2011年7月

翻訳についてPart3:学術用語の翻訳とその混乱:明治維新前後の先輩たちの努力を偲んで

2011 7/31 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ

 授業でも時々触れているので、覚えている方もいらっしゃるかもしれませんが、日本語の学術用語は幕末・明治期以降、様々な外国語から翻訳されたものが基本です。その際、分野ごとに別々の日本語訳がつくことが珍しくありません。

 それゆえ、細分化された分野で平気で使っている用語が、別の分野ではまるで通用しない、こんなこともよく起こります。英文和訳の世界では、これがとんでもない誤解を産むことだってありうる。

 さらに総合政策学部の学生さんの場合には、先生方の専門分野に従って、別々の用語を覚えねばならない不自由を忍ばねばならない。これが、今回の話題です。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 それでは、一つ例をあげましょう。私の授業でも触れる“Population”です。Webで手っ取り早くweblio英和辞典(http://ejje.weblio.jp/content/populationをひいてみましょう。『研究社 新英和中辞典』には、「(1)人口、住民数、(2)(全)住民、人々、(3)【生物】個体数」と出ているそうです。

 一方、JST科学技術用語日英対訳辞書では「個体数; ポピュレート; 母集団; 客の母集団; 人口; 分布数; 固体群; 原子停在数; 集団個体数; ポピュレーション; 個体群; 人口集団; 混系; 群集; 集団; 生息数; 隔離集団; 占有数; 住民」とあるそうです(なお、「固体群」は「個体群」のミスタイプと思うのですが、どうでしょう?)。

 うーん、びっくりですね。皆さん、これを使い分ける事ができますか? 人口学では「人口」、動物生態学では「個体群」と訳すのが普通ですが、統計学では「母集団」というわけで、この3つでも頭が混乱しそうなのに、大変です。

  英語版Wikipediaの“population”には、“A population is all the organisms that both belong to the same species and live in the same geographical area.”とあるので、この場合は(ヒトの人口も含めた)個体群をさしているようです。

   この問題に、さらにどこの外国語から伝来したかで、混乱が深まる場合もあります。例えば、食塩で皆さんよくご存じの塩化ナトリウム、このナトリウムNatrium)は実はドイツ語で、英語だとソジウム(ソディウム;sodium)でないと通用しません。同時にカリウム(Kalium)もドイツ語で、英語ではポタシウム(potassium)です。 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、学術用語の翻訳には、われわれの先輩はみんな苦労されたわけで、それを後世のわれわれがあげつらうのも、天に向かってつばを吐くようなもの。少しそのあたりを紹介しましょう。例えば、“化学”。実は、日本語の最初の訳は化学ではありません。それは、“舎密(セイミ)”と呼ばれたのです。

 この舎密とは、幕末の蘭学者宇田川榕菴が、オランダ語のChemie (科学)の音をそのまま活かして、日本語化しようとしたもの(Wikipediaより)。みんな苦心したのですね。

 それでは“化学”という言葉は誰が発明したかと言うと、なんとこの三田出身の蘭学者川本幸民著書『化学新書』で初出とのことです。理工学部等、これを使ってもってもっと宣伝すればよいのに(日本の化学、生誕の地とか?!)・・・・。

  それはさておき、川本は「多くの科学の著訳書があり、白砂糖、マッチ、銀板写真なども試作しており、日本の科学の発展に貢献した。また、1853年(嘉永6年)頃、日本で初めてビールを試醸し、浅草の曹源寺で試飲会を開催した」そうです。川本は、このビールの試作者として、一般に知られているようです。

  この川本が試製したビールは、日本酒“白雪”が主力商品の伊丹市の酒造会社小西酒造が、“幸民ビール(幸民麦酒)”として復刻版を販売しています。HPはhttp://www.choujugura.com/SHOP/bakumatsu001.html

 さて、宇田川榕菴に話を戻すと、彼は『舎密開宗』といういかにも漢文的なタイトルの本を1837~1847年に出版します。なお、この原著はイギリスの化学者ウィリアム・ヘンリーの“Elements of Experimental Chemistry”(1799年)で、ヨーロッパでドイツ語からさらにオランダ語に重訳され、それを宇田川が日本語に翻訳したものだそうです。ヨーロッパとの出版の時差が38~48年ですね。

 宇田川はこれらの本の中で、酸素水素窒素炭素白金等の元素名や元素酸化還元溶解分析等の化学用語、細胞等を訳出したとのことです。すごいですね、今ではもうすっかり日本語として定着して、違和感がありません。

 なお、coffeeを「珈琲」と標記したのも宇田川とのこと。もっとも、肝心の“舎密”は定着しなかったのですけれど。こんな先輩の努力があればこそ、日本の高等教育を日本語だけでも行えるようになったわけです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 こうした翻訳が定着する前、大学教育、とくにヨーロッパからの直輸入の学問は、日本の大学であっても、外国語でした。例えば、明治初期に東京医学校(現東京大学医学部)に赴任したドイツ帝国出身の医師エルヴィン・フォン・ベルツは、御雇い外国人のうちでもまぎれもなくもっとも優秀でかつ誠実な者の一人ですが、来日20日目の1876年6月26日の『日記』でこう書きます。

  「着いてから5日目で、すぐ生理学の講義を始めましたが、学生たちの素質はすこぶる良いようです。講義はドイツ語でやりますが、学生自身はよくドイツ語がわかるので、通訳は実際のところ単に助手の役目をするだけです。

