2012年5月

政策について考える:イスラームと政治Part2:トルコについて#3:ケマル・パシャ-“族長”の孤独、あるいは“開発独裁”の旗手

2012 5/29 総合政策学部の皆さんへ

 イスラームと政治の話を始めたら、トルコの政治に関するあたりでなかなか複雑になってしまいました。前回に引き続き、ケマル・パシャを紹介しましょう。

 さて、そのケマル、あるいは彼が主導した“ケマル主義”とは何か? 近代化に遅れ、かつてはイスラーム勢力のヨーロッパ侵攻の最先端であったはずのトルコが、逆に、ヨーロッパ側勢力(ロシア、ブルガリア、ギリシア)から攻め込まれかねない立場に逆転、蚕食の危機さえ迫る。その時にどうすればよいのか? これがケマルをはじめとするトルコ人たち、まさに民族国家にまでこそげ落とされたトルコの課題だったのです。

 ケマルはとりあえず基本戦略を、(1)世俗主義(イスラームからの政教分離)、(2)民族主義(国際帝国を断念、トルコの国民国家化をはかる=それがクルド人問題を引き起こすことにはなるわけですが)、(3)共和主義(スルタン制の廃止、議会制の採用)等に定めます。

 しかし、現実は厳しい。ある意味、彼以外に“近代人”がいない状況、暗殺の危機さえある現状に直面した彼は、やがて共和人民党による一党独裁(反対派の排除)とそれを梃子とした近代化に邁進、Wikipediaによれば「結果として、トルコは独裁政権下にありながら全体として国家の安定に成功した例となり、「成功した(正しい)独裁者」ムスタファ・ケマルはその死後も現在に至るまで国父としてトルコ国民の深い敬愛を受けつづけている。救国の英雄、近代国家の樹立者としてのムスタファ・ケマル評価はトルコではあたりまえのものになっている」。

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 「正しい独裁者」! 難しいですね。政治家としてこの他の道をとることができないとして、自分自身は悩まないのか? 少し前の先輩には“南米の解放者シモン・ボリバール、あるいはフランス革命の限定相続人ナポレオン・ボナパルト、日本ではあるいは大久保利通等々でしょうか?

 さらに付け加えれば、このカテゴリーにケマルの同時代者たるべきムッソリーニフランコが入るかどうか、まったく微妙なところでしょうね。ムッソリーニはヒトラーに引きずられて無残な死を遂げることとなり、フランコは天寿こそ全うすることができましたが、死後も長くスペイン国民の心を引き裂き続けています。思えば、20世紀は、様々な独裁者たちの世紀でもありました。

   ちなみに、ケマルは1881年生まれで、ムッソリーニは1883年、フランコは1892年。第一次大戦直後、イスタンブールを占領した連合軍に対抗して、ケマルが初代議長を務めることとなるトルコ大国民議会がアンカラで開催された1920年3月16日、ムッソリーニは社会主義者から転向し、イタリア社会党から除名されます。

 一方、ムッソリーニを「イタリアで唯一革命を指導できる人物」と認めていたロシア革命の指導者レーニンは、社会党幹部に「あの男を追放するなんて、君らはバカだ」と言ったと言われています。その彼が反社会主義・民族主義に立ち位置を変えてミラノに「戦闘者ファッシ」を組織するのが、トルコ大国民会議前年の1919年3月23日、そして「黒シャツ党」の“ローマ進軍”の断行により、混乱のイタリアを救える唯一の人間として国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から組閣を命じられるのが1922年10月29日です。

 なお、彼らより10年ほど若いフランコは一介の軍人として、その頃、モロッコでのベルベル人の反乱の鎮圧に成功し、サラゴサの陸軍士官学校校長などの軍人キャリアを上がっていくところでした。 彼は、ムッソリーニやケマルたち、いわば先輩の背中をどのように見つめていたのでしょうね?

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 とりあえず、ケマルは大車輪で改革を進めます。まず、1923年に共和制に移行、翌年皇帝を追放します。始祖オスマン1世が王朝をたてたという1299年から、実に723年、思えば、たった69年しか続かなかったソ連等に比べると、はるかに長い治世でしたが、それでも、巨木が内側から朽ち果てるように、あっけなく王朝が崩壊します。

 そして、ケマルは1923年10月29日に初代大統領就任、38年11月10日の死までにその任につきます。しかし、片時も心休まることはありません。なにせ、四方八方に敵がいるのです(旧皇帝勢力、宗教勢力、トルコを半ば占領状態の連合軍、ことにギリシア軍、etc.)。その複雑さは、ムッソリーニやフランコが直面した現状をはるかに超えるものがあったでしょう。

 ケマルはトルコ独立戦争を勝ち抜き、1922年9月に地中海沿岸の大都市イズミールを奪回、この時の命令が「全軍へ告ぐ、諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ (“Ordular, ilk hedefiniz Akdeniz’dir ileri”です(Wikipedia)。

