2011年12月

芸術家たちPart5:マエストロとは? 藤原隆信からジョット、ミケランジェロを経て北斎まで#1(似せ絵に見る個人の芸と家の芸)

2011 12/28 総合政策学部の皆さんへ

 “芸術家”というのはある意味、不思議な存在です。例えば、人類最古の美術の一つとでも言うべきラスコーの洞窟画の作者たちは、もちろん、名前も知られていません。

 また、人によっては「重要なのは作品そのものであり、作者ではない」と言うかもしれません。例えば、それが良い絵ならば“ピカソ”であろうと、“無名画家”であろうと、かまわないかもしれない。とは言え、洋の東西を問わず、“芸術家”があらわれてくるのもまた、世の理(ことわり)です。

 さて、中世の頃まで“芸術家”の多くは無名のまま、歴史の彼方へ消えて行きます。例えばポンペイの壁画、あるいは秦の始皇帝の兵馬俑、そしてエジプトの王家の谷から出てくる美術品等も同じです。

 日本でも、高名な『源氏物語絵巻』、『伴大納言絵巻』『信貴山縁起』『鳥獣戯画』についても、わずかに『鳥獣人物戯画』について、鳥羽僧正覚猷の名が伝わって入るものの、真偽定かならぬところは、皆さんも中高の美術史で習ったことでしょう。

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 そのように埋もれていた芸術家の個別性=“作家性”が、日本画の世界で表に現れ出したのが中世頃、例えば、似絵の名手藤原隆信(1142~1205)のあたりからでしょうか(Wikipediaによれば、もともと歌い手で名高かった隆信は、画家としての大成するようになると、反比例するように和歌の評価が下がるそうです。面白いですね)。

 さらに興味深いのは、日本では隆信がこうして作家性を発揮すると、その子孫に次々と似絵作家があらわれることです(隆信派と称された系統は14世紀の藤原豪信まで続くとのこと;Wikeipedia)。

 ここに、平安時代に始まる「特定の“家(いえ)”に公権力によって職業に関する特権=歴史学的用語では宮司請負制(かんしうけおいせい)」を連想すべきでありましょう。すなわち“家の芸”です。

 コミック『へうげもの』前半のスーパースター千利休につらなる三千家がいまだに続いているのをみれば、日本文化の伝統とも言うべきかもしれません(「あなたにとって、“仕事”とは何か? 陰陽師から漱石、そしてトム・ソーヤーからフランクリンまで;高畑ゼミの100冊Part 13-とくに卒業生の皆様へ」もご参照)。

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 こうして、日本の画家の作家性は、個人の名前よりも、家(あるいは流派)の名前がクローズアップされることもしばしばです。つまりは陰陽師の安倍清明のように、「何々家の誰それ」というように。
 
 それが何時しか、狩野派であっても、狩野永徳狩野探幽と、その末裔たる狩野養信(木挽町家狩野派9代目)とは自ずと軽重の差が開くことになるのです(なお、養信の弟子が狩野派最後の輝きである狩野芳崖橋本雅邦です)。

 とすると、常に個人名で語られる雪舟、その師周文等は大したものだと言わねばなりません。もっとも、彼らは僧侶ですから、子供を設けるわけにもいかず、家の伝承もできないのですが。

 ところで、日本ではむしろ仏師の方が作家性が先に強調されます。飛鳥大仏の作者に伝えられる鞍作止利(くらつくりのとり)を筆頭に、中世にはすでに仏師に院派円派慶派にわかれ、慶派より運慶快慶湛慶等が輩出したことは、皆さんご存知ですよね。

 これらの仏師は、仏像体内に銘記することで自分の名前を後世に残します。

◆中世日本でも、中世ヨーロッパでもそうした“家の芸”を支援するパトローンの存在も大きく、狩野派の祖狩野正信や2代目狩野元信を見出した足利義教や、永徳等を用いた織田信長、豊臣秀吉等も、ローマ法王ユリウス2世やレオ10世に負けぬ大パトローンだったわけです。

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 こうして作家性が尊ばれると、作品には個別作家の“しるし”が必要となります。それが落款側款花押サイン等になるわけです。

