2012年10月

総政100本の映画Part15:『最強のふたり』のご紹介、あるいは真に教養をもつ者はだれか? そして第6感としてのお金の使い道は?

2012 10/22 総合政策学部の皆さんへ

 久しぶりの映画紹介(1月15日の低予算映画について以来)ですが、現在、三田WMで上映中の『最強のふたり』のご紹介です。福祉、介護、移民、文化(の衝突)、そしてヨーロッパ社会に興味がある方にはうってつけの映画、それがこの『最強のふたり』かもしれません(アメリカではすでに米国版の作成が取りざたされているとのこと-『ドラゴン・タトゥーの女』のように、ハリウッド風の味付けをしてスウェーデン版の筋をなぞるだけ、ということにならねば良いですがね)。

 では、どんな映画かといえば、Wikipediaの記事を引用すると「『最強のふたり』(さいきょうのふたり、Intouchables) は、2011年のフランス映画。頸髄損傷で体が不自由な富豪と、その介護人となった貧困層の移民の若者との交流を、ときにコミカルに描いたドラマ。2011年にフランスで公開された映画の中で2番目のヒット作となった」「また、第37回セザール賞で作品・監督・主演男優・助演女優・撮影・脚本・編集・音響賞にノミネートされ、主演男優賞を受賞した」。

 ちなみに、フランス映画界最高の賞であるセザール賞の主演男優賞は、上記の富豪を演じたフランソワ・クリュゼとセネガル移民で(チンピラとしか見えない、その一方でチンピラの良さを一身に体現する)アフロ系の若者ドリスを演じたオマール・シーの二人がノミネートされ、後者が栄冠を勝ち取りました。

 とりあえず、“介護”とは何か? “生きる意志”とは何か? 移民の生活はどうか? ヨーロッパの伝統文化と新しい文化は? いろんな課題が皆さんを鍛えてくれるでしょう。

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 さて、これ以上の内容を私の口から付け加えるのは、そもそも映画に対する冒涜というべきものでしょうが、この映画にちりばめられているアイテム・情景に、ごらんになる皆さんはぜひ、気がついてくださいね。

 とくに、妻の難病、そしてその死、耐えられない現実から逃れようとして熱中したパラグライダーでの事故で、頸髄損傷で首から下が動かなくなり、「自殺する」ことさえできないフィリップ。その事故以来、ハンドルを握ることさえできないフィリップの愛車を見つけたドリスが狂喜する(免許もあやしげなくせに!)。

 マケドニアのピリッポス2世(アレクサンドロス大王の父)にもさかのぼる名前=フィリップは、たしかギリシャ語では「馬を愛する者」という意味だったのではないかと思います。そのフィリップが愛した現代の愛馬=愛車は、イタリアのスポーツカーメーカーマセラティクワトロポルテ

 1.9トンの車体に、V8DOHC、4244ccで400馬力をたたき出すこの車は、Wikipediaによれば「重量は約2トンという巨体であるが、操安性は極めてナチュラルである。さすがにライトウェイトカーと同様な軽快さはないが、コーナリング性能は巨体を意識させない程レベルが高く、ステアリングの切り込みと同時にノーズからインに入って行く感覚が伴う」なのだそうです。

 助手席にフィリップを乗せて運転するドリスの狂喜をさらに高めるようにエンジンが発する低音のリズム、そしてヴィバルディを演奏する管弦楽団をも巻き込んでしまうドリスの「アース・ウィンド・アンド・ファイアー」のパフォーマンス、そして終幕間近、ふたりで車を飛ばした後の北仏ダンケルク海岸での景色。

 ちょっとした事情でフィリップから離れた間に髭だらけになって、まるでビクトル・ユーゴーのようなフィリップの髭を剃るドリスはいたずらにも、ナポレオン三世風にもそしてなんとヒトラー風にも剃り上げて、そしてかつてのフィリップの顔があらわれる・・・