 ついで講和条約を有利に結ぶと、国内改革に乗り出し、新憲法採択=脱イスラム国家化(メドレセ(宗教学校)やシャリーア法廷の閉鎖等)、そして反対派の動きを封じるため、自らが主導する共和人民党の一党独裁体制を樹立することになります。

その一方で、経済的には国家資本主義へと転換、「国家資本による国民経済の創出を押し進めた」(Wikipedia)。このあたりは20世紀後半の数々の開発独裁の主導者たちを連想させることではあります。フォードがフォーディズムの創始者であったように、ケマルは開発独裁の創始者のひとりであったかもしれません(しかも、その成功者)。

 ムッソリーニと同様、ケマルの支持者は多様で、「左派的・脱イスラム的な世俗主義知識人からきわめて右派的・イスラム擁護的な保守主義者、民族主義者まで様々な主張があり」(Wikipedia)、ケマルへの(本人は嫌っていたという)個人的崇拝をベースに「多様な主義主張が語られているのが現実ではある」(同)。

 しかしながら、ムッソリーニのファッシズムがたかだか20年あまりしか続かず、いまだに毀誉褒貶が絶えないこと、フランコがその鉄腕で押さえつけたスペインが彼の死後就任した国王ファン・カルロス1世の賢明な指導で民主化にむかったことを考えてみれば、ケマルが己の全生涯をささげたトルコ革命の世界史的意義というものがわかってくるはずです。

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 とはいえ、この人生がケマル個人の幸福に結びついたものとはいえず、1938年11月10日に訪れた死の原因は、激務と過度の飲酒による肝硬変と診断されています。

 なにしろ、(侵攻する連合軍、とくにANZACたちにとっても、また死守するケマルたちにとってもあまりにも過酷であった)ガリポリの戦い以来、ストレスに耐えるため飲酒で身体をこわすこともあったというケマルは、「純エタノールにして毎晩500ミリリットルは呑んでいたと言われ」ているのですから。

 さらに、「死に至るまで一党独裁制のもとで強力な大統領として君臨したが、彼自身は一党独裁制の限界を理解しており、将来的に多党制へと軟着陸することを望んでいたとされる」(Wikipedia)と評される彼の一生は、ノーベル賞作家ガルシア・マルケスの『族長の秋』に描かれた“独裁者の孤独な心情”を浮き彫りにするものかもしれません。したがって、“族長”の孤独、これが今回のテーマということになります。

 そのあたり、ケマルの業績のいわば“限定相続人”たる“開発独裁者”たちはどうなっていったのでしょうか?

金環日食とラ・ロシュフコー、あるいは天文博士たち:“時”をめぐる人類学Part 2~理論と現実のすりあわせ~

2012 5/24 総合政策学部の皆さんへ

 先日は25年ぶりの“金環日食”ということで、日頃、天体にはあまり興味がない私も、ついつい観てしまいました。三田では朝の7時30分、幸いにもまあまあの晴れ。

 それにしても、TVや新聞で繰り返された「曇り空でも太陽を裸眼で探さないように」という注意に、かの17世紀のフランスのモラリスト、ラ・ロシュフコー公爵の箴言をが頭に浮かびます。「総合政策のための名言集Part 1:勝海舟、永井荷風、そしてラ・ロシュフコー」ですでに触れていますが、改めて紹介しましょう。

太陽も死も、じっとみつめていることはできない(箴言26) 

 もちろん、前半生を絶対王政(というよりも、むしろリシュリューマザランという絶対的官僚制)との闘いのうちに、身も心も消耗しつくしたロシュフコーのセリフは“太陽”よりも“死”に重点がおかれているわけですが、それにしても、太陽光エネルギーの恩恵をうけながら、そのご本尊をまともに見つめることもない我々の日常の真理を、容赦なく指摘するセリフではあります。

 となれば、日食で何がみえるのか? あるいは何がわかるのか? 古来多くの呪術師、占星術師、(日本の)暦博士の類も含めて、多くの人々の興味を引き付け、あまつさえ、太陽系のシステムまでを理解するカギになってきた現象、それがこの日食です。

 例えば、紀元前624年~546年頃の古代ギリシアの哲学者ターレスは「特に測量術や天文学に通じており、ヘロドトスによればその知識を用いて日食を予言したといわれている。これは天文学上の計算から紀元前585年5月28日と考えられる」(Wikipediaより)。

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 講義においても時々説明していますが、自然科学はいわば理論(理論値)と現実(観察値、実測値、経験値)のすりあわせです。天体の運航を読みとることは専門家(陰陽師、天文博士、天文暦学者)しかできませんが、外れてしまうと、理論がまずかったことになる。

