2011年4月

芸術家たちPart1:俳優の“我儘”と“憂鬱”前篇:俳優たちの悩み

2011 4/29 総合政策学部の学生のみなさん、とくに新入生の皆さんへ

 今回は話題を変えて、新シリーズとして“芸術家たち”を取り上げたいと思います。と言っても、芸術家にも様々なタイプがいます。Part1~Part3では演劇関係者をとりあげ、とくに俳優の我儘と憂鬱、そしてその工夫について紹介しましょう。

 『総合政策学部の100冊』でとりあげた小説『月と六ペンス』等で知られるイギリスの作家サマセット・モームは、その前半生において、世間ではむしろ劇作家として知られていました。この場合、同じ劇でも、イプセンバーナード・ショー等の思想劇、アルフレッッド・ジャリ等の前衛劇、ベルトルト・ブレヒト等の政治劇ではありません。

  モームの自伝的著作『サミング・アップ(要約すると)』で自ら「この間に書いた戯曲の大半は喜劇であった。それらは、王政復古時代にはなばなしく栄え、ゴールドスミスシェリダンによって踏襲され、これほど長い間人気があるからには、イギリス人の気質にとくに訴えるものを持っているのだろうと考えられかねない、伝統にしたがって書かれたものだった」とする商業演劇の世界です(中村能三訳、新潮文庫版)。

 もっとも、Wikipedia日本語版での商業演劇(そこでは「日本独特の演劇世界」と形容されています)とも少し違う、West End theatre(ロンドンの劇場街West End周辺のcommercial theatre)の世界です。

 なお、王政復古期とは、清教徒革命から名誉革命を経て、ステュアート朝が復古した1660年から1710年頃をさします。「官僚について考える~サミュエル・ピープスと朝日文左衛門から:高畑ゼミの100冊Part11bis(2010/02/4投稿)」でとりあげたサミェエル・ピープスが1660~69年に執筆した『日記』(書籍番号#44)の日々に該当します。このピープスは熱狂的な芝居ファン、一代の奇書『日記』はこの時代の演劇(Restoration comedy)の貴重な証言となっています。

  さて、こうした商業演劇の世界で、文学史に残る傑作を書く。これについては、モーム自身も「散文劇というものは、一枚の新聞におとらず、はかないものだ」と指摘している通り、なかなか難しいところかもしれません。West Endに対比されるアメリカのブロードウェイでも、文字通りの舞台裏で、作家と演出家、そして劇場資本間の熾烈な綱引きが展開します。

 例えば、「ファッションの人類学Part4:制服とそれにまつわるいくつかの話題(2011/02/4投稿)」でご紹介したテネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』を筆頭とする諸作品などがあげられるでしょう。

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 ブロードウェイで上演される作品は、実は、上演前に他の街で何度も試演を繰り返し、そこでの観衆の反応を見ながら内容の修正をおこなう/迫られたりします。そのやりとりのうちには、当然、 作者にすれば興行主等からの理不尽な要求もあり、(心底軽蔑している)通俗的観念に迎合することを強いられるのもしばしばです。

 このあたりについては、ウィリアムズの傑作『焼けたトタン屋根の上の猫』(初演は1955年、その年のピュリツアー賞受賞)の台詞での、“性”的表現の削除等が有名です。作家の必死の抵抗も衆寡敵せず、やむなく脚本の修正を余儀なくされたりします。とは言え、上演後に出版されるテキストには本当に書きたかったバージョンを活かそうとすると、脚本に試演版、ブロードウェイ上演版、作者の最終版等が並び立つという結果にもなります。

 実際、英語版Wikipedia『焼けたトタン屋根の上の猫(Cat on a Hot Tin Roof)』では“There are many versions of the play script, one of which was influenced by director Elia Kazan, who directed the play on Broadway, and another which was performed for the first time in London”と記されています。なんと、初演時、作者ウィリアムズに圧力をかけたのはブロードウェイで演出を担当したハリウッド映画の巨匠エリア・カザンでした。

 この二つの個性の塊のやりとりは、果たしてどんなものだったのでしょう? それだけで映画になりそうな気がします。

 ちなみに、『焼けたトタン屋根の猫』のブロードウェイ初演時の主演女優はバーバラ・ベル・ゲデス、その夫役はベン・ギャザラ(渋い配役ですね。この二人にとっても、『焼けたトタン屋根の上の猫』は記念碑的キャリアだったようです)。そして、ハリウッド映画版では先日亡くなったエリザベス・テーラーと、こちらも2008年に亡くなったポール・ニューマンです(監督はリチャード・ブルックス)。 

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 (話題がとめどなく拡散しそうになるので、元に戻りましょう、テネシー・ウィリアムズもアーサー・ミラーも、さらにはユージン・オニールも後日に取っておくことにして)モームが初めて商業的成功をおさめた『レディ・フレデリック』から最後の劇作品『貞女』まで、いかにも“手練れ”のように劇を生産していた頃、もちろん、彼は自分の作品を演じてくれる俳優たちとつきあいます。そして、『サミング・アップ』の中でこう振り返ります。

 俳優という職業はつらいものである・・・・・俳優というものは、運命と、観衆の移り気な支持の掌中に握られている。気に入られなくなれば、たちまち忘れられてしまう。そうなったら、大衆の偶像に祭り上げられていたことが、なんの役にもたたない。餓死したって大衆の知ったことではないのだ。

 これを考えるとき、わたしは俳優たちが彼の頂上にあるときの気取った態度や、刹那的な考えや、虚栄心などを、容易にゆるす気になるのである。派手にふるまおうと、馬鹿をつくそうと、勝手にさせておくがいい。どうせ束の間のことなのだ。それに、いずれにしろ、我儘は、彼の才能の一部なのだ。

 こうして、モームは何者にもなり替わることができながら(=これこそが演技です)、何者にもなることができない作家と俳優の内的心理を掘り下げます。

 (俳優の)本質はなにか不定型なものだというのが事実なのである。それはいかなる形にもなり、いかなる色にも染まる、柔らかい、順応性のあるものなのだ。「彼らに霊魂があると考えるのは笑止きわまることだから、長い間、宗教上正式の墓地に葬ることを拒絶されたとしても、それは当然である」とある率直な作家が言っている。

これはおそらく言い過ぎであろう。(中略)その小説家も、もし、誠実であったなら、自分とかれらの間に、ある近似があることを認めざるをえないだろう。(中略)作家と俳優は、他のときはいざ知らず、その瞬間は、自分たちが感じていない感情を表現するものである。そして、自分の一面を人生の外に出して立ち、自分たちの創造本能を満足させるために、その人生を描くのである。

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 こうしてモームは結論を下します。

 仮託が彼らの現実であり、彼らの素材でもあり、同時に審判者でもある一般大衆も、彼らにだまされているのである。仮託が彼らの現実である故に、彼らは現実を仮託と見ることができるのである。

 まさに浄瑠璃/歌舞伎界の名匠近松門左衛門が説く虚実皮膜論、「虚(うそ)にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰(なぐさみ)が有るもの也」です。真実をそのまま再現しても観客が満足してくれるわけでなく、しかし、虚に走りすぎてもそれもまた興醒めというもの、そのどちらともつかぬ皮膜の上での振る舞いが肝心なところです。

