高畑ゼミの100冊Part23&住まいの人類学:貧民窟探険記シリーズ1『最暗黒の東京』前編

2011 6/29 総合政策学部の皆さんへ

 明治から大正、日本の近代化が進むなか、勃興期のジャーナリズムに一つのジャンルが生まれます。すなわち、“貧民窟探訪記”です。とくに巨大化しつつある魔都東京(江戸)で、新たな秘境としてうかびあがる貧民窟、何人ものジャーナリストがこのテーマに飛びつきますが、その動機は様々です。

 岩波文庫の『明治東京下層生活誌』(中川清編;なお、編者の中川先生は同志社の政策学部長のようです)には、明治19年(1886)3月~4月に朝野新聞に連載された著者不詳の「府下貧民の真況」から、名著『日本之下層社会』で有名なジャーナリスト横山源之助の「下級労働社会の一大矛盾~奉公人の供給減少、木賃部落の求業者増加~」(明治45年(1912)5月『太陽』掲載)まで、14編が納められています。

 それを順にたどれば、たんなる興味の世界から、次第に社会問題として取り上げられていく過程をたどることにもなりましょう。中でも、後世、大逆事件において明治国家に死刑に処せられる思想家幸徳秋水が「世田ヶ谷の襤褸市」と題して、“屑屋金太郎”の口上を借りて、講談よろしく名調子を繰り広げます。

 年の市とは、似顔の羽子板とお飾りとを売る所なりとのみ思える都の坊様(ぼっちゃま)穣様たちは、去って世田ヶ谷の襤褸(ぼろ)市に、辛き浮世の機関(からくり)の不思議なる反面を伺い見よ。毎年12月15、16日の両日いまだ由る深き午前3時頃より6時まで、荏原郡は世田ヶ谷宿に襤褸屑物の市ありて、一年注の賑わいを極む。

 都人は嫌がる雑踏を、自然の単調に厭(あ)ける近郷近在の老若は、市の風に吹かるれば無病息災百難を遁(のが)るるとて、三里五里の道を此処に集まり、穢(きたな)き襤褸屑物を買い取るを無上の楽しみとはなすなり。さればこの市の景気は恒に農家の購買力の高低を試験し得べしとぞ。(まるで、農村景気動向調査ですね)

  まず宿の街道に筵席(むしろ)敷き列ねて小屋掛けせる店々、両側を合してその長さ千二、三百間にわたるべし。品物は襤褸六分に荒物三分、おでん、濁酒、鮓、駄菓子の飲食店、そのほか数種の見せ物興行、耳を聾(ろう)する囃子(はやし)の響き田舎者の荒肝をひしぐ。

  襤褸は足袋、股引、シャツ、手袋、手ぬぐい、(あわせ)、単物(ひとえもの)、前掛け襦袢(じゅばん)、羽織、婦人の湯巻、手巾(はんけち)、靴下、糸屑にて、荒物は柄杓、硯箱、火鉢、茶盆、大小の桶や盥、下駄雪駄(げた、せった)、笊(ざる)類、荒縄、小児の便器、古板、机、鍬、鎌、鉈、斧、熊手、鶴嘴、鋤、篦、薬缶、鉄瓶、明樽、明礬(みょうばん)、米、麦、粟、蕎麦、豆類など数えも尽くせず。

  可笑しくもまた哀れにも感ずるは、これらの品物、穀類をのぞくほかは一つとして満足なるはなく、破れたる足袋(たび)の左は十、右は九文なるがあれば、穴あける靴下の右は黒にて左は白なり。(岩波文庫版より) 

 その昔、京都で大学生をしていた1973年頃、JR京都駅南の金光明四天王教王護国寺秘密伝法院こと東寺で毎月21日に開かれる弘法市で、左右が10.5文と11文のズック靴が安かったので、買った覚えがあります。そのころまで、この襤褸市の風情もかろうじて生き残っていたのでしょう。

 それにしても、今や東京都23区中最大の人口を誇る(佐賀県、鳥取県等をうわまわる)商業・住宅地の世田谷ですが、御一新前は御府内に含まれず、明治になっても東京市15区にも漏れる農業地域だった。その様変わりこそが日本の近代化の象徴というべきでしょう。

◆「100年前の貧民窟を行く」というサイト(http://www.tanken.com/hinminkutu.html)に1930年頃の東京の貧民窟の写真が出ています:http://www.tanken.com/hinminkutu1.jpg(荒川区日暮里とのこと)

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  それでは、「高畑ゼミの100冊Part5;きだみのる、大杉栄、そしてオスカー・ルイス(2009 12/15投稿)」で既にご紹介ずみの松原岩五郎の『最暗黒の東京(書籍番号#24)』について、もう少し詳しく紹介しましょう。

