2012年7月

アートについて:芸術家たちPart7:大衆むけ見世物の世界~人間ポンプについて#1~小技編

2012 7/31 総合政策学部の皆さんへ

 今回のタイトル=“人間ポンプ”に目がとまり、それが何かがぱっとわかった方がいたら、あなたは十分教養人ではないか、と勝手に思ってしまいます。

 “人間ポンプ”、この言葉を使う場合、一般名詞として大衆向け見世物芸(それもアートの世界の一端であると認めた上で)の一つの技(=アート)としての名称を思い浮かべる方もいるでしょう。

 と同時に、日本史上、最後の“人間ポンプ”として、そしてその肉体に日本伝統の様々な身体芸・手妻の類を一身に詰め込んだ驚くべき人物としての“人間ポンプ”=故安田里美さんを思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。

 なお、私が安田さんの芸を実見したのはたしか1990年、京都の北大路通北側のとあるアート・スペースでした(なお、安田さんの芸により深く接したい方は、その時の企画を取り仕切った鵜飼正樹さん(現京都文教大学教員)の著書『安田里美一代記 見世物稼業』(新宿書房)をご覧下さい)。

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 安田さんの紹介に入る前に、とりあえず “人間ポンプ”を一般名詞として紹介しておきましょう。これは洋の東西を問わず、大道芸の一つで、口からいったん飲み込んだものを(ポンプのように)吐き出すという芸です。よく知られているものでは、ヨーロッパやメキシコでおなじみの“火吹き”芸のパフォーマンスがあります。

 これはいったん飲み込んだ可燃性液体(灯油やアルコール)を吹きだして、着火すると口から火を吐くが如く見えるという出し物。近年では、グラム・メタルロックバンドの“KISS”のボーカルジーン・シモンズが得意技としていたところです。

 一方、はき出すこと自体が芸になることもあります。管見では、鹿島萬兵衛『江戸の夕栄え』に紹介された「水と土を飲み込んだあと、清水と泥水を吐き分ける」という芸が、日本における“人間ポンプ”的芸の草分けかでしょう。

 ヨーロッパでも、(今となってはちょっと懐かしいヌーヴェル・ヌーヴェル・ヴァーグ)カラックス監督の秀作映画『汚れた血』で、ドニ・ラヴァン扮する主人公アレックスが女友達を興じさせようと、演じていたシーンがあった覚えがあります。こちらはさしずめ“吹き分け”芸とでもいうべきでしょうか。

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 と書いていたら、なんと『江戸の夕栄え』がネットで公開されているのですね。URLはhttp://books.salterrae.net/amizako/html2/edonoyuubae.htmlです。その一節を紹介しましょう。

往来の人を当てに興行するもののうちに有名なるは猫八なり。弟子・小僧二三名を連れ、十五六坪の場所に見物人で垣を造らせ、その中央に長さ五尺ばかり丸さの径三尺ぐらゐの目の粗き竹籠を一尺五六寸の台上に載せ、真中を赤き丸ぐけの紐で結び飾り置き、自分は素裸揮(ふんどし)一ッ、寒き時はただ半纏を被ふのみ。

 前芸は一尺差を口中に入れ抜差しさせ、後には抜身の刀一尺余の物を口中に入れ木の槌(つち)で叩きなどなすは、素裸ゆゑ種も仕掛けもなきならん。それより小盥(こたらひ)に水を入れそれを呑み、その後へお砂糖なりとて道路の土を掘り取りその土のどろどろになるをまた呑み、お茶菓子なりとて縫針を十五六本口の中に入れ、ムシヤ、ムシャ、たべる真似をなし、さてこれより泥水と清水と吹き分け三段を御覧に入れますとて、頭をとんとん叩く真似をなし口中より清水を吹き出し、この次は泥水とて頬をつねる真似をして口中より泥水を吐き出す、その後は咽(のど)をひねるまねして針を五六本出し、また前のやうなことをして清水と針と泥水とを再三出す。

 その手際のあざやかにて、仕掛けあるとしても感心のほかなし」とあります。さらに篭脱け芸などを紹介した後で、「猫の泣声をなすに近所の猫ども集り来るも妙なり、ゆゑに猫八の称ある所以(ゆゑん)か。後米国に渡航せしと聞きしもその後のことを知らず」と結びます。

 そこで肝心の人間ポンプ(あるいは別名「北海のシロクマ男」)安田さんに話を戻すと、彼は“火吹き芸”も“吹き分け芸”もどちらも軽々と演じるという、とんでもないキャラであることが、観ているうちに観客に伝わってきます。

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 さて、その日、かねて顔見知りの(というよりも、その数週間前の研究会で同席した際に本人から切符を売りつけられたわけなのですが)鵜飼氏の司会で始まった安田さんの芸の数々は、とてもとても筆では伝えきれません、それも質と量ともにです。

 戦前の障害に対して偏見が厳しい時代、アルビノでかつ視力もおぼつかない障がい者として生をうけた安田さんは、実の家族から、他人の眼を恐れるように興行主に売り飛ばされ、数奇な人生を歩みます。そんな彼にとって、大学関係者も詰め掛けて立錐の余地もないアートスペースで演じる経験はおそらく人生初めてのはず。

 すっかり気がはいった彼は(かねて鵜飼氏には「わしの芸は全部やったら、三日三晩続けられる」と豪語されていたそうですが、それもかくや! と納得するぐらい)大技・小技の連発で、場内はひたすら興奮の嵐でありました。と言っても、多少は説明しなければ・・・・

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 まず、始まりは文字通り“小手調べ”。日本古来の手妻(手品)の色彩も濃い小技の連発あたりから思い出すと、吹き分け芸では、白黒の碁石を何個も飲み下し、「さて、皆さん、まずは白を出しましょう」とぱっと胃袋から吐き出す碁石は紛れもない白、続いて「今度は黒、白、黒、・・・・」と叫んで、次々にその色の碁石を吐き出していく・・・・・

 観客はひたすら呆然とするだけです(なお、長年、安田さんとお付き合いした鵜飼氏にも、この技の“タネ”はわからなかったそうです。ただし、一度だけ、口上を聞くうちに「どうも白黒の碁石の順番を間違って飲んだのでは」と気づいた鵜飼氏がそのことをそっとささやくと、さすがにはっとした雰囲気で、なんとかごまかして取り繕ったことがあったとのこと。そこから、鵜飼氏は飲み込む順番をきちんと覚えているのではないか? ということでした)。

 次に、安全剃刀を包み紙から出して、ことさらに1枚1枚見せびらかして(扇のように観客にむけてかざし)から、それを舌に1枚ずつはりつけて、「さあ、ごろうじろ」とばかりに「ごくん」と飲み込んでから、「口にはもう残っていませんよう!」と大きく開けた口を見せびらかす(これだけで、もう仰天なのですが)。

 その繰り返しをかれこれ10枚ほど続けてから、「んっ」と気合をいれて口をあければ、見事、10枚の剃刀がぴたっとくっつき、今そこで包み紙をあけたように安田さんの舌先に載っている!