 そして最後、ドーバー海峡を望むレストランでドリスがフィリップに、思いもかけず開けてあげる新しい人生の始まり・・・・・なお、この映画は実話がもとだそうです。

 ユーチューブでは予告編がでています。次のアドレスなので、関心がある方はぜひ。http://www.youtube.com/watch?v=IfHOM7dPzZA 

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 ちなみに、ドリスはアラビア語の男性名イドリスの“イ”がいつの間に欠けてしまったとのことです。映画ではさらに「イドリスはフランスに移住したときにつけられた名で、本当の名前はバカリである」と紹介されます。ちなみに、“バカリ”はスワヒリ語でも男性名です。アラビア語起源なのでしょうね。しかし、本当の教養=生きるための力はこのドリスのような者が持っているのです。

 最後に、もしこの映画のストーリーにひっかかるところがあるとすれば、それは「フィリップの“強さ”が無限(に近く見える)お金がベースだ」という点でしょうね。日本等比べるべくもない階級社会のフランスにおいて、金持ちは金持ちたることを社会から是認され、かつ期待される(それがサルコジ氏が移民2世としてひたすら駆け上がろうとした世界というわけです)。

 しかし、もちろん、サマセット・モームが指摘しているように、「お金は第6感のようなもので、これがなくてはほかの5感が動かない」。だとすれば、フィリップはその使い方をそれなりの努力(とドリスのサポート)で体得した、それがこの映画の核心かもしれません。

食べることについてPart11:江戸の料理屋の世界#2;“料理屋”はどんな風に広がっていったのか? 図像学的調査法について

2012 10/9 総合政策学部の皆さんへ

  「食べることについてPart11:江戸の料理屋の世界#1」に続いて、第2弾です。“料理店”を研究するにはどうすればよいか? とりあえず絵本・絵巻物の類をさがしてみる、これが“図像学”の世界です。“浮世絵”や“草双紙の挿絵”、“絵巻”等に、我々が望んでいる情報がそのまま出てくるかどうかは、わからない。

 でも、探した結果、もしぴったりのものを見つけたら、それは一種のタイムマシーン(あるいはタイムカプセル)と言えるでしょう。ついでに、江戸情緒にひたるため、主にWikipediaに掲載の図のURLも付けておきます。

 まず、「歌麿 蕎麦屋」で画像検索しました。すると、木曽八景は寝覚の床近くの寛永元年(1624)開業という越前屋のサイトが目につきます(http://www.echizenya-soba.jp/history.html#yurai)。喜多川歌麿描くところの「越前屋そばの図」、そして十返舎一九作『膝栗毛 木曽街道膝栗毛』の挿絵が紹介されています。

 絵で客たちに供されているのは“蒸篭蕎麦”とのこと。店のサイトでは日本で3番目に古い蕎麦屋とのことですが、歌麿の生没年は1753~1806年ですから、創業してから150年~180年頃の絵になります。

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 一方、歌川広重はシリーズ『名所江戸百景』では、「日本橋通一丁目略図」(1858年)で東蕎庵という蕎麦屋の店先を、「虎の門外あおい坂」(1857年)では屋台の蕎麦屋を描いています(フードボイス連載シリーズ「第87話 広重が描く風景としての蕎麦屋」http://fv1.jp/chomei_blog/?p=1579より)。

 このシリーズでは、「びくにはし雪中」に大きく「山くじら」という看板が描かれ、これはイノシシをさし(山に住んでいるクジラの肉ような生き物ということで)、いわゆる「ももんじ屋」ですね。道をはさんだ向かいの店は「○焼、十三里」とありますが、これは焼き芋屋=「十三里」とは「九里+四里」のことで、その心は「栗よりうまい十三里」です。絵の中央にも、振り売りの商人が折衷を歩いていますが、これは「おでん屋」とのこと。

