2011年9月

ヒーローと悪役について:映画その他を紹介しましょう番外編&アメリカ文化についてPart2

2011 9/30 総合政策学部の皆さんへ

「ヒーローと悪役について:映画その他を紹介しましょう番外編&アメリカ文化について」のPart2“悪役編”です。“悪役”はしばしば“善人”より魅力的なはずだと思っているのですが、リストにあげられている“アメリカ人にとっての悪役”は、私のイメージとはちょっと異なるような気もします(そして、ヨーロッパ映画に出てくる悪役とも違うのでは)。

もちろん、こうした事情は時代的変遷があるのかもしれません。Wikiediaでも現代の悪役は「悪渾然としたキャラクターや善人面をして悪事を働くキャラクターも多いなど、従来の悪役像が成り立たなくなっている面もあり、現在では悪役としての表現技法は多様化している」とあります。どうやら、誰から見ても悪役というキャラはなかなか成立しない。となれば、とりあえずリストの上位を占めるのはかなりエキセントリックな造型に偏ってしまう、そんなところかもしれません。

さて、以下の悪役トップの10作中、私が観たことがある作品は『羊たちの沈黙』、『サイコ』、『スター・ウォーズ』、『オズの魔法使い』、『危険な情事』、『白雪姫』と6作ですが、『オズ』と『白雪姫』はやや子供の頃で、ぼんやりとしか思い出せません。とくに「西の魔女」がどの程度悪役だったか? まったく覚えていない体たらくです。

その“混迷”する悪役像ゆえか、ここであげられた方々はあきらかにサイコ・サスペンス的悪役に偏っています。トップは何といっても『羊たちの沈黙』でおなじみ、ご存じ人食いハンニバル。第2位が、『サイコ』での衝撃のラスト・シーンのために、俳優人生さえ終わってしまった感のあるアンソニー・ホプキンス演じるノーマン・ベイツ、そして女性ストーカー(この映画の頃は、日本ではまだストーカーなどと言う言葉さえ、流行っていませんでした)のリーガン・マクニール。

第9位の悪役は“悪霊”ですし、白雪姫の王妃もまた十分“サイコ”な印象です。つまり、アメリカ人は、“悪”というよりも、“ふつうではない、奇っ怪なヒト”が嫌いなのです。フセインも、ビン・ラディンも、そして今やカダフィもそちらの人と見られているのでしょう。そのあたり、たまには“本当かな?”と疑うことも必要では、とつい思ってしまいます。

第12位のアレックス・デラージ (『時計じかけのオレンジ』、マルコム・マクダウェル)も十二分に“あぶない”人ですし、第13位『2001年宇宙の旅』のHAL9000(ハル ナインサウザンド)もまた、かなり不気味な存在です。そういえば、この2作はスタンリー・キューブリック監督ですね。

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ところで、皆さんご存じでしたか? かのグリム兄弟が最初に出版したグリム童話初版本では、『白雪姫』の王妃は継母ではなく、実母だったということを! 民話ですから、当然様々なバリエーションがある(生物の進化でDNAが突然変異するようなものです)。たまたま採集した最初のヴァージョンは実母による実子殺しだったのに、さすがに気が引けたのか、次に継子殺しのバージョンを見つけたら、そこに乗り換える。

自然科学者としては、「そんなことで編者の勝手にされると困ったことだな」と思ってしまいますが、民話(童話)収集家、あるいは民話(童話)出版社の立場からすれば、当然かも知れません(いずれにしても、読者は本当の“真実の物語”を与えられていないのかも知れない、といつも疑うことだけは大切ですよ、と言いたいだけですが)。

しかし、実母だとすれば、結末の「その結婚披露宴で、王妃は真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされ、死ぬまで踊らされた」(Wikipediaより)は、“実母殺し”にもなりかねません。因果応報とは言え、ギリシア悲劇の『オレステス』三部作等を思い出します(詳しくは「ギリシア悲劇とその変奏Part1:高畑ゼミの100冊番外編(2010/05/3)」をご参照下さい)。

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悪役第1位に話を戻して、いやまアンソニー・ホプキンスの当たり役になってしまったドクター・ハンニバルですが、実は最初の映像化は『羊たちの沈黙』ではありません。1986年、映画『Manhanter』という名で映像化され、日本では(私が覚えている題名は)『レッド・ドラゴン-レクター博士の沈黙』として上映された作品を、京都の南の端、九条のパチンコ屋の2階(なにしろ、映画狂のパチンコ屋店主が作ってしまった、と聞いている映画館)みなみ会館で、まったく予備知識もなく(他の映画を見に行ったついでに)3本立ての1本として観て、一種の衝撃を覚えた記憶があります。

その後、実は、この作品は興行的にはまったくの大コケして、制作者が映画化権を放り投げ、その結果、『羊たちの沈黙』に始まる三部作のシリーズ化が別途映画化された、という代物だと聞いた覚えがあるのですが、そこではブライアン・コックスがドクター・ハンニバルを演じていました。

しかし、個人的にはどうしてこの映画がこけたのか、当時も、そして今も、私にはわからないぐらい傑作だと思ったのですけれど。とくに、グレアム刑事が展開するプロファイリング、そして刑務所中から凶悪犯をあやつるドクター・ハンニバル、そして不気味な犯人(たしか、盲目の女性にだけ心を開くのではなかったでしょうか?)。実は、この(世評ではペケだった)第一作のイメージが強すぎて、アンソニー・ホプキンス主演の『レッド・ドラゴン』はついつい観そびれてしまいました。

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それにしてもアブノーマルな悪役がほとんどのため(歌舞伎で言えば、怨霊、公家悪の類?)、“実悪”というべき方があまり出ませんね。そこで、10位以下を見ると、組織犯罪者としてのゴッドファーザーマイケル・コルレオーネ (『ゴッドファーザー PART II』、アル・パチーノ)が第11位に食い込んでいます。

マイケルとその父ビトーについては、以前、「総政100本の映画Part13振り返り編:『ゴッドファーザー』そして『ワイルドバンチ』:暴力装置を通して見るアメリカ合衆国のなりたちについて#1(2010/12/23)」、「同#2」、「同#3」でも触れました。ダース・ベイダーが二枚目アナキンから“悪の権化”に変身したように、生まれや育ちが異なっていれば、Part1でご紹介の実事型ヒーロー(クーパー、ペック、ステュアート、フォンダ)にもなれるはずのマイケルの父ビトー。彼はイタリア系下層移民としてふるまううち、その生来の才能ゆえにいつしか“ゴッド・ファーザー”に成りあがります。そしてその息子マイケルがそこから抜け出したいと願いながらも、やはり落ち着くべき所に落ち着いてしまう、その悲しみが全面に浮き上がってくる作品です。

悪の権化であるダース・ベーダーも映画化を重ねると、だんだんその複雑な人生が明らかになり、二枚目アナキン・スカイウオーカーが「善良で純粋な心を持っていると同時に、奴隷という抑圧された境遇にあった為か、生存への欲求や上昇志向も並外れており、これが強大な力を渇望する心へと繋がっている」ため、やがて悪の存在に変わっていく様があきらかにされていきます(Wikipedia)。「大柄でがっちりとした体型に全身黒ずくめの衣装、顔を隠すマスク、不気味な呼吸音で見る者に強烈な印象を残すキャラクター・・・劇中での存在感から、威圧的・高圧的人物や悪の大ボス等の代名詞とされることも多い」この人物もやはり複雑な背景があるのです。

このように人類学者がよくでっちあげるストーリーは、ビトーそしてマイケルのように、片方で実事になりえる者が、環境やその他さまざまなことで、実は実悪にもなれる。そこに善と悪との本質があり、両者には決定的な差はないというようなお話になるのが落ちです。しかし、これまで見てきたように、現代アメリカ人にとっての“悪役”はどうもそんなタイプと違って、善とまったく断絶したタイプのようです。それでは、善と悪の境目はどこにあるのか? そのあたりは to be continuedとしましょう。

総政をめぐるトピックスPart4:“傭兵”たち:スイスの実像、そしてグルカ#1

2011 9/26 総合政策学部の皆さんへ

 皆さんは“傭兵(Mercenary)”というとどんな印象をお持ちでしょうか? さらに言えば、かつて(いや、現在も)“傭兵”が主力産業であった国、あるいは地域があった/あるということもご存じでしょうか? つまり、あまりにも貧しくて、若者たちの肉体=血しか輸出できないわけです。

 すでに「総政100本の映画Part12:旧東欧反体制映画の日々:国際政策を映画で勉強しよう(#2)」(2010/11/8)でも、映画『サラマンドル』そして『第3の男』にかこつけて少し紹介しましたが、スイスはけっして平和な国でも、また、戦争の汚れた世界から無縁な国でもなかった、というところから、話が始まります。

 まず、Wikipediaで検索してみましょう。すると、“スイス傭兵”で一項目になっているのですが、ヨーロッパの軍事学史上、彼らは基本的に歩兵です。

 それも長槍(パイク)戦斧(ハルバード)を携え、密集体系で騎士の突撃にも揺らがないという、まるで、ピリッポス2世アレクサンドロス大王のマケドニア式ファランクスを思い出させる戦法です(ファランクスについて詳しくは「マンガ(コミック)で世界を知ろうPart2:ヒストリエ(2011/05/22)」をご参照)。

