2011年10月

総政をめぐるトピックスPart4:“傭兵”たち:スイスの実像、そしてグルカ#2

2011 10/31 総合政策学部の皆さんへ

 #1は、時間の流れがスイスの傭兵稼業を追い越していく、そんな話で終わりましたね。稼業をいったん始めれば、なかなかやめられない。どんな世界でも同じです。しかし、時代がそれを押し流していく。そんな時代が、フランス革命を契機とした国民国家、そしてそれを維持するための公的暴力装置国民軍の創設とともに訪れます。

 スイスでは、1874年に憲法改正によって傭兵輸出が禁じられ、さらに1927年に外国軍への参加も禁止します(Wikipediaによる)。このため、バチカン衛兵をのぞけば、スイスの傭兵輸出は公的に終了します。

 もちろん、個人では続けておられる方もいらっしゃるでしょう。例えば、いわゆるPMC(Private Military Company)など。しかし、国家の関与はなくなります(一応、永世中立国ですから)。

  もっとも、この永世中立国が例えば、古くはエリコン(1906年設立、1999年にドイツの軍需産業コングロマリットであるラインメタルに兵器部門を売却するまで、エリコンFF20mm機関砲等、現在も使用中の名器を、しかも日本軍とアメリカ軍の両方に供給する等、武器商人としては理想的なビジネスにいそしむ)、あるいは現代ではシグ(SIG)(1853年設立、鉄道の客車を製造しながら、1860年から銃器製造[ただし、2000年に売却して兵器部門から撤退」)等を擁しているのは、すでにご紹介済みかと思います。 

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 一方、20世紀に入ってからも、“血の輸出”がなくなったわけではありません。 その一つがグルカ兵です。私も子どもの頃は、「ネパールに“グルカ族”という民族がいて、イギリスがそれを傭兵に雇っている」等と聞いていたこの人たちですが、実は、“グルカ族”等という民族は存在しないそうです。

 「ネパールの首都カトマンズから西に約80キロメートルのゴルカ(英語:Gorkha ネパール語:गोरखा)という地名による(=いわゆるグルカランド)。単に「ゴルカの人々」という意味で、あるいはネパールのシャハ王朝(またはシャー王朝 ネパール語:शाह वंश)がゴルカ出身であったことから「ネパールの人々」の意味で、Gurkhasと英語表記されていたものが誤解され、日本語でグルカ族という名称がつけられたものと思われる」(Wikipedia)

 つまり、イギリス帝国主義全盛期、そのイギリスの都合で創り上げられた地域的傭兵システムなのです。国際政策にまったくぴったりの話ですよね。国家とは何か? 民族とは何か? 戦争とは何か?

 とくにこのグルカの人たちは「2004年には、イギリスのブレア首相によって、イギリス軍で勤務したグルカ兵は、完全なイギリスの市民権を付与されるようになった(Wikipedia)」とのこと。すると、国籍とは何か? おもしろいですね。是非、レポートのテーマに“傭兵”を!

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 さて、イギリス(というより東インド会社軍)は、はじめこのグルカ(=ネパール)の人たちと戦争します。それがグルカ戦争です(1814~1816年)。英軍はネパールを屈服させ、1816年3月4日、スゴウリ条約を締結、シッキム、クマオン、ガルワール等の地域を失います。現在のインド・ネパールの配置が決まっていくのですね。

 しかし、その間、イギリス側はネパール兵に着目します。とくにイスラームでもヒンズーでもない彼らは精強にして、忠節。兵士としてはまったく申し分がない。すでにグルカ戦争の最中、脱落したグルカ兵を編成して、「ナシリ連隊」が結成され、後世「ジョージ国王直参第一グルカ銃兵隊」に再編されたとのこと(Wikipediaから)。

 グルカ戦争後、味をしめた東インド会社は、ネパールに傭兵システムを認めさせます。スイスとはまた別の展開で、新たな国家的傭兵システムが誕生するのです。

 「かつての敵」をちゃっかりスカウトする。このあたりがイギリス人のグローバル戦略の巧みなところです。その上、宗教上のトラブルもない。広大なインド(あるいはアジア植民地)を支配するのに、イギリス人だけでは到底足りませんから、ここは剽悍なグルカ兵の活躍の場、ということになりました。

 このグルカ兵ですが、現在は、志願者にとって「非常に狭き門で、小学生程度の子供の頃から格闘技や英語等の基礎教育を受けさせるための専門学校もネパール国内に存在する。また、グルカ兵は、徴兵制でも志願制でもなく、イギリス軍のスカウト部隊が山村を巡回する方式を取っている」なのだそうです(Wikipedia)。

 ここまで来ると、ちょっとうなってしまうというか、イギリス人の本質を考えさせられます(「ドイツ人は戦争に負けるだろう。彼らは戦争しかできないから。イギリス人は結局勝つだろう。彼らは戦争以外のことはすべてできるから」という、イタリアの知識人の言葉を思い出してしまいます)。 

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 現在のイギリス陸軍の編成を見ると、“管理師団”に属さない部隊、つまり特殊な任務にある連中のなかに、“ロイヤル・グルカ・ライフルズ(Royal Gurka Rifles)” があります(エンブレムは交差した(グルカ兵伝統の)ククリナイフ;画像はhttp://en.wikipedia.org/wiki/File:Gurkha_TRF.PNG)。2大隊からなるグルカ連隊(約3600人)という構成になっているようです。

 このグルカ兵は、イギリス軍の行くところ、例えばフォークランド紛争等への先遣隊として現在も活躍中とのこと。しかし、冷戦後の任務の縮小で、退役後はやはりPMCにかかわることもあるようです。

 たとえば1995年にはGSG(グルカ・セキュリティー・ガーズ)が設立されています。ネットで調べると、2005年設立というGrokha Security Service(GSS)という団体も見つけました(http://www.gurkhasecurityservices.co.uk/)。

ヒーローと悪役について:映画その他を紹介しましょう番外編&『ワ―ロック』に見るアメリカ文化での善と悪

2011 10/21 総合政策学部の皆さんへ

 ヒーローと悪役、どう違うのか? 差はあるのか、ないのか? 実は、映画の作り手たちも迷うところです。

 おもしろいことに、俳優もまた善玉タイプと悪玉タイプにいつのまにか仕分けられていきます。しかし、悪玉俳優として登用されることが、本人にとって幸福かどうか?

  とりあえず食ってこそいけるが、一度はまれば、ずっと悪役をやり続ける事になりかねない。そして、いつのまにか“色”が着いてしまって、悪役から離れられなくなる。それがかつてのハリウッド映画です。

  その一方で、どの俳優が演じるかで、観客も自ずと誰が悪役で、誰が善玉か判然として、安心して見ていられる。これが大衆演劇の常道というべき世界で、観客を混乱させてはいけないわけです。それは一方で、“悪役”から逃れられない俳優を産み出してしまう。とくに、ゲイリー・オールドマン等、ちょっとサイコ・オカルトっぽくなると、大変ですよね。

 ゲイリー・オールドマンは、『ハムレット』を裏返して見せる劇作家トム・ストッパードの傑作『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』の映画版で、運命と(彼我の)邪悪な意思に左右されてしまう哀れなローゼンクランツを演じたほか、映画『蜘蛛女』では、女を操っていると思い込んでいたのに、逆に女(=蜘蛛女レナ・オリン畢生の怪演です)に操られる哀れな悪徳警官で良い味を出していました。

 それが、いつの間にか「エキセントリックな役を演じさせたら当代随一であると認められ」(Wikipedia)ということになってしまって、『レオン』や『フィフス・エレメント』等では様々な悪玉を展開しています。もっとも、当の本人は「役柄とは対照的に謙虚で子煩悩な性格で、オールドマン本人は「自分に悪役をオファーする連中は、想像力のかけらも無いのだろう」と述べている」(Wikipedia)とのことですが。

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 もちろん、そこから出世する人もいます。

 その筆頭はPart1でご紹介したハンフリー・ボガードでしょう。外科医で厳格なプレスビテイリアンの父、画家で(アメリカのプロテスタントの世界ではもっとも格が高いと聞いたことのある)エピスコバリアンの母の間に生まれた彼は、高校を中退、海軍にはいるもやがて演劇の道を歩みます。

 しかし、駆け出しの1930年代は、もっぱらギャング映画の敵役をやらされます。一作だけその頃の作品を観た事がありますが、きつい三白眼で脅す姿は、卑劣な悪漢タイプにあまりにぴったりでした。これがヒーロー役に転じてからも、精神的に問題をかかえた艦長役[ケイン号の反乱]、あるいは狂暴な脱獄囚役[必死の逃亡者]につながります。