 さらに「上野山した」には「伊勢屋」という大店がのれんに「しそ飯屋」と大書していますが、1階に魚が並べられ(タイとヒラメのようですね)、2階は料理屋風です。なお、「びくにはし」と「上野やました」の版は初代広重の死後1ヶ月の出版なので、これらの絵は初代ではなく、2代(あるいは茶箱)広重の作かもしれないとのことです(Wikipedia)。

 それにしても、昔の大学院生時代に一ノ関圭の傑作『茶箱広重』で再現された二世広重の絵筆も混じているのかと思うと、ちょっと感慨深いものがあります。

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 一方、講談社版『日本の歴史17 成熟する江戸』では、吉田伸之氏が江戸中期の一大絵巻『煕代勝覧』を紹介しています。これは「文化2年(1805年)の江戸日本橋を描いた絵巻。作者は不明。縦43.7cm、横1232.2cmの長大な絵巻で、日本橋通に連なる問屋街とそれを行き交う人物が克明に描かれる」(Wikipediaに掲載の『煕代勝覧』全図はこちらを閲覧下さい。もっとも、えらい細長い図なので、400%ぐらいに拡大してようやく絵という実感がわきます)。

 さて、『煕代勝覧』で12mに渡ってつづく問屋街、その通りに面した表店を吉田氏の紹介から抜き出すと、本銀町交差点から本町2・3丁目まで瀬戸物屋、桐油屋、本屋、仏具屋等と並ぶなか、①藤屋(汁粉餅・雑煮)、②寿司屋(玉鮨庄兵衛)、③傘を広げた店でなにやら食べ物を商う者、そして④これもはっきりわからないが、液体を柄杓で甕から掬って売る甘酒屋か、煎じ茶屋?、⑤三河屋(蕎麦切、うどん)、そして⑥あさひ(お茶漬け)等が混じっているとのこと。

 この絵巻の制作年代は文化2年(1805年)とありますので、②の寿司屋が果たして江戸前の握りであったかどうかは予断を許しません(握りの寿司について、川柳の初出は浜田義一郎先生の名著『江戸たべもの歳時記』によれば、「鮓のめし 妖術という 身でにぎり(『柳多留巻108;文政12年、1829年出版、1827年成句)』,にぎり寿司の発明はおそらく1810年代とのことですから(「高畑ゼミの100冊Part9;食について#2」)。

 なお、江戸の蕎麦について、幕末の紀州田辺藩の医師原田某が江戸勤番中に著した『江戸自慢』なる書に「蕎麦は鶏卵を用いず、小麦粉にてつなぐ故に、口ざわり剛くて、胸につかへ、三盃とは食ひがたし、汁の味は至極美にして、若山(和歌山)の蕎麦を江戸汁にて食わば、両美相合して、腹の割けるを知らず食にや有らん」「鉢に入れ、汁をかけしを掛(カケ)と言い、小さき蒸籠に盛り、素麺の如くに食ふを盛(モリ)という(中略)必ず蕎麦屋には酒あり、しかも上酒なり」(竹内誠『江戸社会史の研究』弘文堂より)。

 この短い文章から、①和歌山を「若山」とも筆記していた。②和歌山では蕎麦打ちに鶏卵を使用していた(江戸時代は鶏をあまり食用とはせず、卵もそれほど食していなかったようです)。③和歌山にはモリがなかったようだ。④江戸の蕎麦屋では酒が出ることが普通だった(作家の故池波正太郎が強調するところです)。⑤江戸前の汁の味が良い=銚子産などの関東の醤油の質が向上していた、などがわかります(竹内、2010) 。

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 さて、絵を補完する物として日記の類も重要です。幕末万延元年(1860)、井伊大老暗殺に揺れる江戸の町に、紀州藩士酒井伴四郎が単身赴任します。

 28歳の彼は江戸での日々を克明に日記に書き付けますが、それに基づき、江戸の独身男性(ただし侍)の食生活を解説したのが青木直巳『幕末単身赴任下級武士の食日記』(NHK出版)です。この書から少し紹介しましょう。

