2012年12月

英語について&高畑ゼミの100冊#25;業界言葉(この場合はジェット・パイロット)とアメリカ人気質;トム・ウルフの『ライト・スタッフ』から#1

2012 12/24 総合政策学部の皆さんへ
 メリー・クリスマスのついでに、 『総合政策学部の100冊』への推薦をうっかり失念してしまった本の一つ、アメリカのノンフィクション作家トム・ウルフの『ライト・スタッフ』(書籍番号#83)を紹介しましょう。

 それでは、“Right Stuff”というタイトルは何を意味するのか? 強いて訳せば“正しい資質”となるのでしょうが、それでは何が“正しい資質”なのか? そして、何にとっての“正しい資質”なのか? しかし「そんなことは口に出すまでもないぜ!」とうそぶく一群の男たちがいます。それがテスト・パイロットたちです。

 そして、「(墜落して死んじゃったから)あいつは結局ライト・スタッフを持っていなかったんだ」「(たとえ墜落しても、生き残っているのだから)あいつはちゃんとライト・スタッフを持っている」と暗黙の裡に認め合う。そして 「そう! そいつはこういうもんさ」と事もなげに口にする彼ら。究極のアメリカ人気質とでも言うべき世界が展開する、それが『ライト・スタッフ』です。

 そして、この『ライト・スタッフ』の明るい老人向けパロディー版こそ、クリント・イーストウッド主演・監督傑作スペース・コメディ『スペース・カウボーイ』というべきでしょう。

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 テスト・パイロットという超過酷な商売にもかかわらず(いや、むしろ過酷すぎる日常であればこそ)、「あいつが落ちて死んだって! それは残念だが、結局、奴は“ライト・スタッフ”を持っていなかったのさ!」とこんな風に明るい会話が飛び交う世界!

 アメリカ文明がベトナム戦争の泥沼に巻込まれる以前の、ひたすらパッパラパーに徹していた頃を理解されたい方は、是非、この名著をお読みください(と、昔、アメリカ人に勧められました)。

 さて、本書のストーリーは、年代的には1947年にテスト・パイロット中のテスト・パイロット=真の意味のライト・スタッフの持ち主のチャック・イエーガーがロケット機)X-1に乗り込むところから始まり、アメリカ初の有人宇宙飛行計画マーキュリー計画が一段落し、60年代に月に到達するためにジェミニ計画、そしてアポロ計画を発動され、最初に選ばれた7人の宇宙飛行士たち(マーキュリー・セブン)がそれぞれの思いをかみしめながら、マーキュリー計画の終わりを受け入れる。その20年弱の時間経過で展開される男たち、そしてその伴侶たちの物語です。

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 さて、X-1とは世界初の(水平飛行での)音速突破を実現するため、ベル・エアクラフトが製造した50口径弾丸をそのままスケールアップ、それに薄い翼とロケットエンジンをつけただけの飛翔体です。

 そのロケットが、まがりなりにも自分で操縦できるロケット機から、たんなるペイロードとしてカプセルに閉じ込められて宇宙空間に放り出される弾道ミサイルレッドストーンへ、さらにアトラスに替わり、やがてアポロ計画で使用されるサターンが登場する。

 同時に、暑く、木もろくすっぽ生えていないカリフォルニア州モハーヴェ砂漠のミューロック飛行場(現在のエドワード空軍基地)の干上がった塩湖の真っ平らな表面に作られた長大な滑走路から、アメリカの威信をかけて作られたフロリダ州ケープ・カナベラル(現ケネディ宇宙センター)まで、宇宙飛行全体がアメリカの威信をかけたビック・プロジェクトに変身していく物語でもある。

 その間に、イエーガーの世界初の音速飛行という輝かしい成果によって、心も乾ききってしまうような砂埃に汚れたミューロック飛行場はいつのまにかテスト・パイロット、ひいては全アメリカ人パイロットにとって“聖地”と見なされるまでに至ります。『ライト・スタッフ』はその聖化の過程の物語なのです。

 なお、英語版Wikipediaの“The Right Stufff”の説明は、以下の通りです。総政の学生さんは、日本語版ではなく、英語版を読んで下さい。

The Right Stuff is a 1979 book by Tom Wolfe about the pilots engaged in U.S. postwar experiments with experimental rocket-powered, high-speed aircraft as well as documenting the stories of the first Project Mercury astronauts selected for the NASA space program. The Right Stuff is based on extensive research by Wolfe, who interviewed test pilots, the astronauts and their wives, among others. The story contrasts the “Mercury Seven” and their families with test pilots such as Chuck Yeager, who was considered by many contemporaries as the best of them all, but who was never selected as an astronaut.

