2013年3月

政策について考える:“国境”とはどこか? Part1

2013 3/29  総合政策学部の皆さんへ

 以前、「“国境”とは何か? アフリカで考えた事:国際援助の現場で#5」で、アフリカの国境、とくに1885年のベルリン会議で決定された現コンゴとタンザニアの国境について話しました。

  その際に、「境界の曖昧性は、李氏朝鮮王朝と日本の境界にある対馬にもいえます。現存する最古の朝鮮図『八道総図』(1530年)では、対馬を朝鮮の一部として地図にいれています(大石直正他『日本の歴史14 周縁から見た中世日本』講談社)。また、室町時代より、対馬の実効支配者である宗氏には、朝鮮王朝から「宗氏都都熊瓦」の印信が与えられ、“領域外の臣下”という形をとります。

さらに、中国と日本の間でも、鬼界ヶ島、奄美、沖縄諸島、宮古・八重山と連なる列島の主権、あるいはどこが境界なのかをめぐって、薩摩藩の琉球侵攻(1609)から、ペリーによる浦賀来航前の寄港等を経て、明治政府による琉球処分が展開します。

 そんな複雑な経緯を経てもなお、さらに最終決着がつけられない土地(北方領土、竹島、尖閣諸島)等があることこそ、“国家”とは何か、“国境”とは何かに思いを巡らし、そして我々は何者なのかを自省する良い機会ではないでしょうか?」と書いたのですが、これが2010年1月23日、つまり、ほぼ3年前。その後、はたして竹島・尖閣が大問題になっているのですが、これを先見の眼があったと言うべきか、どうか? などはさておいて、しばらく国境、あるいは”境(ボーダー)”をめぐる話を続けましょう。

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 さて、洋の東西を問わず、”境”=つまりその時々の権力者たちの威令がとどく範囲は、論争・係争のもとです。というのも、地上にはそもそも境等、存在していなかったからです(“道など本来は存在しなかったのだ。

 それを道たらしめたのは、人の行為などだとする本名周樹人、字は豫才、ペンネームで魯迅の傑作『故郷』を思い出しましょう。しかし、地勢、歴史、文化、社会、争い、戦争等がいつしか“境”を定めていきます。そして、いったん境ができてしまうと、今度は、その境がヒトの思考を束縛していく。

 なお、魯迅の『故郷』は青空文庫に入っているようです(http://www.aozora.gr.jp/cards/001124/card42939.html)。その末尾は「希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る」で結ばれています。

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 それでは、ちょっとクイズです。皆さんは、アジアとヨーロッパの境はどこにあると思いますか? たいていはボスポラス海峡(あるいはダーダネルス海峡)あたりだとお答えになると思いますが、それではトルコが二つに裂かれてしまう。

 うろ覚えの記憶ですが、オーストリア帝国の宰相メッテルニッヒは「それはウィーンにあるわしの邸宅の裏からだよ」と言ったかと聞いていますし、ピョートル大帝がシベリア遠征に派遣したコサックの首領イェルマークにとっては、1574年に越えたウラル山脈こそが境になるかもしれません(現在も、地図上はアジアとヨーロッパの境になっています)。

 一方で、EUにとってみれば、「どこまでがヨーロッパなのか?」、これは大問題ですね。EUに加盟したがっているトルコはヨーロッパの名前に値するのか? あるいはポーランドやバルト3国まではヨーロッパだとして、ベラルーシウクライナはヨーロッパなのか? もちろん、ロシアは?

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 こうしてみると、ヨーロッパも“中華帝国”のように、中心(=一応、ここでは欧州委員会のあるブリュッセルとしました)から周縁に向かって、同心円的に広がっていく相対的な概念かもしれません。

 それにしても、フレデリック・フォーサイスの『悪魔の選択』を1980年代前半に読んだ時(主人公の“敵”役がウクライナ独立運動の闘士ですが)、よもや10年を経ずにソ連が崩壊、ウクライナが独立するとは、夢にも思っていませんでした。

 思えば、フランス革命以降の国家概念の変遷によって、民族、文化、言語、宗教、法体系によってできるだけ“ピュア”な国民国家を作るという幻想の片方で、理念(=アメリカ合衆国憲法フランス人権宣言共産社会主義)等を優先させ、個々の民族・文化を越えた超越的な国家を作ろうという動きの二つの狭間で、“境”はずいぶん軋んできたような気がします。