 箱書きもふくめて、“開運!なんでも鑑定団”等でも、あらためて作家性にまつわるそうしたイコンを評価するのを、皆さんも観ているわけです。

 またそう考えてみると、浮世絵の世界でも作家性が強調されるようになった時(その頂点は写楽かもしれません)、その風潮を翻弄/あらがうように、「春朗」「群馬亭」「宗理」「可侯」「辰斎」「辰政(ときまさ)」「百琳」「画狂人」「雷斗」「戴斗」「不染居」「錦袋舎」「為一」「画狂人」「九々蜃」「雷辰」「画狂老人」「天狗堂熱鉄」「鏡裏庵梅年」「月痴老人」「卍」「是和斎」「三浦屋八右衛門」「百姓八右衛門」「土持仁三郎」「魚仏」「穿山甲」と30回も改名したという(ここまでのところで、皆さん、誰だかわかりますか?)、一代の画狂老人葛飾北斎のアバンギャルドさは注目に値するかもしれません。

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 さて、それでは、誰が史上初の“芸術家”なのか? すなわち、その人の仕事(=芸術活動)について、その作者=個人を意識しながら評価される存在なのか(すなわち、“作家性”の評価)?

 とすれば、ヨーロッパ史上最初の偉大な画家として、作家性を備え、その個性によってたたえられたいわゆる“巨匠”として衆目が一致するのは、ジョット・ディ・ボンドーネ(1267~1337年)です。

 このジョットこそ、ルネサンス期の芸術家たちの祖、そして芸術家を輩出する工房システムを創り上げたマエストロ(巨匠)なのですが、それはto be continued・・・・・・としましょう。

 なお、これがたぶん2011年度のブログの最終と思います。皆さん、よいお年をお迎え下さい。

もし昔の法皇様がTwitterを使っておられたら……:総合政策の名言集番外編

2010 12/23 総合政策学部の皆さんへ

  少し前の朝日新聞の国際欄に「ローマ法王ベネディクト16世は7日夜、バチカンにいながらにして、約200キロ離れたイタリア中部グッビオの丘に飾り付けられたクリスマスの照明をともした。使ったのはタブレット型端末。これがアップル社のiPadではなく、ローマ法王庁などによると、ソニーのタブレットSだった。このため、「法王様はアンドロイドに乗り換えたのか」と、ネット上で話題となっている」という記事が、しかも写真付きで出ていました。

 なんとなく、ほほえましいですね。と思いつつ、これではローマ教皇(法王)庁の広報部の宣伝に載せられただけ、とも思わないわけではありません。

 それで、突然頭に閃くのは、「もし昔の法王様がTwitterを使っておられたら・・・」という「もしドラ」の便乗版的タイトルです。例えば、中世カトリック社会の大立者中の大立者、アナーニ事件で憤死するボニファティウス8世が日ごろ“つぶやき”を発信されたら、どうなっていたでしょう?

 ある日、ボニファティウスは教会でイエス様に「私をお救い下さい」と祈っている男を目にして、叫びます。

阿保、うつけ!イエスは我らと同じただの人よ。我が身さえよう救わなんだ男が、他人のために何をしてくれようぞ!」(インドロ・モンタネッリ、ロベルト・ジェルヴァーゾ『ルネサンスの歴史』)

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 「神の代理人」という公的イメージとは裏腹に、権謀術策渦巻く法皇庁で、何時も“本音”で勝負してきたボニファティウスですが(それゆえ、アナーニの屈辱も受ける羽目になります)、この本音を同時にTwitterでつぶやいていれば、宗教改革はもう少し早く訪れたかもしれません?!

 ということで、歴代の法王(教皇)が叫んだ“つぶやき”を紹介することにしましょう。すなわちヨーロッパの歴史における宗教と政治の狭間で心引き裂かれた方々の叫び=つぶやきであるのです。次は、ルネサンス期の軍人法王ユリウス2世です。この人の決め台詞は、なんと、

聖ペテロの豚野郎(ボルコ サン・ピエトロ)」(塩野七生『神の代理人』)

 1509年、自らが仕掛けた対ベネツィア討伐戦で、法王軍の主将マントヴァ侯フランチェスコ・ゴンザーガが寝込みを襲われ、ほとんど裸で逃げ出したあげくに、農民どもに捕まって、ベネツィア軍に引き渡され、捕虜になってしまったという知らせを耳にした時の罵り言葉です。

