2011年8月

住まいの人類学Part6:植え付けられた街、そしてその増殖#1~外国人居留地、そして銀座登場~

2011 8/27 総合政策学部の皆さんへ

 “植え付けられた街”シリーズ、シンガポールメダン(インドネシア)から、日本にいったん戻りましょう。

 思えば、奈良の都の平城京も、藤原京も、そして『陰陽師』で安倍清明が知力を傾けて“魔”から守る平安京こと京都も、都市計画にもとづいた“植え付けられた都市”ではあります。

 そして、近代日本史上においては、その最初の例の一つとして、いくつかの“外国人居留地”をあげることができるかもしれません。

 これらの外国人居留地は、外国人の内地雑居を禁止し、日本人と外国人を隔離しようとする江戸幕府の政策を、明治政府がそのまま引き継ぐことでもあります(「総政をめぐるトピックスPart3:内地雑居の顛末、外国人による土地取得をめぐって」(2011/02/8)」をご参照)。

 その政治的是非はともかく(日本近代化論そのものですね)、とりあえず長崎出島の全国版をねらったわけです。そのためにも、外国人が住む街を“植え付け”、かつ“隔離”する必要がありました。

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 そして、三田からもっとも近い居留地は、言うまでもなく神戸外国人居留地です。Wikipediaによれば、

1868年1月1日(慶応3年12月7日)から1899年(明治32年)7月16日にかけて現在の兵庫県神戸市中央区に設けられた外国人居留地である。一定の行政権・財政権などの治外法権が認められ、居留外国人を中心に組織された自治機構によって運営された。貿易の拠点、西洋文化の入り口として栄え、周辺地域に経済的・文化的影響を与えた。

兵庫の開港は横浜や長崎より約9年遅れてのものであったため、両居留地における造成・設計の経験を生かした合理的な都市計画を立てることができた」のだそうです。

 植え付けにもそれなりの試行錯誤が必要というわけです。このあたりの先駆者であるイギリス人たちも、シンガポールやニューデリー等、色々と勉強しなければいけなかったわけです(このあたりは、ロバート ホーム(布野修司他訳)『植えつけられた都市―英国植民都市の形成』 (2001年刊、京都大学学術出版会)をご参考に。なお、高価な本なので、図書館等で)。

  さて、神戸居留地の地図はこちらをクリックしていただければと思いますが、かなり整然と設計されていることがわかるかと思います。

 ちなみに東は旧生田川(現フラワーロード)、西は鯉川(現鯉川筋=メリケンロード)、北は西国街道(現花時計線)で区切られているということなので、グーグルマップで調べてみると、現JR/阪急/阪神三宮駅の南西、地下鉄海岸線の“三宮・花時計前駅”から“旧居留地・大丸前”、そして海岸通りの「メリケン波止場前」と「税関前」を結ぶ台形が該当しますが、1868年の縄張り=整然とした東西南北の街路(南北8本、東西5本)がほぼ現在も踏襲されていることがよくわかります。

 ちなみに、南京町はその居留地の西隣の雑居地に設けられたというわけです。その後、旧生田川は東側の現川筋に付け替えられて、その後地はフラワーロードとなります。また、鯉川は結局暗渠化され、その上を道路化したのがメリケンロードになりました。

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 居留地の広さ約7万8000坪とは25.8ha(KSCの約4分の3)、1890年に2039人が在住(最大人口は清国人の1432人)ですから、人口密度は7903人/平方キロ。1868年頃の土地の売り出し価格が最低で坪2円です。

 当時金1500mgを1円と定めたそうなので、現在の金の価格(8月6日付けの1グラム4402円;その後、ドル安等でさらに高騰中ですが)で換算すると6603円×2=13,206円。

 一方、現在の中央区の地価ですが、“神戸市中央区土地ドットコム”というウェブサイト(http://www.tochi-d.com/koubeshicfuuouku/)によれば、バブル絶頂期をやや過ぎた1991年でなんと1674.7万円で、その後のバブル崩壊で2011年は170.1万円(ほぼ10分の1)。

 それでも、旧居留地の少し北、三宮町1丁目7番6が坪1008.3万円(全国124位)、居留地内の明石町47番が469.4万円、同じく京町79番が423.1万円です。

  すごい値上がりですね(それにもまして、バブル崩壊後の値下がりもすごいですが)! これを幕末時予想したのが、この研究室ブログにしばしば登場する勝海舟です。

海軍練習所は、今の神戸税関のある所にあった。・・・もと神戸は700石の天領で、路の両側に百姓家があって、街も一通りになって居たが、庄屋を生島四郎太夫といって、最初おれはその家を旅宿にした。その時生島に、この土地も今はつまらない百姓家ばかりだけれど、早晩必ず繁華の場所になるから、地所などはしっかり買っておけと、いったところが、生島も半信半疑ながらにおれがいった通り地所を買い入れておいたら、果たして維新後は一坪何十円という高価になって、非常に儲けたさうだ。・・・おれは成るべくは土地の者をつかってやらうという考へで、百姓などを沢山用いたから、彼らも大いに喜んで働いたが、中にはそのために財産家になったものもずいぶんあるヨ。・・・かういふ風だから、おれも神戸へ行くとなかなかもてるのサ」(勝海舟(江藤淳・松浦玲篇)『氷川清話』講談社学術文庫版)

 なお、生島四郎太夫の旧宅は、門と庭が兵庫区五宮町26-9に残されているとのことです。皆さんもフィールドワークに行かれる時は、事前にこうした予備知識を仕入れていくと、同じ光景が違って見えてくるかもしれません。

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 さて、幕末の混乱が納まりかけた明治初期、もう一つの”植え付けられた街”の典型が、皆様ご存じの銀座、そして、この”銀座“こそ、我々が習った教科書的には「銀座煉瓦街計画は、これまで、失敗と評されることが多い・・・理由としては、もっぱら雨漏りが多くて湿度が高く、お茶は湿り、反物はかび、人は脚気に、といった建築上の問題と、竣工後の空家の件があげられてきた」(藤森照信『明治の東京計画』岩波現代文庫版)と、この150年来けなされ続けてきました。

 たしかに、私も子供の頃、そんな風に習った記憶があります。しかし、それならどうして、日本中に“銀座街”がはびこっているのか?

 ここは一つ、明治期の江戸→東京近代化の経過を説いて飽かせない路上観察学会創始者の一人、建築探偵、そしてタンポポハウスの設計者、東京大学名誉教授テルボこと藤森照信先生にご教示いただきましょう。

  そもそも、銀座煉瓦街建設の発端は、「火事と喧嘩は江戸の華」と歌われた、その大火が原因です。将軍様のお膝元としても、職人たちが集まり、京橋や日本橋に比べてやや場末、その銀座の町並みが

明治5年2月26日、和田倉門内兵部省添い邸から逃げた火は北西の風にのって銀座地区をなめつくし、三十間堀を渡って木挽町に入り、ウォートルス館、由利邸をのんで築地川をまたぎ、梁山泊、外国人居留地を焼き払って海に抜けた。一夕にして灰と化した表玄関を前に、彼らはこの地を文明開化の町として再建することを決意する。ここに<銀座煉瓦街計画>ははじまる

 藤森先生、張扇よろしく懸河の口上、つい力がはいってしまいますが、実は、この本は昭和56年度東京大学博士課程論文『明治期における都市計画の歴史的研究』を公刊したものなんです。博士論文がこんなにおもしろくて良いものなのでしょうか?

