2012年3月

時間と仕事:“時”をめぐる人類学Part1:punctualであることと時計、そして“遅刻”の誕生:日本近代化を時間の視点から見れば#1

2012 3/31 総合政策学部の皆さんへ

現代社会で“”がいかに我々の生活を支配しているか、それは種々の電気製品に“時計”が仕掛けられ、かつ、時計が故障したら我々は否応なく不安に襲われる(もちろん、フーテンの寅さんみたいに、そんなことを気にしない人も多いのですけれど)、そうした有様を連想すれば、すぐ納得するというものです。

 こうした絶対的な“時”(つまり、ある日のある時間、世界の人々が共通して過ごすことになるその時刻)が日本にもたらされたのは、しかし、それほど昔ではありません。

 早い話、江戸時代はみんな個人用の時計等持っているはずもありません。“時の鐘”で知るぐらいなので、どのぐらい大雑把なものなのか、ちょっと考えてみて下さい。近松の名作『曽根崎心中』の(儒者荻生徂徠も感激したという)情死への道行きの下り、

此の世のなごり。夜もなごり。
死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜
一足ごとに消えて行く夢の夢こそあはれなれ
あれ数ふれば暁の 七つの時が六つ鳴りて
残る一つが今生(こんじょう)
鐘の響きの聞き納め
寂滅為楽(じゃくめつ いらく)と響くなり

とでてくる“鐘”こそが“時の鐘”なのですが、これでは「何時、何分ちょうどに,、どこそこで待ち合わせ」というわけにもいきません(ちなみに、七つとは当時の時制で、現在の午前3時頃だそうです)。また、当時の時法である「十二時辰」では、皆さんもご存じのように、日出から日没までを6等分する不定時法のため、季節によって多少変動します。

 こうした相対的で、いわばあいまいな時間の流れを、絶対的な物理的手段(振り子、ひげゼンマイ、音叉、水晶、原子等)で、“正確”に区切っていく時計が、しかも個人で携帯できるようになるのは、、1675年のホイヘンスによる懐中時計の制作まで待たねばなりませんでした。つまりは熱力学の第2法則が“時”を支配するわけです。

 その絶対的物理的手段を内包するにいたった懐中時計を、今度は腕のリストバンドにとめて簡便に用いる腕時計は、「最古の記録はジュネーブの時計商(ジャケ・ドロー・アンド・ルショー)の1790年のカタログに記載されたものと言われている」(Wikipedia)とのことです。

 ただしこの頃の腕時計とは宝石をちりばめたような“宝飾品”で(つまり、時計機能付きブレスレットのようなものでしょう)、実用品としては「兵器」の一員として、「腕時計が製品化された契機は、軍からの需要である。懐中時計を片手に砲撃のタイミングを計測していた砲兵が手首に懐中時計をくくりつけて使用する工夫から始まったとされている」(Wikipedia)。

 かつては、望遠鏡も腕時計も、精密機器として戦争必需品だったわけです(光学メーカーのニコンは、光学兵器の国産化という軍事目的から設立された過去があります)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

ところで、皆さん(国籍を問わず)は「日本人は時間に正確だ(=punctual)」と思いますか? 実は、これも少し時代をさかのぼれば怪しいものです。

 例えば、江戸末期から明治期にかけて日本を訪れた“外国人(=より正確にいえば、記録を書きとどめたおもに欧米系の外国人)”たちは、しばしば日本人の時間のルーズさに悩まされ、事が思うように進まないことに激怒します。

 実例をあげましょう。明治9年6月に来日、27年もの間、東京大学(帝国大学、東京帝国大学等)医学部で教鞭をとり、日本人に尊敬されつつ故国にもどった医学者ベルツの名著『ベルツの日記』の冒頭の手紙文には、こう記されています。

案に相違して、目指す国への第一歩はあまり愉快なものではありませんでした。(略)日本政府の通訳や役人などは、誰も迎えに来ていませんでした。それどころか、上陸させるための小船すら横付けにならないのです。お昼ころまで、いらいらしながら待ちましたが、あいかわらず禁足状態から解放される見込みがないので・・・・

 これを読んだ時、およそ30年前にアフリカのタンガニイカ湖の港で、同じように税関の役人が来るまでの間、いらいらしていた私自身(JICAの派遣専門家時代)を想い出したことでした。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、これでは近代化はできない! ということで、明治期に小学校が開設されると、その教材には必ず時計が出現します。たぶん、皆さんの小学校1年の教材に、時計も含まれていた事を想い出して下さい。

 こうして近代化に邁進する日本は、早くも1873年(明治6年)、文部省が初めて編纂した教科書の第一課に現れます(橋本毅彦+栗山茂久共編『遅刻の誕生』三元社、2001年;“遅刻”をテーマにしても論文が書ける=アイデアの勝負です)。曰く、

学校にありて、稽古するものには必ず、遊歩の時間あり、○此時間には遊歩場に出でて、思ひのままに遊歩して、身を動かし、心を慰むべし、○勉強することあれば遊歩するも、楽しみなり、遊歩を、楽みと思はば稽古の時間は怠らず、勉強すべし」(小学校読本 巻1)

