2012年8月

アートについて:芸術家たちPart7:大衆むけ見世物の世界~人間ポンプについて#2~荒技編

2012 8/30 総合政策学部の皆さんへ

 人間ポンプ安田里美さん、今度は荒技編です! 歌舞伎に荒事・ケレンがあるごとく、小技だけでは見物人はもちろん満足するわけもありません。小技、大技、そしてその組み合わせを見事につなぐ口上、このコンビネーションの中にこそ、小屋がけ興業の醍醐味があるのです。

 ついでに、鵜飼さんからの受け売りを吹聴すると、小屋がけで客が入らないと、安田さんはあんまり気も入らず、適当な芸で流して、「お代は観てのお帰りよ」の口上よろしく、お客を送り出していくとのこと(入場料は出口で払うのです:そんな意味では、見せ物小屋の構造もなかなか興味がわくものです。建築士プログラムで、どなたか設計と運営に知恵をこらしてみませんか?)。

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 さて、その荒技、何から説明しましょうか? まずは、なんと“ビール瓶”が小道具です。わかりますか? まずはビール瓶をハンマーで割る、それも半端な数でなく割る。細かく砕く。そのガラス片を舞台の上に敷き詰める、ちょうど人一人横たわることができるぐらいに。

 (もうおわかりでしょう)その上に、裸の背を下にして(!)、あおむけに横たわる! そして、分厚い石の板を腹の上に載せる(その重い石をよろよろ運ぶ役の一人が、当日のプロデューサーのはずの鵜飼氏です)。

 そしてもう一人の壮漢が巨大なハンマーを一閃、見事に厚い石板がぱっかり割れて、傷一つついていない安田さんが立ち上がり、拍手喝采! ヨガの行者あたりの荒業が突然出現です。

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 次は、“畳針”です。長い畳針を取り出し、どこに刺すか? もちろんおわかりですね。

 左腕の上腕部、(後から考えれば)かねて商売で刺し続けているので、おそらく穴が開いているのではないかとは思われますが、そこはあまり口上もなく、自分の左腕深くいきなり畳針を“ぶっち”と刺します。

 場内は、たしか女性の悲鳴がいくつか響いていたかと覚えています。長い長い畳針ですから、頭と先は腕から出したまま、皆さんにご披露です!

 観客は、小技=手妻の連発でもう興奮しまくっているのに、その雰囲気をあっというまに圧倒する荒業が怒涛のように一変させます。悲鳴以外に出す言葉もない、といった有様です。

 それにしても畳針! ご存知ですか? あの分厚い畳を縫うための針、したがって長さは140~300mmぐらいあるようです。それを事も無げに自分の身体に刺し通す。実物の画像は、東亜ミシン針工業のHP(http://www2.ocn.ne.jp/~tooa/tatami.html)の写真付きカタログをご覧下さい。
 
 それにしても、畳針だけで何種類もあるのですね。奥深そうです。十分にオンリーワン企業というべきか。東亜ミシン針工業、ただものではなさそうです。何でも、「昭和3年3月広島市西十日市町に横山勝が個人経営の横山ミシン針製作所を設立。昭和4年陸軍被服省軍需指定工場に認可される。昭和9年1月針の研究に専念し金型によるミシン針製造法を発明し特許取得」とあります。
 
 以前、「ファッションの人類学Part4:制服とそれにまつわるいくつかの話題」でご紹介の広島被服工廠関連の会社だったのですね。平成22年5月には「オリジナルアクセサリーの製造、販売を開始 【マリカ工房】http://www.enjoy.ne.jp/~yoko29/」とあります。なにやら楽しそうですね。 「持ち前の技術で、クリエイティブしてみました」とあります。会社概要の事業内容には「畳逢着針、特殊ミシン針、各種線材加工」とありました。

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 畳針から人間ポンプに話を戻して、その畳針で何をやるのか? 次にでてくるのはバケツです。そのバケツには紐がついていて、ぶら下げることができそうです。その空のバケツを、(もうおわかりですね)腕に突き刺した針にかけて、いかにもいたそうに痛そうに、まずは上げて見せます(このあたりでも、また悲鳴が上がったような気がします)。

 それから、「こんなことはつらいから、もうできませんよ」等と泣き言っぽい口上を添えて、(もちろん)今度は水が満々に入ったバケツを、やはり腕に刺さったままの畳針で持ち上げる(そのたびごとに悲鳴です)。 

 これが一渡りおわったあたりで、また空のバケツをもちあげて、「若い頃ができたんだけどね」とかつぶやきながら、やはりやらねば気がすまない、という風情でいきなり身体を回転、バケツは遠心力でその体の回りをメリーゴーラウンドよろしくぐるぐるぐるまわし、それがいつ終わったものやら、大歓声と悲鳴のうちに、どうやら畳針とバケツの出番は終わりになりました。

 この前か、後か、ともかく荒業も数々、どんな喉や鼻の構造になっているのか、とんでもない大きさの鉄製の鉤を飲み込んだり、差し込んだり、「本気になれば、3日3晩の興行も・・・・」というのもまことにうべなるかな、と感心するばかりです。

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 その日の最後の出し物は、もちろん、“火吹き”です。

 もっとも、「いつもの小屋とはずいぶん勝手が違うということで、通常の3分の2ほどの量に抑えます」という口上が入ります(もっとも、その口上が本当かどうか、誰もわかりません、プロデューサー役の鵜飼氏を除けば。要は、何が本当かどうか、等と疑うことはやめ、ただただ感嘆していればよいだけです)。

 場内が突然、漆黒の闇に変わり、仁王立ちになった安田さんが液体を一飲みしてから(少し苦しそうな気配に見えました)、やや間合いをおいて、着火のためのタイマツ様の棒で一気に噴出す液体に火をつけると、ばあーっつとアートスペースのほとんど半ばまで紅蓮の火炎がほとばしり、観客はただのけぞるだけす。たしか、その日は気合が入っている安田さんは数回、火吹きをやったような覚えがあります。

翻訳についてPart4:「“ものうりかふべき、ちぎりのしるしふみ”とは?」からのスピンオフ:“不平等条約”は実は近代化に貢献?

