2011年6月

高畑ゼミの100冊Part23&住まいの人類学:貧民窟探険記シリーズ1『最暗黒の東京』前編

2011 6/29 総合政策学部の皆さんへ

 明治から大正、日本の近代化が進むなか、勃興期のジャーナリズムに一つのジャンルが生まれます。すなわち、“貧民窟探訪記”です。とくに巨大化しつつある魔都東京(江戸)で、新たな秘境としてうかびあがる貧民窟、何人ものジャーナリストがこのテーマに飛びつきますが、その動機は様々です。

 岩波文庫の『明治東京下層生活誌』(中川清編;なお、編者の中川先生は同志社の政策学部長のようです)には、明治19年(1886)3月~4月に朝野新聞に連載された著者不詳の「府下貧民の真況」から、名著『日本之下層社会』で有名なジャーナリスト横山源之助の「下級労働社会の一大矛盾~奉公人の供給減少、木賃部落の求業者増加~」(明治45年(1912)5月『太陽』掲載)まで、14編が納められています。

 それを順にたどれば、たんなる興味の世界から、次第に社会問題として取り上げられていく過程をたどることにもなりましょう。中でも、後世、大逆事件において明治国家に死刑に処せられる思想家幸徳秋水が「世田ヶ谷の襤褸市」と題して、“屑屋金太郎”の口上を借りて、講談よろしく名調子を繰り広げます。

 年の市とは、似顔の羽子板とお飾りとを売る所なりとのみ思える都の坊様(ぼっちゃま)穣様たちは、去って世田ヶ谷の襤褸(ぼろ)市に、辛き浮世の機関(からくり)の不思議なる反面を伺い見よ。毎年12月15、16日の両日いまだ由る深き午前3時頃より6時まで、荏原郡は世田ヶ谷宿に襤褸屑物の市ありて、一年注の賑わいを極む。

 都人は嫌がる雑踏を、自然の単調に厭(あ)ける近郷近在の老若は、市の風に吹かるれば無病息災百難を遁(のが)るるとて、三里五里の道を此処に集まり、穢(きたな)き襤褸屑物を買い取るを無上の楽しみとはなすなり。さればこの市の景気は恒に農家の購買力の高低を試験し得べしとぞ。(まるで、農村景気動向調査ですね)

  まず宿の街道に筵席(むしろ)敷き列ねて小屋掛けせる店々、両側を合してその長さ千二、三百間にわたるべし。品物は襤褸六分に荒物三分、おでん、濁酒、鮓、駄菓子の飲食店、そのほか数種の見せ物興行、耳を聾(ろう)する囃子(はやし)の響き田舎者の荒肝をひしぐ。

  襤褸は足袋、股引、シャツ、手袋、手ぬぐい、(あわせ)、単物(ひとえもの)、前掛け襦袢(じゅばん)、羽織、婦人の湯巻、手巾(はんけち)、靴下、糸屑にて、荒物は柄杓、硯箱、火鉢、茶盆、大小の桶や盥、下駄雪駄(げた、せった)、笊(ざる)類、荒縄、小児の便器、古板、机、鍬、鎌、鉈、斧、熊手、鶴嘴、鋤、篦、薬缶、鉄瓶、明樽、明礬(みょうばん)、米、麦、粟、蕎麦、豆類など数えも尽くせず。

  可笑しくもまた哀れにも感ずるは、これらの品物、穀類をのぞくほかは一つとして満足なるはなく、破れたる足袋(たび)の左は十、右は九文なるがあれば、穴あける靴下の右は黒にて左は白なり。(岩波文庫版より) 

 その昔、京都で大学生をしていた1973年頃、JR京都駅南の金光明四天王教王護国寺秘密伝法院こと東寺で毎月21日に開かれる弘法市で、左右が10.5文と11文のズック靴が安かったので、買った覚えがあります。そのころまで、この襤褸市の風情もかろうじて生き残っていたのでしょう。

 それにしても、今や東京都23区中最大の人口を誇る(佐賀県、鳥取県等をうわまわる)商業・住宅地の世田谷ですが、御一新前は御府内に含まれず、明治になっても東京市15区にも漏れる農業地域だった。その様変わりこそが日本の近代化の象徴というべきでしょう。

◆「100年前の貧民窟を行く」というサイト(http://www.tanken.com/hinminkutu.html)に1930年頃の東京の貧民窟の写真が出ています:http://www.tanken.com/hinminkutu1.jpg(荒川区日暮里とのこと)

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  それでは、「高畑ゼミの100冊Part5;きだみのる、大杉栄、そしてオスカー・ルイス(2009 12/15投稿)」で既にご紹介ずみの松原岩五郎の『最暗黒の東京(書籍番号#24)』について、もう少し詳しく紹介しましょう。

 さて、松原岩五郎、幕末の慶応2年(1866年)鳥取県の酒造家の家に生まれるも、幼くして両親を失い、家出をかさねて、ついに大阪、そして東京に出奔、諸力役・行商に身をやつしながら、やがて明治期の新興ジャーナリズムに身を投じます。明治21年、21歳で初の著作『文明疑問』を刊行、大ジャーナリストであった徳富蘇峰の知遇を得て、明治25年、國民新聞社に入社、下層社会ルポルタージュという役割に専念します。

 そして、先輩ジャーナリストの桜田文吾の『』等に刺激を受け、1892年、帝都東京に広がる大暗黒の世界=貧民窟に一連の“突撃取材”をおこない、それをまとめたのがこの『最暗黒の東京』です。「序」では早くも岩五郎の名口上が炸裂です。

 生活は一大疑問なり、尊(たか)きは王公より下乞食にいたるまで、いかにして金銭を得、いかにして職を需(もと)め、いかにして楽しみ、いかにして悲しみ、楽は如何、苦は如何、何によッてか希望、何によってか絶望。この篇記する処、もっぱらに記者が最暗黒裡生活の実験談にして慈神に見捨てられて貧児となりし朝(あした)、日光の温ぼうを避けて、黒暗寒餓の来るに入りし夕(ゆうべ)。・・・・・

   まさに総合政策にとっても、また、ヒューマンエコロジーにとっても「生活は一大疑問 」です。こうして岩五郎は勝手知ったる貧民窟への潜行を決意し、1892年9月下旬、日清戦争勃発まであと1年10カ月、「脱亜入欧」への道をひた走る日本にとって目をそらしたい近代化の暗黒面、帝都に広がるスラム街に突入します。

 日は暮れぬ、予が暗黒の世界に入るべく踏み出しの時刻は来たりぬ。いざさらばと貧大学の入学生はなんの職業を持てる者ともつかぬ窶しき不当の体ににて徐々(そろそろ)と上野の山を下れば、早くも眼下に顕れ来たる一の画図的光景。それはあたかも蒸気客車の連結せるごとき棟割りの長屋にして、東西長く、南北に短く斜めに伸びて縦横に連なり・・・・

 これぞ府下15区の内にて最多数の廃屋を暑めたる例の貧民窟にして、下谷山伏町から万年町、神吉町を結びつけたる最下層の地面と知られぬ。

◆「100年前の貧民窟を行く」というサイトには『最暗黒の東京』の挿絵もでています。こちらは家の前に共同トイレがある図です:http://www.tanken.com/hinminkutu3.jpg

 ちなみに、下谷山伏町とは、現在の台東区の西部にあった旧下谷区(したやく)で、その後下谷万年町二丁目、下谷新坂本町とともに、現在は北上野にあたるそうです。2007年現在、住民は3089人、「地域内は主に商店とオフィスビルと住居(戸建て及び賃貸・分譲マンション)が混在した地域となっている」(Wikipedia)ということです。

 あらためてグーグルマップで探すと、上野駅の北東、上野駅から浅草にむけてしばらく歩いたあたりでしょうか。岩五郎は、慶応4年彰義隊討伐時に伽藍のほとんどを焼失した上野寛永寺跡に、1873年5月太政官達により東京府公園に指定された現上野公園から、1883年に開通した上野駅(1883年7月28日開設)から熊谷駅までの現高崎線(当時は日本鉄道第1区)を横断、この魔窟へと直行したものでしょう。

 なお、グーグルマップから、ストリートビューに切り替えて、かつての魔窟の現在の姿を見ると、まさに集団住宅とオフィスビルの混在で、『最暗黒の東京』からは一変します。

 当たり前の事と言えば、当たり前。テルボこと建築探偵藤森照信の『明治の東京計画』にあるように、江戸からのなごりの大火こそ、名府知事松田道之の建白による“明治14年東京防火令”以後、激減しますが、その後の市区改正(=現在の都市改造事業)による「貧富住み分け論」などによるスラムクリアランス。

 さらには1923年というと松原の探訪の30年後の関東大震災、そして1945年の東京大空襲等による荒波を次々に受けるわけですから(このあたりは、越沢明『東京都市計画物語』をご参照に)。

