ピュロスの勝利:あわせて戦略と戦術の違いについて#1

2011 9/8 総合政策学部の皆さんへ

 本日は、ヨーロッパの軍事学で言うところの“ピュロスの勝利(Pyrrhic victory)”=“割にあわない勝利”=“勝つには勝ったが、払った犠牲に釣り合わない”を紹介しながら、戦略(Stragety)と戦術(Tactics)の違いもあわせて説明し、軍事ならびにビジネスの双方についてケース・スタディを展開しよう、という、我ながら大胆なというよりも、身の丈に合わぬ話になりそうです。

 ところで、この言葉の語源ピュロスは、古代ギリシアのエペイロスピュロスに由来します。“割に合わない勝利者”、あまり結構なネーミングとは思えませんが、どんな方かと言えば、「マンガ(コミック)で世界を知ろうPart2:ヒストリエ」(2011/05/22投稿)でご紹介したアレキサンダー大王ことアレクサンドロス3世の母オリュンピアスの弟の家系なんですね。

  オリュンピアスはすでに『ヒストリエ』でも全開で活躍中ですが、嫉妬深く、夫ピリッポス2世を暗殺したとも、大王の死後、大王の異母兄ピリッポス3世[別名アリダイオス]やその妻エウリュディケ2世をも抹殺したとも言われる方です。そして、そのすさまじい人生の果て、自らもディアドコイの一人カッサンドロス朝の創始者カッサンドロスに殺されます。

 と言ったところで、わかりましたか? 高校の世界史等ではあっという間に通り過ぎるあたりですが、映画『アレキサンダー』ではアンジェリーナ・ジョリーが演じたオリュンピアスの家系と思えば、なんとなく納得するような気分になるかもしれません。是非、その図像化された姿を『ヒストリエ』でご覧下さい。

  ピュロスの家系を正確に紹介すると、オリュンピアスの弟であるエペイロス王アレクサンドロス1世(Alexander I of Epirus;大王と同じ名前です。混同しないようにして下さいね)の死後、王位はその従兄のアイアキデス(Aeacides)に引き継がれます。しかし、アイアキデスが出征中に反乱がおこり、その兄のアルケタス2世(Alcetas II)が王となります。しかし、人望がなく結局殺されてしまう。

 こうして、かつて2歳で父ともども追放されたAeacidesの幼い息子が、12歳でエペイロス王に返り咲きます。これがピュロスで、アレクサンドロス大王のまたいとこにあたります。しかし、戴冠後も17歳で反乱にあい、ふたたび亡命の身となるなど、有為転変甚だしく、かつ、不幸な幼少生活のためか、一生を戦争家業で費やすという、“傭兵隊長”の走りとなってしまうなど、人生は最後の最後までもつれます。

 50代での死について、「市街戦の最中に名もない女性に瓦を落とされ気絶したところを殺された。また、一説によると使用人に毒殺されたともされる(Wikipeidaより)」ということです。やっぱり、一生がんばったのに、結局は、割に合わない人生だったわけです。 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  さて、ピュロスが世界史的に有名になるのはローマがらみです。アレクサンドロス大王の野望がつぶれ、広大なアレクサンドロス帝国をめぐって、部下=後継者たちの互いの血を求めての殺しあいの果て(ディアドコイ戦争ですが)、生き残った者たちはそれぞれ権力を確保します。しかし、そこに新興国、ローマ共和国がひたひたと近づいてくる。

 ローマ人たちのある者は途上国むき出しのあこがれでギリシア文明を渇望し(その筆頭がハンニバルを破った大スキピオ)、ある者は逆に軽佻浮薄なギリシア文化を嫌い、素朴なローマ文明を守ろうとしながらも(これが、スキピオの政敵大カトー)、いずれにせよローマにとって邪魔な相手、あるいは征服すべき者たちとしてアレクサンドロスの末裔たちを滅ぼそうとする。

 その末裔たちの最後の一人が、アレクサンドロスの部下でエジプトを領土としたプトレマイオス王朝最後の女王クレオパトラ7世なのです。

 なお、“ピュロスの勝利”については、「高畑ゼミの100冊Part16:ジュディの読書案内(『あしながおじさん』に見る20世紀初頭のアメリカ女子大生の読書から#1)」(2010/06/1)も参照して下さい。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ピョロス君の場合、生まれたのが紀元前319年、いったん反乱で追われたエピロスに戻って王位についたのが307年(12歳)、そこを再び追われたのが302年(17歳)、そしてやっとの思いで再度復権したのが297年。そこで、まだ20台の若い王は、偉大なるアレクサンドロスを意識してか、自らの職業に「戦争稼業」を選びます。そしてそれはちょうどローマの魔手が周辺に伸び始めた頃にあたるわけです。

 このような状況下、ピュロス君のイタリア半島でのデビューは、新興国ローマの侵略を恐れる半島南部の都市国家タラス(現ターラント)からの支援要請がきっかけです。もちろん、それは義侠心などではなく、狭いギリシアを飛び越えた大帝国への野望でありましょう。そして、大王をめざして、大望をはたすべく遠路イタリアに上陸、初めて新興国ローマ軍を目にしたピュロスが口にした台詞は、ローマの世界史登場を劃する名台詞、ローマ勃興へのはなむけの言葉となります。

  あの蛮族(=ローマ軍)は陣形を見る限り野蛮ではないようだ

 ピュロスの手勢は3000人の騎兵、2000人の弓兵、500人の投石手、20000人の歩兵に加え、20頭のゾウ(戦象;エジプトのプトレマイオス2世からのリース=もしもローマ軍に勝ち続ければ、もっと数を増やせるリース契約になっていたようです!)。これに6000人のタラス兵などが加わります。対するローマ軍は騎兵と槍兵をあわせて約3万人。

 しかし、生まれて初めてゾウを見たローマ軍は仰天してしまい(誰でもそうですよね)、280年、ヘラクレアの戦いで撃破されます。歴史家はローマ軍の死者7000、ピョロスが3000人と書き残しますが、後者の多くはピュロスがエペイロスから率いてきた精鋭たちでした。

 その翌年、アスクルムの戦いで、4万のピョロス軍とほぼ同数のローマ軍は再度激突、ローマ軍の戦死6000人、ピュロス軍3550人、ピュロスは再度勝利を得ますが、今度もまた戦死者にはピュロスの精鋭が含まれます。いくらたたき伏せても、ゴーゴン・メデューサのように首をもたげる敵ローマ、そして、減っていく己の部下たち、それを知ったピュロスは、勝利を祝す者にむかって言います。

  •  もう一度このような勝利をすれば、我々は破滅するだろう
  •  英語では、”Another such victory and I come back to Epirus alone”とも、”If we are victorious in one more battle with the Romans, we shall be utterly ruined.”とも言うそうです(英語版Wikipedia)。
  •  

 勝利(粗利)を得たものの、それに見合わぬ多大な損害(コスト)が生じた場合、割にあわない勝利(商売にならない)といわざるを得ない。これが“ピュロスの勝利”です。そしてこれは戦争だけではなく、ビジネスにも、政治にも、法にもアナロジーとして適用されているとのこと(Although it is most closely associated with a military battle, the term is used by analogy in fields such as business, politics, law, literature, and sports to describe any similar struggle which is ruinous for the victor;同じく英語版Wikipedia)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、皆さんはこのピュロスの勝利の過程を読まれて、どうお考えになりますか? そのあたりは、to be continued……としましょう。

コメント:0

この記事にはコメントすることができません。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

月別記事