政策について考える:イスラームと政治Part2:トルコについて#1:国際帝国の崩壊と国民国家への脱皮の苦しみ

2012 4/19 総合政策学部の皆さんへ

 イスラームと政治のシリーズですが、例としてトルコをとりあげたいと思います。もっとも、私はトルコに行ったことはありません。

  イメージとしても、トルコ国内におけるマイノリティで反体制派に傾きがちなクルド人出身の映画監督ユルマズ・ギュネイが、獄中から撮影を指示しながら監督した傑作映画『路』(1982年度カンヌ映画祭パルム・ドール受賞)を、学生時代に京都で観たぐらいですね。

   それにしても、日本語版Wikipediaには『路』(トルコ語で“Yol”)が出ていません。以下に英語版を貼り付けましょう。英語の勉強としてください。

     Yol (Turkish for “The Road” or “The Way”) is a 1982 Yılmaz Güney film. The screenplay was written by Yılmaz Güney, and it was directed by his assistant Şerif Gören, who strictly followed Güney’s instructions, as Güney was in prison at the time. Later, when Güney escaped from prison, he took the negatives of the film and edited it in Switzerland.

     The film is a portrait of Turkey in the aftermath of the 1980 Turkish coup d’état: its people and its authorities are shown via the stories of five prisoners given a week’s home leave. The film has caused much controversy in Turkey, and was banned until 1999 due to Yılmaz Güney’s involvement rather than its content.

     Yol tells the story of several Kurdish prisoners on furlough in Turkey. Seyit Ali travels to his house and finds that his wife has betrayed him and works as a prostitute. She was caught by her family and held captive for Seyit Ali to end her life in an honor killing. Though apparently determined at first, he changes his mind when his wife starts to freeze while traveling in the snow.

     Despite his efforts to keep her alive, he eventually fails. His wife’s death relieves Seyit Ali from family pressure and he is saved from justice since she freezes but he has an internal struggle and must return to jail.

     Mehmet Salih has been arrested for his role in a heist with his brother-in-law, whom he abandoned as he was being shot by police. His in-laws want nothing to do with him, and he is finally forced to tell his wife Emine the truth. Emine and Mehmet Salih decide to run away and get on a train.

     On the train, they get caught in the toilet while having long-awaited sex with each other. They are saved from an angry mob by the train’s officers and held in a cabin before being handed over to officials. There, a young boy from Emine’s family who boarded the train shoots both Mehmet Salih and Emine.

     Ömer (Necmettin Çobanoğlu) returns to his village. Being a border village, it has a struggle with the army due to smuggling. Ömer visits and arranges to cross the border to escape prison. Though Ömer is clearly determined, he gives up after his brother is shot dead while smuggling. Through his brother’s death, Ömer has inherited the responsibilities of his brother’s wife and children as dictated by tradition.

      Each prisoner in the film suffers from a conflict that threatens his freedom, with tradition also imprisoning him.

 刑務所から仮出獄した5名のクルド系囚人たち。ある者は妻に対する名誉の殺人をせまられ、ある者は妻と一緒に伝統社会からの逃走を試みるもむなしく殺され、さらに別の男は刑務所に戻らぬことを決意する・・・・・・ 囚人たちのすべてが、自らの自由をめぐり、近代国家(トルコ)、伝統社会(クルド)、そして妻や親族との愛と葛藤に苦しんでいく・・・・・

 これらは、仮出獄中にトルコを脱走、フランスで『路』を仕上げたというギュネイの人生そのものなのです。総合政策、とくに多民族共生、民族紛争等の国際政策にご関心がある方は是非、ご一見を。

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 しかし、どうしてトルコという国家が成立したのか? ちょっと考えてみましょう。そもそも“トルコ”とは何か? 土地の名前なのか? 国なのか? 民族なのか? それとも・・・・・

 となると、もっとも広義の定義は“テュルク系民族”=“テュルク(Türk)諸語族”に属する人たちというになります(Wikipediaより)。つまり、本来、トルコは言語であり、その言葉を使う民族であったわけです。

 このテュルク系民族を英語では“ターキッシュ ピープル”、中国語では初出は“狄”或いは“翟”、そして我々にとっては世界史でおなじみの“突厥”なのですね。その突厥滅亡後、ウィグル(回紇)キルギス(堅昆)などの民族が勃興して、さらにイスラーム化されていくわけです。

 現代の英語で、このテュルクからさらに派生した言葉に“七面鳥”があります。バーボンの銘柄にも“Wild turkey”がありますが、アメリカ原産のこの鳥がなにゆえターキーなのかといえば、トルコから由来したホロホロ鳥と混同してしまったためだそうです。

 このように“トルコ”とは、本来は地名でも、国名でもなく、トルコ系の言語を話す民族が現在の地に政治的権力を構えたことがきっかけで、それが19世紀以降の“民族国家化”の風潮のなか、国名・地名として定着したとも言えそうです。