 あまりにも貧しいスイス人は、騎士のように馬を買い、金をかけて軍備を整えるなど、夢のまた夢。とりあえず、手につく武器を改良し、徒歩(かち)で槍とも斧ともつかぬ(騎士階級から見れば、下賤極まりない)得物(えもの)を振り回し、馬の足を薙ぎ払い(日本では長柄、薙刀の類ですが)、落馬した騎士を押し包み、あっという間に「お命頂戴!」というわけです。

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  この農民兵の歴史的デビューとすれば、スイス農民軍が押し寄せるハプスブルク家の軍勢に打ち勝った1315年のモルガンテンの戦いをあげるのがふつうです。

 英語版では「The Battle of Morgarten occurred on November 15, 1315, when a Swiss Confederation force of 1,500 infantry archers ambushed a group of Austrian soldiers of the Holy Roman Empire near the Morgarten Pass. The Swiss, led by Werner Stauffacher, thoroughly defeated the Austrians, who were under the command of Duke Leopold I of Austria」とあります。

 この戦いで、オーストリア公レオポルト1世率いる3000~5000人(うち、3分の1が騎兵で馬上だった)神聖ローマ帝国軍は、1500人に弓兵を交えた農民歩兵による待ち伏せ作戦にひっかかります。農民兵が落とす岩、丸太、そして戦斧に騎士たちはまったく対抗できず、虐殺されます。まるで楠正成赤坂千早城の合戦さながらです。

 続く1386年のゼンバッハの戦いでも、4000人のオーストリア兵、このうち1500名が騎兵でしたが、戦闘時は下馬していたとのことです。このオーストリア兵を1400人のスイス兵が襲い、オーストリア軍の1500名が戦死、そのうち600人が身分のある者だったとのこと。対照的に、スイス側の損害はたったの200人ばかりという圧倒的大勝利です。

 ふつう、参加兵員の3分の1が死傷すれば、戦闘継続能力を喪失するのが軍事的常識ですから、当分、スイス領内は安全ということになるわけです。

 ところで、日本語版Wikipediaでは、ラテン語で“Cohors Helvetica Pontificia”という言葉を紹介していますが、このCohorsは古代ローマ軍団(レギオ=現在の連隊)の下部単位、現在の大隊に相当(ローマ軍では450~600人程度)。Helveticaは「アルプス山脈とジュラ山脈に囲まれた古代ヨーロッパ中央地域のローマ名」、つまりスイス西部。

 そしてPontificiaとは法王庁のことで、要するにバチカンのスイス傭兵隊のことなのですね。スイス傭兵は各国で雇われているので、この場合は、より一般的なSwiss Guard(英語版Wikipediaではこちらで出ています)が適当でしょう。もっとも、Guardといえば護衛兵(用心棒)のように聞こえますが、戦争には純粋の防衛等ありえませんから、その点はご注意を。

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 このあたりまでは農民による防衛戦争であり、学生の皆さんにも重々納得、理解可能な話かもしれませんが、ここまで強くなってしまうと、いろんな思惑が出てくることは避けがたい。

 他国の権力者からみれば、この“強兵”を金の力で動かせれば、これだけ心強いことはないはずです。そして、スイスには“金”が落ちる。要するに、“血の輸出”です。こうしてスイスの傭兵制度が始まります。何よりも、直属の軍隊を持っていなかったローマ法王庁がこれに眼をつけます。

 シッテンの枢機卿を通じて、1505年、教皇ユリウス2世(今日ではミケランジェロラファエロのパトロンとして知られていますが)はバチカン近衛兵としてスイス兵を雇用します(これが今日まで続いているCohors Helvetica Pontificiaの始まりなのです)。

 スイス当局としても、少ない国土、若者たちに分割相続すれば、みんな貧乏になってしまう。そのぐらいなら、若者を輸出して、仕送りで国を豊かにする(現代のフィリピンのような、出稼ぎ国家のはしりとも言えましょう)。そして、兵役が終わっても、戦いに慣れた兵隊にあまり帰ってきてもらいたくないから、一生、傭兵暮らしをしていてくれたら、その方がよい!  なんとも言えませんね。

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 スイス傭兵でとくに有名なのは、1477年、戦うことにしか興味を持てなかった最後のヴァロア=ブルゴーニュ家の当主、シャルル勇胆公Charles le Téméraire)が命を落としたナンシーの戦いです。

 勇胆公との通称はこのほか、豪胆公、無鉄砲公、突進公、猪突公、軽率公等と訳され、それを読めば、おのずとその性格がわかってしまうというものです。フランスとドイツの境のブルゴーニュ地方に、フランス王権と独立した国家の樹立(ネーションとステートの創設ですね!)をもくろむブルゴーニュ公国本来の野望に邁進した彼は、1477年1月5日、ロレーヌ公国ルネ2世との決戦で、名もない農民兵の戦斧に頭を割られます。

 戦場に積み重なった死体の山から、踏みにじられた死体となって見つかり、本人とわかるまで3日もかかったというこの戦いは、シャルル公の手勢4000~8000、相手はロレーヌ公が1万~1万2千、スイス傭兵1万。シャルルの大砲はほとんど効果がなく、歩兵同士の決戦は人数がものをいう結果となって、シャルルともにブルゴーニュ軍はほぼ全滅します。

 中世の華とうたわれ、豪奢な生活を誇りながら、Wikipediaには「現実的な計算や建設に適さず、情熱と使命感の赴くまま破滅に走った彼の生涯は「公益のための真実かつ大胆の闘士として」範例となり、年代記作家のフィリップ・ド・コミーヌやジョルジュ・シャトランの筆によって記憶された」と記されたシャルル。

 その彼の人生の幕を落としたのが、貧しさゆえに異国でいくさ家業にいそしむ農民兵であったこと。そして、決戦の勝敗を下賤な歩兵の数で決まったという結末は、いうまでもなく、ヨーロッパ社会の近代化への一歩なのです。

 そして、「中世的」的支配者=ヒーローとしてのシャルルが、フランス国内統一の最終的勝利をライバルである「遍在する蜘蛛」(l’universelle araigne)=人気のないが有能な支配者ルイ11世という近代的キャラに譲らざるを得なかった所以とも言えるでしょう。

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 さて、スイス傭兵に話を戻して、もちろん、悲惨な歴史にも事欠きません。1527年におきたローマ劫掠では、神聖ローマ皇帝カール5世の手勢である数万のランツクネヒト軍団(こちらは主にドイツ傭兵で、多くはローマ法王庁に敵意をもつルター派新教徒)に対して、189名のバチカン近衛兵がクレメンス7世を守って奮戦、147名が戦死します。

 さらに、フランス革命のさなかの1792年8月10日、フランス国王ルイ16世とその家族が滞在していたテュイルリー宮殿をパリ市48地区の代表が集まって結成した蜂起コミューンが王政廃止を訴えて、国民衛兵2000人もあわせた2万人が宮殿を襲います。

 これに対してルイ16世は積極的な反撃命令を出さず、動揺したフランス人の衛兵の多くは脱走、あくまでも忠誠を誓ったスイス衛兵約950名が防衛しますが、もちろん衆寡敵せず、大半が虐殺されます(その戦死者を悼むモニュメントの画像はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Pcs34560_IMG_10382.JPG)。

 無能な権力者に、契約を守って忠誠を尽くすのは割りにあわない。どうやら、傭兵稼業の黄昏がせまりつつあるようです。

 もっとも、このフランス革命の限定相続人たる皇帝ナポレオン1世は、状況を検討した結果、適切に防衛すれば(市民に大砲をぶっ放せば)ルイ16世は権力を取り戻すことも可能であったと結論しています。 これもまたすでに、「総合政策の名言集Part7:政治的発言#3(2010/11/26)」で紹介していますね。

 すなわち、ナポレオンが総裁政府に念押しした「諸君は、国民が同じ国民に対して砲火を浴びせてもよい、という許可を私にあたえてくださるのでしょうか?」という台詞です。

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 その一方で、スイスはもはや割に合わなくなりつつある仕事をなかなか止められない。すでに時代が、スイスの傭兵稼業を追い越しているのに! フランス革命がもたらした国民軍、すなわち国民国家が創り上げる国民皆兵/徴兵制によってできあがった士気も高い国民軍に、プロのはずの傭兵が勝てなくなっています。

 このあたりはすでに「総政をめぐるトピックスPart2:誰が“国家”を防衛するのか?:カッテンディーケの回想から、マキャベリ、キッチナーまで(2011/02/1)」でご説明済みですね。

 すでに、アメリカ独立戦争ではのちに大陸軍に成長する民兵(ミニットマン)たちが、イギリス国王派遣の将軍たちが率いるドイツ系傭兵たちを撃破しています。

 アメリカ独立戦争では、ドイツ出身のハノーヴァー朝の君主であるイギリス国王ジョージ3世は、義理の叔父のヘッセン=カッセル方伯から16000名(うち6500人が損失)、ヘッセン=ハーナウ伯からは2422名が渡米(981名を損失)、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール1世から5723名の兵士を調達(3015名は二度とドイツに戻らず)、アンスバッハ=バイロイト辺境伯から最初1644名(うち461名損失)なかった・・・・と続きます。

 歴史書にはたいてい“イギリス軍”となるのですが、イギリス人ではないのです! そのあたり、皆さん、国際感覚として是非覚えておいてください。こうして、『君主論』等でのマッキャベリの妄想(国民軍の創設!)が、実に、上記1792年8月10日のテュルイリー宮殿の惨劇で実現した、とも言えましょう。