2012 8/24 総合政策学部の皆さんへ

 「翻訳についてPart4:“ものうりかふべき、ちぎりのしるしふみ”とは? 英語を大和言葉で考えると」のスピンオフ編として、「“不平等条約”は、ある面では、日本の近代化に貢献していた」、これが今回のテーマです。「いわゆる“不平等条約”によって、明治政府ならびに日本国民が長らく苦しめられてきた」という歴史的見解は、日本人ならば誰でも、教科書ならびに各種の書籍で刷り込まれているところですね。私もそうだし、皆さんもそのはず。ところが、この件で調べていると、以下の記事が目につきました。この記事通りだと、「不平等条約」は、(あくまでも関税自主権のレベルだけですが)、日本の近代化を促進した?!

 殖産興業 富国強兵と、日本では明治政府の集権的な政策が奏功したと見る向きが強い。しかしフリードマンは、明治政府は 「経済全体でなされる投資の総額や方向性を管理しようとしたり、国民総生産の構造を統制しようと試みたことは、一度もなかった」と見る。さらに関税自主権が当時なかったことで逆に低関税となり自由貿易が促進されたことが、成長を促進したと評価した日経新聞2011年12月27日;土居丈朗慶応義塾大学教授)。

 「えーっ」と思う方もいるでしょう。例えば、Wikipediaでは、「不平等条約」の項に以下のように記されています。

 歴史的には、イギリスと清国がアヘン戦争後の1842年にむすんだ南京条約が近代的な意味での「不平等条約」の嚆矢となった。(中略)これは、中国の半植民地化を促した。日本も封建制度の体制下で欧米の近代法にある法治国家の諸原則が存在しておらず、刑事面では拷問や残虐な刑罰が存置され、民事面では自由な契約や取引関係を規制して十分な保護を与えていなかったために、欧米列強からはその対象国であると考えられていた。

  一方で日本の側でも認識不足があり、外国人を裁く事の煩雑さを免れる事と、関税という概念を十分に理解していなかったことから、結果として不平等条約を結ぶ事となった。江戸幕府が日米和親条約日米修好通商条約で長崎、下田、箱館、横浜などの開港や在留外国人の治外法権を認めるなどの不平等条約を結ばされ、明治初期には条約改正が外交課題となっていた。

 これが、日本人の学生にはずっとすり込まれてきたことのはずです。そして、「関税自主権」について、Wikipediaでは以下のように説明されています。

 関税(関税自主権)が無いと、外国から安い物品が無制限に入ってきてしまう。一見良いことのように思えるが、そうすると安い外国製品に押されて自国の産業の空洞化を招いてしまう。同じ製品であれば、消費者は普通安価なほうを購入する。すると、自国の(外国製よりは割高な)製品を売って生活をしている人が儲からない(中略)。

  このような状態にならないように、自国産と輸入品との価格差を調整して、自国の産業を守るため、関税というものが存在している(中略)。この関税を自国で自由に設定できる権利を関税自主権という。

 そして、日本の幕末から明治にかけて、

 安政条約によって日本は関税自主権のないままの開国を迎えることになるが、当初は輸出税は一律5%、輸入税は1類(金銀、居留民の生活必需品)は無税・2類(船舶用品・食料・石炭)は5%・3類(酒類)35%・4類(その他)20%であり、神奈川開港の5年後には日本側から税率引上の協議を要求できる、関税賦課は従価税であるという日本側も決して不利益とは言えないものであった(従量税で引上協議の要求できない天津条約を結ばされた清朝中国に比べればの話であるが)。

  ところが、改税約書によって主要な輸入品89品目と輸出品53品目を当時の従価を基にした5%の従量税とし、無税対象を18品目・その他は一律従価5%に改められた。従価税であれば、価格が上昇すれば関税収入もそれに比例して上昇するが、従量税であれば価格に関わり無く量に応じた関税を払えばよく、幕末の混乱期のインフレによって事実上の関税免除に近い状態になってしまったのである。

 そのため明治政府は、輸出関税自主権回復と領事裁判権撤廃に血道を上げることになる。欧米列強との間に初めて関税自主権を回復できたのは、日露戦争後に1907年に締結された日露新通商航海条約であった。その後、1911年にアメリカを始めとする他の列強は日本と平等条約(日米通商航海条約など)を締結し、完全な回復は現実となった。それに大きく貢献したのは、小村壽太郎である。

 ということで、これに決着を付けるには、ノーベル経済学受賞者ミルトン・フリードマンの著書に目を通さねばなりません。

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 それで調べてみると、どうやら該当の書はフリードマンが1980年に著した(日本での翻訳・出版も同年)『選択と自由(Free to choose)』(西山千明訳、日本経済新聞社)のようです。上ケ原に行ったついでに、多くの(皆さんの)先輩たちが目を通したために表紙もすりきれかけた本をめくると、「国際貿易」という小見出しの文章でp.66に次の一節が目につきます。

自由な国際貿易こそが通商国だけでなく世界全体のためにも最善の利益になるという点に関しては、すべての経済学学者が事実上の完全な意見の一致を見せてきた。ところが、関税はいまやありふれたものとなってしまった。これに対する唯一の主要な例ががあるとすれば、1848年における穀物法廃止後における、大英帝国のほとんど1世紀間にわたった自由貿易であり、明治維新後の日本における30年に及んだ自由貿易であり、今日の香港の自由貿易である。

 ついで、p.104で上記、土屋先生の引用した部分が、インドの1947年からの中央集権的計画経済と対比されて出てきます。

明治維新後の最初の30年間、日本は国際協定にしたがって、5%以上の関税を付加することを禁じられていた。この制限は、当時の日本においてはおおいに日本人の恨みの対象となったものだが、実際には日本経済にとってまぎれもない幸運であることが事実によって、ますます明らかとなった。(中略)

日本が市場に依存したとき、はじめは隠されており、そんなものがあると想像さえされていなかったような国民の精力や発明の才が、解放される結果となった・・・・・自由市場に依存することによって、日本の経済発展が、効率という厳しいテストにパスするものでならなければならなかったのだ。

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 しかし、そもそも関税とはなんなのか?