Wolfe wrote that the book was inspired by the desire to find out why the astronauts accepted the danger of space flight. He recounts the enormous risks that test pilots were already taking, and the mental and physical characteristics—the titular “right stuff”—required for and reinforced by their jobs. Wolfe likens the astronauts to “single combat warriors” from an earlier era who received the honor and adoration of their people before going forth to fight on their behalf.

The 1983 film, The Right Stuff, is adapted from the book.

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 物語としての『ライト・スタッフ』は、いずれジェミニ5号、11号に搭乗するピート・コンラッドが、1950年代まだ空軍のテストパイロットだった頃に、僚友の墜落死に立ちあうところから始まります(もちろん、「奴は、“ライト・スタッフ”を持っていなかったのさ!」となるわけですが)。

 コンラッドはその後、1969年11月に打ち上げられたアポロ12号で月にも着陸した際に、「自分の(低い)身長について、「ニールにとっては小さな一歩だったかもしれないが、ぼくにとっては長い一歩だ」とジョークを言った」ことで有名になりますが、真の主人公は、もちろんコンラッドではありません。

 さらに、初めて宇宙に飛び出したアメリカ人である海軍中佐(当時)アラン・シェパードでもなければ、初めて地球を周回して英雄となり、上院議員にまでなった(大統領さえ狙ったこともある)ジョン・グレン海兵隊少佐(当時)でさえありません。

 それは、実は、すでにご紹介のチャック・イエーガーであることが、やがて読者にもわかってきます(「奴こそ本当の男だ!」)。

 ところで、この物語の基調低音として繰り返し登場するのは、“ジョーク”です。ともかく、テスト・パイロットを取り巻く悲惨な状況(彼らの47%は勤務中にパラシュートで緊急脱出する経験をもち、23%は20年勤務の後にもらえる年金までたどり着く前に事故死する!)をものともせず、何はさておき、とりあえず“ジョーク”を連発する。

 例えば、シェパードは、突如、ボードビリアンのビル・ドナ演じるメキシコ人のカリカチュアホセ・ヒメネスの宇宙飛行士版に変身して、まわりの“うけ”を狙います(民族差別的な構図ですけどね。映画版『ライトスタッフ』では、そのことでメキシコ人に非難されるシーンが出くるそうです)。

宇宙飛行では何が必要ですか?」と自分でインタビュー役を演じた後で、精一杯のメキシコ訛りで「コネってこった」「金(カネ)ですか?」

 シェパードはこともあろうに、ジョークを1961年5月5日、「マーキュリー3号(フリーダム7)」による(15分28秒の弾道飛行ながら)アメリカ人初の宇宙飛行を前に発します。

 その日、技術的な調整遅れでレッドストーンロケットの頂のカプセルに閉じ込められたシェパードは、尿意を感じます。しかし、たった15分の飛行と考えた設計者は、実はトイレの用意をしていなかった(人間工学上の失敗ですね)。

 尿意をこらえきれなくなったシェパードが管制塔に指示を仰ぐと、なんと、「(宇宙服内で排尿しても、たぶん大丈夫なので)そのままやれ」という指示がでます。

 思い切ってやったところ、(寝た状態でカプセルに入っているので)あわや押し寄せるおしっこの洪水に溺れかけた、これもそれなりに有名なエピソードなのですが、その尿がやがてたまって、宇宙服の背中側に水たまりを作った時、管制塔のスピーカーにシェパードのメキシコ訛りがとびこんできます。

やー、これでおいらも本当のウェットバック(濡れた背中)になったもんだ

注釈をつけると、ウェットバックとはアメリカーメキシコの国境を流れるリオ・グランデ川を泳いで渡る密入国者たちが、(当たり前のことですが)背中が濡れてしまうので、通称をウェットバックと呼ぶ、それに架空の宇宙飛行士ホセ・ヒメネスをひっかけているわけです。トム・ウルフも「大した男だ!」と感嘆するほかありません。

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 しかし、チャック・イエーガーはその上を行きます。ついにX-1で音速飛行を試すことになった2日前の晩、暗くなった砂漠で奥さんと一緒に馬を飛ばすのも一興と、出掛けた彼は柵に激突、あばら骨を折ってしまいます。もちろん、誰にも内緒です。「世界初の音速突破」の栄冠を勝ち取るためには、胸部の激痛など何物でもない。これこそ「奴はライト・スタッフの持ち主さ!」というわけですね。

 しかし、運命の日の1947年10月14日、X-1に乗り込もうとしたイエーガーは、その搭乗口を閉めようとすると激痛が走って(文字通り)手も出ない事に気づき、当惑します(当たり前ですね)。

 彼は親友の整備士リドレイ大尉に耳打ちします。もちろん、腕利き整備士にして、細かなことなぞ気にしないリドレイはたちまち天啓がひらめき、そばにあった箒の枝を短く切り取り、これを梃子よろしく使うことで、閉められるぜ、とイェーガーを教えます。

