2012年6月

言語政策についてPart3:スワヒリ語講座+東アフリカ史+人類学への招待#2

2012 6/28 総合政策学部の皆さんへ

 #1ではスワヒリ語文化圏の成り立ちのあたりを説明しましたが、あらためて、スワヒリ語の言葉や文法自体について説明してみましょう。

 とくに日本人の学生の皆さんは日本語と英語ぐらいしか知識がないかもしれません(私もそれほど変わらないのですが)。そこに、また異なる文法構造をもつ言葉を知っていただくことで、日本語も英語も相対化していただければと思います。

 ついでに、このブログでは何度も出てくるクレオールという言葉をめぐって、文化(言語)の融合=新しい文化(言語)の誕生についても知識をもっていただこう、ということになります。すでに説明しているように、スワヒリ語はやや簡略されたバンツー語の体系に、アラビア語の単語が約3分の1程度加わり、さらに様々な外来語をどんどん吸収して、現在も語彙がどんどん増えている言語です。

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 それでは、まずバンツー語について説明すると、中央アフリカから東・南アフリカにかけて広がっている言葉の総称が“バンツー(バントゥー)語”です(Wikipediaによれば総話者は3億人を超えるとのこと)。もっとも、この“バンツー語”という名称は、いわゆる他称です。アフリカでバンツー語を話している人たちがもともと「僕たちの言葉はバンツー語と呼ぶんだぜ」と言っていたわけではありません。

 “白人ども(=しばしば侵略者でありました)”がアフリカを訪れたり、文化を調べるうちに、共通することが多い言葉体系に気づいて、勝手に名前を付けたわけです。ちなみに“Bantu”とは、名詞の複数形をあらわす接頭辞の“Ba-”+“人”を意味する名詞の語幹である“-ntu(tu)”からなります。つまりは、Bantu=people=人々なのですね。

 ちなみに、スワヒリ語ではこの“Ba-”の“B”の発音が“W”に変換されて、“Wa-”となります。つまり、スワヒリ語では“人々”は“Watu”になります(単数系の“人”は、接頭辞が“M-”になるので“Mtu”)。

 ちなみに、この“自称”、“他称”の問題は奥深いものがあります。差別的呼称もしばしば取りざたされるため、扱いは容易ではありません。例えば、カナダの先住民“イヌイット”の人々にとって、“イヌイット”とは“人”をさす言葉だそうです。それが他民族と接触後に他者から“イヌイット”と呼ばれることで、自らも“イヌイット”としてのアイデンティティを持つ。そうした場合に、彼らにとって“イヌイット”が自称に変わるわけです(これは日本でも“アイヌ民族”が同様で、 “アイヌ語”では“アイヌ”は“人”をあらわす言葉だそうです)。

 さらに“イヌイット”はあくまでもカナダの先住民の自称であって、アラスカに在住する人たちは“アラスカエスキモー”と自称したり、さらには語族ごとにそれぞれ別の自称、例えば、“ユピック”等を使うそうです。このあたり、本当は、現地で自分で研究しないと、うっかりした事は言えません。

 なお、私が3年暮らした東部タンザニアで、約2万人の話者をもつと聞いているトングゥエたちは、自らを“Watongwe”と呼んでいましたから、立派な自称ですね。なお、この“Wa-“が複数を表わす接頭辞なのはもうおわかりですね。

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  さて、スワヒリ語のもう一方の祖語であるアラビア語についてですが、まず、イスラームの教えを伝えるクルアーン(コーラン)が預言者ムハンマドの言葉をそのまま書き表わしたもので、アラビア語以外に訳してはいけないのだそうです(したがって、クルアーンの日本語訳はクルアーンでない!)。

 このため、イスラームの人たちはクルアーンが伝える古代アラビア語に親しむわけで、西はモロッコから東はジャワ島あたりまで、アラビア語を学ぶ機会が広がっていることになります。その結果、イスラーム社会では必然的にアラビア語が(かつてのキリスト教国でのラテン語のように)リンガ・フランカになる可能性があるわけです。