 それが、1941年の『ハイ・シェラ』で犯罪者役ながらも、“陰のある主役”を演じ、そして、ジョン・ヒューストン監督デビュー作『マルタの鷹』およびマイケル・カーティス監督の『カサブランカ』で、AFIによる「アメリカ映画スターベスト100」(1999年)で男優第1位の座を獲得します。

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 それはさておき、善玉と悪玉がはたしてすっきり分かれるのか? いくつかの映画はこの難問に挑みます。その一つは『ワ―ロック』でしょうね。この映画はなかなか複雑な構成をしています。それもかなり昔に観たので、記憶も定かでありません。Amazon.comのDVD紹介の助けを借りましょう。場所は、西部のとある町ワ―ロック。

 この町を支配するのは牧場主マッキューン。よくあるパターンです。このあたりは、観客の期待を裏切らない。そして、その悪役の下の若いギャノン(リチャード・ウィドマーク紛演)は良心の呵責に悩む・・・もう、筋書きがわかった様な気になりますね。

 しかし、町の人々は秘かに雇われ保安官クレイを呼びます。アメリカの実事俳優ヘンリー・フォンダが、この傲慢ですけど腕は確か、しかし、実は悪い噂もないわけではない複雑な役を快調に演じます。そして、悪をやっつけるためには、この程度は・・・・と、みんな考える。

 クレイは全身黒づくめで登場、ともかくダンディなのです。歌舞伎で例えれば、ご存じ『忠臣蔵』の斧定九郎にもひけは取りません。そして、このクレイにつかず離れずついてくる悪役ギャンブラーモーガンを(ある時はイタリアの大道芸人、ある時はギリシャのパルチザン、さらにある時はネイティブ・アメリカン、そしてハワイの酋長、とやらない役はないほどの国籍不明の怪優)アンソニー・クインが、こちらも怪演です。実は、モーガンはこのクレイにパラサイトしながら、行くさきざきで秘かに利をむさぼっているのです。

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 そのクレイは、“正義”を盾に、マッキューン一派を粛清していきます。いかにも手慣れたやり方ですが、彼の傲慢さとモーガンが醸し出す悪の雰囲気に、やがて人々は「正義のために権力とワルが手を結んで、小っぽけなワルを追い出したことの代償」に気付く(Amazon.comの紹介より)。

 さらにギャノン、クレイ、モーガンをめぐってそれぞれ女たちがからみ、恋愛と片思いが交錯する始末。観客はいったい何が「正義」であり、何が「悪」なのか? 何が「幸福」で何が「不幸」なのか? この結末をどうつけるべきか? 思いは千路に乱れます。

 そして、ギャノン(=回心した元悪党)はなんと町の人々の期待をにない、クレイ(=正義を標榜しながら、それが正しいかどうか、自らも悩む男)と白昼、1対1の男の対決に突き進んで行くのですが・・・・・・と、ここまで書きながら、衝撃の結末は、是非、じかに観ていただかねばならず、あえて伏せておきましょう。

 それにしても、あのブッシュ君も、せめてテキサス州知事時代に、この『ワ―ロック』でも観ていればよかったのに! と、つい思いますが(観れば、チェイニーラムズフェルド等のとりまきがモーガン的役回りであることがわかるはず)、いやいや、観ていてもやっぱり駄目だったかもしれません。

 この「ヘンリー・フォンダ、アンソニー・クイン、リチャード・ウィドマークの3大スター豪華競演!」(Amazon.com)ですが、実はエドワード・ドミトリク監督は、最初ギャノンにヘンリー・フォンダを(彼のはまり役からすれば、当然、回心した悪人 → 真の善玉への回心という筋書きにぴったり)、クレイにリチャード・ウィドマーク(もともと悪玉俳優出身なので、一見善人、しかし、実は・・・・という筋書きにぴったり)を構想していたのに、どうも、それではぴったり来ない。まったく逆のキャスティングにしたことで、この複雑な善玉/悪玉逆転映画を完成させた、と聞いたことがあります。

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 私は実は、このリチャード・ウィドマークが好みの俳優の一人です(ハンフリー・ボガードにはやや及びませんが)。彼はWikipediaでは「灰色の目としゃがれた声、冷やかな笑顔をトレードマークに、主にギャング映画での非情な殺し屋、戦争映画での冷徹で人望のない指揮官役などで持ち味を発揮」「敵役として大いに売り出したが、やがて悪役イメージからの脱却をはかり(愛する娘が学校などでイジめられない為に、と言われている)、やがて善玉・悪玉の両方を演じられる貴重な性格俳優としての地位を確立する」とあります。

ピュロスの勝利:あわせて戦略と戦術の違いについて#2

2011 10/17 総合政策学部の皆さんへ

 さて、#1に続いてピュロスの勝利ですが、皆さんは彼の失敗は何が原因と思いますか? まずは巡り合わせも悪かったかもしれません。

 アレクサンドロス大王の遠征時、アケメネス朝ペルシアキョロス2世(大王)以来の220年の治世のはて、帝国拡大に邁進したものの、それを統一的に運営する制度の創成に苦しみ、サトラップ(地方行政官)らの反乱、あるいは王家の中の紛争(Wikipediaによれば、最後のダレイオス3世戴冠前には「宦官バゴアスを中心とした宮廷陰謀により王位継承適格者が相次いで死去し、前王アルセスも即位3年目に殺害されてしまい、傍系(アルタクセルクセス2世の兄弟の子孫)の王族の彼が即位」となっています)、そしてなによりギリシア戦役で疲弊していて、いたずらにその豊かさを侵略の対象としてさらしてしまった感があります。

  それに対して、ピョロスの相手のローマは、まだギリシア文化の“悪風”にも染まらず、質実頑健、意気も高い相手でありました。

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 しかし、そうした“たまたまな要素”をのぞけば、ローマ軍マリウスの軍政改革のはるか以前、国家をあげてのいわば“総力戦”にのぞみ、かつ兵士もローマ市民権を持つ者に課せられた義務であるという、いわば国民皆兵的兵役のもと、意気の高い兵士たちだった。

  それに対して、ピュロスの手勢は出身地から切り離され、異国での傭兵軍団稼業の形をとり、そして兵士の補給も効かない。となれば、補給戦の段階ですでに不利な立場にあったわけです。

 総力戦を戦う決意をもったものには、小手先の戦術だけでは勝てない。これは後年のポエニ戦争でのハンニバルも同様です。

 司馬遼太郎作『項羽と劉邦』でも同じ展開ですね。常勝を誇りながら、しかし、結局は身内の兵しか信じられない項羽、そして負けても負けても名兵站家蕭何が後方から兵士を補給する劉邦、この差が垓下の戦いでの四面楚歌となり、の勝利に結びつく。

 同じように、戦術では無敵ながら、補給戦に負けた代表が、第2次大戦の北アフリカ戦線とノルマンディー防衛戦の英雄にして“砂漠の狐”ことエルヴィン・ロンメルです。彼は、エジプト征服まであと一歩というエル・アラメインの戦いで、豊富な補給に支えられた“親愛なるモンティ(バーナード・モントゴメリー)”に一敗地にまみれます。このあたり、現代イスラエルの軍事学者マーチ・ファン・クレフェルトは著書『補給戦』の中で、ロンメルをかなり批判的に評しています。

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  さて、クレフェルトも指摘していますが、戦いには勝つけれど、手ゴマが次々に減っていく:ここに戦術(tactics=戦闘に勝つためのスキル)と、戦略(strategy=個々の戦闘を超えて、戦争に最終的に勝利するためのパースペクティブ)の差があからさまになってきます。これこそ皆さんに覚えてほしいことです。戦術と戦略の違い、それが“補給戦”という形であらわれる。それはビジネスも同じです。

 この“補給戦”を支えるのが“兵站(ロジスティックス”)”です。無敵のハンニバルに対して、ひたすら追尾しながら、反撃されればすばやく逃げるという“いやがらせ”に徹して、「勝ちはしないが、負けもしない」戦略=持久戦略=後世のいわゆるファビアン戦略を採用したローマの執政官独裁官クィントゥス・ファビウス・マクシムスは、ハンニバルの弱点が兵站にあるということを見抜いていたのです。

