総政をめぐるトピックスPart4:“傭兵”たち:スイスの実像、そしてグルカ#1

2011 9/26 総合政策学部の皆さんへ

 皆さんは“傭兵(Mercenary)”というとどんな印象をお持ちでしょうか? さらに言えば、かつて(いや、現在も)“傭兵”が主力産業であった国、あるいは地域があった/あるということもご存じでしょうか? つまり、あまりにも貧しくて、若者たちの肉体=血しか輸出できないわけです。

 すでに「総政100本の映画Part12:旧東欧反体制映画の日々:国際政策を映画で勉強しよう(#2)」(2010/11/8)でも、映画『サラマンドル』そして『第3の男』にかこつけて少し紹介しましたが、スイスはけっして平和な国でも、また、戦争の汚れた世界から無縁な国でもなかった、というところから、話が始まります。

 まず、Wikipediaで検索してみましょう。すると、“スイス傭兵”で一項目になっているのですが、ヨーロッパの軍事学史上、彼らは基本的に歩兵です。

 それも長槍(パイク)戦斧(ハルバード)を携え、密集体系で騎士の突撃にも揺らがないという、まるで、ピリッポス2世アレクサンドロス大王のマケドニア式ファランクスを思い出させる戦法です(ファランクスについて詳しくは「マンガ(コミック)で世界を知ろうPart2:ヒストリエ(2011/05/22)」をご参照)。

 あまりにも貧しいスイス人は、騎士のように馬を買い、金をかけて軍備を整えるなど、夢のまた夢。とりあえず、手につく武器を改良し、徒歩(かち)で槍とも斧ともつかぬ(騎士階級から見れば、下賤極まりない)得物(えもの)を振り回し、馬の足を薙ぎ払い(日本では長柄、薙刀の類ですが)、落馬した騎士を押し包み、あっという間に「お命頂戴!」というわけです。

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  この農民兵の歴史的デビューとすれば、スイス農民軍が押し寄せるハプスブルク家の軍勢に打ち勝った1315年のモルガンテンの戦いをあげるのがふつうです。

 英語版では「The Battle of Morgarten occurred on November 15, 1315, when a Swiss Confederation force of 1,500 infantry archers ambushed a group of Austrian soldiers of the Holy Roman Empire near the Morgarten Pass. The Swiss, led by Werner Stauffacher, thoroughly defeated the Austrians, who were under the command of Duke Leopold I of Austria」とあります。

 この戦いで、オーストリア公レオポルト1世率いる3000~5000人(うち、3分の1が騎兵で馬上だった)神聖ローマ帝国軍は、1500人に弓兵を交えた農民歩兵による待ち伏せ作戦にひっかかります。農民兵が落とす岩、丸太、そして戦斧に騎士たちはまったく対抗できず、虐殺されます。まるで楠正成赤坂千早城の合戦さながらです。

 続く1386年のゼンバッハの戦いでも、4000人のオーストリア兵、このうち1500名が騎兵でしたが、戦闘時は下馬していたとのことです。このオーストリア兵を1400人のスイス兵が襲い、オーストリア軍の1500名が戦死、そのうち600人が身分のある者だったとのこと。対照的に、スイス側の損害はたったの200人ばかりという圧倒的大勝利です。

 ふつう、参加兵員の3分の1が死傷すれば、戦闘継続能力を喪失するのが軍事的常識ですから、当分、スイス領内は安全ということになるわけです。

 ところで、日本語版Wikipediaでは、ラテン語で“Cohors Helvetica Pontificia”という言葉を紹介していますが、このCohorsは古代ローマ軍団(レギオ=現在の連隊)の下部単位、現在の大隊に相当(ローマ軍では450~600人程度)。Helveticaは「アルプス山脈とジュラ山脈に囲まれた古代ヨーロッパ中央地域のローマ名」、つまりスイス西部。

 そしてPontificiaとは法王庁のことで、要するにバチカンのスイス傭兵隊のことなのですね。スイス傭兵は各国で雇われているので、この場合は、より一般的なSwiss Guard(英語版Wikipediaではこちらで出ています)が適当でしょう。もっとも、Guardといえば護衛兵(用心棒)のように聞こえますが、戦争には純粋の防衛等ありえませんから、その点はご注意を。

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 このあたりまでは農民による防衛戦争であり、学生の皆さんにも重々納得、理解可能な話かもしれませんが、ここまで強くなってしまうと、いろんな思惑が出てくることは避けがたい。

 他国の権力者からみれば、この“強兵”を金の力で動かせれば、これだけ心強いことはないはずです。そして、スイスには“金”が落ちる。要するに、“血の輸出”です。こうしてスイスの傭兵制度が始まります。何よりも、直属の軍隊を持っていなかったローマ法王庁がこれに眼をつけます。

 シッテンの枢機卿を通じて、1505年、教皇ユリウス2世(今日ではミケランジェロラファエロのパトロンとして知られていますが)はバチカン近衛兵としてスイス兵を雇用します(これが今日まで続いているCohors Helvetica Pontificiaの始まりなのです)。

 スイス当局としても、少ない国土、若者たちに分割相続すれば、みんな貧乏になってしまう。そのぐらいなら、若者を輸出して、仕送りで国を豊かにする(現代のフィリピンのような、出稼ぎ国家のはしりとも言えましょう)。そして、兵役が終わっても、戦いに慣れた兵隊にあまり帰ってきてもらいたくないから、一生、傭兵暮らしをしていてくれたら、その方がよい!  なんとも言えませんね。

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 スイス傭兵でとくに有名なのは、1477年、戦うことにしか興味を持てなかった最後のヴァロア=ブルゴーニュ家の当主、シャルル勇胆公Charles le Téméraire)が命を落としたナンシーの戦いです。