 Wikipediaで調べると「関税(かんぜい)は、国内産業の保護を目的として又は財政上の理由から、輸入貨物に対して課される税金で、間接消費税に分類される」とあります。なんと、関税は(その国民にとっては)消費税なのですね!

 つまり、関税によって、政府は国内産業に関係する少数者に対して恩恵を与え、税金で自分の懐も暖まる。しかし、その金は究極的には、本来安い輸入品から利益をえられるはずの多数者から搾り取ったものにほかならない。さらに、産業も市場経済に鍛えられる機会を逸して、真の成長が訪れない、ということなのかもしれません。

 経済学にまったくオンチである私に、この理屈がなんとなくわかるのは、かつて社会主義経済体制によって自国を立て直そうとしたタンザニアに(JICAの派遣専門家として)2年間滞在していた時期に、関税がおそろしく高かったこと、さらには関税に関して理不尽と思えるような要求がしばしばあったことです。

 例えば、奢侈品とみられたラジカセは700%の関税なのですが、その対象は外国人観光客でさえ同じです。したがって、
入国時に新品として購入時の値段の7倍に相当の外貨をデポジットせよ
そうしないと、お前はラジカセをタンザニア国内で関税抜きに、不法に売って儲けるかもしれない
出国時にもそのラジカセを持って出国することを確認したら、タンザニア国内で闇値で売るために持ち込んだものではなく、真正の私物だと認めるから、そのデポジットを返してやる(ただし、外貨ではなく、タンザニアシリングで、という危険性が大)」
というわけですが、皆さん、この論理がすぐにわかりますか? わからなければ、社会主義体制のアフリカで商売するのはあきらめたほうがよいかもしれません。

 もちろん、これは理由があります。統治能力も、税金の回収能力も危うい低開発国にとって、関税は「国家財政を確保する手段として重要な収入源になっている場合がある」のです(Wikipediaより)。

 広義の間接消費税=関税に頼るしかない、というわけですが、フリードマンからすればそれは自由市場経済に背を向けた行為にほかなりません。

 明治期の日本政府、というよりもむしろ日本人民は、強制された形での自由市場経済に、自らの知恵をふるって勝ち抜いたことこそ重要なのだ、というのがフリードマンの真意なのでしょう。

マンガ(コミック)で世界を知ろうPart4:チェーザレ、毀誉褒貶の栄光#2:「君主が特に獣の方法を取らねばならぬ場合には、彼は狐と獅子を選ぶべきである」

2012 8/17 総合政策学部の皆さんへ

 毀誉褒貶の彼岸を生きるチェーザレ・ボルジアを描くコミック『チェーザレ 破壊の創造者』を紹介した#1に続き、#2です。本日の標語は、チェーザレに触発されて近代政治学の扉を開いたフィレンツエ共和国政府第2書記長あがりの思想家二コロ・マキャッヴェリの『君主論』から、「君主が特に獣の方法を取らねばならぬ場合には、彼は狐と獅子を選ぶべきである(第18章)」をあげましょう。

 ヒトのアーキタイプを動物に例えるこの表現法、狡猾な“キツネ”と獰猛な“ライオン”、この二つを兼ね備えたパーソナリティこそ、ルネサンスの時代を生き残びる支配者の理想像なのす。ひ弱で“良心的”な現代人からは「トゥーフェイス(二つの顔)の使い分けではないか!」と非難されかねません。

 しかし、15~16世紀のイタリアという激動の時代・地域で、己が生き抜くためには二つの顔を使い分けること(=ダブル・スタンダードを使い分けること)も大事なことでした。

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 とは言いながら、場合に応じて二つの顔を使い分けているとわかってしまえば嫌われるのがふつうで、皆さんとしては「一つの顔でとことん人生を貫いて欲しい」と思うでしょう。

 そのあたりが、英語でまさに“獅子”に例えられるアリエノール・ダキテールの秘蔵子、戦いのことしか頭にないリチャード1世獅子心王(Richard the Lionheart)がイギリス人に人気がある所以です(『ロビン・フッド』には、脇役で登場です)。

 フランスではさしずめ、己が支配するブルゴーニュ公国レゾン・デートルあるいはディスティニーを仏独2大強国間での独立政権樹立と見なし、フランス王ルイ11世に対抗したシャルル突進公(豪胆公、無鉄砲公、突進公、猪突公、軽率公)あたりが、永遠の人気を誇っています。シャルルにつけられた多くの渾名が示すように、みんな“一図”な人がすきなのです。

 しかし、「それでは本人たちの物理的生命さえ保証できないよ」とマキャベリストたるシャルル7世やヘンリー7世ならばつぶやくところでしょう(事実、シャルルもリチャードも戦死、あるいは戦傷が元で命を落とします)。

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 もっとも、この時代、容易なことでは生き残れません。多くのものが、トゥーフェイス(Two face)の使い分けにさえ失敗して、挫折します。『チエーザレ~破壊の創造者~』第9巻を少しでもひもとけば、世界史に詳しい人たちはすぐにわかるはずです、ほとんどの登場人物たちがいずれ悲惨な運命を辿ることを。

 例えば、9巻で登場のミラノの潜主ルドヴィーコ・スフォルツァは、兄でもある先の公爵ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが暗殺された後、幼い甥のジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの摂政に就きながら、権謀術策をめぐらし、甥から政治的権力を奪取、1494年、ついに正式にミラノ公爵の地位について簒奪に成功します。

 当時のイタリアの5大国家の一つミラノの実権を握った彼は、ルネサンスの天才たちの最高峰の一人レオナルド・ダ・ヴィンチを駆使して宮廷文化を華やかに展開しますが、やがて、彼の野望は次々に悲劇の連鎖を呼ぶこととなります。敵を倒すために、もう一つの敵を頼ることを繰り返した彼は(この構図は当時のイタリアそのものでもあります)、最後の最後、スイス兵の傭兵隊長に裏切られてフランス王の手に渡され、投獄・獄死を遂げる羽目になる。