 そして教材として使用された「掛図」には、(アメリカのものを習ったそうですが)、1874年の改訂版「第5単語図」に時計が堂々登場します! ということで、次回はこの傑作『遅刻の誕生』から、時間にまつわる人類学的話題をさらに紹介することにいたしましょう。

言語政策についてPart3:スワヒリ語講座+東アフリカ史+人類学への招待#1

2012 3/25 総合政策学部の皆さんへ

  これまで何度かスワヒリ語について触れてきましたが(例えば、「スワヒリ語をベースにピジン、クレオールを考える;言語政策についてPart2;国際援助の現場から#7」「母語、共通語、公用語、...言語政策についてPart1;国際援助の現場から#4」、スワヒリ語というよりむしろスワヒリ文化について、何回かに分けて触れてみたいと思います

 ところで、日本でスワヒリ語を勉強しようと思えば、日本の大学では大阪大学外国語学部のスワヒリ語語専攻があります。ここは大阪外国語大学時代からの老舗です(http://www.sfs.osaka-u.ac.jp/jpn/edu_fl_swa.html)。

 昔は宮本正興先生が教授でしたが、今は4名の先生がいらっしゃいますね;米田信子教授(スワヒリ語、バントゥ言語学、社会言語学音声学音韻論)、小森淳子准教授(スワヒリ語、バントゥ言語学、社会言語学、ヨルバ語)、竹村景子准教授(スワヒリ語、スワヒリ文学、スワヒリ文化論、社会言語学、女性学)、アシャ・ハミス・ハマド特任准教授(スワヒリ語学、スワヒリ文化論、スワヒリ語教授法)。

 残念なことに、東京外国語大学にはどうもスワヒリ語はおろか、アフリカ関係の言語の学科はなさそうです。

 それでは「お前はどこでスワヒリ語を教わったのか?」と尋ねられたら、それは先輩から+自学自習しかないわけです。

 私が大学院を過ごした自然人類学研究室は、当時、ホネ屋(=本来の自然人類学の王道というか、化石人類学あるいは形質人類学にいそしむ方々)、サル屋(野生のサルや類人猿の社会生態の研究)、そしてヒト屋(ヒューマン・エコロジーにも通じる生態人類学[エコロジカル・アンスロポロジー])の3つに分かれていましたが、そのうちサル屋とヒト屋のフィールドはアフリカであることが多く、先輩から後輩にスワヒリ語を伝授していく、という伝統がありました。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 それでは、私が使った教科書を紹介しましょう。もちろん、日本語でスワヒリ語を教わる本はありません(でした)。基本的に英語でスワヒリ語を学ぶことになります。英語とスワヒリ語と両方勉強できて、お役に立ちます、とポジティブに考えましょう。

  私の経験では、練習問題の反復というコンセプトで、とりあえず身につけるには、
Simplified Swahili (Longman language texts;Peter Wilson著)、Longman Group United Kingdom; New Ed版 (1983/11) 、ISBN-13: 978-0582623583が、世界的に知られている外国語自習シリーズTeach yourselfシリーズのスワヒリ編です。アマゾンをちょっとのぞいたら、現在はComplete Swahiliと唱っているようですね。
Teach Yourself Complete Swahili (Teach Yourself Complete Courses;Joan Russell 著) Teach Yourself Books (2010/9/24) ISBN-13: 978-1444105612。

 これらを手掛かりに、おぼつかなくスワヒリ語を勉強する次第です。以下の感じですが、もう大分錆ついてしまって、正当スワヒリ語と言えるかどうか、危ないところです。例えば、
 ・Ninatoka Japan (私は日本からやってきました)
 ・Jina langu ni Yukio Takahata(名前ですが、高畑由起夫と言います)
 ・Ninakuja Tanzania kufanya kazi ya utafiti(タンザニアには、調査のためにやってきました)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その一方で、授業でも触れていることですが、スワヒリ語には“貿易”、ことに“奴隷貿易”が絡んでいます。したがって、スワヒリ語は、アラブ系の奴隷商人がインド洋経由で東アフリカに跋扈した地域で誕生した一種のクレオールなのです(語彙の35%がアラビア語起源だそうです。もっとも、その具体的な発生過程には諸説あるそうです)。

 この“スワヒリ”という言葉自体が「海岸地域」が語源で、要は、内陸部にすむ連中からすると「海岸に住んでいる連中がしゃべっている言葉」ということになるわけです(スワヒリとは「アラビア語で「海岸、水辺、河畔、緑辺」という意味の「サワーヒル sawahil」に由来」Wikipediaより)。

 したがって、スワヒリ語が通用する範囲は、ほぼアラブの奴隷商人が跋扈した地域と言えます。東アフリカの人たちにとっては、ちょっと悲しいですね。共通語として役立つ言葉は、自分たちの遠い先祖の仲間を遠くアラビアまで売り飛ばして行った連中の活動の名残である、ということは複雑な思いもあるかもしれません。

 さて、スワヒリが“海岸”を意味するというのも、なかなか蘊蓄があります。というのも、アフリカには近代的道路網等はそもそも存在せず(ヨーロッパだって、やたらに道路建築に邁進したローマ人のおかげですし(「すべての道はローマに通ず)、中国でもこれまた道路網をつくりあげたあげくに動員した農民たちに打倒されることになる始皇帝のおかげではありますが)、とくに東アフリカの場合、そうした超絶的権力者は地中海沿岸ぐらいしかなかなか見あたらず、したがって長距離移動は水面(ことに海)を利用する方がよいわけです。