 医学こそわれわれドイツ人の手で、しかもドイツ語で日本に渡来したものであると聞けば、あなた方はびっくりされるでしょう。これは何よりもまず、日本人がわれわれに最大の信頼を寄せていて、5年前、日本の医学を近代的なヨーロッパの科学的基礎の上に移しかえる事を、ドイツの軍医少佐ミュラー氏(外科医)と軍医少尉ホフマン氏(内科医として)に委任したことによるのです」(トク・ベルツ編(菅沼竜太郎訳)『ベルツの日記』岩波文庫版)。

  しかし、日本の近代化は、教育の日本語化を産み、やがてお雇い外国人たちは契約が切れるにしたがい、日本人教員に置き換えられていきます。そのもっとも有名な例の一つが、ラフカディオ・ハーンから夏目金之助こと夏目漱石への東京帝国大学英文学講師の交替です。

 明治天皇伊藤博文等にも親交があったベルツもまた在職25年の祈念祝賀で、日本人の科学受容について鋭い批判をおこない、ヨーロッパに去っていきます。

日本人は西欧の学問の成り立ちと本質について大いに誤解しているように思える。日本人は学問を、年間に一定量の仕事をこなし、簡単によそへ運んで稼動させることのできる機械の様に考えている。しかし、それはまちがいである。ヨーロッパの学問世界は機械ではなく、ひとつの有機体でありあらゆる有機体と同じく、花を咲かせるためには一定の気候、一定の風土を必要とするのだ。

 日本人は彼ら(お雇い外国人)を学問の果実の切り売り人として扱ったが、彼らは学問の樹を育てる庭師としての使命感に燃えていたのだ。・・・つまり、根本にある精神を究めるかわりに最新の成果さえ受け取れば十分と考えたわけである」(Wikipedia)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、ベルツの忠告を活かすとすれば、学術用語を翻訳する時は、たんにその意味だけでなく、その言葉の裏に潜む科学の精神、歴史、それらを踏まえて、そこから元々の言葉が含意する精神までも理解する、ということになるのかもしれません。

新カテゴリー:卒業生の皆さんから、就活&仕事について皆さんへメッセージ&アドバイス#1

2011 7/24 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ 

新カテゴリー「卒業生の方々から、皆さんへのメッセージ」です。昨年度、渡部律子先生と二人で、卒業生の皆さんにアンケート調査をいたしました。その結果をおいおい皆さんにもお知らせして、“就活とは何か?”、“仕事とは何か?”を知っていただきたいと思っているところです。

 実は、現在、小冊子“誰でもわかる総合政策シリーズ”の#4/#5として、その先輩たちからの就活仕事についてメッセージ&アドバイスをまとめて、『“総政”での学びを“就活&仕事”に活かすPart1/Part2』に編集中です。秋学期開始までになんとか完成したいところですが、その前人気を煽るべく(?)、予告編シリーズを始めたいと思います。

 本当はブログと冊子体とメディア・ミックスでやりたかったのですが、なかなかうまく話が進みませんので、とりあえず、私の研究室ブログで始めましょう。やがては、先輩(卒業生)から投稿も受け付ける独立コーナー等に発展できれば好いのですがね。それでは、この2冊の冊子の表紙に考えている先輩の言葉から始めましょう。

  • ■就活とは何でしたか?
  • ・自分と向き会っていくということ、です。(女性、1999年卒、サービス業)
  • ・就職活動大変だと思いますが、就職はゴールではなく、むしろ競争がそこから始まります。特にこのグローバル時代、海外の超優秀な人たちと戦えないと、会社はつぶれます。不景気だとか、企業の求人がないとかで凹むのではなく、戦えるだけの専門知識なり、リーダーシップを身につける努力をして下さい。
  •  希望する職種によっては高い専門性が必要な場合もあるので、勉強もしっかりして下さい。それから、英語は卒業までに、自信をもって話せるようになっておいた方が良いです。(男性、2000年卒、総合通信)
  •   
  • ■就活には何が必要ですか?
  • 信念と行動力です。 (男性、2001年卒業、産学官連携機構)
  • ・自分が働く理由を明確にして頑張って下さい(キャリアデザイン以前の大事なことだと思いますので)。また、狭い世界にこもらず、色々な世界と交流を持って“能動的”にしていると、多くのギフトを手に入れることが出きます。“No”と言わず、まず“Yes”から始めてみると良いかも。(男性、2001年卒、ソフトメーカー)
  •  
  • ■時には遠回りも
  • 夢はあきらめなければ叶う。一回ダメでも何度もトライし続けて下さい。ちょっと回り道することはあっても、決して遠回りにはならないハズ!!(女性、2002年卒、航空会社)
  •  

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  • ■貴方にとって仕事とはなんですか?
  • ・自己表現するための生き方だと思う。正直、自分を大きく見せなくてはいけない時もあるが、常に自分が納得できる判断を迫られていると感じるので。(女性、2000年卒、製造業) 
  • ・私は、まだ転職したことがありませんが、仕事を始めて3ヶ月は、毎日やめたいと思ったものです。仕事は数年してだんだんおもしろくなる。大変な経験を積むことが自信につながります。どんな会社でも良いので、入社して下さい。いつか自分の好きなことができるようになってきます。(女性、2000年卒、サービス業)
  • ・ 社会のしくみを知るということ。アルバイトとは違う責任がのしかかるということ・・・など、社会に出ると、辛いと思うことがあるかもしれません。お金を稼ぐことは簡単ではないと知る場だと思います。あと、両親が働いて育ててくれたことを感謝できることだと思います。(女性、2005年、製薬会社)
  •  