 まず、江戸での最初の外食(なお、伴四郎の食生活は基本的に自炊です)は、やはり蕎麦。5月11日和歌山を離れた彼は、29日江戸に到着、紀州藩中屋敷の長屋に住むことになりますが、その日のうちに自炊道具や家具を買います。いわく「火箸、土びん、風呂火口[火吹き竹]、衣紋竹[現在のハンガー]、行平求め」(皆さんも卒業して就職すると、同じですね)、ついで「空腹になり蕎麦二膳喰、それより帰り」ます(同書、42頁)。

 そろそろ江戸に慣れてきたであろう8月25日には「今朝より少々鼻垂、風[風邪]ゆえ、そば屋え這入、皆の様茶碗盛りうんどんを喰。予は薬代わりに蛸永芋蓮根の甘煮にて酒二合呑候」とあります。風邪気味で蕎麦屋に入り、うんどんを喰い、タコ・ナガイモ・レンコンの甘煮で酒を二合飲む、という塩梅です(同書、75頁)。

 さらに江戸歩きにも慣れてくると、9月18日に日本橋近辺でまず“おはぎ”を食し、ついで京橋手前の店で“かしわ鍋”を注文しますが、でてきた鍋は「大にこわく其上腐り候と見へ」、一口食ったところで突き返し、“ハマグリ鍋”に変えて酒をのみます。

 ついで、“すいとん”を試しますが、これはあまりに下等な食い物で口に合わず、せっかくの外出が不調に終わったというわけです(同書、83頁)。

 こうして他の箇所もあわせれば、“どせうぶた鍋”、“うなぎ[たぶん蒲焼きか?]”(85頁)、“桜餅”“浅草餅”“すし”(133頁)、上野で“餅”、浅草月若で“蕎麦”、さらに“あなご、いも、タコの甘煮で酒を飲む”(139頁)、浅草の“祇園豆腐”で飯を食べ、さらに“蕎麦”と“ぶた鍋”を喫する(146頁)。

 そして9月26日は、王子権現の茶屋“扇屋”で、“大魚の刺身、あしらいに黄菊、大根おろし、胡瓜わさび、都芋と蛸の味煮しめ、魚の味噌汁”で酒3合を呑むという遊興ぶりです。なおこの日、茶屋には「異人ヲロシャ、アメリカ、フランス、イキリス四カ国の人物呑喰いたしおり大いに賑ふ」とあります。国際都市東京への創成期というべきでしょう。

 伴四郎が楽しんだ「扇屋」は創業1648年、料亭としては営業をやめたが、江戸時代から有名な玉子焼きを現在も販売しているとのこと(サイトはhttp://www.ougi-ya.jp/)。サイトによれば「落語の『王子の狐』の舞台も、この扇屋」とのこと。

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 それにしても、広重の「びくにはし雪中」にしても、伴四郎の日記にしても、結構、獣肉喰いが出てくるのは、幕末のせいなのか、それとも庶民もそれなりに肉食していたのか? そのあたりは興味があるところです。

食べることについてPart11:江戸の料理屋の世界#1;“料理屋”の出現

2012 10/4 総合政策学部の皆さん

 近年、江戸時代の再評価、とくに“江戸”の町の再評価をよく耳にします。なんといっても、江戸時代、一滴の化石燃料も使うことなく、100万人もの人口を支えたこの町を、究極の持続可能社会ととらえることも可能です。

 もちろん、その裏面もまた途方もなく暗く、深いものも散見されます。例えば、多数の若者[その多くは男性]が青雲の志を抱えて集まりながら、そもそも男女比が2:1の江戸の町で子を持つことはおろか、伴侶さえ得られずにむなしく異郷に死す。

 しかし、その後釜を狙ってまた若い連中が押し掛ける。こうして再生産率(出生率)が死亡率を上回ることはなく、流動人口が流れ込んでは死んでいく(その結果として、田舎の人口が持続可能なレベルで維持される)=アリ地獄社会であった・・・・・

