2012年4月

高畑ゼミの100冊Part23&住まいの人類学:貧民窟探検記シリーズ1『最暗黒の東京』後編あるいは金貸し業の話#3:両替商とバンク、あるいはベンキ

2012 4/28 総合政策学部の皆さんへ

 明治期の貧民窟探訪シリーズを紹介した前篇、近代化の光(給食)と影(残飯屋)を紹介した中編に続き、松原岩五郎『最暗黒の東京』後編で“金貸し業”の話を始めたところ、なかなか終わりそうもないので、#2として“無尽構”をとりあげました。

 #3では、さらに“両替商”→“金貸し業”の系譜から、英語の“bank”そしてスワヒリ語の“Benki”の話を続けたいと思います。

  さて、英語の“Bank”(土手ではなくて、銀行の方です)の語源をご存知でしょうか?

 ものの本には出ていることですが、「イタリア語のbanco(机、ベンチ)に由来する。これはフィレンツェの銀行家たちによってルネサンスの時代に使われた言葉で、彼らは緑色の布で覆われた机の上で取引を行うのを常としていた。ヨーロッパ最古の銀行は1406年(または1407年)にジェノヴァで設立されたサン・ジョルジョ銀行とされている」(Wikipedia『銀行』)

 つまり、Bankの語源は“机”であり、机の上に積まれた各国の貨幣を売り買いすること自体が銀行の始まりということになるわけです。

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 ちなみに、15世紀、イタリアで通用した貨幣はそれぞれの分立した小国の信用を背景にしていたため、両替商がどうしても必要でした。有力な貨幣では、

・ベネツィアがドゥカート(ダカット;Ducato)”(1284年以降)
・フィレンツィエが“フローリン(fiorino d’oro)金貨”(1252~1523年)
さらに
・イスラーム圏からは“ディナール(dinar)”(ローマ帝国の銀貨デナリウスに由来するとのこと)
・フランス王国は当然“フラン(Franc français)”(1360年以降)

 これらの貨幣は、どのぐらいの価値があったのか? 例えばヴェネツィアの経済的繁栄をバックに国際通貨として知られた(シェークスピアにも登場)ドゥカートは「金貨はともに品位は.875で、56グレーン(54トロイグレーン)の量目を有していた」とのことです。

 グレーンは0.064 798 91 グラムだから(ちなみに、“グレーン”とはオオムギの1粒(grain)の重みに由来)、3.6287グラムの金になりますね(単位は時代によっても変わりますから、多少の計算ミス等はお許しを)。2012年3月12日現在の金価格は、三菱マテリアルのHPだと4,786円、ということは単純に計算すると17,367円。

 もっとも、ルネサンス当時の経済状況によって、購買力平価を計算すべきでしょうが、このあたりになると私はまったく素人でお手上げです。

 ちなみにかのビッグマック指数を計算しようとしても、マクドナルド兄弟がマクドナルド・ハンバーガーを売り出したのが1940年、レイ・クロックがこれを巨大フランチャイズ化し始めたのが1954年ですから、当然、ルネサンスと比較するわけにいきません。

 そこで、文献を探すと『ルネッサンス期イタリアの傭兵隊長― その実像 ―』という論文で、著者の林要一氏はイタリアの文献を紹介しながら「現時点での1 ドゥカート相当円貨は5 万2 千円から6 万円になるから、目安としては6 万円とするのが適当であろう」としています(http://www.waseda.jp/prj-med_inst/bulletin/bull03/03_06hay.pdf)。

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 さて、そのバンコですが、wikipedeiaによると「北イタリアの都市国家は独自貨幣を発行するようになり、都市間の貨幣の交換を行う両替商が生まれた。彼らは都市の広場にバンコ(banco)と呼ばれる台を設置してその上で貨幣の量目を計ったり、交換業務を行った。後に「銀行」を意味するバンク(bank)という言葉はバンコに由来すると言われている。

イタリアの両替商はイングランドフランドルシャンパーニュなどヨーロッパ経済の先進地帯や主要都市に進出をして、十分の一税の徴税・輸送業務や為替業務をも合わせて行い、後の銀行業の母体となった」とあります。こうして、ルネサンスを支えるメディチ家やフッガー家の隆盛へとつながっていくわけですね。