 さて、松原岩五郎、幕末の慶応2年(1866年)鳥取県の酒造家の家に生まれるも、幼くして両親を失い、家出をかさねて、ついに大阪、そして東京に出奔、諸力役・行商に身をやつしながら、やがて明治期の新興ジャーナリズムに身を投じます。明治21年、21歳で初の著作『文明疑問』を刊行、大ジャーナリストであった徳富蘇峰の知遇を得て、明治25年、國民新聞社に入社、下層社会ルポルタージュという役割に専念します。

 そして、先輩ジャーナリストの桜田文吾の『』等に刺激を受け、1892年、帝都東京に広がる大暗黒の世界=貧民窟に一連の“突撃取材”をおこない、それをまとめたのがこの『最暗黒の東京』です。「序」では早くも岩五郎の名口上が炸裂です。

 生活は一大疑問なり、尊(たか)きは王公より下乞食にいたるまで、いかにして金銭を得、いかにして職を需(もと)め、いかにして楽しみ、いかにして悲しみ、楽は如何、苦は如何、何によッてか希望、何によってか絶望。この篇記する処、もっぱらに記者が最暗黒裡生活の実験談にして慈神に見捨てられて貧児となりし朝(あした)、日光の温ぼうを避けて、黒暗寒餓の来るに入りし夕(ゆうべ)。・・・・・

   まさに総合政策にとっても、また、ヒューマンエコロジーにとっても「生活は一大疑問 」です。こうして岩五郎は勝手知ったる貧民窟への潜行を決意し、1892年9月下旬、日清戦争勃発まであと1年10カ月、「脱亜入欧」への道をひた走る日本にとって目をそらしたい近代化の暗黒面、帝都に広がるスラム街に突入します。

 日は暮れぬ、予が暗黒の世界に入るべく踏み出しの時刻は来たりぬ。いざさらばと貧大学の入学生はなんの職業を持てる者ともつかぬ窶しき不当の体ににて徐々(そろそろ)と上野の山を下れば、早くも眼下に顕れ来たる一の画図的光景。それはあたかも蒸気客車の連結せるごとき棟割りの長屋にして、東西長く、南北に短く斜めに伸びて縦横に連なり・・・・

 これぞ府下15区の内にて最多数の廃屋を暑めたる例の貧民窟にして、下谷山伏町から万年町、神吉町を結びつけたる最下層の地面と知られぬ。

◆「100年前の貧民窟を行く」というサイトには『最暗黒の東京』の挿絵もでています。こちらは家の前に共同トイレがある図です:http://www.tanken.com/hinminkutu3.jpg

 ちなみに、下谷山伏町とは、現在の台東区の西部にあった旧下谷区(したやく)で、その後下谷万年町二丁目、下谷新坂本町とともに、現在は北上野にあたるそうです。2007年現在、住民は3089人、「地域内は主に商店とオフィスビルと住居(戸建て及び賃貸・分譲マンション)が混在した地域となっている」(Wikipedia)ということです。

 あらためてグーグルマップで探すと、上野駅の北東、上野駅から浅草にむけてしばらく歩いたあたりでしょうか。岩五郎は、慶応4年彰義隊討伐時に伽藍のほとんどを焼失した上野寛永寺跡に、1873年5月太政官達により東京府公園に指定された現上野公園から、1883年に開通した上野駅(1883年7月28日開設)から熊谷駅までの現高崎線(当時は日本鉄道第1区)を横断、この魔窟へと直行したものでしょう。

 なお、グーグルマップから、ストリートビューに切り替えて、かつての魔窟の現在の姿を見ると、まさに集団住宅とオフィスビルの混在で、『最暗黒の東京』からは一変します。

 当たり前の事と言えば、当たり前。テルボこと建築探偵藤森照信の『明治の東京計画』にあるように、江戸からのなごりの大火こそ、名府知事松田道之の建白による“明治14年東京防火令”以後、激減しますが、その後の市区改正(=現在の都市改造事業)による「貧富住み分け論」などによるスラムクリアランス。

 さらには1923年というと松原の探訪の30年後の関東大震災、そして1945年の東京大空襲等による荒波を次々に受けるわけですから(このあたりは、越沢明『東京都市計画物語』をご参照に)。

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 さて、この魔界に入っていく松原は次々とその実態を活写します。まずは、世間からスラムの寝床へ帰らんとする人々について、筆はとどまるところを知りません。

 無数の怪人種等は、今しも大都会の出稼ぎを畢(おわ)りて在る者は鶴嘴を担ぎ、或者は行厨(べんとう)を背負い、或者は汗に塩食(しおばみ)たる労働的衣服を纏い、或者は棒擦になりし土木的の戎衣(じゅうい)を着し、三人五人ずつ侶(とも)をなして帰るは、、これ即ち1日の労役を十八銭の小銅貨(コペーク)に換えたる日雇い人の一類にして、例の晩餐の店に急ぐなるべく、その後より敷き紙の如くに焼けたる顔の車力夫婦は、僅かに一枚の手ぬぐいを以て愛児の胎(はら)を包み、梟に嘲けられたる如き可憐の貌を夕景に曝させつつ、そが臥床(ねどこ)に換える後より十二、三の貧少女、姉と見ゆるは三味線を抱え妹も同じく手に扇子を持ちて編み笠を頂き、・・・・