 これらの傭兵=プロの軍人が、民兵あるいは訓練を受けた国民軍に負けていく、これがフランス革命とその後のフランス革命戦争まで、延々と繰り返されるシーンとなっていきます。と、このあたりでとりあえずto be continuedとしましょう。

住まいの人類学番外編:銀座をめぐる歌謡の話:「昔、恋しい、銀座の柳・・・・・」

2011 9/24 総合政策学部の皆さんへ

 住まいの人類学番外編として、銀座をめぐる歌を紹介しましょう。すなわち、地域文化論とでもいう分野でしょうか。始めこそ、「日本の風土に合わない」と不評の的であった煉瓦街も、やがて日本随一の繁華街になっていく。そうなると、そこに生まれるのは“歌”です。と言えば、皆さんのおじいさん、おばあさんの世代なら、誰でも知っているあの歌: 

  • 昔恋しい 銀座の柳  仇な年増を 誰が知ろ
  •   ジャズで踊って リキュルで更けて 明けりゃダンサーの 涙雨
  •  
  •  恋の丸ビル あの窓あたり  泣いて文書く 人もある 
  •   ラッシュアワーに 拾った薔薇を  せめてあの子の 思い出に
  •  
  •   広い東京 恋ゆえ狭い  粋な浅草 忍び逢い
  •     あなた地下鉄 わたしはバスよ  恋のストップ ままならぬ
  •  
  •    シネマ見ましょか お茶飲みましょか いっそ小田急で 逃げましょか
  •      かわる新宿 あの武蔵野の  月もデパートの 屋根に出る
  •  

 ご存じ『東京行進曲』で、西条八十作詞、中山晋平作曲、なんと日本の映画主題歌第1号(歌は佐藤千夜子;映画自体は無声映画だそうです)。戦前の銀座の実写付きのユーチューブ映像は http://www.youtube.com/watch?v=mJwu3CX0r-4 です。 

 銀座の柳はすでに明治期、イチョウに植えかえられ、1929年でも「昔恋しい・・」と唄われる存在でした。しかし、人々の心に強く印象付けられていたのですね。

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 「歌詞検索サービス 歌ネット」という検索システムで、「銀座 柳」で検索すると、30件ヒットしました。「銀座夜曲」「東京セレナーデ」「東京ロマンス娘」・・・・、私も知らない曲ばかりです。いかにもムード歌謡Japanese Tin Pan Alley(錫鍋小路)というところです。

 それでは、つい悪乗りして、三浦洸一歌う「東京の人」の1番の歌詞も紹介しましょう(佐伯孝夫作詞、吉田正作曲;1956年):

  • 並木の雨のトレモロ
  •  テラスの椅子でききながら
  •   銀座むすめよ なに想う
  •    漏らす吐息に うるむ青い灯
  •      しのび泣く 恋に泣く 東京の人
  •                  (以下、略)
  •   

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 さて、それでは『東京行進曲』でレポートを作ってみましょう! どんなテーマが考えられるでしょうか?

 まずは“ジャズ”、1929年の歌詞だとすれば、いったい日本にジャズが何時入ってきたのか? Wikipediaによれば、日本で初めてのプロのジャズバンドは1923年、神戸での旗揚げとのことです。それが大正天皇崩御の際に、大阪のダンスホールが閉鎖になったため、多くのジャズマンが東京に拠点を移したとのこと。ちょうど『東京行進曲』の頃に合致します(1920年代、すでにジャズは滔々たる流れとなっており、「一部で言われている`ジャズは明るい戦後文化の象徴`というのは間違いである」と、Wikipediaの筆者は強調しています)。

 そして、もちろん、この流行を、当時のレコード会社はどのようにビジネス化していったか? 社会史としても、ビジネス史としても、おもしろそうです。

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  次は、“丸ビル”でしょうか? かつて長いこと「東洋一のビル」として、日本の近代的ビジネス建築の代名詞だった、このオフィスビル都市計画に興味がある方も不動産業に進みたい方も、是非是非このビルに興味をお持ち下さい。当時は地下1階、地上9階、低層階を一般客に開放してショッピングモールとし、上層階をオフィスビルにする、今やあまりに当たり前になったこの種の建築の走りです。

 竣工は1923年2月20日、その半年後の関東大震災で被災、26年まで復旧補強工事が行われますが、第二次大戦の戦災を免れて、長らく日本のビルディングの代名詞になりました。歌詞では、“恋の丸ビル”とありますが、モボ・モガ(モダン・ボーイとモダン・ガール)は、低層階のモールで出会ったのかもしれません。

 東京駅のまん前という絶好の位置取りも手伝い、現在の「東京ドーム何杯分」と同じように、「丸ビル何杯分」と例えられた傑作です。現在は、日本建築学会の保存要望書も無視され、1999年に取り壊され、地上37階、地下4階の巨大ビル“丸の内ビルディング”と化しています(所有者の三菱地所の見識を疑うところですね)。

 ところで、この丸ビル建設の話を聞くや(もちろん、初代のです)、その一角を押さえて俳人正岡子規の友人柳原極堂創刊の俳誌『ホトトギス』の発行所としたのが子規の後継者高浜虚子。1923年1月のことです(現在は、上記の建て替えのため、三菱ビルに移転)。日本最大の勢力をほこった俳諧雑誌と丸ビルの組み合わせ、近代的雑誌出版経営者としての高浜虚子の面目躍如というところです。

 それにしても、「高畑ゼミの100冊Part9;食について#2『江戸たべもの歳時記』そして『仰臥漫録』」でご紹介済みの正岡子規、早すぎる晩年に向かって疾走する如く、食べ物を食い廻しながら、壮絶に死んでいった様を思い出すと、丸ビルとホトトギス、なんとも言えない感覚に襲われます。

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 このように、日本のオフィスビルの先駆、その経営、ショッピングモール・・・・・・、いくらでもレポートのネタ等転がっている、ものですが、三番目はもちろん、地下鉄にバス、そして小田急、急激に進む東京都内の公共交通、そして、郊外の田園都市、そして観光地と都心を結ぶ私鉄、これがレポートの3番目になるでしょう。

 ちなみに東京の地下鉄開業は、1927年12月30日、『東京行進曲』の2年前、東京地下鉄道による銀座線浅草駅と上野駅だそうです(銀座まで延伸したのは、1934年3月3日)。

住まいの人類学Part6:植え付けられた街、そしてその増殖#2~銀座勃興篇~そもそも銀座の道幅はどうやって決まったのか?

2011 9/21 総合政策学部の皆さんへ

 #1からの続編、銀座勃興篇です。まずは、誰が銀座煉瓦街を思いついたのか? そのあたりから始めましょう。

 思えば、たった20年前、ペリーによる黒船来航で日本中が湧きかえり、徳川幕府に政権統治能力がないことが誰の目にも明らかになり、外圧に対抗するためにすべてを投げうち、近代化に向かって猛進しようという時代でした。その間、様々な思い付きがあり、その思い付きをめぐって血みどろの争いも起きかねない。

 このきわに、和田倉門外に発生した大火災跡をみて、誰が“都市計画(明治中期の言葉では“市区改正”)”を発動しようとしたのか? 興味はありませんか。

 例えば、佐賀藩志士の上がりながら、初代東京府知事に任命された大木喬任が、江戸幕府倒壊のあおりで各藩の武士が四散、それにパラサイトしていた町民たちまで立ち去ろうとしてた江戸/東京で、あまりのことに山の手の武家屋敷を解体し、桑や茶を植えよう(!)とした「桑茶政策」を打ち出すのが明治2年8月20日です。

 大木は、30年後の明治31年、「今から思うと馬鹿な考えで、桑田変じて海となると云うことはあるが、都会変じて桑田になると云うのだから、確かに己の大失敗であったに違いない」とぼやきます(藤森照信『明治の東京計画』岩波現代文庫版より)。

 それにしても桑と茶、ようするに当時の日本が外国に輸出できるごく少数の商品の栽培。そこからたった3年後、誰が銀座を考え付いたか?

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 その一方で、新政府のプランナーたちは動きも俊敏、方向転換も素早い。明治5年、東京はすでに「桑茶計画」を捨て、東京に変わるべく、「役者たちは幕の上がるのを待っていた」のです(藤森)。明治5年2月26日の大火の後、いったい何時、誰が言い出したのか? 