 それにしても、使徒たちのリーダーとして、また初代法王として尊敬にあたるはずの聖ペトロを“豚野郎”とののしるとは、コミック『チェーザレ-破壊の創造者』で、のちのアレクサンドロ6世と主人公チェーザレ・ボルジアに「成り上がり者」と馬鹿にされるローベレ枢機卿ことユリウス2世にいかにもふさわしいかもしれません。ちなみに“ボルコ”とは宮崎駿監督『紅の豚』の主人公の名前ボルコ・ロッソと同じですね。

 とは言え、このユリウス2世はその後法王の三重冠をいただくや、かのミケランジェロラファエロのパトロンとして、前者にはシスティーナ礼拝堂の天井画を、後者には自らの肖像を描かせた“目利き”なのです。対照的に、その後を襲う法王レオ10世、『チェーザレ』の最新刊ではまだぷくぷくとかわいいだけのジョバンニ・デ・メディチは、幼馴染のミケランジェロと肌合いがあわず、「あいつは人生を楽しめない奴だ」などと言っていたと云うことです。

◆そのシスティーナ礼拝堂の天井画の画像はこちらです。また、その20年後、今度はクレメンス7世の依頼で描く祭壇画「最後の審判」の画像はこちらです。 

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 さて、ユリウス2世は“本音”で勝負する人だけに、愉快な台詞に尽きることはありません。

 なにしろ、かの神にも紛ごうミケランジェロが上記の天井画を作成中、少しでも愚痴ったり、口答えしようものなら、「常に肌身離さぬ例の木杖を振り回し、「ぶっ叩くぞ」と脅しつけた」という方なのですから(『ルネサンスの歴史』より)。

 さらには近代的名君アルフォンソ・デステ支配下のフェラーラを(そのフランスよりの政策を嫌って)目の敵として、法王庁に謝罪のために派遣された16世紀イタリア最大の詩人の一人、『狂えるオルランド』の作者アリオストに激怒して「犬みたいに、テヴェレ河に投げ込んでやる」と脅しつけます。ちなみにローマ市内を流れるテヴェレ河は、人知れず暗殺・密殺された者が、見せしめのように浮かぶ河なのです。

 実はその少し前、1510年、フェラーラを攻略すべく、教会軍を動かしたユリウスはアルフォンソ・デステから反撃を受けて、八方ふさがりとなり、おまけに風邪をひいて高熱を出し、一晩中荒れ狂います。塩野七生が紹介するのはヴェネツィア大使の報告です、「パストールら、ジュリオ2世びいきの歴史家は、引用しない史料である」と付けくわえながら。

  • 一晩中法王は、毛布やシーツを搔きむしり、大声でわめきました。
  • 「死んでやる、死んでやる、死んでやるわあ!」
  • そして次にはこうわめきました。
  • 「フランス人にはオレが向かう、フランス野郎奴、オレ一人でも向かってやる!」
  • さらに続けて、
  • 「毒薬をよこせ! 毒薬をみんなにふり撒け!」
  • このようにして、法王は、一晩中怒り狂い、一睡もしませんでした(『神の代理人』)
  •  

 この軍人法王を恐れる枢機卿たちは当然、次の法王選挙を考え、法王の敵たちはユリウス2世の残された命脈を数え始めるのですが、しかし、何ということか、彼はその後すっかり回復、前述のように、アリオストを脅すことになるのです。

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 もちろん、こうした名言(迷)の数々は、彼ら法皇の個人的責任だけに由来するだけではありません。「神の代理人」としての宗教者の側面と、教皇(法皇)領の領主としての政治的側面の矛盾が、彼らをして世俗的な発言をすれば、神の世界から遠ざかってしまう。しかし、現実的な発言をしなければ生きてはいけぬ。

 この矛盾を解決するため、ユリウス2世の同時代人マキャヴェッリグィチャルディーニがやがて“政治学”を近代化していく、その過程とも言えるのです。

異文化に出会う時Part3:ピガフェッタの不思議な旅後編:征服者の死、そして残された者たちの帰還

2011 12/17 総合政策学部の皆さんへ

 マガリャンイスことマゼランの世界一周の旅、前篇、そして中編に引き続き、後編です。いまや、史上初の世界一周目前だったマゼランに、生きる者すべてに必ず訪れる運命、すなわち死が待っていました。その死も避けようと思えば避けられたはず。

