住まいの人類学Part6:植え付けられた街、そしてその増殖#1~外国人居留地、そして銀座登場~

2011 8/27 総合政策学部の皆さんへ

 “植え付けられた街”シリーズ、シンガポールメダン(インドネシア)から、日本にいったん戻りましょう。

 思えば、奈良の都の平城京も、藤原京も、そして『陰陽師』で安倍清明が知力を傾けて“魔”から守る平安京こと京都も、都市計画にもとづいた“植え付けられた都市”ではあります。

 そして、近代日本史上においては、その最初の例の一つとして、いくつかの“外国人居留地”をあげることができるかもしれません。

 これらの外国人居留地は、外国人の内地雑居を禁止し、日本人と外国人を隔離しようとする江戸幕府の政策を、明治政府がそのまま引き継ぐことでもあります(「総政をめぐるトピックスPart3:内地雑居の顛末、外国人による土地取得をめぐって」(2011/02/8)」をご参照)。

 その政治的是非はともかく(日本近代化論そのものですね)、とりあえず長崎出島の全国版をねらったわけです。そのためにも、外国人が住む街を“植え付け”、かつ“隔離”する必要がありました。

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 そして、三田からもっとも近い居留地は、言うまでもなく神戸外国人居留地です。Wikipediaによれば、

1868年1月1日(慶応3年12月7日)から1899年(明治32年)7月16日にかけて現在の兵庫県神戸市中央区に設けられた外国人居留地である。一定の行政権・財政権などの治外法権が認められ、居留外国人を中心に組織された自治機構によって運営された。貿易の拠点、西洋文化の入り口として栄え、周辺地域に経済的・文化的影響を与えた。

兵庫の開港は横浜や長崎より約9年遅れてのものであったため、両居留地における造成・設計の経験を生かした合理的な都市計画を立てることができた」のだそうです。

 植え付けにもそれなりの試行錯誤が必要というわけです。このあたりの先駆者であるイギリス人たちも、シンガポールやニューデリー等、色々と勉強しなければいけなかったわけです(このあたりは、ロバート ホーム(布野修司他訳)『植えつけられた都市―英国植民都市の形成』 (2001年刊、京都大学学術出版会)をご参考に。なお、高価な本なので、図書館等で)。

  さて、神戸居留地の地図はこちらをクリックしていただければと思いますが、かなり整然と設計されていることがわかるかと思います。

 ちなみに東は旧生田川(現フラワーロード)、西は鯉川(現鯉川筋=メリケンロード)、北は西国街道(現花時計線)で区切られているということなので、グーグルマップで調べてみると、現JR/阪急/阪神三宮駅の南西、地下鉄海岸線の“三宮・花時計前駅”から“旧居留地・大丸前”、そして海岸通りの「メリケン波止場前」と「税関前」を結ぶ台形が該当しますが、1868年の縄張り=整然とした東西南北の街路(南北8本、東西5本)がほぼ現在も踏襲されていることがよくわかります。

 ちなみに、南京町はその居留地の西隣の雑居地に設けられたというわけです。その後、旧生田川は東側の現川筋に付け替えられて、その後地はフラワーロードとなります。また、鯉川は結局暗渠化され、その上を道路化したのがメリケンロードになりました。

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 居留地の広さ約7万8000坪とは25.8ha(KSCの約4分の3)、1890年に2039人が在住(最大人口は清国人の1432人)ですから、人口密度は7903人/平方キロ。1868年頃の土地の売り出し価格が最低で坪2円です。

 当時金1500mgを1円と定めたそうなので、現在の金の価格(8月6日付けの1グラム4402円;その後、ドル安等でさらに高騰中ですが)で換算すると6603円×2=13,206円。

 一方、現在の中央区の地価ですが、“神戸市中央区土地ドットコム”というウェブサイト(http://www.tochi-d.com/koubeshicfuuouku/)によれば、バブル絶頂期をやや過ぎた1991年でなんと1674.7万円で、その後のバブル崩壊で2011年は170.1万円(ほぼ10分の1)。

 それでも、旧居留地の少し北、三宮町1丁目7番6が坪1008.3万円(全国124位)、居留地内の明石町47番が469.4万円、同じく京町79番が423.1万円です。