 例えば、江戸時代の天文暦学者、渋川春海は、碁と天文学を極め(どちらも、数学的センスが基本か?)、Wikipediaによれば「数学暦法を池田昌意に、天文暦学を岡野井玄貞・松田順承に、垂加神道山崎闇斎に、土御門神道を土御門泰福に学んだ」とあります。なんとなくすごい組み合わせですね。その彼が、現実とあわなくなった暦の改正に志します。なんと、800年も改正しないまま使われていた宣明暦はすっかり、ずれてしまったのです。

 これもいかにも日本的で、暦を革新する技術がともなわずに、自らイノベーションができないまま、旧来の権威を維持しようと現実を糊塗し続けてしまったのです(それも数百年間も)。結局、このブログでもしばしば登場する言葉ですが、平安朝に発達した特定の“家”と“職業”が連結する宮司請負制(かんしうけおいせい)の庇護のもと、暦の作成を独占する陰陽寮(設置は飛鳥時代にさかのぼり、廃止は実にご一新後の明治2年!)はその技術低下とともに、朝廷の権威も失われていく、そんな時代です。

 長峯先生や亀田先生が講義されているように、“独占”、とくに無能者による“独占”は良くない、ということになります。

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 もっとも、皆さん世界史などを履修されていたら、ご存じですよね。西欧でも、天体の運行はなかなか把握できず、太陽年をベースに1年を365日と定め、4年に1回、うるう年を入れて、平均年を365.25日とするユリウス歴を、カエサルが制定したのが紀元前45年1月1日。しかし、正確な太陽年は365.2424日のため、1年に11分15秒の誤差が生じ、それがつもりつもって、いつの間にか十数日もずれてしまうことになる。

 このため、1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世は閏年を400年に97回とするグレゴリオ暦を制定、誤差を修正します。ただし、カトリックに反対するプロテスタントや東方正教会等は「教皇が貧乏人から11日間(カエサルからグレゴリオの間にたまった誤差)を奪った」として、なかなか採用しなかったという歴史を。

 例えば、イギリスの劇作家シェイクスピアとスペインの小説家で『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスは、同じ1616年4月23日に死亡したことになっています。しかし、前者は英国国教会下で相変わらず使用されていたユリウス歴での日付で、グレゴリオ暦では5月3日となり、実際は別の日です。

  ちなみに、イランの詩人・天文学者のオマル・ハイヤームは、イスラーム世界での「暦法改正にたずさわり、現在のイラン暦の元となるジャラーリー暦を作成した。33年に8回の閏年を置くもので、グレゴリウス暦よりも正確なものであった」(Wikipediaより)。これは、たしか、8回の閏年のうち、1回だけ閏年を5年間隔にするということではなかったでしょうか(オマルの傑作詩集『ルバイヤート』の訳者後記で読んだ記憶があります)。なお、この場合は、太陽年は365.24219858156日になるとのことです。そのうち、『ルバイヤート』も紹介しなければ。

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 さて、渋川がベースにしたのは、太陽暦ではなく(月の運行をベースに、太陽の動きで補正する)太陰太陽暦ですから、さらに話はややっこしくなります。当時、用いられていた宣明歴は(先ほども触れたように)実に800年以上前に唐の国から伝わっていた暦のため、当然、誤差が著しいものでした。そのため、その後中国で発達した授時暦に基づいて修正した暦なのですが、渋川はなんと日食予報にものの見事に失敗してしまいます(Wikipedia)。

 しかし、渋川はその失敗にめげず、さらに精進、現実と理論のすりあわせに努めて、日中の経度差等の観測値をベースに、授時暦を修正して大和暦(和暦貞享暦)を作成します(計測値による理論の修正ですね)。

  なお、受持暦での太陽年は(300年後のグレゴリオ暦と同じ)365.2425日とのことです。 の臣郭守敬らが受持暦制定の至元18年(1281年)当時、モンゴルという国際帝国のもと、イスラーム文化と中国文化の交流による暦法の進歩は、ヨーロッパを300年リードしていたわけですね。

 この1281年、イギリスのカトリック司祭でありながら、その広い学識で「驚異的博士」と呼ばれたイギリス実証主義の祖と言うべきロジャー・ベーコン(1214~1294年)が67歳(ベーコンはイスラーム文化圏のアラビア科学に親しんでいたといわれています)、コペルニクス的転回で世界の知識観を一新したニコラウス・コペルニクスが生まれるまであと198年、その後継者ガリレオ・ガリレイがコペルニクスの思想を支持したこと等によってローマ教皇庁より処罰を受けるのが1633年、受持歴の342年後(=渋川が貞享暦を作るのはその52年後)でした。

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 ところで、を支配することは、すなわち天と地の運きを手中におさめることであり、古来、権力者がその支配権を握ろうとしたものです。その典型は、ローマ帝国の創始者カエサルの名をとったユリウス歴です。なお、カエサルの名ユリウスは7月の名称Juliusとなります(=英語のJuly)。そして、彼の甥で後継者のオクタウィアヌスは、アウグストスとして8月=Augustとなります)。