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  • ■総政ではどんな学びをすれば良いですか?
  • 進んで大役を買って出ると良いと思います。自分に自信もつく。たとえ失敗しても、それもまた良い経験になります(女性、1999年卒、サービス業)
  • ・総合政策学部のように、広範囲の学問を学べる場は、それ程多くはありません。たくさん勉強して下さい。ただ、たんなる教養で終わらせるのではなく、学問を深めることも大事です。実際私も在学中、経済の知識を深めるため、経済学部に聴講しました。(女性、2000年卒、サービス業)
  • ・ 総政は多岐にわたる分野を学べるチャンスがあるところです。でも、三田という立地上、他大学との交流が少ない。他者とのコミュニケーション、自分を知ること、視野を広げるためにも三田キャンパス内にとどまらず、どんどん外に出て下さい。
  •  勉強も一生懸命、遊びも精一杯、どちらかに偏ることなく頑張って下さい。就活も大変だと思いますが、折角の学生生活、目の前にあるキャンパス生活を大切にして下さい。(女性、2002年卒、航空会社)
  •  
  • ■卒業後、大学での経験は役に立ちますか?
  • 今はつまらないと思う授業でも、将来何らかの形で役に立つことがあります。「役に立つ授業」というよりも、その授業を将来、何かの役に立たせるという気持ちが必要だと思います。(男性、2001年卒業、産学官連携機構)
  •  

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  • 総政での学びを振り返ると
  • ・ (わたしは)編入生であったため、2年間と短かったが、知識欲の高さは刺激を受けた。
  •  「関学に入って良かった」と思えるのは、優秀な先輩が多かったからです。私もそう思われるように努めます。 (女性、2000年卒、製造業) 
  •  
  •  ■大学の友だちは一生続きます
  • ・大学での友人は、一生の友人です。是非様々なことを仲間とたくさん語り合って下さい。(女性、2000年卒、サービス業)
  •  

 先輩の皆さんのお言葉、注釈は要りませんよね。それでは、『誰でもわかる総合政策シリーズ』#4&5、乞ご期待。

ファッションの人類学Part6:素材について~柳田國男の名著『木綿以前の事』を皆さんへ~

2011 7/19 総合政策学部の皆さんへ

   ファッションの人類学、本日はその“素材”についてのお話です。皆さん、衣類の素材について、どのぐらいご存知ですか? アパレルや繊維関係に就職される方もあるかもしれませんが、本日は繊維=衣類の素材の話題です。

 “衣類”というと、ついファッションやデザイン等をお考えでしょうが、素材がなければ何もできないはず。例によってWikipediaを検索すると、“衣類”の項には「布、毛皮、植物の葉や茎を編んだり束ねたりしたもの(蓑・腰蓑)などの幕状の構造で囲うことを行い、その被膜を衣服という」と書いてあるだけです。

 それでは、“”を調べると、こちらは「古代日本では植物繊維で作られた物のみを指し、絹織物や毛織物は「布」とは呼ばれていなかったが、現在は繊維の材質に関わらず布と呼ぶ」とあって、ようよう素材への言及が出てきます。次に“原糸”を調べると「天然繊維再生繊維合成繊維」が出てきます(再生繊維と合成繊維をあわせて、化学繊維とも言います)。

 とは言え、全体に、かなりそっけない扱いです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、日本最初の糸/繊維は何でしょう? 例えば、皆さんがご存じの繊維類、“”は、カイコという蛾の幼虫が吐き出す糸からできた繭から得られる動物繊維ですが、当然のこと、日本列島原産ではありません。紀元前3000年頃に中国で利用され始めて(その頃、日本列島は縄文時代)、西にはシルクロードを経て伝わり、日本には海を越えてやってきたものでしょう。

 Wikipediaによれば、絹は弥生時代にはすでに伝わっていたとのこと。また、麻繊維は様々な植物からとられますが、本来はアサ科のアサ(いわゆる大麻)をさし、このアサはヒマラヤ地域原産なのだそうです。

 そして、“綿”の材料であるワタもアオイ科のアジア綿(Gossypium arboreumG. herbaceum、アメリカ綿(G. hirsutum等複数の種からなりますが、当然、日本列島には伝来してきた種なのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ということで、日本列島におけるもっとも古い繊維は、一説によると、縄文時代前期、「カラムシなどの植物繊維を細い縄や紐にし、スダレや俵を編むのと同じ技法で作った編み布」であったろうとのこと(十日町市博物館HP;http://www.city.tokamachi.niigata.jp/site/museum/museum/information03.html)。

 そしてこの系統の布は、現在では「全国的に見ても十日町市周辺に伝わる越後アンギンを残すのみ」だそうです。

 なお、カラムシとはイラクサ科の多年草で、日本にも自生していたものと思われます。現在は道端などに雑草と見かけますが、かつては丈夫な繊維がとれるために青苧(あおそ)と呼ばれ、衣類、紙、漁網にまで使われました。とくに中世越後の国では特産で、上杉謙信青苧座(あおそざ)を通じて経済的基盤の一つにしていたことでも有名です。

 そうした「丈夫だけれども、ごつごつした繊維」を駆逐して、日本人の生活を一変させた繊維、それが「綿」であり、民俗学の創設者柳田國男が名著『木綿以前の事』で見事に描写しているところです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 柳田國男、すでに「高畑ゼミの100冊Part4;柳田國男と宮本常一」(2009 12/14投稿)で『遠野物語』と『明治大正世相史編』を紹介済みですが、明治8年、兵庫県福崎町の医家に生まれ、学歴エリートの一員として森鴎外らと交友、詩作に耽りますが、大審院判事の柳田家に養子に入ることで詩人たることを捨てます。

 そして、農商務省のキャリアとなるも、今日まで続く農政をめぐる論争で、小規模零細農家が乱立を憂い、「中農」養成を主張して、大勢の小規模農家を保護する「小農」論と激突、挫折をよぎなくされます(総合政策そのものですね)。