 一方、イギリスではもう一つの系統、金細工師(英語でGoldsmith=文字通りの金細工師)がその職業柄、所有する金庫に他人の金(きん)や貨幣を預かり、それを金融に回すことで、金融業が発達することになります。

 そのあたりを世界最初のバブル崩壊事件、フランスの「ミシッシピー会社」ならびにイギリスの「南海(泡沫)会社」の顛末を描いたヴァージニア・カウルスの『南海の泡沫』(大橋吉之訳、筑摩世界ノンフィクション全集43巻)から少し引用してみましょう。17世紀の話なのですが、

金細工師たちはまったく偶然のことから、いつの間にか金融を始めていたのである。彼らの本業はあくまでも、ピストルの握りに透かし彫りをしたり、銀の締め金具を作ることだった。ところが彼らは、家事と泥棒の恐れのない、大きな貴重品保管室を持っていたので、個人や個人会社までもが、貴重品をそこに預けるようになった。そして、その習慣は広く普及してた。(中略)

一般的には、金細工師たちは信頼できるという評判を得ていたし、また、彼らの手形は商社の間で自由に流通していたが、彼らの多くは次々と破産していった。彼らは預かっている金を、天文学的な利率で、ときには33%もの高利で、貸し付けてもうけていた(彼らは、金を預けている金主には、奉仕をしているのだからといって、ほとんど利子を払わなかった)。

だから、彼らの顧客がきちんと借金の支払いをしてくれるときには、彼らは急速に金持ちになった。しかし、一人の悪玉にひっかかって、姿をくらまされたりすると、たちまち破産ということになる恐れがあったのである。

  こうして、両替商(机)と金細工師(金庫)から出発した金融業は、やがてその必要性を認められ、イギリスでは1694年、イングランド銀行が個人会社として設立されます。資本金の予定額は120万ポンド、例えば(20世紀の首相ウィンストン・チャーチルの祖先である)モールバラ公爵夫妻は1万ポンド、大蔵卿ゴドルフィン伯爵は7000ポンドを投資します。

  そして、このイングランド銀行は「持参人払い」の銀行手形=紙幣を発行します。「銀行が国家に用立てる120万ポンドを預金として用意した」代わりに、「国家がイングランド銀行に同額の金額の紙幣発行を認める」という算段です。こうしてイングランド銀行は自然発生的に中央銀行化していきます(なお、世界最初の中央銀行はスウェーデンのリスクバンク(1668年)とのこと)。

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 さて、イタリアのしがない両替商の店先の“机”から出世した“Bank”なのですが、タンザニアではスワヒリ語のなまりで、なんと“Benki”なのです(なお、ケニアでは“Banki”です。例えば、Banki Kuu ya KenyaCentral Bank of Kenya)。お気づきでしょうが、スワヒリ語では外来語を受け付けるとき、名詞の最後の音が“i”になることがよくあります。

 したがって、国立商業銀行National Bank of Commerceは、タンザニア・スワヒリでは“Benki ya Taifa ya Biashara”です。英名の略称はNBC、さすがにHomepageを開けると懐かしいものがあります。ロゴはキリンとキリマンジャロ

 30年前はここに銀行口座をもっていました。もっとも、当時の社会主義国家為替管理の面倒臭さと言ったら、とても皆さんには説明できないほどのものです。いずれお話できるかもしれませんが、今の私の経済的知識ではうまく説明できる言葉が見つかりません。

 もっとも、どういうわけか、上記のBanki kuu ya Kenyaと違って、スワヒリ語のページが見つかりませんね。探し方が悪いのでしょうか?

 いずれにせよ、バンコ → バンク → ベンキという言葉の変遷が、世界システムの成立、グローバル化を象徴しているかもしれません。

総合政策の名言集Part 12:とどめをさすための決め台詞編

2012 4/23 総合政策学部の皆さんへ

 総合政策の名言集として、「相手を徹底的に痛めつける決め台詞」を紹介しましょう。
 
 となると、これは何と言ってもスティーブ・マックィーン(=威勢がよくて、観客誰しもが応援したくなる若造=ヒーロー)と老優エドワード・G・ロビンソン(=憎体な敵役、しかし、若造には越え難いパワーの持ち主=いわば実悪と公家悪の合体)がポーカーの大勝負で激突、若造の野望とその挫折を描いて余りあるノーマン・ジュイソン監督の1965年公開の映画『シンシナティ・キッド』から、数夜を費やす大勝負の最後の最後、若造“Cincinnati Kid”を完膚無きまま叩きのめした大物“The Man”がたたきつけるセリフを紹介しなければなりません。

  ただし、うろ覚えなので、正確ではありません。なお、このセリフは研究室ブログに既出です
 
#47:お前は強い。だが、俺が生きている限り、お前は2流だ!
 