 第9巻の幕開けはそのルドヴィーコの絶頂期にあたる1492年ですが、いつも人を裏切っていた彼自身が通称“ノヴァラの裏切り”で人生を清算させられるのが1500年、死よりもおそるべき恥辱まであとたった8年です。

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 ちなみに、イタリアの歴史作家で『ルネサンスの歴史』の著者インドロ・モンタネッリは、ルドヴィーコ・スフォルツァをこう紹介します。

 「ミラノ市民は「イル・モーロ」という綽名で呼んでいた。ムーア人、黒人の意味で、肌も目も髪も黒かったからである。ルドヴィーコはこの綽名が気に入り、ムーア人風の衣装や徽章を愛用し、黒人奴隷を身辺に置いた。長身で堂々たる体躯だったが、美男子ではなく、顔立ちは不ぞろいで、鼻は鷲鼻、えらが張り、唇は薄く引き締まって、表情にはいつも他人に命令し慣れた尊大さがうかがわれた。美女と美食を好んだが、耽溺することは嫌った。野心に充ち、厚顔で、懐疑的なくくせに迷信深く、度量は大きいが嘘も平気でついた。フィレルフォを家庭教師として学んだからラテン語とフランス語に堪能で、哲学論を好み、美術にもいいセンスを持っていた」(藤沢道郎訳)『ルネサンスの歴史』より)。

 ところで、イル・モーロの愛人の一人チェチーリア・ガレラーニはダ・ヴィンチの手によって、“白貂を抱く貴婦人”として今日まで、その美貌と若さを永遠にとどめています(イル・モーロの失脚後もこの絵をずっと手元においていたチェチーリアはある日、客に見せながら、「この絵が描かれた時、私はまだ若く、美しかった」と言ったとのこと)。現在、ポーランドのNational Museum, Czartoryski Collection所蔵ですが、京都で公開時に目にすることができました。

 このイル・モーロについて、モンタネッリは「だが、どんな祝祭もいつかは終わる」と続けます。ナポリ王国との関係が悪化したイル・モーロは(それがまさに9巻の内容ですが)、強国ナポリに対抗して、フランスと同盟します。しかし、さらにどんでん返しとして、そのフランスがなんとミラノ攻略に乗り出し、イル・モーロは結局獄死を迎えることになるのです。

 モンタネッリは「後世の歴史家の評価はまちまちである。ある者はかれを卑劣な裏切者と呼び、ある者は良心に欠けた野心家、冒険家と見る。実際にはかれは、当時のすべての専制君主と同じく、その両方の混合物だったのである」と締めくくります。

 この両面の怪物イル・モーロの愛人チェチーリアと芸術官僚ダビンチ、この二人が一瞬交錯するその結晶が、上記“白貂を抱く貴婦人”なのです(画像はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:The_Lady_with_an_Ermine.jpg)。

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 さて、毀誉褒貶はなはだしきトゥーフェイス的人物と言えば、もう一人、『チェーザレ~破壊の創造者~』でいわばチェーザレの敵役として登場するある人物を紹介しなければいけません。はたして宗教改革の先駆者というべきか? あるいは中世的狂信的なファンダメンタリスト=“フェラーラの偽預言者”なのか?

 いまだにどちらとも決めがたい毀誉褒貶の評価を受けるドミニコ派の修道士ジロラモ・サヴォナローラ。どうやら作者惣領冬実は(少なくともこれまでの描写から判断する限)、塩野七生同様にサヴォナローラ嫌いのようです。

 15世紀末、ロレンツォ・デ・メディチ絶頂期のフィレンツェに登場、圧倒的な説得力で民衆を説教、ロレンツォの死後、ついにメディチ政権を打倒して、いかにも中世的な神権政治をフィレンツェに展開します。ユマニズムを敵視し、風紀引き締めを図り、娯楽をすべて禁止、歌謡曲も、賭博も、舞踏も、競馬も法度、同性愛も厳しく罰せられたと言います。

 フィレンツエの女たちは、これも一種の流行だと考え、修道院長(=サヴォナローラ)の作り上げたこの独裁体制を受け入れた。化粧をやめ、口紅もアイシャドウも捨て、入浴さえも虚飾のすべだとしてやめてしまった」(『ルネサンスの歴史』)。修道院長はフィレンツエを地上の天国とすべく獅子吼します。なお、下の説教中の「国家は祈りを唱えながら統治できるものではない」とは、ロレンツォの祖父、コジモ・デ・メディチの台詞です。

 まず心の改革からはじめなければなりません。健全な心、健全な宗教があって初めてこの世の財や富もあるのだから、財や富をそのためにささげなければなりません。『国家は祈りを唱えながら統治できるものではない』などと言うのは、市民を抑圧するための僭主の言葉です。もしよい政治を望むなら、まず政治を神様にお返しすることです。

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 とはいえ、その“良き政治”政治が刑罰、拷問、密告等で支えられているとしたら? そして、たとえ宗教的なものであり、「どんな祝祭もいつかは終わる」。神のスポークスマンを自認するサヴォナローラは、同時に、腐敗の塊であるローマ法王庁を敵としてしまい、さらには法王庁と敵対する各国(フランス等)と結ぶことで、その基盤が次第に崩れだす。神権を唱えながら、必然的に俗権に口をだすことが、果たして真の宗教家なのか?