 と、ここまで来れば、もうおわかりでしょうけれど(なんとここまでがマクラでした)、今回の話題はこれ“俳優”の“我儘”です。と言えば、思い出されるでしょう、一時期、マスコミの格好の的となっていた11代市川海老蔵にほかなりません。

 モームがあげる「俳優はかつて墓地に葬られることさえ拒否された」件でもっとも有名な例としては、俳優としてより不世出の喜劇作者として名高いモリエールがあげられるでしょう。急死した彼の死体は、どの教会からも埋葬を拒否されます。妻が当時の王ルイ14世に懇願して、やっと葬られたと聞いています。 

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 さて、戦国時代から徳川時代初期にかけて、歌舞伎とはそもそもは宝塚のレビューのようなものだったのではないでしょうか? 出雲阿国が、当時の“かぶき者”にならって、男装して踊る。それを、そこらへんのミーちゃん、ハーちゃんがキャーキャー観ている。

 ところが、幕府にその華美を理由に弾圧されて、女優は禁止、すべて男が演じる野郎歌舞伎に変わっていく(イギリスでも、女性が演じることは長らく禁止されていましたから、シェークスピアも初演当時は全部男性でした。ということはジュリエットオフェリアも、マクベス夫人もみんな男性が演じていたわけです)。

 かぶき者については、「リサーチ&レポート;リサフェへの近道番外編~“退屈”ということについて~(2010/06/12投稿)」でも触れましたが、要するに、戦国時代の強烈な体験に一歩およばず、退屈な太平の世に飽き足らず、異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと、つまりはヤンキーな人たちがさらにとことんとんがった状態と思えば良いわけです。 

 その典型は大阪城夏の陣では、家康におとなしく主将を務めろと厳命されながら、ついつい血が騒ぎ、大将自ら首取りに突進する水野勝成に始まり、遺風はその孫にして町人奴と喧嘩沙汰の挙句、最終的には詰め腹を切らされる水野十郎左右衛門成之まで伝わり、そしてその筋書き自体を歌舞伎化してしまうのが最後の歌舞伎作家河竹黙阿弥。この連鎖の結果が明治14年初演河竹黙阿弥作『極付幡随長兵衛(きわめつき ばんずいちょうべえ)』です。 

 となれば、歌舞伎の御曹司がそれこそ“かぶき(=傾く)”をきわめても、本家帰りとでもいうべきものではないでしょうか、という気もしてきます。ちなみに、『極付幡隋長兵衛』の初演では、主役の長兵衛がなんと9代目市川団十郎(ただし、11代目が養子のため(七代目松本幸四郎の長男)、現在の11代目市川海老蔵とは血はつながっておりません)、水野十郎左衛門は二代目市川権十郎だったそうです。

 さて、話を江戸初期に戻して、幕命によって(阿国のような)女歌舞伎も、若者が演じる若衆歌舞伎(=現在のジャニーズ事務所のようなものでしょうか?)も禁止されて、やくたくもない“野郎歌舞伎”になった時、誰がどんな主役をはるのか?

 このあたりから、歌舞伎の主役たち、いわゆる立役(たちやく)=和事(わごと)、実事(じつごと)、荒事(あらごと)が登場し始めます。というところで、いったん幕にして、Part2に引き継ぎましょう。

食べることについてPart8:ヒトにとって“飲み物”とは?#1:“飲み物”を“分類”してみると

2011 4/24 総合政策学部の皆さんへ

 “食べること”に関するシリーズで、“飲み物”を扱うのはやや違和感を感じられるかもしれませんが、東日本(東北・関東)大震災でも明らかなように、ヒトも含めて生き物は水分を摂らなければいけません。かつ、“きれい”な水でなければいけないわけです。

 被災地では、上下水道が止まると生活まで営めなくなる。今回の場合、さらに原発事故のために放射性物質による汚染も気にしなくてはならない。

 さて、近代生活においては様々な用途があります。大きくわければ農業用水工業用水(この二つは産業用水にまとめられます)、そして生活(都市)用水、水資源をめぐる第一の問題は、この3つの用水間のトレードオフです。

 トレード・オフとは「一方を追求すれば他方を犠牲にせざるを得ないという二律背反の状態・関係」(Wikipedia)ですが、水ではさらに三律背反というべきでしょう。

 例えば、カリフォルニア州は砂漠から湿潤な大森林まで気候・生態系は変化に富みますが、サンフランシスコは雨量は565.9mm、三田の1292.4mmの43.8%しかありません。

 すると、貴重な水資源をサンキスト・グロワーズのオレンジ栽培(=農業用水)に向ければよいのか? シリコン・バレーのIT産業(=工業用水)を優先させるか? そしてサンフランシスコ自体の都市用水(=生活用水)をどう確保するか? 

 そもそも、この3つのうち、だれが稼ぎ頭か? それとも、どうしても減らすことができないシビル・ミニマムなのか? 地方政治家にとっては、きわめて政策的課題だということは皆さんもお分かりになるでしょう。

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 その都市用水自体もトイレや洗濯、洗車、散水、さらには医療(e.g., 透析)等に使われる水と、人が直接“飲み物”や“料理”に使う(つまり、体内に入れる)水に分かれます。そして、普段は“湯水”のごとく使っていたその水が、災害でストップしたとたんにみんな困ってしまうわけです。

 その一方で、現在、世界的に水資源不足が叫ばれています。具体的な問題として、(1)安全な飲み水を得ることができない人たちが11億人にのぼる、(2)地下水の過剰な汲み上げで農耕地が不毛化する、(3)水資源の過剰利用と汚染によって生物多様性が低下する、そして(4)水資源の不足が地域紛争をもたらす等が指摘されています(Wikipediaによる)。

 こうした事態はまた、水資源をビジネスとして扱う(水道民営化、水処理技術、ボトルウォーター等)のウォーター・ビジネス(例;Suez Environment)の隆盛ももたらしています。ということで、“飲み物”自体も十分“総合政策”的話題になるはずです。

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 さて、ヒトの体重の45~60%は水分といわれていますから(タニタのHP;http://pro.tanita.co.jp/tech/tn03.html)、その水を絶えず補給しなければいけません。サルの仲間でも、樹上生活に固執している種では、地上で水を飲む習慣自体がありませんから、食べ物(樹の葉や果物)に含まれる水分や代謝水(身体内で食物からエネルギーを得るクエン酸回路等の代謝で副産物として生じる水分;ヒトでは必要な水分の9%程度)で暮らしています。

 しかし、そのうちに地上に降りる連中もあらわれます。(ヒトの先祖もそうですが)ワオキツネザルやニホンザル、チンパンジー等は、安全だけれども制限がある樹上世界から、危険だけれども様々な可能性が待つ地上に進出していきます。彼らはやがて川等から水を飲むようになる。

 それでも、チンパンジーなどは自らの毛を濡らすのが嫌いで、水に接する時は“おっかなびっくり”、慎重に口だけを近付けて、すするように水を飲みます。

 私の経験では、マダガスカル南部の乾燥地帯(年間降水量が500mm以下、日本のだいたい3分の1)に生息するワオキツネザルでは、食べ物よりもむしろ水の方が競争が激しかった印象がありました。群れの中で水を飲む順番がはっきりして、それは順位と相関しています。彼らにとって水は必需品です。

 そうやってヒトも含む霊長類は水分を得てきたわけですが、人は川や池、さらには井戸を掘ってまで、水を求めるようになる。例えば、砂漠でラクダや牛を飼う牧畜民にとっては、井戸等の水源が死活問題になります。 三田のように、谷をせき止めて、ため池を作ったりする。これも“進化”の一断面です。

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 さて、ここまでを話のマクラとして、具体的な話題としてとりあげるのは、そんなヒトがいつしか飲むようになった(水以外の)“飲み物”です。例えば、ヒトの祖先はいつから飲み物を口にするようになったのか? とっさにはなかなか思いつきませんね。

 遊牧民ならば、誰が最初に牛の乳を飲むことを見つけたか? 農耕民ならば、誰がリンゴの汁をしぼることを考え付いたか? そして、それがアルコール発酵すれば、シードル(サイダーの語源、リンゴ酒)になることに気付いたか?