 しかし、中編で紹介したように、“探検家”から“征服者”へと変身しかけたマゼランにとって、セブ島の王カルロス(マゼランがキリスト教徒として授けた名前、スペイン王にして神聖ローマ皇帝カール5世ことスペイン王カルロス1世から由来するそうです。現地名はフマボン)からの依頼を断るわけにはいきません。彼には面子があるのです。

  こうしてマゼランたちは、カルロス王と敵対するラプ=ラプ王懲罰へと出かけます。なんだか、戦後のアジア・アフリカでの、どこかの超大国の振る舞いをみているかのようです。

 1521年4月27日、セブ島沖の艦隊からボートでマクタン島に赴いたマゼランは、通訳を介して説得します、とは言え、これで説得できるのかな? と疑問をもってしまうような台詞ですが。「あなたがたがスペイン王に服従し、キリスト教徒の王をあなた方の領主として認めるならば、そして我々に貢を納めるならば、われわれはみんな友となるだろう。さもなくば、あなたがたは我らが武器の威力を思い知らねばならぬだろう

 この脅迫的言辞に対するラプ=ラプ王の返答は、フィリピン史上の民族英雄(あるいはアジア史全体での民族抵抗運動の英雄とも言えますが)にふさわしいものかもしれません。すなわち、「我が方にも葦の柄の槍と棒杭があるのだから、戦いはのぞむところ」だと。なお、ラプ=ラプ王はイスラーム教徒だったとのことです。その後、アジア・アフリカ史を“朱”で彩るキリスト教徒vs.イスラーム教徒の対決の始まりを飾る台詞なのです。

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  こうしてフィリピン史初のヨーロッパ側からの侵略戦争(一面では代理戦争でもあります)が展開したのは1521年4月27日土曜日(ヨーロッパでは宗教改革が進行中、ヴォルムスの国会でルターが破門された年です)、49人の兵士とマゼランはマクタン島に敵前上陸を敢行します。

 ところが、「これらの原住民は軽快で、身のこなしが柔らかく、そこで生まれたがためにこれらの海岸を、そこで漁をしたがためにこれらの海底をしりつくしている。おまけに、彼らは三千人もいる」。いったんは上陸して、数件の家を焼き払うものの、「狂ったように怒号する何千ものこの野蛮人に取り囲まれて、押しつぶされそうな緊迫感から来る恐怖とパニックに襲われて、退却を始める」こととなります。

それにしても、征服者フランシスコ・ピサロが寡兵数百人でインカ帝国を征服するのはこの12年後の1533年(7月26日、皇帝アタワルパを処刑)であることを考えると、マジェランの手際の悪さには首をかしげるところがあります。

 ピガフェッタは書き記します。

 (マゼラン)は、立派な提督、騎士として、数名の部下とあくまでも抵抗し、こんなふうに一時間以上も戦った。そして、彼がもはや退却しようとしないので、一人のインド人が彼の顔に葦の槍を突き刺した。彼はいきなり自分の槍でこのインド人を殺したが、槍をこの男の死体に刺さったままにした。それから剣に手をかけようとしたものの、右手に受けた槍の傷のために、半分しか抜くことができなかった。

これを見ると、この連中は一斉に彼に躍りかかった。一人は大きな投げ槍で彼の左足に一撃を与えた。このため、彼はうつぶせになって倒れた。すると、猛然と彼らは鉄と葦の槍や、あの投げ槍でもって彼に飛びかかり、それで彼らは我々の鏡、光、支え、そしてわれらが真の指導者を殺してしまった。

彼らが彼(マゼラン)に打撃を加えている間、彼は何回も振り向いて、われわれが全員船に戻っているかを見るのであった。それなのに、われわれができた最良のことは、負傷者を救ってすでに立ち去ろうとしている船にのせたことであった。

 戦いの後、マゼランの遺骸を返還させようという交渉は、ラプラプ王の拒絶にあいます「私はこのような人物は、世界の最大の富を持ってきても宛て得ることはできない、そして、永久に記念のためにとっておきたい」と。