 そして、民衆を魅了する神からのお告げ=“霊夢”は果たして真実なのか? フィレンツエでは、賛成派(サヴォナローラの説教を聴いては泣くので“涕泣派”と呼ばれ)と反対派(サヴォナローラの態度に激怒して反対したために“憤怒派”と呼ばれる)間の暴力争いを呼び、その最後の結末として、己の立場を証明するため“火の審判”に直面したサヴォナローラ派は事態の収束に失敗。サヴォナローラは民衆の支持を失い、ローマ法王庁の罠におちて、自らの罪を認めさせられ、絞首・火刑に処せられます(第9巻よりは、ずいぶん後になることでしょうが)。

 こうして「ルネサンスまで生き延びてきた中世は、サヴォナローラとともに埋葬された」という歴史家デュラントの言葉を宜うか? それとも、やがて勃興する宗教改革の先駆と認めるのか? たんなるマッカーシーの先駆者か、それともヤン・フス以来の偉大な改革者・殉教者の列に並ぶのか?

 功罪図りがたいサヴォナローラの生涯について、モンタネッリは以下のように結びます。彼は、サヴォナローラにデマゴーグであることを認めながらも、既存カトリック体制への反抗精神がやがて時代の流れとなったことを評価したいのです。

 神学上の問題はさておき、20年後に起る宗教改革の旗印となった道徳的養成を、サヴォナローラは確かに先取りしていたのである。聖者のように生き、自らの信念に殉じたこの人物が、お告げを語るデマゴーグ、先導者でもあったことは、なんらその偉大さを損なうものではない。

 一方、同時代人ニコロ・マキャヴェリは、サヴォナローラの「地上の権力者」としての側面を重んじ、政治的権力を握った者(狐)は武力(獅子)をも軽視してはいけない例として、『君主論』でこう論じています。

 もしモーゼやキュロスやテセウスやロムルスが武力を有していなかったとしたら、彼らが設けた法制を長く人民に守らせることはふかのうであったろう。それは現代において僧ジロラモ・サヴォナロラの事件に見るように、彼は人民の信を失うようになると、自ら作ったところの新制度によって身を滅ぼした。しかもサヴォナロラは彼を信頼していた者をしっかり把握していく方法を持たず、不信の徒をして信じさせる手段をも持たなかった。だからこのような人が自分の行動を処置していくためには大なる困難に遭う。途上にはあらゆる危険が待っている、でも自分の実力によってそれらに打ち勝たなければならぬ。しかしそれに打ち勝ってしまえば、進んでこの成功を羨んでいた連中の根を絶やしてしまった暁には、やがて尊敬されてきて、権勢と安定と栄誉と幸福をつづけるのである。

 つまり、神のスポークスマンとして、己の弁舌のみを信じていたサヴォナローラは、その“狐”としての側面のほかに、“獅子”としての要素が必要だった、というのかもしれません。つまりは、トゥーフェイスの使い分けをしくじった/わきまえなかった、というのが政治的リアリストをめざし、神の言葉なぞ信じもしなかったマキャヴェッリの結論です。

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  ということで、今回はチェーザレの善と悪のトゥーフェイス的魅力まで行く前に、脇役二人、イル・モーロとサヴォナローラの紹介で終わってしまいました。

生き物を紹介しましょうPart8:ロンサム(一人ぼっちの)・ジョージ、あるいは大洋航海のための素敵な保存食

2012 8/14 総合政策学部の皆さんへ

 今回のタイトルの後半にはなんとなく“悪意”がこもっているような自覚がないわけではありませんが、とりあえず、皆さん、“ロンサム・ジョージ”はご存じですね? あの『ゴルゴ13』第288話にまで登場した世界でもっとも有名な爬虫類の1頭。

 すでに絶滅したと思われていたガラパゴスゾウガメの1亜種ピンタゾウガメ(Geochelone nigra abingdoni)最後の生き残りとして、1971年に再発見されるも、ついに仲間も伴侶も見つからないため、“孤独なジョージ”という呼び名がつきました。その彼も、つい先日の2012年6月24日、推定100歳の齢でついに永眠、ピンタゾウガメは今度こそ絶滅したようです。

 ちなみに享年100歳は、長寿のカメの世界では“中年”ぐらいだそうです。体重は88kg、体長が102cm(Wikipediaより;なお画像はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Lonesome_george.jpg)。

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 ガラパゴスゾウガメは、皆さんもご存知のように、“進化論”の主唱者チャールズ・ダーウィンに“自然選択”についてのヒントを与えた動物として、同じガラパゴス諸島に生息するガラパゴスフィンチと同様に有名です。Wikipediaによれば、「最大甲長130cmとリクガメ科最大種。体重300kg。背甲に筋状の盛り上がり(キール)は見られない」「鼻孔は円形で、アルダブラゾウガメと区別できる」。

  ガラパゴス諸島は123以上の島・岩礁からなりますが、リクガメたちは主な島ごとにそれぞれ形態が異なる12~15の亜種に分類され、ダーウィンに「かつて島に流れ着いた祖先型から、各島に隔離されたカメが長い時間の間に、独自に進化したのではないか」と発想させて、“進化論”のきっかけになりました。

 このガラパゴス諸島の(ヒトによる)発見は1535年ですが、それは同時に、平和に暮らしていた爬虫類や鳥類にとって悲劇の幕開けでした(大洋に孤立したこの島々には、二足歩行をする獰猛な中型哺乳類=ヒトも、あるいは植生を食い荒らす中型の草食獣=ヤギもいなかったのです)。とくにゾウガメは住民に消費されるだけにとどまらず、基礎代謝が低いために長期間水や餌を与えなくても船の上で生きている。

 つまり、(まだ冷蔵庫等ない時代の)海賊船や捕鯨船にとっては大洋航海中の「素敵な生きた保存肉」だったわけです。そのあたりをダーウィンの『ビーグル号航海記』の1835年9月23日の記述から紹介しましょう。

 住民は貧乏なことに不平を訴えていたが、大した労力も払わずに、生活の手段を得ていた。森には野生(野生化)したブタや、ヤギが多いが、主要な動物性の食料はカメによって供給されていた。カメの数はもちろん、この島では非常に少なくなった。しかし島人は2日間の狩りで、その一週間分の食料が得られると予期している。以前は一隻の船で700匹を持ち去ったとも、またあるフリゲート艦の乗組員は、数年前に、1日に200匹のカメを浜に下ろしたともいわれている。(『ビーグル号航海記』(島地威雄訳)。