 一度でよいから、こういうセリフを吐きたいものですが、しかし、逆に、言われる立場にはなりたくないですね。

  もちろん、The Manとて、このセリフは「ひょっとしたら、明日は立場が逆転し、自分の寝首を掻くかもしれぬ若いライバルを、この際、徹底的に再起不能におとしめる」ためのとどめであり、ある意味、自らの老いへの恐怖が言わせたものかもしれません。

  英語版Wikipediaでは、この映画のクライマックス、The ManKidの最後の勝負のやり取り(Final hand)が以下のように再現されています。ポーカーゲームに詳しい方にはお薦めです:

      With Lady Fingers dealing, the Kid is on the button. She deals Howard the 8♦ and the Kid the 10♣. The Kid bets $500 and Howard calls. Howard gets the Q♦ and the Kid the 10♠. The Kid bets $1,000 and Howard raises $1,000. The Kid calls. Lady Fingers deals Howard the 10♦ and The Kid gets the A♣.

     The Kid bets $3,000 and The Man calls. The Man’s final card is the 9♦; The Kid gets the A♠. The Kid checks. The Man bets $1,000. The Kid raises $3,500 and is all in. Howard reaches into his wallet and raises another $5,000 — with five $1,000 bills. The Man agrees to take his marker and the Kid calls the bet. Howard turns over the J♦ for a straight flush. The Kid turns over the A♥, to show his bad beat with a full house, Aces full of tens.

     Following the game, a gutted Kid leaves the hotel and loses a penny pitch to a shoe shine boy he’d beaten in the same contest at the film’s opening. Around the corner, he runs into Christian and they embrace. 

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 #47:“Nuts!”

 “Nut”と言えば英語で堅果(クルミやピカン、マカダミアナッツなどの堅い実のこと)ですが、“Nuts”となると微妙な意味合いがこもり、英語版Wikipediaでは“Slang for a person suffering from insanity/Slang term for testicle ”等とあります。つまり、ふだんあまり大声では叫ばない方が良さそうな言葉です。「くそったれ!」とでも意訳した方がよいかもしれません。

 これを叫んだのはGeneral Anthony McAuliffe、時は1944年12月21日、第2次大戦末期の西部戦線、ドイツ国境になだれ込もうとなだれ込もうとするアイク指揮下の連合軍は、窮鼠猫をかむの例え通り、クリスマスもほど近い厳寒のなか、ドイツ軍の反抗(バルジの戦い、アルデンヌ攻勢等と呼ばれますが)に直撃されます。

 とくに第82空挺師団と並ぶアメリカ帝国主義の文字通りの“先兵”第101空挺師団は、戦線維持のために前線に投入されるも、空軍の支援が期待できない荒天下、ドイツ国境に接するベルギーの町バストーニュでドイツ第XLVII装甲軍団に完全に包囲されてしまいます。絶体絶命のピンチです。

 しかも、師団長マックスウェル・テイラー(後年、陸軍参謀総長から駐ベトナム大使に転身、ベトナム戦争への介入にのめりこみ、アメリカを一敗地にまみれさせますが)スタッフ会議のため、本国に帰っていて不在。しかし、その代理アンソニー・マコーリフ准将はドイツ軍の降伏勧告に対して一言、“Aww, nuts”と叫び、結局、返答にこの“Nuts!”を選びます。

 タイプされた公式文書は「To the German Commander, “Nuts!”」ですが、あまりのことに説明を求めたドイツ側に「第327グライダー連隊長は「地獄へ落ちろ!」という意味だ」と伝えます(Wikiepdia)。

 そして、その5日後、“戦争”というよりも“戦闘”にしか才がない(そして、自分も興味を持てない)アメリカ第3軍司令官ジョージ・パットンの命令下、クレイトン・エイブラムス中佐指揮の第4機甲師団第37機甲大隊がクリスマスの贈り物として、第101空挺師団救出に成功します。