 さらにさらに、鈴を飲み込み、それもまた「ごっくん」としてから、身体を揺らすと、不思議や不思議、身体の中から鈴の音が! そんなはずはないのに、と思う暇もあればこそ、またもや「んっ」と気合が入れば、開けた口からのぞく舌先には飲み込んだはずの鈴が載っている!

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 そして次は、生きた金魚の丸呑み(今なら、欧米の動物愛護団体あたりに批難されかねませんが)、そしてやにわに釣り針つきの短い釣竿を取り出し、その針を飲み込んでしばし時がたつ。そしてやおら「やっ」とあげた竿の先には、見事に金魚がかかっている! 

 本当に、いったいどんな“タネ”やら、“シカケ”があるものやら、観客はとりあえず考えることを放棄して、ただひたすら感嘆しつつ見守るしかありません。

 このあたりの一連の芸=いったん飲み込んだものを吐き出すなり、釣竿でとるなり、また身体の外に出す。これが人間ポンプの本筋ですが、その出し方が半端ではない。かつ、見事な口上と一体化して、まったくスキというものもない。

 (鵜飼氏の話では)かつて終戦直後の混乱期、さまざまな芸人たちと付き合う中、「親の因果が子に報い」という旧来の見世物小屋の出し物であった安田さんが、その才覚を活かして、付き合う芸人たちからさまざま吸収した手妻の数々というわけです。

 この日、見世物小屋以外で初めて芸をお見せして、観客はひたすら感嘆するばかりの雰囲気に、安田さんはもう絶好調(鵜飼氏も「こんなに気合が入っている安田さんは初めてだ」というぐらい)! ということで、さらに繰り広げられる芸の数々は、to be continued・・・・・としましょう。

住まいの人類学番外編:漂う者たちPart4:漂海民

2012 7/22 総合政策学部の皆さんへ

 「住まいの人類学番外編:ただよう者たち」のシリーズでは、Part1で世間師(とくに宮本常一の傑作『土佐源氏』)、マレビト、放浪学生たちを、Part2では“寅さん”、Part3では“Holly Golightly ”を取り上げました。

 思えば、定住に背を向け、ひたすら世間をわたっていく者たちの悲哀がにじみ出る役柄が続きますが、今回は漂海民をとりあげます。

 といっても、皆さんは”漂海民”という言葉を耳にしたことはありますか? 文字通り、海を漂う人たち。人類学の世界では、マレー語のオラン・ラウト(“オラン Orang”が人で、“ラウト Laut”は海)で知られています。それではと、例によってWikipediaをあけてみると、なんと日本語版にはオラン・ラウトが載っていない。それで、やむなく英語版からの引用です。

     The Orang Laut, or Bajau Laut, are a group of Malay people living in the Riau Islands of Indonesia. It also may refer to any Malay origin people living on coastal islands, including those of Andaman Sea islands in Thailand and Burma, commonly known as Moken. The Malay term orang laut literally means the sea people. The Orang laut live and travel in their boats on the sea. Other Malay terms for the orang laut were Lanun, Celates or Orang Selat (literally Straits People).
      Broadly speaking, the term encompasses the numerous tribes and groups inhabiting the islands and estuaries in the Riau-Lingga Archipelagos, the Pulau Tujuh Islands, the Batam Archipelago, and the coasts and offshore islands of eastern Sumatra and southern Malay Peninsula.
       Historically, the orang laut were principally pirates but they also played important roles in Srivijaya, the Sultanate of Malacca, and the Sultanate of Johor. They patrolled the adjacent sea areas, repelling real pirates, directing traders to their employers’ ports and maintaining those ports’ dominance in the area.
       Eda Green wrote in 1909, “The Lanuns, supposed to have come from the Philippines, are Mohammedans and are dying out; they were one of the most aggressive tribes in their wild piracy, raiding not only the coasts, but stealing away the children of the Dusuns and Ida’an.

 わかりますか?  とりあえず、海(水)の上で生き、海(水)の上で死ぬ、それを人生・なりわいとしている人たちです。そして、言うまでもない事ですが、19世紀以降、陸地をベースに発達し、かつ、“民族中心主義”的に発達する“国民国家”から見ればマージナルな人たち、規範(国境内にも、陸上の固定された社会にも)に収まりきれぬ人たち、ということになるわけです。

 その結末は、“近代化”の美名のもと、“漂う”ことを禁じられ、“定住化”が強制されていく。なにしろ、“漂われる”と、国家と国家の境のボーダーすら行き来されてしまうわけですから。近代化はこうした“あいまいな存在”を許さない=排除していく、それがフーコーの主張だったかとも思います。

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  さて、こうした海上生活者(水上生活者)は、実はアジアのそこここに見られたようです。代表的なものとしては華南の広東省、福建省、広西チワン族自治区、海南省、香港、澳門の沿岸・河川で生活する蛋民の人たちです。

 Wikipediaによれば「陸に土地をもたず、主に船を家とし、水上で漁業、水運、商業などの生業を営む。このため船上人とも呼ばれる。岸辺に「棚屋」や「茅寮」と呼ばれる、簡単な水上家屋を築いて住む場合もある。伝統的な材料としては、木材に加えて、サトウキビの茎や皮などが使われた。漢民族であり、少数民族には分類されないが、生活様式の違いや教育程度の差などによる被差別民であった。1970年代までは、非蛋民との通婚も限られていた」とあります。そして、ここでも、人口が激減しているとのこと。

  そこまで減ってしまうと、逆に“観光資源化”するのも、ネオリベラリズムあるいは世界システムによるグローバリズムが支配する資本主義社会の常かも知れません。Webを探すと「パンガー湾観光ツアー」とか、「トンレサップ湖クルーズ 」等々がひっかかりました。ちなみに、現在最大の水上生活者集団=観光の目玉は、海上ではなくカンボジアのトンレサップ湖周辺の人々で、Wikipediaによれば100万人が住んでいるとのことです。