 このファビアン戦略の唯一の欠点は、味方が待ちきれない事! 最大の敵は、実は、身内にある。つらいですね。ファビアンはローマ市民に“クンクタートル”と呼ばれますが、これは“のろま”、“ぐず”の意とのこと。彼の独裁官の任期がきれたと同時に、積極派のガイウス・テレンティウス・ウァロは執政として、同僚ルキウス・アエミリウス・パウルスを引きずるようにハンニバルに挑戦したと史書に伝えられています。

 その結果、ローマ軍は軍事史上いまだに語り継がれるカンナエの戦いで木っ端みじんに粉砕されます。そして、ローマ市民も「どうやら、ぐずのファビウスこそが正しいようだ」とやっと気付くのです。もっとも、このファビウスさえもハンニバルにとどめをさすことはできない。とどめをさしたのは、慎重派(=真の意味での“保守派”)ファビウスらを説き伏せ、敵地カルタゴを直接襲撃することでハンニバルをイタリアから誘いだした(=戦いの主導権を握った)スキピオ・アフリカヌスにほかなりません。

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 ところで、ピュロスの勝利的、あまりにも苦い結末をともなう勝利とは、他にどんなものがあるでしょう。

 実際の戦闘(battle)で言えば、1812年9月7日、故国フランスから遥かに離れたモスクワ西方のボロジノで、ロシア軍12万に対して44000人を死傷させながら(損耗率36.6%)、自らの13万3千人も33000人が死傷(損耗率24.8%)、ロシア軍の名将クトゥーゾフの指揮下のロシア軍に戦略的撤退を許し、その後、モスクワに入城するもロシア軍の焦土戦術により、得るものもほとんどなかったボロジノの戦いでの、フランス皇帝ナポレオン1世が典型例かもしれません。この後、ナポレオンは坂を転げるように権力を失っていきます。

 それでは、ビジネスでは? まず、ライト兄弟の特許争いが挙げられるかもしれませんね。1903年12月17日大西洋岸の寒村キティホークでのライトフライヤーの飛行(852フィート=約260m)、そして1909年のアメリカ陸軍1号機の売り込みによって、ダイムラーやフォード等発明家=起業家=大企業化の夢を持っていたであろうライト兄弟は、不本意にも他の発明家たちとの特許争いに巻込まれます。

 裁判には勝つものの、消耗していきます。兄のウィルバーはキティホークの初飛行から8年後、裁判で消耗したように死亡、弟のオーヴィルもライトフライヤーを一時期、イギリスのサイエンス・ミュージアムに貸し出す等、疲れ果てた彼らは起業家の道を閉ざされていきます。

 このあたりの機微については、「(発明に)たぐいまれなものがあるが、改良発明も多く、盗作疑惑のあるものや、誹謗中傷を受けたものも多い」とWikipediaで評される発明王トーマス・エジソンや、ミシンをめぐる複雑な特許争いを制して巨大企業をつくりあげたアイザック・メリット・シンガー等のタフさを見習いたいところではあります。皆さんの中で興味があれば、是非、眞壽田先生の知財関係の授業を履修して下さい。 

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 ちなみに映画での“ピュロスの勝利”と言えば、フランス映画シネ・ノワール(犯罪映画)の傑作中の傑作、『現金(げんなま)には手を出すな』の主人公マックス(ジャン・ギャバン)でしょうね。ネタばれを避けるとして、詳しくは書きませんが、Wikipediaの紹介では「だが闘いの末に待っていたのは、勝利と呼ぶには余りにも苦い結末だった」です。

住まいの人類学Part6:植え付けられた街、そしてその増殖#3~“銀座”増殖編~地名の社会言語学

2011 10/15 総合政策学部の皆さんへ

“植え付けられた街”シリーズ、日本での植え付けられた街の典型、銀座、#1#2に続いてその#3、銀座増殖編です。#2でも紹介した建築探偵藤森照信さんの『明治の東京計画』の一節に

  • 煉瓦街計画は、その高級さのあまり裏街に三割もの空き家を残した結果、失敗と評される破目に陥った
  • しかし、都市計画の成否を二年三年の目盛りで計って良いものだろうか。・・・・昭和に入ると、その名は新しい商店街をさす普通名詞となり、各地の駅前通りにご当地銀座の名を広げ、やがてはアルプス銀座といったふうに人だかり一般を示すまでになろう

とあります。つまり、“銀座”が日本中に増殖していく。そのあたりについて、少し調べてみましょう。「地名」の社会言語学と云うべきかもしれません。

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Wikipediaの“銀座 (地名)”を見ると、本来の銀座は伏見銀座(銀座発祥の地、のち京都銀座[現両替町]に移転)、駿府銀座(のち江戸銀座に移転)、大阪銀座、そして長崎銀座だけだそうです。そして、それが現在地名として残っているのは伏見銀座(京都市伏見区銀座町)および江戸京橋銀座(東京都中央区銀座)のみ。ということは、後の銀座は“増殖”なのですね。

それでは、その実情はどんなものでしょうか? 一つのパターンは、正式な地名に「銀座」がついているところです。

例えば、北海道長沼町銀座は、googleマップで探すと、長沼町役場から東南に伸びる道央国道(国道337号線)の北南にまたがる商店街のようです。ストリートビューでだいたいの様子もわかります。

さて、Wikipediaに列挙された地名は鹿沼市熊谷市本庄市富士吉田市、岡谷市飯田市塩尻市静岡市清水区熱海市伊東市牧之原市富山市越前市恵那市半田市刈谷市彦根市周南市徳島市、北九州市戸畑区、児湯郡川南町にあるとのこと。ちょっと気付いたところでは、どうも東日本に偏っているようですけれど、どう思いますか?

と思っていたら、HPで「銀座コレクション」というものを見つけました(http://uub.jp/nam/ginza.html)。やっぱり様々な事に興味を持つ方がいるようです。

全国で300から500のようだとお書きですが、とりあえず、掲載されている資料をもとに計算すると、2011年9月19日掲載時点では305箇所、そのうち197が北海道・東北・関東で、51が北陸・東海、近畿26、中国・四国13、九州・沖縄18ということで、やはり東日本中心ですね。

とくに東京都は93と全体のほぼ3分の1です。それでは、東京都を特例としてはずすと、それでも東日本優位ですね。

もっとも、この数値は読者からの情報によるものなので、ひょっとしたら「銀座」に興味を抱く読者が東日本中心のため、西日本の情報があまりあがっていないのかもしれません(そんなことはないかもしれませんが、とりあえず、統計の解釈って、難しいですね)。

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さて、こうした地名がどうやって出来たのか、ちょっと調べてみましょう。全部を当たるのはとても無理ですから、やはりWikipediaに単独項目として出ている「銀座商店街 (彦根市)」を開けてみると、自ずとパターンが読めてきます。なお、この商店街は「彦根城の南約1kmに位置し、北西部が中央商店街 (彦根市)・彦根市場商店街と、東端で登り町グリーン通り商店街・リバーサイド橋本通り・花しょうぶ通り商店街と接する」そうです。

もともとは「城下町の形成とほぼ同じ頃に「川原町」・「土橋町」が成立し、商業地として発展していった。1951年(昭和26年)に両町が合併して現在の銀座町が成立し、銀座商店街となった」ということです。

つまり、町村合併ではありませんが、合併にあたって新しい地名を選ぶ際、“銀座”にあやかり、お名前を頂戴したのでしょうね。伏見稲荷大社から各地の「稲荷神社」に勧請(分霊)されていったように、せめて「銀座」にあやかりたいということなのでしょう。

さて、彦根市の銀座商店街は、百貨店(マルビシ;1933年創業、昭和30年代前半に百貨店としては閉店)やスーパーマーケット(平和堂;1957年創業)もできます。Wikipediaでは、

1961年から1973年にかけて、約10億円を投入して都市計画街路整備事業と防災建築街区造成事業を実施して近代的なビル群に姿を変えるなど、彦根市の商業の中心地として役割を担ってきた」「しかし1889年に開業した彦根駅からやや離れた立地のため、1970年代後半の彦根駅の改築・市役所の駅前への移転、郊外型大型店の出店などによって次第に衰退していった。

1998年に中心市街地活性化法が施行されると、彦根市のTMO構想と連携してアーケードを整備するなど、賑わいを取り戻す活動を積極的に行っており、中小企業庁の「がんばる商店街77選」に、彦根夢京橋商店街、花しょうぶ通り商店街、登り町グリーン通り商店街、おいでやす商店街、四番町スクエアとともに「彦根市内6商店街」として選ばれている。