 こうして、かつて1666年のロンドンの大火で大建築家クリストファー・レンがゴシック都市ロンドンの創生をもくろみながら、(関東大震災時の後藤新平と同じく)俗世間の圧力に屈服を余儀なくされた時のように、庶民にとってはとんでもない災いを為政者たちは「絶好のチャンス」とばかりに、スラムクリアランスによる近代都市誕生に向けた狂想曲を開幕させます。

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 それにしても、なぜこの場所に日本最初の煉瓦街が誕生したのか? なぜ銀座だったのか? 私も『明治の東京計画』を読むまではまったく心得もしませんでした。

 それは銀座の西端が新橋駅=明治5年9月12日に開通した横浜(現桜木町駅)-新橋間の鉄道の起点駅に近く、そして東端は日本橋を通じて、明治天皇を頂点に日本政府の中枢につながる位置関係、つまり、横浜居留地から鉄道で東京を訪れた外国人が日本政府の中央に達するまでの道筋に街路樹に柳を植えた煉瓦街を建てて、馬車の窓から日本の近代化を見せつけるための舞台装置であったのです!

 まあ、映画撮影のためのフェイク都市のようなものでもありますが。

 ちなみに、グーグルマップで「銀座」を見ると、まさに新橋駅から京橋、そして日本橋につなぐ道筋、はっきりわかりますね。皆さんも、是非、地図を見て、明治の都市計画に思いをはせてみましょう。と、ここまで書いたところで、十分長くなりそうです。このあたりで、to be continuedといたします。

マンガ(コミック)で世界を知ろうPart3:ヴィンランド・サガを通して“国家”、“王権”、“民族”あるいは“Ethnicity”を考える

2011 8/23 総合政策学部の皆さんへ

 Part1ならびにPart2に続いて、Part3は北西ヨーロッパとでも言いましょうか(このコミックの舞台の頃には、そんな概念はまったく存在していなかったでしょうが)、幸村誠が連載中の歴史マンガ“ヴィンランド・サガ”を通じて、民族あるいはEthnicityについて学びましょう。

   ところで、今回のテーマはどこで思いついたかというと、“ビッグイシュー”の記事からです。たまに梅田キャンパス等に出かける時に、販売している方が目に入ると購入するのですが、7月3日の総合政策学部同窓会新卒者歓迎の催しでは、その170号(表紙はジョージ・クルーニーです)の7ページ。 

  「グリーンランドで重罪(殺人、レイプ等)を犯した人間は、デンマークの刑務所に送られ、長い刑期をまったく異郷のデンマークで過ごさせられる、たとえ保釈されても、ほとんど追放に等しい仕打ちを受けたグリーンランドに帰る気もおきず、その後の人生はさらに悲惨に・・・・そのことを国際社会から非難され続けたデンマーク政府がついにグリーンランドに刑務所を作り・・・・・」という記事が目につきました。

 これもまた、いろいろ重そうな話題です。修復的司法とか、そのあたりを学びたい方は、是非にこのビッグイシューの記事を・・・、などと言っていると、いつまでたっても本題に入れないですね。

 実は、この記事を読みながら私の頭に浮かんだのが“ヴィンランド・サガ”です。10世紀から11世紀、キリスト教が広まるにつれ、北欧神話の“終末の日”である“ラグナロック”、そしてキリスト教終末論による神とサタンとの最終戦争と最後の審判への怖れのなか、北ヨーロッパからアイスランド、そしてグリーンランドまでをまたにかけて行き来したデーン人たち。

 その若者の一人、トルフィン・カルルセブニ(実在の人物だそうです)の悲惨な前半生(最新刊でも、まだ20台前半)を描きながら、デーン人、アングロ・サクソン人ウェールズ人、フランク人入り乱れて、殺しあう世界です。

 Part1ご登場の安倍清明、Part2ご登場のカルディアのエウメネスに勝るとも劣らない非情、悲惨な世界(少なくとも、この3作の中では一番流血シーンが、今のところは多いようです - いずれ“ヒストリエ”に抜かされるかもしれませんが)。

 ちなみにヴィンランド(Vinland)のヴィンは、以前は“ブドウ(vin=フランス語の葡萄酒Vinを連想させますね)”を指していたとされていましたが(私もそう聞いた記憶があります)、現在は“草原(vin)”を指すという説もあるそうです。いずれにしても、ヴァイキングの一員、『ヴィンランド・サガ』にも登場する、“幸福者レイフ・エリクソン”の命名によるものですから、もともとは古ノルド語、現代ではアイスランド語なのでしょうね。

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  さて、現在のところ(第10巻では紀元1015年)、トルフィンは過酷な運命に翻弄され、デンワークで農奴にまで墜ちています:5、6歳の頃に(かつて、戦鬼とよばれながら、「本当の戦士」にめざめ、デーン人の軍団を脱走した)父トールズを、傭兵(実はデーン人とその女奴隷のウェールズ人との混血)のアシェラッドの姦計によって、目の前で殺される。

 その後、そのアシェラッド軍団にへばりつき、戦いの血と財宝の中で成長、ただ一つの願いは「正規の決闘でそのアシェラッドの命を奪うこと」、その決闘の許可を得るためにアシェラッドの命令一下、“鉄砲玉”として戦争相手の隊長の“玉”を取りに、亡き父親譲りの短剣で挑む日々。と、こう書いていても実感がわきません。是非、原本を!

  その日常が、トルフィンに“戦士”としてのスキルを向上させますが、しかし、決闘にいつも勝つアシェラッドから見れば「そのバカはバカだから負ける」「すぐブチ切れて でけェ声だして 獲物振り回すのア バカの戦だ。まったくどいつも こいつも うつくしさのかけらもありゃしない」とけなされる。

 そのアシェラッドの身柄をめぐって決闘するデーン人の不死身の戦士のっぽのトルケル(こちらも実在の人物;実は、トルフィンの大叔父にあたるのですが)には、「確かに強いが お前の剣は なにか・・・・ なんかこー・・・ フツ~~~~ってカンジ? 戦士として完成するには何かが足りない。 自分でそう感じたことはないか?と評されてしまいます。もっとも、そのあたりを細かに紹介すれば、まったく興ざめなネタバレになるので、このあたりで押さえておきましょう。

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 そして、このコミックのもう一人の主人公、イングランドをほとんど占領しかけているデーン人を束ねるスヴェン1世八字髭王の次男、キリスト教かぶれで(現時点で、北欧のキリスト教化はまだ完成していません)、柔弱で、部下に対してさえ、ものもろくにしゃべれないクヌート、のちの北海帝国の支配者クヌーズ1世

  長子相続制が確立していないデーン王家にとって、兄ハロルド(後のデンマーク王ハーラル2世)との御家騒ぎを避けるため、父スヴェンはこの見込みのない次男を、兄に不慮の事故が起きた時のスペアとしての価値ももはやないと判断して(いや、ひょっとしたら、ひょっとしてこの一見とりえがまったくなさそうな息子に自らに似た点を見出して、それが目覚めぬうちの死を望んだかもしれませんが)、イギリスでの戦闘にまぎれて抹殺しようと画策しています。

 その父の(わが子を敵の手で抹殺しようという)意思は、逆にクヌートの巨大な才能を目覚めさせます。父王と(互いの敵意を潜ませながらの)対面の後、アシェラッドとトルフィンにつぶやきます「王(父)は今、私を殺すだけの大義名分がない。賢王と呼ばれたいお方なのだ。こちらさえ軽挙に出ねば、王の内懐(うちぶところ)はむしろ安全なのだ」「なんのことはない。スヴェン王は王冠の奴隷というわけだ。王冠の力・・・・私が使いこなしてみようぞ

 トルフィンのとことん個人的なストーリーと(父親の復讐以外、トルフィンの頭には何も入っていません)、王権、政治、民族、戦争、宗教、そして神の愛に悩むクヌートのストーリー。この二つのストーリーの絡み合いに、戦うことしか興味がない“戦(いくさ)バカ”のトルケル、そのトルケルと同じぐらい腕が立ちながら、同時に狡知にもたけ、己の身体を流れるウェールズの血を意識しながら、権力への機会を見つけようとするアシェラッドが出入りします。

 そしてさらに王子クヌートを父親のように愛し、慈しむ忠臣(それゆえに、先が見えない)ラグナル等がかかわり、ウェールズ、イングランド、デーン、フランク等の民族がイングランドの大地を踏みにじり、互いに血で染め、やがてともに骸(むくろ)となって横たわる。これがヴィンランド・サガの(現時点での)お話です。

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 それでは、この作者自身が、自分の子供が大きくなってこのマンガを目にしたら、「まー、どうしましょう? はっきりいってこの漫画は子供たちに勧められるよーな内容じゃございません。殺人多すぎ。それでも、やっぱり読んでくれるとうれしいな。大人になる前に読んでほしい」とあとがきに書きつけるこのコミックから何を読み取るべきか?

