植者よりよく心得ていたのであろう。二、三負傷者はあるにはあったが、インディアン特有の黙して語らぬ自制心の強さから、自分の苦痛を決して顔に出さない

 この行間に、当時のアメリカ社会における先住民の位置付け、そして彼らの哀しみが滲んでいるかのようにも読み取られることもできないわけではありません。

 皆さんもご存じでしょうが、上記関東大震災の時、流言飛語に惑わされた自警団がもっとも少ない統計で231人、もっとも多い統計で6661人ともいわれる朝鮮人・中国人の方々を虐殺する事件が勃発しています(Wikipedia)。正確な犠牲者の数がわからないということ自体が、この事件の深刻さを物語っています。

 災害で暴動が起きて、その際にマジョリティと異なる人たち=異邦人、あるいは種々のマイノリティの方々が犠牲になることは、古今東西、珍しいことではないのです。

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 と言うことで、三浦朱門が「英国人は、自分の、そして祖国の過去を大切にする。自分の過去は回想録として残すし、何百年かへて、ある人が回想録を集めて、その時代を再現しようとする」と称揚する『ロンドンの恐怖』等は後日の紹介に まわしましょう。

総政のための名言集Part9雑編;ロンガネージ、漱石、そして中島みゆき

2011 3/10 総合政策学部の皆さんへ

 今日は玉石混合(と言いつつ、もちろん本当はすべて“玉(ぎょく)”と思っているのですが)、名言集の雑編です。

 初めは、第2次世界大戦初期、イタリアからこの世界の悲劇を冷静に見据える文学者の言葉からです。ルネッサンス、いやシーザーキケロ以来のイタリア人のセンスは大したものだ、と感心せざるを得ません。凡百の軍事評論家よりも、はるかに近代戦の本質をうがっています(もっとも、イタリア軍が実戦に弱いのも定評がありますが)。

  • #41:「1941年1月10日
  •  イギリス人はこの戦争に勝つだろう。なぜなら、彼らは、戦争以外のことならばすべてできるからだ。
  •  ドイツ人は、この戦争に負けるだろう。なぜなら、彼らは戦争だけしかできないからである
  •                              (塩野七生『サイレント・マイノリティ』新潮社より)
  •   

 イタリアのジャーナリスト、レオ・ロンガネージが第2次大戦が始まってまだ1年半もたたない頃に記した日記の一節。現代の総力戦が何か? これぐらい的確に指摘している言葉もないでしょう。その後の展開が、ロンガネージの予言通りになったことは、言うまでもありません。

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  • #42:「よく色々なことを知っていらっしゃるのね、感心ねえ
  •     「ええ、大概の事は知っていますよ。知らないのは自分の馬鹿な事位なものです。
  •      しかし、夫(それ)も薄々は知ってます
  •     「ホヽヽヽ面白い事許り(ばかり)・・・・」
  •  

 ご存じ、夏目漱石作『吾輩は猫である』第6章、主人公の猫の飼主珍野苦沙弥先生(=漱石の“堅い”面での分身)宅で、美学者迷亭(=こちらは漱石の“軽い”面での分身)が、苦沙弥夫妻に古代ギリシャの最初の女医Agnodice誕生のくだりを講釈よろしくきかせた後で、彼の口説(くぜつ)に感心した奥さんとのやりとりです。

 皆さんも、是非、自己を客観視しながら、自らをからかう軽口がきけるように訓練して下さいね。実社会では、絶対に役に立ちます。

  •  このAgnodiceですが、英語版Wikipeidaは以下のように説明しています。
  • She was a native of Athens, where it was forbidden by law for women or slaves to study medicine. According, however, to Hyginus, on whose authority alone the whole story rests, Agnodice disguised herself in men’s clothing, and attended the lectures of a physician named Hierophilus, devoting herself chiefly to the study of midwifery(看護学 and gynaecology(産婦人科学).
  •   Women refused her service until she confessed to them that she was a woman. Afterwards, when she began practice, being very successful, she excited the jealousy of several of the other practitioners, by whom she was summoned before the Areopagus, and accused of corrupting the morals of her patients. Upon her refuting this charge by making known her sex, she was immediately accused of having violated the existing law, which second danger she escaped by the wives of the chief persons in Athens, whom she had attended, coming forward in her behalf, and succeeding at last in getting the law abolished; women were thereafter allowed to practice medicine and to be paid a stipend for their service」と説明しています。
  •  
  •  このくだりを迷亭先生は
  • 女さ、女の名前だよ。此女(Agnodice)がつらつら考えへるに、どうも女が産婆になれないのは情けない、不便きわまる。どうかして産婆になりたいものだ・・・」と、Agnodiceが男性に化けて医学を勉強、産婆を開業すると大流行りと説明してから、
  •  「ところが人間万事塞翁が馬、七転び八起き、弱り目に祟り目で、つい此の秘密が露見に及んで、遂におかみの御法度を破ったと云ふところで重き御仕置に仰せつけられそうになりました
  •  「丸で講釈見たようです事
  •  「中々旨いでせう。所が亜典(アテネ)の女たちが一同連署して嘆願に及んだから、時の御奉行もさう木で鼻を括った様な挨拶もできず、遂に当人は無罪放免、これからはたとひ女たりとも産婆営業勝手たるべき事と云ふ御布礼さへ出て目出度落着を告げました
  •  と怪気焔をあげつつ、#42のやりとりへと続くのです。
  •  