 その結果、アラビア語を介して、いくつもの言語で共通した言葉が使用されることもある。例えば、Swahili語で“本”は“Kitabu”ですが、インドネシア語でも“Kitab”です。これはもちろん、アラビア語の“Kitab”からきているわけですね。

 一方、現代のスワヒリ語において、英語等から滔々と外来語が流入しているのは日本語と同様です(ただし、発音が微妙に変化して、ラジオが“Redio”になったりする)。ちなみに日本語に近いものとして“Pilipili”をあげておきますが、これは(東アフリカにとって)外来の農作物であるトウガラシのことです。

 一方、日本語では“辛い”ことを意味します。これは日本語・スワヒリ語両語圏にトウガラシをもたらしたポルトガル人の言葉=ポルトガル語に由来するからです。同様に、日本語の“タバコ”は、スワヒリ語では“Tumbako”です。

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  さて、バンツー語でややっこしいというか、きわだった特徴の一つが、名詞がいろんなクラスにわかれていることです。そして、名詞のクラスに従って、名詞や動詞の接頭辞やさらに所有接頭辞や人称接頭辞も影響を受けることです・・・・と、言っても、何のことやら??

 幸か不幸か、アラビア語とのクレオールであるスワヒリ語は大分簡単になっているようですが(クレオールでは文法が単純化するのが一般則のようです)、どう説明してよいものか? 以下、いくつか主なクラスをあげてみましょう。なお、単複があるクラスと、単数形のみのクラスがあります。

・(1・2クラス)m/wa-class:基本的に生き物や、とくに人間に関する名詞のグループで、単数の接頭辞がm、複数の接頭辞がwa-
・(3・4クラス)m/mi-class: 植物を示す名詞が多く含まれるグループで、単数の接頭辞がm、複数の接頭辞がmi-
・(5・6クラス)ji/ma-class:丸い塊を連想させる名詞や、果物、あるいは身体の部分(眼=jicho/macho)等が含まれるグループで、単数の接頭辞がji、複数の接頭辞がma
・(7・8クラス)ki/vi-class:道具等の人工物や言語を含むグループ(籠=kikapu/vikapu)で、単数の接頭辞がki、複数の接頭辞がvi。言語を示す場合、例えば日本語はKi+Japani=Kijapaniです。
・(9クラス)n-class:外来語も多く、単複同形
・(11クラス)u-class:抽象的な名詞のグループ。例として、Mtoto/Watotoはm/wa-classで子供のことですが、Utotoでは「子供らしさ」。したがって、複数形はありません、単数のみとなります。
・(15クラス)ku-/kwa-:これは英語で言う動詞の不定形のクラスです。

  慣れれば簡単、とはたやすく言い切れませんが、でも現地でしばらく使っていれば、いつの間にか身に着くものだと言っておきましょう。 しかし、これでもアラビア語とのクレオール化でずいぶん単純になったとのことです。そもそもの祖語は実に22クラスもあったとのことです。

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 さて、有名な生成文法理論(総政では本田先生がご専門ですね)等でもおなじみの語順=S(主語)、V(動詞)、O(目的語)の順番ですが、スワヒリ語はSVO型ですね(日本語はSOV型)。Wikiediaによれば

 Dryer (2011a) は世界1377の言語を調べ、可能な語順が複数ある場合には使用頻度によって基本語順を決めた。この調査によれば、SOV型が一番多く565言語、次いでSVO型が488言語であった。他の4つのタイプはいずれも100言語以下で、VSO型が95言語、VOS型が25、OVS型が11、OSV型が4であった。同じくらいよく使われる語順が二つ以上ある言語は189あり、これらは頻度によって基本語順を決定できないため分類からは除かれている。

とのことです。

 それでは、簡単な文章の紹介を。例えば、「私はタンザニアの出身です」という場合、“Mimi ninatoka Tanzania”と言いますが、これは

Mimi(=“私”という1人称代名詞)
 + ni(Mimiを受けての“私”を意味する1人称代名詞接辞=主語接辞=S)
 + na(時制において、現在形を示す時制接辞)
 + toka (「・・・から来た/の出身である」という意味の動詞の語幹=V)
 + Tanzania(タンザニア=目的語=O).