  その救出劇の直前、12月19日連合軍総司令官アイゼンハワーはパットンに「どのぐらいの時間があれば軍を北方に向けられるか?」と尋ねたところ、パットンは48時間以内に可能である」と答えてます。

 「アイゼンハワーは「無茶なこと言うな!」と言い、準備が十分に整ってからで良いと言ったが実はパットンは会議に出席する前に北部に反撃する準備をしておくように部下に伝えてあり、尋ねられた時点ですでに局地的な反撃は行われ始めていたのである」(Wikipedia)。

 戦闘にしか能がないとはいえ、プロですね。このパットンの異常性格ともいうべき行状はフランクリン・J・シャフナー監督、ジョージ・C・スコット主演のハリウッド映画『パットン大戦車軍団(原題は“Patton”)』にあますことなく再現されています。戦争と平和に関心がある方は、ぜひ一見を。ちなみにこの作品はアカデミー賞7部門で受賞しますが、主演男優賞のスコットが受賞拒否という前代未聞の行動に出たことでも有名です。

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  さて、次にご紹介するのは、相手本人に言うのではなく、さりげなく第3者に述べる「とどめのセリフ」ですが、コナン・ドイル原作、かの名探偵シャーロック・ホームズの第2作『4人の署名』からです。ホームズを前に滔々と自説を吹聴するスコットランド・ヤードの刑事の言葉を拝聴したあと、ホームズは傍らのワトソンに、しかもフランス語でつぶやきます(阿部知二訳『四人の署名』角川文庫版より)。

#48:才気をてらう馬鹿ほど、しまつのわるいものはない

 これはもう説明が要りませんよね。こうしたウィットと限りない侮蔑を同時にこめた言葉としては、ほかに、19世紀末のイギリスの作家・詩人ワイルドのように

#49:あれはエゴのないエゴイストさ

 あるいは、同じ19世紀のフランスの評論家、サント・ブーブのように、こうつぶやいてもよいかもしれません(こちらもこの研究室ブログで既出ですが)。

#50:人々を軽蔑すると言うのは、まだ軽蔑の仕方が足りないからである。沈黙こそ、唯一至上の軽蔑だ。-と言う事だって既に言いすぎである。

政策について考える:イスラームと政治Part2:トルコについて#1:国際帝国の崩壊と国民国家への脱皮の苦しみ

2012 4/19 総合政策学部の皆さんへ

 イスラームと政治のシリーズですが、例としてトルコをとりあげたいと思います。もっとも、私はトルコに行ったことはありません。

  イメージとしても、トルコ国内におけるマイノリティで反体制派に傾きがちなクルド人出身の映画監督ユルマズ・ギュネイが、獄中から撮影を指示しながら監督した傑作映画『路』(1982年度カンヌ映画祭パルム・ドール受賞)を、学生時代に京都で観たぐらいですね。

   それにしても、日本語版Wikipediaには『路』(トルコ語で“Yol”)が出ていません。以下に英語版を貼り付けましょう。英語の勉強としてください。

     Yol (Turkish for “The Road” or “The Way”) is a 1982 Yılmaz Güney film. The screenplay was written by Yılmaz Güney, and it was directed by his assistant Şerif Gören, who strictly followed Güney’s instructions, as Güney was in prison at the time. Later, when Güney escaped from prison, he took the negatives of the film and edited it in Switzerland.

     The film is a portrait of Turkey in the aftermath of the 1980 Turkish coup d’état: its people and its authorities are shown via the stories of five prisoners given a week’s home leave. The film has caused much controversy in Turkey, and was banned until 1999 due to Yılmaz Güney’s involvement rather than its content.

     Yol tells the story of several Kurdish prisoners on furlough in Turkey. Seyit Ali travels to his house and finds that his wife has betrayed him and works as a prostitute. She was caught by her family and held captive for Seyit Ali to end her life in an honor killing. Though apparently determined at first, he changes his mind when his wife starts to freeze while traveling in the snow.

     Despite his efforts to keep her alive, he eventually fails. His wife’s death relieves Seyit Ali from family pressure and he is saved from justice since she freezes but he has an internal struggle and must return to jail.