 それでは、日本では? Wikipediaに「家船(えぶね)」という項目があり、以下の記述があります。

  近世から近代の日本に存在した一群の漂流漁民の総称である・・・・数艘から数十艘にて集団を形成(「~家船」と称する)して、本拠地を中心として周辺海域を移動しながら一年を送り、潜水や鉾を使った漁で魚介類や鮑などを採集する漁業を営なみ、1週間から10日おきに近くの港で物々交換に近い交易をしていた。家船が三津の朝市で漁獲品を水揚げする姿は戦後もしばらくは見られていた・・・・家船の根拠地は、西九州及び瀬戸内海沿岸に存在した。西九州では西彼杵半島と五島列島に多くが根拠を持ち、女性は抜歯の風習があったとされている。

 しかし、彼らも「明治維新以後、納税の義務化、徴兵制や義務教育の徹底の方針から政府が規制をしていった。昭和40年頃には陸上への定住を余儀なくされて消滅したと言われている」となっています。

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 その一方で、近代化の進展で、別のタイプの水上生活者もあらわれたようです。Wikipediaの「水上生活者」の項には、

 日本各地に寄港する貨物船の大型化が進み、艀を使った舟運が盛んになると、艀の一角を住宅化し一家で居住する船上生活者が現れるようになった。東京では埋め立てが進む前の月島勝どき周辺に多く見られ、1万人弱を数える規模となっていた。こうした住民の福利厚生を行うために水上会館や水上学校(陸上に建てられた寄宿形式の学校)が建てられたほか、治安を担当する水上警察署などが設置された

 そして、21世紀の現在では、やはりごくわずかまでに減ったとでています。ちなみに、NHKでは1960~64年、隅田川でポンポン船を家業とする船長(桂小金治)と子供たちの生活を描いた「ポンポン大将」という子供番組が放映され、私はかすかに記憶に残っています。

 焼玉機関搭載の小型動力船は、リズミカルな独特の爆音を立てて航行することから「ポンポン船」と呼ばれ、漁港河川ののどかな風物詩として親しまれたが、1960年代までには廃れている。構造的には、2ストロークで、重油(低質重油を除く)を燃料とするものがほとんどを占めていた。(Wikipedia「焼玉エンジン」)

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 その一方で、近代化によって日本内部にとどまらず、地球の表面にはりめぐらしたボーダーを海を越えて軽々と乗り越える人々も現れます。その気配を、例えば沖縄糸満の海人(ウミンチュ;漁業専業者)の人たちの動きに感じることができるでしょう。

 例えば、「糸満海人工房・資料館」というサイトには(http://www.hamasuuki.org/history/history.html)には、「糸満漁業史」とあって、

1792 王府、糸満海人が読谷山沖で難破船の乗組員を救助したとして褒章。球陽に記された糸満海人のこのような活躍は、1876年までの間に述べ26件(1799年までには18件)もあるが、糸満海人が救助した場所は、そのほとんどが地元より遠方となっていることに対し、他地域の人々が救助した場所は地元海岸となっており、このことからしても糸満海人の航行範囲が広いことが分かる。(例:1761国頭、1783 久志、1789以前 沖永良部

 その彼らは近代化のなか、各地に、「磯猟は地附き、根附き次第、沖は入会」(Wikipedia)という慣習法を、近代化する意味で漁業権が設定されますが、当初、糸満の海人には、山林における“木地師”のように、他地区での権利が認められたようです。

1907 県内に初めて漁業権が設定され、その際、特に糸満海人に対しては他地区への入漁権が認められるようになる。

 しかし、近代化の進行はこうしたあいまいさを排除していきます。

1908 糸満海人に対する入漁拒否騒動が本部村漁業組合との間で起こり、その後浜比嘉や小湾などでも起こる。合法ながらも漁獲圧の高い糸満漁業とこれに対抗する地域住民の地先海面の占有意識との摩擦は他の地域でも問題となっており、このことがひいては県外への出稼ぎ漁業、南洋諸島への出漁を促した。

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 こうして、ボーダーを乗り越える海上生活者的世界(ただし、男性だけでしょうね)がしばらく展開します。

1916 海外への出稼ぎ漁業(主に追込網漁)始まる。大戦勃発の頃までに東南アジア、南洋諸島を中心に拡大

1937 当時の糸満のアギヤー組数 : 地元操業6組(うち2組はパンタタカー(主にリーフ内でする小型追込み網漁)) 、県外出漁7組、海外出漁2組

 しかし、もちろん、第2次世界大戦における日本帝国陸海軍と連合軍との開戦によってこうした状況は一変、敗戦後は沖縄は米軍統治下におかれ、その後の長い占領期間が続くことになり、糸満海人の海外飛躍もいったん幕を閉じることになる。

 と、こうした経緯を書きつけていると、佃島の水上生活者や糸満海人の海上進出も、日本の水上生活者は“近代化”の中で生まれて、そしてその進行とともに消えていくもののような印象があります(=日本近代化論の一こまですね)。

時間と仕事:“時”をめぐる人類学Part1:punctualであることと時計、そして“遅刻”の誕生:日本の近代化を時間の視点から見れば#3

2012 7/16 総合政策学部の皆さんへ

 「日本近代化を時間の視点から見る」シリーズ3です。#2は時計の話をしましたが、そこに出てきた“時計塔”、あるいは“時計台”こそ、日本の近代化を象徴するあかしであり、かつ、すべての民衆を“時間”という規律で律し、コントロールしようとする政治的権力の深慮遠謀だったのかもしれません。

  言うまでもないことですが、「みんな時間を知っているはず」という前提は、次に「みんな時間を守るはず」という思い入れに代わり、そして最後は「皆は時間を守らねばならない」とルールに代わる。なおかつ、遅刻=ルール破りには制裁が科せられる。

 このあたり、ぜひ、鎌田先生や細見先生に、ヨーロッパにおける“時間”の普及とそれを軸とした“市民生活”の変化あたりのお話を伺ってみたいところです。

 そしてもちろん、その議論の延長線上にはベンジャミン・フランクリンの『自伝』およびヘンリー・フォードフォーディズムがあり、逆に異議申し立てとしてミヒャエル・エンデの『モモ』、そして『パパラギ』があることを、その一方で“自由な時間”を奪うことが近代的刑法における制裁/刑罰の一つの手段になったということでは、フランスの哲学者ミッシェル・フーコーにもつながっていくことをご理解ください。

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 さて、美術評論家の仲田定之助の『明治商売往来』をひも解くと、冒頭近くに「時計台のあった時計屋」の項がでてきます。少し引用しましょう。

 文明開化を象徴する時計台が明治時代、都会の建物に簪の様に飾られた。それは市街に美観を添えるばかりでなく、まだ懐中時計も、掛時計も一般に普及していなかった時だけに、市民に時刻を告げる重要な役割を果たしたので、宣伝媒体としても大きな効果を上げた。それに時計屋の屋根に据えられた時計台は時間ごとに、あるいは半時毎に妙音を響かせるので著しく世人に親しまれた。