 この結果、民俗学に走った柳田は、身の回りのことすべてに眼を向けます。その一つが「木綿(もめん)」なのです。その冒頭は、以下のように始まります。

  「七部集の付合の中には、木綿の風情を句にしたものが三箇所ある。それから木綿と言ってはならないが、次の「炭俵」の一節もやはりそれだろうと私は思っている。

  •  分にならるる娵(よめ)の仕合せ     利牛
  • はんなりと細工に染まる紅うこん     桃鄰
  •  鑓持ちばかり戻る夕月          野坡
  •  

 まことに艶麗な句柄である。近いうちに分家するはずの二番息子のところへ、初々しい花嫁さんが来た。紅をぼかしたうこん染めの、袷か何かを今日はきているというので、もう日数もたっているらしいから、これは不断着のあたらしい木綿着物であろう。次の付句はこれを例の俳諧に変化させて、晴れたある日の入日のころに、月も出ていて空がまだ赤く、向こうから来る鑓と鑓持ちとが、その空を背景にくっきりと浮かびだしたような場面を描いて、「細工に染まる紅うこん」を受けてみたのである

 と、このまま引用してしまば、角川文庫版でたかだか9ページばかりの小著をそのまままるごと写し取りたくなるような、かつての新体詩人の面影をにじませた文章のあとで、ゆるゆると民俗へ立ち位置を変えていきます。

木綿がわれわれの生活に与えた影響が、毛糸のスエーターやそのひとつ前のいわゆるメリンスなどよりも、はるかに偉大なものであったことはよく想像することができる。現代はもう衣類の変化が無限であって、特に一つの品目に拘泥する必要もなく、次から次へ好みを移してゆくのがふつうであるが、単純なる昔の日本人は、木綿を用いぬとすれば麻布よりほかに、肌に付ける者は持ち合わせていなかったのである。

 木綿の若い人たちに好ましかった点は、新たに流行してきて珍しいというほかに、なお少なくとも二つはあった。第一に肌触り、野山に働く男女にとっては、絹は物遠くかつあまりにも滑らかでやや冷たい。柔らかさと摩擦の快さは、むしろ木綿のほうが優っていた。第二にはいろいろな染めが容易なこと、これは今までは絹階級の特典かと思っていたのに、木綿もわれわれの好みしだいに、どんな派手な色模様にでも染まった。

  作業はかえって麻よりもはるかに簡単で、わずかの変更をもってこれを家々の手機(てばた)でおりだすことができた

 こうした変化、民人が肌で感じる変化を受け入れ、新しい世界が出現していくこと、そしてそれにつれてその生活にも様々な変化が起きる事が起きる。

 例えば、の重ね着によって、人々の姿、輪郭も変化していく。伸び縮みが自由になったことで、身のこなしもかわる。さらに、今までは目で楽しむしかなかった色を、衣によって己の身にまとうことができる。

 これは瀬戸物の普及にも、あるいは“薩摩芋の恩沢”にも似る事であると、柳田の筆は続きます。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その一方で、木綿の罪責について、柳田は見逃すことはありません。

木綿の罪責にいたってはあるいはそれ(瀬戸物)よりもいささか重かった。第一に彼(綿)はこの世の塵を多くしている・・・・・震災(関東大震災)がこの大都(東京)をバラックにした以前から、形ばかりの大通りはただ吹き通しの用を勤めるのみで、これを薬研(やげん)にして轍(わだち)が土と馬糞とを粉に砕く。外の埃はこれのみでも十分であるのに、家の中ではさらに綿密に、隙間隙間を木綿の塵が占領し、掃き出せばやがてよその友達ちと一緒に戻ってくる。

 いかになれてしまってもこれが身や心を煩(わずら)わさぬはずはない・・・越前の西ノ谷は男たちは遠くの鉱山に往ってしまい、・女は徒然(つれづれ)のあまりに若い同士誘い会って、大阪の紡績工場に出て働くならいであったが、もう十年も昔に自分が通って見たころは、ほとんど三戸に一人ぐらい、蒼ざめた娘が帰ってきてぶらぶらしていた。塵は直接害をせぬまでも、肺を弱らせて病気にかかりやすくさせることは疑いがない

 こうして柳田は、木綿という繊維が、思わぬほどに日本人の生活を変えて、かつ様々な影響を今も与えていること(多面発現効果というべきでしょう)、そしてさらにわれわれがその歴史をいともたやすく忘却していることを指摘しつつ、この木綿にことよせた文明批評を以下のように締めくくります。

政府大臣が推奨する質実剛健の気風とかは、いかなる修養をもってえらるるものかしらぬが、もしそれが条件なしに、木綿以前の日本人の生活に立ち還ることを意味するならば、その説は少なくともこの久しき歴史を忘れている・・・・

 次の時代の幸福なる新風潮のためには、やはり国民の心理に基づいて、別に新しい考え方をしてみねばならぬ。もっとわれわれに相応した生活の仕方が、まだ発見せられずに残っているように、思っている者は私たちばかりであろうか

 時に大正13年10月、関東大震災から1年と1月後、雑誌『女性』に掲載とあります。

就職活動についてPart2:神童の就活と挫折

2011 7/13 総合政策学部の皆さんへ

 Part1では、宮本武蔵およびレオナルド・ダビンチの就活を紹介しましたが(とくに、前者は一生就活を続けながら、本人と雇い手側の思惑のすれ違いから、ついに虚しく世を去ります)、今回紹介するのはこれも超有名人ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトです。

  ハイドンベートーヴェンと並ぶウィーン古典派三大巨匠の一人、神聖ローマ帝国皇室宮廷室内作曲家、神聖ローマ帝国皇室クラヴィーア教師、ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカ名誉楽長などを歴任とWikipediaにあります。