 なお、この東アフリカ周辺の海域について最初に記述された書籍が高名な『エリュトゥラー海案内記』です。なお、この原文はギリシア語で書かれ、紀元40~70年頃に、ギリシア人航海者によって書かれたものと推定されています。当時の地中海世界の共通語(現在の英語のステータスですね)はギリシア語だったのですね(そのギリシアが政治・経済的に長期低迷を脱することができず、今も経済危機にあるのはなかなか哀しい事実です)。

 とは言え、当時の港湾整備技術(そんなものは存在しなかったでしょうが)と航海技術からすると、帆船(とくに3角帆ダウ船)が無事に付ける良港はめったにない。そこで、数少ない良港の周りに、イスラーム的植民地都市国家が形成されている(国際政策学科と都市政策学科のテーマが、スワヒリ語という言語文化フィールドのテーマと合体します)という段取りになるわけです。スワヒリという言葉にそこまで読み込めば、貴方も立派な“総合政策人”ですね。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 とこのあたりで、to be continued・・・・・・・といたしましょう。

政策について考える:イスラームと政治Part1

2012 3/23 総合政策学部の皆さんへ

 「アラブの春」以来、中近東の政治社会はめまぐるしいまでの変化を示しましたが、現時点(2012年3月)での喫緊の課題はシリアアサド政権の行く末と、イランの核政策をめぐるアメリカとイランの(ホルムズ海峡封鎖までもささやかれる)敵対ということになるでしょう。それで、今回はイスラームと政治について少し触れてみたいと思います。

  というのも、実を言えば、私が海外調査で滞在した3つの国のうち、最初の外国体験だったインドネシアはイスラーム圏の西の端(そして、イスラーム圏最大の人口)、二つ目のタンザニアはイスラーム圏でも南の端であったため、イスラームにそれほど違和感は持っていないからです。とは言え、どちらも端の国ゆえ、いわば“緩めのイスラーム”かもしれませんが。

 さて、“民主国家”アメリカ(とくに大統領と国務省)の最大の悩みの一つは、第3世界の独裁者を“始末”したい。そして、“民主的な選挙”をおこないたい。しかし、民主的な選挙を実施すれば、(キリスト教徒から見て訳の分らぬように見える)イスラーム“原理主義者”が台頭するに違いない、という脅迫観念から由来する悪夢のスパイラルでしょう。

  かつて、ベトナム戦争をめぐり“ドミノ理論”を展開した時、社会主義陣営以外は仏教徒とキリスト教徒でしたので、ここまでは悩まなくても良かったのかもしれませんが(?!)、というあたり、皆さんはどう思われますか?

  この悩みの典型例は、すでに1990年代、それまで社会主義政策をとっていたブーメディエン大統領が死去したあとの、アルジェリアの混乱に見る事ができます。Wikipediaを引用しましょうか。
1980年代後半からFLNの一党制や経済政策の失敗に不満を持った若年層を中心にイスラーム主義への支持が進み、1991年の議会選挙ではイスラーム主義政党のイスラーム救国戦線(FIS)が圧勝した。
 このため、1992年には世俗主義を掲げる軍部がクーデターを起こし、国家非常事態宣言を発令した。1995年に大統領に就任したゼルーアル大統領は2000年の任期を待たずに辞任したため、1999年4月に行われた大統領選挙でブーテフリカ大統領が選出された。
 尚、上記のようにテロは減少したが、その後も国家非常事態宣言は発令されたままの状況が続いた。2010年~2011年アルジェリア騒乱が発生したこともあり、発令より19年が経過した2011年2月24日になってようやく解除された
 この1992年の軍部のクーデターを、しかし、先進諸国は容認します。つまりは「イスラームよりは軍事政権の方がましだ」という判断ですね。これを正しいと思うか? これが試験のレポートに課せられたら、皆さんはどう答えますか?

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 しかし、ここでよく考えてみれば、ヨーロッパの政治史もローマ教皇庁を頂点とする宗教界と、神聖ローマ皇帝を頂点とする世俗政権との、互いに相手をだまし合い、上手を取ろうとしながら素知らぬ顔で相手を変えて行く“カドリーユ”の連鎖であり、その中で、次第に宗教と政治の立ち位置が次第におちついてきた長い、長い歴史があります(ちなみに、ローマ帝国の実質的な創設者、ユリウス・カエサルの政治デビューは、ローマの宗教を束ねる最高神祇官でした)。

  • このあたりの機微は司馬遼太郎江藤新平の生涯を追った『歳月』に出てくる大隈重信のエピソードこそ想起されるべきでしょう。
     明治初頭、キリスト教解禁を迫るイギリス公使サー・ハリー・パークスの怒号に、弱冠30歳の新政府代表大隈重信はさらなる激論で論破します。いわく
  •  
  • キリスト教の真理であることはみとめる。しかし半面、キリスト教がおぼただしい弊害を欧州の歴史に流したこともわれわれは知っている。「聞かずや」と、大隈はいう。ある欧州の歴史家は「欧州の歴史は戦乱の歴史である」と。而してある宗教家-大隈に聖書を教えたフルベッキのことだがーは「欧州の歴史はキリスト教の歴史である」とも言う。この二つがもし真実であるとすれば、キリスト教の歴史はすなわち宣楽の歴史である。かのドイツの30年戦争をみられよ、フランスのユグノー教徒の乱をみあられよ、セント・バアソロミューの新教徒2万人の虐殺をみられよ。これらの歴史を貴官はどうみられるか。イエス・キリストは地に平和を送ったのではなく、剣を送ったのである。・・・・・」。
  •  

     これに同意をもらす異教徒が、まんざらいないわけではないでしょう!