 あるいは、どのエチオピアの民人が、ヤギが食べると元気になるという噂もあるアカネ科の木の実を砕いて、お湯にとかし、コーヒーにすることを発明したか? 庶民の暮らしは、誰も記録しませんから、歴史の奥深く、隠されてしまいます。

 さて、何年か前のことですが、突然、数名の(私のゼミではない)学生さんが研究室を訪れます。彼らの用件とは、某飲料メーカーがビジネスプランを募集しているので、そのヒントはないか? というのです(今頃は、どこかの会社で働いていらっしゃるはずですね。どんなお仕事をしてらっしゃるのでしょう?)。私がまず口にしたのは「二つやり方があるかもしれない」ということです。

 一つは、ごくありふれた飲み物を工夫して、これまでの常識を覆す/新しい味を工夫すること=リニューアル/リセット路線。

 例えば、(私がかつて3年間アフリカで暮らしている間に、アラブ系の方にごちそうになった)紅茶をベースにしたチャイはどうか? もっとも、チャイはもうすでにかなり知られているから、発想を少しひねって、緑茶でハーブ・ティーをするのはどうか? あるいは、緑茶に砂糖をいれてみれば? それともミルクは?

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 もう一つは、これまで日本人が知らなかった新しい飲み物を、世界のどこかから見つけてくること=完全におニューな飲み物を出すこと。

 これは、例えば、アルゼンチンの伝統的飲み物マテ茶とか(三田でマテ茶が飲めるのは、ひょっとして私の研究室の中だけかもしれません)、南太平洋で愛飲されているカヴァとか(もっとも、日本では今のところ合法的飲み物なのですが、健康障害を起こす可能性もささやかれているようです)と答えました。

 そう言えば、アフリカのバオバブの実のジュースというのも、どうでしょう? こちらはいかにも健康的ですね。要するにビジネスプランとしては、(1)既存の飲み物のリニューアルか、(2)まったく新規の飲み物での挑戦か? この二つです。 

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 さて、Wikipediaで“飲料”の項目をみると、水(飲料水)、茶、コーヒー、ココア、清涼飲料水、アルコール飲料、牛乳、スープ、豆乳がカテゴリーとして並び、関連項目としてチルド飲料栄養ドリンクと続きます。なんだか、あまりすっきりした分類ではなく、目立ったところを並べただけのような気もします。「生命の科学」という授業ではじめの段階で触れますが、“分類”というのはなかなか難しく、ビジネスの基本の一つでもあります。

 それでは、日本では“飲み物”をどのように分類しているのでしょうか? などと考えた事はありますか? 例えば、法律上の分類では?

 日常、国民が摂るべき飲食物の安全性を守るための法律=食品衛生法での、“飲み物”の定義あるいは分類を紹介してみましょう。総務省法令データ提供システムによる「食品衛生法施行令」では、第一条に法令の対象が列挙されています。

 ここで、学生の皆さんへのアドバイスですが、レポート等で法令関係や統計資料を調べる時は、時にはあやしげな記事も混じっている一般のHPを探すより、まず、国が提供している確実なデータ(上記のようなシステム)を検索してくださいね。(もっとも、私自身、このブログを書くまで、飲み物の法的定義などまったく知りませんでした)。

 さて、その具体的条文ですが、

  • 第一条  食品衛生法 (以下「法」という。)第十三条第一項 の政令で定める食品は、次のとおりとする。 
  •   一 牛乳、山羊乳、脱脂乳及び加工乳
  •   二 クリーム、アイスクリーム、無糖練乳、無糖脱脂練乳、脱脂粉乳発酵乳乳酸菌飲料及び乳飲料
  •   三 清涼飲料水(以下、略)

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 それでは、喫茶店等で出すコーヒーや酒類はどこで規定されているのかと言えば、

  • 第三十五条  法第五十一条 の規定により都道府県が施設についての基準を定めるべき営業は、次のとおりとする。
  •   一 飲食店営業(一般食堂、料理店、すし屋、そば屋、旅館、仕出し屋、弁当屋、レストラン、カフエー、バー、キヤバレーその他食品を調理し、又は設備を設けて客に飲食させる営業をいい、次号に該当する営業を除く。)
  •   二 喫茶店営業(喫茶店、サロンその他設備を設けて酒類以外の飲物又は茶菓を客に飲食させる営業をいう。)
  •   (中略)
  •   十九 清涼飲料水製造業
  •   二十 乳酸菌飲料製造業
  •   (中略)
  •   二十八酒類製造業

  などの第35条がカバーしているようです。

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 そこで、“ふと”気づくことには、ジュースはいったいどこに入るのでしょうね? なんと、1960年代まで法的定義がなかったそうです! Wikipediaによれば、「1967年末に「農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律」(JAS法)が改正され、果汁100%のもの以外は、『ジュース』という名称で販売できない」ことになった」そうです。

 ということは、果汁100%でない“ジュース”の場合、清涼飲料水になってしまうのではないでしょうか? と思って調べると、「「食品衛生法質疑応答ハンドブック」では、「トマトジュース、濃縮ジュース、凍結ジュース、ソーダ水、タンサン水コーラ類、ジンジャエールミネラルウォーター豆乳ガラナ飲料等々およそ飲料はすべて清涼飲料水に該当する」と例示される。」(こちらもWikipedia)だそうです。茶やコーヒーも、容器入りだと清涼飲料水に分類される。つまり、近代化によって商品化された飲み物のうち、アルコール飲料と乳製品以外のものを総称しているとも言えそうです。

 分類学では、どうにもきっちり分けられないものをぶち込む“ゴミ箱”が必要悪として存在しているのですが(例えば、哺乳類の食虫目、恐竜のメガロザウルス)、この場合は清涼飲料水が担当しているのでしょうね。なんでもぶちこんでしまって、後は涼しい顔をする便利な“ゴミ箱”なのです。

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 さて、ヒトの欲望は文明の進展とともに発展しますが、それは飲み物とて同じことです。その中で、最初はマイナーな存在だった飲み物が、グローバル化していく。その種類は意外に少ないようです。 すなわち、コーヒー(紅茶も緑茶も含めて)、ココア、これらはマイナー/ローカルな飲み物から、近代化の中でめでたくグローバルなものに昇格したものです。

 そのほかは、近代産業化のなかでうまれてきたレモネードラムネを含む)、サイダー(本来、イギリスとフランス[シードル]ではリンゴ酒)、コーラ類、そして何らかの形で加工されたジュース類等に代表される清涼飲料水となります。

 つまり、“お飲み物”とは、ごくわずかな種類のグローバルな家庭/喫茶店などで出す茶/コーヒー以外は、牛乳に由来する物と、JSA法に規定されるジュースと、“ゴミ箱”的に清涼飲料水にぶち込まれる種々雑多な飲み物ということになるのでしょう。 

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 それでは、めでたくグローバルな飲み物に昇格できた茶、コーヒー、ココア、コーラ等は何か特徴があるのか? 皆さん、わかりますね?