   皆さんもご存じでしょうが、モーツアルトは3歳でチェンバロを弾き、5歳で作曲(アンダンテ ハ長調 K.1a』)、7歳で大文豪ゲーテを感嘆させた神童として、「父とともに音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える一方でモーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する」(Wikipedia)。

 なにより、モーツアルトには貴重な証言記録があります。それも彼自身のです。一生を音楽活動に捧げ、ヨーロッパ中を旅行してまわった彼が、旅先から家族へ(母や姉、あるいは父、そしてガールフレンド/妻)に書き送った手紙の数々です。音楽評論家というよりも今や文明評論家になった感もある吉田秀和編訳『モーツァルトの手紙』(講談社学術文庫版)から、少し引用してみましょう。

 1777年(21歳、フランス革命まであと12年、彼の早すぎる死まであと14年)、新しい雇い主を探しに、モーツアルトは母とともにミュンヘンの選帝(選挙)侯への就活の旅にでます(なお、彼の手紙から過酷で無能な主人として歴史に名を残してしまうコロレドですが、雇い主からすれば言うことをきかない若造などおもしろいとは思わぬはずですよね?)。

 さて、苦労の末、9月30日にバイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフに伺候したモーツアルトは、こう切り出します。

  • 「殿下には恐れながら、み足の下にひれふして、わたくしめが殿下におつとめもうしあげることをおゆるしください」
  • 「うん、ザルツブルク(=コロレド大司教)とはすっかり手がきれたのかな」(=ちゃんと事情はごぞんじなんですね)
  • 「さようでございます。選挙侯殿下」
  • 「一体、どうしたのか。何かいさかいでもしたのか」
  • 「とんでもございません、殿下。わたくしはただ旅行のおゆるしを願いましたところ、おゆるしくださいませんでしたので、いたしかたがなくこうした振る舞いにでたのでございます。もっとも、わたしはかねがねザルツブルクを離れたくぞんじておりました。ザルツブルクはわたしのおるべき場所ではありません。ほんとうでございます!」
  • 「やれやれ、まだ若いな! しかし父親はまだザルツブルクにおるのではないかな?」
  • 「はい、殿下、父はこの上なく恭順につとめております・・・・わたくしはもうイタリアに3度まいりオペラを3つ書き、ボロニアのアカデミーの会員でございます・・・・・これは、わたくしがどこの宮廷にもお仕え申し上げられる証拠になりましょう。けれども、わたくしはただ選挙侯殿下にお仕えしたいと存じております。殿下はおんみずから偉大な・・・・」
  • 「なるほどな。しかし、残念だが、欠員がない。空きさえあればな!」
  • 「殿下、わたくしはミュンヘンの名誉を輝かしますことをお誓いいたします」
  • 「そうもあろうが、空きがなくては何にもならぬ」こう殿下はあるきながらいわれました。そこで、ぼくは恭しく御前をさがりました。
  •    

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 しかし、12月10日、モーツアルトは父への手紙にこう書かざるを得ませんでした。

 さしあたり選挙侯はどうにもなりません。一昨日、ぼくは返事をききに、宮廷の演奏会にゆきました。ザヴォリ伯は例のごとくぼくをさけてましたが、ぼくが彼のところにいくと、顔を見るなり、肩をすくめるのです。「いかがです。お返事はまだですか」と聞くと、「ごめんなさい。お気の毒だが、まるで駄目です・・・・・」 

 マクシミリアン3世は自ら演奏、作曲も手がける芸術愛好家で、モーツアルトの才能も認めていました。1775年には謝肉祭に上演するオペラ・ブッファ『恋の花作り』の作曲をモーツアルトに委嘱しています。しかし、ザルツブルク大司教への気兼ねからか、天才モーツアルトの主人となる栄誉をみすみす逃し、ミュンヘンの街もまたモーツアルトの音楽によって歴史に名を残すチャンスを失ったわけです。

 もっとも、『モーツアルトの手紙』を読めば、その間、従兄のベーズレ(マリア・アンナ・テークラ・モーツァルト)と恋愛し、彼女宛てのダジャレと冗談が頻発する手紙「・・・もちろん、神かけて、君の鼻に糞。いまでもぼくを愛している? とぼくは思いこんでいるけど。結構、構結! 世の中はそうしたものさ、財布を持っているやつもあれば、金をもっている奴もある・・・・」(11月5日付け)を残すなど、それなりに楽しく人生を過ごしてもいるようですが。

 なお、これから4年後の1581年5月9日、モーツアルトはコロレドと最終的に衝突、解雇され、その後はフリーの音楽家として生きる事になります。その日の父親への手紙は「ぼくはまだはらわたが煮えくりかえりそうです。あなただって、僕の最上最愛のお父さんとして、きっと同じでしょう。いままで随分長いことぼくの忍耐力をためされてきたようなものですが、今度という今度は我慢できません。幸いなことに、ぼくはもうザルツブルクの家来ではありません・・・」と始まります。  

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ここから先のモーツアルトの人生について、皆さんが親しく接しようとすれば、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の宮廷にあらわれ、その宮廷楽長たるイタリア出身のアントニア・サリエリと火花を散らすエピソードをふくらましたピーター・シェーファー原作のブロードウェー劇『アマデウス』、あるいはそれを映像化した映画『アマデウス』を是非、ご覧下さい。

 なお、上記『アマデウス』のストーリーは「サリエリがモーツアルトを毒殺した」という当時の風評を題材にとったもので、「宮廷楽師として社会的な地位がある音楽家サリエリが、台頭してきた理解されぬ若き音楽家モーツァルトの天才を理解「できてしまった」ことによる確執と苦悩を描く」(Wikipedia)という筋書きが見事ですが、必ずしも史実そのものというわけではありませんので、そのあたりはご注意を。