 10月8日には、ダーウィンはカメ肉の味について感想を書きつけます。

  この高所に留まっている間、われわれはまったくカメの肉だけで生活した。胸の甲良はその上に肉を載せて焼くと(ゴウチョたちがカルネ コン クエロをするように)、非常にうまい。また若いカメは上等のスープになる。その他にはこの肉は私の好みには合わない。

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 その10月8日の記述は、もちろん、カメ肉の味だけでは終わりません。いずれダーウィンの運命も、そして世界の思想も変える大発見、進化論への序曲として、ダーウィンフィンチの形態的変異や、ウミイグアナとリクイグアナに関する記述に続いて、

 私はこの群島の博物について、最もすぐれて著しい特色をまだ挙げなかった。それはそれぞれの島に、それぞれ異なった生物の群が相当に多く棲んでいることである。副知事のロースン氏が、カメは各々の島によってそれぞれ異なっており、彼の面前に盛ってくれば、どの島のものか確かに判別すると断言したことで、私ははじめてこの事実に注意した。(中略)ある地方で、最も興趣のあるものを発見しても、すぐ急いでその地を去らざるを得ないのは、ふつう航海者の運命である。だが私はこの生物の分布に関するきわめて著しい事実を立証するだけの十分な材料を得たことを、おそらく感謝すべきであろう。 

 

  じりじりと進化論の本質にせまりつつあるダーウィン。しかし、『ビーグル号航海記』を執筆時点では、まだ若き航海者/探検家として、その奥底までは覗き込むにはまだ至っていません。アルゼンチンの豪快な焼き肉料理であるカルネ コン クロエcarne con cueroを映した画像が以下のサイトに出ています:http://www.taringa.net/posts/recetas-y-cocina/1311977/asado-con-cuero.html。豪快ですね、ウシの腹開きとでもいいましょうか。

 

 ガラパゴス諸島の測量が済み(それがビーグル号の冒険のそもそもの目的なのですが)、ダーウィンたちが去った後も、ゾウガメたちの災難は続きます。現在までに、少なくとも3亜種が絶滅に追い込まれています(サンタマリアゾウガメ Geochelone nigra nigra;フェルナンディナゾウガメ Geochelone nigra phantastica; Geochelone nigra wallacei)。
 
 そこに1971年の再発見以来、実に40年にわたって同亜種の伴侶が見つからなかった(異亜種のメスとの間に繁殖させる計画はあったようですが)ロンサム・ジョージの死によって、ピンタゾウガメもGeochelone nigra abingdoni 加わることになるのです。

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 さて、獰猛な中型二足歩行哺乳類(=ヒト)の前に、カメは格好な食べ物に映ります。その結果、世界中からカメが減っていく。リクガメの仲間では例えばアルダブラゾウガメがそうですし、産卵場所が限られるため大量捕獲されやすいウミガメ類はさらに危ない立場にあります。

 まず、絶滅寸前 (CR : Critically Endangered)が 3種(タイマイ Eretmochelys imbricataケンプヒメウミガメ Lepidochelys kempiオサガメ Dermochelys coriacea)、絶滅危機 (EN : Endangered)が 3種(アカウミガメ Caretta carettaヒメウミガメ(タイヘイヨウヒメウミガメ) Lepidochelys olivaceaアオウミガメ Chelonia mydas)、そして情報不足 (DD : Data Deficient)が 1種(ヒラタウミガメ Natator depressus)。つまり、ほとんどのウミガメ類は絶滅に瀕しているというわけです(Wikipedia)。

 カメ料理としてもっとも有名なものの一つは、アメリカ南部料理でも有名なカメスープ“Turtle soup”ですが、これにもっともよく使われるのはGreen sea turtleことアオウミガメだそうで(英語版Wikipediaによる)、大丈夫なのでしょうか? 英語版には“In many jurisdictions, turtle soup is illegal because many species of turtle are considered threatened or endangered, and cannot legally be captured and killed. Generally speaking, turtle populations cannot quickly recover from the loss of a breeding adult, thus, killing these turtles to make soup can depress populations below sustainable levels”と書かれています。

 ところで、Turtle soupには代用品として、高価なカメ肉を子牛等で模倣する“Mock turtle soup”がすでに18世紀からあるそうです。“Mock turle”と聞けば、思い出す方も多いでしょう。日本語訳では“カメモドキ”、“代用海ガメ”等と書かれていますが、『不思議の国のアリス』の登場人物のうちの一人(一頭)です。読んだ方は覚えていますか?

政治における責任の取り方Part1:“切腹”について

2012 8/9 総合政策学部の皆さんへ

 今回はちょっと変わったテーマかもしれませんが、「政治における責任の取り方としての“切腹”の変遷」です。これをとりあげるきっかけは、しばらく前に、現在放映中の大河ドラマ『平清盛』を観ているうちに、とくに源為義源義朝父子の愛憎と政治的立場に感じたことです。

 それにしても、このケース、実の息子が父親の首を落とす。それが息子の心に重い重い枷となって、やがて息子の政治的死命まで暗転させることになる、という重苦しい展開です。もちろん、皆さんはご存じでしょうが、洋の東西を問わず、“中世”という時代は親子兄弟(=取って代われる者たち)の間で愛憎入り混じったやりとりが展開、親子間での裏切りも殺し合いもさほど珍しくはない時代でした。

 例えば、“造化の間違い”と言われるほどの巨腹の持ち主、アンリ・ド・プランタジネットことイギリス王ヘンリー2世が、(ヘンリーと結婚する前には、なんとフランス王ルイ7世の妻であった)煮ても焼いても食えない11歳年上の妻アリエノール・ダキテーヌと争ったあげく、アリエノールの子供たち=つまり自分の息子たちすべてに裏切られる(歳の順にヘンリー若王リチャード1世獅子心王ジョフロワ2世[ブルターニュ公]ジョン欠地王)。