 というわけです。わかりましたか? と、このあたりまで書いたところで、そろそろ疲れてきました。to be continued・・・・・・としましょう。

時間と仕事:“時”をめぐる人類学Part1:punctualであることと時計、そして“遅刻”の誕生:日本の近代化を時間の視点から見れば#2

2012 6/23 総合政策学部の皆さんへ

 #1で「遅刻の誕生」をとりあげましたが、それでは“遅刻”とは辞書にはどのように説明されているでしょうか? 日本の代表的な辞書である、岩波書店刊の『広辞苑』には、「きまった時刻におくれること。「学校に-する」」といかにも簡単に書かれています。

 しかし、幕末から明治の近代化の中、いわゆる勤勉で時間に正確な日本人(=「誰だ、それは? そんな奴はそもそもいるのか?」等と、茶々を入れないでくださいね)を育て上げるため、権力者たちは苦心惨憺することになります。

 御一新となったばかりの明治初期、#1でも紹介したかのお雇い外国人、ドイツ出身の東京大学医学部教授ベルツ先生は「われわれヨーロッパの文化発展に要した500年たっぷりの期間を飛び越えて、19世紀の全成果を即座に、しかも一時にわが物にしようとしているのであると。したがって、これは真実、途方もなく大きい文化革命です - なにしろ根底からの変革である以上、発展とは申せませんから」と日記に記しています。

  ベルツはこのあとさらに「わたしは、このきわめて興味ある実験の立会人たる幸運に恵まれた次第です」と声高らかに宣言します(日付は1876年6月26日、前年にはすでにグレゴリオ暦が採用され、ベルツが身をよせているのはかつての江戸加賀屋敷=すなわち、現在は赤門だけが残っている加賀藩邸跡の現東京大学構内)。

 その革命には当然、“時間”の感覚も含まれています。すなわち、“時間革命”です。と、ここまで書いてから、試しに“時間革命”でYahooを検索すると、「Amazon.co.jp: 時間革命: 角山 栄」、「スーパー主婦直伝! 我が家の時間革命|NHK あさイチ」、「時間革命 その1  経営コンサルタント がんばれ社長!」、 「幸せ時間革命~あなたの時間を10倍濃縮する方法」・・・・・と並びます。

 どうやら、現代日本では時間に対する感覚をさらに研ぎ澄ませるべく、様々な言説が流布しているようですね(肝心なのは、労働生産性をあげて時間を節約し、その余暇を楽しく過ごすこと、なのではないかと思ってしまうのですが)。

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 それにしても、江戸期、時を知らせるのが“”であったならば、明治期はなんと大砲=午砲(ごほう)になります。これは時報をしらせるために撃つ空砲のことですが、Wikipediaによれば

イギリスの海外進出が盛んになった18世紀末、港に停泊する船舶に対して正確な時間を知らしめるために始まったとされる。やがて、イギリス植民地の港などを中心に世界中に広まった」。しかし、「市内に響き渡らせるためには結構な騒音となること、黒色火薬の消費量も多く経費が掛かることなどから時計の精度が向上した20世紀前半には廃れた。

 日本の場合、「組織化されたきっかけは1871年の午砲の制により制度化されたことによる。大都市を中心に、午砲台(所)が設置された」とのことです。当時の兵部省から太政官に「旧(江戸城)本丸中に於て、昼十二時大砲一発ずつ毎日時号砲執行致し且つ諸官員より府下遠近の人民に至るまで普く時刻の正当を知り易くし以て各所持する時計も正信を取る所これあり候よう致し度、云々」という伺書が提出されたのを機に、1871年より開始します。

  しかし、予算が意外にかかることなどから、1922年9月15日陸軍省の事業としては廃止の憂き目にあってしまいます。しばらく東京市が引き継いだものの、1929年5月1日にモーターサイレンによる正時の通報に変わたようですね。とは言うものの、よく考えると1日1回では、庶民にもなかなか用が足りぬかもしれません。