 ところで、サリエリとモーツアルトとの対立は、ついにモーツアルトの死後数十年が過ぎた「1820年代のウィーンでは、サリエリがモーツァルトから盗作したり、毒殺しようとしたと非難するスキャンダルが起こった。ただし、これらは何ひとつ立証されてはいない」とされ、「ロッシーニからも「モーツァルトを本当に毒殺したのか?」と面と向かって尋ねられた事があり、その時は毅然とした態度で否定」したとのことです(Wikipedia) 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 『アマデウス』の劇中、オペラの台本(リブレット)をイタリア語で書くべきか、ドイツ語で書くべきか二人が論争していると、(サリエリがモーツアルトに「実は音痴なんだ」と陰口をたたく)ヨーゼフ2世が突然口をはさみ、、「いや、国民はいまドイツ語のオペラを求めているかもしれん」(=芸術政策ですね)と決断をくだす。同時にドイツ・ナショナリズムの一つの現れとなる(その結果、ヨーゼフ2世が母マリア・テレジアから受けついだハプスブルグ朝はやがて解体の憂き目にあうわけですが)。

 その一方で、調子にのったモーツアルトが(民衆出身代表フィガロが貴族アルマヴィーヴァ伯爵をみごとやりこめる)『フィガロの結婚』をオペラ化したいと願い出ると、ヨーゼフ2世は眉をひそめて「あれはまずい。フランスに嫁にいっている私の妹(=マリー・アントワネット)も苦労していることだし」と答えるシーンも鮮です。

  ちなみに、1762年10月13日に 当時6歳だったモーツアルトは、女帝マリア・テレジアのため御前演奏をしますが、その際滑って転んでしまいます。その時、助け起こしてくれたのが7歳だったマリア・アントーニア(これはドイツ語読みで、フランス語読みでマリー・アントワネット)に「大きくなったら結婚してあげる」とプロポーズした逸話があります。  

 ところで、その兄貴の心配をよそに、肝心のマリー・アントワネットは夫のルイ16世に『フィガロの結婚』の上演禁止を撤回させてしまいます。その時、ルイ16世が発した(己の運命を予想した)一世一代の台詞「それじゃ、バスティーユをつぶさせなけりゃならないことになるのかね?」もまた有名です。

 以下、劇中、フィガロの独白です(第5幕第3場、桑原武夫編『世界の歴史10 フランス革命とナポレオン』中央文庫版から)。 

 あなた(=主君たる伯爵)は大貴族だから、ご自分を大天才だと思いこんでいらっしゃる! 貴族の称号、財産、身分、地位、こんなもので、とても威張っていらっしゃる! だが、あなたはそんなにたくさんの結構なものをてにいれるために、いったい何をなすった! 生まれるという苦労をなめただけで、それ以上はなにもない。それに、あたりまえの人間にすぎません。ところが、名もない大ぜいのあいだにうずもれたおれさまなんかは、かつかつ生きるためだけでも、スペインを百年間おさめるのに必要な以上の知恵と策略をつかわなきゃならない。 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 それでは最後に、チェチリーア・バルトリ歌う『フィガロの結婚』の劇中歌「恋はどんなものかしら(Voi che sapete)」のユーチューブ映像は右記の通りです: http://www.youtube.com/watch?v=rJtr0xq1uI0&feature=related 

総政のための名言集10:“それを言ちゃあ、お仕舞いよ”集

2011 7/8 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ

 名言集#10はむしろ“迷言集”、フーテンの寅さんの決めぜりふの一つ「それを言っちゃあ、お仕舞いよ」と返すべき発言を集めましょう(なお、寅さんについては「住まいの人類学番外編:漂う者たちPart2:文化英雄としての“寅さん”、そしてその永劫回帰(2011/02/26投稿)」をご参考に)。必ずしも間違った意見ではないかもしれないが、相手がさらに逆ギレするだけ、そんな台詞のコレクションです。

#1:「投票したければ、金持ちになりなさい」

 19世紀のフランスの政治家・歴史家のフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーの名(迷)台詞です。なお、これは私の高校時代の参考書かなにかのうろ覚え、Wikipediaには「選挙権が欲しければ金持ちになればいいのだ」となっています。

  7月王政下の首相に就任したばかりの1847年に起きた普通選挙を求める運動に対して言い放ったこの言葉は、民衆の激昂をあおるだけの結果に終わり、翌48年の2月革命を招き、国王ルイ=フィリップから罷免、とはいえルイ=フィリップもすぐに王位を追われ、ともども失脚の憂き目にあいます。Wikipediaでは「政治家としてよりは、歴史家としての評価のほうが高い」とありますが、いずれにしても、今日、”ギゾー”と言えばこの言葉で思い出されてしまう世紀の失言です。

#2:「薩長政府トカ何政府トカ言ッテモ、今日国ノ此安寧ヲ保チ、四千万ノ生霊ニ関係セズ、安全ヲ保ッタト云フコトハ、誰ノ功カデアル

 明治24年(1891年、関西学院創設3年目ですね)、5月6日に第一次山縣内閣を継いだばかりの第一次松方内閣は海軍拡大等前年度比650万円増の予算案を提出します。

  これに対して、民党(自由党、立憲改進党等の流れをくむ民権派各党)が「民力休養・政費節減」を主張、海軍内の綱紀粛正を条件に、海軍艦艇建造費・製鋼所設立費を含む約800万を削減した予算改定案を提出した際、の海軍大臣樺山資紀が激怒、 12月22日の衆議院本会議においてこの発言で反論、「薩長政府だとか、政府を批判するけれど、今日、国が安定しているのは、誰の功績だと思っているのか(=もちろん、我々薩長の功績だ)」という意味ですね。 あまりの高調子に野党は一斉に反発、“蛮勇演説”と呼ばれる破目に陥ります。