  これには、当時の府知事由利公正や大蔵大輔井上馨等が後世「自らが・・・」と手柄の取り合いをするも、建築探偵テルボこと東大前教授藤森照信によれば、それは、大火直後の大蔵省から太政官あての上申が決定的とのことです。以下、テルボの提出する証拠です。 

  • 大蔵省上申 二月
  •  昨日渋沢従五位参朝の節、御設論有之候東京府下の家屋建築の方法、火災を可免(まぬがれる)ため往来を広くし、煉化石を取立候様為致候わば、必此程の如き火災の憂(うれい)有る之間敷(まじく)、実に至急の儀に月、東京府とも申合、早々見込可申出趣拝承仕、尚勘考仕候処、右は所詮町人共軒別地力を以て[不]可行届事に有之候間、貸家会社の方法を設け、衆力を協同し築造可為致他無之と、夫是勘弁の上、昨夜東京府権参事三島千木に談判、同人も同意いたし・・・
  •  

  藤森訳では「昨日太政官に出向いた大蔵少輔渋沢栄一は、太政官より大火防止のため東京ふと語らって道路回生と煉瓦造化の煮方策を立案するように命じられた。渋沢はあれこれ考えたが、煉瓦造化は町人各々の手にあまるから新たな建設組織(東京借家会社)を創設する他あるまい、とまで考えて、その夜の内に府権参事三島通庸に会って、太政官より命じられた二方策を告げたところ異存はなかった・・・・」。

 藤森はさらにこの解釈が三島の伝記によっても裏付けられるとして、基本的発案者を当時の新進政治家たち(大隈重信、井上馨、伊藤博文、五代友厚)としています(今思うと、すごいメンバーですね)。

 そしてこれが、文字通り、旧江戸諸都市の大幅改造になる一連の大計画の端緒となるべきものでありました。時に、3月2日(大火の4日後!)には、煉瓦街建設をつげる府令が公布されます(「今般府下家屋建築之儀、火災を可免之為め、追々一般煉化石を以て取建候様・・・・・・」『明治壬申布達通書』)。

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 さらに、皆さんお気づきでしょうが、渋沢の提言には「貸家会社」=「建設組織(東京借家会社)」が登場する。つまり、半官半民のデベロッパーです。学生の皆さんもこうした世界(不動産業・都市開発)に目指す方は、是非、この渋沢の構想力に学んで下さいね。藤森によれば

 政府と民間の出資を元手とする一種の株式会社といってよく、煉瓦家屋を建てて15年賦で民間に払い下げ、返済利子を次の建設費に回して次々に煉瓦造を拡げることを目的としていた。

 A氏が間口2(2×1.8m=3.6m)の土地を銀座二丁目に借り、奥行き五間の新店舗を作りたいと考えたとしよう(2間×5間=10(坪は1間四方)=33㎡)。すると会社は、これを受けてウオールトスの建築規則にしたがい一等煉瓦家屋を建て、A氏に貸し渡す。

 入居したA氏は、地主に地代を払う一方、建設費1500円(当時の金の値段を換算すると、990万円ほど?)に利子を加えたものを15年で割ったその12分の1に当たる12円60銭を月々会社に納め、そして15年後、満額2268円を払い終えた時点で、家屋の所有権を会社から譲られる。

 会社の方は、A氏からの返済利子を配当と新規家屋に回して事業を伸ばしていく。借家会社とはいえ恒久的な貸家経営をしようというのではなく、ねらいは煉瓦造化を民間会社ベースにのせて進める点にあった。

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 それにしても、2月26日に大火、3月2日に煉瓦街建設布告、銀座街建設の主役にして何でもこなす渡り職人トーマス・ジェームズ・ウォールトスによる建設計画発表が3月13日、その間に渋沢はこの建設計画を支える会社組織を考えていく!

 明治人の構想力、そして(ほとんど蛮勇とでもいうべき)実行力たるや圧倒的です(どうして、これを後世の政治家・官僚が受け継がないのか? と云う点については、どなたも慨嘆することと思いますが)。

 もちろん、こんな計画がすんなり通るはずがありません。現代と同じく、まずは金策=財源です。反対派は当時の府知事由利公正、渋沢の構想のうちの“民間資金”として、江戸期に設けられた半官半民の組織、町会所に積み立てられた積金(七分積み金)の扱いをめぐり、対立します。

 何時の世にも、すべては金、モームの云う通り、「金は第六感のようなもので、これが無いと他の五感も動かない」。

 資金をめぐる渋沢と由利の主導権争いで、数カ月が虚しく過ぎます(これについても、どうして政治家・官僚は同じ轍を踏むのか、とどなたも慨嘆されることと思います)。しかし、中央政府での根回しで、由利は気付くことなく「洋行」を餌に誘いだされ、由利が構想した東京バンクは停止、積み金を握っていた町会所は解体。

 「宙に浮いた豊かな遊休資金は、渋沢が受け止め、街路回収を目的とする東京営繕会議所を設立した」。当時の金で170万両がこの整備基盤事業に転用されます。

 しかし、渋沢・井上の欧化名コンビも明治6年に政変で失脚、井上馨とともに官を去った渋沢は(その後、二度と官にもどらず、実業界に邁進することになるのですが)、営繕会議所の会頭におさまり、銀座街のガス灯舗装にたずさわります。

 その一方で、煉瓦造化は、渋沢の発案の借地会社はあえなく挫折、建設局が官費を用いて直営施工する「官費官築」と、建設費を自弁できるものが建設を官に依頼する「自費官築」のケースに分かれます(藤森、前掲書) 。

 この結果、全銀座を統一したジョージアン・スタイルで装う当初の目的は達成できず、やがて和洋折衷型の家々も目立つことになります。

 なお、渋沢栄一はこのブログですでに異文化に出会う時:日本人はどのようにして異なる食文化に出会ったか?Part2~村垣淡路守から渋沢栄一まで~」で取り上げていますが、覚えていらっしゃいますか?

 そう、生まれて初めての異文化に仰天した安政7年の遣米使からたった7年後、横浜港からフランス郵船アルヘー号に乗船した旅日記『航西日記』で、悠揚せまらぬ旅巧者ぶりを発揮する“日本資本主義の父”渋沢栄一です。そして、半世紀後には田園調布までかかわる、渋沢の都市計画との長いつきあいの始めが銀座なのです。

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  しかし、現場は何から何まで決めねばなりません。例えば、銀座の道幅、道路の幅員をどうするか? ここで激論が起こります。

 ややパッパラパー気味の由利は後年、「外国都市の道幅を聞き合わせたら、紐育(ニューヨーク)は24間程で、倫敦(ロンドン)は25間、華盛頓(ワシントン)も矢張り24軒であった。

 そんなところからあの銀座大通を25軒にしてその他の中小路を12間と8間位とかにしたら宜しかろうと云うた・・・皆が笑ってそんなに道幅を広げてもその必要がないという・・・・我が国の田舎街道は4間で、江戸は8間というのが定めで、それで8間を加えて12間とすれば十分であるという事であった」。

 一方、井上は「東京府知事(=由利)が、あんな馬鹿な広い街を造ってどうするつもりかと云って、大変な反対を受けた」等と、証言は混乱するものの、どうやら「おそらくこれと云った決めてもなく、仲をとるようにして大通り15間に落ち着いたものと思われる。これを基準にして、大通りと交差する数寄屋橋通りは10間、そのほかの横道、裏通りは8間、裏小路は3間と順次下げて行く」(藤森、前掲書;資料は明治5年3月発布の銀座煉瓦街建築規制)。

 こうして銀座大通りは15間=27mとなりますが、現在の道幅もやはり27m、なんと明治5年にいかにも日本的に「仲をとって」きめられた道幅が、そのままなのです。

 ちなみに、関東大震災後につくられた昭和通りは、後藤新平の初案はこれまた108mでしたが、やはり反対で24間(43m)に縮められてしまいます。

 さらにいにしえの記録を探れば、平安京朱雀大路はなんと28条(1条は10尺=3.03mということで84m)でした。横断するのも時間がかかりますよね。

 こうして、近代国家は道の幅まで統一化した方がよい、ということに気付き始めた新政府は、明治9年、太政官達によって国道、県道、里道を定めます。

 このうち、国道は全てが東京日本橋を起点として、一等国道、二等国道、三等国道の三種に分けられ、幅員はそれぞれ七間(約12.7m)、六間(約10.8m)、五間(約9m)と定められたとのことです(Wikipediaによる)。

 それはともかく、当時としてはとてつもなく広い銀座通り、明治6年の写真では、マツ、カエデ、サクラの街路樹を植えますが、歩道ではなく、車道に植えてあるのが御愛嬌。

 当時、湿気が多くて、マツ等は不向きで、やがてヤナギに植えかえられます。これが有名な「銀座の柳」になるわけです。と、まあ、このあたりでto be continued・・・・・・・としましょう。

ヒーローと悪役について:映画その他を紹介しましょう番外編&アメリカ文化についてPart1

2011 9/16 総合政策学部の皆さんへ

 再び映画の世界にもどって、アメリカ文化の象徴、ハリウッド映画に代表されるアメリカ映画のヒーローとヒールについてご紹介しょましょう。いわばアメリカ文化紹介編ですが、資料として「アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100」(Wikipedia)を使いましょう。

 これはAFIアメリカ映画協会)が1998年の“アメリカ映画100周年”を記念して、その後毎年選定している「AFIアメリカ映画100年 (AFI 100 Years… ) 」シリーズの一つで、2003年6月に発表された「100 Heroes and Villains」です。最も偉大なるヒーローと悪役それぞれ50名を選ぶと云うリストです。これを見れば、アメリカ人が誰を“ヒーロー”を見なしているか、即座にわかってしまう、かもしれません。

 ということで、誰がトップでしょうか? ちょっとわくわくしますね。 まず、ヒーローの上位10位までご紹介しましょう(なお、10作のうち、私が映画として観たのは6本、そのほか原作の小説を読んでいるのが1本です。それと、ショーン・コネリー演じるジェームズ・ボンドはシリーズの別の作品で観ています)。

 これを見てぱっと、パターンがわかる方はいらっしゃいますか? すぐわかりますね。とくに1位が『アラバマ物語』の主人公フィンチ弁護士というところは、素朴なアメリカ人への尊敬のまなざしを感じます。 ストーリーを紹介すると、