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 さて、この魔界に入っていく松原は次々とその実態を活写します。まずは、世間からスラムの寝床へ帰らんとする人々について、筆はとどまるところを知りません。

 無数の怪人種等は、今しも大都会の出稼ぎを畢(おわ)りて在る者は鶴嘴を担ぎ、或者は行厨(べんとう)を背負い、或者は汗に塩食(しおばみ)たる労働的衣服を纏い、或者は棒擦になりし土木的の戎衣(じゅうい)を着し、三人五人ずつ侶(とも)をなして帰るは、、これ即ち1日の労役を十八銭の小銅貨(コペーク)に換えたる日雇い人の一類にして、例の晩餐の店に急ぐなるべく、その後より敷き紙の如くに焼けたる顔の車力夫婦は、僅かに一枚の手ぬぐいを以て愛児の胎(はら)を包み、梟に嘲けられたる如き可憐の貌を夕景に曝させつつ、そが臥床(ねどこ)に換える後より十二、三の貧少女、姉と見ゆるは三味線を抱え妹も同じく手に扇子を持ちて編み笠を頂き、・・・・

 それでは、その晩餐の店とは

 かの安飯屋に至っては不潔乱暴ほとんど名状すべからず」とかなり手厳しいお言葉です。「第一目に立つはその家にして、楣(のき)朽ち柱ゆがみて平長屋の板庇煤煙に嘗められて黒ずみ、庖厨より挙がる煤烟全家に漲り渡って室内暗く・・・・

 朝夕の掃除行き届かざるを以て飯台の四隅塵芥(ほこり)に塗れ、天井裏は透き通り壁は壊(く)ずれに任せて修復するなく、なかんずく厨房の混雑は実に伝染病の根源にして一面芥捨場を打拡げたるが如く、覿面にめだつは土間の湿気にして、譬えば河獺を這わせたるが如く、狭隘なる地面、低き屋根裏、長屋続きの便所、掃きだめ、井戸等皆一所にあつまって黴の生えたる水桶、・・・

 終日喧声湧くが如きこの最下等飲食店は、浅草、芝辺の場末にもっとも多く、三河町界隈比々皆これなり。

と続きます。伝染病などの言葉がちりばめられているのも、新進ジャーナリストとしての面目躍如です。しかして、どのような料理が出てくるのか?

  しかして、これらの店はたいてい、日に12竈(かま)ないし18竈(一ト竈に米3升)を炊き(一食1合として、540人分)、煮染め500皿(一皿5厘、あるいは一銭)、煮肴100皿、刺身50皿、鍋類若干(そくばく)を売り切る。但し這般(しゃはん)の社会下等力役者の口腹に応じて饗供するものなれば、値を安くして数を売り多数の中より利益を見いださんとするにあれば、勢い廉直なる物品を知れて供給せざるべからざれば、第一まず食品の材料に物の新鮮なるを望むべからず。朝市の剰(のこ)り物というほどにはあらざるをも、都合良くば常にかくあれかしとねごうて例も物品の溢れたる方面より買いだし来る。

 即ち鮫の破肉(あら)一と籠三貫に買い出してこれを大概皿100枚に盛り出す、一円の売り上げなり。或る時は大鮪のかしら1頭を買い出して刺身十枚、鍋五十そのほか小皿若干、5,60銭の元にて3円以上に売り上ぐ・・・儲け悪(にく)きは鰭のついたる小魚の類なり、一尾一銭の品を煮て二銭には売りがたし。なおそのほか繁昌する飯屋においては米飯には利潤を見込まず、ようやく薪代と手数料を算当に立つるのみ、以ておおむね下等飲食店の経済を知るべし。

 松原はさらに、筆を進め、

 尤も彼らの朝餐には一汁一切きわめて淡薄なれど、晩餐には間々濃味の魚肉を呼びて口腹を肥やす。蛤蜊(はまぐり)鍋、葱鮪(ねぎま)等なり、しかして茲に彼らの境界においてすこぶる幸福なるは河豚の廉価なることなり。彼ら常に言うを聞くに、そもそも河豚は魚族中第一等に位するほどの貴重なる味を持ったるものなれども、普通の人はその有毒なるを懼れて食する物稀なるより自然と市場に放擲さると。彼らの健啖なるよくこのけんのんに打ち勝ってほしいままに食するは乱暴とや言わん、けだし婪食(らんしょく)者の常なり。

 蛤鍋はいわゆる“深川鍋”あるいは“深川丼”、これがアナゴやシャコを使えば“品川めし”等の東京のB級グルメ(むしろC級グルメと呼ぶべきかもかもしれません)の世界ですが、葱鮪鍋(汁)もまたその世界ですね。なお、名古屋周辺では、“ネギマ”というと、焼き鳥の一種で、鶏肉とネギを交互にさしたもの(=鶏肉の間(ま)にネギがある)のようです。

 それにしてもマグロの頭が5,60銭、河豚は廉価。かつて生粋の江戸っ子にとって、マグロも下魚でせいぜい葱鮪鍋か、鮓でも“ヅケ”程度でした。河豚もまた、下手の食い物だったのに、魯山人(=『美味しんぼの海原雄山のモデルの一人)あたりが持ち上げたためだと嘆く声もあると聞いたことがありますが、まさにその直前。

 しかし、その故にこそ貧しき者が世間が見向きもせぬ美味を味わえることが出来る。ブラジルで奴隷の食べ物だったフェジョアーダが何時の間にか、主人たちのやみつきになってしまった(異説もあるようですが)という故事も思い出させるかもしれません。料理の人類学ですね。

 と、このあたりで充分に長くなったので、とりあえず前編のおわりといたします。

l翻訳についてPart2誤訳編:“ポケットに蠅を”?、そして“ノルウェーのネズミ”とは?

2011 6/22 総合政策学部の皆さんへ

 言語とコミュニケーションに関する話題に関連して、翻訳をめぐる問題Part2は“誤訳”です。ECでも苦労されていると思いますが、皆さん以外、専門家の人たちと言えども翻訳に苦労していると思えば、少しは気がまぎれるかもしれません(Part1をご参考)。ということで、“楽しい言語教室”として、いくつか例を挙げたいと思います。

 とは言え、専門家でも、誤訳はなかなかつらいものがあります。まず、基本的な知識が足りなかった例をあげましょう。イギリスの小説家サマセット・モームの作家の作品『作家の手帳』を読んでいた時だったと思うのですが、不意に「彼はマス釣りがすきなので、いつもポケットの中にハエをいれていた」というような文章が眼にとまりました。

 釣りに詳しくない方は、「イギリスでは、マスを釣るのにハエを使うのか!」と感心して、「でも、生きているハエかな? 死んだハエかな?」と疑問に思うでしょう。しかし、英語に詳しい方はわかりますよね。英語の“fly”には、「ハエ」以外に「毛バリ」という意味があることを。言うまでもなく、原文はおそらく後者なのです(=フライ・フィッシング)。つまりは「マス釣りがすきだから、いつもポケットに毛バリをしのばせていた」というわけです。

 そういえば、いまや国民的大作家五木寛之が無名時代、作詞家(CMソングとしては日本石油の「♪日石灯油でほっかほか・・・♪」)や翻訳者として口を糊していた頃、“domestic airport”を「家庭的空港」と訳して、不思議がられたそうですが、これも今となっては笑い話。皆さん、わかりますね。正確な意味は「国内空港(国内線のみが発着する空港)」です。 

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 似たタイプのまちがいをもう一つ。実は、私の先輩も共訳に入っているある学術書を読んでいると「ノルウェーのネズミを使った実験では・・・・」と出てきます。これもおわかりですね。英語の“Norway rat”とは、日本語では「ドブネズミ」のことです。さらに詳しく言えば、ドブネズミを実験動物化したいわゆる「ラット」のことなのです。

 では、なぜドブネズミを“Norwey rat”と言うのか? 実は、ドブネズミは、もともとクマネズミが生息していた西欧社会では新参者、中央アジア原産のいわば侵入者なのです。しかし、あっという間にクマネズミを駆逐して、ヨーロッパを席巻、ついで大西洋航路の船にアメリカまで征服する。

 このドブネズミの大遠征の過程は「衛生学」での研究対象で、1737年にドブネズミの大群がヴォルガ川を渡ってヨーロッパに侵入、以後西進し、20年後の1757年にロンドンに、1775年にアメリカに侵入します(Wikipeidaより)。つまり、1775年には大西洋航路の船に乗り込み、かつ、アメリカで下船したわけです。

 これではまるでヨーロッパ社会をおびやかしたノルウェー出身のバイキングみたいな連中みたいだ、ということでドブネズミはNorway ratと名付けられてしまいました、という話を聞いたことがあります(学名自体がRattus norvegicus)、まったく民族差別みたいなものですけれど。ちなみに英語版Wikipediaでは“Brown rat”で出ています。これは差別用語忌避なのかもしれません。