 第3巻で、朝日が昇る前、トルフィンに(かたきのはずの)アシェラッドが、古代ローマの遺跡を顧みながら、語りかけます。

  • どんな強者もいずれは死ぬ
  •  周りを見てみろ トルフィン
  •  この石くれは 今のイングランドの住人 サクソン人が造ったものじゃない
  •  サクソンよりも前の住人のものだ
  •  強い民族だったそうだ
  •  だが500年前サクソンに滅ぼされた
  •  ローマ人だ 国の名前は『ブリタニア』・・・
  •  (中略)
  •  ま つまりだな 人間の世界はゆるやかに
  •  だが 確実に
  •  老いているってことさ
  •  ローマ人をサクソンが滅ぼし
  •  そのサクソンを今度はオレたちが滅ぼす
  •  かつてのローマ帝国の栄光は遠い過去になる
  •  なんでも キリスト教徒どもの云うことにゃ・・・・
  •  あと20年もしたら「最後の審判」とやらが下るそうじゃねェか
  •  その日 人間はすべて神に殺され
  •  今の世は完全に滅ぶんだそうだ」
  • 「見ろ トルフィン
  •  こっけいじゃねェか
  •  たそがれの時代の夜明けだ」
  •  

 このやりとりに文化、民族、国家、主権、戦い・・・・・その他もろもろの歴史の深層を読みとれる方がいれば、それこそ国際政策にぴったりと言っておきましょう。なぜ、サクソン人は(現)イングランドに上陸して、ローマ人ならびにケルト人(現スコットランドウェールズ[そう、アシェラッドの遺伝子の半分はこのイングランド先住民、あとの半分はデーン人という侵入者なのです]、アイルランド)を駆逐したのか?

 さらにデーン人は何ゆえ、この土地に侵入して暴虐の限りを尽くしているのか、その結果(もちろん、この半世紀後の1066年、ノルマン・コンクエストが起こるわけですが)、いわゆる“イギリス人”と“英語”が成立したのか? と、このあたりで、どうやら、今回は幕として、以下は続編としましょう。

生き物を紹介しましょうPart7&映画を紹介しましょう:カラスの飼育

2011 8/20 総合政策学部の皆さんへ

 今回は、皆さんに嫌われる生き物の代表格、カラスをとりあげましょう。

 昔、京都で学生&院生&教員生活を送っていた頃、ちょっと変わった映画サークルに出入りしていたことはかつて触れましたが(「総政100本の映画Part12:旧東欧反体制映画の日々:国際政策を映画で勉強しよう(#1)」)、その頃のジャンルに“スペイン物”がありました。

  これは要するに、1930年代後半、スペイン国民を真っ二つにしたスペイン内戦(あるいは動乱)と、その後日談がからむ一群の作品たちです。スペイン内戦では、選挙で勝利した共和国政府(人民戦線派)vs.右派独裁政治か(独裁者フランコ将軍率いるファランへ党)? 社会主義vs.王政? 無宗教vs.カトリック? スペイン国民はすべてにワン・ゼロ的判断を迫られ、あいまいなものは抹殺されました。

  例えば、劇作家にして傑作『血の婚礼』の作者ガルシア・ロルカは、その言動が災いして、ファランへ党員に銃殺されます。魯迅が指摘したように「革命派は反革命派に殺され、反革命派は革命派に殺される。不革命派は革命派だといわれて反革命派に殺されるか、反革命派だといわれて革命派に殺されるか、あるいはどちらでもないという理由でどちらかに殺される」事態です。

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 内戦が一応、フランコの勝利で終わったとしても、この混乱がスペイン人の心に重く、長くのしかかる。それは、亡命派の映画監督(ロルカの友人でもあった)ブニュエルにしても、死ぬまでスペイン共産党員としてついに故郷に戻らなかったピカソにしても、あるいは彼らと袂をわかったフランコ派の画家ダリにしても、同じことです。

  その心の迷いが滲み出てくる一群の映画は、例えばビクトル・エリセ監督、アナ・トレント主演『ミツバチのささやき』(1973年;映画番号#60)、そして同じくエリセ監督、名優オメロ・アントヌッティ主演『エル・スール』(1982年;映画番号#61;おわかりのように、エリセは10年間で1本しか撮れない監督です!)であり、最近でも2007年公開のギレルモ・デル・トロ監督のダーク・ファンタジーパンズ・ラビリンス』など、まだまだ命脈を保っています。

  フランコは、言うまでもなく政治家として優秀でしたが(その一例は、第2次大戦で中立を守りぬき~内戦ではあれほどナチス・ドイツに助けられたのに~、戦後も生き残れたこと)、スペイン人の心に永遠のひび割れを残した点は、未来永劫、政治的ヒール(悪役)としての名声を保つことになるかもしれません(このあたりの政治的評価を是非、柴山先生あたりにお聞きしたところです)。

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 さて、その『ミツバチのささやき』の3年後、10歳に成長したアナ・トレントは、自分の叔母を毒殺しようとするという9歳の少女アナを演じます。このストレンジ・テイストな映画、それが『カラスの飼育』です(映画番号#62)。“Goo映画”からあらすじを引用してみましょう。

 「マドリッドの中心にある住宅地の古い家。そこには11歳のイレネ(コンチタ・ペレス)、9歳のアナ(アナ・トレント)、5歳のマイテ(マイテ・サンチェス・アルメンドロス)の3姉妹が、職業軍人の父親、ピアニストの母親(ジェラルディン・チャップリン)、半身不随の祖母、召使いのロサと暮らしていた。母と父はいさかいが絶えず、口論の末にピアニストを諦めた母は、やがて病に倒れてこの世を去っていった。生前、母が不幸だったことをアナは知っていた。

  父は、愛人といっしょの時突然死んでしまう。両親を失った彼女たちは、叔母の家に引きとられるが、叔母は母のかわりにはならなかった。叔母のいない間に、大人ごっこをする姉妹。アナは、母に毒性を持つと教わった白い粉を自分の宝物にしている。彼女は、父はその死の前夜、アナがグラスに注いだ粉によって死んだと思っている。祖母が車椅子にかけて口もきけない状態でいるのを同情し、大人の権威をふりかざす叔母には憎しみを感じ、それぞれに、父と同じ方法を試みる決心をするのだった・・」(http://movie.goo.ne.jp/movies/p11898/story.html)。

  この「カラスの飼育」というタイトルは、「カラスは人に馴れることはない。カラスを飼おうと思っても、それは所詮無理なことなのだ」という言い伝えを、叔母(人)にいつまでも慣れないアナ(カラス)に例えているのだ、と聞いたことがあります。つまり、人のそばにいるのだけれども、人には馴れない生き物カラス、その不遜さが自ずと醸し出す雰囲気を、人は敏感に感じ取っているのかもしれませんね。