 つまり、時計台=広告としてのシンボル、そして時を告げる音の登場=音環境の世界の展開、こうして近代化は庶民の暮らしに浸透していった=それが、“遅刻”の普及にもつながっていく、そのあたりの塩梅をぜひ頭に留めておいてください。

 仲田があげる主な時計塔としては、「もっとも親しんだのは日本橋二丁目の吉沼時計店」(もっとも、その革新的営業が裏目にでたのか、5,6年後には閉店、折角の時計台は時針を取り外され、文字盤に「南無妙法蓮華経」と大書されたので、不思議に思うと「日宗生命保険会社」が新しい家主だったという顛末です)や「日本橋四丁目角の小林時計店」等があげられ、その小林時計店の八官町の本店は

 大型の二階建て土蔵造りの屋根の上に櫓式和風の時計台が風見や、方角標の尖針をつけていた。

 銀座といえば明治27年に竣工した服部時計店の大時計は、その後装いをあらたにしても引き続き尾張町の角に往来する無数の群衆を日夜見降ろしていて、確かに銀座のシンボルとなっている。人々は時計台といえば先ず服部のそれを思い浮かべるであろう。

 この服部時計店こそ、#1で紹介の服部金太郎創業、そして現在にいたるも銀座に君臨する“株式会社和光”本店です(和光は1947年、小売部門として独立、ただし時計台の土地は今でもセイコーホールディングス所有とのこと)。また、現在のビルは関東大震災後の1932年建設。

和光本店(旧服部時計店)の時計台の写真はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Wako_Ginza.jpg

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 さて、その服部金太郎氏の懐古談を#1に引き続き、紹介しましょう。

亀田(時計店)へ奉公したのが15から2年(明治9~11年)、片仮名付の『論語』だの『孟子』を懐中にして便所の中でこれを読むのが楽しみでした。『算数新書』という算盤の本がありましてこれが三分ニ朱、今の金では10円にもあたりましょうか、欲しくって欲しくって、それでいてどうしても金がなくて買うことができませんでした。時計も高いものでしたが、本もひどく高かった。当今となってはこの二つともが、他の物価に比してひどく安いのも面白い事です。

私が采女町へ独立したのが22歳、ここで質流れだの、道具屋へ出たものの古時計を買って、これを修繕して右から左へ売り込み、2年間に150円の資本が15、600円になった。「ようしこれで一仕事」と思っていると、明治16年3月16日、三原橋の「三定」という炭屋(今の榊原定右衛門)からの出火で私は丸焼け、元も子も無くしてしまいましたが、その自分はまだまだ働けばいくらでも儲かる時代でした。

私が渋沢さんや、大川平三郎浅野総一郎の4人で、アメリカの時計会社を引き受けようとして、危うくペテンに掛かりそこなうというようなことがあったのが(明治)29年でしたが、その頃までは時計は実用よりもむしろ愛玩品時代であったかもしれません。(東京日日新聞社会部編『戊辰物語』岩波文庫版)

 セイコーホールデイングのサイト(http://www.seiko.co.jp/)を開けて、沿革史をのぞいてみると、「1881年創業(上記の采女町への独立)、1892年精工舎設立 掛時計の製造はじまる、1913年 国産初の腕時計「ローレル」発売、1917年 会社組織に改め、(株)服部時計店となる、1924年 時計類の名称としてSEIKOを使い始める・・・・」と続きます。

 なお、Wikipediaによれば、最初の懐中時計は1896年(あるいは94年、95年との異説も)「タイムキーパー20型」発売とあります。

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 こうして日本の会社にはそれぞれの歴史があり、それを誇りに思っているのはどの会社も同じこと。学生の皆さんも就活で面接する時は、かならず相手先の沿革ぐらいは眼を通しておいてください。

 また、金太郎氏の懐古談をみると、時計会社設立にまで明治期に日本の資本主義化をリードした「日本資本主義の父」渋沢栄一がここにもかかわっていたとは、ちょっと驚きです(渋沢については、このブログでは「異文化に出会う時:日本人はどのようにして異なる食文化に出会ったか?Part2~村垣淡路守から渋沢栄一まで~」「住まいの人類学Part6:植え付けられた街、そしてその増殖#2~銀座勃興篇~そもそも銀座の道幅はどうやって決まったのか?」等に既出です。そちらも閲覧いただければ、日本資本主義の勃興期の雰囲気が多少かんじられるかもしれません)。

 なお、渋沢と同様に時計会社にかかわった大川平三郎は、渋沢の書生あがりで20台で初代王子製紙立て直しを引き受けるも、三井財閥との主導権争いで渋沢とともに会社を離れ、新たに九州製紙等をおこし、1933年王子製紙・富士製紙・樺太工業等を合併、大王子製紙を誕生させた「日本の製紙王」で大川財閥の創始者です。

 もう一人の浅野総一郎もまた、現在の太平洋セメントを始めとする浅野財閥を一代に作り上げた企業人です。現在のセイコーホールディングも合わせ、渋沢のジェネラル・プロデューサーとしての手腕をほうふつとさせる服部金太郎氏の懐古談ではあります。

食べることについてPart10:味の好みについて#1:甘味編

2012 7/11 総合政策学部の皆さんへ

 皆さんはそれぞれ味の好みがあるかと思いますが、それが人によってかなり異なることもまたご存じでしょう。例えば、私は甘いものがほとんど駄目ですが、それでは「なんで駄目なのですか?」と聞かれても答えられません。

  もちろん、そうした“好み”にはいろいろな理由付けがあるでしょう。ある人は年少時のトラウマが働いているかもしれませんし、ただたんに「普段食べていないから、手をつける気になれない」等の習慣的なものもあるかもしれません。

  例えば、あなたはナマコがお好きですか?  夏目漱石の傑作『吾輩は猫である』では、主人公珍野苦沙弥先生に、天道公平となのる人物から奇妙な書状が届きます。その一節は

 始めて海鼠(なまこ)を食いだせる人は其勇気に於いて重んずべし。始めて河豚を喫っせる漢(おとこ)は其勇に於いて重んずべし。海鼠を食へるものは親鸞の再来にして、河豚を喫せるものは日蓮の分身なり。苦沙弥先生の如きに至っては只干瓢の酢味噌を知るのみ。干瓢の酢味噌を食って天下の士たるものは、われ未だ之を知らず・・・