     Mehmet Salih has been arrested for his role in a heist with his brother-in-law, whom he abandoned as he was being shot by police. His in-laws want nothing to do with him, and he is finally forced to tell his wife Emine the truth. Emine and Mehmet Salih decide to run away and get on a train.

     On the train, they get caught in the toilet while having long-awaited sex with each other. They are saved from an angry mob by the train’s officers and held in a cabin before being handed over to officials. There, a young boy from Emine’s family who boarded the train shoots both Mehmet Salih and Emine.

     Ömer (Necmettin Çobanoğlu) returns to his village. Being a border village, it has a struggle with the army due to smuggling. Ömer visits and arranges to cross the border to escape prison. Though Ömer is clearly determined, he gives up after his brother is shot dead while smuggling. Through his brother’s death, Ömer has inherited the responsibilities of his brother’s wife and children as dictated by tradition.

      Each prisoner in the film suffers from a conflict that threatens his freedom, with tradition also imprisoning him.

 刑務所から仮出獄した5名のクルド系囚人たち。ある者は妻に対する名誉の殺人をせまられ、ある者は妻と一緒に伝統社会からの逃走を試みるもむなしく殺され、さらに別の男は刑務所に戻らぬことを決意する・・・・・・ 囚人たちのすべてが、自らの自由をめぐり、近代国家(トルコ)、伝統社会(クルド)、そして妻や親族との愛と葛藤に苦しんでいく・・・・・

 これらは、仮出獄中にトルコを脱走、フランスで『路』を仕上げたというギュネイの人生そのものなのです。総合政策、とくに多民族共生、民族紛争等の国際政策にご関心がある方は是非、ご一見を。

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 しかし、どうしてトルコという国家が成立したのか? ちょっと考えてみましょう。そもそも“トルコ”とは何か? 土地の名前なのか? 国なのか? 民族なのか? それとも・・・・・

 となると、もっとも広義の定義は“テュルク系民族”=“テュルク(Türk)諸語族”に属する人たちというになります(Wikipediaより)。つまり、本来、トルコは言語であり、その言葉を使う民族であったわけです。

 このテュルク系民族を英語では“ターキッシュ ピープル”、中国語では初出は“狄”或いは“翟”、そして我々にとっては世界史でおなじみの“突厥”なのですね。その突厥滅亡後、ウィグル(回紇)キルギス(堅昆)などの民族が勃興して、さらにイスラーム化されていくわけです。

 現代の英語で、このテュルクからさらに派生した言葉に“七面鳥”があります。バーボンの銘柄にも“Wild turkey”がありますが、アメリカ原産のこの鳥がなにゆえターキーなのかといえば、トルコから由来したホロホロ鳥と混同してしまったためだそうです。

 このように“トルコ”とは、本来は地名でも、国名でもなく、トルコ系の言語を話す民族が現在の地に政治的権力を構えたことがきっかけで、それが19世紀以降の“民族国家化”の風潮のなか、国名・地名として定着したとも言えそうです。

 コミックで世界を知ろうPart2で紹介の『ヒストリエ』では、主人公のエウメネスが育った都市カルディアから奴隷に売られて、黒海地方をさまよいますが、当時はもちろん、トルコなどという言葉はありえるはずもないわけですから、作中ではアジア/小アジア(アジアはアッシリア語[=アッカド語の北方方言だそうです]由来)、カッパドキア(古代ペルシア語由来)などの地名で呼ばれています。

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 さて、テュルク系民族がどのような経緯で小アジア/カッパドキアの地に住み着き、“トルコ”が定着したのか、そのあたりの機微をWikipediaに頼ると、

 1038年にはホラサーンの支配を確立しセルジューク朝を樹立した。1055年にはトゥグリル・ベクがバグダッドに入城し、アッバース朝カリフからスルタンの地位を授かった。セルジューク朝はスンナ派の庇護者としての正当性を得ると、西アジアのイスラーム圏の主導的立場となった。

 1071年マンジケルトの戦いでセルジューク朝が東ローマ帝国を破ると、アナトリアに進出し、ルーム・セルジューク朝が誕生した。ルーム・セルジューク朝の支配のもとでアナトリアのトルコ化、イスラム化が進行した。