 さて、この英語版Wikipediaには“Berkenhout (この学名の命名者)gave the brown rat the binomial name Rattus norvegicus believing that it had migrated to England from Norwegian ships in 1728, although no brown rat had entered Norway at that time.” つまり、学名の命名者Berkenhoutは、このネズミが1728年にノルウェーの船からイギリスに上陸したと信じて付けたわけです。

 しかし、実際にはドブネズミはその頃はまだノルウェーに侵入していないので、基本的にまちがい。それにもかかわらず、学名はたとえまちがいであっても、いったんつけられると変更できません。そのままなのです(例えば、標本の取り違えによって、日本産のコマドリの学名はErithacus akahige、近縁のアカヒゲの学名はErithacus komadoriのままであることは有名です)。

 ちなみに、日本語では別称としてシチロウネズミ(七郎鼠)、ミゾネズミ(溝鼠)、ハトバネズミ(波止場鼠)、チャイロネズミ(茶色鼠)等があるそうです(Wikipediaより)。ハトバネズミなんて、まさに海を越えてやってきた彼らをうまく言い表していますよね。

 その一方で、ペストノミの寄主クマネズミを駆逐したことで、ヨーロッパからペストの流行が減るという大金星ももたらしてはいます。

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 それでは別種の誤訳も紹介しましょう。むかし、ドイツの小説家ヘルマン・ヘッセの小説等によく登場のチョウチョのコムラサキ、よく「ニムラサキ」と誤植されていたのですが、これはなんともっとも権威があるとされていた独和(ドイツ語⇒日本語)辞典の「コムラサキ」が「ニムラサキ」と誤植していたのを、誰も気づかず、版を重ねていたためということです。

 これは「権威といえども、盲信するな」という教訓でしょうか? よくありますよね。レポートにせっせと間違った説を書き込んで、その努力に比して惨憺たる結果になることが! 世の中、注意しましょう。

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 それでは、もう少し大変なケースを紹介しましょう。例えば、処女懐胎があります。Wikipediaでは「文字通りには処女のまま(つまり男女の交わり無しに)子を宿す、という概念を指すが、一般には特に聖母マリアによるイエス・キリストの受胎というキリスト教における概念を指す。カトリックなどマリア崇敬をする教会において処女懐胎の意義はマリアが罪を犯さずイエスを身篭ったことになり、これによりマリアの無謬性が成り立つ」とされます。

 この出典の一つ、マタイ福音書を調べてみましょう。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、精霊によって身ごもっていることが明らかになった・・・・主の天使が(ヨセフの)夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は精霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイによる福音書』第1章18節、20~23節;新共同訳)。

  この福音書の記述は七十人訳聖書(紀元前3世紀から1世紀にかけて、ヘブライ語の旧約聖書をギリシア語に訳したもの)のイザヤ書7章14節に「それゆえ、私の主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(新共同訳)をそのまま引用したものです。

 ところが、この「おとめ」の原語であるへブライ語アルマー (עלמה, almah)は「若い娘」という意味であり、これを「おとめ=処女」と訳すことは、適訳とはいえない。(Wikipediaより)。後世に与えた影響を加味すれば、はっきり誤訳と言うべきでしょう。これは、原典による校訂を重んじ、古典学を発展させたルネサンス期のヒューマニスト(人文主義者)たちの間で持ち上がった議論なのです。

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 この論争の主人公の一人、ミゲル・セルべートの生涯をイタリアの歴史作家インドロ・モンタネッリらの傑作『ルネサンスの歴史』の「カルヴァン」の章から引用してみたいと思います。

 セルベートは「スペインの名家の生まれで、その波乱に富んだ生涯は、時代の精神的不安を如実に反映している。幼い頃から聖書とコーランを熟読し、20歳の時『三位一体異論』を著し、三位一体論は聖者崇拝と同様、巧妙に装った多神教の一形態であるというイスラム的主張を世に問うた。

 この反逆は迫害を呼び、逃亡を余儀なくされた・・・・・リヨンではプトレマイオス地理学についての評論を刊行し、次いで聖書のラテン語訳を出し、その注釈の中で、イザヤの予言、「一人の処女が孕むであろう」の中の「処女」はヘブライ語でたんに「若い女」という意味だから、その妊娠懐胎には何の奇跡も必要ないのだと説いた。

 これにはカトリックだけでなく、プロテスタント側も憤激、セルべートは両陣営から集中砲火を浴びることになったが、いっこうにひるまず、逆にいっそう論争への熱狂を燃え立たせた・・・・

 セルべートはついに、ジュネーブでいわば神権政治を展開していたプロテスタントの大物カルヴァンと大論争、「論戦は私信の形で行われたが、罵詈雑言に充ちみちていたから、カルヴァンは激怒し、「もしセルべートがジュネーブに来るなら決して生きては帰さない」と、ファレルへの手紙の中で宣言したほどである」。(藤沢道郎訳)

 その騒動のクライマックス、セルべートは何を血迷ったから、ジュネーブに登場、たちまちカルヴァンに逮捕・告発され、「告発者(カルヴァン)と被告(セルべート)は丁々発止の論戦を展開し、裁判は盛り上がった。議論は高尚な神学論の高みから、もっとも低劣な個人攻撃へと滑り落ち、そこからまた高邁な思想論争へと舞がった」、しかし「カルヴァンは、自己の意思をすべてに優先させ、死刑判決を実現させた」。

 こうして、セルべートは1553年10月27日、異郷ジュネーブで火刑に処せられます。彼はジュネーブにとっては異邦人なので、本来、死刑になるはずがない。これは宗教家カルヴァンの論争相手に対する憎悪ゆえの圧力からです。

 「新旧両教から異端者とされて死んだセルベートは、どこにも弁護者を見いだすことができなかった」と結んだモンタネッリは、カルヴァンを「かつてセネカの慈愛をたたえたかれが、どれほど慈愛に無縁な人間かを証明することになった」としています。後世、宗教家カルヴァン生涯の汚点とされているこの事件を、しかし、カルヴァンが悔いることはまったくなかったということです。

 かつては、己の言葉、翻訳さえも、自らの死を賭けた行いであったわけです。 

住まいの人類学番外編:過去の記録にみる人と災害、そしてそこに浮かびあがること#3

2011 6/18 総合政策学部の皆さんへ なかんずく新入生の皆さんへ

 このたびの東日本大震災は突如起こったカタストロフィーの衝撃と、その影響が思わぬところから徐々に身にしみてくる恐怖、この二つがないまぜになっているようです。#1、#2で取り上げた災害は前者の典型=突発的な巨大災害です。

 それに対して、#1と#2でも少し触れたJ・リーサーの『ロンドンの恐怖』(筑摩書房版『世界ノンフィクション全集49巻』由良君由訳)で詳述される恐怖は、後者の典型、徐々にまわりが日常と異なっていき、それに気付いた時にはすでに手遅れという災害の例です。

 具体的に言えば、その災害はペストです。ペストに限らず、多くの感染症は温暖な地方に潜んでいます。そして、大流行(その極端な姿が世界的な大流行パンデミックですが)は、はじめは誰も気づかぬまま、徐々にひろがっていき、そしてある日、人々はすでに周りが侵攻されているのに気づきます。

 それでは、ペストとは何か? Wikipediaを開いてみましょう:「ペストは元々齧歯類(特にクマネズミ)に流行する病気で、人間に先立ってネズミなどの間に流行が見られることが多い。菌を保有したネズミの血を吸ったノミ(特にケオプスネズミノミ)に人が血を吸われた時にその刺し口から菌が侵入したり、感染者の血痰などに含まれる菌を吸い込む事で感染する。人間、齧歯類以外に猿、兎、猫などにも感染する。 かつては高い致死性を持っていた事や罹患すると皮膚が黒くなる事から黒死病と呼ばれ、恐れられた。14世紀のヨーロッパではペストの大流行により、全人口の三割が命を落とした」。

 このペストは、先ほども触れたように、北ヨーロッパにはふだんいません。もっと温暖な地域に潜んでいる。そうした地方では、いわば風土病として、人間とそれに巣食う病原体が一種の微妙なバランスを保っている。それが、いったん、未感染地域に広がると、それまでペストに接していなかった人々には致死的な効果をもたらす、というわけです(これがヒューマン・エコロジーの一つの源泉、衛生学の世界です)。

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 こうしたパンデミックはどのように都市に侵入してくるのでしょう? 初めは、ほんのかすかな“噂”に過ぎません。1664年の王政復古期のロンドンでは、悲劇は流れ星とともにやってきました。怪しげな流れ星が出現して、何か恐るべき運命が訪れるかもしれない噂は、逆に怖いものみたさの大衆の話題を呼び、王位に復帰したばかりのチャールズ2世の興味さえ引きつけ、王は夜ごと夜ごとに彗星の出現を待ったと言います。