    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 こうした世俗と宗教のせめぎ合いの歴史で、もっとも多くの犠牲を払った場所と言えば、言うまでもなく、ローマ教皇庁という宗教の頂点をかかえたイタリアであり、ムッソリーニが妥協的ながらも決着をつけるまで(それがラテラノ条約の近代史的意味でしょうけれど)、人民の意思を超えて彼らを多くの悲劇に巻き込んだ場所にほかなりません。

 イタリアの(国家的)不幸は、ローマ教皇庁と世俗政権の両立が不可能に近かったからだ、これが『ルネサンスの歴史』の著者インドロ・モンタネッリの主張です。1250年、ローマ法王との長年の闘争に疲れ、失意のうちに没する超近代的パーソナリティの持ち主神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世に、モンタネッリが冷静に下す評価にそれがもっともよくあらわれています。

  •  フリードリッヒは「いったいどこで間違ったのか・・・・・」、それは「イタリアをまともな国に仕上げようというのがもともと無理な話だったのだ」「イタリアへの愛に欺かれ、フリードリヒ大帝はおのが夢の対象を選び損なった。他の国を選んでいたらもう少し何とかなったろう。教皇庁を抱え込んでいる以上、イタリアが統一国家になる可能性はなかったと言うべきである」(『ルネサンスの歴史』より)。
  •  

 それにしても、宗教と政治の分裂に一応の区切りをつけたムッソリーニという男はそれなりに大した奴だった、という言うべきでもありましょうが、この間、多くの天才がこの悩みに戸惑い、翻弄されます。例えば、

 ・ゲェルフ党(法皇党)白派(自立政策派)として黒派政権に故国を追放される大詩人ダンテ・アリギエーリ
・(甥からたくみに実権を奪った)ミラノ公イルモーロ、(善悪測りがたい)チェーザレ・ボルジア、そして異国フランス最初のルネサンス君主フランソワ1世と、次々にパトローンを変転する万能の天才ダ・ヴィンチ
・追従と傲慢の双極の極みとも言うべき自叙伝の作者ベンヴェヌート・チェリーニ
・さらには信仰と現実そして美への精進に心引き裂かれるく「神にも紛う天才」ミケランジェロ・ブオナローティ
 

    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 ということで、今はイランの民衆も、宗教と政治のバランスについて慎重に学んでいる時期にあたる、と考えるべきかもしれません。

 それは長い長い時間がかかる事かもしれませんが、いまはイスラームの近代化、長い熟成の時の一断面なのだ、ということで考えいただければ、とも思います。

 とすれば、イスラームの近代化について剛腕を振るったケマル・アタチュルクのほぼ1世紀後の後継者とも言うべきかも知れないトルコのエルドアン首相、そして民族自決と開発独裁に揺れ動いた大国インドネシアをなんとか経営しているユドヨノ大統領こそ、このテーマにふさわしいケース・スタディかもしれません。

 と、そのあたりはPart2以降に譲りましょう。

高畑ゼミの100冊Part23&住まいの人類学:貧民窟探検記シリーズ1『最暗黒の東京』後編あるいは金貸し業の話#1

2012 3/12 総合政策学部の皆さんへ

 明治期の貧民窟探訪シリーズを紹介した前篇、近代化の光(給食)と影(残飯屋)を紹介した中編に続き、松原岩五郎『最暗黒の東京』後編です。中編で紹介した「残飯屋」を“卒業”した岩五郎のその後の貧民窟放浪の旅、彼の好奇心はあらゆるところにのびていきます(というより、このルポルタージュの少し前は、彼自身が田舎から都会に転がりこんできた貧民そのものだったわけですが)。

 例えば、“借金”、そして貸金業、まことに小説家サマセット・モームが言うように、「金は第六感のようなもので、これがなくては他の五感が動かない」。田舎で昔ながらの暮らしを送れば、お上が課す税金等をのぞき、さほどの“お足(おあし=お金のことです)”が必要でもありませんが、こと都会ではすべてを鳥目(ちょうもく=これもお金のこと)で購(あがな)わなければならず、そのためには現金がいる。

 森鴎外等に才能を激賞されながら、生活苦と結核から弱冠24歳6か月で逝いた樋口一葉は「あたしとダルマはどちらもお足がない(ダルマは文字通りの足、一葉はお金)」と言っていたそうですが。

 こうして、明治の“サラ金”事情までもが、現代の読者に明らかになるわけですが、話題が話題であるがゆえに、松原の名調子も炸裂します(それにしても庶民の借金、言うまでもなく総合政策では当然知悉しておいた方がよいですね。金融関係に就職する方も含めて)。下記のように、松原も「一廉の研究に値すべき処」と指摘しています。