とあります。つまりは、日本中の中心市街地と同様に、きわめて典型的なパターンをとっているようですね。都市政策の方には勉強になるかもしれません。なお、中小企業庁:「がんばる商店街77選」のHPは http://www.chusho.meti.go.jp/shogyo/shogyo/shoutengai77sen/machidukuri/5kinki/3_kinki_09.htmlです。

もう一つ、Wikipediaに単独項目として出てくる徳島銀座町は「徳島市の東部に位置し、両国橋から籠屋町一丁目に抜ける繁華街である。銀座商店街を中心に、各種の商店が軒を並べ、東新町商店街や富田町の繁華街にも隣接しているので、常に買物客でにぎわっている」「元は東新町の一部で、1975年に現在の町名となった」とあります。

もっともこの「銀座商店街」は、Wikipediaに別項があって「2005年に籠屋町商店街にあったダイエー徳島店が撤退したことが影響し、年々賑わいが退きつつある」ともあります。人口は77人、35世帯ですから、現住している住民はごく少なく、営業用の建物が集まっているところなのでしょうね。商店街のHPはhttp://www.awaginza.com/です。

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Wikipediaのリストに見るもう一つのパターンは、地名ではなく、通りや商店街についた銀座です。 Wikipediaでは、例えば、「仙台銀座」や「戸越銀座」の名前が出ています。

このうち、「戸越銀座」については、「関東大震災後、銀座の瓦礫をここに運び、低地を埋め立てたことから『戸越銀座』と命名された。全国各地にある「○○銀座」の第一号でもある」とあります。

色んな名前の由来があるものです。この商店街は延長1.3kmにもなる巨大商店街とのことです。400軒が並び、客が総計1万人を超す日もあるとのことです。商店街のHPはhttp://www.togoshiginza.jp/です。

一方、仙台銀座は仙台市中心部にある小規模な飲食店街とのことだそうで、とくにまとまった紹介のHP等はないようですね。

実は「銀座」は海外にも進出しており、中華民国台南市ならびに高雄市にもあるそうです。

台南銀座は、台南市中西区にある商店街とのこと。高雄市の方は鹽埕町銀座通りという地名のようです。

日本による植民地時代の古い写真を集めた「植鉄の旅(たぶん、植民地時代の鉄道を巡る旅でしょう)」というHP(http://liondog.jugem.jp/?eid=208)に、台南銀座の写真がありました(http://liondog.img.jugem.jp/20110726_2197548.jpghttp://liondog.img.jugem.jp/20110723_2192475.jpg)。

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最後に、こうやって「銀座」という地名を調べると、もう一つのポイントは“命名時期”かもしれません。つまり、何時そこが“銀座”となったのか?

上記の“戸越銀座”が第一例とすれば、それは1923年の震災以降のわけです。そして、おそらくは、最近は、“銀座”という名前を勧請することもないでしょう。

それならば、いったい何時の時代にどんな由来で“銀座”と名付けられ、そしてやがて寂れて行ったのか、それを調べるだけで日本の戦前戦後そして高度成長期を通じての都市政策の一面をあらわす仕事になるはずです。

食べることについてPart9:カレーとラーメンについて~異なる食文化を取り込んでいくこと:カレー編

2011 10/9 総合政策学部の皆さんへ

 カレーライス(あるいはライスカレー)とラーメンが日本の“国民食”となってから、もうかなり時が経ちました。かつて、「カレーライス、汚き飯と下女覚え」と川柳に詠まれたカレー(明治31年、出典は浜田義一郎『江戸食べ物歳時記』中公文庫)、そして、その語源さえはっきりとはしないラーメン。

  世間というものは、例えば“文化財”などにこそそれなりの関心がはらわれ、“記録”が残されます。しかし、庶民の暮らし、なかんずくB級グルメ等には記録にとどめる者もなく、世代を経て年寄りたちもこの世を去れば、いつしか忘却の彼方に消え去っていく・・・。

 世界各地のカレー料理について、全日本カレー工業協同組合のHPに写真付きで説明があります:http://www.curry.or.jp/reference/index.html

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 ということで、食文化と社会言語学、そして異文化受容の歴史としてこの二つの食べ物を扱ってみたいと思います。なお、江戸庶民文化研究家の浜田先生の『江戸食べ物歳時記』については、「高畑ゼミの100冊Part9;食について#2『江戸たべもの歳時記』そして『仰臥漫録』」(2009/12/21)を参照して下さい。

 まず、浜田先生の考証によると、日本人がカレーを初めて見たのは(というよりも「見た記録を書き残した」最古の例は)、文久3年12月29日に横浜を出帆したフランスの砲艦モンジュル号に便乗した江戸幕府からの遣欧使節一行34名のどなたかによる以下の記述です。

 「飯の上にトウガラシ細身に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にてまぜ、手にて食す。至って汚き人物の者なり

 なお、Wikipediaによれば、一行中の三宅秀だそうです;帰国後、ヘボンの英語塾で勉強、医学を学び、のち、東京大学医学部長、医学部最初の医学博士となります(時代を感じますね)。

 最後の一文は民族差別の気配も感じないわけにはいきませんが(手で食べるのは結構むずかしいものです。30年ほど前にスマトラの村で現地の人に、右手で飯を食べるのを教わったことがありますが、なかなかうまくいきません)、生まれた始めて目撃した異国の風情に驚きながらも、ヨーロッパへの旅にむかうところです。

 これが、その40年後、夏目漱石の『三四郎』になってしまえば、主人公の三四郎が「昼飯を食ひに下宿へ帰らうかと思ったら、昨日ポンチ絵を描いた男が来て、おいおいと云ひながら、本郷の通りの淀見軒と云ふ所に引っ張っていて、ライスカレーを食はした」と出てきます。ライスカレーは、田舎からぽっと出のうぶな連中を驚かすネタの一つだったわけです。

 このポンチ絵を描いていた男(佐々木与次郎、のち童話作家になる鈴木三重吉がモデル)が連れて行った淀見軒は、当時本郷4丁目28番地、現在は5丁目ということで、グーグルマップで探してみましたが、当然というか、見つかりませんでした。

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 ところで、この“ライスカレー”、遣欧使節が目にした現地人の食べ物が日本に直接伝播したわけではありません。発祥の地インドから、いったん18世紀にイギリスに紹介されます。その時、「香辛料を使ったインドの煮込み料理をまとめてカレーと呼び始めた」のです(Wikipedia)。

 さらにこの“カレー”という名称も、語源についての諸説が錯綜、なかなか一筋縄ではいきません。

 「各種スパイスで具材を煮込んだ汁状のもの、即ちインドのタミール語のソースの意のカリ(Kari)から転じたという説や「香り高いもの」、「美味しいもの」という意味で使われるヒンズー語の「ターカリー」(Turcarri)から「ターリ」(Turri)に転じ、英名になったという説やその他の説があります。いずれにしても、インドを中心とした熱帯、亜熱帯地方でのスパイシーな料理を総称して英語で《カレー》と呼ぶようになったものです」(全日本カレー工業協同組合のHPhttp://www.curry.or.jp/whats/index.html)。

 英語を通じて全世界に喧伝されてしまった「カレー」という言葉は、インド料理屋でもそのまま使われてしまう。

 一方、インドでは公用語だけで22の指定言語がありますから、たとえタミール語の話者は7400万人という大言語であっても(スリランカでも公用語)、インド全体の12億人の一部に過ぎません。したがって、地域によれば「カレー」という言葉も本来は存在しなかったところもあったはずです。

 日本の食べ物を想定すると、例えば、ヨーロッパ人が上州のあたりで「おっきりこみ」を食べて感激して、いつしかウドンが「おっきりこみ」という名前でヨーロッパで流行してしまう。それが、日本に逆輸入されると、「えっ、これは日本ではふつうはウドンというんだよ」と抗議しても、もはや手遅れ。「おっきりこみ」が国際語としてのデ・ファクト・スタンダードになってしまう。そんな事態が生じてしまった、というところでしょうか。

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 私が現地風カレーを初めて食べたのは、タンザニアの首都ダレス・サラームのインド料理店でしたが(インドネシアのパダン料理もカレーっぽい煮込みがありましたけど)、殆どとろみのないスープで肉、魚、卵(“エッグ・カレー”というので、注文したら、丸ごとのゆで卵が一個、シチュー皿の中で、でんと煮られています)、野菜(ベジタリアン用のベジタリアン・カレー、豆などが主ですが、これが旨い!)を煮込んだものでした。