という順番になるようです。とりあえず、セルジューク朝であれ、オスマン朝であれ、“近代的”な民族国家ではなかった、という点を強調しておきましょう。

 例えば、オスマン・トルコの皇帝は様々な理由から正規の結婚をほとんどせず(数少ない例外は、后妃ヒュッレム・ハセキ・スルタンと正式に結婚した愛妻家スレイマン大帝)、ハレムに集められた女奴隷との間で後継者を作ったため、遺伝子的にいえば、トルコ人とはいえないかもしれない、という状況になります。

 このヒュッレムにしても、実はキリスト教徒のロシアあるいはポーランド出身、通称をロクセラーナ(ロシア女)です(本名はアレクサンドラ・リソフスカ)。したがって、後継者になるセリム2世の遺伝子は半分ロシア/ポーランド人由来になるわけです。これが続けば、トルコ皇帝の身体を構成する遺伝子は、トルコ人民からどんどん離れて行ってしまうはずですね。

 そのスレイマン大帝の治世初期を支えた名宰相イブラヒム・パシャはギリシャ生まれのキリスト教徒の奴隷出身(イブラヒムはロクサーナを購入して、スレイマンに献上したといわれていますが、伝説では、その後ロクセラーナの姦計にかかって失脚、処刑されます)。

 また、軍事的にオスマン・トルコ皇帝をささえる常備軍団イエニ・チェリも、「当初はキリスト教徒の戦争捕虜からなる奴隷軍であったが、15世紀にキリスト教徒の子弟から優秀な青少年を徴集し、イスラム教に改宗させてイェニチェリなどに採用するデヴシルメ制度が考案され、定期的な人材供給が行われるようになる」といったように、国民国家における国民軍ではなく、むしろ異教徒出身で忠誠をただ一人皇帝にささげる皇帝直属軍団。

 こうして、異国人の遺伝子を受け継ぎ、異教徒出身者に支えられる皇帝の前に、全国民はひとしなみにその“才能”だけで出世が可能な帝国、身分制度の枠を超えられないヴェネツィア人を初めとするイタリア人にとって、一種のあこがれのような存在でもあったオスマン帝国が、多民族・多文化の国民に課す“柔らかな支配”、これこそが小アジアを中心に空前の領土を誇った所以でもあります。

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 そして、20世紀初頭、この多民族・多文化共生の国際帝国は、古の安倍貞任の「年を経し、糸の乱れの苦しさに」の歌のように、崩壊していきます。最終的には第1次大戦の敗戦を経て、民族国家としてのトルコ共和国が誕生する。

 しかし、その“近代的民族国家”の枠に押し込めることができない“異分子”の存在、例えば、ギリシア独立戦争以来の仇敵となったギリシア系民族、1894年~1917年に断続的に起きたとされる大虐殺をトルコ政府はいまだに認めていないアルメニア人(一説によれば150万人が殺された)、そして永遠の少数派であるクルド人=『路』の主題たちが、国民国家としてのトルコに異議を唱えます。Wikipediaの「クルド人」の項には、

 オスマン帝国の主たる後継国家であるトルコでは、共和人民党政権が単一民族主義をとったため、最近までクルド語をはじめとする少数民族の放送・教育が許可されてこなかったが、これがクルド人としての統一したアイデンティティを覚醒させることとなり、クルド人独立を掲げるクルド労働者党(クルディスタン労働者党)(PKK。トルコ及び日本政府はテロ組織と見なしている)はゲリラ攻撃を行なったので、1995年トルコ軍が労働者党施設などを攻撃、イラク領内にも侵攻し、イラク北部の労働者党拠点を攻撃した。

とあります。これが国際帝国からなんとか民族国家に変貌しながらも、国際帝国の遺産の最終処理に苦しむ現状です(同じ悩みは、ソ連の後継者であるロシアも、基本的には清朝の領土をうけついだ中華人民共和国にも存在します)

 それでは、そのあたりの説明は、どうやらto be continued・・・・・となりそうです。

高畑ゼミの100冊Part23&住まいの人類学:貧民窟探検記シリーズ1『最暗黒の東京』後編あるいは金貸し業の話#2:無尽構あるいはマイクロクレジット

2012 4/7 総合政策学部の皆さんへ

  明治期の貧民窟探訪シリーズを紹介した前篇、近代化の光(給食)と影(残飯屋)を紹介した中編に続き、松原岩五郎『最暗黒の東京』後編で“金貸し業”の話を始めたところ、なかなか終わりそうもないので、今度は#2として、“無尽構”あるいはマイクロクレジットをとりあげたいと思います。