 「質屋、日済貸し(ひなしがし)、無尽講、損料屋等は例によって下層社会へ一時の融通を幇(たす)くるものなり。細民がこれらの融通法によって稟(うく)る利益および損失、その事実に至ってはずいぶん錯綜したるものにして、一廉の研究に値すべき処なれども今俄かにその差別を為すの暇(いとま)なし。彼の新網、鮫ケ橋、万年町、三河町等最下等の地面に向かって樹(たて)られたる質店が、四面廃頽、目も当てられざるアバラス堂の一方に巍然として門戸を構え、塗籠(ぬりごめ)の蔵、煉瓦の塀、鋼鉄の忍び返ししその要鎮(ようじん)の堅固なると共に実着なる富の分量を示すものまた決して偶然のものにあらず。高利貸然り、損料屋然り、無尽講の発起者また然り。彼ら金主の成功したる因縁については種々あるべしといえども、畢きょう(ひっきょう)する処ただ細民の膏血(こうけつ)を丹精したるものに過ぎざるなり」

 さて、皆さんはこれらの言葉を知っていますか? 質屋は、これはもう誰でもご存じでしょうが、「日済し貸し」はどうでしょう? 要するに消費者金融なのですが、実に高利で一日一割、一名「カラス金(からすがね)」、Wikipediaでは「夕方にカラスがカァと鳴けば一割の利子が付くことに由来する」。

 つまり、朝1000円借りて、夕刻カラスがなく頃には1100円返さねばならない。Wikipediaの「カラス金」の項にはていねいに以下のような例まで出てきます。実際には、貸し倒れ率はそれほど高くなかったよし。

 「行商人のAさんは朝、千円を借りました
  Aさんは借りた千円で市場で商品を仕入れました
  Aさんは町へ行って仕入れた商品を売り歩きます
  夕方には仕入れた商品を売りさばき千三百円の売り上げを得ました
  夜、Aさんは金貸しに元本千円と利子の百円を返済しました。
   Aさんの手元には二百円の利益が残りました

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 それにしても利子とはどのように生まれるのでしょうか? 続けてWikipediaの「利子」を開けてみると

  • 貸借した金銭などに対して、ある一定利率で支払われる対価」とありますが、その経済上の定義は「『将来時点における資金の、現在時点における相対的な価格』をいう。
  •  
  •  もっとも、実際の金融取引における利子の本質については、上記の定義のように単に金銭の時間的な価値のみで説明しうるのではなく、利子とは、金銭の時間的価値、金融機関の提供するサービスの対価、債権の貸倒れに対する保証料ないしは保険料などが複雑に合成されたものと見ることもできる。ただ、サービスの対価も保険料も、時間が経過し「将来」となっていくことと密接であるため、金利と時間の関係は不可分である金利の高低は経済の景気動向を左右することがある。政府や中央銀行が政策金利を変更することによって基準金利を決定できる場合が多い。経済学的には、貨幣市場における価格に相当する。
  •  
  •  金利には、名目金利と実質金利が存在する。名目金利は、額面にかかる金利である。実質金利は名目金利から期待インフレ率を差し引いた分である。名目金利は0%より下がらないのに対し、実質金利はマイナスがあり得る。
  •  
  •  ファイナンス理論においては、金利は、通常は、貨幣の時間的価値と信用リスクの対価としての性質を有するものと考えられる。理論的には、無リスク資産に付される金利は貨幣の時間的価値のみを反映したものである

 皆さん、納得されますか? いっそ、『ナニワ金融道』を読み返した方がよいかもしれません。

 実は、利子に対しては古来、多くの疑問が寄せられています。例えば、イスラームでもカトリックでも利子に対して否定的な見解が述べられます。旧約聖書申命記23章19節「金銭の利息であれ、食物の利息であれ、すべて利息をつけて貸すことのできるものの利息を、あなたの同胞から取ってはならない」。

 ただし、この旧約聖書の規定は“同胞”向けなので、異教徒(キリスト者から見れば、ユダヤ教徒やイスラーム)には利息を取っても良い(ダブル・スタンダードそのものとも言えますが)。

 思い出しますね。シェークスピアの名作『ヴェニスの商人』、カトリックである主人公アントーニオはユダヤ人の金貸しシャイロックから「約束までの期日に返金できなければ、“人肉1ポンド”で返す」という契約で、大金を借ります(ここから先は、皆さんご承知の展開でしょうが、ネタばれ防止で伏せておきましょう)。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 この“利子を取っていけない”という“呪い”はいろんなところでささやかれ、例えばイタリアの歴史作家モンタネッリによる傑作『ルネサンスの歴史』の第12章「14世紀の商人」に主人公として堂々と登場するプラート出身の大商人フランチェスコ・ダティーニは、両替商(=のちの銀行家)にまで手をだしたため、