 そのもっとも極端な形が“ベルリンの壁”であったり、“38度線”、“19度線”であったり、あるいはメキシコ等から滔滔と不法移民が渡ってくるアメリカ-メキシコ国境だったりするのです。

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 このように、この世は、“境”を決めて、互いの領分をはっきり決めなければ何事も始まらないはずですが、その境が本当にそれで正しいのか、わからないことだらけです。

 というあたりで、いったんto be continuedとしましょう。

総合政策学部の名言集Part14:赤塚不二夫の二つの原稿、メンデルスゾーン、そしてヘミングウェイの失われたスーツケース

2013 3/18 総合政策学部の皆さんへ

 今日は総合政策学部15回目の卒業式の日です。卒業生の皆様には、心から「おめでとうございます」とごあいさつしてから、久しぶりの名言集として、まず、最近Webで目にした漫画家故赤塚不二夫の話から始めましょう。

  『おそ松くん』、『ひみつのアッコちゃん』、『天才バカボン』等で知られる赤塚ですが、ある日とんでもないことが出来します。赤塚が編集者に手渡しした『天才バカボン』の原稿を、その編集者がタクシーに忘れて、どうしても見つからない、印刷所に渡す期限は明日なのに(週刊誌ですから、スケジュールはいつも火の車です)!

 切羽詰まったその編集者が赤塚に泣きつくと、赤塚は悠揚迫らず、「ネームがあるからまた描ける」と答え、続けて「まだ少し時間がある。呑みに行こう」と(編集者を慰める意味もあり)告げたのだそうです。酒席から戻った赤塚は数時間で原稿を作りなおし、「2度目だから、もっとうまく描けたよ」と渡したそうです。

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 実は、これにはさらに後日談があり、最初の原稿がタクシー会社から戻ってきます。すると、赤塚はその編集者に「2度と同じ失敗を繰り返さないように、おまえが持ってろ」と渡します。編集者はその後35年にわたって大事に保管していたのですが、赤塚の死後、原稿を遺族に返します。

 こうして『天才バカボン』の原稿が二つ残されることになります(http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1212/31/news003.html)。

 さすが、『天才バカボン』の決め台詞、「これでいいのだ!」を地でいく赤塚の真骨頂ですが、ここでふと気になるのは、二つの原稿はどこが違うのだろう? どのぐらい「うまく描けたのかな?」と、興味がわかないわけでもありません。

 何より、音楽家メンデルスゾーンの有名なエピソードを思い出してしまいます。Wikipediaによれば、メンデルスゾーンは「早熟の天才であり、一度見た楽譜、一度聴いた音楽を完璧に記憶する能力を有していたと言う。

 伝承されている逸話の1つとして、彼の代表作の1つである「『夏の夜の夢』序曲」の楽譜を引越す際に紛失してしまうも、記憶だけを頼りに全てまた書き出して見せた、というものがある。後に初稿の楽譜が発見されるが、書き直した楽譜と元の楽譜は7箇所が異なるだけで、後は、完璧に同じだったという。

 その7箇所も間違えたのではなく、メンデルスゾーン本人が意図して直したものではないかと言われている」とのことです。

 こうなると、我々凡俗の徒が及ぶところではありません。

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 一方、永遠になくしてしまった原稿という点では、ノーベル賞作家アーネスト・ヘミングウェイの若き、無名の頃の挿話も頭をよぎります。1922年12月、まだ無名のジャーナリストとしてパリに暮らす作家志望の青年ヘミングウェィは、仕事でローザンヌに出張します。

 妻ハドリーは、夫を驚かせようと書きためた原稿(そして、そのカーボンコピーまで)をスーツケースに詰めて合流しようとしますが、その途次、リ・ヨン駅でスーツケースごと盗まれてしまいます。ヘミングウェィの“スーツケース盗難事件”、20世紀アメリカ文学の1ページを占める文学上の有名事件です。

 かろうじて手元に残った原稿はたった2つ。他の原稿すべてを、カーボン・コピー(いわゆるcc)までなくした(したがって、復元はもはや不可能)彼はショックで絶望します。ちなみに、彼がスペイン、パンプローナの闘牛をめぐって展開する男女の恋のもつれを描きながら、“ロスト・ジェネレーション”という決定的なキーワードを人口に膾炙させる傑作『日はまた昇る(The Sun Also Rises)』で文壇にデビューするのは1926年10月、まだ4年の雌伏の時が必要でした。

 そして、へミグンウェイはハドリーと1927年4月離婚、二番目の妻ボーリーン・ファイファーと再婚します。

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 ところで、この『日はまた昇る』というタイトルは、旧訳聖書『コヘレトの言葉』からの引用ですが、皆さんには是非コヘレトの書を拝読されることをお勧めします。

エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。
 コヘレトは言う。なんという空しさ
  なんという空しさ、すべては空しい。
   太陽の下、人は労苦するが
    すべての労苦も何になろう。
     一代過ぎればまた一代が起こり
      永遠に耐えるのは大地。

日は昇り、日は沈み
 あえぎ戻り、また昇る。
  風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
   風はただ巡りつつ、吹き続ける。
    川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
     どの川も、繰り返しその道程を流れる。

何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず
 目は見飽きることなく
  耳は聞いても満たされない。
   かつてあったことは、これからもあり
    かつて起こったことは、これからも起こる。

太陽の下、新しいものは何ひとつない。
 見よ、これこそ新しい、と言ってみても
  それもまた、永遠の昔からあり
   この時代の前にもあった。

昔のことに心を留めるものはない。
 これから先にあることも
  その後の世にはだれも心に留めはしまい。(新共同訳)

 最終的に(自分の父親と同様に)銃による自死という形で、自分の人生に決着をつけたヘミングウェイの人生を暗示しているかのようにも感じられないわけではありません。

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 さて、この“スーツケース盗難事件”が果たして、ヘミングウェイのその後の作家生活にどんな影響をあたえたか? そちらの方がむしろ問題だ、ということに気づかれた方がおられれば、気づいたあなたは文学的素養がある、と言っても良いかもしれません。

 この件でちょっとウェブを流し読みすると、たいていは「この事件は、結果的に、彼に幸いした」「新しい方法を見つけた」という風に書いておられますね。皆さん、ポジティブですね。

  実は、ヘミングウェイに最初にそれを指摘したのは、“フルリュース街のマザー・グース”ことアメリカ出身の女流小説家ガートルード・スタインで、彼女は絶望にうちひしがれて慰めにもらいに来たヘミングウェイに「若書きの作品をなくしたのは、かえって良かったのよ」と指摘します(ガートルード・スタインについては「高畑ゼミの100冊Part7;芸術家たち『アリス・B・トクラスの自伝』」をご参照して下さい)。

 いずれにしても、ヘミングウェイはやがてハードボイルドと呼ばれる、文体も含めた一つのカテゴリーを確立していくことになります。例えば、ある日、ヘンリー食堂に黒ずくめの二人が現れ、注文したハム・エッグスとべーコン・エッグスを食いらげてから、散弾銃も持ち出して、店員たちを静かに脅し始めます。

「おい、兄ちゃん、おれに話してみな」とマックスが言って、「おまえ、これからどんなことが起きると思っているんだ?」
ジョージはなにも答えなかった。
「聞かせてやろうか」とマックスは言った。「おれたちは、スウェーデン人をひとり、ばらそうってわけよ」(中略)「おれたちは何でもしってるんだぜ、兄ちゃん」とマックスが言った。「何か他の話をしようや。おまえ映画は見にいかねえのか」
「たまにしかいきません」
「もっとたびたび見に行かなくちゃいけねえな。おまえみてえな兄ちゃんにはためになるぜ」

                 (『
殺人者たち』(1927年、大久保康雄訳、創元推理文庫版)

 これが85年後の今日まで、“殺し屋”のイメージを決定した瞬間です。

小林一三と阪急文化圏、そして関西学院Part1

2013 3/7 総合政策学部の皆さんへ

 この研究室ブログにたびたび登場の小林一三、すでに「宝塚映画の謎Part1」「“市”をめぐる人類学Part1」「食べることについてPart9:カレーとラーメンについて」等でその都度ご紹介してきましたが、「乗客は電車が創造する」と豪語しながら、鉄道とデパートと住宅開発と娯楽施設で関西文化を作ってしまった」、この大資本家について、あらためてまとめてご紹介しましょう。

 さて、今や関西の代表的な企業である阪急ですが、事実上のその創設者小林一三は、実は山梨の生まれです。長じて上京、福澤諭吉の慶應義塾に入学、つまり、長峯先生や亀田先生、古川先生等の大先輩になりますね。

 卒業後、いったん銀行(三井銀行、現在の三井住友銀行)に入社しますが、やがて日露戦争後に大阪での出世話にひかれて東京を離れますが、そのあと、波瀾万丈の人生が待っています。