 それは、どれもが各種薬効成分があることです。茶はタンニンテアニンビタミンC(蒙古の人たちは、中国から輸入する茶でビタミンを摂っていたとも聞いたことがあります)、そしてカフェイン

 コーヒーはポリフェノールアルカロイド(その中にトリゴネリンやカフェイン)、ココアはカフェイン、テオブロミン、ポリフェノール等。

 言うまでもなく、カフェイン等は強心・覚醒作用があり、初期にイスラーム教徒の人々にコーヒーが伝わった時、「この飲み物は神の御心にそったものなのか?」、イスラーム法学者の間で論争があったと聞いています。つまり、これらは覚醒剤や麻薬ほど強力・有害ではないが、ある種の精神活性作用を引き起こすものとして受け入れられていったものなのです。

 なお、Wikipediaによれば、ヨーロッパではカフェインに弱い方=カフェイン耐性を持たない方が結構いらっしゃて、コーヒー酔いを示したりするそうです。

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 さて、初期には薬効作用があった飲み物の典型がコカ・コーラでしょう。1885年、アメリカの自然療法家ジョン・S・ペンバートン によって発明・販売されたコカ・コーラは「おいしくて、リフレッシュでき、スカッとして、爽快な」頭痛を癒し、疲れを取り除き、神経を落ち着ける飲み物」(Wikipeida)として売り出されます。

 当時は(現在では麻薬に指定されている)コカイン(南米のコカの葉から抽出)と、カフェインを大量に含む(アフリカ原産の)コーラの実のエキスという、まさに覚醒剤の塊のような代物で、リフレッシュすることは間違いなかったと思います。

 それが、20世紀初頭のFDA(アメリカ食品医薬品局)との熾烈な訴訟合戦の結果、コカインの除去やカフェインの低減等をへて、民衆に受け入れられる“清涼飲料水”化する。つまり、一般市民社会に許容されるボーダーがひかれた=これが飲み物の近代化の一側面です。

 しかし、それを切り抜ければ、今度は低価格で売り出すペプシ・コーラとの競争(ビジネス・スタディの“ダーウィンの海”ですね=通称コーラ戦争等も勃発します)、アメリカ軍の軍需物資としての政府との密着とグローバル化=これが飲み物のビジネス化の側面です。というように、“飲み物”であっても、レポートのテーマなどいくらでも転がっているかと思います。

  •  例えば、日本におけるコカ・コーラの受容と会社側の戦略、成功とその齟齬
  •  缶コーヒー開発時の販売戦略(世界初めての缶コーヒーの販売に成功したのは、UCC上島珈琲が1969年に売り出した“UCCコーヒーミルク入り”だそうです)。
  •  あるいは、ペットボトルが出現した時の、各飲料メーカーの戦略・・・・・
  •  

 こんなことを考えていると、思わぬビジネス・プランがころがっているかもしれません、文字通り、“水商売”なのです。

新入生の皆さんへ:“市”をめぐる人類学番外編:ポトラッチについて~トーテムポールからねぶた、カーニバルまで~

2011 4/17 総合政策学部の皆さん とくに新入生の皆さんへ

 私の専門は生態学と人類学ということで、人類学の話題をわかりやすく(できれば、おもしろく)紹介しようと思って、ブログにいくつかシリーズを作っています。例えば、 “市”をめぐる人類学シリーズ。

 市場(いちば)なんて研究の対象になるのか?! と思う方は試しにアフリカの市場を扱ったPart1Part2、最近国際援助の舞台でも取り扱われることが多くなったインフォーマル・セクターをとりあげたPart3、そして南京町と上野アメ横センタービル地階を扱った番外編をご覧いただいた上で、今回はさらにちょっとはずれた番外編“ポトラッチ”です。

 Part1~Part3はいわば(貧しいアフリカ等から)経済的発展をめざす道ですが、ポトラッチとはある意味、その経済的発展を阻止し、現在の状態を変えまいとする仕組みの一つでもあります(フランスの偉大な構造主義文化人類学者レヴィ=ストロースのいう“冷たい社会”の維持)。と切り出しても、何のことだか、にわかにはおわかりにならないかもしれないので、以下、解説です。

 まず言葉の由来ですが、これはアラスカからカナダを経てアメリカ合衆国北西部に至る太平洋岸北西部にすむネィティブ・アメリカンの諸民族ハイダニューホークトリンギットツィムシャンヌートカクワキウトル等)の儀式に由来します。

 なお、この儀式を始めるにあたって彼らが立ち上げるのが(皆さんもよくご存じの)トーテムポールです(Museum of Anthropology, University of British Columbia所蔵のトーテムポールのコレクションの画像がhttp://www.moa.ubc.ca/collections-online/search?keywords=totem+poleに載っています)。

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 さて、このポトラッチに注目したのは20世紀初頭のフランスの社会学・人類学者のマルセル・モースです。彼は代表作『贈与論』でとくに“物”の交換に着目し、後世の研究者に大きな影響を与えます(例えば、レヴィ・ストロースの“もの、言葉、性の交換”に関する論考に発展します。そこで重視されるのは交換の構造なのですね)。

 それでは、ポトラッチとは何か? そのモースの言葉を紹介しましょう(M・モース『社会学と人類学』有地亨他訳、弘文堂)。

本来は<食物を供給する>とか、<消費する>とか言う意味である。これらの部族は、非常に裕福であって、島嶼、海岸あるいは海岸とロッキー山脈との間に定住し、その冬を絶え間のない祭礼-饗宴、定期市、取引であり、同時に部族の盛大な儀式的集会でもある-の中で過ごす(中略)

これらの部族において注目さるべきことは、これらのすべての活動を支配する競争と敵対の原則である。はては、戦いを挑むまでにいたり、対抗する酋長や貴族の死をまぬく

  つまり、金持ちになった者は、しかし、金持ちのままでは誰にも尊敬されない。そこで全財産を散財する(他者にあげたり、燃やしたりする)。そうして一文無しになることで、他者に尊敬される。これが一つのパターン。もう一つは、他人に贈り物をする。もらったものは、それに+αでお返しをする。すると、さらに上乗せした贈り物を返す。

 こうして、誰かが破綻するまで、贈り物のチキン・ゲームを繰り広げる。果ては、相手を死に追いやることさえある。なんだか、たいへんな代物ですね。 

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 “ポトラッチ”は本来チヌックジャーゴン語(Chinook Jargon)で、「贈る」または「贈り物」を表します。そして、裕福な家族や有力者が、子供の誕生や命名式、成人の儀式、結婚式、葬式、死者の追悼などの機会に、自らの財産をわけあたえる、つまり、“気前が良い”行為だったはずです(経済人類学者のK・ポランニーの分類では“富の再分配にあたります)。