  • これで税金がきびしくなっただけでなく、高利貸を始めたという噂が拡がり、友人たちまで非難を浴びせるようになったから、彼の「気鬱」はますます昂進した。友人の一人にラーポ・マッツェイという紳士がいて、かれの良心の監督役を演じていた。マッツェイがダティーニに書く送った手紙は、愛情に満ちていると同時に率直な忠告を欠かさず・・・・この時期の二人のやりとりを見ると、金銭や利子の観念がどれだけ混乱していたか分る。
  •  
  •  中世盛期には、金を持っているのは教会だけだったから、教会が法外な利息で金を貸していた。しかし、世俗の私的資本が形成され始めると、教会は聖アウグスティヌス聖ヒエロニムスの言葉を急に思い出し、金銭の移動によって得られる利得はすべて不正であるときめつけ、利子収入を堕地獄の罪業に数え始めた。そのくせ聖職者は金貸しをやめなかったのである。そして、俗人がおなじことをすると、波紋の脅しをかけた。
  •  
  •  聖トマス・アクイナスは、この矛盾を解決しようとして、「正当な利子」は合法的だとしたが、どれだけが「正当」なのか、具体的には、いっこうにはっきりしなかった・・・・

 こうした歴史の果てに、学生の皆さんの多くが就職する金融機関が生まれたことを、たまには思い出してください(なお、ダティーニはラーポからの忠告によって、結局、共同出資者の死を機会に銀行を閉店したそうです)。こうして、経済の進展にしたがい、“利子”の効用もまた認められるようになり、

  • 13世紀に登場した新しい「両替商」たちは、それ以前(中世)の「金貸し」が封建領主の「消費」のために活動したのに対し、市民から集めた資本を、貿易商人たちの商品購入資金や、工場主たちの設備投資のために、つまり「生産」と「流通」を対象に信用貸しをおこなった。
  •  
  •  積極的な是認としては、1545年にイギリスでヘンリー8世が10%以内の利子取得を認める法令を発布している。また、カトリック教会ものちに(19世紀)利子を容認するようになった

 あの8人の女性を妻に迎え、そのうち二人の首を切ってしまった“暴君”ヘンリー8世が近代化につながる利子の公認をおこなったというのも、なかなか蘊蓄がありそうですね。かつ、これは彼がイギリス国教会を創設したがゆえに、宗教権力が左右していた利子に関する議論を、世俗権力がいわば接収したことを意味するわけですね。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 それでは、どれほどの利子が“高利”なのか? ちょっと調べてみましょうか。たとえば、「トイチ」という言葉がありますが、これは10日で1割、冒頭で述べた「カラス金」よりはずいぶん穏やかそうですが、単利法で年間365%だそうです。

 さらに複利法で計算すると、「100万円を借りていると10日目に10万円の利子が発生する。」(Wikipediaより)ということで、利息制限法の年利20%、出資法の年利29.2%をはるかに超して、実質金利3000%台に達することになります。これが闇金融の世界なのだそうです。

 このまま返済を行わずに20日目になると前回の10万円の利子にトイチの利子がさらについて121万円になる。

  • 30日目には利子に利子がついて133万円になる。この調子で返済しないままでいると…
  • 40日目には146万円になる
  • 50日目161万円
  • 60日目177万円
  • ・・・・・・・・
  • 100日目259万円
  • ・・・・・・・・
  • 200日目673万円
  • ・・・・・・・・
  • 360日目には3091万円に達する

 実際の借入に際しては、借入時に第一回目の支払利子を差し引いた形で支払われるので、100万円の金銭消費貸借契約(借金契約)を結んだ場合、90万円が支払われる。100万円が欲しい場合には、112万円を借り入れたこととなる

 ちなみに歴史的な例だと、室町時代の“土倉”は、月利6文子(100文借りると、1月後に106文返す)のが平均で8~10文子にもなったとのこと(Wikipediaより)。

 一方、ヨーロッパでは先ほども紹介したように「利子が許されるのか?」という論争があり、プロテスタントのルターも利子に反対しますが(条件付き抜け道も反対)、一方、カルヴァンは条件付き是認という道を選んだとのことです(この結果、資本主義につながっていくわけです)。

 さらに、それではどれほどの利子がよいのか、経済にとってはどうか? という利子論争がおこり、たとえば、カルペパー(1578~1662)は高利は経済を停滞化させる。イギリスの法定利子率10%をオランダの6%並みに引き下げることを主張するのだそうです(佐々木憲介「経済思想Ⅰ講義資料」http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/47942/1/H24_EconIdeasI.pdf)。

 このカルペパーの影響下、利子論争が起こり、この戦いに市場メカニズムを意識したロックの利子論「(1)自然利子率は貨幣の需要・供給によって決まる。(2)利子率の法定は不可能。利子以外の名目で貨幣を授受するための方策が案出されるだけ」が勝利するとのことです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 こうやってちょっと調べるだけで、どんどん面白そうなことが分かっていきますが、はっと気付くと、東京の貧民窟から話がちょっと離れてしまったような気もします。このあたりで、いったん幕を閉じて、to be continued・・・・・・としましょう。

マンガ(コミック)で世界を知ろうPart4:チェーザレ、毀誉褒貶の栄光#1:「残念ながらわれわれは、善人からよりも悪人からより多く学ぶものである」

2012 3/1 総合政策学部の皆さんへ

 マンガ(コミック)で世界を知ろうシリーズ、Part1は安倍清明(『陰陽師』)、Part2はカルディアのエウメネスとアレクサンドロス大王(『ヒストリエ』)、Part3はトルフィン・カルルセブニとクヌーズ1世(『ヴィンランドサガ』)を採り上げましたが、Part4は当然総領冬実原作『チェーザレ-破壊の創造者』になります。