  それにしても、同じ身近な鳥でも、カモメやハトだったら、人はやけに親しげなのに! 生物学者としては、人のカラスへの対応に、若干“差別”を感じないわけにはいきません。なお、『カラスの飼育』でジャネットが歌う主題歌[映像付き]のユーチューブはhttp://www.youtube.com/watch?v=pczJsUbqblYです。さすがに懐かしいですね。皆さん、ぜひ、この音楽と映像の至福の時を御体験下さい。

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 ということで、話を本来のカラスに戻して、皆さんはカラスが何種類いるか、御存じでしょうか? それよりも何が“カラス”なのか? そのあたりからちょっと紹介しましょう。

 まず、分類群で言えば、カラス科というグループがいます。これにはカササギカササギ属)、カケスカケス属)、オナガ(オナガ属)等が含まれます。よく見ると、カラスに似た体形なのですが、色や模様が随分違う(ただし、鳴き声はどれもあまり良くない、さらにうるさい)。こうしてカラス属ホシガラス属等の一見カラスにみえるグループを“カラス”と総称していることになります。

 そのカラス属ですが、南極と南米南部をのぞく世界の陸地に広がっているということで、生物学的には繁栄しているグループなのですね。国際鳥類学会では46種に分類されているそうです。このうち、日本にとどまり繁殖しているのはたったの2種、ハシブトガラスハシボソガラス、そのほかは渡り鳥としてワタリガラス(北海道)、ミヤマガラスとコクマルガラス(九州)、他に迷鳥のニシコクマルガラスとイエガラス。それから別属のホシガラスということになります。

このハシブトガラスとハシボソガラスですが、どちらも三田に住んでいます。もちろん、KSCにもいます。ある年は1号館と2号館でそれぞれ別の種のつがい(ペア)が子育てのナワバリを形成していたこともあります。どちらかというとハシボソの方が多いような印象です。なお、この“ハシ”とはクチバシ(嘴)のことなんですね。もっとも、外観からすると、嘴の太細よりも、ハシブトガラスの額部がこんもりともりあがって、ヘルメット状な点こそ、目立ちます。

 一方、この2種本来は生息域がやや異なり、ハシボソガラスはユーラシア大陸の東北部、シベリアあたりが中心で、その南端が日本列島なのです。一方、ハシブトガラスは英名“Jungle Crow”が示すように、南方の森が本来の生息地。そして、日本では田園地帯にハシボソが、山間部から海岸、そして都市部にハシブトが分布することが多いことが知られています(例えば、東京のカラスはほとんどがハシブトガラスです)。ということは、ハシボソは日本列島を北から、ハシブトは南から侵入してきて、今、混在しているということになるのかもしれません。

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  カラスたちは、1年の暮らしを季節ごとに変化させることでも知られています。まずは2月、3月頃、KSC周辺の空を見上げていると、口に何かを加えたカラスが飛んでいるのが目につくかもしれません。子育てのための(自然環境論を想い出して下さいね)巣作りです。まあ、その前に巣のまわりに“ナワバリ”を確保しなければなりません。

 実は昔、徳島県の鳴門教育大学にいた頃、カラスの生態を少しだけかじりましたが、鳴門では巣間の距離が300mほど、昔長野県等での調査では1kmほどだったようで、カラスも過密化が進んでいるみたいだ、というのが私の印象でした。なお、その気になると、子育ての時期、カラスの巣を見つけることはそれほど難しくはありません。送電線の鉄塔、電柱、街路樹、意外に低い庭木等、様々なところで子育てしています。

 面白いことに、ハシブトの巣のとなりはハシボソの巣、その隣はハシブトの巣、というぐあいに2種が交互にならんでいます。おそらく、同じ種同士では要求が似すぎていて、せめて他の種だと、隣り同士でもなんとかなる、ということなのでしょう(種内競争と種間競争の差ですね! また、自然環境論を想い出してほしいところです)。

 しかし、産卵から巣立ちまでの子育ての時期は意外に短く、抱卵に20日、子育てに30~40日、せっかく作った巣も2カ月程度しか利用しません。巣だった子供たちは数カ月、両親と暮らしますが、やがて、秋から冬にかけて巨大な塒(ねぐら)を形成します。これが“カラスのネグラ”です。というあたりで、また少し長くなりかけました。その先は続編としましょう。

異文化に出会う時Part3:ピガフェッタの不思議な旅中編~“征服者”は忙しい

2011 8/15 総合政策学部の皆さんへ

ピガフェッタの不思議な旅中編です。前編マジェランたちが恐るべき太平洋を抜け、泥棒諸島ことマリアナ諸島を略奪して、フィリピンはサマール島に辿り着きます。そして、当時の皇太子フェリペ(フェリペ2世)にちなんで、この地域をフィリピンと呼ぶことになったあたりで終わっている、その続編です。

それでは、マジェランはこのフィリピンで何をやったのか? マジェランはまず旅の目的地モルッカ諸島(すなわち、香料の原産地)を目指さねばならないはずですが、その前に、契約相手としてのスペイン王のため、領土の確保(すなわち、植民地主義)に、そして教会のための布教にも手を染めなければなりません。

そしてさらに1521年3月17日、彼らはレイテ湾東の“スルアン島”に上陸すると、翌日、先住民たちがやってきます。ペイヤールの文章では「頭(かしら)だった連中は、太陽にきらきら輝く金の腕輪と耳輪を見に漬けているのを、マジェランの部下も総司令官(=マジェラン)自身も眼にとめた」、すなわち、もう一つの欲望、金への欲望も頭をもたげます。彼の欲望はきわめて多岐にわたります。

1521年! 世界史を勉強した方はもうお気づきですよね。マルティン・ルターによる質問状『95ヶ条の論題』の公開が1517年10月31日、彼が法王レオ10世からの警告文書を焼いたのが1520年12月、神聖ローマ皇帝カール5世(フェリペ2世の父親)によるヴォルムス帝国会議での召喚とそこでの「私は聖書と己の良心以外、何物にもしばられません。良心なしには、また良心に反しては、救済も安全もないと感じているからでございます。神が私を助け給わんことを」(モンタネリ[藤沢道郎訳]『ルネサンスの歴史』より)の宣言=教会分裂が1521年4月です。

こうして帝国からの追放令をうけてしばし身をかくしていたルターが、大衆の前に姿を現して語りかけるのが1522年5月7日、そしてこの行為が広義にはプロテスタントの成立へ、狭義にはルーテル教会につながっていきます。まったくの同時代です。そして、反宗教改革にたちあがったカトリック教会のもっともすぐれた先兵の一つであったイエズス会は、マジェラン一行の生き残りたちがたどった航路を逆向きに、東洋での布教にカトリック教会再興をかけるのです。

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泥棒諸島での先住民(チャモロ)の人々の所業とあまりに違い、フィリピンの先住民はスペイン人たちにますます打ち解けます。もっとも、後世のことを考えれば、討ち払っていた方がよかったかもしれませんが。

マジェランは彼らの善意に感謝し、大貴族気どりで彼らを船内に招じ入れる。それから、彼はいくつかの小袋に入れて、スペインから持っていた丁子肉桂、干した胡椒の実、生姜ニクズク等の香料を見せた。すると、この人たちは、身振りでこれらの品は彼の目指す方角にあることを理解させる。企ての成功の初のきざし! ただちにマジェランは、号砲を数発放つ。ものすごい音と煙に仰天して、原住民は逃げてしまった」。

船隊は欲望が導く目的地を目指し、出発します。そして、3月28日、丸木舟でであった先住民のおしゃべりを聞いて、マジェランの子飼いのマレー系奴隷エンリケはマジェランに「原住民たち同士で話していることがわたしにわかります」と言い、さらに「私が彼らに私の国の詞を話したら、彼らも私のいうことがわかりました」。オーストロネシア語系の共通語で、エンリケと先住民が語り合うことができたこの瞬間、誰もが疑っていたマジェランの企ての成功が確約された瞬間です。