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  •  #43:「だれも 悪くは ないのに
  •        悲しいことなら いつもある
  •         願いごとが 叶わなかったり
  •          願いごとが 叶いすぎたり
  •           だれも 悪くは ないのに
  •            悲しいことは いつもある」(中島みゆき『悲しいことはいつもある』より)
  •  

 私の学生時代は、下宿にはラジオしかなくて、深夜放送で流れる荒井由美(当時、現松任谷由美)と中島みゆきの歌声はまったく衝撃的でした。中学の頃に初めて森進一の声を聞いた時と同じくらいの衝撃度でしたね。

 とくに、中島みゆきの歌詞はあまりの“濃さ”に圧倒されてしまいます。「誰も悪くはないのに 悲しいことはいつもある・・・」。ラ・ロシュフコーばりの、そしてさらにはより太宰治的なこの台詞。そして、名曲『世情』の二番、

  •  #44:「・・・・
  •        世の中はとても臆病な猫だから
  •         他愛のない嘘を いつもついている
  •          包帯のような嘘を 見破ることで
  •           学者は世間を 見たような気になる」(中島みゆき『世情』より)
  •  

 これをある論文のエピグラフに使ったら、都立大(当時、現首都大学東京)の文化人類学(イスラーム学)の泰斗故大塚和夫先生に怒られてしまいました。「高畑さん、使ったでしょう! 僕が使いたかったのに!」。大塚さんはその後59歳で急逝され、悪い事をしてしまったかな、と反省しています。

住まいの人類学Part2:平地へ進出する時、屋根を支えるのは柱か壁か?

2011 3/3 総合政策学部の皆さんへ

 Part1に引き続き、住まいの人類学、今回のテーマは、平地への進出です。サルの仲間は基本的に夜は、安全な樹上ですごす。ヒトの先祖はやがて地上に進出しますが、その際、夜を例えば岩陰や洞窟のような安全な場所で過ごしたと考えられてきました。しかし、言うまでもありませんが、洞窟等の地形に左右される生活環境では、自ずからその収容人数も限られます。

 しかし、平地での集落は、その場所の環境収容力が許す範囲で、かつ、近隣集団との力関係など、様々な条件で多様な集落を発展させたことは想像に難くない。そんななりゆきが、人間社会の形成にも寄与していったのでしょう。

 さて、洞窟を離れた平地では、夜露をさけ、安全性を確保するため、一時的なものか、恒久的なものか、いずれにせよ構造物をつくる必要があります。そこで雨露をしのぐための“屋根”をこしらえようとすれば、その屋根を支えるものがいる。それが構造設計の始まりです(現代で、構造設計を主にあつかう事務所が構造設計事務所)。

 それでは、屋根をどう支えるか? その方法の一つがPart1で紹介したマンモスハンターたちのやり方で、彼らはシベリアという環境で、マンモス類の骨、象牙等を“柱”にテントをしつらえるように工夫をこらします。 

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 テントはいかにも遊動生活、非定住生活を連想させますが、やがて恒久的な建築物をたてる者があらわれます。その際、二つの方向がでてきます。

 一つは、屋根を“柱”と“”で屋根を支える“架構式構造”です。古くは、縄文時代の竪穴式住居から、柱を地面に直接埋め込んで建てる(=礎石を使わない)掘立柱がベースの掘立柱建物に移行、次第に巨大化します。

 縄文時代の“掘立柱の写真が上記「日本人遥かな旅」展にあります(青森県三内丸山遺跡):http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/4/4-09.html

 しかし掘立柱はいずれは土台が腐ってしまうので、立て直さねばならないのですね。その古式を逆に、みごとに儀式化することによって現代まで伝わっているもの、それが20年ごとの式年遷宮で建て替えられる(=リニューアルされる)伊勢神宮正殿にほかなりません。

 その一方で、恒久性を求めて地面に接する部分を礎石とする建築があらわれます(例えば、法隆寺金堂)。こうして礎石の上に木造の柱を据えて横架材等で屋根を支える木造軸組構法(いわゆる在来工法)が発展していくきます。世界遺産「Historic Monuments of Ancient Nara」の写真ギャラリーのURLはhttp://whc.unesco.org/en/list/870/gallery/

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 ちなみに、私が3年を過ごした東アフリカタンザニアのトングウェの人たちの伝統家屋はこの掘立柱に近かったと思います。シロアリに強い木を、礎石は使わず、そのまま柱にしていたような覚えがあります。壁は竹やアシのような植物で“木舞(コマイ)”のように編み、そこに泥土を塊にして詰め込むだけ。