 この手紙なかなか長いもので、かつ苦沙弥先生はついつい引き込まれてしまうものですが、すぐに悪友の迷亭先生の口から天道公平とは、二人の旧友立町老梅(たちまちろうばい)君が狂を発して(つまり、精神的な病いにかかって)“巣鴨(=日本の初期の精神病院で当時巣鴨にあった巣鴨病院;現東京都立松沢病院)”に入院、その入院先から送ってきた手紙である、と判明してしまいます。

 ところで、「始めてナマコ/フグを食べた人」というテーマ、つまりは「尋常ではないことを始めてやった人(はえらいか?)」というわけで、禅の公案にも使われると聞いたことがあるような気がします。

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  ナマコあたりならともかく、ホヤ(海鞘)ともなれば、皆さんもなかなか手がでないかもしれません。というより、“ホヤ”と聞いても、何のことか連想できない人も多いでしょう。

  本来は3・11の東日本大震災の被災地あたりが本場の海産動物、日本で食べられるのはマボヤとアカボヤですが、分類学的には脊索動物門 Chordata、尾索動物亜門 Urochordata、ホヤ綱 Ascidiaceaに属し、学名はそれぞれHalocynthia roretziH. aurantiumです。

  なお、このあたりでは、(私の知っている限りで)鶴橋のコリアン・マーケットの中で一軒、店頭でホヤをよく売っている魚屋さんがあります(たいてい、1個200円ほどですが、「3個で500円でどう?」と勧められるのが常です)。朝鮮半島でもよく食べるのでしょうか?

 さて、ホヤはとりあえずおいて置くことにして、今日の話題はもう少し広い“味の好み”、甘いのものが好きか? 酸っぱいものが好きか? というレベルです。

 なお、このナマコ、喫っするのは主に日本と中国で(日本は主に生もので、中国は乾燥ナマコを食材として、という違いはありますが)、世界の多くの国では食材とみなされてこなかった。それが、中国からの需要の高まりで、まず太平洋地区のナマコがとりつくされ、次にインド洋、そしてマダガスカルにいたるまで、食用になるナマコが次々にとりつくされている、というのが現状です。このあたりは、故鶴見良行の『ナマコの眼』、飯田卓『海を生きる技術と知識の民族誌―マダガスカル漁撈社会の生態人類学 』等をご覧くださいね。

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  さて、「味の好み」といっても、そもそも味覚はどのように分類されるのか? 例によって、Wikipediaをのぞいてみると、「味覚は物質の受容に基づく感覚の一つである。往々にしてそれは摂食時であり、対象は食料であり、匂いと共にそれが飲食可能であるかを判断する」とあって、なんとなく仰々しいですね。

 具体的な分類となると、続けて「かつて基本的な味の要素として挙げられていたものには、甘味酸味塩味苦味辛味渋味、刺激味、無味、脂身味、アルカリ味、金属味、電気の味などがあった」とあります。こちらの方は、なんとなく整理されていないような感じですね。皆さんはどう思いますか?

 それはさておき、こうした味覚は実は生物30億年間の歴史、進化のなかで発達したことですから、意味があるはずです(=というように、「意味があるはずだ」とまず仮説をたてる。そして、「その意味は何か?」と考える。これは自然科学の基本的仮説-検証型研究スタイルです)。とすれば、まず、わかりやすそうに見えるのは「甘み」でしょう。

 言うまでもないことですが、生態系の中の栄養段階として消費者の位置をしめる動物にとって、自らの身体を動かすのに必要なエネルギーを手っ取り早く摂取するには、糖分をとるのがよい。とすれば、食べ物にどのぐらい糖分があるか(=自分にとって速やかにエネルギー補給ができるか)、その判断の目安として、「甘み」があるはず(=と、一応考える)。

 その対極が「渋味・苦味」かもしれません。Wikipediaでは「タンニンなどの苦味物質を口に入れることで知覚される。渋味(しぶみ)も生理学的には同一の味覚である。えぐ味(えぐみ)、収斂味(しゅうれんみ)などとも呼ばれる」とありますが、要するに自分の身体を害する可能性があるもの=有毒物質を検出するものとして、この味覚が発達したかもしれないわけです。英語版Wikipediaにはきちんとそのあたり書いていますね。

 Bitterness is of interest to those who study evolution, as well as various health researchers since a large number of natural bitter compounds are known to be toxic. The ability to detect bitter-tasting, toxic compounds at low thresholds is considered to provide an important protective function. Plant leaves often contain toxic compounds, yet even amongst leaf-eating primates, there is a tendency to prefer immature leaves, which tend to be higher in protein and lower in fiber and poisons than mature leaves.[ Amongst humans, various food processing techniques are used worldwide to detoxify otherwise inedible foods and make them palatable.

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 一方、甘味ですが、いうまでもなく生物の進化において、できるだけ甘いもの(=エネルギーを得られるもの)を選ぶ基準として進化してきたはずです。英語版Wikipeidiaでは、

 Studies indicate that responsiveness to sugars and sweetness has very ancient evolutionary beginnings, being manifest as chemotaxis even in motile bacteria such as E. coli. Newborn human infants also demonstrate preferences for high sugar concentrations and prefer solutions that are sweeter than lactose, the sugar found in breast milk. Sweetness appears to have the highest taste recognition threshold, being detectable at around 1 part in 200 of sucrose in solution. By comparison, bitterness appears to have the lowest detection threshold, at about 1 part in 2 million for quinine in solution. In the natural settings that human primate ancestors evolved in, sweetness intensity should indicate energy density, while bitterness tends to indicate toxicity The high sweetness detection threshold and low bitterness detection threshold would have predisposed our primate ancestors to seek out sweet-tasting (and energy-dense) foods and avoid bitter-tasting foods. Even amongst leaf-eating primates, there is a tendency to prefer immature leaves, which tend to be higher in protein and lower in fibre and poisons than mature leaves. The ‘sweet tooth’ thus has an ancient evolutionary heritage, and while food processing has changed consumption patterns,human physiology remains largely unchanged.