 それでは、その晩餐の店とは

 かの安飯屋に至っては不潔乱暴ほとんど名状すべからず」とかなり手厳しいお言葉です。「第一目に立つはその家にして、楣(のき)朽ち柱ゆがみて平長屋の板庇煤煙に嘗められて黒ずみ、庖厨より挙がる煤烟全家に漲り渡って室内暗く・・・・

 朝夕の掃除行き届かざるを以て飯台の四隅塵芥(ほこり)に塗れ、天井裏は透き通り壁は壊(く)ずれに任せて修復するなく、なかんずく厨房の混雑は実に伝染病の根源にして一面芥捨場を打拡げたるが如く、覿面にめだつは土間の湿気にして、譬えば河獺を這わせたるが如く、狭隘なる地面、低き屋根裏、長屋続きの便所、掃きだめ、井戸等皆一所にあつまって黴の生えたる水桶、・・・

 終日喧声湧くが如きこの最下等飲食店は、浅草、芝辺の場末にもっとも多く、三河町界隈比々皆これなり。

と続きます。伝染病などの言葉がちりばめられているのも、新進ジャーナリストとしての面目躍如です。しかして、どのような料理が出てくるのか?

  しかして、これらの店はたいてい、日に12竈(かま)ないし18竈(一ト竈に米3升)を炊き(一食1合として、540人分)、煮染め500皿(一皿5厘、あるいは一銭)、煮肴100皿、刺身50皿、鍋類若干(そくばく)を売り切る。但し這般(しゃはん)の社会下等力役者の口腹に応じて饗供するものなれば、値を安くして数を売り多数の中より利益を見いださんとするにあれば、勢い廉直なる物品を知れて供給せざるべからざれば、第一まず食品の材料に物の新鮮なるを望むべからず。朝市の剰(のこ)り物というほどにはあらざるをも、都合良くば常にかくあれかしとねごうて例も物品の溢れたる方面より買いだし来る。

 即ち鮫の破肉(あら)一と籠三貫に買い出してこれを大概皿100枚に盛り出す、一円の売り上げなり。或る時は大鮪のかしら1頭を買い出して刺身十枚、鍋五十そのほか小皿若干、5,60銭の元にて3円以上に売り上ぐ・・・儲け悪(にく)きは鰭のついたる小魚の類なり、一尾一銭の品を煮て二銭には売りがたし。なおそのほか繁昌する飯屋においては米飯には利潤を見込まず、ようやく薪代と手数料を算当に立つるのみ、以ておおむね下等飲食店の経済を知るべし。

 松原はさらに、筆を進め、

 尤も彼らの朝餐には一汁一切きわめて淡薄なれど、晩餐には間々濃味の魚肉を呼びて口腹を肥やす。蛤蜊(はまぐり)鍋、葱鮪(ねぎま)等なり、しかして茲に彼らの境界においてすこぶる幸福なるは河豚の廉価なることなり。彼ら常に言うを聞くに、そもそも河豚は魚族中第一等に位するほどの貴重なる味を持ったるものなれども、普通の人はその有毒なるを懼れて食する物稀なるより自然と市場に放擲さると。彼らの健啖なるよくこのけんのんに打ち勝ってほしいままに食するは乱暴とや言わん、けだし婪食(らんしょく)者の常なり。

 蛤鍋はいわゆる“深川鍋”あるいは“深川丼”、これがアナゴやシャコを使えば“品川めし”等の東京のB級グルメ(むしろC級グルメと呼ぶべきかもかもしれません)の世界ですが、葱鮪鍋(汁)もまたその世界ですね。なお、名古屋周辺では、“ネギマ”というと、焼き鳥の一種で、鶏肉とネギを交互にさしたもの(=鶏肉の間(ま)にネギがある)のようです。

 それにしてもマグロの頭が5,60銭、河豚は廉価。かつて生粋の江戸っ子にとって、マグロも下魚でせいぜい葱鮪鍋か、鮓でも“ヅケ”程度でした。河豚もまた、下手の食い物だったのに、魯山人(=『美味しんぼの海原雄山のモデルの一人)あたりが持ち上げたためだと嘆く声もあると聞いたことがありますが、まさにその直前。

 しかし、その故にこそ貧しき者が世間が見向きもせぬ美味を味わえることが出来る。ブラジルで奴隷の食べ物だったフェジョアーダが何時の間にか、主人たちのやみつきになってしまった(異説もあるようですが)という故事も思い出させるかもしれません。料理の人類学ですね。

 と、このあたりで充分に長くなったので、とりあえず前編のおわりといたします。

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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