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 マゼランの死は、スペイン艦隊の規律を崩し、住民からの反感をさらに買います。さらに、後継者ドゥアルテ・ボルバサは、マゼランの奴隷にして通訳のエンリケに対して、「マゼランの死の日から自由になる」という約束を反故にさせ(他に通訳がいなかったため)、エンリケの裏切りという“報酬”を得ます。つまり、エンリケは現地の王フマボンに通じ、スペイン人を裏切ることを奨めます。

 こうして、1522年5月1日、“征服者”として振る舞おうとしていたスペイン人たちは、フマボン王(キリスト教徒としてはカルロス王)からの招待をうけて25人(あるいは29人)が上陸しますが、そこでの“歓待”は“虐殺”でした。

 船に残っていた者たちは、血まみれのフゥアウン・セランがセブ島人に短刀で脅され、「臼砲1門と商品さえ身代金として受け取りさえすれば、彼(セラン)の命は助けてくれる」と懇願しますが、ピガフェッタは船に残っていた指揮者カルヴァリヨが無情にも出航命令を出すことを記します。

セランは、泣きながらわれわれにいった。われわれが帆をあげたが最後、自分は殺されるだろう。そして続けていった。最後の審判の日には、自分の魂が相棒のファウン・カルバリョに乗り移るよう、神に祈ってやる(=呪ってやる)と。それでも、我々は出発した。だから私は、そこに残されたフゥアン・セランが殺されたものやら、いきているものやら、知らない

 この後、アジアでもアフリカでも同様の光景が展開していくことになるのですが、とりあえず、これがスペインと(フィリペ2世に由来する)フィリピンとの初の出会いとなるわけです。

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 その後の紆余曲折を省き、結局、艦隊は2隻に減ったものの、1521年11月8日首尾よく真の目的地モルッカ諸島に到着、香料を仕入れます。しかし、またもやトリニダット号の浸水という悲運に見舞われ、ついに最後の1隻ヴィクトリア号のみでの帰還に踏み切ります。

 47名のヨーロッパ人と、13~18名の地元民、そして満載の香料をつんだこの船は、しかし、またもや数々の苦難を経て、1522年9月6日、懐かしいアンダルシアの港にたどりついた時生き残っていたのは21名、うち出発時からの者はたった18名、そのうちの一人にピガフェッタが残っていたのはまさに僥倖ともいうべきことでした。

住まいの人類学Part6:植え付けられた街、そしてその増殖:煉瓦街、そしてアフリカでレンガ作りの家を建てるには#2

2011 12/9 総合政策学部の皆さんへ

 アフリカで家を建てるには?

 それも、海岸から約1000km、文字通り、アフリカ大陸のど真ん中、「もっとも近い肉屋まで30km、郵便局とガソリンスタンドまで135km、一番近い日本人まで500km、お湯が出るホテルまで1500km」と自称していた私の任地、西部タンザニアのキゴマ州マハレ山塊国立公園(当時はまだ狩猟保護区で、それを国立公園昇格まで持っていくのが、私の任務だったのですね)ですから、まともな材料などあるはずもありません。

 したがって、レンガといっても、焼かない“日干しレンガ”です(スワヒリ語ではtofali)。

◆Mahale Mountains National Parkの公式サイトは http://www.mahalepark.org/

 それにしても、家を建てるためにはやらなければならないことが多すぎます。この場合はまず大工(Fundi)を探さねばなりませんが、私がアフリカにいた30年前、すべては人伝えのコネクションがあるのみです。

 つまりは誰かの紹介ということになるのですが、この場合、間に立つ人間をよほど選ばないと、ことはうまく運びません。結局は、“誰それさんの親戚の誰それさんの、そのまた知り合いに腕のよいFundiがいる”という噂を頼りに、呼ばねばならないのです。

 そして、そのFundiがすでに請負仕事中であれば、その間、待たねばならない。よほど時間がかかりそうです。そのFundiが来てから、今度はやおら契約交渉です。この程度の家を作るのに何個煉瓦が必要か? その煉瓦は1個いくら(タンザニア・シリングで)で引き受けるか? 期間はどのぐらいか? 手伝い(Wasaidaiji)は何人必要か? 日干し煉瓦をこねるのに必要な水を蓄える空のドラム缶(pipa tupu)は何個必要か?