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 となれば、あとは時計の普及を待つしかないわけですね。公衆の目にあきらかな時計として出現するのは“時計塔”です。

 『遅刻の誕生』の「第10章 明治時代における時計の普及」(内田星美)には、「時計塔の建設は、明治4年の竹橋近衛歩兵隊をはじめとし、7年に東京駅逓寮および大阪停車場、8年に陸軍士官学校でこれらは官庁建築物であるが、同年に民間で初めて東京本所の湊屋牛店が時計塔をつけた。牛鍋と時計は文明開化の首都の象徴である。明治10年までに、東京の第1回内国勧業博覧会場・本郷医学校・京屋時計店、・小林時計店、横浜町会所岩亀楼、名古屋の後藤時計店などに時計塔ができた」とあります。

 つまり、まず軍隊、そして鉄道、医学校等の官庁系、それに続く民間はなんと牛鍋屋、続けて時計店、そして遊郭などが続くわけです。明治ですね。札幌の時計台が有名なのもむベなるかな、というわけです。

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 さて、時計塔や置時計でなく、個人が携帯する時計、腕時計はまだ早く、いわゆる懐中時計の類ですが、下川耿史の『明治・大正家庭史年表』では、明治元年(1868年)の項に「坂本竜馬、イギリス製の懐中時計を購入、海援隊所属の船舶(4隻)の公開に使用したと伝えられる」とあります。なんと、坂本竜馬が懐中時計の走りとは!

 『明治・大正家庭史年表』で懐中時計が次に顔を出すのは、明治13年に「大野規周が懐中時計の制作開始」とあり、ついで明治22年(1889年)に「懐中時計流行。饅頭のように大きいという意味で饅頭時計と呼ばれる」と出てきます。

 それではこの大野規周とは誰か? と検索すると、いろんなサイトに出ています。例えば、ことバンクでは以下のような紹介です。この記述だと、上記の明治13年の試みは失敗したようですね。

 幕末明治期の精密機械技術者。江戸神田松枝町の幕府暦局御用時計師の家に生まれた。祖父弥五郎規貞、父弥三郎規行は伊能忠敬の測量器具を作ったことでも知られる。幼名直次郎、通称弥三郎。安政2(1855)年松平慶永に招かれ機械や銃の製造と教育に当たったが、幕府の命により文久2(1862)年榎本武揚らと共に、測量機械類の製造習得の職方(技術担当)としてオランダに留学、慶応3(1867)年帰国した。新政府に出仕し造幣寮(のち造幣局)の技師となり、銅細工場で主として「天秤」などの製作とその指導に当たった。尺度、分銅、目盛器械、温度計、分度器などの近代度量衡の標準器械を製作また貨幣計数器、羅針盤、経緯機や大時計(1876年製作)を製作した。一方懐中時計の国産化を企図し息子則好を時計技術習得のためにスイスに3年間留学させ、明治13(1880)年時計工場を設立したが成功に至らなかった。19年工作所長を最後に退職した。大阪の造幣博物館には「大時計」と「地金用天秤」が展示されており桜宮神社(都島区中野町)には「大野規周君記念之碑」がある。亡くなるまで丁髷をしていたというが、わが国の度量衡の標準器械の製作など精密器械の近代化に果たした役割は大きい。<参考文献>日蘭学会編『幕末和蘭留学関係史料集成』正・続http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E8%A6%8F%E5%91%A8

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 一方、岩波文庫版『戊辰物語』(初出は1926年に東京日日新聞掲載)では、ある人物がこの頃を回想しています。

 その頃、父の喜三郎は毎晩銀座へ出て夜見世(よみせ)で小道具を売り、私は上槇町の亀田という時計職人の所へ奉公して、子供のおもりをしながらぼつぼつ修繕などを習っていました。今のように時計屋などとはいわず「御時計師」といってね。同じ職人でもなかなか格がよかったものです。