 それが、社会の変革の中でエスカレートが進み、果ては、(1)その財産を蕩尽し尽くすか、あるいは(2)とめどのない(チキン・ゲームのような)贈与合戦になっていく、これがモースの着目点です。なお、チヌックの人達たちの間でポトラッチが急激に拡大したのは、おそらく白人社会との接触で、貧富の差が拡大したこと、そして社会全体が不安定になっていったことと関連すると思われています。

 ポトラッチでひたすら蕩尽する場合は、分配された品物を受け取った直後に破壊したり、燃やし尽くすのです。こうして多量の財物を与える/破壊すればするほど、その人間のプレステージが上がっていく。財産は失うが、名誉は獲得する。こうして、(結果として)社会に芽生えかけた富の不公平が一気に解消され、社会的メンバーの平準化が図られる。

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  一方、贈与という形のポトラッチだと、贈られた側はさらに多くの品物を送り返さねばならず、際限のない贈与合戦がエスカレートしていきます。システム論でいう“正のフィードバック”の暴走です。こうして相手が破産するまで、互いの名誉をかけた勝負が続く! 大変です。

 「タイの王様は、気に入らない家臣に“白象”を贈る。いったん贈られた“白象”は大事に世話しなければならず、次々と贈られる白象の世話に耐えきれず、家臣は破滅していく」等という話を(本当かどうかはさておいて)うろ覚えに聞いたことがありますが、こうして“贈り物”には“底しれぬ悪意”が込められる時もあるかもしれません。

 Wikipediaで調べたら、なんと、「英語で「white elephant」は「不用なのに維持費だけは高くつく物」を意味する名詞である。アメリカ海軍のアラスカ級大型巡洋艦、超音速旅客機コンコルド、タイ王国海軍の空母チャクリ・ナルエベト、ロンドンのミレニアム・ドーム(現・The O2)、モントリオール・エクスポズの本拠地だったオリンピック・スタジアムなどが「white elephant」と呼ばれた」とありました。 

 ネイティブ・アメリカンのポトラッチに話を戻して、とくに18世紀~19世紀、白人の到来とともに先住民間の富の偏在が先鋭化するなど、ポトラッチは大流行/インフレーションを起こし、宣教師や白人の役人は文明や布教への障害として、法的に禁止するまでにいたります。

◆ポトラッチの画像:http://en.wikipedia.org/wiki/File:Klallam_people_at_Port_Townsend.jpg

◆かつてのポトラッチの写真:http://www.potentialestate.org/Newsletter-02-Curare-Curare.html

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 本来の“冷たい社会”においては、ポトラッチとは社会のメンバーの貧富の差を平準化されるための一つの社会的仕組みというべきものだったのでしょう。富の再分配(あるいは破壊)によって、みんな社会的な満足を得る。「出るクギを打つ」のではなく、「出そうになったクギは、名誉と引き換えに、自らの頭を引っ込める」わけです。

 こうした仕組みは、実は社会のいろんなところに残されているかもしれません。例えば、1年の稼ぎをすべて使い尽くしてカーニバルに注ぎ込むリオノッティング・ヒルの人たちも、1年のほとんどすべてをねぶた/ねぷたにかける青森の人たち、あるいはだんじりに人生を注ぎ込む岸和田の方々も、この社会的ツールのもとに喜びと満足をえているようです。

 そして、おもしろいことに、これらのツールでは個人は自らの財産を蕩尽しますが(財産をすべてカーニバルの準備に費やす等)、地域経済の観点では、このツールを軸に社会が活性化するようでです(少なくとも、キャッシュ・フローは増大して、経済的効果は大きく、地域社会は活性化される、そのはずですよね?

 このあたりは、経済学は大の苦手なのですが)、皆さん、ご理解できましたか?

◆リオのカーニバル:http://beholders.org/mind/artshistoryculture/186-the-history-of-carnival-in-brazil.html

◆だんじり祭り:だんじりをはじめ山車・地車の愛好家のページがありました:http://www.eonet.ne.jp/~tidorikai/

◆ねぶた/ねぷた:ねぶた祭りの総合施設というページです:http://www.nebutanosato.co.jp/toppage.html

◆ポトラッチのような建艦競争の果て:イギリス本国艦隊(The Home Fleet) 対 ドイツ大洋艦隊、1916年5月31日両者が激突した(かつ、どちらも決定的勝利を得ることができなかった)ユトランド沖海戦に集結したのは、本国艦隊151隻(28隻の弩級戦艦と9隻の巡洋戦艦)、大洋艦隊99隻(16隻の弩級戦艦と5隻の巡洋戦艦、そして6隻の前弩級戦艦)でした。結果、イギリス側14隻沈没、6094名死亡、ドイツ側11隻沈没、戦死者2554名。なんという犠牲者の数、そして虚しく沈んでいく近代工業の塊、戦争は巨大な消費行為なのです。

 その一方で、“熱い社会”の到来とともに作り上げられた階層社会の頂点に立つ権力者にとっても、祭りの日、貴賤の差をとりはらい、蕩尽と興奮に費やす瞬間を設けることは、庶民を治める一つのテクニックであったのでしょう。

 かつて、ハイチを30年間支配した独裁政権フランソワ・デュヴァリエジャン=クロード・デュヴァリエ政権下、一年のうち、カーニバルの一日だけは、大統領に直接電話をかけて、政権にどんな暴言を吐こうと、おとがめなしであった、と聞いたことがあります。これもまた一種の政治的ポトラッチかもしれません。

住まいの人類学番外編:過去の記録にみる人と災害、そしてそこに浮かびあがること#2

2011 4/13 総合政策学部の皆さんへ

 #1につづいて、災害の話を続けましょう。4月10日の朝日新聞朝刊(大阪本社版)の第1面の見出しは「見えぬ被災全容」とあります。11日には東日本大震災から1カ月が経つというのに、被害が見えない。それも福島第一原発のように、原発事故がさらに広がる可能性もあるケースを別としても、直接の津波被害でさえ、把握しきれない。動物で例えれば、神経系がマヒしたために、自分の身体のどの部分に支障が生じたかさえ、わからない状態と言えるでしょう。

  つまり、これまで頼り切っていたシステムが依然として崩壊したままだというわけです。今回の災害では、何よりも「全体像が見えない事」、これが一番の問題です。

 さて、災害についての記述は、しばしば回顧的(レトロスペクティブ;retrospective)な視点で語られます。#1で少し紹介したリーサーの『ロンドンの恐怖』等はその典型で、ペストの流行/ロンドン大火という大災厄から300年後、ありとあらゆる文献を渉猟して、資料を組み合わせ、全体像を復元した上で、過去を物語る。ある意味、神にも近い立場から、事態を説明するわけです。

 その対極が、その日その日で感じた事、つまり全体像を把握せぬまま、目の前で起こったことをそのままリアルタイムで書き残す日記等です。そこでは、神から遠くへだたった一介の“ヒト”としての立場から書かれるので、全体像はなかなか見えてこない。読者はそこについ苛立たしさを感じながら、いつしか個別のストーリーに引き込まれていく、これこそが『日記』の醍醐味であるとも言えるでしょう。