 今、思いだすだけで、ちょっと呆然とするぐらいの時間がかかるお仕事だと言っておきましょう・・・・・海外援助とは、こうした途方もない面倒くささの世界なのです、と言ってしまうといささか興ざめになってしまうかもしれませんが。

 そのFundiや手伝いたちの仕事をみながら、アフリカの地でゆくりもなく思いだしたのは、ノーベル賞作家ソルジェニーツィンの出世作『イワン・デニーソヴィッチの一日』の主人公、左官屋のイワンが、シベリアの酷寒の強制収容所(ラーゲリ)で、しかし、仕事を命じられたからには、自分の仕事の出来栄えに誇りをもつべく、煉瓦を並べて行く様でありました。

◆「住まいの人類学番外編:過去の記録にみる人と災害、そしてそこに浮かびあがること#1」ですでに紹介していますが、煉瓦造りは建築構造上は“組積造”構造にあたります。ヒトの祖先が洞窟や岩陰を離れて、平地に“構造物”を作ろうとした際に、(1)屋根を“柱”と“”で屋根を支える“架構式構造”となるか、(2)日干し煉瓦や雪のブロックをつみあげ、屋根を柱ではなく壁で支える“組積造”構造をとるか、道が分かれます。その後者なのです。

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 さて、私の赴任地は近くに店舗等まったくありませんから、家を建てるのにもなんでも買い出しにでなければいけない。まずは、板(bao)と角材。煉瓦造りとは言え、屋根はトタン(bati)を載せないといけないので、当然梁等が必要です。また、扉もつけねばならない。それで板等が必要になってきますが、今度は樵(きこり)と交渉です。板に製材するのにふさわしい樹種がありますから、適当な大きさの木を選び、それを製材して、契約通りに取り寄せる。

 釘(misumari)や鎹(かすがい)、木ネジ、蝶つがい、扉に付ける閂(かんぬき)等も、こちらは重さ(kg)単位で買い込みますが、当時、タンザニアはアフリカ社会主義政策が破たんして、その断末魔の最後の頃でした(IMFの軍門に下り、構造調整(Structural Adjustment Program)」に舵を切るのは私の帰国後です)。ですから、町にでかけて店に行っても、何もないことが多い。そうした店の多くは、インド系商人の店で(キゴマでは一軒、ホメイニ師の写真が飾られていた店があり、ああ、シーア派か、と思いましたが、たいていはスンニー派のイスラームの人たちだったようです)、その店を一軒々々まわって買いそろえます。

 それから、日干し煉瓦がむき出しだと、汚れるし、早めに破損するので、その上にうっすらと砂と土をまぜたものを塗り、さらにその上に石灰(スワヒリ語でchokaa)を塗ります(日本の昔の漆喰の感じですね)。それも袋で仕入れなければいけない。

 トタンのような大物になると、これは政府系の店舗(RTC=Regional Trading Company)にしかないわけですが、そうするともうコネの世界になって、まともに手に入ることはほとんどありません(そのあたりが、社会主義の悪夢だと思って下さい)。タンザニア側のカウンターパートの腕次第(ガソリンの購入もそうですが)となります。もっとも、私は現金払いしていましたから、たぶん、売り手の側からみれば、良い買い手であったでしょう。

 何を買うにも大量に確保しなければならず、第一、いったん奥地に戻った後で不足がわかったら、また買い出しに出るのに手間も時間も、ガソリンもかかるわけです(ちなみに25馬力の船外機エンジンをつかうと、燃費はだいたいリットル1km!、150kmほど行くので、あれこれで200リットル=ドラム缶一本を消費してしまいます。それも往復で2本)。

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 こんなことをしたのも、当時国立公園建設のために(日本の)市民からの募金があって、その一部をいただいたため、これでせめてタンザニアにとって後に残る事をしようと、業務外ですが、(当時はまだGame Reserveだったわけですが)たまに来るツーリスト用にゲストハウスを日干し煉瓦で建てよう、としたわけです(今思うと、結構、草の根援助の実践でしたね)。