 今となってはおかしいが、アメリカ出来の八角時計が舶来物の上等で、当時の金でまず5両、どうしてどうして他の物価に比べては何十層倍も高いから、容易なことでは買えなかった。懐中時計はほんのわずかばかりスイッツルから持ってきたが、銀側の21型で8、9両から100両位まで。それでも小さいちいさいと言って、年々大きなものが流行って4、5年後には歌にまである22型なんておおきなものが流行りました。

 日本橋の三越の向かいに「馬方蕎麦」といってもりかけ8厘、これが盛がよくてうまいとといって、ずいぶん評判だったころに、時計へ5両も6両も出そうというのは相当な人たち、懐中時計は主として「官員さん」という士族あがりの役員たちが持っていました。この修繕が小さな御時計師の唯一の収入、なかなか忙しかったものです。

 この貴重な回顧録、服部金太郎こと服部時計店創業者、といっても皆さんピンと来られないでしょうから、今や資本金100憶円、2011年度売上3138億円を誇るセイコー・ホールディングの創業者にほかなりません。ということで、このあたりでto be continued・・・としましょう。

芸術家についてPart6-戦争と芸術家:ノルマンディー上陸作戦から68年

2012 6/6  総合政策学部の皆さんへ

 本日は6月6日、ということはナチス・ドイツを倒すため、1944年、連合軍が満を持して、フランス・ノルマンディー海岸に“史上最大の作戦=作戦名オーバーロード作戦Operation Overlord)”を敢行してから、本日で68年! 早いものです。

 その後の数か月で300万人が上陸を果たし、翌1945年4月30日のヒトラーの自決、そして5月8日のドイツ無条件降伏、さらには冷戦構造の出現と、1989年まで続くベルリンの分断、その後の半世紀の世界の構造を決めた日とも言えそうです。

  とはいえ、これを書きだしたのは6時16分、フランスとの時差は8時間(サマータイムの際は7時間だそうです)ですから、現地時間ではまだ6月5日です。

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  さて、ノルマンディーのコタンタン半島に深夜、先兵として降下したアメリカ第82空挺師団第101空挺師団のパラ(落下傘降下兵)の靴がフランスの大地に触れたのは午前0時15分、彼らの任務は続けて大挙降下するはずの本隊のため、斥候として着陸予定地に標識をたてることでした。きわめて危険な任務であることは、皆さんもご理解いただけるはず。

 降下前、過酷な訓練に励む彼らに、弱冠37歳の将軍ジェームズ・ギャビンはこう訓示します。「ノルマンディに降下する時には、君たちの伴侶はただ一人しかいない - 神だ!」(コーネリアス・ライアン(近藤等訳)『一番長い日』筑摩世界ノンフィクション版)。なお、ギャビンは兵士と同様M1ライフルをかかえて降下することを好み、部下から“ジャンピング・ジム”と呼ばれます。

 こうして、この一日=ロンメルの表現で“もっとも長い日”、後にアメリカ大統領に就任するアイゼンハワー将軍のもと、イギリス軍バーナード・モントゴメリーと米軍オマー・ブラッドレー両将軍の指揮下、パラシュートグライダーそして上陸用舟艇で殺到した連合軍155000人、対するドイツ軍は“最後の黒騎士”ゲルト・フォン・ルントシュテットと“砂漠のキツネ”エルヴィン・ロンメル両元帥指揮する38万人、計約54万人、そして連合軍側戦死傷10264人、ドイツ軍側13000人にのぼります(Wikipediaより)。

 この日、何人かのアーティストがこの戦闘に巻き込まれます。ある者は心中深く、傷を負ったかもしれません。その一人、アメリカの作家J・D・サリンジャーは兵士として上陸地の一つ、ユタ・ビーチでフランスの土を踏みます。

 ユタ・ビーチは後述のBraddy Omaha(血まみれのオマハ)より死傷者が少なく(計197名)、上陸した米軍第4師団は快調に橋頭堡を確保しますが、その後のドイツとの激戦の結果、サリンジャーは“神経衰弱”と診断されます。従軍体験とそこから受けた心の傷は、彼の代表作の一つ『ナイン・ストーリーズ』や、その後も書き続けられたグラス・サーガのところどころに読み取ることができるでしょう。

