政策について考える:イスラームと政治Part2:トルコについて#3:ケマル・パシャ-“族長”の孤独、あるいは“開発独裁”の旗手

2012 5/29 総合政策学部の皆さんへ

 イスラームと政治の話を始めたら、トルコの政治に関するあたりでなかなか複雑になってしまいました。前回に引き続き、ケマル・パシャを紹介しましょう。

 さて、そのケマル、あるいは彼が主導した“ケマル主義”とは何か? 近代化に遅れ、かつてはイスラーム勢力のヨーロッパ侵攻の最先端であったはずのトルコが、逆に、ヨーロッパ側勢力(ロシア、ブルガリア、ギリシア)から攻め込まれかねない立場に逆転、蚕食の危機さえ迫る。その時にどうすればよいのか? これがケマルをはじめとするトルコ人たち、まさに民族国家にまでこそげ落とされたトルコの課題だったのです。

 ケマルはとりあえず基本戦略を、(1)世俗主義(イスラームからの政教分離)、(2)民族主義(国際帝国を断念、トルコの国民国家化をはかる=それがクルド人問題を引き起こすことにはなるわけですが)、(3)共和主義(スルタン制の廃止、議会制の採用)等に定めます。

 しかし、現実は厳しい。ある意味、彼以外に“近代人”がいない状況、暗殺の危機さえある現状に直面した彼は、やがて共和人民党による一党独裁(反対派の排除)とそれを梃子とした近代化に邁進、Wikipediaによれば「結果として、トルコは独裁政権下にありながら全体として国家の安定に成功した例となり、「成功した(正しい)独裁者」ムスタファ・ケマルはその死後も現在に至るまで国父としてトルコ国民の深い敬愛を受けつづけている。救国の英雄、近代国家の樹立者としてのムスタファ・ケマル評価はトルコではあたりまえのものになっている」。

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 「正しい独裁者」! 難しいですね。政治家としてこの他の道をとることができないとして、自分自身は悩まないのか? 少し前の先輩には“南米の解放者シモン・ボリバール、あるいはフランス革命の限定相続人ナポレオン・ボナパルト、日本ではあるいは大久保利通等々でしょうか?

 さらに付け加えれば、このカテゴリーにケマルの同時代者たるべきムッソリーニフランコが入るかどうか、まったく微妙なところでしょうね。ムッソリーニはヒトラーに引きずられて無残な死を遂げることとなり、フランコは天寿こそ全うすることができましたが、死後も長くスペイン国民の心を引き裂き続けています。思えば、20世紀は、様々な独裁者たちの世紀でもありました。

   ちなみに、ケマルは1881年生まれで、ムッソリーニは1883年、フランコは1892年。第一次大戦直後、イスタンブールを占領した連合軍に対抗して、ケマルが初代議長を務めることとなるトルコ大国民議会がアンカラで開催された1920年3月16日、ムッソリーニは社会主義者から転向し、イタリア社会党から除名されます。

 一方、ムッソリーニを「イタリアで唯一革命を指導できる人物」と認めていたロシア革命の指導者レーニンは、社会党幹部に「あの男を追放するなんて、君らはバカだ」と言ったと言われています。その彼が反社会主義・民族主義に立ち位置を変えてミラノに「戦闘者ファッシ」を組織するのが、トルコ大国民会議前年の1919年3月23日、そして「黒シャツ党」の“ローマ進軍”の断行により、混乱のイタリアを救える唯一の人間として国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から組閣を命じられるのが1922年10月29日です。

 なお、彼らより10年ほど若いフランコは一介の軍人として、その頃、モロッコでのベルベル人の反乱の鎮圧に成功し、サラゴサの陸軍士官学校校長などの軍人キャリアを上がっていくところでした。 彼は、ムッソリーニやケマルたち、いわば先輩の背中をどのように見つめていたのでしょうね?

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 とりあえず、ケマルは大車輪で改革を進めます。まず、1923年に共和制に移行、翌年皇帝を追放します。始祖オスマン1世が王朝をたてたという1299年から、実に723年、思えば、たった69年しか続かなかったソ連等に比べると、はるかに長い治世でしたが、それでも、巨木が内側から朽ち果てるように、あっけなく王朝が崩壊します。

 そして、ケマルは1923年10月29日に初代大統領就任、38年11月10日の死までにその任につきます。しかし、片時も心休まることはありません。なにせ、四方八方に敵がいるのです(旧皇帝勢力、宗教勢力、トルコを半ば占領状態の連合軍、ことにギリシア軍、etc.)。その複雑さは、ムッソリーニやフランコが直面した現状をはるかに超えるものがあったでしょう。

 ケマルはトルコ独立戦争を勝ち抜き、1922年9月に地中海沿岸の大都市イズミールを奪回、この時の命令が「全軍へ告ぐ、諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ (“Ordular, ilk hedefiniz Akdeniz’dir ileri”です(Wikipedia)。

 ついで講和条約を有利に結ぶと、国内改革に乗り出し、新憲法採択=脱イスラム国家化(メドレセ(宗教学校)やシャリーア法廷の閉鎖等)、そして反対派の動きを封じるため、自らが主導する共和人民党の一党独裁体制を樹立することになります。

その一方で、経済的には国家資本主義へと転換、「国家資本による国民経済の創出を押し進めた」(Wikipedia)。このあたりは20世紀後半の数々の開発独裁の主導者たちを連想させることではあります。フォードがフォーディズムの創始者であったように、ケマルは開発独裁の創始者のひとりであったかもしれません(しかも、その成功者)。

 ムッソリーニと同様、ケマルの支持者は多様で、「左派的・脱イスラム的な世俗主義知識人からきわめて右派的・イスラム擁護的な保守主義者、民族主義者まで様々な主張があり」(Wikipedia)、ケマルへの(本人は嫌っていたという)個人的崇拝をベースに「多様な主義主張が語られているのが現実ではある」(同)。

 しかしながら、ムッソリーニのファッシズムがたかだか20年あまりしか続かず、いまだに毀誉褒貶が絶えないこと、フランコがその鉄腕で押さえつけたスペインが彼の死後就任した国王ファン・カルロス1世の賢明な指導で民主化にむかったことを考えてみれば、ケマルが己の全生涯をささげたトルコ革命の世界史的意義というものがわかってくるはずです。

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 とはいえ、この人生がケマル個人の幸福に結びついたものとはいえず、1938年11月10日に訪れた死の原因は、激務と過度の飲酒による肝硬変と診断されています。

 なにしろ、(侵攻する連合軍、とくにANZACたちにとっても、また死守するケマルたちにとってもあまりにも過酷であった)ガリポリの戦い以来、ストレスに耐えるため飲酒で身体をこわすこともあったというケマルは、「純エタノールにして毎晩500ミリリットルは呑んでいたと言われ」ているのですから。

 さらに、「死に至るまで一党独裁制のもとで強力な大統領として君臨したが、彼自身は一党独裁制の限界を理解しており、将来的に多党制へと軟着陸することを望んでいたとされる」(Wikipedia)と評される彼の一生は、ノーベル賞作家ガルシア・マルケスの『族長の秋』に描かれた“独裁者の孤独な心情”を浮き彫りにするものかもしれません。したがって、“族長”の孤独、これが今回のテーマということになります。

 そのあたり、ケマルの業績のいわば“限定相続人”たる“開発独裁者”たちはどうなっていったのでしょうか?

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プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...

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