 人種的偏見が根強く残るアメリカ南部で、白人女性への暴行容疑で逮捕された黒人青年の事件を担当する弁護士アティカス・フィンチの物語。当時の出来事を、後に成長した娘のスカウトが回想するという形式をとっている。

 「物語はアティカスが担当した裁判を中心に展開するが、この作品は単なる法廷ドラマに終わらず、子供の視点から見た大人の世界や、周囲の人々に対する純粋な好奇心などをノスタルジックに描いている。

裁判の日。陪審員は全て白人という被告にとっては絶望的な状況で、アティカスは滔々と弁護を開始する・・・」。(Wikipedia

 実直で、主義のために右顧左眄せず、黙々と自分の果たすべき仕事をする男=歌舞伎で言えば言うまでもなく立役中の立役、実事の世界です(立役について詳しくは、「芸術家たちPart2:俳優の“我儘”と“憂鬱”後編:歌舞伎の和事、実事、荒事とは?(2011/05/26)」をご参考にして下さい)。

 それにしてもアラバマ物語とは渋いですね。南部出身の女性作家(そして、ついにこの一作で終わってしまう)ハーパー・リーの原作です(リーは作家トルーマン・カポーティの幼馴染で、この小説に出てくる少年の一人はカポーティがモデルだそうです)。

 実は、私は小学校の頃に、『暮らしの手帳』に連載されていた翻訳を読んだだけで、映画は観ていませんがこれが、アメリカ映画最高のヒーローだと云う点については、アメリカ文明を見直してもよいかな、とちょっとそんな気にさせる作品です。なお、グレゴリー・ペックはこの演技で第35回アカデミー主演男優賞を獲得(ほか、脚色賞、美術賞も受賞)。同年の映画では、ヒーローの第10位、アラビアのロレンスを抑えての堂々の受賞です。

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 さて、この実直で果たすべき仕事をする男のパターンは、第5位の保安官ウィル・ケインに通じるかもしれませんし、(残念ながら私は観ていませんが)第9位のジェームズ・スチュアート演じるジョージ・ベイリーにも共通するでしょう。ペック、クーパー、ステュアートは(少なくともその中年以降は)まぎれもないアメリカ映画の“善玉”としての立役者なのです。

 ちなみに同じような役者にヘンリー・フォンダがいますが、彼は第12位『怒りの葡萄』、そして第28位『十二人の怒れる男』で主役を張っています。なお、50位中にもっとも多くランキングされたのはクーパーの3作です:面白いことに、クーパーの他の2作、25位の『打撃王』は実直なヤンキースの大スタールー・ゲーリック、そして第35位の『ヨーク軍曹』は第一大戦の英雄アルヴィン・ヨーク軍曹でどちらも実在の人物です(つまり、実在のアメリカ人の英雄を再現して感動を与える点でも、稀有な俳優かもしれません)。

 一方、“陰のある実事”というべきか、実直さだけではこの世はやっていけない、しかし、人として生きるべき道を守らなければ、生きている値打ちがないこともまた知っている。それが第4位『カサブランカ』のリック・ブレインです。演じたハンフリー・ボガード生涯の当たり役となったハード・ボイルド型ヒーローです。

 『カサブランカ』の数年後に演じるチャンドラー原作の映画『三つ数えろ』で演じるフィリップ・マーロウとともに、ボガードのヒーロー的側面が炸裂する作品です(一方で、偏執狂的な側面として『ケイン号の反乱』で精神に異常をきたした艦長、あるいは『必死の逃亡者』の凶悪犯等も演じられる、多彩な俳優でした)。なお、『三つ数えろ』の主人公マーロウは第32位で、ボガードはリスト中2作でランキング・イン。

 そのほかにとりあえず気付くことと言えば、上位10名中、実在の人物はT.E.ロレンスだけですね。西部劇は『真昼の決闘』のひとつだけ(意外と少ない!)、SFも『エイリアン』の一つだけ。

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 次はどのタイプかというと、第2位のインディアナ・ジョーンズと第3位のジェームズボンドが冒険・活劇者の主人公、いわゆるわかりやすいヒーローですね。つまりは、荒事師ですね。江戸歌舞伎ではヒーローの荒事師が、アティカス・フィンチという実事に及ばない。これがアメリカ文明の一つの側面です。

 この活劇者のヒーローは、10位以下だと、第14位ハン・ソロ(『スター・ウォーズ』(ハリソン・フォード)、第18位ロビン・フッド(『ロビンフッドの冒険エロール・フリン;懐かしいと云うか、実は第2次大戦中はナチス・ドイツのスパイであったともささやかれている色男フリン-なお、“フリン”という名字はアイルランド系(国籍はオーストラリア人)で、アイルランド独立戦争の先駆イースター・ライジングでは、第一次大戦中のイギリスの敵国ドイツを頼ろうとしたこともあるなど、アイルランドとイギリスの微妙な関係を考えれば、それもわからなくはないかもしれません)。

 一方、陰のある活劇者のヒーロー、実は影があるというよりもエキセントリックだというべきでしょうが、それが第10位アラビアのロレンスです。欧米人から見れば、オスマン帝国に対するアラブ人の反乱を支援して、アラブ諸国独立に尽力した英雄ですが、アラビア人からみれば「そういえば、そんな男がうろうろしていたが、所詮はイギリスの国益のため、アラブ人を利用しただけの男」と見られている、かつ、自分でもそれを薄々とは感じないわけにはいかない、そんな複雑な男もまた、ハリウッド映画ファンからはヒーローなのです。

 国際政策、とくに乱れに乱れている中近東の現実を第1次大戦から勉強したい方は是非、映画ならびにロレンスの主著『知恵の七柱』、あるいは彼をアラブ側から評価するスレイマン・ムーサ(牟田口義郎訳)『アラブが見たアラビアのロレンス』 (中公文庫)をご覧ください。

 なお、ロレンスはヒジャーズ地方を支配していたハシーム家を支持しますが、第1次大戦後、ハシーム家は(もう一人のイギリス人 “intelligence officer” ジョン・フィルビーが支持した)サウード家に敗れて亡命します。また、皇子たちはそれぞれイラク、ヨルダン等に王朝を開きますが、イラクは革命にあって3代目で滅亡(最後のファイサル2世は射殺されます)、現在続いているのはヨルダン・ハシーム家だけです。

  ついでに言及すると、このジョン・フィルビーの息子でケンブリッジのトリニティ・カレッジ(2008年段階でノーベル賞受賞者31人)という名門中の名門に進学し、イギリス諜報機関(MI6;ヒーロー第3位のジェームス・ボンドはここに所属しているという設定でしたね)に入りながら、実は在学中に学友たち(Cambridge Five)とともにマルクス主義にそまり、ソ連の諜報員にスカウトされるのが“頑固者”キム・フィルビーです(本人の述懐「ソビエトのエージェントとなることに一秒の迷いもなく、大きな名誉だ」;Wikipediaより)。

 結局は発覚、ソビエトに亡命してベルリンの壁崩壊の前年、幸福なことに社会主義崩壊の現実を知ることなく天寿を全うしますが、数々のスパイ小説にインスパイアを与え、また実名でも小説に登場する等、まったく波乱万丈の生涯です(そして面白いのは、この思想を曲げなかった祖国への裏切り者を、イギリス人は必ずしも嫌いではない事です)。

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 そして、アメリカ人が大好きなもう一つのアーキタイプであるスポーツ選手代表、つまり完全マッチョなキャラが、言うまでもなく「イタリアの種馬(Italian Stallion)」」ことロッキー・バルボア。“ロッキー”という一つのキャラ、アーキタイプを作ってしまっともいえましょう(その流れは、クリント・イーストウッド監督の『ミリオン・ダラー・ベイビー』まで続いていると言えます)。

 チャンスを与えられた「三流の人物」が、突如目覚めて、真のヒーローに変身する。とはいえ、この頃のロッキーには素朴、純粋、不器用(とくに好きな女性に対して)という、“立役”タイプの要素もあったかもしれません。

 また、この映画自身が、「映画のオーディションに50回以上落選していたスタローンはポルノ映画への出演や用心棒などをして日々の生活費を稼いでいた。長い極貧生活を送っていたある日」、世界ヘビー級タイトルマッチ「モハメド・アリチャック・ウェプナー」戦でのウェブナーの善戦からヒントを得て、たった三日で脚本をしあげ、映画会社に売り込み、自らの主演を勝ちとるという“伝説”に彩られた映画であり(どこまでが本当か、誰も知らない)、アメリカ人のマッチョ・下流からの成りあがりというアーキタイプとなります。

  ちなみに、古い映画を見ていると、売れなかった頃のハリソン・フォード(例えば、『カンバセーション』)やスタローンがちらっとだけ顔を見せたりして、おお!と思ったりします。スタローン等、出てきた次の瞬間には撃ち殺されていたりしています。

 しかし、あらためてふりかえれば和事、つまり二枚目がいない。『アラビアのロレンス』のピーター・オトゥールは二枚目に近いと思いますが、映画自体に“女っ気”が全然ありません(なにしろ、砂漠でラクダを駆って、トルコ軍を殺しまくる、という映画ですから)。『スター・ウオーズ』でのハリソン・フォード演じるハン・ソロはちょっと二枚目的ですが、あの映画の二枚目は当然主人公ルークでしょう。

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 最後に、もう一つのヒーロー像、すなわち“つよい女性”、この“つよい”を“強い”とするか、“勁い”とするか? 私の感覚だと後者かな? とりあえず、10位以内に堂々のランクインは『羊たちの沈黙』のクラリス・スターリングと、『エイリアン』のエレン・リプリー 、どちらも硬質の“戦う女”です。