 いかにも中世的に、自然現象と人々の運命を結びつけようという思いは、例えば、一大の奇書『日記』を書き残した当時の海軍本部書記官サミュエル・ピープスに「(星は)あまりにも家々に間近くかすめたので、多くの者はこれこそ、ロンドンだけに何か非常に異常なことが起こるのをつげにきているのだと考えた」と書き付けたと言うことです。なお、ピープスについては「官僚について考える~サミュエル・ピープスと朝日文左衛門から:高畑ゼミの100冊Part11bis」(2010/02/4投稿)をご参照ください。

 さて、彗星の登場はともかく、ロンドンへは“異常なこと”がひたひたとヨーロッパの南の方から大陸からせまりつつあったのです。それがペストです。王や民人が彗星を待っている頃、当時の呼び名で「黒死病」がオランダで猖獗をきわめていました。ところが、イギリスでは当時、オランダと戦端をひらきかねない状況にあり、相手が呻吟しようと、別段気にもとめていなかったわけです・・・・

 では、その“黒死病”が忍び込む経緯について、今、どうやって知ることができるのか? この時期、平民出身のピープスが己の才能だけを生かして、海軍についてのさまざまな知識を勉強しながら、優秀なテクノクラートに成長していくように(もちろん、中世的性格もいまだ混じったままですが)、近代的政治体制確立ににむけて少しずつ制度が整えられてきます。

 その一つは統計です。そしてその人口統計の一つの結果が、“死亡週報(the Bills of Mortality)”という形で出版され始めます。これは、当時130の教区ごとに、死亡者数とその死因を公表していたというものです(予約金は年間4シリング)。これこそが350年前の悲劇の経験を、現代の疫学に活かすことができる貴重な資料なのです。

 総合政策の学生さんとしては、こうやって統計学が進歩してきた歴史の一こまとして、頭にとめておいてくださいね。世界最初の職業的人口統計家ジョン・グローントは王立科学者協会員として、ペスト流行直前の1662年、この死亡週報をベースに、高名な経済学者ウィリアム・ペティとの協同で人口統計の書“Natural and Political Observattions”を発行しています。なにしろ、このペティは「医師、測量家、経済学者。労働価値説を初めて唱え、また、政治算術派の先駆となったことから、古典派経済学と統計学の始祖」(Wikipediaより)という方ですから。なお、統計学については「統計学の奨めPart 1:なぜ“統計”などというものを勉強しなければならないのか?(2010/04/26投稿)」などもご参考に。

 ところで、この死亡週報、購入者は何に使ったのでしょうか? リーサーによれば「毎年、クリスマスの少し前に、「死亡週報」の年間総数表が発行され、予約者の手にわたり、ペストその他の流行病の際には、金持ちたちは、ロンドンにとどまるべきか、田舎の本邸に退去すべきかの判断を、この年間死亡者総数で決めるのだった」とあります。寿命さえ、お金で買おうという時代の始まりでもありますね。

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 さて、彗星が目撃された頃、1964年12月、死亡週報の欄に5人のペストによる死が報告されています。例えば、セント・ジャイルズ・イン・ザ・フィールドの外教区で一人。このわずかな数値は誰の興味もひきませんが、しかし、もうお気づきですね、おそらくはすでに何人もが死に始めていたことを。(風評被害やその他様々なことを理由に)まわりの者が「ペスト」という病名を伏せて、真実の公表を遅らしたわけです。つまり、真実が尊ばれない限り、統計は無意味なのです。そしてこの時期、統計的厳密さを要求するのは至難の業でした(どうやら、日本の一部にもそうした向きがありそうだ、ということはこのたびの原発事故でもわかってしまいましたが)。

 折りから、ペスト菌には不向きな寒さの到来もあり(この年、テムズ河も寒さで氷結したと言われています)、ペストの流行はなかなか表に現れません。「死亡週報」でのペストの再来は2月14日、そして、統計上の数値はほとんど増えぬまま、現実にはペストは次第に広がっていきます。

 現実は、死亡者総数を見ればわかります。普通の年、当時50万人が暮らしたロンドンで、年間の死亡者は17000人、とすれば、1か月で1400人、一週間で330人ほどのはずです。例えば、最初のペストによる死者が出た12月の週は死者は合計291人、しかし1965年4月には週の死者が突然398人に上昇します。どうやら、しばし雌伏の時間を経たのち、ペストは牙をむき始めます。そして、統計上の病名が何であれ、気候が暖まるにつれて流行が始まります。

 5月の第2週、死亡週報にはペストによる死者が14件報告され、それが第3週には17件、6月第1週には43件となる。かつ、死亡者を出す教区の数がどんどん増えていく。以後、6月の第2週から週ごとにペストによる死者は168人→267人→267人→470人→720人となり、7月中旬には1000人を越える。いったん死者が増加しだすと、それは人々にとって当たり前の事実となってしまい、やがては心までマヒさせます。ピープスは日記に書きつけます。

6月10日。夕方、食事のために帰宅。驚いたことに、ペストは市のなかに、すなわち市の城壁内にすでに進入せりと聞かさる。思いきや、わが良き友にして隣人たるフェンチャーチのバーネット博士のところにして起こりたりとは。二つながら、いたく我を苦慮せしめたり」。そして、“究極の野次馬”根性を発揮したピープスは、ペストの兆候を感じるや自分の家を閉鎖して閉じこもった友の家の前まで、「怖いものみたさ」に出かけます。

 7月最後の週は死者総数3014人(平均の約10倍)、ペストによる死は2020人となっていますが、もちろん、過小評価の可能性が大です。この災難のさなかも、ロンドンにとどまるピープスはさらに記述を続けます。

主よ、なんとまあ、だれの目つきも街頭の話題も、ただ死、死のみであることでしょう。あたりを歩く人影は、ほとんどなく、この都市は、疲労した、見捨てられた場所のようです

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 こうした流行病に対して、患者の家を閉鎖する当局の方針は、当然の事ながら、幾多の悲劇を生み(患者とともに閉じ込められた家族は当然感染して、死に絶えていく)、またそれゆえに患者を世間から隠そうとするために、病気への対応を遅らして、ますます流行を促進する。わかりますよね。ロンドンにとどまって、人道的な治療を続けたホッジス博士は、「このような処置は、博愛の宗教にとっては、空おそろしいことである。マホメット教徒の考えでも然りであろう」「(患家に幽閉されたひとたちは)この飽くことを知らない病敵に、さらにやすやすと犠牲にされるだけである」と書き残します。

 そして無数の死体の処理。8月第2週、死亡者総数5319人、ペスト死3880人。「死体は、さながら糞のように、荷車に投げ入れられ、数もかぞえられずに坑のなかに放り込まれ」、8月最後の週、7496人の死亡で6002人がペスト死と認められた。ピープスはもはや統計自体を疑います。「真の死亡者は1万に近いのでは」。もう一人の医者グランブル博士は「印刷された『死亡週報』の死亡者数は、実際に死んだ人の総数の半分ぐらいではなかろうか」「ある思慮ある人が、その週は6000人の死亡者が週報上に報ぜられたが、実際に死んだのは14000人であった、と断言するのをわたしは聞いた」。それも「全国民を失意に陥れてはならないと考えられたからである」としています。

 しかし、どんなパンデミックもつい終わりがきます。それは冬の到来です。11月最後の週は死亡者総数544名、そのうちのペスト死は313名、しかし、その次の週はそれぞれ428名と210名に減少します。もっとも、12月第3週は525名と281名にまた増加し、希望を抱き始めた人々の心をくだき、驚愕をもたらしますが、1月になると月間で死者が253名、ペスト死は70名、ついに事態は収束に向かい始めます。2月1日、避難していた国王チャールズ2世はセント・ジェイムズ宮殿に帰還、3~5月にかけて、月間でいまだに50人程度のペスト死を出しつつも、危険はやがて去っていきます(もっとも、その直後に、ロンドンは大火災にみまわれ、現在の近代的ロンドンに生まれ変わる-ただし、中途半端に。大建築家クリストファー・レンがもくろんだ壮大なバロック都市ロンドン構想は、後藤新平関東大震災復興計画と同様、大地主たちの反対によって、半ば挫折します。このあたりは、都市政策の歴史そのものですね。たぶん、授業でも習うところかと思いますが)。

