住まいの人類学Part6:植え付けられた街、そしてその増殖#2~銀座勃興篇~そもそも銀座の道幅はどうやって決まったのか?

2011 9/21 総合政策学部の皆さんへ

 #1からの続編、銀座勃興篇です。まずは、誰が銀座煉瓦街を思いついたのか? そのあたりから始めましょう。

 思えば、たった20年前、ペリーによる黒船来航で日本中が湧きかえり、徳川幕府に政権統治能力がないことが誰の目にも明らかになり、外圧に対抗するためにすべてを投げうち、近代化に向かって猛進しようという時代でした。その間、様々な思い付きがあり、その思い付きをめぐって血みどろの争いも起きかねない。

 このきわに、和田倉門外に発生した大火災跡をみて、誰が“都市計画(明治中期の言葉では“市区改正”)”を発動しようとしたのか? 興味はありませんか。

 例えば、佐賀藩志士の上がりながら、初代東京府知事に任命された大木喬任が、江戸幕府倒壊のあおりで各藩の武士が四散、それにパラサイトしていた町民たちまで立ち去ろうとしてた江戸/東京で、あまりのことに山の手の武家屋敷を解体し、桑や茶を植えよう(!)とした「桑茶政策」を打ち出すのが明治2年8月20日です。

 大木は、30年後の明治31年、「今から思うと馬鹿な考えで、桑田変じて海となると云うことはあるが、都会変じて桑田になると云うのだから、確かに己の大失敗であったに違いない」とぼやきます(藤森照信『明治の東京計画』岩波現代文庫版より)。

 それにしても桑と茶、ようするに当時の日本が外国に輸出できるごく少数の商品の栽培。そこからたった3年後、誰が銀座を考え付いたか?

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 その一方で、新政府のプランナーたちは動きも俊敏、方向転換も素早い。明治5年、東京はすでに「桑茶計画」を捨て、東京に変わるべく、「役者たちは幕の上がるのを待っていた」のです(藤森)。明治5年2月26日の大火の後、いったい何時、誰が言い出したのか? 

  これには、当時の府知事由利公正や大蔵大輔井上馨等が後世「自らが・・・」と手柄の取り合いをするも、建築探偵テルボこと東大前教授藤森照信によれば、それは、大火直後の大蔵省から太政官あての上申が決定的とのことです。以下、テルボの提出する証拠です。 

  • 大蔵省上申 二月
  •  昨日渋沢従五位参朝の節、御設論有之候東京府下の家屋建築の方法、火災を可免(まぬがれる)ため往来を広くし、煉化石を取立候様為致候わば、必此程の如き火災の憂(うれい)有る之間敷(まじく)、実に至急の儀に月、東京府とも申合、早々見込可申出趣拝承仕、尚勘考仕候処、右は所詮町人共軒別地力を以て[不]可行届事に有之候間、貸家会社の方法を設け、衆力を協同し築造可為致他無之と、夫是勘弁の上、昨夜東京府権参事三島千木に談判、同人も同意いたし・・・
  •  

  藤森訳では「昨日太政官に出向いた大蔵少輔渋沢栄一は、太政官より大火防止のため東京ふと語らって道路回生と煉瓦造化の煮方策を立案するように命じられた。渋沢はあれこれ考えたが、煉瓦造化は町人各々の手にあまるから新たな建設組織(東京借家会社)を創設する他あるまい、とまで考えて、その夜の内に府権参事三島通庸に会って、太政官より命じられた二方策を告げたところ異存はなかった・・・・」。

 藤森はさらにこの解釈が三島の伝記によっても裏付けられるとして、基本的発案者を当時の新進政治家たち(大隈重信、井上馨、伊藤博文、五代友厚)としています(今思うと、すごいメンバーですね)。

 そしてこれが、文字通り、旧江戸諸都市の大幅改造になる一連の大計画の端緒となるべきものでありました。時に、3月2日(大火の4日後!)には、煉瓦街建設をつげる府令が公布されます(「今般府下家屋建築之儀、火災を可免之為め、追々一般煉化石を以て取建候様・・・・・・」『明治壬申布達通書』)。

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 さらに、皆さんお気づきでしょうが、渋沢の提言には「貸家会社」=「建設組織(東京借家会社)」が登場する。つまり、半官半民のデベロッパーです。学生の皆さんもこうした世界(不動産業・都市開発)に目指す方は、是非、この渋沢の構想力に学んで下さいね。藤森によれば

 政府と民間の出資を元手とする一種の株式会社といってよく、煉瓦家屋を建てて15年賦で民間に払い下げ、返済利子を次の建設費に回して次々に煉瓦造を拡げることを目的としていた。

 A氏が間口2(2×1.8m=3.6m)の土地を銀座二丁目に借り、奥行き五間の新店舗を作りたいと考えたとしよう(2間×5間=10(坪は1間四方)=33㎡)。すると会社は、これを受けてウオールトスの建築規則にしたがい一等煉瓦家屋を建て、A氏に貸し渡す。

 入居したA氏は、地主に地代を払う一方、建設費1500円(当時の金の値段を換算すると、990万円ほど?)に利子を加えたものを15年で割ったその12分の1に当たる12円60銭を月々会社に納め、そして15年後、満額2268円を払い終えた時点で、家屋の所有権を会社から譲られる。

 会社の方は、A氏からの返済利子を配当と新規家屋に回して事業を伸ばしていく。借家会社とはいえ恒久的な貸家経営をしようというのではなく、ねらいは煉瓦造化を民間会社ベースにのせて進める点にあった。

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 それにしても、2月26日に大火、3月2日に煉瓦街建設布告、銀座街建設の主役にして何でもこなす渡り職人トーマス・ジェームズ・ウォールトスによる建設計画発表が3月13日、その間に渋沢はこの建設計画を支える会社組織を考えていく!