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 このイギリス王家の人々の陰惨にして豪快なまでに、寒々とした人間関係の極致=戯曲・映画『冬のライオン』の舞台が、1183年のクリスマスのシノン城だとすれば、恐るべき改革政治家信西の命によって、義朝が実父為義の首を切るのが保元元年(1156年)7月30日(西暦で8月17日)。

 ちなみに為義の享年61歳、義朝34歳、その義朝が父の首を切ってまで追い求めた政治的地位から転落、平治の乱によって自らの死を迎えるまであとわずか3年半ほどです。

 その義朝の苦悩の再現をテレビで観ながら、まず感じたのは「為義がおめおめと生き残らず、自らの政治的責任を一切リセットする手段=切腹によって自らの政治的責任を決着させていれば、息子の義朝だってここまで悩まなくてもよかったのに!」ということでした。

 つまり、このケース・スタデイにおいて、“切腹”が果たすべき最も先鋭な社会学的意義とは政治的責任のリセット=切腹によって息子の義朝に“フリーハンド”を与えることなのです! しかし、この時期、為義に果たして切腹という社会的手段を思いつくことができたのか? それで少し調べてみました。

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 まず、切腹が何時から始まったか? 実は、なんと為義の死後なのです(と言っても、彼の息子為朝が始まりなのだそうですが)。Wikipediaでは、切腹とは

 自身や臣下の責任をとり、自身の身を以ての存続を保とうとする行為。近世からは、自死のみならず処刑の方法としても採用された。腹切り(はらきり)・割腹(かっぷく)・屠腹(とふく)ともいう」、そして「切腹は、平安時代末期の武士である源為朝(1139年(保延5年) – 1170年(嘉応2年))が最初に行ったと言われている。
 これとは別に藤原保輔(ふじわらのやすすけ)が988年(永延2年)に事件を起こして逮捕された時に自分の腹を切り裂き自殺をはかり翌日になって獄中で死亡したという記録が残っているが、彼の場合は切腹の趣旨である、己の責任を取る意図だったのは明確ではない。

 つまり、為義が切られた時には、(社会的儀式、あるいは社会的装置としての)切腹は存在しなかった。となれば、為義としても義朝にフリーハンドを与えることを思いつかなかったのも当然です。

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 それでは、為朝以前に、政治的責任を迫られた人々はどのような形で自死を遂げるのか? 例えば、平治の乱の実に346年前、律令にもとづいて死刑が宣告された稀な例としての薬子の乱(810年)では、立役者の一人とされた藤原薬子は毒を仰いで自死しました。また、薬子よりもさらに以前の皇極2年(643年)、蘇我入鹿に追い詰められた山背大兄王は一族もとろも首をくくって自害しています。

 武士でも、為義以後の平家物語において木曽義仲一の郎党今井兼平義仲の戦死を見て、「今は誰をかかばはんとて、軍をばすべき。これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ」と言い、太刀の先を口の中に含み、馬上から飛び降り、太刀に貫かれ自害」しています(Wikipediaより)。

 その後、壇ノ浦に追い詰められた平知盛平教盛らも入水するなど、平家物語の時点では切腹は少数例にとどまるようです。当然、上記で紹介したWikipediaの記事のように「自身や臣下の責任をとり、自身の身を以ての存続を保とう」というメッセージ性はまだまだ薄いものだったかもしれません。

 これが平治の乱から200年後の太平記になると雰囲気は一変、切腹は社会的儀式として普及・定着します。例えば、最後の六波羅探題北条仲時は京都からの逃亡中、近江国番場峠の蓮華寺で進退窮まり、一族郎党432人がともに切腹に至ります。その際の記録が『陸波羅南北過去帳』であることは広く知られているところです。

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 そして、時代も過ぎた元禄15年12月14日(西暦1703年1月30日)、久しく太平の夢をむさぼる江戸の町を震撼させた元禄赤穂事件(いわゆる忠臣蔵)において、吉良屋敷に討ち入り、吉良上野介義央の首級をあげます。

 この旧主浅野内匠頭の恨みを晴らした46士に対する処置になやむ徳川綱吉柳沢出羽守に、一代の碩学儒者荻生徂徠は以下のように、死罪とは言え、名誉ある措置としての切腹を進言、採用されます。

 義は己を潔くするの道にしては天下の規矩也。を以て心を制し義を以て事を制す、今四十六士、其の主の為に讐を報ずるは、是侍たる者のを知る也。己を潔くする道にして其の事は義なりと雖も、其の党に限る事なれば畢竟は私の論也。其の所以のものは、元是長矩、殿中を憚らず其の罪に処せられしを、またぞろ吉良氏を以て仇と為し、公儀の免許もなきに騒動を企てる事、法に於いて許さざる所也。今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤も公論と云ふべし。若し私論を以て公論を害せば、此れ以後天下の法は立つべからず。(Wikipedia)

 これが、儒教的秩序をめぐる根本原理たる義、忠、法、礼、そして“”と“”をめぐり、赤穂浪士の処断をめぐって沸騰する諸人の心を納得させ、綱吉にとって究極の政治的難問をクリアーする名解答なのです(=公共哲学ですね)。

 この徂徠の法論理展開について、ロー・スクールを目指す方々等は覚えておいても悪くないかもしれません。

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 もちろん、切腹さえも許されぬことがあります=つまり、同じ“死刑”であっても、切腹を許さず、不名誉な斬首刑に処すことで“究極の罪人”という烙印を押す。儀式化が進めば、そのスタイルを左右することによって、さらに“罪”と“罰”に陰影をつけさせる。死さえも、自分の意思でおこなうことは許されないわけです。

 上記浅野内匠頭では“庭先での切腹”(=座敷での切腹よりも不名誉な扱い)という形ではあれ、とりあえずは切腹ですし、太平の世に武士としての目標を見失い、“かぶき”を極めた結果、町奴幡随院長兵衛を謀殺した旗本水野十郎左衛門でさえ切腹が許される。