 こうして、(『魔女の宅急便』か『ハリポタ』等をちょっと連想しますが)、イエーガーはなんとホウキ(の柄)とともに世界最初の音速突破飛行にいどみます。

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 やがて、歴史的な瞬間、母機B-29から放出されたX-1ははじめ2基のロケットエンジンをふかしてから、4基を稼働して上昇、つづいて2基にしぼって水平飛行に移り、そして3基目にまた点火します。

 その瞬間、地上にイエーガーのアパラチア訛りがスピーカーから響きます。「ちょっと記録してくんないかな」、そして「スピード計のハリがちょっとへそをまげっちまったみたいだよ」。これぞ、イエーガーがあらかじめ決めておいた音速突破の隠語で、その言葉に続いてかつて物理学者エルンスト・マッハが予言した音速超えの証=衝撃波が地上を襲います。この瞬間、誰が真の“right stuff”の持ち主か、決定されたのです。

◆イエーガーが搭乗したX-1”Glamorus Glennis”(Glennisは愛妻の名前です)のユーチューブ映像:http://www.youtube.com/watch?v=HoMijlGRb04

◆X-1の地上整備シーン:http://www.youtube.com/watch?v=jfBI40zB48s&feature=related

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 なお、イエーガー自身は、仕事についてこう言っているそうです:「今まで自分が見てきた中で自分の仕事を楽しんでやっている人はみんな仕事ができる人だったよ」(Wikipediaより)

 というあたりで、十分長くなってしまいました。この先はto be continued・・・・・とします。

政策について考える:イスラームと政治Part4:インドネシアの近代化#1

2012 12/19  総合政策学部の皆さんへ

 皆さんは世界でもっともイスラーム教徒の方が多い国をご存知ですか? 2009年の人口統計ではインドネシアで202,867,000人、全人口の88.2%を占めているとのことです。

  もちろん、現在の人口増加率からいけば、将来はパキスタンあたりに追い抜かされるかもしれないのですが。このインドネシアは、「政策について考える:イスラームと政治Part2:トルコについて#1:国際帝国の崩壊と国民国家への脱皮の苦しみ」等で紹介したトルコとはまた違った形で“近代化”に対処したことで知られています。

 斎藤先生ご推奨の“総合政策の100冊”の中の政治学者ベネディクト・アンダーソン著『想像の共同体』、国際政策を志す方々は必ず目を通されていますよね? 帝国主義の荒波のなか、あるいはグローバル化の片隅で、国民と国家の創成にいどんだ幾多の地域、人々。

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 このインドネシアもネーション・ビルディングという20世紀の最大の難題に果敢に挑んだ国、そしてある程度は成功した国の一つとしてあげられるでしょう。それでは、トルコとインドネシアの違いはどこにあるか?

 #2#3を読み返してもらえば良い訳ですが、イスラームという国際宗教・思想をベースに、多民族・多文化を包容する巨大国際帝国として“ゆるやかな支配”を旨としたはずのオスマン帝国が、19世紀以降のナショナリズム勃興期、没落に没落を重ね、ついにアナトリア中心の“トルコ民族”として、一種の民族国家に落ち着いた(それでも、まだ、クルド等の異分子を抱え込んでいる)。これが今のトルコの姿と言えるかもしれません。

 それではインドネシアはどうか? すでに、「スマトラで感じたこと:フィールドについてPart3~ネーション・ビルディングを中心に」で紹介していますが、この地域には、そもそも現在のインドネシアを全土におさめたような大国家(=ステート)そのものが存在したことがなかった、ということです。

 あるいはすべての地域を共通の文化に包含した単一民族(=エスニック・グループ)もなかった。ですから、当然、“国民(=ネーション)”も存在していなかった。それが、今は、国家も国民も存在している。その過程=国民創成がインドネシアにとってのネーション・ビルディングである、というわけです。

 もちろん、世界史に強い方は覚えていますよね? シュリーヴィジャヤ王国クディリ王国シンガサリ王国マジャパヒト王国、....。しかし、これらの国々が現在のインドネシア全土を統一的に支配したことは一度もなく、つまり、民族的統合もありませんでした。

 そして、17世紀からのオランダ東インド会社の支配の浸透によって、やがて現在の政治的空間としてのインドネシアが成立する。つまり、他者によって設定された植民地が国家になり、民族となり、言語が設定される。これは、私が滞在したことのある場所では、タンザニアが近いかもしれません。

 一方、私がフィールドにしたことのあるもう一つの第3世界マダガスカルは、植民地成立前にほぼ単一の王権が成立していた点で、また少し様相が異なります。

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 オランダのインドネシア征服は、しかし、ずいぶんと時間がかかりました。オランダがインドネシアに最初にコンタクトしたのは、1596年、フレデリック・ハウトマンがジャワ島西北岸のバンテン港にたどりついた時だということです。紆余曲折の末、1598年にバンテン王国はオランダ商館の設置を許可します。さらに1602年には「オランダ東インド会社」(Vereenigde Oostindische Compagnie、しばしばVOCと略されます)が設立されます。