ちなみに、マジェランの死後、紆余曲折の果て、このエンリケはスペイン人たちを裏切りますが、ペイヤールは書きくわえます。「その後、彼(エンリケ)がどうなったのか? 誰もわからない。だれも決してそれを知る事ができないだろう! ・・・(彼が)生まれたマラッカは・・・フィリピン群島から大して遠くないのだ! ・・・奴隷は彼の家へ帰った、と想像し、結論しうる。・・・かくてエンリケは<世界を一周した最初の人間>ということになるだろう。

だれも絶対に知ることができないようなこの優位は、最劣等のもの、もっともまずしいもの、もっともつつましいものが首位になるという、神の法則にかなったものではないだろうか? もちろん仮説ではあるが、なんてうっとりさせるような可能性であることか・・・」とペイヤールは、この今でもまったく無名のマレー系奴隷を称揚します。

それにしても、マジェランもそのままモルッカ諸島に直行していれば・・・・と思わないではいられませんが、先に触れたような様々な使命をはたせねばならないのです。それが彼の個人的運命を決定します。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

一方、公式記録者としてのピガフェッタは、奴隷にして通訳のエンリケに同行して上陸、王に面会して、貴重な証言を残します。

私が地上に足を踏み入れたとたん、この王は両手を天にあげて、われわれ二人の方を振り向いた。われわれも、彼と同じようなしぐさをした・・・王は一皿の豚肉と葡萄酒を持ってこさせた。

「彼らの飲み方は次のとおりだ。はじめに両手を天にあげ、それから器をとりあげ、右手でもって飲んで、左手のこぶしは相手の人に向ける。王もこんなふうにやって、私にこぶしを付きつけたが、それで私をなぐるのではないかとこわくなったくらいである。

「しかし、私も彼に対して同じことをやった。かくて、われわれはこの儀式と他の友情のしるしでもって、宴会にはべり、それから王とともに夕食をとった。

「私は聖金曜日だというのに、肉を食べてしまった。こうするよりほかにはどうしようもなかったのだ。ところで私は、夕食の時間が来る前に、船から持って来たたくさんのものを王に与えた。そこで私は、彼らがかれらのことばでいうとおりのことを、たくさん書いてみせた。

そして王と、その他全員が、私が字に書きとめて、彼らの話したとおりのことを彼らに繰り返すのを見たときには、一同はびっくりした

この見事な異民族間の交流! ペイヤールが記す通り、まさに「文字の奇跡」、そして次にフィリピン人にみせびらかすのは鋼鉄の鎧と剣による「武器の奇跡」、しかし、マジェランは王たちから「地中を掘ると、クルミや卵ほどもある金塊が見つかる」と聞かされて、驚嘆します。彼はめざとくも、食器や装飾、剣の柄等に黄金を見つけて、さらに欲望がかきたてられる・・・・様々な欲望がこのフィリピンの浜辺に交錯します。

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さらにマジェランは、もう一つの使命にもとりかかかります。“航海者/征服者”は忙しいのです。そして、もちろん、それがマジェランの命取りにもなるのですが。

おりしも3月31日はフィリピン到着3日目にして、復活祭の日曜日。“異教徒”どもに見せびらかすため、“復活祭のミサ”を「荘厳にして豪奢な儀式のもとに島で行われるように、命令します」。マジェラン隊の付属司祭からそれを聞いた王は、ミサに出席、ペイヤールはこう記します。

ミサの前に、総司令官は麝香(じゃこう)の匂いのするバラ香水を二人の王の体にふりかけさせた。当時の習慣なのか? マジェランはこの王たちもすべての東洋人のように香水が好きだと推測したのか、それともこうして、この野蛮人たちの吐気をもよおさせるような匂いを消したかったのか?

ミサはひざまずいている二人の君主の前で、行われる。聖体の奉挙にあたって、ふたたび号砲が鳴り響く。マジェランは力の誇示のまじった豪奢さが、これらの原住民の想像力を刺激することを知っていた・・・

こうしてマジェランは十字架と釘とキリストの荊冠をとりよせ、宣言します。ピガフェッタは記録作家の任務を忠実に果たします。

私は主君なる皇帝と主から、私が通過するあらゆる場所に十字架を建てるよう命令され、またそれを自らの義務と考えている。あなた方の国に、あなた方の利益のために十字架を建てなさい。後になって、どんなスペインの船があなた方の島々にやって来ようとも、この十字架を見て、我々がここに滞在したことを知るであろう。

そうすれば、彼らはあなたがたに対しても、あなた方の財産に対しても、いさささかも不愉快な目を見せないであろう。彼らはこのしるしを前にしては、いかなる者をも捕虜にできないであろう」

まさにこの瞬間こそが、フィリピンのスペイン領化の第一歩であり、フィリピンの人々の大半がキリスト教化されるきっかけです(現在、カトリックが約80%、プロテスタントが約10%)。そしてさらに、後世のヨーロッパ人たちがこのマジェランの言葉に必ずしもしたがわなかったこともまた、世界史を勉強した方は皆さん、ご存じですね。ということで、以下はto be continued・・・・・といたします。

卒業生の皆さんから、就活&仕事について在校生へのメッセージ&アドバイス#2:ちょっと長いけれども、お話ししておきたいこと

2011 8/12 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ なかんずく、3年生の皆さんへ

新カテゴリー「卒業生の方々から、皆さんへのメッセージ」のPart1に引き続き、Part2です。現在、小冊子“誰でもわかる総合政策シリーズ”の#4/#5として『“総政”での学びを“就活&仕事”に活かすPart1/Part2』に印刷中ですが、予告編シリーズ第2弾です。

なお、今回ご紹介する先輩は3期生の方です。(あまり詳しく紹介すると個人情報に抵触しかねませんが)私の基礎演習を経て、鎌田先生の研究演習を履修され、現在は関東の方でSE(システム・エンジニア)に従事されています。そのあたりは、お読みになれば、自ずとわかります。

■学部開設直後の混沌の中で

私は、非常に充実した学生生活を送っていたと思います。何より入学した時は3回生までしかキャンパスにそろっていない、という設立当初の、良い意味での混沌とした状態でした。今となってはもう再現不可能な時代です。何をするにしても、「誰もやったことがない」とか「去年や一昨年はこうしたが、今年はどうするか?」などと考えながら実行するスタイルでした。

だから、ゼロから何かを作り上げていく、ということばかりが記憶にあります。自然とそんな雰囲気になったので、あまり意識しなかったのですが、今にして思えば最高に良い環境でした。もう早いもので、設立から15年ほど経っているので、我々がやってきたことが逆に、今の在学生にとって足を引っ張る要因にもなっているかなとも。

良かったものや便利な枠組みは残しつつ、その都度新しいものをどんどん実施していければ良いのではないかなぁ、と感じています。

■何を学びましたか?