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 #1で紹介した『大地は壊れたり』の著者田淵巌が、帝国教育会から必死の思いで脱出しようとしていた時、一介の戯作者として陋巷に身を潜めんと麻布偏奇館に起居していた小説家永井荷風もまた激震に襲われます。一生を通じて書き続けた日記『断腸亭日乗』(私が持っているのはその摘録[磯田光一編;岩波文庫編]です)には、その衝撃が克明に書き綴られています。田淵の衒学的筆致と比べるのもまたおもしろいかも知れません(もっとも、荷風は『断腸亭日乗』にしばしば加筆しているので、完全にリアルタイムというわけでもないかもしれませんが)。

九月朔(ついたち) ・・・日まさに午(ひる)ならむとする時天地忽ち鳴動す。予書架の下に座し『嚶鳴館遺草』を読みゐたりしが、架上の書帙頭上に落来るに驚き、立ってまどを開く。門外塵烟濛々、殆(ほとんど)咫尺を弁せず。児女雞犬の声頻なり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるがためなり

 これが、荷風の大震災体験の始まりです。彼の寓居“偏奇館”は、麻布の山の手の大地にあり、幸い、地震による損傷はなく、かつ、震災での延焼も免れます(結局は、1945年3月10日のアメリカ軍による東京大空襲により焼失するのですが)。荷風は続けます。

もまた徐(おもむろに)に逃走の準備をなす。時に大地再び振動す。書巻を手にせしまま表の戸を排(おしひら)いて庭に出でたり。数分間にしてまだ振動す。身体の動揺さながら船上に立つが如し。門に倚りておそるおそるわが家を顧るに、屋瓦少しくすべりしのみにてまどの扉も落ちず。やや安堵の思いをなす。昼餉をなさむとて表通りなる山形ホテルに至るに、食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移し二、三の外客椅子に座したり

 やがて、大火が起きていることを知って、「愛宕山に登り市中の火を観望す。十時過江戸見阪を上り家に帰らむとするに、赤坂溜池の火はすでに葵橋に及べり。河原崎長十郎一家来たりて予の家に路宿す。葵橋の火は霊南坂を上り、大村伯爵家の隣地にて熄む。わが廬を去ること僅かに1町ほどなり」やがて流言飛語もとびかいます。「九月三日。微雨。白昼処々に放火する者ありとて人心恟々(きょうきょう)たり。各戸人を出し交代して警備をなす

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 大震災の1カ月後、荷風は所用があって都心部に出かけます。十月三日。快晴始めて百舌(モズ)の鳴くのを聞く。午後丸の内三菱銀行に赴かんむとて日比谷公園を過ぐ。林間に仮小屋建ち連り、糞尿の臭気堪ふべからず。公園を出るに爆裂弾にて警視庁及近傍残焼の建物を取壊中往来留となれり・・・・

「阪上に立って来路を顧れば一望渺々たる焦土にして、房総の山影遮るものなければ近く手に取るが如し。帝都荒廃の光景哀れといふも愚かなり。されどつらつら明治以降大正現代の帝都を見れば、いはゆる山師の玄関に異ならず。愚民を欺くいかさま物に過ぎざれば、灰燼となりしとてさして惜しむには及ばす

 続けて、近年世間一般奢侈驕慢、貪欲空くことをしらざりし有様を顧みれば、この度の災禍は実に天罰なりといふべし。何ぞ深く悲しむに及ばむや。民はすでに家を失ひ国帑また空しからむとす。外観のみを修飾して百年の計をなさざる国家の末路は即かくの如し。自業自得天罰覿面といふべきのみ

  •   同じ“天罰”という言葉を使いながら、(かつ同じ生業=作家でありながら)荷風の嘆きは、某政治家とは違って、近代日本の持つ本質を深くえぐり出します。
  •   

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 その灰燼に帰した帝都東京でいち早く、復興に動き出した人物がいます。震災の半年前、1923年4月に東京市長の座を去りながら、関東大震災の翌日成立した第2次山本権兵衛内閣内務大臣に就任した後藤新平です。近代的テクノクラートとして、すでに65歳の齢に達していた彼は生涯最後の大仕事に邁進します。

  •  このブログのシリーズでは、「高畑ゼミの100冊Part5;きだみのる、大杉栄、そしてオスカー・ルイス(2009 12/5投稿)」でご紹介の『大杉栄自叙伝』において、資金に窮したアナーキスト大杉栄が金をゆすりに訪れて、 
  •   後藤:どうしてそんなに困るんです?
  •   大杉:政府がぼくらの職業を邪魔するからです。
  •   後藤:が、特に私の所に無心に来たわけは?
  •   大杉:政府がぼくを困らせるんだから、政府に無心に来るのは当然だと思ったのです。
  •                  そうしてあなたならそんな話がわかろうと思ってきたんです。 
  • と会話をかわすあの後藤です。
  •  

 後藤は就任したばかりの9月2日、たった一日で東京復興の4方針、①遷都の否定、②復興費の算定(30億円=大正5年の1円は平成18年の923.8円だそうですから、これで計算すると2兆7700億円)、③欧米の最新の都市計画を適用する、そして④都市計画の実施のために地主に断固たる態度をとり不当利得を許さない、を決定します。

 あくまでも復旧ではなく、復興を目指す後藤はさらに、6日の閣議に「帝都復興ノ議」を上申、そこでは①帝都復興の基本政策を審議・決定する機関(帝都復興院)の設置、②帝都復興事業は国費で実施し、その財源は内外債による。③焼失区域の全域を一括買収、整理後、それを払い下げ、または貸し付けるやり方をとるとしています(越澤明『東京都市計画物語』ちくま学芸文庫版より)。とくに③は財政的見地から反対されたとはいえ、「大風呂敷」と揶揄混じりに評された後藤新平の面目躍如です。

 後藤が動員した帝都復興院は、震災一週間後の9月9日には復興費を41億円と見積もりますが、政府の閣議は最低ぎりぎり必要な額として10億円に減額、さらにそれさえも伊東巳代次伊藤博文の懐刀で、勝海舟がことに嫌った人物ですが)らの保守派から「誇大妄想(=大風呂敷)」と攻撃され、5億7500万円の予算案に減額、そしてさらに地主層が多い議会によってさらに2割をカットされるという憂き目にあいます。

 それでも、非難・中傷の嵐の中、「帝都復興計画は大幅に縮小されたものの、長年の課題であった東京の都市計画を曲がりなりにも実現し、多大な成果を残した」「帝都復興計画に対する当時の有力者、世間の無理解と反対を考えると復興事業の実現がむしろ奇跡に近いものと言えよう」(越沢、前掲書)。

 もちろん、後藤への評価は毀誉褒貶甚だしく、Wikipediaでは「 後藤の独裁的な政策は地主・地権者の私有財産権を無視しており、今日でも厳しい批判をあびている。この復興事業は、パリの区画整理をモデルにしたものであり、既成市街地における都市改造事業として、後藤の独自の発想とは言えない」「帝都復興予算が削られたために復興委員会は買収費用がかからない共有地を潰し掘割を埋めたことにより、ロンドン、ニューヨーク、パリ等の大都市と比しても圧倒的に森が少ない点や、自治のプロを任じながら時代の流れのままに都市問題解決の中核となる地域コミュニティの結束点を破壊している」などが指摘されています。

 このあたり、後藤が模範としたであろうパリの大改革、つまりオスマン知事への毀誉褒貶とほとんど一致するところでしょう(都市計画に興味がある方は、是非お勉強を)。ステークホルダーが多い都市計画は、実行しようとする者にとっては、あまりにも魅力的でかつあまりにも落とし穴が多いといえるでしょう。