  無尽構が近代化されて無尽会社に、そしてそれが相互銀行に、そしてさらに第二地銀に変化した歴史は、金融業界に進まれる方にはやはり知識として身につけた方がよいかもしれませんし、第3世界でいま流行のマイクロクレジットにもまた関連しているとすれば国際政策学科に興味がある方にも必須の知識かもしれません。

 さて、『最暗黒の東京』に話を戻して、松原の筆致では「高利貸然り、損料屋然り、無尽講の発起者また然り。彼ら金主の成功したる因縁については種々あるべしといえども、畢きょう(ひっきょう)する処ただ細民の膏血(こうけつ)を丹精したるものに過ぎざるなり」と、金融業者=庶民の金の掠奪者という旧約聖書からの伝統的感覚で書かれているようですが、どんなものなのでしょうか?

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 まず、“無尽”とは何か? Wikipediaでは「日本の金融の一形態である。複数の個人法人等が等の組織に加盟して、一定又は変動した金品を定期又は不定期に講等に対して払い込み、利息の額で競合う競りや抽選によって金品の給付を受ける」とあります。

 庶民金融としてのその歴史は古く、鎌倉時代から存在が確認されていたということなのですが、要は、小金を持っている人たちが集まり、その小金をみんなでたしあわせて、誰かに投資する。その投資によって可能になった事業から利益が上がると、利息をつけてみんなに返す。というわけで、これは別に日本の専売特許でもなく、世界的にみられる習慣です。

 例えば、アフリカの方々にも同じようなものが機能しています。論文では野元美佐(1996)「カメルーンの頼母子講組織 : ヤウンデにおけるバミレケの場合」『アジア・アフリカ言語文化研究』51:105-130;http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/21824/1/jaas051006.pdf)。

 なお、私が子供の頃は、“頼母子講”(というより、たんに“タノモシ”と聞こえましたが)と聞く方がふつうだったような気がします。

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 それでは、具体的にどうするのか? あるHPには概略、以下のように書かれていました(http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/kuru/tanomosi.html)。

(1)基本は集団型の積み立て貯金:10名が月ごとに5万円を1年間ためると、最終的に600万円がたまり、満期になるとメンバーで分配して、めいめい60万づつ配当される。しかし、これでは利益(利息)はつかない。

(2)一方、緊急にお金が必要な人がでてくる。この人は、毎月、メンバーが金を持って集まる月の集まりで、「入札」を行う。その際に、自分の状況を考えて、5万円以下の金額を書き込んだ札を箱に入れる。そして、もっとも低い金額(例えば4万5千円)を書いた方が「落札」して、その月集まったお金をすべて借りる。具体的には、10人で4万5千円として集まった計45万円が、落札者が借りることになります。

(3)そして、落札者は期日までに、その月に集められるはずの金額計50万円を返済しなければならない。ここで(落札者以外のメンバーにも)利益が発生するわけですね。借りた額に関わらず、返済額は一定で50万円です。したがって、入札者は、①落札額を低めにして、確実に落札する → しかし、結果として、借りることのできる総額は減り、かつ返却時に高利になる。②落札額を高めにすれば、落札できる可能性が低くなる → しかし、たくさん借りられて、返済時にも楽になる(利息を低める) 、この二つのどちらかを選択しなければなりません。一種のトレードオフになるかもしれません。

(4)繰り返しになるかもしれませんが、落札者以外のメンバーは、本来なら5万円のところ、より低い額の拠出で、満期の際に、どんな場合でも5万円が返ってくる。

(5)落札者にとって、銀行などに比べて高利ではあるが、審査も面倒な手続きなくすぐに借りられるメリットがあります。一方、それ以外のメンバーは高い利息の利益が得られる。

 このシステムの主催者が“講元”、“親”と呼ばれます。なかなかよくできたシステムですね。なお、「借りた者が返済しなかった」というリスクは、講の主催者である講元がかぶります。ですから、講元は実力者が務め、結果として、日本の近代化の中で、資本の蓄積 → 金融資本家としての成長となるわけです(下記参照)。