個人的には、多くの学問的なことを学ぶことができました。研究演習では、鎌田先生には本当にお世話になりました。2回生のころから研究演習にもぐりこんだり、3回生の時にできた大学院のクラスにも参加させていただいたり、やりたい放題に学べる環境がありました。あの数年間は、今でも、私の財産になっています。

英語に関してもすばらしく良い環境でした。英語のクラスは遅刻や欠席などに厳しいですし、留学経験等がないと結構敷居が高いと感じるかもしれません。でも、3、4回生の頃にはキャンパスで外国人講師の人たちと雑談したりできるくらい、英語のSkillが身についたように思います。

■就職活動について教えて下さい

私個人にとって、他の方に申し訳ないほど、すごく簡単でした。2000年に就職活動したので、世間的には氷河期と言われていた頃ですが、ITバブルも手伝って、ITの世界では比較的門戸が広かったと思います。当初は大学院に進学しようと考えていたものの、「就職活動もしてみるというのも、経験として良いと思いますよ」という鎌田先生の一言で、ちょっとだけやってみたら内定がでた、という何とも運の良い話です。

今もずっとその会社に勤めています。この春でちょうど入社して10年となります。

■皆さんに是非お伝えしたいこと

あまり広くない経験からですが、在学生のみなさんにお伝えできることがあるとしたら3つほどでしょうか。

(1)ITという業界

いまは外資系ITC会社の100%子会社で働いています。子会社ですが、色んな面で本社とほぼ同様です。昇進の仕組みなども共通ですし。そういった立場からIT業界というものを見ると、最近言われているような「ブラック」な業界ではあるな、というのは色々と感じます。労働時間が長いとか。そしていくつかの有名な企業が元請となって、多くの下請企業を使うという構造の業界です。案件の規模や、その規模とセットになって「何か支障が生じた場合の損害賠償の額」等を考えると、そうしたブラックさも致し方ない面もあります。

良いか悪いかは別にして、この業界は現在、これまでできなかったような世の中に変えていく仕組みを作るという分野や、電気やガス・水道などのライフラインと同等のレベルの社会的インフラをつくり支えていく分野になりつつあります。やる気と実力と運があれば、すごくスリリングな体験をしつつ、お金を稼ぐことができるなと思っています。

(2)私にとっての仕事をするということ

幸運なことに、現在の仕事は非常に楽しくできています。会社の規模やスタンスなど色々な要因がありますが、新しいことにチャレンジすることが広く許容されます。良いと思ったことを提案して、それを実行することができるのです。

仕事には「お金を稼いで生きていくために必要なことである」という側面はあります。でも、仕事自体がとてもとても楽しい。もちろんつらい時もありますが、それを乗り切ったあとの充実感も良いものだ、と終わってみれば感じられます。

最近、比較的よく感じるのですが、新入社員の中に「仕事は仕事」という、ある種の割り切りが強い人が多いように思われることがあります。仕事は自分のプライベートの時間を削ってやるものではない、と言うのか。もちろん、ワークライフバランスなど、色々言われていることは正しいとは思いますが、なんというか、モチベーションが弱いようにも思えます。黙っていればやりたいことはできません。自分でそれが実行できるCapabilityを獲得し、予算を取り、人を動かして、環境を作って実現するものだと考えています。

(3)学生時代にやってきて役に立ったこと

あくまで個人的な経験上、こうだった、こう思ったというレベルです。いわゆる勉強の分野についてです。

残念ながら、学部レベルで学ぶことが直接仕事で役に立つシーンというのは、それほど多くはありません。教職免許のように、その職に就くために必要なものを除くと、あとは英語くらいじゃないでしょうか?

とはいっても、学生時代にやっていたことは、色んな面で今の私の基礎になっていると感じます。数百ページのDocumentを来週までに読んでくる、といったゼミの課題等は良い例です。仕事では、二日で英語のDocumentを200ページくらい読み解いて、内容をSummarizeして報告するなどはざらにありますから。大量に読んで必要な情報を掬い取ってまとめる、こうした作業に、学生時代にやっていた経験や訓練が生きています。

人にわかりやすく伝えるプレゼンテーションもそうです。もちろん今でも、人のプレゼンテーションで良いところを吸収したり、反省したりもしています。

■勉強の取り組み方を考えて

あとは勉強の仕方、というか、取り組み方も重要だという気がしています。講義室で一方的に教えてもらう形式もありますが、大学では自分で問いを立て、それをどのように解くかということが大切です。何をすればその問題を解決できるか? 解決するために必要なSkillはどのように身につけるのか? そんなところを総政で鍛えることができたと思っています。

先にも書きましたが、私が在学していた頃はまだ卒業生がいなかったので、本当にゼロから考えて作っていく時でした。それゆえ、今、同じことができるわけがないのですが、既存の仕組みや枠組みについて、なぜそうなっているのか疑うことなく、そのまま受け入れてしまう。それは、できるだけ避ける方が良いでしょう。

建設的な議論や疑問をもって、良いものは残しつつ、もっと良くなる!と思えることがあれば、積極的に脱構築していくことで、すばらしい学生生活が送れるのではないかなぁと想像します。

(男性、2001年卒、システムエンジニアリング)

芸術家たちPart4:“有り難い事に、手に入ったものを、捨てなければならぬ理由がどこにあるのか?”=20世紀最大の美術家ピカソの秘密

2011 8/8 総合政策学部の皆さんへ

 現代絵画史上、もっとも評価が高い画家は誰か? 皆さんは考えた事はありますか?

 しかし、そもそもは誰が評価するのか? 何をもって評価するのか? 単純に比較しようとすれば、例えば、“価格”で比べてみる、ということになるでしょう。“開運!なんでも鑑定団”の世界です。そして、価格は結局のところ、市場において、需要と供給で決定される。

 それでは、現代絵画の最高値は?  朝日新聞の2010年5月5日の記事では、

  20世紀を代表する画家の一人、ピカソ(1881~1973)の絵画「ヌード、観葉植物と胸像」が4日、ニューヨークで開催された競売会社クリスティーズのオークションで、約1億648万ドル(約101億円、手数料込み)で落札された。クリスティーズによると、オークションに出品された芸術作品としては史上最高の落札価格。これまでの記録は、今年2月にロンドンのサザビーズで落札された、スイスの彫刻家ジャコメッティによるブロンズ像「歩く男」の約1億430万ドルだった。

 なお、この絵は1932年に、ピカソが当時の愛人マリーテレーズ・ワルテルを描いたものです(画像はhttp://photozou.jp/photo/show/238536/37719248)。 

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  それでは、ピカソとは何者なのか?

 Pablo Picassoことフルネームは“Pablo, Diego, José, Francisco de Paula, Juan Nepomuceno, María de los Remedios, Crispin, Cripriano, de la Santísima Trinidad Ruiz y Picasso”。1881年10月25日に工芸学校美術教師の息子としてスペインのマラガに生まれ、1900年パリを訪れ、その後人生の多くをフランスで過ごす。1973年4月8日、南仏ニース近郊で死亡、享年91歳、

 死ぬまで制作活動を続け、油絵と素描約13,500点、版画100,000点の、挿絵34,000点の、彫刻と陶器300点を残して、20世紀(というか、おそらく人類史上)最も多作な美術家です。

 キュビズム(立体派)の創始者で、その後、シュールレアリズムダダイスム等様々な潮流に影響を与えながら、常に変貌し続ける存在として、多くの芸術家に影響を与える。これが公的プロフィールということになるでしょう。

 ピカソについては、様々な文学者がその姿を書き残しています。それを読めば、若い頃から、彼はたんなる一画家を超えた存在、つまり、自らの芸術を語る言葉で、他の芸術家たちにも否応なく影響を与えてしまう人間だということがわかります。例えば、ベル・エポックからエコール・ド・パリ派までの時代を中心に、パリの下町・庶民・そして芸術家を描いた作家フランシスコ・カルコは『パリ放浪記』でこう書きつけます。

 幸福だったこの時代、われわれのグループにはあらゆる人間がいた。ピカソが「もし風景を描こうと思えば、まず皿に似ていなくてはならぬ」と宣言して、大向こうをうならせたのもこの時代である」「話と言えばピカソのことで持ちきりで、もしも彼が居合わせると、その一流の逆説が巻き起こす、一種独特などよめきで、すぐにそれとわかった。(筑摩書房世界ノンフィクション版、井上勇訳)

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 こうして生前から華々しい成功をおさめ、金銭的には巨万の富を築いたピカソにも、もちろん、貧しい時代がありました。フルリュース街のマザー・グースことガードルード・スタインの『アリス・B・トクラスの自伝』は第一次大戦前のベル・エポック、パリではまだ無名のピカソが愛人フェルナンドとの同棲を始めた頃(二人はついに正式の結婚をするに至らなかったのですが;フェルナンドについては「ファッションの人類学Part1:帽子をめぐるフェルナンドとココの冒険~パリが移動祝祭日であった頃~」をご参照)こう書き記しています。