  とくに、アフリカ等に行くと、皆、甘みを求めている、そんな気配を感じます(明治前後の日本もそうだったはずです=下記参照)。例えば、タンザニアで現地の人が入る食堂/喫茶店(スワヒリ語ではHoteli)に入れば、最初から砂糖とミルクがぶち込まれた超甘口の紅茶(chai)がでてきます。そして、テーブルに砂糖壺がない! テーブルに砂糖をおこうものなら、あっという間にそのchaiにさらに砂糖をつぎ込むはず、だから砂糖壺をおくわけにはいかないのだ、と知り合いのタンザニア人に説明を受けたのを思い出します。

 上記夏目漱石の『吾輩は猫である』は 『総合政策学部の100冊』にも推奨しておきましたが、読まれた方は覚えていますか? 第1章のある下りを。珍野家のある朝、

 4、5日前のことであったが、二人の子供が馬鹿に早くから眼をさまして、まだ主人夫婦の寝ている間に対ひ合うて食卓に着いた。彼等は毎朝主人の食ふ麺麭(パン)の幾分に、砂糖をつけて食ふのが例であるが、此日はちょうど砂糖壺が卓の上に置かれて匙さへ添えあった。いつもの様に砂糖を分配してくれるものがないので、大きい方がやがて壺のなかから一匙の砂糖をすくひ出して自分の皿の上へあけた。すると小さいのが姉のした通り同分量の砂糖を同方法で自分の皿の上にあけた。しばらく両人はにらみ合っていたが、大きいのが又匙をとって、杯をわが皿の上に加えた。小さいのもすぐに匙をとって我が分量を姉と同位置にした。すると姉が又一杯すくった・・・・・壺の中には一匙の砂糖も余って居らんようになった時、主人が寝ぼけ眼を擦りながら寝室を出てきて、折角かき出した砂糖を元の如く壺の中へ入れてしまった。

 そして猫は忍び笑いをもらします。こんな所を見ると、人間は利己主義から割り出した公平といふ念は猫より優って居るかもしれぬが、知恵は却って猫より劣って居るようだ。そんなに山盛りにしないうちに早くなめて仕舞えばいいにと思ったが・・・

 
 
 このあたりのくだりは、消費税増税と社会保障の一体改革等で政争を続ける政党の皆さんに聞かせたいあたりかもしれません。

 さて、甘いのを求めるのはキツネザルやニホンザル、チンパンジーも同じことで、そうした光景を見ていると、やはり生物数十億年の進化の歴史の中、何がエネルギー源なのか? そしてエネルギー源があれば、それをとことん利用しつくそう、という欲望が我々の味覚を進化させたという気がしてきます。しかし、人は甘味にだまされることもある、あるいは進んでだまされようとすることもある・・・・・そのあたりはto be continuedとしましょう。

フォーディズムvs.ポスト・フォーディズム:自分が生きている時代を生き抜くためには“真の教養”を!(増補改訂版)

2012 7/6 総合政策学部の皆さんへ 以下は 2010 4/29に投稿したものがベースなのですが、最近、このブログにスパムメールが連続的に投稿されているので、初版を削除、あらためて増補改訂版とします。

 さて、以前にライト兄弟とフォード(ヘンリー・フォード1世)を取り上げ、ベンチャービジネスにおける発明者創業者、そして企業化について触れましたが(「ライト兄弟とフォード:ベンチャービジネスにおける発明者、創業者、そして企業」2010年1月31日投稿)、今回はあらためてフォーディズム(=フォード社的生産体制)ならびにポスト・フォーディズムについて紹介したいと思います。

 ちょっと前の記事になりましたが、『朝日新聞』の2010年2月22日の「論壇時評」に東大教授で社会経済学者の松原隆一郎氏が、“象徴的貧困 消費社会が変容させた「私」”というタイトルで、評論を書いています。

 内容は、2010年度の卒業生の内定率が1996年以降最低になったことを踏まえて、「若者たち(=あなた方)」の「生き方」がいやおうなしに変わりつるある、ということです。

 いまさら当たり前と思うでしょうが、松原氏の議論は、そうした背景にフォーディズムからポスト・フォーディズムへの変換があること、そして日本の社会全体がポスト・フォーディズムに対応していない、というのが骨子です。

 なお、ポスト・フォーディズムについては、雑誌『現代思想』2007年7月号の「特集ポスト・フォーディズム-わたしたちはなぜ働いてしまうのか」等をご参考にしてください(http://www.seidosha.co.jp/index.php?%A5%DD%A5%B9%A5%C8%A1%A6%A5%D5%A5%A9%A1%BC%A5%C7%A5%A3%A5%BA%A5%E0)。 

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  それでは、ポスト・フォーディズム社会とは何か? 松原は「パラサイト・シングル」や「婚活」等の流行語でも知られ、東京学芸大から中央大学に移った社会学者の山田昌弘の議論を引用して、工業化社会(=フォーディズム)では、(チャップリンの『モダン・タイムス』に皮肉られたとは言え)工場労働者にもそれなりの熟練が求められていたと指摘しています。そして、彼等はその“熟練ぶり”に誇りをもち、かつ企業もその熟練度を評価して、会社に長くひきとめようとした(=この究極の流れが、日本資本主義における終身雇用年功賃金制につながることになります)。

 たしかに、S・ターケルの労作『仕事!』(!』(#68;「あなたにとって、“仕事”とは何か? 陰陽師から漱石、そしてトム・ソーヤーからフランクリンまで;高畑ゼミの100冊Part 13-とくに卒業生の皆様へ」2010年3/18 投稿で既出)では、アメリカの労働者たちは、それぞれ己の職業にある種の誇りを持っています(製鋼労働者、スポット溶接工、補てん工、監督長、工場長等)。

 しかし、もちろん、その言葉に疲れと苦味がまじらないはずはありません。以下は、彼らの口から漏れ出る“疲れ”です。

 仕事として、もっといいのが探せるのは知ってます。でも今と同じくらいかせげるところがありますか。現実に目を向けなくちゃあ。時給4ドル32セント、たいした額ですよ、本当に。おかしな話ですけど、私はボディ組み立ての仕事はつらくないです。結構楽しいんです。自分の手をつかうのは好きです-心をつかうよりいい。ものを組み合わせ、最後に見えてくるのが好きです。

 仕事はやってて楽しいけど、今週の2日はこたえたよ。家に着く頃にグロッキーだ。欠勤サボ。サボリが出た日には補充員が車で何でも屋のひとりが穴埋めにテンテコ舞だ。 

 仕事さまさまと思うこともある。仕事そのものというわけでもない。フォード自動車会社で働いているのが自慢なわけがない。 

 この会社とはあと13年だ。そうすりゃ30年だ、それでやめる。退職したら、小さな農園ぐらいもてるだろう。場所は南部のど真ん中でさあ。ちょっと釣りをしたり、猟をやったり、ひっくり返って陽の沈むのをみたり、ユメはいろいろあるよ。(中山容他訳) 

 そういえば、クリント・イーストウッド監督の『グラン・トリノ』(映画番号#29)では、イーストウッド扮する主人公コワルスキーは、フォードの自動車工を50年勤めあげたポーランド系米国人として、年金生活にはいるも愛妻に先だたれ、子供や孫からも煙たがられ、英語も満足に通じかねないモン(ミャオ)の人たちに囲まれ、かつての朝鮮戦争での戦争体験に苦しみ、愛車グラン・トリノのみを誇っているという設定だったのを思いだします。