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 さて、その江戸の町、そもそも面積の大半は武家屋敷寺社地で、町人地はごくわずか(享保10年には、武家地46.5k㎡、寺社地7.9k㎡、そして町人地なんと8.72k㎡、全体の8分の1、そこに町人たちがひしめきあうわけですから、超人口密集地でもありました(Wikipedia「江戸の人口」)。

 もちろん、江戸も時代をおって発展していきます。寛永11年(1634年)に約25万~40万人(当時、京都が41万人)と推定されている状態から、100万都市への疾走が始まる。

  享保18年9月(1733)、町方支配地計475,521万人(男性303,958人、女性171,563人;人口密度は5.4万人/k㎡?!)、寺社門前町(浅草等もはいるのでしょうか?)計60,859人(男性36,319人、女性24,540人)、あわせて53万6千人あまり(『享保撰要類集』)。これに幕府の統計では別にはずされた寺社方(出家山伏禰宜、盲人等)・新吉原遊郭関係)の人口が享保17年の統計で計525,700人。これに対して武士関係のご屋敷人口については、なんと正確な統計が存在せず、享保8年の『土屋筆記』で推定700,973人。

  これらをあわせると、江戸の人口には150~200万人説、110~140万人説、100万人以上説、100万人未満説と諸説入り乱れている。これをみても、学生の皆さんは“統計”が重要であることがわかるかと思います。

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   ちなみに、一人一年に米1石を消費するとしたら(=ヒューマン・エコロジーですね)、腐ったり、残飯として廃棄される部分も考えると、人口150万人に対して200万石ぐらいは確保しないと、民人が騒動(打ちこわし)をおこしかねません。これが史記の名宰相蕭何の昔からの“政(まつりごと)”の要諦です。ローマ帝国を支配したカエサルをはじめとする権力者たちにとっても、ローマ市民へのエジプト等からの穀物確保が政治の死命を決する要素でありました。

 ところで1石は10斗=100升=180リットル=150kg、200万石だと30万トン、これだけの米を千石船か大八車で運ばねばならない。通称千石船は、菱垣廻船で1000石、樽廻船で1500石、さらには2000・3000石積みもあったそうですが、仮に1回1000石の米(米以外の積荷もあるでしょうから)を運ぶとして、2000回必要ですね。

 Wikipediaでは、天保年間の航海能力では、大阪から江戸まで平均12日ということでした。それで、仮に仙台から江戸まで米を運ぶのに片道12日=往復24日、休みもいれて、1年に12回往復。とすれば167隻ほどの千石船でなんとかなりそうです(本当に、こんな雑な計算でよいのかな??)。

 文化10年(1813年)12月4日に遠州灘で難破、数奇な変転を経て、1816年松前に帰還した船頭重吉こと小栗重吉が差配していた督乗丸は約120トン(1200石積)。10月に尾張から江戸へ尾張藩の米を運び、それを売り払っての帰りの航海での遭難です(手記『船長日記』には、行きの際に載せた米の量は記載されていません)。遭難時、帰りの航海のこととて米は5斗俵に6俵あまり。一方、豆を700俵積んでいました(江戸で積んだのでしょうね。どこの産地の、どんな豆なのでしょう?)。1俵=4斗で計算すると、約280石ですね。

 交通機関の鉄則として、往復に別々の荷(あるいは客)を運ばないと効率的になりにくい。だから阪急宝塚線では大阪側のターミナルに百貨店を、宝塚側の終点に宝塚新温泉や歌劇場、旧ファミリーランド等を設けて、できるだけ人の往来を増やす工夫を図る=これが阪急の事実上の創設者の小林一三が考えたビジネスモデルのわけです。江戸時代は、しかし大消費地江戸に向かって米や「下りもの(、醤油、木綿・・・)」を運んだ帰りに、何を載せたのでしょうね?