 そのカレーが、小麦粉を炒めたルーによるとろみをつけることで、ヨーロッパの伝統的シチュー的な料理と受容され(とくに、冷蔵庫のない時代、ローストビーフ等いったん熱をくわえた肉類を処理するのに重宝がられたとのこと)に変わり、それが日本にも輸入されたという次第です。

 もちろん、明治初期はルーなどありませんから、カレー粉です。思えば、これも19世紀の産業革命前後に発達した食品工業の一つですね。複雑なスパイスの調合を工場にお任せすることで、一般市民も異国情緒溢れる料理が楽しめる。こうして、C&B社が商品化したとのこと。このカレー粉を小麦粉とあわせて、バターで炒めてルーを作る。昔の日本のカレーはやけに黄色くて、辛くないものでしたが、そのあたりは見よう見まねだったわけです。

 このC&Bとはクロス・アンド・ブラックウェル社で、二人の創業者の姓をつないだようです。もともとはJacksonというブランドでその創業はなんと1706年、、その後、West and Wyatt、そして1830年にEdmund CrosseとThomas Blackwellに買収されて、現在の会社名になったとのこと(英語版Wikipedia)。

 もともとはスープの仕出しから始まり、やがて缶詰・瓶詰め・乾燥食品等を売りだすようになるという、まさに近代的食品メーカーの走りです(この延長に、ハウスやヱスビーが出てくるわけですね)。

 その一方で、そうした食品類を商品として専門店化したのが、かの有名な(そうでもない?)フォートナム&メイソンですが、これはどうしたことか、日本語Wikipediaには(19世紀ナイルのベイカーをはじめとする多くの探検家たちに、現地でイギリスを偲ばせる保存食品を提供していた)この会社が記載されていません。もちろん、英語版にはきちんとこの名店がでています。

 英語版をあけると、。創業は1707年、C&Bとほぼ同じですね。食品製造業社とそれを販売する専門店が同時代に誕生する。昔、ロンドンに初めて行った時、真っ先に行きたかったのが大英博物館とこのFortnum & Masonでした。ところが、わくわくしながら行ってみたら日本の“明治屋”そっくり、というか明治屋の方が後輩なので、範をとったわけでしょう(ちなみに、明治屋は1885年横浜で創業)。ちょっとがっくりきた覚えがあります。

 なお、フォートナム&メイソンのHPはhttp://www.fortnumandmason.com/。フォートナム&メイソン手造りポーク・パイは5.95ポンドから、精選チーズ詰め合わせは38ポンド、ポルトガル産ピリピリトウガラシ(ピリピリは元来ポルトガル語で、それが日本語にもそしてスワヒリ語にも伝来したものです)は2.75ポンドです。

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  Wikipediaには、「日本の企業一覧(食料品)」で、膨大な数が載っています。なお、エスビー食品は「日本で最初にカレー粉を販売した」という話もあるそうですが、その名前S&Bは、前身の会社「日賀志屋」の商標が「ヒドリ(太陽と鳥)で“Sun&Bird”の頭文字とのこと(Wikipedia)。もっとも後に、“Spice&HerBの略とも言っているそうです(ものは言いようです)。

 カレー粉は様々なスパイスから成り立ちますが、最低どのぐらいのスパイスが必要と思いますか? 私の個人的な意見では、クミン(馬芹;これがないとカレーの香りがでません)、ターメリック(鬱金;これがないと黄色くならない)、トウガラシ(これがなければ、辛くはならない)、そしてショウガかな?

 この4つを混ぜれば、なんとなくカレー的な味がしてきます。これに、お好きならばコリアンダー、胡椒、ニンニク、 クローブ(丁子)、シナモン(桂皮)、カルダモン(小荳蒄)、ナツメグ(肉荳蔲)、オールスパイスキャラウェイ(姫茴香)、フェンネル(茴香)、フェヌグリーク(胡廬巴)等を足していって下さい。油は、私は粗製パーム油(神戸南京町で売っています)をお奨めしますが、これは趣味が偏っているかも知れません。  

 食品工業の勃興について、例えばハウス食品とかエスビー等の企業に興味がある方は、就活前に是非、会社研究をして下さいね。

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 このカレーが日本に伝来・普及していった歴史は、ラーメンと違って、ある程度わかっています。

 「異文化に出会う時:日本人はどのようにして異なる食文化に出会ったか?Part1(2010/11/15)」にも紹介したように、早くも明治7年刊の『西洋料理指南』で、「鶏、エビ、タイ、カキ、赤蛙等」を使う、東南アジアのカレー料理を偲ばせるようなメニューがでてきます(国立国会図書館の第129回常設展のHPも参照;http://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/entry/jousetsu129.php)。

 ところで、カレーにはカレーライス、ライスカレー、カリー&ライス等の呼称の違いがあります。子供の頃に、家庭で手造りで食べるのがライスカレー、食堂で食べるのがカレーライス、そしてレストランでうやうやしく別の食器に入って出てくるのがカリー&ライスである、とかいいかげんな話を聞いた覚えがあります。

 明治期、各種の洋食(カレー、肉じゃが、カツレツ等)を一般庶民に紹介することになる軍隊の給食において、陸軍はライスカレー(純日本語にすると辛味入汁掛飯)、海軍はカレイライスと呼んだようですね。当然、陸軍の方が日本各地に展開しているので、まずは“ライスカレー”が日本語として広まった、と言う話もあるようです。

◆軍隊の給食と残飯については「高畑ゼミの100冊Part23&住まいの人類学:貧民窟探険記シリーズ1『最暗黒の東京』中編;近代化の光(給食)と陰(残飯屋)(2011/09/2)」をご参照下さい。ライスカレーも、残飯屋を通じて貧民に広がったかもしれません。

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 それでは、“民間”では? 日本で最初にカレーライスを出した食堂は、東京風月堂だそうで、同店のHPを調べると、1877年(明治10年)「フランス料理を開業、カレーライス、オムレツ、ビフテキ等を8銭均一で売る」(http://www.tokyo-fugetsudo.co.jp/gaiyou/ENKAKU.html)とあります。

 一方、この研究室ブログに時々登場の「鉄道とデパートと住宅開発と娯楽施設で関西文化を作ってしまった」とも言える小林一三が1929年、梅田で鉄道会社直営という新たなビジネスプランを創造した阪急百貨店の大レストランでは随一の人気メニューに「ライスカレー」と出ています。なお、なおこのライスカレーに関連して、有名な話があります。Wikipediaから紹介しましょう。レストラン開店後、

  「ライス(5銭)のみを注文してテーブル据え付けのウスターソースを掛けて食べる客が多く、問題になった。しかし阪急社長の小林一三は彼らを歓迎する姿勢を打ち出し、「ライスだけのお客様を歓迎します」という貼り紙まで出させた

 この方針に疑問を抱いた従業員に「小林は「確かに彼らは今は貧乏だ。しかしやがて結婚して子どもを産む。そのときここで楽しく食事をしたことを思い出し、家族を連れてまた来てくれるだろう」と言って諭した」。これが“ソーライス(ソースライスの略)”の故事です。

 ビジネスに関心がある方はわかりますよね。これは、生涯を通じてレストランに来てくれるリピーターの確保という長期的経営戦略であることを。なお、小林一三については、「宝塚映画の謎Part1:総政100本の映画番外編(2009/12/28)」「“市”をめぐる人類学Part1:アフリカ等で市場を見ながら、経済人類学から都市・国際政策まで考える(2010/11/27)」等で、断片的ですが触れていますので、ご参照を。

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  一方、亡命インド人政治家ラス・ビハリ・ボース直伝のインド風カレーを昭和2年から提供している新宿中村屋では「インドカリー」です。ボースがこの純インド式カレーを作るにいたったのは、

 「東京のカレー・ライス、うまいのないナ。油が悪くてウドン粉ばかりで、胸ムカムカする。~略~カラければカレーと思つてゐるらしいの大變間違ひ。~略~安いカレー・ライスはバタアを使はないでしョ、だからマヅくて食へない

カラい、アマい、スッパイ、味みなあつて調和のとれたもの一番いい。舌ざはりカラくなくて、食べたあとカラ味の舌に湧いて来るものでなくてはダメねェ」(昭和7年、読売新聞掲載の「味覚の秋」)というボースの嘆きからでした(中村屋HPより;http://www.nakamuraya.co.jp/curry_room/room_01.html」。