 さて、1665年、死亡週報に記録された総死者数は97306名、そのうちペスト死は68596名、しかし、多くの者は実際にはその2倍が死んでいるだろうと考えました。

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 今回の大震災にひき比べてみると、地震と津波というハードなカタストロフィーも恐ろしいのですが、あまりに広範囲な被害に全体像が一向に見えない事実こそ、一番恐ろしいのかもしれません。原発事故のように、果たして本当のことが報道されているのかさえ、わからない。そしてある日、おそるべき事態になっていることに直面させられることになる。こうした事態をさけるためにも、予防原則が重要なわけです。そしてその原則を貫徹するには、「見たくない真実」をむき出してくれる統計結果を読み込むしかないのです。

異文化に出会う時Part3:ピガフェッタの不思議な旅前篇

2011 6/13 総合政策学部の皆さんへ

 異文化に出会う時Part 1Part2は、日本人が異文化を“食”を通して体験したエピソードを色々と紹介しましたが、今回は、ヨーロッパ人から“世界”を見た時に、彼らの眼にどう映ったか? 証言の主はアントニオ・ピガフェッタ、と言っても御存じない方ばかりでしょうね。

 1519年9月20日、スペインのサンルーカル・デ・バラメダ港を出発した5隻のカラベル船の隊長フェルナン・デ・マガリャンイス (Fernão de Magalhães ことフェルディナンド・マゼランに従い、フィリピンでのマゼランの死後も、後継者ファン・セバスティアン・エルカーノ指揮のビクトリア号に乗船、1522年9月6日、世界一周を果たした者たちの一人です。彼は航海中に記録を認めますが、生き残った上に、さらに航海記が後世に残るという稀有な幸運の持ち主です(『Relazione del Primo Viaggio Intorno Al Mondo;マガリャンイス最初の世界一周航海』)。

  とは言え、私自身はその航海記の原本を読んだわけではありません。ここでの記述は主に『筑摩書房世界ノンフィクション全集第45巻』に掲載のレオンス・ペイヤール(高田勇訳)「マジェランの世界一周」に基づいています。

 ところで、“マガリャインス”とは、“マジェラン(Fernão de Magalhães)”の母語、ポルトガル語読みです。また、著者のペイヤール(Léonce Peillard)は、1898年、フランスのトゥーロン(軍港で有名です)で代々船乗りの家に生まれ、第1次大戦には海軍で従軍した後、ソルボンヌ大学法学部、商学高等研究院を卒業。フランス海軍アカデミー会員で、海洋関係をベースに小説とノンフィクションを著述していた方のようです。

 他の著作には、第2次大戦、イタリアから当時の同盟国であった日本への連絡のためフランスのボルドーからシンガポールまで航海、ドイツ向けに物資を積み込んでシンガポールを出航したところで、1943年9月にイタリアが降伏したため日本軍に接収されて、いったんはドイツ艦籍(UIT24)となりながら、45年5月のドイツ降伏を経て今度は日本海軍に接収され“伊503潜水艦” と命名、日本降伏後に紀伊水道で海没処分となるという数奇な運命をたどったイタリア海軍潜水艦“コマンダンテ・カッペリーニ”等をあつかった『潜水艦戦争 1939-1945』等があるそうです。

 さて、ピガフェッタたちがいつまで続くかもわからない航海に乗り出した時、5隻のカラベル船に265名が乗り組みます。このうちサンティアゴ号は1520年難破、サン・アントニオ号は反乱を起こしてスペインに逃亡、コンセプション号は1521年4月27日のフィリピン・セブ島でのマゼランの戦死後、損傷が激しく廃棄、トリニダード号がインドネシアで破損したため、ビクトリア号1隻だけがたった18名を載せて帰港するという結末です。

 このほか、途中でポルトガル軍に拘束された12名、トリニダード号の生き残り5名が遅れて地球を一周したことになりますが、途中で逃げ帰ったサン・アントニオ号で帰国できた60名をあわせても、死亡率は64.2%に達します。

  こんな悲惨な航海になるとは、果たして予期していたかどうかも定かではありませんが、イタリア・ヴィチェンザの騎士アントニオ・デ・ピガフェッタは出港直前、当時の教皇レオ10世の大使フランシスコ・キエリカティの紹介状をもって、乗船します。

 目的は「神が彼に見ること、体験することを許す限り、偉大な、驚嘆すべきことを見ること」。後代のカトリック系自然科学者と同様、神の御業を知ることは神を理解する第一歩になるはずとして、いわば近代的精神を体現している彼を、マジェランは“航海作家”として受け入れます。なお、ピガフェッタの銘句は「とげなき薔薇はなし」、なかなか意味深長ですね。

 ちなみに、この大航海のため、マゼランが準備した食料は、「ビスケット21380ポンド、値段は372510マラヴェディス、塩豚5700ポンド、チーズ985樽、鰯200トン、酢、芥子・・・辛いもののあとに甘いもの、蜂蜜1512ポンド、干葡萄3200ポンド。葡萄酒も忘れない。最良の品へレスの葡萄酒417革袋と253樽、2年間、一人頭一日4分の2リットルずつ述べる量である。初めの週は、乗組員たちに新鮮な肉を与えるため、出航の間際にマジェランが数頭の牛を準備したのも、少しも驚くにあたらない」。

  もっとも、これから彼らが直面するおそるべき病気=壊血病(ビタミンC不足)に対しては、なんらの考慮もありません。当然のことながら、壊血病対策にキャプテン・クックがザワークラウトライム/レモンを用意するのは1768年、実に250年ほど先の話になります。さらには、上記のようにサン・アントニオ号の逃亡で、食料の大半が失われてしまいます。なお、マラヴェディエスとは当時のスペインの銅貨、1537年に378マラヴェディエスが1エキュと交換とのことです。

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 さて、マゼランに同行したピガフェッタにとって、世界は“驚異”の連続です(ナチュラリストとしては、宝庫の連続というべきでしょうが)。一発目は、南米リオ・デ・ジャネイロ湾です(時に、1519年12月13日)。彼は、先住民について色々と聞き込みます。当然の偏見も混じりながら、しかし、ピガフェッタはできるだけ書き込もうと努力します。ヨーロッパ人としての民族的偏見は、まあ、御愛嬌だと思って下さい。

 この土地のひとたちは、一本のナイフと釣り針を手にいれるために、5、6羽の雌鶏をくれる・・・ここの住民はキリスト教徒ではなく、何ものも崇めていなくて、本能のおもむくままに、けだもの同然の生活をしている・・・・

 彼らは、彼らの敵の肉を食べる。うまいから食べるのではなくて、次のようなことから始まった風習によるのである・・・ある老女が一人息子を敵に殺された・・・老女は捕虜を見ると彼女の息子の死を思い出したものだから、まるで狂犬のようにいきなり、彼に襲いかかり、肩にかみついた。ところが、捕虜は逃げ出すことができて、この女が彼の肩につくった傷を見せながら、どういう風にして彼がくわれところであったかを話した。このことがあってから、双方とも捕虜になったものは食われることになった・・・・

 もっと他に不思議な話がいくらでもあるが、長ったらしすぎてもいけないので、このへんでやめておく。

 さらに翌年、いよいよ南米の南端に近づいた時、彼らはパタゴニア人に出会います。

 大男で、短いがごつい弓と、黒と白の石のやじりのついた矢で武装している。彼は踊ったり、わめいたりしながら、両手にいっぱい砂を取って、その砂を友情の印に頭にかぶる。

 マジェランやピガフェッタたちと同様、彼らは突然あらわれたヨーロッパ人にびっくりして「まるでこの新来者たちが空から降りてきたのか、といわばんばかりに、空をさした」。ピガフェッタはこれらの巨人たち(当時の挿絵ではまるで3mほどもありそうな巨人に描かれています)について、こう書きます。

 彼はとてつもなく大きかったので、わがほう随一の大男でも、彼の腰までしかなかった。彼はほんとうに骨組みががっしりしていた。

  今日、パタゴニアの先住民たちは、男性の平均身長175cm、きわめて高身長であることが知られてはいますが(Wikipediaより)、しかし、ピガフェッタが伝えるほどの高身長ではありません。彼我の背の高さの違いにびっくりしたあまりの主観的な筆のすべりと言えましょう。こうした驚き、そして偏見は、ピガフェッタの筆をそれなりに歪ませます。ペイヤールは解説まじりで、

 「彼らの間でだれかが死ぬと、10人から12人の悪魔が完成をあげながら、死人の回りでサラバンド舞踊を踊る」と、われらの天真爛漫な作家(=ピガフェッタ)は語っているが、実際は他の者より顔と体により多く色を塗ったパタゴニア人なのだ。人間というものはだれであろうと、死を前にすると厳粛荘重な儀式や、仮面行列を好む者である。

と書いています。マジェランは、しかし、後生の植民地主義者帝国主義者の先駆にふさわしく、この先住民を理不尽にも

 捕らえてやろうと思って、計略を用いる。彼は贈り物を山ほどやって巨人の手の自由を利かなくしてしまう・・・・・鎖につながれたと気づいたとき、大声をあげてじたばたしたが、手遅れだった。彼らには大きな籠一杯のビスケットと、生きたねずみとが食料として与えられたが、その後この大食家たちは飢え死にしたにちがいない。