 エッタ・コーンはピカソ夫妻のことをスサマジイ人たちだけれどロマンチックだと思っていました。ピカソ夫妻の財政状況が誰の手にもおえないくらいひどくなるたびごとに、かの女はガートルード・スタインに連れられてピカソの家に行き、100フランほどの素描を買わされました。

 100フランと言ってもその当時はせいぜい20ドルでした。そしてこのロマンチックな慈善行為に耽ることを、かの女は全然いやがってはいませんでした。これらの素描が、ずっと後年にあってエッタのコレクションの中心になったこと、これは言うまでもありません。

  それにしても、当時20ドルのその素描は今、いったいいくらになっているのでしょう? 余談ですが、この頃パリには“偉大な芸術家”たちがあまりに集まっていて、かつ、“偉大でない芸術家”たちももっと集まっていました。ある日、そのうちのひとりがガートルード・スタインに嘆きます。

  「偉大な芸術家は、偉大な芸術家なりの悩みをもっています。でも、彼らは偉大な芸術家なのです。

 偉大でない芸術家は、偉大でない芸術家なりの悩みを持っています。でも、彼らはやっぱり偉大ではないのです」(うろおぼえなので、文章は正確ではありません)

◆ピカソ作「ガートルードスタインの肖像」とその前に座るガートルード・スタイン(マン・レイ撮影、1922年;http://wings.buffalo.edu/english/faculty/conte/syllabi/377/Images/Ray_Stein.jpg)。この肖像画こそ、「ファッションの人類学Part1」でも触れましたが、ピカソがスタインの秘書(そして同性愛でのパートナーでもあった)アリス・B・トクラスに「みんなあれはかの女に似ていないっていうけれど、そんなことはどうだってかまわない、そのうちにガートルードの方が(絵に)似てきます」と云った、そしてピカソの予言通りになったという歴史的な絵なのです(そして、この構図は、ダダイストマン・レイの洒落っ気によるもの、ということも言い添えておきましょう)。

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  さて、この20世紀最大の“美の巨人”ピカソについて、文芸評論家の小林秀雄はその創作の秘密を“捨てない”ことにある、と喝破します。それは、後にパリでピカソを介してガートルド・スタインとも知り合う若者時代の友人サバルテスの貴重な証言からです。

  小林は、サバルテスが語る「ピカソは耳目に入るすべてのことを捨てる理由を見いださず、手元におくこと」。これこそが「真の剽窃者」とも言われるピカソの秘密とみなします(サバルテスはピカソの秘書も務め、その個人的コレクションは上述のピカソ美術館のベースの一つになっています)。小林は書きます。

 サバルテスは、ピカソの気違い染みた収集癖について、書いている。彼の部屋は、何という事なく集められた、あらゆるくだらぬ品物の迷宮のようなものだ。

 部屋に這入らなくても、彼のポケットをのぞいてみればわかる。紙くず、釘、鍵、ボール紙、濃いし・・・・消しゴム、鉛筆、万年筆、そんなものが充満している。

 夏の旅行から還って来ると、トランクは、石ころ、貝殻、・・・、動物の骸骨や頭蓋骨で一杯だ。こんど出掛ける時には、それを部屋中にぶちまけて出発する。

 サバルテスが、ある日、君の様に、革新の好きな人間が、物をとって置くという気持ちが解らぬ、と言うとピカソは、こう答えたそうだ。「それとこれとどういう関係があるというのだね。私が浪費家でないという処が問題なのだ。こんな具合にいろんなものが手許にあるのは、持っているからあるので、貯めたからあるのではない。有り難い事に、手に入ったものを、捨てなければならぬ理由がどこにあるのか」。

 小林はこのピカソの言葉を受けて、こう論評しています。

 彼には、何物も捨てる理由がないのである。絵をかくという目的から見れば、すべての物が等価なのだ。

 がらくたばかりの乱雑な彼の部屋は、彼の心の鏡なのであって、それは、彼には目的に適う様に慎重に設計された仕事場の意味を持つ。

 彼の意志から見れば、単にがらくたが在るのではない。理解や、解釈や、綜合や、分析から解放され、本来の姿に還元された個体の群れが集められているのである。それは、彼の任意な行為、自由な制作の機縁としての意味だけ担う、彼の欲した無秩序である。

 あらゆる記憶が、心の奥底に沈殿する様に、彼が経験したあらゆる物の形は、彼のポケットに、彼の部屋に、雑然と体積するのである。がらくたの山が、自分の睡眠を待っていてくれるのなら、目を覚ましていなければならぬ、いかなる理由もない。(小林秀雄『近代絵画』新潮文庫版)

 これが、すべてを拾い、捨てず、整理さえしない(その中には、一生の間につきあった女性たちまで含まれます。ピカソは最後までつきあった女たちを捨てません、もっとも、一度だけ女(1943年から53年にかけて愛人であり、ピカソにとってのミューズでもあった画家フランソワーズ・ジロー)に捨てられたことがあって、その時は呆然とするのですが)、20世紀最大の美の解釈者にして表現者ピカソの本質だというのです。

 学生の皆さんも、この総政で色んな先生から学んだことを捨てないで下さいね。どこで、何の役に立つかわかりません。ピカソの台詞のように、「有り難い事に、手に入ったものを、捨てなければならぬ理由がどこにあるのか?」。

ニューヨーク現代美術館蔵「三人の音楽家」(1921年)の解説ビデオ:http://www.moma.org/explore/multimedia/audios/8/398

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  さて、ピカソについての締めは、やはりフランシスコ・カルコの『パリ放浪記』から引用しましょうか。筑摩世界ノンフィクション版では、薄幸の画家イタリア生まれのエコール・ド・パリ派のアメディーオ・モリジアニが1919年11月、肺結核が亢進して「イタリア。なつかしいイタリア。なつかしい」と錯乱して口走りながら病院に送られ、やがて死を迎えるところで終わりに近づきます。

 下町の詩人カルコはわかっていたのです。モリジアニの死が一つの時代、ベルエポックの終末であり、大戦が終わったその後は、狂乱と怒涛の20年代(Roaring Twenties)が迫っていることを! モジリアニはそれに耐えることはできず(思えば、ニジンスキーもそうでしたシーレもそうだったかもしれません)、ピカソはたくましく生き残っていくことを!

 私は、彼を知り、愛し、たたえた人々に聞いてみたいが、モディリアニが死んだとき、われわれはとっさに、彼の天下が始まったという確信をもったものだ。それは理由をいえといわれたところで説明はできない。彼が死んだとたんに、その報道はパリじゅうに伝わった。 

 友達、商人、つましい人々、居酒屋、モデルなど、あらゆる人々がやってきた。みんなしょんぼりとしていた。モディとともに、世代の最後の-ついに生活を律することのできなかった-ポエームが消えようとしていた。われわれはそれをしみじみと感じていた。限りない大きな悲しみをもってそれを感じていた。

 そして、葬列が整えられた時、 

 モディリアニの愛人が両親の家の窓から飛び降り自殺をし、しかも両親はその死骸をひきとろうともしない、という知らせを受け取った。いいようもない感情がわたしたちを転倒させてしまった。

 なんという皮肉だろう、高価な献花、花束が思いばかりに積み上げられた柩車の後ろには驚くほどの人々が並んでいた。たくさんの画家、女、作家がいた。全モンパルナッス、全モンマルトルが、死んでいった、そして生前は行きあたりばったりな乱脈な生活をして、じぶんの体のほかはなにもなく、あらゆるものに貧乏をした友人の思い出に、敬意をささげるためにぴったりといっしょになっていた。(中略) 