 このボースの嘆き、日本料理で言えば、『美味しんぼ』の海原雄山のモデルの一人とも言われる食通北大路魯山人が戦後、欧米に渡航した折り、

 「ニューヨークのすき焼が昔から有名であるが、行ってみると、すき焼きでもなんでもない。桶のようにふちの高い鉄鍋の中で、菜っ葉を山のように盛り、見るからに不味そうな肉の幾片かを載せて、グチャグチャ似ている。それを日本通のアメリカ人がよろこんで、家鴨が餌を食うみたいにがぼがぼ食っている。主人なる男は新潟在の出身で、どこをどうやってか移民船にもぐり込み、ニューヨークで人夫などをしているうちに、人の入れ知恵で、すき焼き屋を始めたらしい」ということで、魯山人は「主人を呼び、わたしがほんとうのすき焼きの作り方をおしえると、「へえー、すき焼きと云うものはそういうものですか」と感心している始末である」『魯山人味道』(中公文庫版)

のような気持ちだったのでしょうね。

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 最後に、現代日本での食堂でのカレーライス/ライスカレー/カリー&ライスの標記の歴史的変遷、あるいは地方による分布を調べるのも、社会言語学的におもしろいかもしれませんね。カレーやその食べ方も地方差がそれなりにあるようです。

 例えば、東北出身の私は、京都で、カレーに生卵を入れるのを初めて見たときには(京都上賀茂にあった学生アパートの食堂で)、たじろいでしまいました。ダレスサラームのエッグカレーとえらい違いです。

 ちなみに、京都では「刻んだ油揚げの上から葛餡をかけたものを「たぬきうどん」「たぬきそば」と呼ぶのに対して、「大阪では油揚げを乗せたそばを「たぬき」と呼ぶ。「たぬき」だけが料理名であり、「そば」を付けないのは、たぬき=そば、きつね=うどんという事が大阪では一般的だからである」(Wikipedia)。

 この京都と大阪の文化の境界線は、高槻のあたりだ、とか、これもまた大学生時代のうろ覚えなのですが、現在はどうなっているのでしょうね? ついでに「きつね」か「けつね」かの違いもどのあたりとか? このあたりで、to be continued…としましょう。

マダガスカルをめぐる話題:大統領選挙と韓国企業

2011 10/6 総合政策学部の皆さんへ

 アフリカ大陸の東、インド洋に浮かぶマダガスカルのことは、ご存知ですか? この島国は2001年の大統領選挙以来、政治的不安定が日常化しています。

 とくに2009年の大統領選挙での混乱には韓国企業がからんでいました。これも国際政策の現場の一つとしてご紹介したいと思います。

 マダガスカルでは1960年のフランスからの独立以来、フィリベール・ツィラナナによる親フランス政権が続き、新植民地主義の典型といえるかもしれませんでした(新植民地主義、ご存じですね。政治的独立は与えるが、経済的には旧宗主国との支配関係は変わらず、かえって効率的に搾取できる[かもしれない])。

  この体制は、しかし、1972年の軍事クーデターで社会主義路線へ変更されます(当時は、タンザニアジュリウス・ニエレレを筆頭にアフリカ社会主義全盛期でした)。この路線を継承して1976~93年まで大統領だったのが海軍少佐出身のディディエ・ラツィラカです。

 しかし、1989年のベルリンの壁の崩壊等、社会主義の破綻が相次ぎ、ラツィラカは1993年の選挙で敗れて下野します。つまり、民主的な手続きで政権が交代したわけです。

 これだけでもめったにないことでしたが(アフリカで、民主的手続きで政権交代が進行すること自体が難しいケースが目につきます)、さらに世間を驚かせたのは、ラツィラカがしぶとくも1996年の選挙で50.7%の得票を得て返り咲いたことでした。

 アフリカ社会主義については多少の説明が必要でしょう。

「“統計”とは何か? アフリカで感じたこと;国際援助の現場から#6(2010/01/24)」や、「“市”をめぐる人類学Part2:アフリカ等で市場を見ながら、経済人類学から都市・国際政策まで考える(2010/12/19)」、さらに「“市”をめぐる人類学Part3:“インフォーマル・セクター”とは? +研究論文検索実習付き(2010/12/30)」等で少しずつ書いてありますから、そのあたりを参照にして下さい。 

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 しかし、2001年の選挙は、現在も泥仕合の続くマダガスカルの21世紀の始まりでした。この年、ラツィラカは野党TIM党首マーク・ラヴァルマナナと、開票結果を巡り対立します。

 ラヴァルマナナが勝利宣言すれば、ラツィラカも勝利宣言する(まったく泥仕合ですね)。あげくにラツィラカは非常事態を宣言、戒厳令をしきますが、逆にラヴァルマナナは臨時首都を設置する。その結果、一カ国に2人の大統領が並立して、内戦の危機が迫ります。

 結局、最高裁裁判所の判決でラヴァルマナナの勝利が確定、ラティラカはフランスへ強制退去させられます(たぶん、フランスが筋書きを書いたのでしょう)。

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 大統領になったラヴァルマナナは経済界出身(マダガスカル最大の日用品メーカーティコの所有者)で、国家立て直しに海外投資等による経済復興や貧困層の救済を訴えます。しかし、思うようにいきません。こうして、2007年に首都アンタナナリヴ市長選に当選したアンドリー・ラジョエリナがラヴァルマナナ批判を始めたあたりから、マダガスカルに再び混乱が起きます。

 そして、その混乱が極に達した一つの理由が、2008年11月に韓国の大宇グループに130万ha(=1万3千平方キロ=四国の面積の約7割)を、99年間無償で貸借する協定なのです。この協定締結を、ラジョエリナは自分のテレビ局を使って批判、ラヴァルマナナはそのテレビ局に閉鎖を命じます。

 こうして泥仕合が再開、首都の混乱、治安部隊の出動、反政府派の結集とお定まりのコースを経て、結局、軍部の介入によりラヴァルマナナは大統領辞任においこまれます。そのあげく、軍部は全権をラジョエリナに移譲、彼が暫定大統領に就任します(クー・デ・ターによる超法規的措置としか、言いようがありません)。

 これでめでたしか、というと、実は憲法では大統領は40歳以上という規定がある。したがって、34歳のラジョエリナには資格がないはず・・・というわけで、たとえ憲法高等裁判所が容認したとは言え、国際社会、とくにアフリカ連合(AU)にとってはとても認められない。このため、現在に至るも外交的に孤立、政情は不安定のまま、というわけです。

  • それでは、日本政府(外務省)はどんな態度なのか? 外務省のHPを見てみましょう。平成21年3月19日付けの外務報道官談話です。なんだかもっともらしき、いかにも良識派的発言かもしれませんが、このアフリカの一国家に日本が実効的に何かできることはほとんどない、ということです。
  •  
  • 1.マダガスカルにおいて、一般市民を巻き込んだ政治的混乱の中、憲法手続きに則らない形で政権交代が行われようとしていることについて、我が国として懸念を表明します。
  •  
  • 2.我が国としては、同国において、民主的手続きに基づき早期に憲法秩序が回復されることを強く期待します。また、すべての関係者に対し、暴力に訴えることなく事態の収拾に努めるよう求めるとともに、一般市民等の安全が確保されることを求めます。
  •  
  • (参考)
  • 1.ラヴァルマナナ大統領とラジョリナ・アンタナナリボ(首都)市長(野党)は従来より政治的に対立。昨年12月、大統領が政府批判を行う市長所属のテレビ局を閉鎖したことを契機に反政府デモが激化。3月からは、軍や軍警察の一部が大統領の指示には従わないことを明言。民意も大統領から離れつつあった。
  •  
  • 2.3月14日、市長派が大規模な集会を開催。軍も大半が市長派の側について政権移行を側面支援するなど、ラヴァルマナナ政権は事実上崩壊。16日夕刻、軍は大統領府の一部を占拠し、17日早朝にラヴァルマナナ大統領が立てこもるヤブルハ宮殿を包囲。17日、ラヴァルマナナ大統領は辞任を表明し、軍に権限を委譲した。報道によれば、軍は更に権限を市長に委譲。市長は新憲法を制定し、2年以内に選挙を行う旨を発表している
  •  
  • ついで、同年8月13日の外務報道官談話では、
  • 「1.政治的混乱が続くマダガスカル情勢に関し、我が国は、今般、同国の主要政治グループ4派間で憲法秩序及び民主主義体制の回復を目指すマプト政治合意等一連の合意文書が採択されたことを歓迎します。
  •  
  • 2.我が国は、今回の合意で示された国民和解の精神に基づき、主要政治グループ各派が合意の早期かつ着実な履行のために引き続き努力することを強く期待します。
  •  
  • 3.我が国は、今回の合意に向けて調停にあたったシサノ南部アフリカ開発共同体(SADC)マダガスカル問題調停特使(元モザンビーク大統領)をはじめとする、アフリカ連合(AU)、SADC、フランス語圏国際機関(OIF)及び国連等の努力を高く評価するとともに、これらによる努力を引き続き支持します。
  •  
  • (参考)
  • 1.マダガスカルでは、昨年12月より、ラヴァルマナナ大統領派とラジョリナ・アンタナナリボ市長派の対立が激化し、本年3月17日、憲法手続きに則らない形で、ラジョリナ市長を「暫定政府大統領」とする「暫定政府」が発足した。 
  •  
  • 2.4月30日、アディスアベバにて、AU主導の下、関係国や国際機関代表等で構成される国際コンタクト・グループが発足し、事態の収拾に向けた努力が継続されていた。
  •  
  • 3.8月8日、マプトでの国際コンタクト・グループ会合にて、今後成立する暫定大統領及び暫定国民連合政府の下で、15か月以内に憲法改正に係る国民投票、大統領選挙及び総選挙を実施することが合意された。暫定政府の構成等については、今後10日後を目処にマプトで開催予定の会合で議論される見通し。
  •  
  • 注:このマプト合意については、マダガスカル研究懇談会の深澤秀雄先生(東京外国語大学)のブログに翻訳がでています:http://ameblo.jp/hideofukazawa/entry-10406206620.html
  •  