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  もうお気づきでしょうけれど、アフリカの新興国流に言えば、このシステムを“(国家にとっての)リプロダクティブ”なものにする=つまり、誕生しかけている資本家=講元等に対して、国家からの免許と引き替えに、稼いだ利益から上納金(税金)を貢がせてコントロールしつつ、借り手に対するセーフティ・ネットを整える(と言えば、聞こえがよいのですが)。これが庶民金融の近代化の図式でしょう(信用金庫信用組合はまたべつのルートで形成されたようです)。

 このあたりを日本の例でたどれば、「明治時代には、大規模で営業を目的とした無尽業者が発生していった(この段階が、松原の言う「金主の成功したる因縁については種々あるべしといえども、畢きょう(ひっきょう)する処ただ細民の膏血(こうけつ)を丹精したるものに過ぎざるなり」という記述につながります)

 「中には会社組織として営業無尽をするものが多く現れるようになったものの、これらの事業者には脆弱な経営、詐欺的経営や利用者に不利な契約をさせる者も多かったが、当時は、これを規制する法令がなかったため、業界団体無尽集会所などを中心に規制する法律の制定が求められるようになり、1915年に旧・無尽業法が制定され、免許制となり、悪質業者は排除されていった(注:現在の「無尽業法」は1931年に改めて制定)」(Wikipediaより)

 この無尽会社の中から、さらに発展をとげて金融機能を強化、銀行とあまり変わらぬものとなっていったものが、1931年に成立した無尽業法で成立した株式会社形式の無尽会社ですが、戦後、1951年の相互銀行法(現在廃止)の制定で金銭無尽が禁止されたため、多くの無尽会社が相互銀行(現在の「第二地方銀行」)に転換します。名実ともに金融機関に発展するわけです。

 その片方で、無尽会社→相互銀行→第二地銀といういわば出世ルートをたどる道とはまったく別に、庶民にとっての身近な無尽(頼母子)講もまた地域で脈々といきつづけている、ということを知れば、明治の貧民ルポルタージュ作家松原岩五郎も、もって瞑すべきかもしれません。

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  さて、無尽→無尽会社→相互銀行→第二地銀というルートは、総合政策学部の卒業生の方にとっても、就職先に選ぶことも大いにありそうな身近な世界ですが、その一方で、国際政策学科の皆さんにとっても、発展途上国におけるマイクロクレジット等の話題に関連しても興味があるところかもしれません。

 皆さんの中には、すでに紹介した「カメルーンの頼母子講組織 : ヤウンデにおけるバミレケの場合」のように、アフリカ土着の頼母子講を近代化できないか、とお考えの方もいらっしゃるでしょう。その際、ひょっとしたら、日本での近代化の流れが参考になるか、と考える方もいらっしゃるでしょう。それが「研究の出発点」です(もちろん、ベンチャー的な考え方をしたら「ビジネスの出発点」です)。

 一方、そういう内発的発展/草の根的な方向というより、十分に近代化されたシステムで、庶民に対するサポートのツールとして小規模金融を使うというのが、いわゆるマイクロクレジットのようですね。

 Wikipediaでは、「失業者や十分な資金のない起業家、または貧困状態にあり融資可能でない(商業銀行からの融資を受けられない)人々を対象とする非常に小額の融資(ローン、クレジット)である。これらの人々は担保となるものや安定的な雇用、検証可能な信用情報を持たず、通常のクレジットを利用するための最低条件にさえ達しない。

「マイクロクレジットは、少額保険、少額送金など少額ファイナンスサービスの一環であるため、貧しい人々への金融サービスを意味するマイクロファイナンスの一部分である。

「マイクロクレジットはバングラデシュグラミン銀行が起源と言われている画期的な仕組みである。発展途上国にかぎらず、先進国にも増えている。グラミン銀行の場合は貧窮のどん底にある人々(ほとんどは女性)が個人事業に従事し、収入を得て、貧困を脱することを可能にさせ、成功を収めている。 手法の特色としては、

  1. 極少額の返済
  2. グループに対して貸付けし、返済を怠るとグループ全体が連帯責任を負う制度
  3. 定期的返済

などが主な特色である」としています。

 人類学者としては、ちょっと迷うところですね。内発的発展を基本に頼母子講の近代化を図るか、最初から近代的システムで庶民の生活の向上(そしてその結果としての庶民生活の近代化)を図るか? 皆さんはどうお考えになるでしょう?

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...