 まずは大阪での儲け話(証券会社の支配人) があっという間に立ち消え、失業してしまいます。異郷の地での逆境、その中で小林が目を付けたのが箕面有馬電気鉄道。銀行から金を引き出し、1907年10月、同社の専務に就任します(Wikipedia)。これが、小林と彼が手塩にかけた傑作“阪急”の快進撃の始まりです。

 ところで、皆さん、気づきませんか? “箕面有馬電気鉄道”、出発地は梅田で終点の一つが箕面、そして、もう一つの終点が有馬。そう、三田の近くの有馬温泉です。大都市である大阪から、遊興歓楽の地、箕面と有馬まで結ぶというコンセプトだったのですね。

 そして、この頃、宝塚はほとんど無名の地、そもそも宝塚などという地名もほとんど知られておらず、Wikipediaによれば、1889年の町村制実施で成立した「川辺郡小浜村・長尾村・西谷村、武庫郡良元村」が、1951年小浜村が宝塚町と改称、1954年以降町村合併を重ねて宝塚市となります(なお、宝塚温泉開業は1887年)。これこそ「隔世の感」というものです。

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 さて、大都市-観光地を結ぶコンセプトであった箕面有馬電気鉄道の実権を握った小林は、それまでの私鉄経営では考えられもしなかったビジネスプランを展開します(彼がその後次々に展開する大荒業の実態を、我々はつい当たり前の光景として毎日見ているわけですが)。

(1)沿線の土地を買収、開発を主導して通勤客を増やして、増収につなげる(ディベロッパー:1910年、池田で月賦方式による住宅分譲を開始)
(2)終点への集客を目指して、歓楽施設を設置(箕面動物園、宝塚新温泉(宝塚ファミリーランド)、宝塚唱歌隊[もちろん、現宝塚歌劇団])。さらに映画事業等への進出(宝塚映画、東宝)。
(3)都市ターミナルへ通勤客以外の集客を見込んで、ターミナル百貨店建設(現阪急百貨店
(4)百貨店経営からさらにホテル事業の展開
(5)大学等の高等教育機関の沿線誘致(もうお気づきでしょう、関西学院です)
(6)近郊型レジャー施設等(今はない西宮球場阪急球団

 つまり、電車が都市の間を走るというより、電車が走るところが都市になる。これら一連のビジネスプランを総括するのが、小林の「乗客は電車が創造する」という台詞です。Supply sideとDemand pullの双方を見越しての見事な商業資本主義の展開(供給が需要を創造し、その需要がさらに新たな展開を生んで、供給を刺激する)と言えなくはないわけですが、残念ながら、私はあまりに畑違いなため、どなたか他の先生にバトンタッチしたいところです。

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それでは、皆さん疑問に思いませんか? 箕面や宝塚は納得するとして、有馬はどこに行ったのか? 「阪急が有馬まで伸びていたら、三田駅周辺までは阪急で来れるのに」と思う学生さんもいるかもしれません。

 実は、阪急は有馬までの鉄道の敷設権を獲得しながら、小林のあまりの剛腕ぶりに、有馬温泉側が警戒、反対されたためとも聞いていましたが、Wikipediaの註には「理由として難工事と説明されているが、地形については難工事に該当する区間が特に存在しないため、有馬温泉の住民から反対があり断念したとの説が有力である」とあります。

この小林の人生、その浮沈の様子もなかなかの傑作ですが、私にとって一番面白いのは、戦前、近衛文麿細川元首相のおじいさん)に請われて商工大臣になったくだりです。

 迫りくる第2次大戦の気配に対して、小林はあくまでも自由主義資本主義者に徹しようとします。

 その挙句、“満州”で国家計画にめざめた当時の“革新官僚”である次官岸信介(のちにA級戦犯容疑をかけられるも不起訴、不死身の妖怪として復活、自民党総裁に登り詰めて第56・57代首相。いうまでもなく安倍現首相のおじいさん)の計画経済策に反対、「岸はアカ(=社会主義・共産主義者への蔑称)だ」と攻撃して、岸を辞職に追い込みます。

 しかし、自らも反撃を受けて大臣を辞めざるをえなくなる・・・・・・ ただし、このあたりは経済に門外漢である私には手にあまるようです。こちらもまた(55年体制等の是非も含めて)、どなたか、他の先生にお任せすることにしましょう。

プロフィール


高畑由起夫
◆研究分野:生態学、自然人類学、霊長類学 ◆研究内容:主な研究対象はニホンザルやチンパンジー、ワオキツネザル等ですが、潮間帯の巻貝類や水生昆虫、カラス等も調べたことがあります。霊長類学の視点で、近縁...