 日本史では、皆さんご存じの織田信長が朝廷の権威低下と暦の混乱について、現実を重んじる民間業者の立場から、朝廷に申し入れをおこないます。これについては、Wikipediaの「改暦」の項を紹介しましょう。

  逆に改暦が実施されなかった例として著名なのは、天正10年(1582年)の例である。応仁の乱以後、陰陽寮及び暦道の権威は低下して各地で民間暦が作成されるようになった。ところが、天正9年(1581年)に陰陽寮が作った翌年の京暦は次の閏月を翌々年すなわち天正11年(1583年)の閏1月としたのに対して、東国で広く使われていた伊豆国の三島暦は、天正10年に閏12月を置いたことから2種類の暦が生じることとなった。

 織田信長の本国尾張国の暦業者がこれに困惑して、安土城の信長に閏月を天正10年閏12月に統一して欲しいと要請した。このため、信長は陰陽頭土御門久脩を安土に呼び出して尾張の業者と論争をさせたところ決着が付かず、最終的に信長の判断で閏月を12月に置くように決定して朝廷に要望を行った。信長はその後、近衛前久を通じて朝廷との調整に当たらせていたが、毛利輝元討伐のために上洛した6月1日に再度この話を公家衆に持ち出した。このため、勧修寺晴豊は日記に「無理なる事と、各申すことなり」と記している。

 翌日、本能寺の変が発生して信長は横死したこともあり、この件は有耶無耶のうちに終わった。だが、このために三島暦を用いていた北条氏や上杉氏、里見氏などでは京都とは違う閏月を採用したため混乱が生じ、特に信濃国では北部の真田氏・蘆田氏が三島暦を、南部の諏訪氏・小笠原氏が京暦を採用したために、同じ令制国内で2つの月が存在するという異常事態となった。

 なお、この改暦については信長が地元尾張の業者に配慮したものであるとか、朝廷を軽んじていたという解釈で片付けられる問題ではなく、京暦と同じ閏12月を設定していた民間暦の大宮暦との問題ではあるが、北条氏でも同じ領内で頒暦された三島暦と大宮暦の閏月が違うために同様の問題が浮上した際に北条氏政が算術に精通した重臣安藤良整に再計算させたところ、京暦や大宮暦の閏12月は間違いで三島暦の閏1月が正しいとしている(『北条五代記』・『新編武蔵風土記稿』)。

 更に京都でも貴船神社の神託として京暦の1月を人々が無視して閏1月(三島暦の1月)に正月祝いをしたという(『御湯殿上日記』)。結果的に改暦を避けたことで朝廷・陰陽寮の権威は傷つけられることになったのであった。

 こうして、暦に関する理論と現実のすりあわせに苦闘する研究者たちと、見事に暦を作り上げることで守られ、かつ失敗することによって地に落ちる政治的権力の権威、そしてそれを抜け目なく簒奪すべく動く下剋上の者たち、これらがうごめくドラマこそが“暦”をめぐる人類学の真骨頂といえるでしょう。

政策について考える:イスラームと政治Part2:トルコについて#2

2012 5/13 総合政策学部の皆さんへ

 政策について考える:イスラームと政治Part2:トルコについての#2です。#1では、“トルコ”とは何なのか?

 そもそもは“言語”が“民族”を規定して、さらにそれが拡大、いつのまにか本来は別の名前で呼ばれていた地域が“トルコ”になった経緯を説明しました。しかも、その地域に住むのは必ずしもトルコ人だけではなく、かつてのオスマン朝がそうだったように、アルメニア人クルド人、・・・・・がひしめきあう。

 このように多民族国家が近代化の波にのろうと単一民族主義的国民国家に変身する際の軋轢ゆえに、不幸な人生をおくる人たちがいる(=ギュネイの『路』の世界)というわけです。 そして今回は、現実の国家である“トルコ共和国”の形成には、一人の英雄的人物の存在があったというお話になります。

 他の国家で該当する者(=個人から発するメッセージがその国の骨格までをも規定してしまうような者)がいるとすれば、例えば、フランス革命の限定相続人ナポレオン、あるいは永遠の革命家として現実を乗り越えようとして常に現実に裏切られるシモン・ボリバール、さらには古く漢王朝を開いた劉邦こと漢の高祖等があげられるかもしれません。

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 その英雄がトルコ共和国初代大統領ケマル・パシャ、ことムスタファ・ケマル・アタテュルクです(1881~1938;なお、ピカソセシル・B・デミル魯迅アンナ・パブロワウィリアム・ボーイングが同年生まれです。いかにも動乱の20世紀の前半を生き抜いた方々ですね)。

 さて、19世紀以降、さしもの大帝国オスマン・トルコも次第にほころび始めます。その大きな理由はいわゆる帝国主義的侵略の対象となることと(とくに、しばしばロシアと衝突することになります;クリミア戦争露土戦争・・・・・)、各地にナショナリズムが生まれたことです。

 例えば、ギリシア独立が1830年、ルーマニア独立とブルガリア自治公国化が1878年です。あるいは地方官僚による領土私物・半独立化も拍車がかかります。ムハンマド・アリーによるエジプト半独立化が1840年ですが、ここはいずれイギリス植民地化への道を歩みます。つまりは、多民族による国際帝国というレジームがすでに錆つき始めたのです。それを崩すのは西欧帝国主義からの圧力(=外圧)か、それともナショナリズム(=内圧)か?