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  そのサリンジャーに位負けせぬ20世紀の偉大なアーティストの一人、それも戦争写真家という20世紀になって出現した新しいタイプのアーティスト、ロバート・キャパ(こと本名フリードマン・エンドレ・エルネー、32歳、ハンガリー生まれのユダヤ人にして、米軍にとっては敵国人の写真報道家)は、そのBladdy Omahaのどまんなか、ドイツ軍第352師団が雨霰のように銃弾を浴びせる砂浜で立ち往生します(ロバート・キャパ『ちょっとピンぼけ』筑摩書房世界ノンフィクション全集版)。このオマハ・ビーチでの連合軍の死傷者は一説によると4000名にのぼるとのこと。

 地獄のような大轟音のなかで、とりわけひとつの音がしだいに接近し、鮮明に、(舟艇にのって、これから上陸しようとする連合軍兵士にとって)不吉にきこえてきた。機関銃弾のダダダダダ・・・・・・・という音が、舟艇の鉄の船腹にあたってくだけはじめた。大砲がうなった。砲弾があめあられと注いだ。オマハ海岸の6キロにわたる全延長にわたって、ドイツ軍の大砲が舟艇に鉄の雨を浴びせかけた。(『一番長い日』より)

 第3波の兵士たちが、この混沌と混乱と死のうちに到達し、そして停止した。それから数分して、上陸第4波が砕け散って停止した。兵士は砂と砂利と海草の上に肩をつけて身を伏した。(同)

 こうした混乱の中、おもわず、ベテランとルーキーの差が滲み出ます。

 ド・レイシー軍曹も、同様にクールスール地区で塹壕から出てきたドイツ兵を12人捕虜にした。彼らは進んで手を頭上にあげ、ド・レイシーは一瞬押し黙って彼らをじっと見た。彼は弟を北アフリカで失っていたのだ。それから、傍らにいた一人の兵隊にいった。「おい、この馬鹿どもをちょっと見てみろ! ゆけ、つれてゆけ、もう見たくもないやつらだ」同)

 彼はその場を離れ、怒りを鎮めるため、お茶を一杯作りにいった。茶を温めていると、「ほとんど顎にヒゲも生えていない」若僧の将校が近づいてきて、激しくいった、「軍曹、行きたまえ、お茶など沸かしているような場合じゃない」。ド・レイシーは目を上げ、21年にわたる軍務の経験で、やっと気持ちを抑え、こう答えた、「中尉殿、私どもは子供の兵隊ごっこをやっているんじゃないんであります。本当の戦争です。うまい茶を飲んで5分後に戦争にもどられたらいかがです」。その中尉は、彼に言われたとおりにした。同)

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 まったくの話、将校も兵士たちも(ド・レイシーのような職業軍人としての下士官をのぞけば)ほとんどはアマでした。そんなアマが現場で鍛えられていく。究極のOJT(On-the-Job Training)です! このオマハ・ビーチでのやりとりの数年前、ハリウッドのスクリューボール・コメディの名手、フランク・キャプラ監督は、こともあろうにアメリカ陸軍参謀総長、戦後のマーシャル・プラン(欧州復興計画)で有名なジョージ・マーシャル元帥に呼び出されます。その用件は、戦意高揚のための映画を作ってくれ、との依頼です。仰天したキャプラが

 「マーシャル元帥、申し上げますが、わたしはいままで、ドキュメンタリー映画は一本も作ったことがありません。実際のところ、作ったひとのそばにいたこともないのです」

 すると、マーシャルは静かに、諭すように応じます。

「キャプラ君、わたしはいままで参謀長であったことはないのだよ。何千というアメリカの青年もいままで足を打ち抜かれたことはないのだよ。一年まえまでは大洋をみたことがなかった兵士が、今日は艦を指揮しているのだよ」

 キャプラの答えはもちろん

申し訳ありません。閣下、いままでにないどえらいドキュメンタリー映画を作ります」

 こうしてアメリカは第2次大戦に芸術家たちをも巻き込みながら、総力戦を勝ち抜き、覇者としての道をたどることになります。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...