 なお、後藤新平の出身地は陸奥国(むつのくに)胆沢郡(いさわぐん)塩釜村(現奥州市)、内陸部ですが、このたびの大震災では家屋多数が破損・倒壊、幸い死者・行方不明者はいらっしゃらないようです。

  •  ちなみに、後藤新平が残した名セリフはよく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」(Wikipediaより)
  •   

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 もちろん、東日本大震災で被災された方々にとっては、そして日本にすむすべての人々にとっては、誰が後藤のごときリーダーシップを取れるのか? という課題に他ならないわけですが。このあたりto be continued・・・・ですね。 

住まいの人類学Part3:集落の成立と人々の争い

2011 4/10 総合政策学部の皆さんへ

 東日本大震災からもうじき1カ月が経ちますが、今回はPart1Part2に引き続いて、住まいの人類学Part3として、ヒトはいつから集落をつくるようになったか? をとりあげましょう。

  実は、集団でいることには、それなりにコストやリスクがかかる。例えば、このたびのような大規模災害に弱い、あるいは番外編#1でも少しふれた『ロンドンの恐怖』で描かれているように、ペストコレラインフルエンザ等の感染症にも脆弱である。それなのに、なぜ、人はかたまるのか?

 まず、古代ギリシアの哲学者アリストテレスがすでに指摘しているように、ヒトは独りでは生活できない生物です。(何時からは分からないが)“家族”で生活します。そして、サルのような(安全な)樹上生活から平地への進出は、猛獣に襲われる等の様々なリスクをともないます。

 こうして、ヒトの集団はいくつかの家族が住む家屋の集合=集落という形をとり始めます。その当時、集団生活のコストよりもその利益の方が上回ったのでしょう。

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 それでは、世界最古の集落はどこか? 難しいですね。洞窟では、ちょっと集落とはいえないかもしれません。それでは、どんな段階から家々のあつまりといえるのか?

 一説によるとそれはメソポタミア地方、つまり、地中海農耕文化の一大要素=作による農耕が始まった現在のシリア、テル・アブ・フレイラの遺跡だと言われています。

 ここでは、今から約11,500~10,000年前頃までに100~200人が生活した集落跡が見つかりました。この時期はまだ野生の動植物に頼っていたようですが、ライムギの耕作・栽培の証拠が見つかっているそうです。

  それが、9400~7000年前の新石器時代(すなわち農耕が広がった時期)には、最初の集落より10倍大きい15haもの集落ができます。  当時の家々は泥レンガでたてられた長方形の住居で、古い住居が崩れるとその上に新しい住居を再建するので、集落は重なり合って丘状になります。これが“テル(遺丘)”です。イスラエルの都市テル・アビブのテルも同じ語源です。

 黒人霊歌ジェリコの戦い(Joshua Fit The Battle Of Jericho)」で知られるパレスチナの町ジェリコもまた、古い集落として知られています(皆さん、旧約聖書で読んでいますよね?)。ジェリコの町にある遺丘テル・エッ・スルタンは紀元前約1万年前にさかのぼります。この遺跡の遠景はこちらです

 この遺跡のうち「先土器新石器A」(Pre-Pottery Neolithic A)と呼ばれる層(紀元前8350~7370年頃)に、広さ約4ヘクタール・高さ約4m・厚さ約2mの石の壁で囲まれた集落跡が見つかり、高さ8.5mの石塔も建てられていました。

  ジェリコの建築物の跡はこちらの写真をご覧ください。なお、聖書での事績としての “ジェリコ(エリコ)の戦い”はヨーロッパの絵画等にとりあげられています。例えば、シャルル7世の肖像画で知られるフーケ (1420–1480)作の絵はこちらです。絵には崩れ落ちる石壁も描かれています。

 もっとも、当時の時代考証等は怪しいものですから、城壁のなかの街並みはヨーロッパの中世都市そのものです。

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  さて、ジェリコのような周囲を壁で囲った集落は、ある意味、防衛的性格を感じさせます。つまり、“争い=戦争”が前提の街なのです。とくに“組積造”構造の場合、構造壁自体が分厚いものですから、建物を集めれば、あるいは防衛的に“壁”を作れば、それはそのまま“城壁”になっていくわけです。

 つまり、ヒトの集団が成立すると、集団同士の争いが激化し、それに勝ち残るためにさらに集団を大化させる。

  まぎれもなくレヴィ=ストロースの指摘する“熱い社会”への道であり、ムブティ等の“冷たい社会”を選んだ方々を置き去りにした暴走の始まりです。と、考えると、複雑な気分にならざるを得ません。

 実は、これは日本の弥生時代についても指摘されています(やがては、いわゆる倭国大乱にまでつながります)。“田畑”という不動産を手にした人々は、たしかな財産を手にしたわけですが、それは他者から“奪われる”可能性も出てくる。つまり、豊かさの中の争いです。しかし、架構式構造による日本建築では、壁を頼る事はできません。

 こうして、集落のまわりに堀や城壁をめぐらします。これが「戦争について考えてみましょうPart1:貧しさの中の平和 vs. 豊かさの中の戦争?(2010/09/23投稿)」でご紹介した弥生時代の環濠集落です。まぎれもなく防衛的な機能をクローズアップさせるものです。 

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 ヨーロッパでは、湖上の集落も出現します(ベネツィアと同じですね。防衛のための街づくりです)。例えば、ポーランドのビスクピン遺跡です。ここは低湿地帯に鉄器時代初期に作られた砦および集落が復元されているそうです(復元された砦の写真がこちらです)。

 同様に、スイスのヌーシャテル湖北岸にあるラ・テーヌ 村でも、1857年、干ばつで湖の水位が低下した時に、湖底から木杭の列が見つかり、湖上に杭を打って作った村だとの解釈があります(フランス語の遺跡のサイトはこちらです)。

 こうしてみると、人が守るべき資源(土地、食料、etc.)、防衛のために集まって防衛的集落を作ったか、あるいは他の集団を襲うために集団化したか? まるで、食べられる側のゾウが母系的群れを作って対応しようとすると、それを食べる側のライオンもまた母系的群れを作って集団で襲うようになるのと同じようなものです。

 いずれにしても、争いや戦いとともに、集落も発達し、それに応じて社会も階層化されていくのかもしれません。こうして、ユーラシア大陸のそこここで集落が発達し、その集落の周囲を包むように城壁ができ、その中に街が生まれます。

 彼らは互いに争いながら、集団はやがて大きくなっていきます。古代ローマでは、王政時代、第6代のセルウィウス・トゥッリウス王が、石造のセルウィウス城壁を建設、全周11km、厚さは基部で3.6m、高さは最高で10m、16の大門があったそうです(Wikipediaによる)。権力者はこの門を抑えれば、街を完璧に支配できる、はずなわけですね。

 あのハンニバルも超えることができなかったこの壁は、ローマのあちこちに残存しているそうです(画像を載せたサイトはこちらです)。しかし、ローマへの人口集中によって、壁の外にも人家が密集する事態になってしまう。

 こうして西暦271~275年に、皇帝アウレリアヌスが“アウレリアヌス城壁”を築きます。こちらは全周19km、12.7平方㎡、(コンクリートを煉瓦で覆った)壁の厚さは3.5m、高さ8m(5世紀に16mに倍増)、5世紀には383の防衛用の塔、18の大門、5つの通用門、116の公衆便所があったそうです(Wikipediaによる)。こちらが画像付きのサイトです。 