 こうした動きに旧態依然としたオスマン皇帝たちは対応できず、近代化もほとんど進みません。1876年、ヨーロッパ諸国外ではほとんど初めての試みとして、オスマン帝国憲法(通称ミドハト憲法)が定められ、帝国議会の設置、(非イスラームも含めて)全国民の平等を謳います。しかし、1878年の露土戦争の敗北で、皇帝アブデュルハミト2世は憲法を停止、専制体制に戻したため、近代化は挫折を余儀なくされます。

 ちなみに、このオスマン帝国憲法は1861年公布のフサイン朝チュニジアの憲法についでイスラーム世界で2番目、アジア圏では初の憲法とのことです(Wikipediaによる)。

 この失敗を“他山の石”としたのは、ほかならぬ日本でした。この西欧化→憲法発布→議会の運営失敗→憲法の停止→西欧化の失敗という轍を踏まぬため、慎重の上にも慎重な対応を迫られたのが、伊藤博文をはじめとする日本政府です。ちなみに、日本における大日本帝国憲法の発布は、トルコの13年後の1889年、帝国議会開催は1890年になります。

 この帝政(=ゆるやかなイスラーム支配による多民族・多文化共生)のよろめきは、トルコ国民に大きな課題を課します。帝政をそのまま維持するか? そのまま近代化して国際国家として生き残りを図るか? 非イスラームを分離して、イスラーム国家となるか? あるいは(各地の少数民族にとって)独立するか? それぞれの立ち位置で取るべき政策は異なり、誰が対応しようとしても解けそうもない問題です。皆さんはどう考えますか?

 ケース・スタディですね。あなたがトルコの運営者なら、どういう政策をとるべきだったか?

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 さて、先ほども触れたように、オスマン皇帝たちの思惑を超えて、19世紀以降、各地で帝政への反抗が続き、“ナショナリズム”にめざめた国家が独立します。オスマン朝の“タガ”がはずれたのです。この状況にとどめをさすのが、皆さんご存じの第一次世界大戦でした。

 これより先、アブデュルハミト2世の専制政治に対して青年トルコ党が起こした1908年のクー・デ・ターは、1909年に皇帝の廃位・交代ということで、オスマン朝にあと14年の命脈を残します。しかし、たび重なるクーデターの結果として権力を握った青年トルコ党のタラート・パシャ(1908年のクーデター時に34歳)、エンヴィル・パシャ(同じく26歳)等の“恐るべき若者たち”は次第にトルコ民族主義に傾斜して、トルコ民族資本を保護する政策などをとります。

 この“民族国家”化は必然的に他民族を反発させ、“緩やかな支配”を崩壊に導きます。さらに追い打ちをかけるように第一次大戦に際して、連合国(イギリス、フランス、ロシア)と枢軸国(ドイツ、オーストラリア)からの誘いを両天秤にかけながら、伝統的な反スラブ(ロシア)政策も手伝い、枢軸国側に身を投じるという愚をおかします。

 この致命的な判断ミスも手伝い、有名なT・E・ロレンスが暗躍する“アラブの反乱”によって現在のサウジ・アラビアからイラク、ヨルダン、シリアまでの広大な土地をうただけでなく、長い期間支配を続けたバルカン半島の覇権も消滅し、あまつさえ現在のトルコ領土の大半も連合国に占領され、一部は国際監視下に、さらには小アジア半島のエーゲ海沿岸もギリシャ統治になってしまいます。

 この結果、タラートなどの青年トルコ党幹部は亡命を余儀なくされます。例えば、タラートは1921年、亡命先のベルリンで(第一大戦中に大虐殺されたという)アルメニア人によって暗殺、エンヴィルは1922年、旧ロシア帝国領(その後、旧ソ連領)トルキスタンでトルコ(テュルク)系住民の支持をめぐって、赤軍や民族系集団と複雑なやりとりのはて、赤軍によって殺されるという結末を迎えます。

 もし、オスマン帝国がそのままだったら、イラン以外の石油はすべてイスタンブールのスルタンによって支配されていたかもしれません! 