 片方で、異教徒にキリスト教を広めようとしながら、片方で非人道的な行いを(ほとんど無自覚に)おこなう航海者たち。この所業を見れば、彼らが神の怒りをかって、多くが故郷に帰れなかったのも故なし、と考えても良いかもしれません。

  世界をキリスト教化するために、マジェランは様々なものを用意します。現地の住民・支配者を懐柔させるための「鏡、リボン、「黄色と赤のラシャでトルコ風に作られた服」、十字架、聖母マリア、それに聖体拝領のための無数の聖餅」等も用意されます。さすが、この大航海の前に、7年間をアジアで過ごし、戦争、略奪、支配、交易ありとあらゆることに通じたであろう彼ならではの工夫です。

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 こうして1520年、食料の大半をうしない、3隻までに減った艦隊は、今日でも船乗りがおそれるホーン岬を迂回する形で、いわゆるマジェラン海峡を突破、デセアト(願望の)岬を通過して、このうえなく穏やかな大海(”El Mare Pacificum” )=すなわち、太平洋に突入します。ところで、これらの地名について、ことごとくヨーロッパ人が命名したものであり、先住民の文化・命名権をいっさい無視しているものであることぐらいは、(とくに国際政策に進みたい方は)心にとめておいて下さいね。

 さて、この穏やかな海は、しかし、恐るべき存在でもあることが次第にわかってきます。ピガフェッタは語ります。

 われわれは3か月と20日間というものは、新鮮な食物なしで過ごした。そればかりか、われわれは鼠がよいところを食べてしまった後で、その上にした小便の匂いがぷんぷんする、ぼろぼろで虫だらけの、古いビスケットを食べたものだ。われわれはまた、大檣下桁の鋼具がすり切れないように取り付けてある、牛革まで食べたのだ。牛革は風雨にさらされて堅くなっていた。そこでわれわれは、4、5日間、それを海中に漬けてふやけさせてから、ちょっと火のおきであぶるのだった。

 かかる旅を二度と企てる人はいないであろう、と私は信じる。

 この未知の大海の航海は、3月6日、グアム島への到着で一段落しますが、それは先住民とのはてしのない争いの復活でもありました。

  陸から無数の丸木船が放たれて・・・・原住民たちは船によじ登り、手当たり次第に盗み始めた。

  これが“泥棒諸島(マリアナ諸島)”の名前の由来になる、不幸な出来事です。当然、ピガフェッタの筆致もいきいきします。翌朝には

 40名ほどの水夫を上陸させ、泥棒の小屋を焼き払って、ランチを奪い返した。

 われわれがこれらの原住民の体に矢を射込んで傷つけたとき、彼らは矢をじっと見つめてから、驚嘆して矢を引き抜くと、ただちに死んでゆくのは注目すべきことだ・・・・

 こういった人たちは、彼らの意志のままに自由に生活している。なぜなら、かれらには領主とか上役などというものはいないからである・・・・我々同様に長身であるが、実に見事な体格をしている。彼らは何物もあがめていない・・・・

 彼らは貧乏だが、器用で大泥棒だ。それにかんがみて、我々はこれら三つの島を「泥棒の島」と呼んだ。

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 この泥棒諸島から略奪した食物で元気になったマジェランたちは、さらに西へ、そして1521年3月16日、フィリピンのサマール島まで到着します。

 ちなみに、マジェランの死まで42日、メンデス・ピントらによる種子島到着まで22年、米西戦争の結果、スペインの植民地からアメリカに奪われるまで377年、アメリカ軍が反抗するフィリピン人数十万人を殺したという米比戦争が終了する1902年にまで381年、日本海軍とアメリカ海軍が死闘を繰り広げるサマール沖海戦(あるいはそれを包含したレイテ沖海戦)まで423年、フィリピンが日本軍の軍政を経てアメリカから独立する1946年まで425年です。

 ということで、以下は後編に回しましょう。

  なお、この稿を書くためにWikipeidaを見て初めて知ったのですが、フィリピン共和国(Republika ng Pilipinasフィリピン語)/Republic of the Philippines(英語))の語源は、なんとマジェラン当時のスペイン皇太子フェリペ(後の国王フェリペ2世)に由来するとのこと! ちなみに、フィリピン語はオーストロネシア語族に属するタガログ語を標準化した公用語ですが、その一方で、フィリピン全土では172の言語が母語として使用されているとのことです。 

住まいの人類学Part4:植民都市=“街”を“植え付ける”人たち#1

2011 6/10 総合政策学部の皆さんへ

 Part1Part2、そしてPart3に引き続いて、住まいの人類学Part4です。今回のテーマは、都市計画の一典型=“植民都市”です。

  ちなみに、Wikipediaで“植民都市”を検索すると、なんと“古代の植民都市”に転送されてしまいますが、その記事によれば、古代の植民都市とは

母体となる都市が領土を周辺に拡大するという形態ではなく、全く異なる場所に新たな都市国家を作ったものである。植民地母都市のつながりは密接に保たれることが多く、様々な形態をとった。しかし後の植民地主義時代とは異なり、古代の植民都市は独立した国家として運営された

  この“母都市”とは、英語で言うと(日本でも外来語として通用する)メトロポリス(Metropolis)だそうです。語源はギリシャ語で、metera=母+polis=都市の合成語です。古代の母都市と植民都市の典型は、フェニキアカルタゴカディス、ギリシアとシュラクサマルセイユ等です。

   メトロポリスのように、英語には様々な言葉が流れ込んでいます。基本は5~6世紀に大陸から渡っていたゲルマン語系アングロ・サクソンの人たちの言語に、11世紀のノルマン・コンクエスト以来の俗ラテン語に起源をもつロマンス語系のノルマン語の影響を受けました;アングロ・サクソン人の豚飼いが飼っていればpig(ゲルマン語系)だけれど、それがノルマン貴族の食卓に載るとpork(ノルマン語系)になります。

 そして、メトロポリスのように権威的な、小難しい単語はラテン語やギリシア語由来だったりします。セミナーの語源はラテン語のseminarium で、 苗床等の意味。民主制(democracy)の語源はギリシア語の“デモクラティア(δημοκρατία)”で、「人民・民衆」の意味の「デモスδῆμος)と、「権力・支配」の意味の「クラティア」(κράτος)を組み合わせているそうです。この“ごった煮”状態のため、皆さんもECで体験されていると思いますが、英語を学ぶのも一苦労というわけです。

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 さて、今回触れるのは、言うまでもなく、“後世の植民地主義時代”における植民都市(Colonial city)です。植民地といういわば“面”を支配するための重要拠点としての“点”です。『植え付けられた都市~英国植民都市の形成~』(布野修司他訳、京都大学出版会)の著者R・ホームズによれば、「大英帝国の支配地拡大は、2世紀にわたり植民都市を植え付ける(planting)」ことによって達成されていった。植民省(Colonial Office)の前身(18世紀後半に成立)は、プランテーション局(the Board of Plantations)と呼ばれていた」とあります。

  そこには都市計画家Urban/City planer)が登場し、未開の大地を縦横無尽に切り裂いて、都市を“植え付ける”。都市計画にたずさわる人にとっては本望ですね! 広大な大地をキャンバスにして、自分の夢を描く。都市政策学科の人たちには夢のような世界です。

 もっとも、ホームズを読み進むと、都市計画家たちのお仕事もなかなか大変だったようです。何より、どんなに努力しても、多様なステークホルダー(本国政府、植民地政府、同僚、入植者たち)に非難されてしまう。 例えば、ホームズはアデレードを測量したライト大佐を「誤解で入植者の恨みを買った最も有名な被害者」として紹介します。

彼は誠実で実に才能ある人間であった。1042エーカー(約440ヘクタール、KSCの10数倍)をたった2ヶ月間で終了したのである。ホドル[1794-1881]が240エーカーのメルボルンの町を計画するのに5ヶ月かかったのと比較すれば、いかに短いかわかるだろう。彼の三角測量法は従来の「連続測量」より正確であることが後に明らかとなる。しかし、入植者から批判され、上官の指示もなく辞職に追い込まれることになった(ほとんどのスタッフも一緒に)

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 私が最初に目にした植民都市は、シンガポールということになります。25歳の時、オランウータンリハビリテーションセンターを主題としたTVプロダクション、日本映像記録センターの取材クルーの一員というちょっと変わった身分で、2か月をスマトラで過ごしたその往還にトランジットした次第です。シンガポールまではタイ国際航空(機種はエアバスA300)で、シンガポールで一泊したあとマレーシア航空でメダンまで、という航路でした.