 ただし、例によって(アフリカではよくあることですが)だらだらと仕事が続き、結局、1984年9月に帰国の際は、棟上げは済んで外形は完成していましたが、内装がまだ仕上がらない状態で、マハレを去る事になりました。

食べることについてPart9:カレーとラーメンについて~異なる食文化を取りこんでいくこと:ラーメン前編

2011 12/2 総合政策学部の皆さんへ

  カレー編では、日本人にカレーが受け入れられていく過程をご紹介しましたが、今回はラーメン編です。

  と言っても、実は、カレー編以上に難しい。庶民文化は何も残っていないのです、とくにB級グルメ等は由来も何もわからない(これもすべて、インテリどもの軽視ゆえ、と思って下さい)。事実、“ラーメン”という言葉の語源さえ、諸説紛々です。

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  ということで、例によってWikipediaを見ると、“ラーメン”の語源に関して、(1)と(2)の説が紹介されています。

 (1)中国西北部に位置する蘭州の麺の一種「拉麺(lā miàn ラーミェン)」が名前の由来だという説です。しかし、この説には「手延べそうめん型の麺なので、切り麺にあわない」という有力な反論があります(ユーチューブに現地の拉麺作成の画像があります;http://www.youtube.com/watch?v=6rfu1ZHiMP8&feature=fvwrel)。

  もっとも、ラーメンの原材料小麦粉のメーカー日清製粉出身の食文化史研究家岡田哲氏の『ラーメンの誕生』(筑摩新書330)では、1910年誕生の浅草来々軒において、最初拉麺系の麺が使われたものの、1930年に半手打ち(要するに機械化の第一歩)の「棹麺(カンミェン)」になり、それが「機械式切り麺(チェンミェン)」に変わった、と紹介しています。したがって、1910年の時点で“ラーミェン”と言っていた可能性はあるでしょう。なお、当時、来々軒では“廣東支那蕎麦”と呼んでいたとのこと、値段は1杯6銭(現在では300円とのこと)。

 (2)「老麺(ラオミェン)」から、ラーメンという呼称が由来したとする説。ただし、この説にも「老麺とは、寝かせた発酵生地を使用する技法のことで、ラーメンにあわない」という反論があるようです。

  さらに、上掲の『ラーメンの誕生』では、(3)(4)が紹介されています。

 (3)明治期の外国人居留地の誕生により(「住まいの人類学Part6:植え付けられた街、そしてその増殖#1~外国人居留地、そして銀座登場~」をご参照)、日本で生活する中国人のために「柳麺(リュウメン)」の屋台ができる。この「柳麺」の広東音が「ラオミエン」である。

 (4)札幌の竹屋食堂が開店した1921年暮れ、山東省出身の王文彩が雇われ、拉麺系の麺で「肉絲麺(ロースーミエン)」を出して好評をはくしますが、「チャンコロソバ」等の差別用語で呼ばれることに心を痛めた店主が、王が注文を受ける時に「好了(ハオラー)」と叫ぶところから、「ラーメン」と呼んだ(ただし、浅草来々軒の「ラウメン」の初出(明治42年)よりも後であるのが難点)。

 ちなみに、ラーメンについて中国からの留学生の方に尋ねてみたところ、ほとんどの方が「中国にはラーメンはない。しかし、日本のラーメンはうまい」とおっしゃいます。つまり、日本の中華料理屋で出るラーメンは、実は変形された中華料理の範疇を脱して、もはや日本料理とも言えるものなのですが、それがどのように受容・変形されたのか、さえ、今となってはなかなかわからない、というわけです。

 これは、「スペインでは“スペイン風オムレツ”と呼ばない(トルティージャと呼ぶようです)」、「薩摩ではサツマイモとは呼ばないし(本来、カライモ)、薩摩揚げもつけ揚げと呼ぶ」、このあたり異文化から食文化が伝来する際の呼び名に関する微妙な気配を物語っています。

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 さてさて、様々な説があるものですが、真相は極めがたい。なかには、日本で初めて“ラーメン”を喫したのは水戸黄門(徳川光圀)である、という奇書まであらわれます。