  なによりも主人公チェーザレ・ボルジアおよびその父親法皇アレクサンデル6世ほど、毀誉褒貶の的になっている人物は、世界史でもめったにおりません。そこにバートランド・ラッセルの言葉という「残念ながらわれわれは、善人からよりも悪人からより多く学ぶものである」を肝に銘じて学んでみましょう。

 なお、主人公のチェーザレ・ボルジアですが、最新巻の第8巻ではまだ17歳、父枢機卿ロドリーゴ・ボルジア(後のアレクサンデル6世)を継ぐ高位聖職者をめざして修業中。彼が、やがて同母の実弟ファン(このコミックではすでに登場済みで、イケメン、しかし性格悪そう、そして兄と比べるべくもなく無能、というキャラ設定です)の暗殺を噂され、枢機卿の緋の衣を捨てて環俗・・・・

 さらにヴァレンティーノ公爵として教会軍総司令官を務め、中世的領主たちを圧迫、あるいは殺し、あるいは追放し、自らの部下であった傭兵隊長たちが反乱を起こした際も、詭計をもって皆殺しにする(セニガッリア事件)・・・・・

 こうした行状の故、下記に詳述するように文化人ブルクハルトたちが毛嫌いする一方で、リアリズムに徹する政治哲学者マキャッヴェリが絶賛する生涯になるとは、自らもまだ予想だにしていない。ということで、世界史上稀に見る“毀誉褒貶”を極めた方なのです。

 ちなみに、日本に例にとるべくYahooで「毀誉褒貶 日本史」を検索すると安国寺恵瓊徳川慶喜乃木希典松平容保蘇我馬子山縣有朋田中角栄小泉純一郎等、そうそうたるメンバーが列挙されます(皆さん、政策系学部の学生として、彼らのキャラがきちんと頭に入っていますよね)。

  とは言え、かのマキャヴェッリがチェーザレを資料に『君主論』で一つのアーキタイプとして打ち出し、それがその後の政治思想に与えた影響を鑑みると、チェーザレに関する毀誉褒貶度は日本史の英雄たちをもはるかに凌駕するものです・・・・ということで、今回はチェーザレ(ラテン語でカエサル=つまり、かのジュリアス・シーザー(英語読み)こと、ガイウス・ユリウス・カエサル(古典ラテン語:Gaius Julius Caesar)にちなんで名づけられています)です。

    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  さて、このコミックの主人公チェーザレが、後年マキャヴェッリが 『君主論』で熱く語ることになる「イタリアの救いを神から命ぜられたと思われるようなある光明」を帯びた英雄か、それともヨーロッパ文化史の一大権威ヤーコプ・ブルクハルトがその主著『イタリア・ルネサンスの文化』に描くいかにも“怪物的”、恥知らずで強欲な梟雄なのか?

 この両極端に引き裂かれたキャラについて、スイスの実直な歴史学者として、ブルクハルトはまっこうから“怪物”として断罪します。

    (チェーザレ)自身、夜になると護衛をともなって、おびえあがった市中を徘徊した。そして、それが、ティべリウスのようにあさましくなった自分の顔を、白昼人に見せるのがいやになったからだけではなく、凶暴な殺人欲を、おそらくまったく知らない人間によっても充たそうとするためであった、と信ずべきふしが大いにある
     
    ボルジャ家のこの両人(チェーザレとその父である教皇アレクサンデル6世)から公然と暴力を加えられない者は、かれらの毒で倒された」
       

 ちなみに、この“ボルジアの毒”の噂はヨーロッパ中に広まり、現在に至るも都市伝説のようにただよっています。このブルクハルトが反ボルジア派、親ユリウス2世(チェーザレの政敵)派の筆頭の一人です。

 その彼の対極として、親ボルジア派の筆頭でかつ教皇ユリウス2世を“(憎みきれないけれど)困ったおじさん”と見てしまう歴史作家塩野七生の筆では、チェーザレとは、

    ローマ教会を徹底的に自分のために利用することによってキリスト教を侮蔑し、一度は身にまとった、生涯の栄誉と安定を保証する枢機卿の緋の衣を脱ぎ捨ててまでイタリアを統一して、そこに自らの王国を創立しようとした彼(チェーザレ)の野望は、今日に至るまでの500年間、歴史が彼を、ルネサンス時代の「メフィストフェレス」として弾劾してきた理由となった。
     
     しかし、メフィストフェレスの魅力は不滅である。バートランド・ラッセルも言っている。「残念ながらわれわれは、善人からよりも悪人からより多く学ぶものである」と。
     
     そして、チェーザレ自身は、生前ただの一度も自分を弁護しようとはしなかった。自分の悪行に対する彼の弁解は、それが策として有効であった場合にのみ限られる。彼は、自らを語る事の極度に少ない男であった」(『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』より)
     
 どうですか? チェーザレとアレクサンドル6世を論じる際の歴史家たちの態度、ついつい気分を高ぶらせながら蛇蝎のごとく嫌うか、それとも称揚するか、中間などありえません(私のような“ひ弱な中間派”=“善良な小市民”など、無意味の限りです)。