 その時の顛末は「TVドキュメンタリー撮影クルーの際に教えてもらったこと:総政100本の映画番外編(2009年12月30日投稿)」をご参照ください。映像プロダクション等に興味がある方は、ちょっとのぞかれても面白いかもしれません。ディレクター、アシスタントディレクター(AD)、そしてカメラマンの方々の微妙な関係等紹介しています。

  そのシンガポールですが、香港とならぶイギリス帝国主義のアジア地区の根拠地として、後世にはナチュラリスト(世界で最大の花、ラフレシアは彼の名前にちなんだものです)としても名を残すイギリス東インド会社員トーマス・ラッフルズが上陸した1819年1月には、人口はたったの150人でした。

 ラッフルズは出自もよくわからず、14歳の時から東インド会社に勤めた、いわばたたき上げ社員なのですが、シンガポール上陸時は37歳、すでにジャワの仏教遺跡ボロブドゥールの発見等によりナイトの称号を受け、Sir Thomas Stamford Rafflesという名乗りになっています。出世したのですね。1823年までシンガポールに滞在しますが、帰国後ほどなくして1826年に亡くなっています。

 ちなみに、“東南アジア”等という地域名さえ、欧米的発想の賜物です。というのも、これは「欧米から見ると東南の方角のアジア地域」というわけですから。そして、日本・中国周辺は「イギリスから見て東の端(極)」というわけで、“極東(Far east)”なのです。こういった地名を無自覚に使うことで、我々は西洋帝国主義の中に取り込まれていく! と言えないわけでもありません。

  ラッフルズはシンガポール上陸後、その地理的重要性を即座に見抜き、1819年2月6日、当時のジョホール王国から商館建築の許可を取り付け、1824年には植民地として正式に割譲させます。その後は、イギリス人の勝手にまかされます。とくに、無関税の自由港政策によって、いわゆる海峡植民地の中心として、インド、オーストラリア、中国等との三角貿易(アヘン、茶)やマレー半島の資材(天然ゴム、錫)の積み出し港として一気に発展します。 なお、シンガポールとは、サンスクリット語で「ライオンの町」という意味のシンガプラの音から来ているとのこと。

 こうした経緯を見れば、その約40年後、江戸幕府の遣欧使節の一行の高官がアムステルダムでオランダ人に

このアムストルダム府の土地は売買勝手なるか」と言うに、彼の人答えて「もとより自由自在」「外国人へも売るか」「値段次第、誰にでも、また何ほどにても」「さればここに外国人が大資本を投じて広く土地を買い占め、これに城郭砲台でも築くことがあったら、それでも勝手次第か」と言うに、彼の人も妙な顔をして「ソンナことはこれまで考えたことはない、いかに英仏その他の国々に金満家が多いとて、他国の地面を買って城を築くような馬鹿げた商人はありますまい」と答えて、双方共に要領を得ぬ様子で、私どもはこれを見て実に可笑しかったが、当時日本の外交戦略はおよそこの辺から割り出したものであるからたまらないわけさ(『福翁自伝』)

と幕府高官をあげつらう福澤諭吉の言葉とは裏腹に、幕府高官の心配の正しさ、そして欧米側の進出の巧みさこそがめだつわけです(「総政をめぐるトピックスPart3:内地雑居の顛末、外国人による土地取得をめぐって」を参照)。

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 そして現在、 シンガポールはもともと在住していたマレー系住民を圧倒する華人(移住先の国籍を取得した中華系の人々)の町として、人口の76.7%が中華系、インド系が7.9%(Wikipedia)。すなわち、イギリス植民地に労働者として集められた/集まった/売り飛ばされた者たちが集まってできた国際都市国家。

 1963年にともに独立したマラヤ連邦サバサラワク(いわゆるボルネオ島の北部)と結成したマレーシア連邦も、マレー系優遇策と華人・マレー系平等政策の衝突から分裂、シンガポールは追放される形で1965年分離独立します。そんな混乱の中、首相に就任したリー・クアンユー客家系華人)の元、人民行動党の事実上の一党独裁制を堅持し、いわゆる開発独裁(あるいは国家資本主義)の典型的コースとして、東南アジアの通商のかなめというステート・プランを貫徹して、現在にいたっています。

 そんなイメージは、反面、ジョージ・オーウェルの『1984』、映画の『未来世紀ブラジル』、あるいはコミック映画の『Vフォー・ヴェンデッタ』等に描かれる超管理国家を、どうしても連想したくなるかもしれません。

 その開発政策の成功(2008年に473万7千人、1人当たりのGDPは51,142$)によって有名なこの都市国家の現在は、200年前の一介のイギリス人商社員ラッフルズの慧眼ぶりを物語っているともいえるでしょう。彼が植え付けた“都市”はまさに一つの“典型”までに成長したのです。

 シンガポールに航空便の乗り換えでトランジットした時にお薦めは、空港から一時的にシンガポール市内を案内してくれる“フリー・ツアー”です。私の場合、乗り換えに20時間ぐらい空港内で待たされたことがありますが、その間に何便もフリーツアーが出ています。その“心”は、トランジットでただ空港をよるだけの乗客にシンガポールを印象付け、国の政策をアピールし、あわよくば次回は観光に訪れたり、シンガポールを良好な投資対象としても見てほしい、という見事なセールスです。

 これぞ、観光政策の見本と言うべきではないか、と思います(おかげさまで、世界三大がっくりという観光名所マーライオンも実見できました)。私が最初に利用した時は、たしかイギリスからニュージーランドにいく団体客と一緒でした(チャンギ国際空港のフリーツアーのページはhttp://www.changiairport.com/at-changi/leisure-indulgences/free-singapore-tour)。

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 そのシンガポールからマレーシア航空でほぼ1時間、海峡を越えたインドネシア、スマトラ島の玄関口メダンの町は、これはまたどうしようもなく旧植民都市の風韻と、その郊外に広がるアジア特有とも言えそうな、いつ果てるともしれないスラム街の世界で、あまりに対照的な風情でした。

 これにはシンガポールの華人的仏教世界から、インドネシアのマレー系イスラーム世界の対比もあります。ということで、メダンの町の紹介は#2にまかせることにしましょう。

住まいの人類学&本を紹介しましょう番外編:漂う者たちPart3:Holly Golightly, traveling~ついでに、アメリカ英語を楽しみましょう

2011 6/4 総合政策学部の皆さんへ

 Part1Part2に続いて“漂う者”Part3は、“Holly Golightly, traveling”。この一言で内容がぱっとわかった方は、かなりの映画ファンかもしれません。

 今回ご紹介するのは、そのハリウッド映画の原作、アメリカの小説家にして第2次大戦後の“おそるべき子供たち(Enfants Terribles)”の代表格、トルーマン・カポーティの傑作『ティファニーで朝食を』(書籍番号81)です。

 なお、日本語版Wikipediaを開けると、ほとんど映画しか触れていませんので、小説について詳述する英語版をリンクしておきます(このあたりで日米の文化の差がわかってしまいますね)。

 それでは、『ティファニーで朝食を』(書籍番号#81)、日本人の大半にはオードリー・ペプバーン主演のハリウッド映画『ティファニーで朝食を』でのみ知られているかもしれませんが、原作を大幅に改悪した(としか思えない)映画より、このカポーティの原作を是非お読みください。“Holly Golightly traveling”、決して一所に落ち着けない魅力的な女性の不思議な物語です。

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 もっとも、映画自体は評価できなくとも、その主題歌、“ムーンリバー(Moon River)”は傑作です。皆さんも一度は耳にしたことがあるでしょう。作詞はJohnny Mercer、作曲はHenry Mancini 、このコンビは、この後“酒とバラの日々”でアカデミー歌曲賞を獲得したほか、ヘップバーンの後年の出演作“シャレード”でもコンビを組みます。 それでは、ハックルベリー・フィンのミシシッピ川筏下りを想起させ、皆さんを遥かな旅に誘うこの歌詞を... 

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 さて、ホリーに話を戻して、彼女はどんなキャラなのか? 実にむずかしいのです、彼女のような女性を語る事は。そのためか、(大衆にわかりやすく語りかけねばならない)ハリウッド映画版はきわめて通俗的なストーリー=「ホリーと語り手の小説家志望の若者の間の恋物語」に堕しています。しばし、英語版Wilipediaの“Breakfast at Tifany’s”の英語に取り組んでみませんか?

     The novella tells the story of a one-year (autumn 1943 to autumn 1944) friendship between Holly Golightly, and an unnamed narrator. The two are both tenants in a brownstone apartment in Manhattan‘s Upper East Side. Holly Golightly (age 18-19) is a country girl turned New York café society girl, who makes her living as a companion to society’s most prominent men. The narrator is an aspiring writer. Holly, who likes to stun people with carefully selected tidbits from her personal life or her outspoken viewpoints on various topics, slowly reveals herself to the narrator who finds himself fascinated by her curious lifestyle. In the end Holly fears that she will never know what is really hers until after she has thrown it away.