 勇胆公との通称はこのほか、豪胆公、無鉄砲公、突進公、猪突公、軽率公等と訳され、それを読めば、おのずとその性格がわかってしまうというものです。フランスとドイツの境のブルゴーニュ地方に、フランス王権と独立した国家の樹立(ネーションとステートの創設ですね!)をもくろむブルゴーニュ公国本来の野望に邁進した彼は、1477年1月5日、ロレーヌ公国ルネ2世との決戦で、名もない農民兵の戦斧に頭を割られます。

 戦場に積み重なった死体の山から、踏みにじられた死体となって見つかり、本人とわかるまで3日もかかったというこの戦いは、シャルル公の手勢4000~8000、相手はロレーヌ公が1万~1万2千、スイス傭兵1万。シャルルの大砲はほとんど効果がなく、歩兵同士の決戦は人数がものをいう結果となって、シャルルともにブルゴーニュ軍はほぼ全滅します。

 中世の華とうたわれ、豪奢な生活を誇りながら、Wikipediaには「現実的な計算や建設に適さず、情熱と使命感の赴くまま破滅に走った彼の生涯は「公益のための真実かつ大胆の闘士として」範例となり、年代記作家のフィリップ・ド・コミーヌやジョルジュ・シャトランの筆によって記憶された」と記されたシャルル。

 その彼の人生の幕を落としたのが、貧しさゆえに異国でいくさ家業にいそしむ農民兵であったこと。そして、決戦の勝敗を下賤な歩兵の数で決まったという結末は、いうまでもなく、ヨーロッパ社会の近代化への一歩なのです。

 そして、「中世的」的支配者=ヒーローとしてのシャルルが、フランス国内統一の最終的勝利をライバルである「遍在する蜘蛛」(l’universelle araigne)=人気のないが有能な支配者ルイ11世という近代的キャラに譲らざるを得なかった所以とも言えるでしょう。

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 さて、スイス傭兵に話を戻して、もちろん、悲惨な歴史にも事欠きません。1527年におきたローマ劫掠では、神聖ローマ皇帝カール5世の手勢である数万のランツクネヒト軍団(こちらは主にドイツ傭兵で、多くはローマ法王庁に敵意をもつルター派新教徒)に対して、189名のバチカン近衛兵がクレメンス7世を守って奮戦、147名が戦死します。

 さらに、フランス革命のさなかの1792年8月10日、フランス国王ルイ16世とその家族が滞在していたテュイルリー宮殿をパリ市48地区の代表が集まって結成した蜂起コミューンが王政廃止を訴えて、国民衛兵2000人もあわせた2万人が宮殿を襲います。

 これに対してルイ16世は積極的な反撃命令を出さず、動揺したフランス人の衛兵の多くは脱走、あくまでも忠誠を誓ったスイス衛兵約950名が防衛しますが、もちろん衆寡敵せず、大半が虐殺されます(その戦死者を悼むモニュメントの画像はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Pcs34560_IMG_10382.JPG)。

 無能な権力者に、契約を守って忠誠を尽くすのは割りにあわない。どうやら、傭兵稼業の黄昏がせまりつつあるようです。

 もっとも、このフランス革命の限定相続人たる皇帝ナポレオン1世は、状況を検討した結果、適切に防衛すれば(市民に大砲をぶっ放せば)ルイ16世は権力を取り戻すことも可能であったと結論しています。 これもまたすでに、「総合政策の名言集Part7:政治的発言#3(2010/11/26)」で紹介していますね。

 すなわち、ナポレオンが総裁政府に念押しした「諸君は、国民が同じ国民に対して砲火を浴びせてもよい、という許可を私にあたえてくださるのでしょうか?」という台詞です。

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 その一方で、スイスはもはや割に合わなくなりつつある仕事をなかなか止められない。すでに時代が、スイスの傭兵稼業を追い越しているのに! フランス革命がもたらした国民軍、すなわち国民国家が創り上げる国民皆兵/徴兵制によってできあがった士気も高い国民軍に、プロのはずの傭兵が勝てなくなっています。

 このあたりはすでに「総政をめぐるトピックスPart2:誰が“国家”を防衛するのか?:カッテンディーケの回想から、マキャベリ、キッチナーまで(2011/02/1)」でご説明済みですね。

 すでに、アメリカ独立戦争ではのちに大陸軍に成長する民兵(ミニットマン)たちが、イギリス国王派遣の将軍たちが率いるドイツ系傭兵たちを撃破しています。

 アメリカ独立戦争では、ドイツ出身のハノーヴァー朝の君主であるイギリス国王ジョージ3世は、義理の叔父のヘッセン=カッセル方伯から16000名(うち6500人が損失)、ヘッセン=ハーナウ伯からは2422名が渡米(981名を損失)、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール1世から5723名の兵士を調達(3015名は二度とドイツに戻らず)、アンスバッハ=バイロイト辺境伯から最初1644名(うち461名損失)なかった・・・・と続きます。

 歴史書にはたいてい“イギリス軍”となるのですが、イギリス人ではないのです! そのあたり、皆さん、国際感覚として是非覚えておいてください。こうして、『君主論』等でのマッキャベリの妄想(国民軍の創設!)が、実に、上記1792年8月10日のテュルイリー宮殿の惨劇で実現した、とも言えましょう。

 これらの傭兵=プロの軍人が、民兵あるいは訓練を受けた国民軍に負けていく、これがフランス革命とその後のフランス革命戦争まで、延々と繰り返されるシーンとなっていきます。と、このあたりでとりあえずto be continuedとしましょう。

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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