 小菅佳子『水戸黄門の食卓-元禄の食事情』(中公新書1059)によれば、自らうどんや冷や麦を手打ちする麺好き・グルメであったようですが、寛文5年(1665年)から17年におよぶ明朝の遺臣(亡命者)の儒者朱舜水との交わりで、朱がレンコンの粉をつなぎにして中国風の麺をうち、これを火腿からとったスープで黄門に食させたが、これが日本最初のラーメンである、というものです。

 しかし、実は、上に述べたように中国にはそもそも日本人が“ラーメン”と呼ぶ食品にぴったりのものがあまり見当たらないわけですから、これを「ラーメン」と呼ぶのも少し無理があるのでは、とも思います。

 ところで、朱はこの時、「川椒(チュアンヂアオ)」、「青蒜絲(チンスアン)」、「黄芽韮(ファンヤアヂウ)」、「白芥子(バイヂエヅ)」、「芫荽(イエンスイ)」の5種の薬味を紹介したとのことですが、それぞれ「サンショウ」、「ニンニクの芽」、「黄色いニラ」、「白カラシ」、そして「香菜(シャンツァィ;コリアンダーの生葉)であったそうです。

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 このように来暦も定かならぬラーメンですが、そのためか、呼び名も様々に変わります。一般的な流れはWikipediaも紹介している「南京そば→支那そば→中華そば→ラーメン」というものでしょう。半世紀前、私が育った福島県会津では「支那そば」というのが一般的だったような覚えがあります。なお、池波正太郎によれば、その師長谷川伸は戦後の初期、戦前の中華街で中華麺にやみつきになった若き日々を語る際は、「ラウメン」と発音していたそうです。

 会津地方では、「喜多方ラーメン」が有名です。これは昭和初期、中国から来た藩欽星が「源来軒」で支那そばを打っていたのがはじまりです。実は、1919年生まれの私の父はその頃、喜多方中学(現喜多方高校)に進学。すっかりこの支那そばに味をしめていたようです。子供の頃に、父からこの藩と源来軒について、何度も聞いた覚えがあります。

  ところで、この喜多方中学は、鈴木清純監督の映画である奇作『けんかえれじい』の舞台の一つです。この作品、昭和初期にひたすらケンカにうちこむ一中学生の青春の彷徨を描く、というstrange tasteな傑作です。それをTVでたまたま観ていたら、高橋英樹演じる主人公が岡山の中学を放校され、なんと喜多方中学に編入(父が在籍していた頃にほぼ該当)、そこでも喧嘩にあけくれます。そして、そのケンカの相手はというと、私の母校の会津中学(現会津高校)でした。

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 余談が過ぎたようです。それでは、文学作品にあらわれるラーメン像はどうでしょうか? 少し調べると、私が嫌いではない昭和前半の小説家林芙美子の出世作『放浪記』(皆さん、是非、この傑作をお読みください。社会、青春、才能、不況、女性であること、様々なことが伝わってきます)で、「濁り酒」(初出は1925年)の章に、

  • 朝の掃除がすんで、じっと鏡をみてゐると、蒼くむくんだ顔は、生活に疲れ荒(す)さんで、わたしはあヽと長い溜息をついた。壁の中にでもはいってしまひたかった。
  • 今朝も泥にような味噌汁と、残り飯かと思ふと、支那そばでもたべたいなあと思った。
  • 私は何も塗らない、ぼんやりしとした顔を見てゐると、急に焦々として、唇に紅々と、べにを引いてみた

とあります(森まゆみ解説『林芙美子 放浪記』、みすず書房版)。詩人としてデビューしようとあがいた芙美子の、散文詩とも、小説とも、エッセイともつかぬ傑作『放浪記』、社会の底辺を彷徨する詩人の魂の発露ですが、そこに“支那そば”、“味噌汁”、“肉豆腐”等のなまなましい、“欲望”の対象がちりばめられています。

 ちなみに同じ『放浪記』の「粗忽者の涙」の章(初出は1925年)には、

  • ねえ、洋食をたべない・・・・・・・。」
  • 「へえ!」
  • 「カレーライス、カツライス、それともビフテキ?」
  • 「金があるのかい?」
  • 「うん、だって背に腹は変えられないでせう、だから晩に洋食を取れば、明日の朝まで金を取りにはこないでせう」
  •  

とでています。どうやら、このあたりでラーメンとカレーライス、この二大国民食の存在があらわになりつつあるようです。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...