 明治人の構想力、そして(ほとんど蛮勇とでもいうべき)実行力たるや圧倒的です(どうして、これを後世の政治家・官僚が受け継がないのか? と云う点については、どなたも慨嘆することと思いますが)。

 もちろん、こんな計画がすんなり通るはずがありません。現代と同じく、まずは金策=財源です。反対派は当時の府知事由利公正、渋沢の構想のうちの“民間資金”として、江戸期に設けられた半官半民の組織、町会所に積み立てられた積金(七分積み金)の扱いをめぐり、対立します。

 何時の世にも、すべては金、モームの云う通り、「金は第六感のようなもので、これが無いと他の五感も動かない」。

 資金をめぐる渋沢と由利の主導権争いで、数カ月が虚しく過ぎます(これについても、どうして政治家・官僚は同じ轍を踏むのか、とどなたも慨嘆されることと思います)。しかし、中央政府での根回しで、由利は気付くことなく「洋行」を餌に誘いだされ、由利が構想した東京バンクは停止、積み金を握っていた町会所は解体。

 「宙に浮いた豊かな遊休資金は、渋沢が受け止め、街路回収を目的とする東京営繕会議所を設立した」。当時の金で170万両がこの整備基盤事業に転用されます。

 しかし、渋沢・井上の欧化名コンビも明治6年に政変で失脚、井上馨とともに官を去った渋沢は(その後、二度と官にもどらず、実業界に邁進することになるのですが)、営繕会議所の会頭におさまり、銀座街のガス灯舗装にたずさわります。

 その一方で、煉瓦造化は、渋沢の発案の借地会社はあえなく挫折、建設局が官費を用いて直営施工する「官費官築」と、建設費を自弁できるものが建設を官に依頼する「自費官築」のケースに分かれます(藤森、前掲書) 。

 この結果、全銀座を統一したジョージアン・スタイルで装う当初の目的は達成できず、やがて和洋折衷型の家々も目立つことになります。

 なお、渋沢栄一はこのブログですでに異文化に出会う時:日本人はどのようにして異なる食文化に出会ったか?Part2~村垣淡路守から渋沢栄一まで~」で取り上げていますが、覚えていらっしゃいますか?

 そう、生まれて初めての異文化に仰天した安政7年の遣米使からたった7年後、横浜港からフランス郵船アルヘー号に乗船した旅日記『航西日記』で、悠揚せまらぬ旅巧者ぶりを発揮する“日本資本主義の父”渋沢栄一です。そして、半世紀後には田園調布までかかわる、渋沢の都市計画との長いつきあいの始めが銀座なのです。

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  しかし、現場は何から何まで決めねばなりません。例えば、銀座の道幅、道路の幅員をどうするか? ここで激論が起こります。

 ややパッパラパー気味の由利は後年、「外国都市の道幅を聞き合わせたら、紐育(ニューヨーク)は24間程で、倫敦(ロンドン)は25間、華盛頓(ワシントン)も矢張り24軒であった。

 そんなところからあの銀座大通を25軒にしてその他の中小路を12間と8間位とかにしたら宜しかろうと云うた・・・皆が笑ってそんなに道幅を広げてもその必要がないという・・・・我が国の田舎街道は4間で、江戸は8間というのが定めで、それで8間を加えて12間とすれば十分であるという事であった」。

 一方、井上は「東京府知事(=由利)が、あんな馬鹿な広い街を造ってどうするつもりかと云って、大変な反対を受けた」等と、証言は混乱するものの、どうやら「おそらくこれと云った決めてもなく、仲をとるようにして大通り15間に落ち着いたものと思われる。これを基準にして、大通りと交差する数寄屋橋通りは10間、そのほかの横道、裏通りは8間、裏小路は3間と順次下げて行く」(藤森、前掲書;資料は明治5年3月発布の銀座煉瓦街建築規制)。

 こうして銀座大通りは15間=27mとなりますが、現在の道幅もやはり27m、なんと明治5年にいかにも日本的に「仲をとって」きめられた道幅が、そのままなのです。

 ちなみに、関東大震災後につくられた昭和通りは、後藤新平の初案はこれまた108mでしたが、やはり反対で24間(43m)に縮められてしまいます。

 さらにいにしえの記録を探れば、平安京朱雀大路はなんと28条(1条は10尺=3.03mということで84m)でした。横断するのも時間がかかりますよね。

 こうして、近代国家は道の幅まで統一化した方がよい、ということに気付き始めた新政府は、明治9年、太政官達によって国道、県道、里道を定めます。

 このうち、国道は全てが東京日本橋を起点として、一等国道、二等国道、三等国道の三種に分けられ、幅員はそれぞれ七間(約12.7m)、六間(約10.8m)、五間(約9m)と定められたとのことです(Wikipediaによる)。

 それはともかく、当時としてはとてつもなく広い銀座通り、明治6年の写真では、マツ、カエデ、サクラの街路樹を植えますが、歩道ではなく、車道に植えてあるのが御愛嬌。

 当時、湿気が多くて、マツ等は不向きで、やがてヤナギに植えかえられます。これが有名な「銀座の柳」になるわけです。と、まあ、このあたりでto be continued・・・・・・・としましょう。

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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