 彼ら工員をそれなりに(=自分の流儀、すなわちパターナリズム[家父長]的に)慈愛をほどこそうとしたフォードは、「薪を自分で割れ!そうすれば、2倍暖まる」という有名なセリフとともに、工員に「8時間労働や1日あたり5ドルの賃金という厚遇」を与えました。アメリカ資本主義の理想から言えば、資本家と労働者の幸福な契約であり、工員たちが自らが作った製品=自動車を手に入れることができる(まさに、“グラン・トリノ”)、これがフォーディズムの一側面です。

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 つまり、フォーディズムは労働者自身が中産階級化し、消費を拡大することで、フォードT型車のオーナーになることで、工業生産をさらに拡大する=近代化向上スパイラルを維持するものであり(ヘンリー・フォードのある種の偉大さがわかります)、そのシステム自体が崩壊しつつあるわけです。

  そうした構図がスト・フォーデイズムでは一変します。完全なマニュアル世界となり、熟練工さえ必要としない、流動的な非正規雇用者のみを必要とする世界に突入する。つまり、相互に愛もなく、機械の部品のように取り換え可能、いわば記号化された労働者たち。これが松原の議論の骨子です。

 こうなるとフォーディズム時代、家計維持者であった成人男性の大半が非正規雇用者と化し、若い者の中には親に依存せざるをえない(=パラサイト・シングル化)、さらに親が死ねば、完全なワーキングプアになってしまうというわけです。

 それではワーキングプアの方々をセーフティ・ネットで救えばよいのか、といえば、実は、社会全体が変化している。そのセーフティ・ネット自体がフォーディズムを前提しているのですから。資本主義は、フォーディズムの展開にそって、緩やかなインフレーションをたどりながら、万民に幸福感をあたえてきた(かもしれません)が、それが過去の夢になりつつある=セーフティ・ネットの維持さえも難しくなる。

 これは、皆さん方にとっても大変な事態かもしれません。つまり、これまでの社会が存在しえなくなるかもしれないのです。

 その際に、皆さんが“浮遊”しないためにも、やはり、在学中にそれなりにお勉強しなければいけません。

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  松原は内田樹の議論を引いて、オトナを磨くコミュニケーションの場、「互恵的・互助的共同体」の再興を唱えています(鎌田先生細見先生のお仕事に繋がるかもしれません)。

 かつて、そうした共同体は終身雇用制や集団主義として会社と一体化していた=社内運動会や社内旅行こそ、その象徴でしたが(=いわゆる社縁)、それが会社外でも実現可能かどうかこそ、「自らの幸福」を実感させるための大きな課題として議論を結んでいます。

 しかし、それでは、現実の皆さん方はどうすればよいのか、真の「経世済民(「経済」の語源)」を実現するには、私からすると、松原のこの結論は目方がちょっと軽そうです。

 私から皆さんに何かアドバイスをするとすれば、以下のようなごく当たり前=素朴なものかもしれません。 

(1)真の教養を身につける事=ジェネラリストとしての価値を高める。それはどこでも応用可能なスキルです。それにはリサーチ・アナリシス・プレゼンテーション・レポートのテクニックですが、当然、基礎演習で身につけるものです。

(2)真の教養を身につける事2=まずは、統計・解析の技術です(上記のアナリシスに該当)。これはジェネラリストとしての価値を圧倒的に高めます。そして、キリスト教学から始まる異文化の理解です(いまさら、グローバル社会以前に戻れません)。

(3)最後は、自分の得意とする分野を見つける事=ジェネラリストにちょっとしたプラスを=プチ・スペシャリストへ(もちろん、とことんやってスペシャリストになれたら、その方が良いに越したことはありません)。

翻訳についてPart4:“ものうりかふべき、ちぎりのしるしふみ”とは? 英語を大和言葉で考えると

2012 7/3 総合政策学部の皆さんへ

 1~2回生の方々は、毎日のようにECで英語を鍛えられていると思います。英語が苦手な私は皆さんに良いアドバイス等できるはずもなく、せいぜい、アネクドート(小話)を紹介するにとどめるしかありませんが、今日は“翻訳”です。

 幕末の安政5年6月19日(1858年7月29日)、アメリカ合衆国と日本の間に“日米修好通商条約”が結ばれます。世上、「不平等条約」として有名なこの条約の日本側調印者は、江戸の幕府の長、つまり第14代征夷大将軍徳川家茂でした(もっとも、まだ14歳になったばかりです)。そのため、条約批准書原本の署名は「源家茂」(徳川家の本姓は“源氏”という建前なので)。

 この条約批准書の交換のため、正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順を代表とする万延元年遣米使節が派遣され、日本人初の世界一周になったことはすでに「異文化に出会う時:日本人はどのようにして異なる食文化に出会ったか?Part2~村垣淡路守から渋沢栄一まで~」でご紹介済みかと思います。

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 ところで、この条約の英名はTreaty of Amity and Commerce (United States–Japan)(英語版Wikipeida)、これを日本語版Wikipediaは「日米修好通商条約」と訳すわけですが、しかし、これは漢語ですよね。日本語として本来の大和言葉(やまとことば)に直すとどうなるのか? 皆さん、考えつきますか? 

 翻訳といってもなかなか大変です。とくに日本語は、漢字が入ってきたために、本来の大和言葉と漢字を組合わせた言葉が入り乱れ(日本人としては、別に入り乱れているわけではなく、頭の中できちんと整理しているわけですが)、英語を訳する場合たいていは漢語にしてしまうか、あるいは外来語としてそのままカタカナにしてしまう。

 とはいえ、たまにはこんなことも考えるのも楽しいかもしれない、というわけです。その上で、正解は将軍が使節団に託したた親書にでてきます。これが実に、大和言葉なのです。「日米修好通商条約批准におけるアメリカ合衆国大統領宛将軍親書」というサイトからの引用では、以下の通りです(http://www.geocities.co.jp/berkeley/3776/shogunshinsho.html)。

 うやうやしく、亜墨利加合衆国の大統領の、みもと(御許)にまをす、・・・・・・・・むつひののりをさためて、ものうりかふべき、ちぎりのしるしふみをあたへ、江戸のつかさに、ゆきかひせしむ、・・・・・・・・・・・・すへて、したしみをあつくし、またそのくに、たひらけく、やすけからむ(泰平)ことおもふにとそ。 安政七年正月十八日 源御諱  御判