 もっとも、リプリーがシリーズを重ねるごとにどんどん強くなっていく(もはやアンドロイド化するとでも言いましょうか)のに対して、クラリスは心にコンプレックスをいだきながら、不安のなかで凶悪犯人喰いンハンニバルからの教えと愛情のもと、次第に強くなってくる、その成長の物語と云う性格も漂います。Part2のネタばれでもありますが、『羊たちの沈黙』はヒーロー第6位、そして悪役第1位(ハンニバル)を輩出した稀に見る映画、とも言えるかも知れません。

 ちなみに10~50位にランクインした女性ヒーローについて紹介すると、第15位に第52回アカデミー賞で主演女優賞を勝ち取ったサリー・フィールド演じる『ノーマ・レイ』=生活のために必死で働く女性が、やがて“働く者の権利”にめざめ、組合運動に邁進するという社会派映画。男性ヒーローにおける実直な社会派立役=“素朴なアメリカ人”であるペック、クーパー、ステュアート、フォンダらに対応しているかもしれません。個人的には、最近はやりの“茶会派”より、こちらの方が“真のアメリカ文明”を体現していると思うのですが。なお、サリー・フィールドは第57回アカデミー賞で『プレイス・イン・ザ・ハート』でも主演女優賞を獲得、こちらもテキサスで自分の農地を守ろうとする農婦をめぐる実直な人間ドラマです。

 一方、第24位の『テルマ&ルイーズ』は、これがヒーローなのか? なんと7名の男性を殺害した「連続殺人犯人犯アイリーン・ウォーノス元死刑囚とその恋人ティリア・ムーアの物語」がモデルです(大きく脚色されていますが)。後年『モンスター』で再映像化、シャーリーズ・セロンがそれまでのステレオタイプの美女役から脱して、アカデミー主演女優賞を獲得したことでも知られています。

  ところで、同じように男性犯罪者がヒーローなのは、第20位『明日に向かって撃て』のブッチサンダンスぐらいですね。アメリカ人は、犯罪者をヒーローとすることにはためらうかもしれません。一方、たとえばフランス映画で同じ趣向で選べば、『太陽がいっぱい』のトム・リプリーは選ばれるでしょうかね? 少なくとも『現金(ナマ)に手を出すな』のジャン・ギャバンは選ばれそうな気がします。ところで、『テルマ&ルイーズ』と『明日に向かって撃て』の二つは、逃げながら犯罪を犯し続けると云うロード・ムービー的側面も持っているようです。

 続いて、50位以内に実在の女性をテーマにした映画が二つ続きます。第31位がこちらは「正式な法律教育を受けていないにも関わらず、1993年にカリフォルニア州の大手企業PG&Eを相手取って訴訟を起こし、3億3千3百ドルの和解金を勝ち取った女性」エリン・ブロコビッチを描く映画『エリン・ブロコビッチ』。法廷でのロッキーというところですね。

 そしてやや離れて第47位に、アメリカのプルトニウム疑惑において「原子力関連企業のカー・マギー社 (Kerr-McGee Corporation) の核燃料製造プラントで行われていた、安全規則違反と不正行為を巡るスキャンダルの中、28歳で謎の死をとげたカレン・シルクウッド(いわゆるシルクウッド事件 Silkwood Incident)が入ります。  

 この二人がヒーローに認定されるところが、アメリカ人の良識を信じたくなるところでもありますし、また、単なる人気投票として、時がたてばまた変わってしまうのでは、と不安になるところでもありましょう。

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 とここまでいったところで、まだまだヒーロー像さえ終わりません。このあたりでいったん打ち止めにしましょう。ところで、これがどうやらこの研究室ブログでは200番目の投稿のようです。

市の人類学番外編:異文化交流の場としてのマーケット#2

2011 9/12 総合政策学部の皆さんへ

 前篇では神戸南京町上野アメ横センタービル地階を紹介しましたが、それ以外にも身近に、異文化交流というか、異なる社会の接点としての市というものがいたるところに存在しています。そのあたりを少し調べたら、、まちづくり等、いくらでもおもしろいテーマが見つかると思うのですが。

 例えば、京都に「出町」という地域があります。京阪の駅だと「出町柳駅」、七条駅から地下にもぐる京阪電鉄の終点、地上に戻って、叡山電車に乗り換えの駅ですが、鴨川高野川と賀茂川にわかれる合流点を西にわたると、そこは出町桝形商店街です(http://masugata.demachi.jp/)。

 この「出町」とはどんな由来なのでしょう。あるHPでは

  •  「この「出町」という地名の由来についてはいろいろ説があります。そのひとつに古くから東海道・山陰道・西国街道など、京都を起点・終点とする街道が発達し、多くの人びとが往来していたことに理由があるようです。
  •  若狭から京都へ至る多数の街道や峠の中でも、もっとも盛んに利用されていた道は、小浜から上中町の熊川宿を経て滋賀県の朽木を通り、 京都の大原から出町柳に至る「若狭街道」です。この道は、日本海の海の幸、とくに名産の鯖(さば)を運んだ街道で、 昔から通称「鯖街道」といわれていました。
  •  ちなみに、若狭から運ばれたひと塩の鯖は、京の都に着く頃には調度よい塩加減になっていたそうです。鯖街道の京への出入り口は 「大原口」(おおはらぐち=現在の寺町今出川・大原口町)といいます。
  •  行商人などが出入りする町として栄えたことから『京の町を出る主要な街道への出入り口』つまり『人や物が出入する町』だから「出入町」と呼ぶこととなり、 それがいつしか「出町」と呼ばれるようになったそうです(http://www.itohkyuemon.co.jp/site/kyoto/tuu87.html)。
  •     

 とありますが、ここは素直に、昔は「京都の町を出るところ」、あるいは逆に「京都の町へ入るところ」と思った方が良いのではないでしょうか。

 つまりは、「町の文化」と「村の文化」が出会う場所だったのです。今やほとんど顧みられませんが、この出町柳からは、高野川の川筋からすこし東にずれて、北に向かうのが旧大原街道、つまり、大原女(おはらめ)が薪を売りに、あるいは鯖街道として裏日本の魚介類が京都に運ばれる道すがらでした。

 私が学生生活を送っていた頃は、この桝形には鞍馬の佃煮(木の芽煮、きゃらぶき、葉唐辛子等)を売る店や、逆に(現在でも残っていますが)種屋さんがあって、おそらくはその昔、薪や柴漬、佃煮を売りに町まで出てきて、そしてなにがしかの鳥目(ちょうもく)に替えて、その銭でまた作物の種を買って、また一条寺、修学院大原倉に帰って行ったのではないかと思っていました。こうして、町民と村民が出会うところ、そこが出町だったのではないかと思います。

 現在は、桝形の地下には駐車場ができ、佃煮屋があったところはコンビニ付きのビルと変わり、種屋の“タネ源”も、どちらかというと花屋的な雰囲気も漂わせるようになり、随分変わってしまった印象です。

 この出町桝形商店街から同志社にややよったあたりに、古くからの“ももんじ屋”の風情を残した、改進亭総本店がありますが、、いわゆるジビエを扱う名店です(昔、京都にいた頃は、クマ肉100gr900円、シカ肉同800円等だったかと覚えています;HPはhttp://www.kaishintei.demachi.jp/)。このあたりの肉も、昔は鞍馬のあたりから運ばれてきていたのでしょうか?

 甘いものが好みならば、河原町通りに面した「京の生菓子 出町ふたば」がお薦めです(列がすぐにできます;名代豆餅、田舎大福等)。

 なお、“桝形”とは、本来、城郭の出入り口を防衛のため複雑化して、門の内側あるいは外側に方形の空間を設けて、そこに突入した寄せ手を3方から攻撃するという桝形虎口(こぐち)に由来する言葉で、出町の場合、1590年代に太閤秀吉が築いた御土居の桝形の形がそのまま残っていたことによるといわれています。

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 さて、こうして人々の動きにあわせてできる市場、アラビア語ではスークsouq、سوقsūq)ですね。東アフリカに広がるリンガ・フランカ(共通語/通商語)のスワヒリ語では、アラビア語がなまってソコ(soko)になります。Wikipediaでは、以下の5種類に大別できるとしています。

  • (1)一般的スーク(伝統的市場)
  • (2)スーク・ル=ハール(政府公認青物市場)
  • (3)スーク・ル=ジュムア(定期市)
  • (4)季節市
  • (5)スーク・ル=インタージュ(年一度の地場産品市)
  •  

 この伝統的スークとは、もともとはキャラバン(隊商)が通る道に定期的に立つ市で、祝祭空間でもあったものが、やがて恒久的なスークが登場して、英語の「マーケット(market)」とほぼ同意になったとのことです。アフリカの市場については、「“市”をめぐる人類学Part1:アフリカ等で市場を見ながら、経済人類学から都市・国際政策まで考える(2010/11/27)」や「“市”をめぐる人類学Part2:アフリカ等で市場を見ながら、経済人類学から都市・国際政策まで考える(2010/12/19)」等で詳しく紹介しているので、そちらをご参照ください。私が昔よく言っていた、西部タンザニアのキゴマのSoko(1992年撮影のようです)の写真が出ているHPがあります。画像はhttp://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/019/827/27/N000/000/002/130771435099916406615_mahare02soko.jpghttp://mahale.main.jp/chimpun/013/013_Fig04.JPG