 それはともかく、トルコにとって惨憺たることになった第一次大戦終了後、オスマン帝国はおろか、民族国家トルコさえも存続が危ない時、現在の首都アンカラに独立政権をめざして戦勝国(とくにギリシャ)に対抗したのが、英雄ムスタファ・ケマル・パシャなのです。

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 ケマル・パシャはエンヴィルと同じ1881年生まれ、同じく青年トルコ党に属しながら、いわゆる“冷や飯”組として、第1次大戦開戦時はに陸軍大臣まで出世したエンヴィルに比して、ただの陸軍中佐であり、1915年4月25日、たまたま第6師団長として任務についていたのがダーダネルス海峡の東(ヨーロッパ側)ガリポリ半島であった、そのことだけがケマルとトルコの運命を変えます。

 この4月25日、のちのイギリス首相ウィンストン・チャーチル(当時は海軍大臣)の発案による連合軍イスタンブール占領作戦のため、オーストラリア=ニュージランド軍団(Australian and New Zealand Army Corps)、通称ANZACをはじめとする連合軍がガリポリの海岸に殺到します。いわゆる“ガリポリの戦い”です。世界史上初の大規模上陸作戦でもありましたが、ケマルと部下たちは敢然と立ち向かいます。

  このANZACとは、2000年のシドニー・オリンピックで高橋尚子選手がぶっちぎりでマラソンに勝利した時通過した“アンザック・ブリッジ”の語源です。毎年4月25日、イギリスから遠く離れた移民たちが故国のため、遠く中近東まで遠征にでかけ、その初陣で異教徒トルコ人と激突、敢闘した日=アンザック・デーとして祝う、それがオーストラリアとニュージーランドのいわば民族的アイデンティティの根源の一つにもなっています。

  連合軍上陸の報を聞いたケマルは現場に直行、部下よりも間近にオーストラリア兵を認め、部下に反撃を指示します。死闘に次ぐ死闘、この日の彼の命令の一つは「自分は攻撃せよとは命じぬ、死ねと命ずる。我々が倒れるまでの間に、ほかの部隊と指揮官が来て我々に代わってくれる」でした。

 こうして、まったく予期せぬ頑強な抵抗にあった連合軍はためらい、指揮系統も乱れ、ANZACたちも茫然となります。この日、足をおろしたばかりのガリポリの浜に、上陸したもののトルコ軍に阻まれた15000人がひしめきます。

 そして、アンザック・デーの終わり頃、連合軍司令官ハミルトンはANZACたちに「渾身の勇を振るって陣地を守り抜くように」と命令を下し、追記で「今やただ安全な深さまで、(塹壕を)堀り、堀り、掘るのみ」と付け加えます。

 この言葉に我を取り戻したオーストラリア兵は、海岸一帯を鉱山部落のように掘り始め、「これから間もなく、オーストラリア兵は「堀り屋(Diggers)」という名前がつけられ、この綽名はいまも続いている」ことになります(アラン・ムアヘッド(小池銈訳)『ガリポリ戦記』筑摩現代世界ノンフィクション全集版)。

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 ケマルはついにガリポリを守り切り、冬の到来におびえた連合軍は1915年12月、十字軍以来のイスタンブール(コンスタンティノープル)占領の夢に破れ、撤退します。連合軍死傷・病死者25万2千人(参戦者48万9千人、実に半分が死傷)、トルコ軍死傷者・行方不明・病死25万1千人(参戦者約50万人)。このガリポリの勝利によって、トルコはやがてその運命をケマルにゆだねることになります。というあたりで、十分に長くなりそうなので、このあたりで to be continued・・・・としましょう。

“統計”の奨めまとめ編Part1:バクチに勝つには? 確率に関する簡単な問題集#2:SPI解答編

2012 5/6 総合政策学部の皆さんへ

  “統計”の奨めまとめ編Part1:バクチに勝つには? 確率についての簡単な問題集#1の続編です。先回の練習問題を覚えていますか? その解答編です。是非、SPIにチャレンジして教養(=自分が生きている時代を生き残るための基礎知識)を身につけましょう。

練習問題3:20本のくじのうち、5本が当たりで15本が外れである(子供の頃に味わったアイスキャンデーの棒の焼き印等をおもいだしましょう)。このくじをA~Eの5人が、A・B・・・・・・Eの順で引くとき、次の問題の答えとして正しいものを選択肢の中から選びなさい。

(1)引いたくじをもどさないとき、全員が当たる確率はいくらか?
 A 1/5   B 1/16  C 1/1024  D 1/3288  E 1/7560  F 1/15504

  • わかりますね、次のように思考して下さい。
  • (1)最初にくじをひいた人がそのまま当たる確率=5/20=1/4
  • (2)(1)の次にくじを引いた人が当たる確率=1/4×4/19(当たりくじも総くじ数も1つずつ減っているので)=1/19
  • (3)(1)(2)の次にくじを引いた人が当たる確率=1/19×3/18(同じく)=1/114
  • (4)(1)~(3)の次にくじを引いた人が当たる確率=1/114×2/17=1/969
  • (5)(1)~(4)の次にくじを引いた人が当たる確率=1/969×1/16=1/15504・・・・正解はF

 問題は、とりあえず理詰めに(=論理的に)考えていくことです。そうすれば、SPIも怖くない?!