 そして、1619年オランダ東インド会社東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは、バンテン王国からジャヤカルタあるいはジャカトラと呼ばれていた土地を占領、バタヴィア城を築いきます。このバタヴィアこそが、現在のジャカルタにまで発展することになります。

 Wikipediaによれば、このバタヴィアとは「古代オランダに住んでいたゲルマン人の一部族、バターウィー族(Batavii)に由来し、オランダ地方の古称でもある」とのことです。

 なお、このバタヴィアが古名のジャカルタに戻るのは、実に、第2次大戦の時の日本軍の占領時なのですね。インドネシア独立時、独立政府はバタヴィアの名を捨て、ジャカルタを選んで今日に至っています。

 おもしろいことに、江戸時代、日本では“ジャガタラ”と呼んでいましたが、これは現地名だったのですね。そして、このジャガタラが、「ジャガタラから渡来したイモ」ということで、ジャガイモの語源になっているという説があります。

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 さて、洋の東西を問わず、初期の植民地は港湾都市の占領であって、後背地まで支配するのは時代も進んでから、というパターンがよくあります。例えばホテルや世界最大の花ラフレシアに名を残すイギリス植民地行政官ラッフルズが、橋頭堡=点としてシンガポールを確保するのが1819年2月6日です。

 その後、イギリスはオランダとの間でテリトリーを定めた英蘭協定(1824年)を締結、マラッカを中心に海峡植民地を設立(1826年)。そして、さらに面積を広げて、やがて“面”としてのマラヤ連邦を植民地化するのが1876年です。

 ちなみに、現在のシンガポールの政府系有力紙“The Straits Times”は1845年創刊(日本で現存する最古の新聞である読売新聞[1874年創刊]より約30年早い)の日刊40万部を誇る英字紙ですが、このStraitsは文字通り“海峡”、つまり海峡植民地時代からの伝統を誇っているわけです。

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 これと同様に、オランダはバタビアや香料の産地マルク(モルッカ)諸島等の“要所”を占領するのは先に触れたように17世紀初頭です。世界史上、日本人が他国の歴史に関係する希な例の一つである)アンボイナの虐殺を引き起こし、イギリス勢を香料貿易から閉め出すのが1623年、そして、そこからなんと200年以上かけて、面としてのインドネシア制服に乗り出します。

 その締めくくりの一つが、インドネシア東部のヒンズー教徒の小王国が群立していたバリ島の占領です。そこでは、近代的なオランダ軍が侵攻すると、王と王族、貴族たちは無抵抗でオランダ軍に向かって行進し、無差別に殺害される事態が続発します。

 このププタン(無抵抗の大量自決)は人類学者クリフォード・ギアツの名著『ヌガラ―19世紀バリの劇場国家』に活写されていますが、その屍を乗り越えてオランダが最後に残ったクルンクン王国を滅ぼしたのが1908年、実に300年がかりの制圧です。

 1906年、オランダ軍が独自の目的のためにバリ南岸サヌルに出現してバドゥンへと侵攻すると、バドゥンの王とその王妃達と子供達と従者たちは、オランダ軍の銃火のただ中に向けて行進し、華々しく集団自殺を遂げた。それから一週間もたたぬうち、タバナン国王と皇太子がオランダ軍に囚われたが、虜となったその晩に、一人は毒、一人は短剣で自らの命を絶った。2年後の1908年、この奇妙な儀式は(バリ島の)諸国のうちでもっとも名高く、伝統的バリの名目上の「都」たるクルンクンで繰り返された。王と宮中の人々は、ここでもまた半ばトランス状態、半ば阿片に冒されて宮殿を出ると、まったく狐につままれるオランダ軍のためらいがちな砲火に向けて行列を連ねた。それは古い秩序の、まさに文字通りの死であった。それは生きる間と同様、息を引き取る間際もまた華々しい演劇性に包まれていたのである(クリフォード・ギアツ(小泉潤二訳)『ヌガラ』みすず書房)。

 ほぼ同じ頃、スマトラ島北部でも最後まで抵抗していたアチェ王国が、こちらは激しい武装闘争の結果、5万~10万の犠牲者を出して1904年に敗北しています。

 そこまでかけて作り上げたインドネシア植民地が、第2次大戦での日本軍の侵略も手伝い、半世紀もたたないうちにオランダの手からこぼれ落ちるとは、その時には、考えだにしなかったことでしょう。

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 というあたりで、ずいぶん長くなってしまいました。このあたりで、#1として、to be continued・・・・・としたいと思います。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...