 もちろん、みなさんご存知の通り、日本政府のいかにもきれい事的なご発言で、この複雑な問題が収まるわけもありません。ラヴァルマナナは引き続き南アフリカに亡命中、欠席のまま2009年の反対集会に対する発砲事件で殺人共謀罪で終身強制労働刑を言い渡されます。2011年2月に帰国しようとするも、マダガスカル政府の圧力で挫折する、というのが現時点での情勢です。

 これがマダガスカルという国にほとんど知識を持たない方のために、最大限、簡略化した説明と思って下さい(それでは、どうなるのか? 日曜日にマダガスカルをフィールドとする文化人類学の研究者と会った時に聞いたら、どうなるのか、誰もわからない、とのこと。ただし、現在、経済的にはまったく低迷のままなので、ラジョリナへの支持もかなり低下している、とのことでした)。

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 それにしても、他の国の土地を99年(かつて、香港の新界がまさにこの99年間、中国からイギリスが租借していました。この期限がきれたことが、香港返還に直結したわけです)貸借するというのは、どんな発想なのでしょう?

 これも“新植民地主義”の新パターンと受け取る向きも多いようですが、韓国ではいくつも同じようなプロジェクトが走っているようです。

 まず、問題の大宇グループの契約は、日経BPの2009年7月4日(つまり、ラヴァルマナナの失脚前)の記事では、

大宇が99年間無償で借り上げた農地は・・・マダガスカルの全農地の半分以上にもなる。大宇側の発表によると「対象となったのは未開発の土地であり、数万人分の地元民を雇用して道路、灌漑、貯蔵施設などインフラに数十億ドルを投資するので、マダガスカルの利益にもなる」としていた。

 最終的にはマダガスカル西部の100万haでトウモロコシを栽培、東部の30万haでオイルパームを植林し、生産物は韓国に輸出、余剰が出ればほかの国にも売る計画だったhttp://eco.nikkeibp.co.jp/article/column/20090723/101901/?P=2)」。

 さらに同記事は、韓国がすでに「アフリカのスーダンには、すでに69万haの農地を確保している。また、モンゴルの草原に農業団地を造成するために、27万haの農地を借り上げた」(前掲HP)。

 中国も「アフリカで確保した農地のなかでは、コンゴ民主共和国(旧ザイール)での280万haが突出している。日本の農地の6割にも相当する。外国にこれほど広大な土地を提供するのは、世界的にみてもほとんど例がない。

 ザンビアとも、200万haの農地借用の交渉をしている。これと並行して農業移民も送り込んでいる。ザンビアには中国人経営の農場が20カ所以上あり、河南省や江西省からの農業移民が多いという。すでに首都ルサカで売られる卵や鶏肉の4分の1は中国人が生産しているといわれる」(http://eco.nikkeibp.co.jp/article/column/20090723/101901/?P=1)。

 かつて、ローマ帝国はエジプトを穀物の供給源として抑え、ローマ市民への穀物配給が可能かどうかが、皇帝たちの政治的生命を左右させました。また、イギリスは北米、そしてオーストラリアに穀物供給地を求めて植民地化します。そうした歴史が、蘇るかのようです。

 市場を通じて、需要と供給にもとづいた経済活動ではなく、直接、生産地を抑える(武力で占領するのではなく、金の力で確保する)。色んなHPを閲覧すると、これは先進国の食料確保競争の激化で、日本は完全に遅れている、という論調のようです。ちなみに、ラジョエリナ政府は政権獲得後、大宇との契約を破棄します。

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 これは結局、食料自給率の確保に悩む先進国が、金の力で穀物供給を確保するという政策なのかもしれません。しかし、どのぐらい現実的なのでしょうね? トウモロコシの反収は世界平均では1haあたり4.8トン(アメリカでは9.3トン)ですが、アフリカだとなんと1.5トン程度。

 すると100万haで150万トン、ヒト一人の穀物消費量を年間消費量を150kg(ほぼ一石)と考えると、1000万人分の穀物をもともと生産していた(ちなみにマダガスカルの人口は2008年で1890万人[外務省HP]ですから、全耕地面積の半分というのもちょっと納得です)。

 それにしても、スーダンと言い、コンゴ民主共和国と言い、国内が混乱しているところばかりではないですか! 本当に大丈夫なのでしょうか(そもそも、カントリー・リスクを考えているのでしょうかね)?

 それでは、例えば、この状態を先進国の技術でせめて1haあたり3トンに伸ばして、契約で適正なリース料を払いながら、この半分を韓国に(韓国の人口は4977万人だから、必要量の20%を確保=ただし、韓国では家畜の飼料に利用される事の方が多くなるかもしれません)、半分をもともとのマダガスカル人へ(こちらも人口の50%)供給する。このあたりが本当のWin-Winへの道ではないでしょうか?

 なかなか難しいと思いますが、マダガスカルの収量をなんとか世界平均まで引き上げれば、マダガスカルの人たちに2400万人分供給して、単純にマダガスカルには飢えがなくなり、かつ多少外貨も獲得できる(はず!)。どんなものでしょう。

住まいの人類学Part6:植え付けられた街、そしてその増殖:煉瓦街、そしてアフリカでレンガ作りの家を建てるには#1

2011 10/1 総合政策学部の皆さんへ

 植え付けられた街:銀座シリーズ#1#2と進んで(さらに番外編もありますが)、次はレンガの話をしてみたいと思います。

 実は、私はかつてのアフリカ滞在中(国際協力事業団(当時)派遣専門家としてタンザニアに2年ほど)、数軒レンガ作りの家を建てたことがあります。と言っても、もちろん、DIY=自分の手で作ったわけではありません。

 いわゆる施主の立場で、プランをたてて、コーディネートして、そして金を出して作ってもらったと、それだけの体験ではありますが。銀座煉瓦街の話をしていると、ゆくりもなくそのあたりを思い出してしまいました。

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 さて、銀座煉瓦街狂想曲の発端は、幕末の遣米・欧使節の一行が巨大建築に圧倒されることで始まります。

 「異文化に出会う時:日本人はどのようにして異なる食文化に出会ったか?Part2~村垣淡路守から渋沢栄一まで~(2010/12/2)」等ですでにご紹介済みの、御庭番あがりの能吏村垣淡路守はワシントン到着時にこう書き記します(現代語訳)。

  さすがは都府である。人家もどっしりとして、なかでも大統領の居所、右に議事堂が高くそびえ、見なれない人家、塔のごときものなどがたくさんある。ここかしこに旗をたて、異なる風景をかすみにこもって見るのは、描いた蜃気楼のごとし」。

 そして、例によって歌を一首「川舟に のぼりてみれば かすみたつ 華の盛りの みやこなりけり」(筑摩世界ノンフィクション全集50巻より)。

 一方、慶応義塾大学の創始者、一万円札の主、福澤諭吉は『福翁自伝』に遣欧使節のパリでの宿泊について、「(フランス側の)接待員は、いさい承知して、まず人数を聞き糾し、総勢30何人とわかって「こればかりの人数なれば、一件の旅館に10組や20組は引き受けます」との答に、(幕府の役人は)なんのことやら訳けがわからぬ。ソレカラ案内に連れられて止宿した旅館は、パリの王宮の門外にあるホテルデロウブルという広大な家で、5階造り600室、ひ僕500余人、旅客は1000人以上差し支えなしというので、日本の使節などはどこにいるやらわからぬ。ただ旅館中の廊下の道に迷わぬように、当分はソレが心配でした」。