 その内匠頭や十郎左衛門らとはあまりに対照的な例として、例えば関が原後の石田三成の斬首があげられるでしょう。

 さらに権力者側の憎悪が込められた例としては、すでに御一新も進んだ明治7年4月13日、佐賀の乱の首謀者として大久保利通によって見せしめ的に死刑を言い渡されたという江藤新平がいます。一敗地にまみれた彼は、「除族の上梟首」という極刑に処せられのです。

アートについて:芸術家たちPart7:大衆むけ見世物の世界~人間ポンプについて余話~“

2012 8/5 総合政策学部の皆さんへ

大衆むけ見世物の世界~人間ポンプについて#1」では、稀代の見世物芸人安田里美さんをご紹介しました。それでは、そもそも私が安田さんを見に行った経緯にからめて、見せ物小屋についてもう少し紹介しましょう。

さて、今となってはかなり昔、1980年代の終わり頃ですが、京都大学を中心に開催されていた人類学の自主的研究会“近衛ロンド”で、鵜飼さんから“見世物小屋”の研究発表を聞いたのがそもそものきっかけです。

その時のテーマは、しかし、人間ポンプではなく、“牛女(うしおんな)”でした。その発表が私にとって印象的だったのは、実は、その牛女をさらにその数年前、八坂神社の境内に小屋掛けしている見世物小屋で実際に観ていたからです。?

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それでは、牛女とはどんな方だったのか? 実は、あきらかに身体障がい者で、年格好はすでに老女に差し掛かっていました。(私は形質人類学者ではなく、かつ薄暗い小屋の中で一瞬見ただけでしたから、しかと断言はできませんが)膝と肘の関節が普通の人と逆に曲がるような印象で、舞台に四つん這いになった姿は、本当に牛や馬の四足動物のような動きに見えるのです。

 もうお分かりでしょうが、#1でも安田さんについて触れたように、戦前、まだ児童福祉法等がない頃(児童福祉については暗黒時代と言ってもよいでしょう)、実の親が障がい児たちを(人目を避けるように)見世物芸の親方に売りつけ、その子供たちは「親の因果が子に報い・・・」等の口上のもと、一生を小屋の中で見せ物として過ごしていくこともないわけではなかったのです。

 鵜飼氏の話では、昭和昭和22年12月12日の児童福祉法制定以降、人身売買をともない基本的人権に反する見世物興行は禁止されたため、すでに老境にさしかかった“牛女”と“人間ポンプ”のお二人は、まさに最後の“見世物”なのだという顛末を聞きました。

 Wikipediaの「見世物小屋」の項にも、「昔は奇形の子供や性行為を覗き穴で見せるなど、文字通り何でも見世物にした。時には、誘拐された子供が人身売買で、足の筋を切られた被虐的な道化役や、覗き穴の娼婦にするため、見世物にされるために売り飛ばされてきた例もあったという。社会福祉が発達していなかった頃には、身体障害者の生活手段の一つだった。昭和50年以後には、身体障害者を舞台に出演させることに厳しく取締りを行うようになった」とあります。

 映画狂の方なら、あるいは思い出すかもしれません。戦後イタリアの「映像の魔術師」ことフェデリコ・フェリーニ監督の出世作とも言うべき『道(La strada)』(1956年アカデミー外国語映画賞)。
 男性主人公の大道芸人を演じるアンソニー・クインは、ある映画ではメキシコ人革命家の兄弟(『革命児サパタ』)、別の映画ではギリシア軍将校(『ナバロンの要塞』)、アラブの族長(『アラビアのローレンス』)、獰猛なまでの芸術家ゴーギャン(『炎の人ゴッホ』)、いかがわしい賭博家(『ワーロック』)、さらに脇役時代の作品では「インディアン、マフィアのドン、ハワイの酋長、中国人ゲリラ」等を演じた怪優(実は、父親はアイルランド人、母親はアステカ系メキシコ人)。
 『道』では野獣さながらの大道芸人ザンバノ(得意技はゴリラのように分厚い胸板で、その胸に何重にもまいた鎖を「んっ」と気合でぶっちぎる、というすさまじい荒業)を演じ、手伝い兼性行為の対象として知的障害のある素直な女(=いわば神にも近い)ジェルソミーナ(フェリーニの妻であるジュリエッタ・マシーナア)を金で買取り、道化役を演じさせながら、DVの限りを尽くす・・・・・これ以上はネタバレになりそうなので、ぜひ、原作映画をご覧下さい! 決して後悔しないと思います。

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 フェリー二の映画につい力が入りすぎましたが、しかし、「牛女」というテーマに人生の悲哀を感じて感激していた私にとって、鵜飼さんが「牛女」の発表からしばらく間をおいた次のテーマが“人間ポンプ”である。

 しかも本来は「親の因果が子に報い・・・・」と過酷な人生を強いられた安田さんが、いわば「何でもできる!」というスーパースターに転じる、という全体のストーリーにやや不満をおぼえました。

 発表後、鵜飼さんに「この前の(牛女の)発表では、人間のとことん暗い側面がにじみ出る見世物小屋のイメージに感激したんだけどね」と軽くなじると、「いやあ、とても暗い世界なので、こちらの方のテーマにしてしまいました」とやり取りした覚えがあります。

 というあたりで、“総合政策”がお分かりに成っていらっしゃる方には、このテーマが児童福祉法、人身売買、障害のある方々の生活手段、いわば“いじめ”にも似た“異形”の人たちへのむき出しの好奇心という欲望、・・・・・・・という課題に発展していくことが、ご納得できますね?

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 ところで、映画『ジェルソミーナ』はその哀切きわまりないストーリーと映像で知られていますが、音楽家ニーノ・ロータ作曲の主題歌も有名です。

 ニーノ・ロータはこのほか、フェリーニ作品では『甘い生活』、『81/2』等、同じくイタリアの鬼才“赤い公爵”ことルキノ・ビスコンティ監督の『山猫』、フランスのルネ・クレマン監督・アラン・ドロン主演の永遠の青春映画『太陽がいっぱい』など、多くの映画主題曲を作りました。

 それでは、ユーチューブから、http://www.youtube.com/watch?v=TIPVTznS_0E です。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...