 そして、本来ソコは多民族が集まるところ。私の知り合いのトングウェたちは、キゴマの町では“田舎者と見られがちでしたから、30年も前は、町に行くだけであこがれなのですが、町につくと馬鹿にされないかと思って、緊張しっぱなしでした(もちろん、今はそんなことはないと思いますが)。

 ソコはオープンな感じですが、アラビア文化圏ではショッピングモールのように恒久的な建物の中に、小さな店舗がぎっしり並ぶ商店街もあります。言葉にするとペルシャ語ゆかりのバザール(bazaar)がふさわしいでしょうね。私は、インドネシアのメダンで初めて目にしました。まるで迷路のような道筋の両則に、様々な店が軒を連ねている。皆さんもそういう場所にいったら、是非、迷い込んでみて下さい。とはいえ、安全にも気をつけて。子供がしつこく寄ってきたら、スリだったりすることも実際よくある話です。すくなくとも、ザック類は背中にしょわず、カンガルースタイルでお腹の方にまわしましょう。

ピュロスの勝利:あわせて戦略と戦術の違いについて#1

2011 9/8 総合政策学部の皆さんへ

 本日は、ヨーロッパの軍事学で言うところの“ピュロスの勝利(Pyrrhic victory)”=“割にあわない勝利”=“勝つには勝ったが、払った犠牲に釣り合わない”を紹介しながら、戦略(Stragety)と戦術(Tactics)の違いもあわせて説明し、軍事ならびにビジネスの双方についてケース・スタディを展開しよう、という、我ながら大胆なというよりも、身の丈に合わぬ話になりそうです。

 ところで、この言葉の語源ピュロスは、古代ギリシアのエペイロスピュロスに由来します。“割に合わない勝利者”、あまり結構なネーミングとは思えませんが、どんな方かと言えば、「マンガ(コミック)で世界を知ろうPart2:ヒストリエ」(2011/05/22投稿)でご紹介したアレキサンダー大王ことアレクサンドロス3世の母オリュンピアスの弟の家系なんですね。

  オリュンピアスはすでに『ヒストリエ』でも全開で活躍中ですが、嫉妬深く、夫ピリッポス2世を暗殺したとも、大王の死後、大王の異母兄ピリッポス3世[別名アリダイオス]やその妻エウリュディケ2世をも抹殺したとも言われる方です。そして、そのすさまじい人生の果て、自らもディアドコイの一人カッサンドロス朝の創始者カッサンドロスに殺されます。

 と言ったところで、わかりましたか? 高校の世界史等ではあっという間に通り過ぎるあたりですが、映画『アレキサンダー』ではアンジェリーナ・ジョリーが演じたオリュンピアスの家系と思えば、なんとなく納得するような気分になるかもしれません。是非、その図像化された姿を『ヒストリエ』でご覧下さい。

  ピュロスの家系を正確に紹介すると、オリュンピアスの弟であるエペイロス王アレクサンドロス1世(Alexander I of Epirus;大王と同じ名前です。混同しないようにして下さいね)の死後、王位はその従兄のアイアキデス(Aeacides)に引き継がれます。しかし、アイアキデスが出征中に反乱がおこり、その兄のアルケタス2世(Alcetas II)が王となります。しかし、人望がなく結局殺されてしまう。

 こうして、かつて2歳で父ともども追放されたAeacidesの幼い息子が、12歳でエペイロス王に返り咲きます。これがピュロスで、アレクサンドロス大王のまたいとこにあたります。しかし、戴冠後も17歳で反乱にあい、ふたたび亡命の身となるなど、有為転変甚だしく、かつ、不幸な幼少生活のためか、一生を戦争家業で費やすという、“傭兵隊長”の走りとなってしまうなど、人生は最後の最後までもつれます。

 50代での死について、「市街戦の最中に名もない女性に瓦を落とされ気絶したところを殺された。また、一説によると使用人に毒殺されたともされる(Wikipeidaより)」ということです。やっぱり、一生がんばったのに、結局は、割に合わない人生だったわけです。 

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  さて、ピュロスが世界史的に有名になるのはローマがらみです。アレクサンドロス大王の野望がつぶれ、広大なアレクサンドロス帝国をめぐって、部下=後継者たちの互いの血を求めての殺しあいの果て(ディアドコイ戦争ですが)、生き残った者たちはそれぞれ権力を確保します。しかし、そこに新興国、ローマ共和国がひたひたと近づいてくる。

 ローマ人たちのある者は途上国むき出しのあこがれでギリシア文明を渇望し(その筆頭がハンニバルを破った大スキピオ)、ある者は逆に軽佻浮薄なギリシア文化を嫌い、素朴なローマ文明を守ろうとしながらも(これが、スキピオの政敵大カトー)、いずれにせよローマにとって邪魔な相手、あるいは征服すべき者たちとしてアレクサンドロスの末裔たちを滅ぼそうとする。

 その末裔たちの最後の一人が、アレクサンドロスの部下でエジプトを領土としたプトレマイオス王朝最後の女王クレオパトラ7世なのです。

 なお、“ピュロスの勝利”については、「高畑ゼミの100冊Part16:ジュディの読書案内(『あしながおじさん』に見る20世紀初頭のアメリカ女子大生の読書から#1)」(2010/06/1)も参照して下さい。

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 ピョロス君の場合、生まれたのが紀元前319年、いったん反乱で追われたエピロスに戻って王位についたのが307年(12歳)、そこを再び追われたのが302年(17歳)、そしてやっとの思いで再度復権したのが297年。そこで、まだ20台の若い王は、偉大なるアレクサンドロスを意識してか、自らの職業に「戦争稼業」を選びます。そしてそれはちょうどローマの魔手が周辺に伸び始めた頃にあたるわけです。

 このような状況下、ピュロス君のイタリア半島でのデビューは、新興国ローマの侵略を恐れる半島南部の都市国家タラス(現ターラント)からの支援要請がきっかけです。もちろん、それは義侠心などではなく、狭いギリシアを飛び越えた大帝国への野望でありましょう。そして、大王をめざして、大望をはたすべく遠路イタリアに上陸、初めて新興国ローマ軍を目にしたピュロスが口にした台詞は、ローマの世界史登場を劃する名台詞、ローマ勃興へのはなむけの言葉となります。

  あの蛮族(=ローマ軍)は陣形を見る限り野蛮ではないようだ

 ピュロスの手勢は3000人の騎兵、2000人の弓兵、500人の投石手、20000人の歩兵に加え、20頭のゾウ(戦象;エジプトのプトレマイオス2世からのリース=もしもローマ軍に勝ち続ければ、もっと数を増やせるリース契約になっていたようです!)。これに6000人のタラス兵などが加わります。対するローマ軍は騎兵と槍兵をあわせて約3万人。

 しかし、生まれて初めてゾウを見たローマ軍は仰天してしまい(誰でもそうですよね)、280年、ヘラクレアの戦いで撃破されます。歴史家はローマ軍の死者7000、ピョロスが3000人と書き残しますが、後者の多くはピュロスがエペイロスから率いてきた精鋭たちでした。

 その翌年、アスクルムの戦いで、4万のピョロス軍とほぼ同数のローマ軍は再度激突、ローマ軍の戦死6000人、ピュロス軍3550人、ピュロスは再度勝利を得ますが、今度もまた戦死者にはピュロスの精鋭が含まれます。いくらたたき伏せても、ゴーゴン・メデューサのように首をもたげる敵ローマ、そして、減っていく己の部下たち、それを知ったピュロスは、勝利を祝す者にむかって言います。

  •  もう一度このような勝利をすれば、我々は破滅するだろう
  •  英語では、”Another such victory and I come back to Epirus alone”とも、”If we are victorious in one more battle with the Romans, we shall be utterly ruined.”とも言うそうです(英語版Wikipedia)。
  •  

 勝利(粗利)を得たものの、それに見合わぬ多大な損害(コスト)が生じた場合、割にあわない勝利(商売にならない)といわざるを得ない。これが“ピュロスの勝利”です。そしてこれは戦争だけではなく、ビジネスにも、政治にも、法にもアナロジーとして適用されているとのこと(Although it is most closely associated with a military battle, the term is used by analogy in fields such as business, politics, law, literature, and sports to describe any similar struggle which is ruinous for the victor;同じく英語版Wikipedia)。

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 さて、皆さんはこのピュロスの勝利の過程を読まれて、どうお考えになりますか? そのあたりは、to be continued……としましょう。

高畑ゼミの100冊Part23&住まいの人類学:貧民窟探険記シリーズ1『最暗黒の東京』中編;近代化の光(給食)と陰(残飯屋)

2011 9/2 総合政策学部の学生・院生の皆さんへ

 前編に続いて、明治中期の貧困ジャーナリスト松原岩五郎の傑作ルポルタージュ『最暗黒の東京』中編です。今回まずご紹介したいのは、松原がしばしアルバイトの形で潜り込んだ“残飯屋”の話です。

 “残飯”、これこそ近代社会の誕生を意味する言葉かもしれません。明治時代、急激な近代化は、それまでになかった多くの組織、軍隊や学校を産み出します。そこではみんな一定時間に、一斉に“給食”を食べる。そして、その食べ残しが都市に群がる“貧民”たちに販売される。その中だちをする(そのついでに、金儲けをはかる)稼業が、すなわち“残飯屋”です。