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 やがて、キリスト教が普及し、ヨーロッパには世俗権力(等の領主様)とカトリック教会による宗教権力(法王枢機卿大司教司教・・・)が並立します。この二つを象徴する建物、すなわち城(宮殿)と大聖堂(カテドラル)を中心に、城壁に囲まれた地域、それが市(シティー)に成長していくのです。

 ちなみに現在の(行政単位としての)ロンドン市は、ロンドン司教座(セント・ポール大聖堂、現在は英国国教会)を擁するシティ・オブ・ロンドン金融の中心たる“シティ”;2.9k㎡、昼間人口30万)と、ウェストミンスター司教区(ウェストミンスター大聖堂=カトリックです。英国国教会の聖堂はウェストミンスター寺院)を擁するシティ・オブ・ウェストミンスター(21.6k㎡、23万人)の二つのシティを中心としてメガシティ化した地域なのです。

 こうした都市計画ブラン、すなわち、市の中心としての大建築(城/宮殿と大聖堂)、そして市民にアナウンスするための広場(=アゴラフォルムプラザ、スクェア、サーカス[円形広場]、etc.)、そして都市と郊外を区別する市壁(城壁)。これを植民地にそのまま適用していったのが、“植民都市”ですが、それはto be continued・・・・・・としましょう。

新入生の皆さんへ 入学式・オリエンテーションが続き、お疲れ様です+卒業生の方々からのメッセージ

2011 4/3 総合政策学部の新入生の皆さんへ

 教員の高畑です。4月1日から続く入学式・オリエンテーションはお疲れ様です。毎日、耳慣れぬことばかり聞かされ、さぞ、とまどわれていることと存じます。なかなか頭に入り切れません。私が入学したのは1972年、大学紛争の余塵がくすぶっていましたが、“オリエンテーション”はたったの1日か、2日でした。“オリエンテーション”等というカタカナ文字自体、それまで接したこともなく、ほとんど何もわからないままだったと記憶しています(もっとも、理学部なので、語学や数学のクラス、実験実習等が多く、選択の余地は狭いものでした)。

 また、今年の新入生の方々は、3月11日の東日本(東北・関東)大震災の影響で、日本全体が混乱し、新しい生活にのぞもうとしても集中できないかもしれません。多くの犠牲者の方々には心からの弔意を表すとともに、被災者の皆様には一日も早く日常生活を取り戻していただきたいと思います。しかし、真の意味での復興がなかなか難しいこともまたよくご存じでしょう。学生の本分として勉強を一義に考えながら、様々な形の貢献に心をめぐらしていただければと思います。すでに何名かの先輩はボランティアとして現地に赴いています。

 学部HPにある“震災支援”をクリックすると、「3月28日~31日ボランティア派遣山本翔子さんからの報告」、「報告:東松島への神戸ボランティア炊き出し隊」等が掲載されています。皆さんも、大学や授業に慣れ、心と身体に余裕が生まれて一段落した頃に、ご関心をお持ちいただければと思います(ボランティアも、やはりそれなりの準備と余裕が必要です。拙速だけは禁物です。まして、今回の大災害、復興に長い時間がかかります。いかに持続的に支援できるか、皆さんの成長にあわせて取り組んで下さい)。

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 さて、新入生の方には、「大学とはどんなところなのか?」「そもそも大学の起源とは何か?」に関しては、『基礎演習ハンドブック』の8ページで触れたほか、本ブログの2010年4月1日投稿「新入生の皆様へ、ご入学おめでとうございます;大学とは何か?Part1」、そして2010年4月5日に投稿の「新入生の皆様へ、オリエンテーションはお疲れさまでした;大学とは何かPart2」で書いておきましたので、そちらをご覧下さい。

  •  それで、今、新入生の皆さんに何かアドバイスできるとすれば、
  •    (1)わからないことがあれば、(誰か=もちろん、学部関係者)に聞く
  •   (2)嫌なことから初めに片づける(例えば、レポートは提出締切よりも前に出す)
  •  この2点さえ守れば、それなりに充実した大学生活になるのではないか、と思う次第です(昨年4月5日のブログの一部再録)。
  •  

 4月1日の入学式では、新入生の皆さんへの祝辞の中で、先輩からの言葉を紹介しました。これは昨年度、渡部律子先生とともに、総合政策学部の卒業生の方にアンケート調査をおこなった際にいただいた回答からの抜粋です。原稿では、4つ用意していたのですが、本番では時間の関係で3つにとどめてしました。以下、あらためて先輩の言葉を貼り付けますので、新入生の方はもちろん、在学生の方も先輩の言葉を参考に総合政策での学びの道をさぐっていただきたいと思います。

Q1:卒業されてからの経験を踏まえて、後輩(=皆さんです)の方にアドバイスがあれば、お書き下さい。

A1: 総合政策とは何か?という事すら分からないまま、多様な学問の領域を漂流する事はなかなかつらく大変です。でもその中で自分なりに考え、決断し、行動する事は、「生きる力」を結果的に身につける事ができると思います。総政の良さは「複雑性」だと今は感じます。社会はとても複雑で、矛盾に満ちている。その中でどう考え、どう決断していくのか、それを体得するために色々な学問や人間と関わりあいを持ってみる事をおすすめ致します。

A2: 選択できることが多くあり、いつでも方向転換できるメリットは、一方で、ビジョンを持って勉強しないと最後にまとまった何かを掴むことができません。また、選択できるものが多いということは反対に深く進むための授業が数多くないことになります。そこは勉強の本来的なところとして、自分で本を探し、読むということをするべきです。そこの支援については喜んでしてくれる先生方が多く揃っていると思います。活動も是非積極的に! 活動そのものも重要ですが、そこでできる人とのネットワークが何より活きてきます。知り合いが多くいて損をすることはありません。人を多く知っているのは得をすると思います。

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Q2:あなたにとって、お仕事とはどんな意味をもっているでしょうか? 後輩の皆さんに伝えたいことがあれば、お書き下さい。

 A3: 仕事とは生きることです。自分の人生と仕事を切り離さないで、ただお金をもらうだけでなく、社会での自分の生きる意味をとらえた上で、その役割を探していくことが大切だと思います。その意味では就職活動は卒業前の一時期で終わることなく、そのタイミングも各々違います。目先の利益にふりまわされず、あせらずじっくりと自分と向き合って下さい。

 A4: うれしい、苦しい、全ての感情をひっくるめて、「仕事は楽しい」です。仕事を通じて、人生の中で可能となることが多いです。正直、驚きます。学生を卒業したら、一旦、リセットをして、新たな気持ちで仕事に携ってほしいです。(学生での成功、失敗体験が、素直な気持ちをくじくことがありますので…。) 就職活動に関しては、現在、自分が採用をする側の立場にいます。世間では、即戦力となる可能性だとか、資格の有無だとか、いいますが、実際の企業側とは異なっていると思います。やはり、いつの時代も、その方の「真摯さ」ではないでしょうか?(少なからず、私はそうです) 学生時代に、その気質をみがいて頂ければと思います。

 これらのお言葉、もう少し形をまとめて、またあらためて、皆さんにご紹介していきたいと思います。

 それでは、このあたりで失礼します。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...