 コミックで世界を知ろうPart2で紹介の『ヒストリエ』では、主人公のエウメネスが育った都市カルディアから奴隷に売られて、黒海地方をさまよいますが、当時はもちろん、トルコなどという言葉はありえるはずもないわけですから、作中ではアジア/小アジア(アジアはアッシリア語[=アッカド語の北方方言だそうです]由来)、カッパドキア(古代ペルシア語由来)などの地名で呼ばれています。

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 さて、テュルク系民族がどのような経緯で小アジア/カッパドキアの地に住み着き、“トルコ”が定着したのか、そのあたりの機微をWikipediaに頼ると、

 1038年にはホラサーンの支配を確立しセルジューク朝を樹立した。1055年にはトゥグリル・ベクがバグダッドに入城し、アッバース朝カリフからスルタンの地位を授かった。セルジューク朝はスンナ派の庇護者としての正当性を得ると、西アジアのイスラーム圏の主導的立場となった。

 1071年マンジケルトの戦いでセルジューク朝が東ローマ帝国を破ると、アナトリアに進出し、ルーム・セルジューク朝が誕生した。ルーム・セルジューク朝の支配のもとでアナトリアのトルコ化、イスラム化が進行した。

という順番になるようです。とりあえず、セルジューク朝であれ、オスマン朝であれ、“近代的”な民族国家ではなかった、という点を強調しておきましょう。

 例えば、オスマン・トルコの皇帝は様々な理由から正規の結婚をほとんどせず(数少ない例外は、后妃ヒュッレム・ハセキ・スルタンと正式に結婚した愛妻家スレイマン大帝)、ハレムに集められた女奴隷との間で後継者を作ったため、遺伝子的にいえば、トルコ人とはいえないかもしれない、という状況になります。

 このヒュッレムにしても、実はキリスト教徒のロシアあるいはポーランド出身、通称をロクセラーナ(ロシア女)です(本名はアレクサンドラ・リソフスカ)。したがって、後継者になるセリム2世の遺伝子は半分ロシア/ポーランド人由来になるわけです。これが続けば、トルコ皇帝の身体を構成する遺伝子は、トルコ人民からどんどん離れて行ってしまうはずですね。

 そのスレイマン大帝の治世初期を支えた名宰相イブラヒム・パシャはギリシャ生まれのキリスト教徒の奴隷出身(イブラヒムはロクサーナを購入して、スレイマンに献上したといわれていますが、伝説では、その後ロクセラーナの姦計にかかって失脚、処刑されます)。

 また、軍事的にオスマン・トルコ皇帝をささえる常備軍団イエニ・チェリも、「当初はキリスト教徒の戦争捕虜からなる奴隷軍であったが、15世紀にキリスト教徒の子弟から優秀な青少年を徴集し、イスラム教に改宗させてイェニチェリなどに採用するデヴシルメ制度が考案され、定期的な人材供給が行われるようになる」といったように、国民国家における国民軍ではなく、むしろ異教徒出身で忠誠をただ一人皇帝にささげる皇帝直属軍団。

 こうして、異国人の遺伝子を受け継ぎ、異教徒出身者に支えられる皇帝の前に、全国民はひとしなみにその“才能”だけで出世が可能な帝国、身分制度の枠を超えられないヴェネツィア人を初めとするイタリア人にとって、一種のあこがれのような存在でもあったオスマン帝国が、多民族・多文化の国民に課す“柔らかな支配”、これこそが小アジアを中心に空前の領土を誇った所以でもあります。

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 そして、20世紀初頭、この多民族・多文化共生の国際帝国は、古の安倍貞任の「年を経し、糸の乱れの苦しさに」の歌のように、崩壊していきます。最終的には第1次大戦の敗戦を経て、民族国家としてのトルコ共和国が誕生する。

 しかし、その“近代的民族国家”の枠に押し込めることができない“異分子”の存在、例えば、ギリシア独立戦争以来の仇敵となったギリシア系民族、1894年~1917年に断続的に起きたとされる大虐殺をトルコ政府はいまだに認めていないアルメニア人(一説によれば150万人が殺された)、そして永遠の少数派であるクルド人=『路』の主題たちが、国民国家としてのトルコに異議を唱えます。Wikipediaの「クルド人」の項には、

 オスマン帝国の主たる後継国家であるトルコでは、共和人民党政権が単一民族主義をとったため、最近までクルド語をはじめとする少数民族の放送・教育が許可されてこなかったが、これがクルド人としての統一したアイデンティティを覚醒させることとなり、クルド人独立を掲げるクルド労働者党(クルディスタン労働者党)(PKK。トルコ及び日本政府はテロ組織と見なしている)はゲリラ攻撃を行なったので、1995年トルコ軍が労働者党施設などを攻撃、イラク領内にも侵攻し、イラク北部の労働者党拠点を攻撃した。

とあります。これが国際帝国からなんとか民族国家に変貌しながらも、国際帝国の遺産の最終処理に苦しむ現状です(同じ悩みは、ソ連の後継者であるロシアも、基本的には清朝の領土をうけついだ中華人民共和国にも存在します)

 それでは、そのあたりの説明は、どうやらto be continued・・・・・となりそうです。

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...