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 続いて、

(2)引いたくじを戻すとき、全員が外れる確率はいくらか?
 A 133/561   B 225/912  C 243/1024  D 575/3072 E 393/4096 F 1013/7560

 こちらは次のような経緯をたどるはずです。

  • (1)最初にくじを引いた人がはずれる確率=15/20=3/4
  • (2)そのくじを戻して(つまりまた20本にする)、次にくじを引いた人もはずれる確率=3/4×(15/20=3/4)=9/16
  • (3)同じようにして、その次にくじを引いた人もはずれる確率=9/16×(15/20=3/4)=27/64
  • (4)同じようにして、4番目にくじを引いた人もはずれる確率=27/64×(15/20=3/4)=81/256
  • (5)同じようにして、最後の人もはずれる確率=81/256×(15/20=3/4)=243/1024

 ということで、答えはCですね。つまり、4回に1回ぐらいは、全員くじから外れることがある、ということになります。

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 こうした練習問題を試していると、要するに、(1)確率の原理を理解すること、そして(2)多様な問いかけにぱっと応えるには反復練習が必須、この2点が重要かと思えてきます。

 事実、Webで「SPI 反覆練習」で検索すると、例えば、「就職戦線を勝ち抜け!「Web-SPI講座」という広島工業大学のサイトが見つかります。そこでは「就職というゴールに向けての第一関門であるこのSPIを通過するために、Web上で反復練習できるシステム「Web-SPI」」等という紹介もありました(http://www.it-hiroshima.ac.jp/news/2010/10/web-spi.html)。

総合政策学部の名言集Part13:クールに行こう!

2012 5/3 総合政策学部の皆さんへ

 最近、“クール”という言葉が流行りというか、“良い意味”に使われがちです。社会言語学の対象ともなるかもしれません。

 この由来はというと、「もとはアフリカ系アメリカ人のブルーカラー層が「イケてる」「カッコいい」といった意味で使っていた俗語だったものが、20世紀末になって広がり、日本などを初めとする英語圏以外の文化圏でも広く使われるようになったといわれている(Wikipedia、もともとの原典は上條典夫『ソーシャル消費の時代‐2015年のビジネス・パラダイム』)。

 そう言われて私の乏しい知識をさぐると、確かに二グロ・リーグ時代の大選手クール・パパ・ベルを思い出します。この“クール・パパ・ベル”、本名ジェームス・トーマス・ベルですが、本人が「私を本名で呼ぶ人など、一人もいなかった」と言うほどです。

 このあだ名は入団早々に試合に出場が決まった彼に、監督が「あまりカッカしないで落ち着いてやることだ」とさとすように言ったところ、「大丈夫です。私はこれまで多くの観客の前でプレーしてきましたから」とすまして答え、監督が「あいつは、凄くクールだ。ただ者じゃない」とうなったところから始まるとのことです(佐山和夫『黒人野球のヒーローたち』中公新書1176より)。

 1903年生まれのベルですから、この逸話は1922~24年頃か? その頃すでにアフロ・アメリカンの世界では“クール”がほめ言葉になっていることが感じ取れます。ベルはその後、1946年までニグロ・リーグで選手を続け、ダイヤモンドを12秒で一周、200試合で175の盗塁を決め、生涯通算打率は3割3分7厘とも3割4分1厘とも言われています。

 とくにメジャーリーグとのエキシビション・ゲーム(正規のチームがニグロ・リーグと戦って敗れれば恥ということで、公式ゲームの形をとらなかったわけですが)では打率3割9分1厘、1974年にはセンターとして堂々の野球殿堂入りを果たします(メジャー・リーグが黒人選手を受け入れたのは、1947年のジャッキー・ロビンソンブルックリン・ドジャース入りですから、ベルはついにメジャー入りを果たすことはありませんでした)。

 なお、クール・パパ・ベルの俊足ぶりをたとえて「部屋の明かりを消してから、部屋が暗くなるまでの間にベッドに入ることができる」というセリフがあるそうですが、これは同時代に活躍したこれも二グロ・リーグの大投手サッチェル・ペイジが冗談交じりに発した言葉とのこと。

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   ところで、“ニグロ・リーグ”とは何か?