 この“蛮勇演説”については、「必ずしも見当はずれでもないが、口には出さない方が無難」という八幡和郎氏の評がぴったりです(『歴代総理の通信簿』から)。案の定、寅さんに「それを言っちゃあ、お仕舞よ」と言われかねないような、火に油を注ぐ結果となり(上記ギゾー君とおなじですね)、衆議院は改定案を主にした予算案を通過(つまり、海軍側の主張を全面否定)、これを受けて総理大臣松方正義は12月25日に初の衆議院解散を余儀なくされます。

  翌年2月15日の第2回衆議院議員総選挙では、品川弥次郎内務大臣が歴史に残る選挙干渉をおこない、死者25名、負傷者388名にのぼる大騒乱(選挙するだけで、人が死ぬ!)。大臣の辞任も相次ぎ、結局、第4代総理大臣松方正義はあえなく辞任に追い込まれます。

 なお、この松方内閣の陰の相談人に旧幕臣、当時枢密顧問官の勝海舟がいたようで、『海舟座談』で聞き手が「内閣があまりたびたび更迭するようですナ。松方内閣も、あまり脆うがんしたナ」(なんだか、現代の日本に通じるような)と水を向けると、

ナアニ早くよした方が良いのさ。去年の暮れ、ワシはそうすすめたのサ。『早くおよしなさい』ッテ。ダッテ、お前、あの人々がやり抜ける人々ジヤアないじゃないか。ウカウカすると、どうにもかうにもならないやうになってしまふのだから、『早くおよし、およし』と言ったのサ。どうせ誰が出てもみな同じことさ」と、松方の優柔不断ぶりをお見通しというところです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

#3: 「貧乏人は麦を食え」

 これも有名ですね。第58~60代内閣総理大臣池田勇人が、1950年12月7月、第3次吉田(第1次改造)内閣で大蔵大臣在任中に発した言葉とされています。

 池田はこのほか、同年3月1日の「中小企業の一部倒産もやむを得ない」、あるいは1952年11月27日にこの“中小企業発言”について問いただされて「原則に違反して、不法投機した人間が倒産してもやむを得ない」と発言して、結局は辞任に追い込まれるなど、放言・失言のエピソードが豊富な方です。なお、辞任後の会見で「「私は正直すぎた。政治家として終戦以後色々あったが政治家には向いていないのかもしれない」とおっしゃているそうです(Wikipeida)。

 ただし、「貧乏人は麦を食え」は翌日の新聞の見出しであり、実際の発言は「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」というものです(Wikipedia)。これはそれなりに筋の通った発言かもしれません。

  皆さんはどう思いますか? しかし、「本当であるからこそ、人は怒る」、あるいは「真実に近ければ近いほど、指摘された人はいっそう怒る」、この機微がわからないと政治家はやっていけないものであることは、上記のギゾー、樺山資紀の例でも明らかです。

 ちなみに、中小企業についての答弁についても、実際の発言は「正常な経済原則によらぬことをやっている方がおられた場合において、それが倒産して、また倒産から思い余って自殺するようなことがあっても、お気の毒でございますが、止むを得ないということははっきり申し上げます」というもので、これもそれなりに筋が通っていそうだが、翌日の記事では「中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない」となってしまったということです。皆さん、新聞等の見出しには気をつけましょう。

 その池田が、1960年7月19日、安保闘争の混乱の中、辞任を余儀なくされた岸信介の後を襲って総理大臣に就任すると、こわもての岸のイメージを一新、“所得倍増”をキャッチコピーに、「寛容と忍耐」を掲げ、かつ「私は嘘は申しません」(=失言したとしても、嘘ではない)と宣言して、見事、日本の高度成長期を象徴する人物に変身することになります。ギゾー君や樺山君と違って、鮮やかな復権です。

 ところで、“所得倍増”は経済学者の下村治、「寛容」は後の第78第総理大臣宮沢喜一、「忍耐」は同じく第68~69代総理大臣大平正芳の発案だそうです。これがスタッフ・システムなのですね。スタッフが発案・具申して、リーダーがそれを選ぶ(スタッフ・システムについては「リーダーシップ、ラインアンドスタッフ、“能率”とは何か?(前半):総合政策のための名言集Part3+高畑ゼミの100冊Part19(2010/08/30投稿)」ならびに「同(後半)(2010/09/4投稿)をご覧ください)。

 当時、池田の懐刀=スタッフとして1955年頃より秘書をつとめた伊藤昌哉は、スピーチライターとして池田の演説草稿を担当、暗殺された浅沼稲次郎への追悼演説によって名をはせます。

 ・・・私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。・・・その人を相手に政策の論議を行おうと誓った好敵手の席であります。かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党の党大会に、またある時は大衆の先頭に聞いたのであります。いま、その人はなく、その声も止みました。私は誰に向かって論争を挑めばよいのでありましょうか・・・」「目的のために手段を選ばない風潮を今後絶対に許さない。(Wikipediaより)

 ここまで来てしまうと、迷言集がいつのまにか名言集になってしまいそうです。このあたりでいったん幕にしましょう。

住まいの人類学Part5:植民都市=“街”を“植え付ける”人たち#2

2011 7/3 総合政策学部の皆さんへ

 Part1では主にシンガポールを対象に植民都市を紹介しましたが、19世紀からこっち、欧米は次々に植民都市を作ります。

 その典型は例えば、ケニアのナイロビです。1899年、インド洋沿岸の港町モンバサからウガンダへ通じる鉄道建設の中継地として、マサイ語の「冷たい水(Ewaso Nyirobi)」を語源として、まったく何もない土地に作られながら、2011年には365万5千人、世界95位の大都市です(Demographia World Urvan Areasから)。