  すごい値上がりですね(それにもまして、バブル崩壊後の値下がりもすごいですが)! これを幕末時予想したのが、この研究室ブログにしばしば登場する勝海舟です。

海軍練習所は、今の神戸税関のある所にあった。・・・もと神戸は700石の天領で、路の両側に百姓家があって、街も一通りになって居たが、庄屋を生島四郎太夫といって、最初おれはその家を旅宿にした。その時生島に、この土地も今はつまらない百姓家ばかりだけれど、早晩必ず繁華の場所になるから、地所などはしっかり買っておけと、いったところが、生島も半信半疑ながらにおれがいった通り地所を買い入れておいたら、果たして維新後は一坪何十円という高価になって、非常に儲けたさうだ。・・・おれは成るべくは土地の者をつかってやらうという考へで、百姓などを沢山用いたから、彼らも大いに喜んで働いたが、中にはそのために財産家になったものもずいぶんあるヨ。・・・かういふ風だから、おれも神戸へ行くとなかなかもてるのサ」(勝海舟(江藤淳・松浦玲篇)『氷川清話』講談社学術文庫版)

 なお、生島四郎太夫の旧宅は、門と庭が兵庫区五宮町26-9に残されているとのことです。皆さんもフィールドワークに行かれる時は、事前にこうした予備知識を仕入れていくと、同じ光景が違って見えてくるかもしれません。

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 さて、幕末の混乱が納まりかけた明治初期、もう一つの”植え付けられた街”の典型が、皆様ご存じの銀座、そして、この”銀座“こそ、我々が習った教科書的には「銀座煉瓦街計画は、これまで、失敗と評されることが多い・・・理由としては、もっぱら雨漏りが多くて湿度が高く、お茶は湿り、反物はかび、人は脚気に、といった建築上の問題と、竣工後の空家の件があげられてきた」(藤森照信『明治の東京計画』岩波現代文庫版)と、この150年来けなされ続けてきました。

 たしかに、私も子供の頃、そんな風に習った記憶があります。しかし、それならどうして、日本中に“銀座街”がはびこっているのか?

 ここは一つ、明治期の江戸→東京近代化の経過を説いて飽かせない路上観察学会創始者の一人、建築探偵、そしてタンポポハウスの設計者、東京大学名誉教授テルボこと藤森照信先生にご教示いただきましょう。

  そもそも、銀座煉瓦街建設の発端は、「火事と喧嘩は江戸の華」と歌われた、その大火が原因です。将軍様のお膝元としても、職人たちが集まり、京橋や日本橋に比べてやや場末、その銀座の町並みが

明治5年2月26日、和田倉門内兵部省添い邸から逃げた火は北西の風にのって銀座地区をなめつくし、三十間堀を渡って木挽町に入り、ウォートルス館、由利邸をのんで築地川をまたぎ、梁山泊、外国人居留地を焼き払って海に抜けた。一夕にして灰と化した表玄関を前に、彼らはこの地を文明開化の町として再建することを決意する。ここに<銀座煉瓦街計画>ははじまる

 藤森先生、張扇よろしく懸河の口上、つい力がはいってしまいますが、実は、この本は昭和56年度東京大学博士課程論文『明治期における都市計画の歴史的研究』を公刊したものなんです。博士論文がこんなにおもしろくて良いものなのでしょうか?

 こうして、かつて1666年のロンドンの大火で大建築家クリストファー・レンがゴシック都市ロンドンの創生をもくろみながら、(関東大震災時の後藤新平と同じく)俗世間の圧力に屈服を余儀なくされた時のように、庶民にとってはとんでもない災いを為政者たちは「絶好のチャンス」とばかりに、スラムクリアランスによる近代都市誕生に向けた狂想曲を開幕させます。

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 それにしても、なぜこの場所に日本最初の煉瓦街が誕生したのか? なぜ銀座だったのか? 私も『明治の東京計画』を読むまではまったく心得もしませんでした。

 それは銀座の西端が新橋駅=明治5年9月12日に開通した横浜(現桜木町駅)-新橋間の鉄道の起点駅に近く、そして東端は日本橋を通じて、明治天皇を頂点に日本政府の中枢につながる位置関係、つまり、横浜居留地から鉄道で東京を訪れた外国人が日本政府の中央に達するまでの道筋に街路樹に柳を植えた煉瓦街を建てて、馬車の窓から日本の近代化を見せつけるための舞台装置であったのです!

 まあ、映画撮影のためのフェイク都市のようなものでもありますが。

 ちなみに、グーグルマップで「銀座」を見ると、まさに新橋駅から京橋、そして日本橋につなぐ道筋、はっきりわかりますね。皆さんも、是非、地図を見て、明治の都市計画に思いをはせてみましょう。と、ここまで書いたところで、十分長くなりそうです。このあたりで、to be continuedといたします。

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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