 エコと言えばエコ、しかし、エコだからと言って、ただ感心していればよいのか?(末尾の、松原の慨嘆を読んで下さいね) 究極のエコ都市だったという江戸を偲びつつ、“近代化の光と影”のまさに陰の部分です。

 なお、“給食”のそもそもの語源は、古く律令制での「高等教育・官人育成を目的とした大学寮の設置に遡る。大学寮の学生は直曹と呼ばれる学舎兼学生寮に住むこととなっており、大学寮から学生に対して給付した食事を給食と称した」のだそうです(Wikipediaによる)。

 明治という近代化のなか、急激に“給食”が広がります 士官学校、兵営、寄宿舎(例えば、工場付き女工寄宿舎)、病院・・・・。今日に残る女工の食事の記録ですが「26社の中で、白米のみ3社、麦2割6社、麦3割4社、麦4割2社、麦5割1社、白米に台湾米を混ずるもの4社、不明6社」とされます(ただし、麦飯は脚気にはよかったわけですが)。一方、副食はというと、「朝:菜汁、香々、昼:空豆、香々、夕:焼豆腐、香々;朝:馬鈴薯汁、香々、昼:ヒジキ、香々、夕:菜の煮たの、香々」等とならびます。これでは、女工たちが病気に倒れるのも当然と云うべきでしょう。

 こうして、「“給食”の社会史」あるいは、「“給食”の経営学」、さらには「ヒューマン・エコロジーの立場から見た“給食産業”」等、いくらでもレポートのネタがありそうですね。ちなみに、日本最初の学校給食は「1889年(明治22年)に山形県鶴岡町(現鶴岡市)の大督寺内の私立忠愛小学校においておにぎり・焼き魚・漬け物といった昼食を貧困児童に与えた」のだそうです(Wikipediaより)。

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 さて、松原岩五郎は前編でご紹介した通り、まずは下谷山伏町界隈の貧民窟に身を潜めたのち、木賃宿を探索、さらに浅草花川戸あたりをめぐって、日雇斡旋を探しますが、なかなかうまくいかず、根津宮下町、小石川柳町、伝通院通りウラ、牛込赤城下、市ヶ谷長延寺界隈と、貧民街をさまよいます。

 と言うか、東京の至る所に貧民窟があったのですね。現在の街はどうなっているのでしょう? 旧貧民街巡りでも、レポートが書けるかもしれません。ついに四谷鮫ケ橋の親方株(有力者、顔役といったところでしょうか)清水屋弥平より、「人間は遊んでいて食するものにあらず」「若き漢(もの)が骨を惜しむという事あるべからず」と、近所の残飯屋への斡旋がきまります。岩五郎の筆は躍ります。

ああ残飯屋、残飯とはいかなるものか、これ大厨房の残物なるのみ。諸君試みに貧民を形容するにもといかなる文字がよく適当なりと見る。飢寒、襤褸、廃屋、喪貌、しかれども予はこれが残飯または残菜なる二字の最も痛快に最も適切なるを思わずんば非ず。

まず見る貧窟残飯屋の光景、西より入れば窟(しま)の入り口にして少しく引き込みたる家なりしが、やや広き表の空き地には、5、6枚のを舗(し)きて残飯の饐(あざ)れたるをの如く日に干したるものありしが、これ一時に売り切れざりし飯の残りを糒(ほしいい)として他日売るものにやあらんかれらのためには即ちこれが彼の凶荒備蓄的の者ならんかと想像せしめたり。

家は傾斜して殆ど転覆せんとするばかりなるを突かい棒もて、それを支え、軒は古くて朽ちて屋根一面に蘚苔(こけ)を生やし、庇檐(ひさし)は腐れて疎らに抜けたるところより出入りする人々の襟に土塊の落ちんかを殆(あや)ぶむほどの家なりしが、家内は田舎的の住居にして坐舗(ざしき)よりも庭広く殆んど全家の三分の二を占めたる処に数多(あまた)の土取笊、半切桶、醤油樽、大なる壺、粗き瓶(かめ)そのほか残飯残菜を容るるに適当なる器具の悉(ことごと)く不潔を帯びて不整列に並ばり居るをみたりき。

しかるになんぞ図らん、この不潔なる廃屋こそ実に予が貧民生活のあらゆる境界を実見して飢寒窟の消息を感得したる無類の(材料蒐集に都合よき)大博物館なりしならんとは

◆Webサイト「100年前の貧民窟を行く」(http://www.tanken.com/hinminkutu.html)に、残飯屋の挿絵が掲載されていますhttp://www.tanken.com/hinminkutu5.jpg 

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 岩五郎は慣れない力仕事にいそしみます。

その日より余は残飯屋の下男となり、毎日、朝は8時、昼は12時半、夕は同じく午後の8時頃より大八車に鉄砲笊(てっぽうざる)と唱えたる径1尺あまりの大笊、担い桶、または半切、醤油樽を積みて相棒二人とともに士官学校の裏門より入り、三度の状食の剰り物を仕入れて帰る事成るが、・・・その労苦は実に容易のことならず・・・。

「さるほどにこの残飯は貧人の間にあってすこぶる関係深く、彼らはこれを兵隊飯と唱えて古くより鎮台営所の残り飯をいみするものなるが、当家にて売りさばくは即ちその士官学校より出づる物にて、一ト笊(飯量およそ15目)50銭にて引き取り、これを一貫目およそ5、6銭位に鬻(ひさ)ぐということは、一ト笊(約60kg)あたり40銭の儲けにしかなりませんので、これで大丈夫か? と心配するも及ばず)

「これ(飯)に属する残菜はその役得として無代価として払い下げたるものなるが、何がさて、学校の生徒始め教官諸人数、千有余人を賄う大庖厨の残物なれば、或る時は彼の鉄砲笊3本より5、6本出る事ありて、汁菜これに準じ、沢庵漬の截片(きりはし)より食麺麭の屑、ないし魚の骸(あら)、焦飯等皆それぞれの器にまとめて荷づくりすればほとんどこれ一小隊輜重ほどありて、朝夕三度の運搬は実に我々人夫の労(ほね)とする所にありき。

「この残物を買う者如何(いかん)と見渡せば、皆その界隈貧窟の人々にして、これを珍重する事、実に熊掌鳳髄(ゆうしょうほうずい=珍味中の珍味)もただならずというべく。我らが荷車をひきて往来を通れば、彼らは実に乗輿(じょうよ)を拝するが如く、老幼男女の貧人ら皆々手ごとに笊(ざる)、面桶(めんつう=1人盛りの食器)、重箱、飯櫃(めしびつ)、小桶(こおけ)、あるいは丼、岡持(おかもち)などいえる手頃(てごろ)の器什(うつわ)を用意しつつ路(みち)の両側に待設けて、今退(ひけ)たり、今日は沢山にあるべし、早く往(ゆ)かばやなどと銘々にささやきつつ荷車の後を尾(おい)て来るかと思えば、店前(みせさき)には黒山の如く待構えて、車の影を見ると等しくサザメキ立ちて、さながら福島中佐(シベリア単独横断した英雄)の歓迎とも言うべく颯(さっ)と道を拓(ひら)きて通すや否や、我れ先(さ)きにと笊、岡持を差し出し、2銭下さい、3銭おくれ、これに1貫目、ここへも500目(1目は1匁)と肩越に面桶(めんつう)を出し腋下より銭を投ぐる様は何に譬(たと)えん、大根河岸、魚河岸の朝市に似て、残物屋に似て、その混雑なお一層奇態の光景を呈せり。

「そのお菜(かず)の如き漬物の如き、煮シメ、沢庵等は皆手攫(てつか)みにて売り、汁は濁醪(どぶろく)の如く桶より汲みて与え、飯は秤量(はかり)に掛くるなれど、もし面倒なる時はおのおの目分量と手加減を以てす」

◆残飯屋の店先に殺到する“貧民”たちの図:http://www.tanken.com/hinminkutu6.jpg

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 この光景に圧倒された岩五郎は「残飯残菜は実にこの一銭的庖厨の惨状を救う慈悲の神とも言うべく、彼ら5人の家族にて飯2貫目、残菜2銭、漬物1銭、総計14、15銭位にて一日の食料十分なるなり」と断じます。

 しかし、ある日、士官学校の残物が3日間にわたってほとんどなく、厨房の賄い方に願ったところ「そこに豚の食うべき餡殻と畠を肥やすべき馬鈴薯の屑が後刻に来るべく塵芥屋(ごみや)を待ちつつある」と言われたものを持ち帰ります。

 そして、それを貧民に売る様をみて、「ああ、いかにこれが説話すべく奇態の事実でありしよ。予は予が心において残飯を売る事のそれが確かに人命救助の一つであるべく、予をして小さき慈善家と思わせし。しかるにそれが時としては腐れたる飯、饐れたる味噌、即ち豚の食物および畑の食物を以て銭をとるべく不応為を犯すの余儀なき場合に陥らしめたり。

 もしも汝らが世界にむかって大なる眼を開くならば、彼の貧民救助を唱えて音楽を鳴らす処の人、または慈恵を名目に幟(はた)を樹(た)つる所の尊き人々らの、常に道徳を語りまた慈善をなす事のそれが必ずしも道徳、事前であらぬかをみるであろう」と喝破します。社会福祉に興味がある方は、是非、この『最暗黒の東京』に眼を通して下さい。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...