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 さて、上記のように、町人地では男女比は30:17、男性はそもそも半数近くがあぶれる勘定です。したがって、町屋、とくに江戸の名物=長屋に住まう若者たち、さらには武家地でも参勤交代で江戸住まい=単身赴任を余儀なくされた者たちは独身生活ということになります。

  とは言え、飯は食べなければいけない。こうして彼等は、料理の得手に拘わらず、自炊をするか、さもなくば買い食いをせざるを得ない。そこに、言うまでもなくビジネスチャンスを見出す者もいる。学生の皆さんも起業を目指す方は、とりあえず周囲の様子をうかがい、どこにビジネスチャンスがあるかどうか、“アンテナ”をはることをお薦めします、というのが今回の本当のテーマですね。

 ところで、「九尺二間の棟割長屋」は、「間口が9尺(約2.7m)、奥行きが2間(約3.6m)の住戸を連ねた」「畳6畳の部屋とほぼ同規模の大きさであり、そのうち約1畳半を土間として、4畳半を部屋として区画されているのが一般的」とWikipediaで開設されています。9.72㎡ということは、KSCでの私の個人研究室(18㎡)のほぼ半分です。狭いですね。家具などろくに置けません(ということは、ニトリイケアも商売にはならない。一般庶民の住居の床面積が広がってからの商売ということがわかります)。ちなみに、関東大震災後の集合住宅の基本となった同潤会アパートでは一戸がほぼ30㎡(9坪)、公団住宅の3DKで40~60m²まで増加していきます。

 江戸に話を戻して、江戸開府にしたがって関東平野に忽然と現れた独身男性の集団、その“食”をまかなうためのシステムには、当然、“外食”あるいは“中食”が入ってくるでしょう。言うまでもなく、ビジネスチャンスです。もちろん、1590年(天正18年)の徳川家康の関東移封時、江戸に料理屋等あるわけもなかったはずです。

 それで調べてみると、江戸の外食産業の第1歩は、(天秤棒で商品をぶら下げて売り歩く)「振り売り」と、加熱調理をした飲食を提供する「焼売・煮売屋(にうりや)」のようです(原田信夫『江戸の食生活』岩波書店)。原田によれば、万治2年(1659)正月19日の町触では「振り売りの鑑札を50歳以上と15歳以下の者、および身体障害者に与える、としている」そうです。その品目中食物は、「魚、タバコ(あるいはダンゴの誤りか?)・時々のなり物菓子(水菓子のことか?)・塩・あめおこし(“こがし”のことか?)・味噌・酢醤油・豆腐・蒟蒻・心太・餅等で、鰹節・串海鼠・串鮑・塩引鮭については、鑑札を必要としなかったことがわかる」としています。

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 一方、「焼売・煮売」とは「江戸時代に存在した煮魚・煮豆・煮染など、すぐに食べられる形に調理した惣菜を販売する商売のこと。菜屋(さいや)とも」とWikipediaにあります。

 続いて、「行商による振売りと店舗や屋台を構える者があり、後者の中には茶屋を兼業して商品を提供することが可能であった煮売茶屋(にうりちゃや)と呼ばれる形態もあった」「夕食のおかずとして煮売屋の惣菜を求める需要が高かった反面、夜間の煮売りは火災を惹き起こす危険性があった。このため、江戸では防火の観点から煮売屋の夜間営業を禁じる命令が寛文元年(1661年)から寛政11年(1799年)まで度々出されている」。

 つまり、1661年、明暦の大火(1657)の被災者をベースにした推定では、町方人口約28万5814人のあたりの段階で(Wikipediaによる)、煮売り屋がすでに普及していることが示唆されています。これこそが“都市化=都市住民の生活を支えるためのサービス業の成立”です。

 さて、この煮売り屋から、例えば、「酒を置くようになった」ことで“居酒屋”に発展するケース、上記のように茶屋を兼業して煮売り茶屋となるケース、茶屋がさらに発展して“料理茶屋”になるケース等が出てくる。この料理茶屋がさらに“料亭”に進化する。こう書いていると、アフリカやマダガスカルの市場を思い出してしまいます。