 それでは、café society とは何か? 英語版Wikipediaを開くと、なんと他はスペイン語のWikipediaしか扱っていません。アメリカ英語なんですね。次にGoo辞書を開けると、簡単に「ナイトクラブなどの常連(の社交界)」と出てきます。そこで、再び英語版Wikipediaに戻って、Café society をひくと、

     “Café society was the collective description for the so-called “Beautiful People” and “Bright Young Things” who gathered in fashionable cafes and restaurants in New York, Paris, London, Vienna, or Istanbul, beginning in the late 19th century. Lucius Beebe, noted American author, journalist, gourmand, and railroad enthusiast is generally credited with creating the term “café society,” which he chronicled in his weekly column, This New York, for the New York Herald Tribune during the 1920s and 1930s

     Although members of café society were not necessarily members of The Establishment or other ruling class groups, they were people who attended each other’s private dinners and balls, took holidays in exotic locations or at elegant resorts, and whose children tended to marry the children of other café society members.

     In the United States, café society came to the fore with the end of Prohibition in December 1933 and the rise of photo journalism, to describe the set of people who tended to do their entertaining semi-publicly, in restaurants and night clubs and who would include among them movie stars and sports celebrities. Some of the American night clubs and New York City restaurants frequented by the denizens of café society included El Morocco, the Stork Club, and the 21 Club”.

 つまり、いわゆる“セレブ”な方々が華やかなカフェやレストラン、ナイトクラブに集まり、夜ごとパーティを繰り広げる。その華やかで楽しげな席に、上流階級の者としてでもなく、また職業的なコンパニオン、ホステスとしてでもなく、しかし、いつのまにか男性客の注意を集める存在、それが“café society girl”のようです。小説中では、ホリーは同じアパートの中年女からしょっちゅう「売春婦」呼ばわりされますが、もちろん、それが当たっているわけではない。なおかつ、こうした世界が“Photo journalism”の勃興によって(当時はタブロイド版の新聞、少し前のTV、そして今やユーチューブ等に代表される映像等)、大衆に話題を提供し、人気を集める。つまりは、パリス・ヒルトンのような世界の始まりでもあるのです(パリスの場合は、ヒルトン家というセレブ出身ですが)。

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 ちなみに、文字通り、”Café society”の名前を冠して1938年、ニューヨークに開業したナイトクラブがありました。このCafé Societyでの出演をキャリアの一つにしていた方々に、往年のジャズ・シンガーのリナ・ホーンサラ・ボーン等きら星のような名前が並んでいます。そして、なによりブルースの女王レディことビリー・ホリディ。彼女の自叙伝『Lady sings the blues』には、このカフェ・ソサィエティ開業の日が描かれています。 

  初日の夜、600人の名士(上記、Beautiful people!)がつめかけて、今、幕をあけようというのに、肝心のキャバレー許可書がまだおりていない。午後11時の開幕にあわせたいのに「お巡りは待機している」(もちろん、許可なしに開業しようものなら、しょっぴこうというわけです)。ビリーは言います (『黒い悲しい歌』(筑摩世界ノンフィクション版、油井正一・大橋巨泉訳;注、1963年当時、大橋巨泉はジャズ評論家で売り出し中)。 

 「ねえ、冒険してみましょうよ。ぶた箱に一晩ぐらいはいったって、大したことないわ」 しかし、最後の瞬間、11時半に許可証は届き、

お巡りのみている前で、私たちは始めた」「ミード・ルクス・ルイスがお客を一撃し、アモンズジョンソンがお客を弾き飛ばし、ジョー・ターナーがみんなを殺した後、ニュートンのバンドが一同を天国におくった。次に私の番になった・・・」                  

  なお、 ビリー・ホリディがこのカフェ・ソサィエティで意を決して「アメリカ南部でリンチにあって木からつるされた黒人」を歌って彼女の代表的な曲となった『奇妙な果実(Strange fruit)』のユーチューブ映像が http://www.youtube.com/watch?v=sQsizyAS25o です(日本語字幕付きです)。また、ブルースの名曲『サマータイム』は http://www.youtube.com/watch?v=h5ddqniqxFM&feature=related です。

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 こうして1920年代から生まれ、1933年の禁酒法廃止(上記のthe end of Prohibition)を経て、時あたかも第2次大戦の真っ最中にニューヨークの社交界に、一時華やかに、そしてはかなげに、さらには浮草のようにただよう美少女、それがホリーのキャラなのですが、その彼女を理解するキーワードは”自由”、あるいは”野生”です。作中、彼女はこう言います。

野生の動物なんかかわいがっちゃだめよ・・・かわいがってやればやるほど、だんだん丈夫になり・・・しまいには空へ消えてってしまうのね。それでおしまい」。これは、つまりは彼女自身をさしているわけでもあるのですが。

 しかし、男性どもは、彼女を我がものにしたい。つまりは、籠に入れて飼ってみたい。 『ティファニーで朝食を』の登場人物の一人、ハリウッドで映画俳優の代理人をつとめている男性客が、この物語の語り手、小説家志望の若い男に語ります。

  • あなたはどう考えますかね? あの娘が、あれだかどうだか?」
  • あれとはなんですか?
  • くわせ者ですよ
  • ぼくにはとてもそんなふうに考えられませんね
  • あなたは間違っていますよ。あの女はくわせ者ですぞ。しかし、あなたが正しいとも言えますな。あれはくわせ者じゃないです。というのは、あの娘は本物のくわせ者だからですよ
  • (皆さん、アメリカ人とビジネス英語を交わす時は、こんなふうにマシンガン・トークで、かつ洒落れた台詞を連発できるように、訓練して下さいね)そして、この男はこう結論します。
  • あの娘のもとめているのは、こういうことなのかな?」彼は両腕を広げていった。「つまりですな、いつ何時おしかけてくるかわからんたくさんの連中を相手にするってことさ。やっこさんたちのチップで 暮らしてゆくんですよ
  •         (新潮文庫版、龍口直太郎訳)。
  •   

 一方で、真の漂流者(上記の“Moon river”の歌詞、“drifters”にご注目)ホリーはそんな男性たちの心のなかはお見通しです。

あの人には一つの考えがあるのよ - つまり、あたしに、自分が悪かったと感じさせたいのね・・・あたしがハリウッドにとどまっていたところで、結局、役などくれなかっただろうし、たとえくれたところで、あたしにはうまくこなせっこないわ。要は、あたしが悪いことをしたと感じれば、あたしがあの人の夢をそのままこわさないでおくからなのね - あたし自身はちっとも夢なんか見ていないのにさー 

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 そして、1943年から1944年、第2次大戦中のニューヨークで(ホリーの弟フレッドは戦死します)うわべだけの社交界を泳ぎながら、やっぱり不安を感じてしまいます。ホリーはそれを「嫌な赤」と表現しますが、それは、つまりは、彼女の野生を鎖でつなごうとする世間の力なのかもしれません。それをつかのま忘れる事ができる場所、それがアメリカの繁栄を象徴するかのような宝飾店ティファニーなのです。

 結局、自分でみつけたいちばんいい方法というのは、タクシーに乗ってティファニーの店にでかけること。そうすると、すぐに気分が落ち着いてくるのよ - あたりのシーンとした静けさや、誇らしげなお店の様子でね。あの立派な洋服を着た親切な人たちがいたり、銀とワニ革の財布の気持ちのいい匂いを嗅いだ入りしていると、ひどく悪いことなんかとてもおこりそうもないのね。だから、あたしをティファニーの店にいるような気分にしてくれる本物の生活のできる場所がみつかりさえしたら、あたしは家具でも買い入れ、この猫に名前をつけてやるわ。

 とは言え、そんな生活が長続きするわけがないことは、“drifter”なのですから、いわば当たり前。ホリーは小説の後半、(意識的ではないにせよ)組織犯罪に加担した疑いをもたれ、語り手や友人たちに別れをつげ、(名前をつけていない)猫を捨て、1920~30年代に、建築家たちがそれこそバベルの塔さながらに、天までとどかんとばかりに“摩天楼”で高さを競ったニューヨークもから脱出、南米へ逃亡することで、どこに落ち着くともなく消えていきます。

 十数年後、ひょっとしてアフリカの密林を旅行していたかもしれないという風のたよりを聞いた語り手は、その知らせをもたらした知り合いに言います。「どっちみち、あの女は去ってしまったんですよ

 これ以上話せば、ネタばれも過ぎるし、かつ、原作のはかなさ、せつなさもどこかに飛んでいくようです。ここから先は、原作を是非お読み下さい、ということで話を終えたいと思います。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...