    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 このようにルネサンスとはまことに「中途半端な人間は生きられない」時代でした。そして、その時代に輝くチェーザレの善悪の彼岸を超えた所業は、その“良心派”にさえ、心を揺さぶられるものがある。なにしろ、反ボルジア派であるブルクハルトでさえ、上記の記述の前後、マキャッヴェリを引き合いにだして、

 「もしだれかが教会国家を世俗化するとすれば、この人(チェーザレ)こそそれをしたであろうし、またそこで支配をつづけるためには、それをせざるをえなかったであろう。もしわれわれのおもいちがいでないならば、これこそマキアヴェリがこの大悪人を、ひそかな共感をもって扱っている本質的な理由である。
 
  「刃を傷口から引き抜くこと」、すなわちあらゆる干渉とあらゆるイタリアの分裂の根源を絶滅することを、マキアヴェッリが期待しうる者は、チェーザレのほかにはだれもいなかった
 
と書きつけずにはいられなかったのです(『イタリア・ルネサンスの歴史』から)。

    ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 さて、肝心の『チェーザレ~破壊の創造者~』ですが、チェーザレ君は最新刊の8巻では、1492年1月の段階でまだ17歳、パンプローナ司教の職で、かつピサ大学で学位を取得したばかり、輝くばかりのイケメンぶりを発揮はしていますが、マキアヴェッリを傾倒させた政治的才能を全開させるにはまだ至らず、あくまでも高位聖職者を目指す学生として、しかし、将来も考えながら、フィレンツィエの真の支配者ロレンツォ・デ・メディチ等とも交誼を重ねているところです。

 このチェーザレの立ち位置ですが、(授業でもたまに話すことがありますが)中世ヨーロッパでの“貴族”の世界では、子弟は分割相続から、長子が家督(=家長権・貴族の地位)を継ぎ、次子が教会に入って(親からの支援で)高位聖職者をめざし(その一つの頂点が枢機卿、そしてなろうことならカトリックの頂点である法皇(教皇)に)、そして第3子は軍人になって死ぬか、自らの功績で新しい地位をつかむ。

  後の教皇アレクサンデル6世こと、枢機卿ロドリーア・ボルジアも長子ペドロ・ルイスをスペイン王家下のガンディア公爵の地位につけながら(しかし、ペドロ・ルイスは若くして死亡、第3子のファンがあとを継ぎます・・・・・)、次子のチェーザレを聖職者に、そしてこの92年の8月には枢機卿に昇格させます。

 この時、チェーザレ自身が己の後世をどう考えていたか? 何より、第8巻が幕をあけたこの1492年は世界史の転換点。後のアレクサンドロとチェーザレに深くかかわる事になるスペインのカトリック両王によるグラナダ征服(レコンキスタの完了)、そしてその命をうけてのコロンブス(イタリア名はコロンボ、スペイン名コロン)による大西洋航路開拓。

 『チェーザレ~破壊の創造者~』第8巻の帯が謳うように「この年、中世が終わった。神の時代から、人間の世紀へ。その時、17歳のチェーザレは何を思うのか」がこの巻のテーマです。

 誰も己の人生の変転を予想できなかったこの時代、チェーザレが精一杯、自らの能力を発揮して乗り切ろうとした人物の一人であることだけは確かでしょう。

  •  ちなみに、この1492年の時点で、チェーザレと同年生まれの「神にも紛ごう」彫刻家ミケランジェロ・ブオナローティと、後の法皇レオ10世(上記のロテンツィオ・デ・メディチの次子)も17歳(二人ともこのコミックにすでに登場)。
  •  
  •  数年後、イタリアに災難をもたらすフランス王シャルル8世22歳(こちらも登場済み)。そして、半世紀後にインカ帝国を征服するコンキスタドールのフランシスコ・ピサロもシャルルと同じおよそ22歳(彼に処刑される皇帝アタワルパの生誕は10年後、アジアで暴虐の限りをつくしながら、遠く異国の地日本に流れ着き、鉄砲伝来に一役買ったメンデス・ピントが生まれるのは17年後)
  •  
  •  一方、こちらもコミックに登場済みのマキャッヴェリ33歳、そしてクリストファー・コロンブスおよそ41歳。やがてカトリック=神聖ローマ帝国的支配の潮目を変えさせることになるデジデイウス・エラスムス26歳、そのエラスムスの1世代後、公然たるカトリックへの反逆をはかるマルティン・ルター9歳。
  •  
  •  権力者たちに話を戻すと、コロンブスのパトローンであるカスティーリャ女王イサベル1世41歳、イサベルの夫でやがてチェーザレの破滅に一役買う、アラゴン王にして煮ても焼いても食えない真の政治家フェルナンド2世40歳(姉さん女房だったのですね)。
  •  
  • そして、最後に、イサベルとフェルナンド、さらには神聖ローマ皇帝マキシミリアンの孫で、その祖父母たちの因果ゆえか、治世中に宗教改革に直撃されるカール5世の誕生はこの8年後です。
  •   

 そんな時代の幕開けを、本書をひもときながら学んでいきましょう。ということで、to be continued・・・・とします。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...