  ところで、遣欧使節がとまったホテルデロウブルとは、どんなホテルでしょうね? 王宮近くの伝統あるホテルと言えば、“HOTEL DU LOUVRE”でしょうか? HPを開けると、1855年創業の「フランス初のラグジュアリー・ホテルとして開業、700の客室と1,250名のスタッフを有する、グランド・ホテルでした」とあります(http://louvre.concorde-hotels.jp/jp/)。

 時はあたかも19世紀、貴族やブルジョアジーの社交・宿泊の場として発達したグランド・ホテル全盛時代ですね。この形式は、1898年、経営者セザール・リッツが一代の料理長オーギュスト・エスコフィエと協力して開業したオテル・リッツ・パリで頂点に達します(=グランド・ホテルと云うビジネス・プランの完成)。遣米・遣欧使節の皆さんはそのまさに勃興期にヨーロッパの石造り建築に度肝を抜かれたわけです。

 なお、リッツが晩年衰えると、エスコフィエは彼を助けてホテル経営まで手を染めます。その頃、後年の初代ベトナム民主共和国主席ホー・チ・ミンが系列のカールトン・ホテルの厨房でパティシエ見習いとして勤めていて、エスコフィエに薫陶を受けたとのこと(Wikipediaより)。

 ホーは外国事情を学ぶため働きながらアメリカ、そしてフランスに滞在した後、やがて社会主義にめざめて、1919年フランス社会党に入党します・・・・

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 ところで、ここでおもしろいのは、彼我の建築観の掛け違いです。例えば、19世紀末の1893年、健康上の理由から世界一周旅行に出かけたオーストリア=ハンガリー帝国皇太子フェルディナンド(21年後の1914年、サラエボで愛妻とともに暗殺されたあの不幸な方です。旅行時はもちろん、まだ独身です)は、日本で建てられつつある西洋建築をうとんじます。

  いま日本人は民族固有の建築様式を捨て去ろうとしている。容認しがたいほどだ。そもそも日本には、大きな特徴をもつ固有の建築様式が立派にあるのではないか? 風土と交響する建築様式、すなわち高度に発達した芸術や産業とも、人間自身とも、日常の生活ともみごとに一体化している建築様式だ」(安藤努訳『オーストリア皇太子の日本日記』講談社学術文庫版)

 と、フェルディナンドは力説します。皆さん、どう思いますか? 例えば、国会議事堂が京都西本願寺の御影堂(大師堂)のごとき和風建築であったら?

  しかし、とりあえず、明治維新直後、時の権力者たちには一つの思いがありました。彼らが煉瓦に執着したのは、結局、江戸の大火に対する恐怖心に由来するのでしょう。

 井上馨の回想によれば「どうしてもこれは火事を防せがにゃならぬ、今の家ではいかぬから、煉瓦石にしよう・・・と言う決議をして居った」(沢田章編『世外候事歴歴維新財政談』、藤森信照『明治の東京計画』岩波現代文庫版からの孫引き)。 

 ヨーロッパと異なり、適当な石材がない日本において、とりあえず煉瓦建築に邁進することこそ、文明への近道に見えた(ただし、関東大震災まで)わけです。 

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   ところが、日本にはそもそも煉瓦がない。わずかに、幕末、外的に備えるため武器(大砲)製造用に、急ごしらえの反射炉等を立てたときの耐火煉瓦の経験ぐらいだけなのですね。それでも、外圧という状況下、いち早く耐火煉瓦までに手を出す素早さは、さすが、現代日本を支える工業技術のはしりともいえるでしょう。

 しかし、西洋巨大建築をたてるための煉瓦となれば、数量ではその日ではありません。そこは上記井上馨らの命令で1871年に日本初の近代的建築大阪造幣局(現在は泉布観が残っています)をたてるため、堺に煉瓦工場までつくった渡り職人あがりの都市建築士(本人は”Surveyor General”を自称)トーマス・ウォールトスの登場です(大阪造幣局の創設については造幣局本局のHPをご覧下さい: http://www.mint.go.jp/guide/mint-history.html)。

 当時、ホフマン窯という設備が導入され、いかにも近代工業として、「窯を環状(円形、楕円形等)に配置して、連続して煉瓦を製造できるようにした」「窯の内部に生の煉瓦を積み重ね、上部からコークスを入れて焼成する。一つの区画で焼き上がると、また次の区画に火を移して焼成を繰り返してゆく。こうした連続工程により煉瓦の大量生産ができる」とのこと。

 ウオールトスは東京の小菅に手ぎわよくこのホフマン窯をしつらえ、銀座造成のベースにします(なんでもできる人だったのですね)。

 ホフマン窯は日本に現在5基が残っているそうです(深谷市、旧日本煉瓦製造;野木町、旧下野煉化製造会社(シモレン);舞鶴市、旧神崎煉瓦;近江八幡市、旧中川煉瓦製造所;笠岡市、旧西山煉瓦製造所)。「滋賀歴史文化再発見」というサイトに、旧中川煉瓦製造所についてのページがあります(http://rekishi.shigabunka.net/e580110.html)。

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   ところで、皆さん(=私も含めて)、煉瓦の材料とは何か、知っていますか? つまり、どんな土でも良いのか? いや、(私自身も)何も知らない! そこでWikipediaを開ければ、「粘土や頁岩、泥を型に入れ、窯で焼き固めて、あるいは圧縮して作られる建築材料。通常は赤茶色で直方体をしている。焼成レンガは、土の中に入っている鉄分の影響により赤褐色となる。耐火レンガは炉材にも使われる」とあります。

 日本では、古来、を水田の泥で作っていましたが、それに近いのですね。マダガスカルでも、水田の土からレンガや瓦を焼くようで(窯ではなく、野焼きです)、道ばたで作っている光景をよく見ました。 

 しかし、Wikipediaに安易に頼って良いのか? ちょっと探してみましょう。素敵な煉瓦の作り方。すると、まず通称“日タ煉”、社大法人日本タイル煉瓦工事工業会(http://www.nittaren.or.jp/#)等のHPが見つかります。いわゆる業界団体ですね。もっとも、HPを開けると、タイル等が主力のようです。

 一方、“日本れんが協会”(http://www.japanbricks.jp/kyoukai/index.html)もあって、こちらは「広くれんがの需要を拡大し、その普及を図り、もって日本の景観及び国民の住環境の向上に寄与することを目的として活動」しているとのこと。すると、“リサイクルれんが”というものもあるようです(原料は、①下水汚泥 溶融スラグ混合品、②火力発電所の煙突灰(フライアッシュ)混合品、③石材切削粉スラッジ混合品、④山砂採取後のスラッジ混合品、⑤家庭ゴミ焼却灰の混合品、⑥陶器屑の混合品等だそうです)。

 全愛知県赤レンガ工業協会(http://www.akarenga-aichi.or.jp/ja/profile.html)のHPでは、Q&Aまで完備しています。例えば、

Q:煉瓦が赤いのは酸化鉄を含んでいるためだということですが、酸化鉄をいれているのですか。それとも煉瓦の材料のいずれかに鉄が含まれているのですか。煉瓦の目地(化粧目地)には色々ありますが、それはやはり意匠によって使い分けるのでしょうか?

A :煉瓦の原料には酸化鉄や石灰などは入れていません。100%天然の原料を使って製造しています。煉瓦の赤色は原料に含まれた鉄によって生み出されます。化粧目地には色々ありますが、現在はご指摘の通りで意匠によって使い分けをしていると思いますが、昔は煉瓦積みの職人さんの力量も目地の違いとして現れると言われ、中でも手間のかかるふくりん目地が最高級の仕事とされてきました。機能面から見ますと水が浸透しにくいのは平目地かと思われます。

 『仕事!』にも通じますが、自らが作る製品への愛情が感じられますね。赤レンガにふさわしく、ぬくもりの感じる文章です。学生の皆さんも、就活するなら、是非、自らの商品を愛している会社を探して下さい。

 と、ここまで来たところで、ずいぶん長くなってしまいました。とても、アフリカまでたどり着けません。ということで、to be continued・・・・としましょう。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...