 いま一方は、振り売り的存在から発達した移動店舗=屋台です。Wikipediaでは「屋台は江戸時代に大きく繁栄し、(中略)現在の日本の食文化の起源の1つとなる営業形態であった。蕎麦は「振り売り」形式の屋台が多く、寿司は「立ち売り」形式の屋台が多かった」としています。このように屋台で呈されものの筆頭に天麩羅(当時は、現在の串カツのように、串にさして屋台で呈する下手な食べ物だったのです;屋台の画像)、寿司蕎麦(風鈴蕎麦、夜鳴き蕎麦、夜鷹蕎麦)等があげられまず。いずれも今では高級料理にもなっているようですが、これは江戸のファーストフード群であったわけです。

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 こうした庶民のためのB級グルメについては、(インテリたちが無視しがちのゆえ)思いのほか文献が残されていないことはこのブログでもすでに何度も指摘しています。

 たとえば、Wikipediaを観ても、蕎麦屋について「起源は不明だが、江戸時代後期に書かれた2種の書物『三省録』・『近世風俗志』にて、寛文4年(1664年)に「慳貪(けんどん)蕎麦切」の店が現れたとの記述がある。貞享3年(1686年)に江戸幕府より出された禁令の対象に「うどんや蕎麦切りなどの火を持ち歩く商売」という意味の記載があり、この頃にはすでに持ち歩き屋台形式の蕎麦屋が存在したことが推測できる」とあります。

 遅くとも17世紀後半には、煮売り屋、そして屋台形式の店が普及していたことは間違いなさそうです。

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 それでは、“蕎麦屋”をとりあげて、その起業化の過程をケース・スタディで調べてみましょう。

 一つのパターンは、在来生産地からの起業化といいましょうか、江戸近郊の“深大寺そば”です。調布市のHPによれば「江戸時代、深大寺周辺の土地が、米の生産に向かないため、小作人はそばをつくり、米の代わりにそば粉を寺に納め、寺ではそばを打って来客をもてなしたのが、深大寺そばの始まりと伝えられています。深大寺そばが有名になったのは、深大寺の総本山である上野寛永寺の門主第五世公弁法親王が、深大寺そばを大変気に入り、まわりの人々をはじめ全国の諸大名にも深大寺そばのおいしさを言い広めたからのようです」とします(http://www.csa.gr.jp/jindaijisoba.html)。これは、原産地において既存の集客施設(深大寺)周辺にサービス業が発達した例と言えましょう。

 一方、もう一つのパターンは別の産地から江戸に来訪、そのまま根を下ろしたケースです。これが名店“更科”などですが、その公式サイトでは「寛政元年(1789)、そば打ち上手として知られた信州の反物商、布屋太兵衛は、領主 保科兵部少輔の助言で、そば屋に転向。麻布永坂高稲荷下に「信州更科蕎麦処」を開店いたしました」とあります。

  田舎からアリ地獄都市=江戸に赴き、自分の才覚一つで店を切り開く、そこにもきちんとした(江戸時代なりの)ビジネスプランがあったはずです。田舎から出てきた時、自分のもっとも得意な技は何か? それは反物商売ではなく、故郷の蕎麦生産地での技を応用した“蕎麦屋”だったわけです。

 一方、すでに起業化が完了した食の先進地から後進地=江戸に進出してくるケースとして、同じ江戸蕎麦の老舗“砂場”があげられます。あるサイトでは、「発祥は大阪で、いまの大阪・西区新町にあった「いずみや」というそば屋で、そこは「大坂城築城の砂や砂利置き場」であったので通称「砂場」と呼ばれ、そこにあるそば屋も同様に「すなば」と呼ばれるようになった」とあります(http://www10.ocn.ne.jp/~sobakiri/1-1.html)。

 というわけで、新開地=江戸の町に集まる独身男性どもを対象に、見事商売を成功させる起業プランとしての飲食店というシリーズを始めたいと思います(to be continued・・・・・)

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...