 ここで太字にした「むつひののりをさためて、ものうりかふべき、ちぎりのしるしふみ」の一節こそがすなわち「修好通商条約」なのです。私などはこういう大和言葉も悪くないな、と思うのですが、どうでしょう? 漢語の方がてきぱきわかるよ、とおっしゃる方が大方のところでしょうけれど。

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 それはともかく、この「ちぎりのしるしふみ」がかわされるたった5年前にペリー提督が浦賀に来航してから、江戸幕府首脳部は開国の大嵐に巻き込まれます。その際、様々な問題が直撃します。

 語学の上では、まずは通詞の問題、オランダと中国とのみ交易するから、ヨーロッパ系言語はオランダ語だけで良い、という建前はペリーの剛腕のもと、あっという間に粉微塵に打ち砕かれます。とは言え、目の前のアメリカ人を相手に、とりあえず会話をしなければ始りません。

 なお、外国とはオランダ、中国とのみ、それも長崎を経て交流するという鎖国の建前。しかし、いわば日本的現実として、実際には薩摩藩がなかば属国化した琉球王国(これが1879年の琉球処分につながるわけですが)を通しての中国との朝貢貿易のかたちをとった交易、江戸幕府と李朝朝鮮の間でなかば両属的に動かざるをえなかった対馬藩を通じての朝鮮半島との交易、あるいは北海道の松前藩がアイヌの人たちを介しての中国、ロシアとの交易等(山丹交易)が、それなりにあったことはよく知られています(吉田伸之『日本の歴史17 成熟する江戸』)。

 その苦闘の歴史の冒頭、1853年6月3日、4隻のペリー艦隊の旗艦サスケハナ号に浦賀奉行与力中島三郎助が、オランダ通詞をつれて乗り込みます。艦隊に接近中、通詞たちはめざとく中央の帆柱に旗をたてている船を見つけ、あれが「旗艦」だと見定めるのです。

 これこそ、現在に至る160年の日米交渉史の幕開けです(柴山先生のご専門につながっていくあたりですね)。その交渉の様子は、幕府会合交渉の公式資料『対話書』に残されているとのこと(井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』より)。

 ところで、中島三郎助はこれがきっかけで、その後、両番上席軍艦役に出世するも、幕府崩壊に接して榎本武揚に賛同、北海道へ赴いて蝦夷共和国箱館奉行並に就任します。そして、明治政府軍に対して最後まで降伏を拒み、息子とともに終戦2日前に壮絶な戦死をとげる。いわばラスト・サムライの一人です。

 こうやって時代の激動期、たまたまその場にいたことによって歴史の歯車に巻き込まれていく。そのあたりは「政策について考える:イスラームと政治Part2:トルコについて#3:ケマル・パシャ-“族長”の孤独、あるいは“開発独裁”の旗手」でご紹介した、トルコのケマル・パシャも同様です。

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 三郎助は必死にペリー艦隊に交渉を試みます。

  •  三郎助「船は、何国の船にて、なんらの訳これあり、当皆とへは、渡り来たりそうろうや」
  •  アメリカ「船は、北アメリカ合衆国の船にて、本国首都、ワシントンより、大統領より日本国帝に呈しそうろう書簡、所持いたしそうろう。高官の者、乗り組みおりそうろうあいだ、日本の高官の人にこれなくては、応接あいなりがたくそうろう」
  •  三郎助「日本の国宝にて、これまでたびたび、異国船も渡来いたしそうらへども、高官の者、異国船へ乗り組み、応接いたしそうろう儀、一切これなく・・・」
  •   

  この会話こそが、アメリカ側を「礼儀も知らぬ」とみなす日本側と、日本側を「またぶらかしに出てきて・・・」と感じるアメリカ側の長い長い交渉史の記念すべきやりとりになるわけですが、これが『ペリー総督日本遠征日記』(木原悦子訳、小学館版)でペリーは、

 サスケハナ号の艦側にやってきた役人は、オランダ語を流暢に話す通訳を伴っていた。指揮官に会いたいという役人(=三郎助)に対し、私は最高位の高官以外には合う気はないと伝え、岸に戻るようにと返答させた。役人は数々の質問を浴びせてきたが、こちらはそれに全く答えなかった。しかし彼は乗艦を執拗にもとめ、自分は浦賀の副奉行であると名乗った(これは三郎助の機転による嘘なのですが)・・・・(三郎助は)司令官にあえないのなら、自分と相応の地位の士官を協議相手に指名してほしいと提案してきた。艦隊の訪問の目的を政府に伝えたいから、というのだ。私はこれに同意し、副官のコンティ大尉にその役目を与えて・・・・

  と書いています。まったく、当事者同士の息詰まる会話、まさに“切所”でのやりとりというべきでしょう。現在の日本の外交官の皆さんにこの切迫感が期待できるでしょうか?

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   さて、ペリーの絵にかいたような“砲艦外交”の態度に対して、日本側は“ぶらかし(=ごまかし)”に終始したかのように見えます。幕府の役人たちは事態をひたすら先延ばししようと画策した、とペリーも断じているわけですが、最近の見方は、この切所に幕府の対応者たちはそれなりに節度と品位をもって対したと言えなくもない、という見方もでてきます。

 例えば、翌年、再び来航して「開国に対して戦争も辞さず」と迫るペリーに、幕府側全権代表儒者の林復斎は、

  •  「時期によりそうらえば、戦争も及ぶべく総らへども」と、戦争を避けないとの見解を述べた上で、事実関係について反論する。日本が「不仁」の国というペリーの言及について、日本の「当今300年に近き太平」は、人命を軽んじないから続いたと説く。ついで、日本の薪水給与令と長崎を経由する漂流者の送還法を説明し、アメリカ漂流船員を蝦夷地で保護した実例をあげて、「非道の政事」ではないと言明。
  •  最後に「貴国にても、人命を重んじそうろう事にそうらえば、さして累年の遺恨を結びそうろうと申すにこれなくそうろう処、強いて戦争に及ぶべき程の儀とも存じられずそうろう、使節にてもとくとあい考えられ然るべき義と存じそうろう」といなします。(井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』)
  •   

 そして、ペリーが強要する交易についても、林は、

 今度の渡来の「主意」は第一に人命のためであったはずであり、救助の問題が解決すれば、「眼目」がたつであろう。 「交易の儀は、利益の論にて、さして人命にあい拘わりそうろう事にはこれない儀」と反論した。「対話集」によれば、ペリーはしばらく無言、考え込む様子を見せたが、やがて通商は要求しないと答えるに至った。(同書)

  こうしてペリーにも林復斎にも、さらには通詞にとっても、長い長い一日がようよう終わりが訪れることとなるのです。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...