 葬列の通る途中、カタリとかかとを合わせて敬礼をしていたおまわりたち、そのなかにはおそらくたびたびモディを交番にひきたて行った同じ巡査もいただろうが、彼らは、いましているその敬礼が、われわれの眼には、遅ればせとは言いながら、いわば公けの謝罪と写ったことはたしかに知りもしないだろう。

 この光景を見て、そのなかに含まれている意味をひきだしたのは、いつもと同じくピカソだった。彼は私の方を振り返って、モディリアニが花の下に埋もれている柩車と、気を付けの姿勢の巡査をさしながら、しんみりとして私にいった。 

「見たまえ・・・・かたきはとれたよ」

  生前のピカソ、モデイリアニ、そして詩人・評論家のアンドレ・サルモンの肖像写真 

総合政策の名言集Part11:お金について

2011 8/4 総合政策学部の皆さんへ

 今回はおもむきを一転、“お金”についての名言集とします。となれば、トップバッターはイギリスの小説家・劇作家にして元諜報部員(第1次大戦中、れっきとしたMI6のメンバーで、ロシアの政治家ケレンスキーやテロリストサヴィンコフとも親交のあった)ウィリアム・サマセット・モームの自伝的回顧録『サミング・アップ(要約すると)』の名台詞から。

  • #44:「お金は第六感のようなもので、これがないと他の五感がうまく働かない」 
  •   

 説明は要りませんね? 皆さんも卒業して実社会に出たら、こんな軽妙な台詞がすらっと出るようにお願いします。なお、この五感とは視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚をさすのだそうですが、もともとはギリシアの哲学者アリストテレスの指摘に由来するそうです(アリストレス先生は「マンガ(コミック)で世界を知ろうPart2:ヒストリエ」(2011/05/22投稿)で紹介のコミック『ヒストリエ』にも登場しています)。  

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  モームが1938年(つまり第2次大戦直前)に書きつけたこの台詞から11年後、戦後のアメリカで新興地カリフォルニアの匂いを発散させながら(しかし、実は、みんな第2次大戦での心の傷を負いながら)、「わたしはこれでも新しい型(タイプ)の探偵なんです」と自己紹介するハードボイルド派私立探偵リュー・アーチャーは、当然、“お金”という現実に直面します。

  アーチャーの初登場作『動く標的(The moving target)』の終末で、彼は依頼人(大金持ちの後妻)の義理の娘ミランダに面会します。そして、父親(大金持ち)が誘拐の末殺されたこと、殺したのは彼に使われていた法律顧問(実は、アーチャーのかつての上司)グレイブスで、そのグレイブスはその日そのミランダと結婚している!

 したがって、この殺しは究極のところ、金持ちに使われながらいつの間にか金に心を支配され、上を目指して這い上がろうとして(失敗した)グレイブスの野望からだと説明します。以下の会話は、名言というには少し長すぎますが・・・(井上一夫訳『動く標的』創元推理文庫版)。

  • #45「信じられないくらい醜いことね。
  •   どうしてあの人がそんなことをしたのか、わたしにはわからないわ」
  •  
  •  「金(かね)のためにやったのさ。・・・グレイブスも金なんかに眼をくれなかった時代があった。
  •  どこかほかの土地にいたら、彼もそのままでいられただろう。
  •  だが、サンタ・テレサでは駄目だ。この町では金が人生の血液みたいなものだ。
  •  金がなかったら生きてるといっても、半分死んでいるようなものだ。
  •  百万長者に雇われて、その金を吸いながら、自分に金がないということは、彼もいらいらさせられたろう。
  •  ところが急に、彼は自分も百万長者になる機会があるのに気がついた。
  •  そこで、彼は、自分が何より金を欲しがっているということに気がついたんだ」
  •  
  • 「いまのわたしの気持ちわかる?」彼女がいった。「わたし、お金と性(セックス)がなければいいと思うわ。
  •  両方とも、わたしにとっては好いものというより、厄介なことのほうが多いんですもの」
  •  
  • 「金が人間に悪い影響を与えるからといって、金のせいにするわけにはいかない。
  •  悪いのは人間のほうだよ。そういう人間は金に頼ろうとするんだ。
  •  人間は自分のほかの値打ちがなくなると、必死になって金を欲しがるんだ」
  •   

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  ハードボイルド派は現実に向き合うことで犯罪都市を生き延びるわけです。例えば、上記のミランダとの会話の前に、真相を彼女に告げるべきか一瞬迷ったアーチャーは、「ありのままの事実を話して、この場を切り抜ける」と決心します。しかし、そのためにこそ、彼らは様々な難題に直面します。

 真相をすべては明かしてくれない依頼人、何かあれば自分の懐を温めようとする関係者、自分の言い分を押し付けるだけの警察・・・・・そして、彼らの間に渦巻く欲望の対象、お金。

 『動く標的』登場の5年後、作者ロス・マクドナルドの先輩、レイモンド・チャンドラーが執筆した『長いお別れ』の、これも終末近く、探偵フィリプ・マーロウは金持ちの(しかし、魅力的な)女性リンダ・ローリングと、やはり“金(かね)”のことで話を交わします(清水俊二訳『長いお別れ』ハヤカワ・ミステリ文庫版)。

  • #46「わたしと結婚しようと思わない?」
  •  
  • 「6カ月とつづかないね」
  •  
  • 「つづかなかったからって、それがどうなの」と、彼女はいった。「試してみる価値があると思わない?
  •  あなたは人生をどんな風に考えているの。危険なことはなにもしないつもりなの」
  •  
  • 「ぼくはことしで42になるまで、自分だけを頼りに生きてきた。そのために、まともな生き方が出来なくなっている。
  •  その点では、君も少しばかりまともじゃない - ぼくと違って、金(かね)の為なんだが」
  •  
  • 「私は36だわ。お金があることは恥辱じゃないし、お金と結婚することだって恥辱じゃないわ。
  •  お金を持っているひとはたいていお金を持つ資格のないひとで、どんなふうにお金を使っていいかも知らないのよ。
  •  でも長いことはないわね。もう一度戦争があって、その戦争が終われば、泥棒といかさま師のほかはだれもお金なんか持っていないのよ。
  •  税金にみんなとられて、1文なしになっているのよ」 
  •   

 第2次大戦、そして朝鮮戦争を経て、アメリカが何処に行こうとしているのか? みんな金を素直に信仰できる世界に戻れるのか(ある意味、フォーディズムがまき散らす幻想ですが)? それとも、現実の汚辱から逃れられないか? あるいは自分の金を(税金から)守るか(アメリカで今はやりの“ティー・パーティ”ですね)? 

 半世紀を経て今読んでみると、蘊蓄のある台詞ばかりです。ちなみに、『長いお別れ』での決め台詞としては、以下を推奨するのが一般的です。

  • ギムレットには早すぎる
  • さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ
  •   

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ 

  最後に、冒頭に紹介したサマセット・モームに戻り、『作家の手帳』からフランス領ギアナの監獄島(つまり、流刑地)の一つ、サン・ロウダン・ド・マロニでの囚人たちの会話からの一節をあげましょう。

 「きょうわたしは、終身刑の判決を下された囚人たちの、その殺人の動機のじっさいについて調べてみた。そうして驚いたことは、表面上はいずれも愛欲とか嫉妬とか憎悪とかにからんで、裏切りにたいする復讐心とか、たんなる衝動とかからの殺人なのであるが、さらにもう少しつっこんでみると、表面のすぐかげに大部分は金銭的な動機がひそんでいると結論しないではいられないことだった。わたしがしらべたうち、一人の場合をのぞいてどの殺人もみな、金の問題が根底だった」(中村佐紀子訳『作家の手帳』新潮文庫版)

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...