 だから、日本の在来工法同様、屋根の重さを“柱”で支えるのが基本です。こうした屋根の重さを支える役目を果たさない壁を“非耐力壁(カーテンウォール)”と呼ぶそうです。タンザニアの在来の壁は、このように本当の“泥壁”で、その組成は地面と同じです。したがって、朽ち果てるともとの地面に戻ってしまう。後には何も残りません。これもあっさり潔いものです。

 その粗壁に丁寧に砂を含んだ土をぬり、鏝(コテ)でなめらかにして、そこに漆喰(スワヒリ語で“チョカー”)を上塗りすると、一見、まあまあ普通の壁に見える。そんな感じです。ただし、日本の在来の農家と同じで、天井を張る事は少なく、見あげれば小屋組の垂木が丸見えです。その意味で、“天井”というのも大きな発明ですね。

 天井がないと、(アフリカで住んでいた家がそうですが)、時々、食卓の上に虫をくわえたままヤモリが落下してきたり(虫にとびつき、みごとにキャッチしたのはよいけれど、そのまま落下するのです。もちろん、彼らは平気で走り去っていきます)、夜、屋根の上をガラゴが駆け回る足音がうるさかったりします。

 このように天井は防音・保温にどうしても必要です(ただし、日本の茅葺屋根だと、囲炉裏等から煙で屋根の茅が燻されて耐久性がたかまることもあり、農家等では天井を設けないのがふつうでした)。

 なお、トングウェの方々の屋根は、本来はイネ科の草で葺いていたのですが(つまり、茅葺)、手に入ればトタン屋根にするのが普通でした(もちろん、一般庶民には高値で、とても手がとどきません)。

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 一方、メソポタミア地方で発達したのは“日干し煉瓦”です。これは煉瓦で壁を組み上げて、その“”で屋根の重さを支えます。また、イヌイットの人たちは、冬季は手近な材料=雪でブロックを作り、スノーハウスを作りました(別の時期は、流木やクジラの骨を柱に、テントを張っていたそうです)。

 私が暮らしたタンザニアでも、日干し煉瓦は存在します。ただし、やはりお金がかかる(専門の煉瓦職人を雇わねばなりません)。ふつうの人はめったに建てられません。田舎にいけば、アラブ系の商人のお店等に限られてきます。

 先ほど紹介した知り合いのサイトに日干しレンガの家の壁と人々が映っているのでご覧になりたい方は右のURLを:http://members2.jcom.home.ne.jp/fumio.fukuda/photo/Downsized/mahale/arimashi.jpg。実は、私も滞在中、国立公園(当時は予定)用にと、ツーリストやスタッフ用に、何軒もたてました。日本に帰れば、そんなことはとうていできません。

  •  日干し煉瓦の建築にはなかなか手間がかかります。まず、日干し煉瓦職人を呼んで、このぐらいの家ならば煉瓦をどのぐらい必要とするかを計算し、契約します。それから、煉瓦をこねる水の手配(水を運ぶ人夫や、水をためるドラム缶等まで気をまわさねばなりません)やあれこれ考えます。さらに、壁ができた後の屋根組みのための別の大工と木材、トタンの手配、内装やドア、窓の相談等々も加わります。
  •  なお、この日干し煉瓦の家もまた、朽ち果てればそのまま土の塊にもどって、自然に戻っていきます。
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  さて、物理学的には日干し煉瓦も雪のブロックも、屋根を柱ではなく壁で支える“組積造”構造です。これが石材でも、鉄筋コンクリートでも同じで、“構造壁”が屋根を支えることになります。

 近年では、架構式構造は鉄筋コンクリート構造において、ラーメン構造・トラス構造に活かされます。それに対して、壁でささえる工法としては、木造建築でありながら、木製パネルを壁材に建てる2×4工法等にいかされているそうです(木造枠組壁構造)。そのあたりは、建築コースでない方も、是非、覚えていて下さいね。

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 ところで、組積造構造では、建物が巨大化すると、耐力壁はそれを支えるために巨大化しなければいけません(アロメトリーですね。建物が同じプランのままで高さを2倍にすれば、重さは2×2×2=8倍になるかもしれないが、それを支える壁の面積は2×2=4倍にしかならない)。

 こうして自重に耐えるため、控え壁(バットレス)や交差リブ・ヴォールトなどを採用する等、複雑な平面プランをとるゴシック建築等が発展します。構造力学の誕生です。また、壁や重さを支える柱の配置で、その建物の平面プランや部屋の大きさなどが決まっていきますから、設計は複雑になっていきました。

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   以上、つい長々と書いてしまいましたが、要は、地上に降りた時、ヒトは夜を安全にすごすのと、(たぶん)無力な子供を育てる場所として“住処”が必要となり、洞窟や岩陰から平地に進出する際、屋根と柱と壁が必要になり、それが必然的に建築や構造設計を発達させた、というところが今日のメーンの話題でした。

 皆さんも、教室や廊下で、ふと、この建物はなんで支えられているんだろうか? 壁から太い柱が浮き出ているが、これは何を支えているのか? あるいはどこが構造壁なのか、どこが非耐力壁なのか、たまには考えてみて下さい。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...