 上記ジャッキー・ロビンソンまでメジャーリーグから締めだされていたアフロ・アメリカンの選手を中心に、20世紀前半に存在していたプロ野球機構です。資本主義社会アメリカにおいて、アフロ・アメリカンの人口がそれなりにあれば、選手も観客もアフロ・アメリカンで運営することも商業ベースで成り立つということです(佐山、前掲書)。

 これはスポーツ社会学の対象であり、あるいはベンチャービジネスのケース・スタディかもしれませんね。

 まずアマチュア時代を経て、アマ選手の中から主催者(プロモーターですね)とプロ契約を結ぶ者があらわれるプロ化の時代(それは同時にメジャー・リーグ経営陣から契約を拒まれ、白人ベースの野球の世界から排斥されていく時代でもあります)、やがてアフロ・アメリカンの観客を対象として巡業するプロ・チームが結成される。さらにプロチームが集まって、1923年以降に二グロ・ナショナル・リーグとイースタン・カラード・リーグによる2リーグ制が開始されます(Wikipedia)。

 こうして上記クール・パパ・ベル、サチョエル・ペイジ、ジョッシュ・ギブソン等の大選手の輩出にともない、全盛期が訪れます。すると、(アフロ・アメリカンの大衆からの)収入に着目したメジャー・リーグはエキシビジョン・ゲームを提案、そこで完膚無きままに白人チームを破る、という筋書きです。

 実力で白人を上回る=20世紀初頭、白人たちにもっとも憎まれた黒人と言われているアフリカ系の初代ヘビー級チャンピオンジャック・ジョンソンが1908年に犯してしまった禁忌を、1920年代は野球場で実現できる!

 1930年、ペイジはメジャーリーグ選抜と対戦、22奪三振で完封を飾ります。もちろん、大衆は大喜びです。白人たちを、対等な立場で叩きのめすシーンを見ることができるわけですから。その18年後、ペイジは42歳でついにメジャー昇格、その年は6勝1敗、通算は28勝31敗、防御率2.48。46歳で12勝をあげ、59歳で最後の登板(=メジャー最年長記録)。

   なお、ジョンソンについてはWikipediaに「1908年12月26日にようやく世界ヘビー級のタイトルを手に入れた。カナダ人のチャンピオン、トミー・バーンズを世界中追い掛け回して公の場で罵りつづけ、オーストラリアシドニーでの試合に持ち込んだのである。試合は20,000人を超える観客の前で、レフェリーはなんとバーンズのマネージャーが務めたが、ハンデにはならなかった。

 ジョンソンは今までの恨みを晴らすかのようにバーンズをいたぶり続け、見かねた警官が乱入して試合をやめさせた14ラウンドまでそれは続いた・・・ジョンソンがフィニッシュを決める瞬間、バーンズの敗北を映し出さないためにカメラが停められた」とあります。

 しかし、ジョンソンの試合の30年後、ナチス・ドイツをはじめとするファシスト的風潮との戦いの象徴として、1938年にはドイツ人チャンピオンマックス・シュメリング(皮肉なことに、シュメリングは反ナチス派だったそうですが)とジョンソン以来のアフロ系チャンピオン“褐色の爆撃機(The Brown Bomber)”ことジョー・ルイスとの世紀の一戦に、アメリカは国をあげてルイスを応援します。さらに、その数年後、第2次大戦では白人・黒人がともになって枢軸国と戦うことになります。

 そして、戦後の1947年、ついにアメリカ資本主義者たちは二グロ・リーグの人材たちと、それを支えるアフロ・アメリカンたちのマーケットを無視できなくなる。こうしてジャッキー・ロビンソンのメジャー昇格によって、ニグロ・リーグからの引き抜き・昇格が始まりますが、それは同時にニグロ・リーグの消滅にもつながります。そして、現在、アフロ・アメリカンはおろかヒスパニック、カリビアン、エイジアンが入り乱れる現在のメジャー・リーグに変貌していくわけです。 

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 さて、“クール”を使った名文句を紹介すると、まず、これですね。

#51:Let’s everybody keep cool.

 1970年4月13日(アメリカ東部時間)、人類3度目の月着陸を目ざしたアポロ13号は、地球周回軌道を脱して月へめざす過程で、酸素タンクの爆発で突然のピンチにさらされます。原因もはっきりわからぬまま、急速に失われる酸素、低下する電力と室温、(私のうろ覚えの記録では確か)部品の信頼率を99.99997%にまで高めたはずのアポロ計画に起こった突然の事故(どんなものにも絶対安全ということはあり得ません)。

 ジェームズ・A・ラヴェル船長ジョン・L・スワイガート司令船操縦士、フレッド・W・ヘイズ月着陸船操縦士の3名はミッションをあきらめ、緊急措置として司令船から月着陸船に乗り換えて、地球への帰還に生命をかけることになります。しかし、そこには無数の、しかも、予想だにしなかった難問が待ち構えています・・・・という一連のやりとりはハリウッド映画『アポロ13』に活写されていますので、そちらをご覧ください。

 私は高校2年でしたが、事故発生から無事地球に着水する17日まで、世界がかたずを飲んで見守っていました。

 いずれにしても、無事に生還を期すにはあまりに過酷な状況下、地上の管制センターで懸命に宇宙飛行士をサポートすべき作業を開始しようとするその時、主席飛行管制官ジーン・クランツが発するのが、この“Let’s everybody keep cool.”です。「クールにいこうぜ!」とすべきか、「まず、頭を冷やそうぜ!」になるか、皆さんも、翻訳にチャレンジしてください。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...