  さて、それでは完璧な人工都市(ある人々にとっては悪夢かもしれない近代的管理都市)シンガポールからひとっ飛びして、インドネシアはスマトラのメダンにつくと、そこはまたオランダ統治時代からあまり変わらぬような植民都市でした。

 そもそも“Kampung Medan”( Kampung[カンポン]とはインドネシア語で“村”の意味)がマレー系住民によって開かれたのは1590年頃で、その名前はサウディ・アラビアのイスラームの聖地の一つメディナから来たとも、インドのヒンドゥー語で“ground/land”を意味する“Maidan”から来ているとも言われています(英語版Wikipediaから)。これらの説が正しければ、街の名前自体が外来文化に由来することを示すわけです。

 当時、スマトラ北部を支配していたアチェ王国(1493~1903年存続)のスルタン Iskandar Muda(1583?~1636)がこの町を軍事的に支配、メダンは次第に発展し始めます。しかし、その急速な発展は1860年代、すなわちオランダ領東インド全盛時、植民者たちがタバコのプランテーションを開いてからのことだそうです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、そのメダンの街で、最初に印象深かったのはロータリー(交差点)です。その後、タンザニアでもよくお目にかかったロータリー、ヨーロッパによる植民地でしばしば目にする景観です。Wikipediaの表現を借りると「中心の “島” の一方向に周回する方式」の交差点です。第3世界の都市で、このロータリーを眼にすると、ついかつての植民地時代、あるいは都市を“植え付ける”のに必死になっていた都市計画家(Urban/City planer)たちを想い出します。

 この方式では信号はなく、ロータリーに侵入する車は自ら安全を確認しつつロータリーに進入、そして同様に安全を確認しつつ、ロータリーから脱出しなければなりません。利点としては、(1)直交しないのとスピードを落とすので、事故率が低い、(2)信号がいらない、(3)Uターンが容易。

 しかし、一方で、(1)当然、広い面積が必要、(2)交通容量が少なくなる、(3)道に迷う危険性がある等々、欠点も指摘されており、日本の主要道路ではあまり見られません。皆さんがよく目にされるのは、駅前ロータリーでしょう。

 たぶんCity Planerたちがロータリーを設計した頃は、交通手段はまだ馬車時代で、馬にひかれてゆったりとロータリーに入り、またゆったりとロータリーからでていく、そんな牧歌的な光景が展開されていたのではないでしょうか?

 なお、イギリスでは「中心が円形で道路が集まっている場所」をサーカス(Circus)と言います。構造上はロータリーですね。もっとも有名なサーカスは、ロンドンのピカデリー・サーカスでしょう。子供の頃に、シャーロック・ホームズの初登場作『緋色の研究』を読んでいて、文中に出現する“ピカデリー・サーカス”がまったく理解できませんでした(どうやら地名らしいのに、それまでは曲芸のサーカスしか知らなかったので)。

 その後、JICAの専門家時代に、標本を大英自然史博物館に預けにタンザニアからロンドンに寄ったさい、実物のピカデリー・サーカスを観るる事ができましたが。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 次に印象に残っているのは、泊まったホテルがバンガロースタイルだったことです。現在はどうなっていることか、道路に面したホテルのファサードは近代的なホテルですが、たぶん、植民地時代の名残でしょう。ホテルの奥の方にいくつものバンガローが点在して、撮影クルーは男性陣と女性陣にわかれて泊まる事になりました。部屋というか、バンガローのドアのカギのホルダーは、たしか輪切りになった木でできた、いかにも古めかしいものだったように覚えています。

 このバンガローとはヒンドゥー語のバングル(ベンガル地方風)という意味だそうです。他にベランダも「元々はポルトガル語で、それがインドに渡り、そこから世界に広まった」Wikipedia)言葉で、イギリス帝国主義の拡大の過程で、英語に取り入れられていったものなのですね。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 しかし、さらに印象的なのは、こうしていかにもこぎれいに作られた中心地=植民地行政そのもの、あるいはヨーロッパ系支配者と住民の中間で、かえって権力と金力をました中間支配層=スルタンが建てた宮殿の豪華さ(シャンデリア類は、イタリアから輸入したと聞きました)、あるいはイスラーム文化を象徴するモスク、それらを取り囲むように混沌と広がるアジア的世界です。

◆Great mosque in Medanの写真:http://en.wikipedia.org/wiki/File:Great_mosque_in_Medan.JPG

◆スルタンの宮殿の写真:http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Maimun_Palace

 ヨーロッパ人の支配によって、物流が起こり、金が動き、そこに労働者たちが集まる(そもそも、官庁街や白人が住む住宅街を建築するため、低賃金労働者が集められ、彼らが住みこむため簡易の掘立小屋がたてられ、それがバラックと総称される)。そこにいわゆるスラムが発展する。どこの世界も同じです(明治期の東京も=「高畑ゼミの100冊Part23&住まいの人類学:“貧民窟探険記”」をご参照)。

 まさに“アジア的混沌”の世界ですが、誰もメダンの街がどこまでなのか、わからない。道路にそって掘立小屋が延々と続く。

 そこにはもちろん、人々の生活が展開しているわけですが、毎日の食器として使い捨てにするバナナの葉っぱの腐った匂いと、香辛料たっぷりのインドネシア料理の匂い、そして彼らが好きなクローブ入り煙草クレテックの匂い、そして近代文明下(当時は産油国として安かったガソリンを浪費するように、黒煙をあげながら走るバイク等からまきちらされる)排気ガス、これらが混然いったいとなっている、これが今も心に残るメダンの印象です。 

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...